女は名を田所君子たどころきみこといった。君子は両親の顔も、名もしらない。自分の生まれた所さえも知らないのである。君子がものごころのつく頃には祖母と二人で、ある山端やまばたの掘っ立て小屋のような陋屋ろうおくに住んでいた。どこか遠い国から、そこに流れてきたものらしい。
 祖母の寝物語によると、君子は摂津せっつの国風平かざひら村とか風下かざしも村とかで生まれたということであるが、いまは村の名や、国の名さえ君子の記憶にはなくなっている。ただ夢のように記憶しているのは、背戸に大きな柿の木があって、夏なぞ六尺もあろうかと思われる大きな蛇が、屋根から柿の木に伝わっていたことや、ふきの葉ほどもあるひまわりがに顔を向けていたことなぞであるが、こんなことは自分の生まれた家を捜すためには役に立つことではなかった。ただ、これだけは確かだと思うたった一つの記憶は、背戸に立って左の方を眺めると、はるか遠くに一際高く槍のようにとがった山が見え、その頂きにただ一本の大きな松の木があったことである。美しい夕やけにくっきりと、濃い紫で塗りつぶした山の頂きに、墨で描いたような一本の松の木、それが君子の記憶に妙にはっきりと残っている。
 君子は旅をするようになってから、美しい夕陽にであうと、ときどきよその農家の裏口に立って、ためして見るのであるが、自分の記憶にあるような山や松の木を見出したことは一度もない。だから確かだと思っているこの記憶さえ、ほんとうは君子がつくりだした想像であるかもしれない。
 君子の祖母は君子が八歳のときに亡くなった。祖母が寝物語に君子に語ったところによると、君子の父は、君子が生まれた翌年の秋に死んだということである。父は善根ぜんこんの深い人で、四国、西国の霊場を経巡へめぐ遍路へんろの人達のために構えの一棟を開放し善根の宿に当てていた。
 遍路が村にはいってきて、この村に善根の宿をする家はないか、とたずねると、村人はすぐに君子の家を教えた。だから種々様々な人体にんていの遍路が泊まっていった。人の良さそうな老夫婦もあれば、美しい尼姿の遍路もあった。一夜の宿を恵まれた遍路たちは別棟の建物に旅装を解くと、母屋の庭にはいってきて改めて父や母に挨拶あいさつをする。父は君子の母に言いつけて、野菜の煮たのや汁、鍋などを遍路達のところに運ばせ、時には自分で別棟に出掛けて、遍路の話を聞いて楽しむこともあり、遍路の方から母屋に押しかけて来たこともあった。そんなとき母は父のかたわらに坐って、だまって聞いていたそうである。しかし、遍路という遍路のすべてが、美しい尼さんや、人の良い老夫婦ばかりではなく、なかには向う傷のある目のすごい大男や、ヘラヘラとした幽霊のような老人、手のない人なぞ、ものすごく気味のわるい遍路も珍しいことではなかった。そんな遍路が泊まったとき母は気味がわるい、怖いといって奥の間にひっこんだまま出て来なかったそうである。
 こう言うと、祖母の寝物語はたいへん順序だっているようであるが、祖母の話は、こんなに順序が立っていたのではなく、おりにふれ、時に従ってきれぎれに語られたもので、それも、君子がものごころのつく頃に多くは寝床のなかで聞いた話であるから、いまでは遠い記憶のかなたにかすんでしまって、その話のきれぎれが、まるで夢物語のようにしか思い出せない。しかし、君子にとってはたとえそれが掘っ立て小屋の陋屋ではあっても、祖母と二人で暮した当時の楽しい思い出である。記憶のかなたにうすれようとする、祖母の話の一つ一つを自らの想像でおぎない、今ではそれが立派な事実であったかのように君子の心のうちに成長している。たとえば、美しい尼僧の遍路と話をしている父の姿や、その傍らに坐って静かにそれを聞いている母の姿、尼遍路の顔などが、まるで映画でも見るようにはっきりと思い浮かぶのである。
 父の死んだ、いや、殺されたと言った方が正しい、その日は二人の遍路が泊まっていた。一人は年の頃六十二、三の老婆であったか、黒い毛の一本も見ぬ見事な白髪をざんぎりにして後ろへでつけ、男を見るように丈夫そうな身体の老婆で、顔立ちも上品ではあったが、あまりに老人らしくないその体格が、なにか不自然な、無気味な感じを与えたそうである。
 いま一人の遍路も女であった。それは君子の母と同じ年頃の三十七、八歳かと思われたが、この女は鼠色のお高祖頭巾こそずきんですっぽりと顔まで包んで、出ているところといっては目だけであった。その目元はいかにもすずしく、美しい目であったそうな。この遍路は部屋のなかでも、食事のときでさえお高祖頭巾をとらず、問わず語りに、業病のためにふた目とは見られぬみにくい顔になっているので、頭巾をかぶったまま、こうしてお大師様におすがりしている。と言ったそうである。
 白髪の老女も、このお高祖頭巾の遍路も、普通の遍路も変わりがない服装をしていたが、どこかに上品なところがあって、いわゆる乞食遍路ではなく信心遍路であることが一目で分かった。
 このお高祖頭巾の女遍路は、よほど祖母の注意をひいたものらしい。それは女遍路が君子の母に生き写しで、お高祖頭巾の間からのぞいている目なぞ、まるで、君子の母の目をそこに移しかえたようで、その姿かたちなぞ瓜二つと言ってもおよばぬほどよく似ていた。もし、この女遍路がお高祖頭巾をかぶっていなかったら、どちらが君子の母か分からぬほどであったそうな。
 二人は偶然に泊まり合わせたように装っていたが、どうやら同行であるらしく、それも主従の間柄で、老女はお高祖頭巾をかぶった女の召使のように感じられたと言う。
 君子が祖母からこの二人の遍路の話を聞くときは、それが父の殺された当夜の物語であるだけに子供心にも、なにか恐ろしい怪談でも聞かされるように、薄気味わるく身を縮めたものである。今では記憶も薄らいで生々しい感じではないが、この二人の姿が、ふと心に浮かんでくると、父の臨終、白髪の老女、お高祖頭巾の尼遍路なぞ、まるで地獄の絵図でも見るような気がする。
 それだけにこの幻像はしばしば、もっとも多く君子の心に浮かんでくるのである。
 二人の遍路が泊まった日の四、五日前から君子の母は高い熱を出して床についていた。首すじにぐりぐりができて、高い熱のために苦しみとおした。だから、こうした二人の女遍路が泊まっていることなぞ知るはずがなかった。医者のある町までは二里もある田舎であったし、また、村では、みなたいていの病気では医者なぞ迎えるものがなかった。君子の父は自分が四国遍路のときに携えたありがたいものだという杖を持ち出して寝ている病人の頭を撫でたり、まじないを唱えたりして夜どおし妻の枕元で看病していた。
 そろそろ夜の明けがたになって、二人の遍路が早立ちをするから、ちょっとご主人に挨拶がしたいと言って来たので、君子の父は病人の枕元を離れて茶の間に出てみた。もうすっかり旅支度の出来た二人の遍路は、丁寧に一夜の宿を恵まれた礼を述べ、聞けば奥さんがご病気のよし、さぞお困りのことであろう、一夜の宿を恵まれたお礼に、また四国遍路のつとめでもあるから、今朝は病気平癒のお祈りをした。このおふだは四国巡拝を十回以上したものに限って授けられるまことにありがたいお札であるから、これをご病人に飲ましてくれ、といって小さな金色の御符を差し出した。ありがたやの父は、この霊験のあらたかそうなお札を押し頂き、あつく礼を述べたということである。
 二人の遍路が発ってから、祖母はいつもするように、遍路の泊まった部屋に入って見たが、たいていの遍路がそうであるように、部屋はきちんと片付いて、なに一つ残っていなかった。泊まった遍路がつときに必ずお札を一枚ずつ貼って出て行く出口の大戸、それはお札のために盛りあがるくらい分厚くなっているその大戸に、二人の遍路が貼ったものらしい二枚の新しいお札があったそうな。
 祖母の話は、まことにおぼろげな記憶にしか残っていないのであるが、君子は四国巡拝のお札が、大きな戸の裏いっぱいに貼られ、それが上から上へと盛りあがって、押し絵の羽子板のようにふくれあがっていたことだけはたしかに見たことがあるように思う。
 遍路から貰った金のお札を水に浮かべて母に飲まそうとしたが、その朝熱の下がっていた母は、どうしてもそれを飲まなかったそうな。父は子供をあやすように母のくちに茶碗を押しつけ無理にも飲まそうとしたが、母はかぶりを振って固くこばんで飲まなかったそうである。茶碗を持ったまま、しばらく母の顔を見ていた父は、もったいないといって、無造作に、がぶりと一口にお札を飲んでしまった。黒い血を吐き、もがき苦しんで父が死んだのはそれから一時間もたたぬ後であったと言う。
 祖母の話のうちで、もっとも君子の記憶に鮮やかにのこっているのは、この話である。それは、父の変死という大きな事件であるためかもしれないが、それより、霊験あらたかな金のお札を頂いた父が、なぜすぐに死んでしまったのか、その不思議が大きな謎であったためだろう。
 二人の遍路は、君子の家に泊まったその日一日だけこの村に現われたものではなかったらしい。ほとんど二、三年にわたって、五、六回もこの村に現われ、たれか、この村に病人はいないかと尋ね、病人がないということを確かめると、そのまま村を去って行ったと言い、たまたま病人のあることを聞くと、それがどこの家であるかを確かめておきながら、その病家には姿を現わさず、そのまま隣村の方へ行ってしまったという。それが君子の家に病人があり、その病人が君子の母であること確かめて、泊まりこんだものであることが、父の死後村の人達の話で分かったということである。だからこの二人の遍路が当然父の死に関係のある怪しいものだと思わなければならないはずであるが、君子は祖母から、この二人の遍路が父を殺したのだ、というような話をすこしも聞いたことがないように思う。あるいは君子が忘れてしまったのかもしれない。それとは反対に父の死を肯定こうていするような祖母の話が、君子の耳の底にかすかに残っている。
 母は、東を向いておれと言えば一年でも東を向いている、西を向いておれと言えば三年でも西を向いていると言ってもいいほど従順で、まるで仏様のような女であった。その従順な母が、金のお札をあれほどまでにかたく拒んだのは必ずや仏様のお告げがあったに違いない。父がすぐにそれを飲んだのは仏様のばちが当たったのであろう。
 君子の記憶に間違いがなければ、父は仏様から罰を与えられるような原因があったのであろうか、そういえば父が近郷近在に聞こえるほど善根をつちかうことに、なにか原因がありはしなかったか。祖母は実子である君子の父についてはあまり多くを語らなかったようである。それと反対に嫁である君子の母のことには毎日毎夜聞かぬ日とてないほど、数多く語ったように思う。
 母は父の後妻で父とは年が二十以上も若かったそうで、顔も心も美しく、君子が生まれる前に死んだ、君子にとっては異母兄である継子ままこをとても可愛がったということである。文字どおりの美人薄命であったのか、よはど不仕合せな目に会ってきた人らしく、ことに、父のところへくる以前にたづいていた家から不縁になり、その家を追われた事情にはなみ一通りならぬ口惜くやしい、悲しい事情があったらしいのであるが、母はそれを一口も口には出さなかったそうである。それが、父のところに再縁して、ここを安住の地と定め、姑からは娘のように可愛がられ、夫の気にも入り、一粒種の君子を恵まれて安心しているやさき、父の不慮の死に会ったのだと言う。
 母の話をするとき、祖母の目に涙の光っていることが少くなかった。そんなに気にいった嫁であったのに祖母は母の素姓を少しも知らなかったらしい。どういう事情で父のところに縁づいてきたのか、それさえ君子は聞いたことがなかった。
 祖母の話によると、君子の生まれるまでの母は精神こころというものをさきの世に忘れてきた人のように、従順ではあったが、阿呆あほうのようにも見えたそうな。しかし、それでありながら洞穴のような空虚な身内のどこかに、青白い蛍火のような光が感じられ、気味のわるいところもあったという。不思議なことには、手紙のきたことは一度もないのに母は毎月欠かさず手紙を書き、二里もある町の郵便箱まで自ら入れに行ったそうな。祖母は嫁の素姓が気がかりでもあり、手紙になにが書いてあるのか、ながい間気をつけていたが、内容を知る機会は容易にこなかった。ただ一度、ほんの十行足らずの書きつぶしを発見したことがあったそうで、そこには気味のわるい呪いのことばが書き連らねてあったという。その文言がどんなものであったか、君子は祖母から聞いたようには思うが、今ではなにも思い出すことができない。
 こうした変質の人らしかった母が、君子を産んでからまるで人が変わったように円満で温和な人になった。それは今まで乗り移っていた、得体の知れないけだものがぬけ去って本来の人にかえったようで、それからの母は手紙なぞ一本も書かなかったそうである。
 夢のきれさしのように君子の記憶にのこっている祖母の話のきれぎれは、今では君子の想像のままに素姓の秘密を限りなく掘り広げている。
 父の変死の後に、すっかり熱の下がった母は前夜泊まった二人の遍路の話を聞き、お高祖頭巾をかぶったその一人がとても母によく似ていたという話を聞くと、非常に驚き、そのまま再び床についてしまったということである。
 父の死後、そんなに裕福でもなかった家は急角度で没落の淵に急いだものらしく、耕す田地もなくなったので作男に暇を出し、広い家の中には祖母と母と、君子の三人だけがさびしくとり残された。そしてついに米塩の資を得るために母は日夜はたを織らねばならなかった。暮しは日一日と苦しくなり、このままでは三人が餓え死ぬよりほかなくなったので、母は一度国に帰ってくると、祖母一人を家に残して発足したという。
 父の変死から家の没落、母が国へと言って発足するまでの話は、これも長い間にきれぎれに、あとさきの順序もなく聞いた話で、今では断片的にしか君子の記憶によみがえってこないのである。母の発足当時の祖母の話を思いだすと、なぜか妙に君子には抱茗荷だきみょうがの紋と、椿つばきの花が思い出される。これは決して祖母の話の再生ではなく、その話から連想される、君子自身が直接目に見た記憶に違いないのである。母の発足からなぜ抱茗荷と椿の花が思い出されるのであろうか。
 君子の家の定紋がなんであったか、君子の物心のつくころには、すでに家の没落した後で、定紋のついているものなぞ、家のうちには見出せなかったが、祖母が手廻りの品を入れるために持っていたただ一つの提灯箱ちょうちんばこについていた紋所は、丸のなかに四角なものが四つあったように思うから、これは丸に四つ目の紋に違いない。だから君子の記憶に抱茗荷があろうはずはないのである。椿の花にしても、君子が祖母と一緒に住んでいた山端の掘っ立て小屋の付近に椿はなかったように思うし、たとえ山のなかや、他家の庭先なぞで見たことがあるにしても、それが、母の帰国に関係があるとは思われない。君子にはもっと、特殊な記憶にしっかりと焼けつくような大きな事件のあった時と所で見たに違いないと思われるのである。
 君子が母に連れられて発足してから、再び祖母のところに帰ってくるまでの話も、祖母から幾度となく聞かされたが、これは祖母自身が見ていた話ではないから、その大部分は片言まじりの君子の話か、祖母が想像してつくりあげたものに違いないと君子は思っている。
 朝早く、まだ明けきらぬうちに母に連れられて家を出た君子は、汽車に乗ったり、乗り替えたり、船に乗ったりしたが、居眠っていたこともあれば、よく寝ているところを揺り起こされたり途中は夢うつつで、まるきり記憶になく、最後に乗合馬車を降りてからの道がとても遠い道であったことをぼんやりと覚えている。川もあった。小さな峠も越した。どこまでつづくかと思われるほど長い田圃道たんぼみちもあった。垣根に山茶花さざんかや菊などの咲いている静かな村もいくつか通った。そうした道を君子は母の背に負われたり、また手をかれて歩いたりした。そして途中でたしか泊まったはずであったが、それが一度であったか二度であったか思い出せない。ただ暗くなった田舎道を歩いたときの心細さや、低い家並の暗い田舎町にぽつんと四角なガス灯をつけたはたごやなぞのあったことを覚えている。そしてまた明くる日も同じような道がつづいた。そのとき母はたしかにお高祖頭巾をかぶっていた。
 この道中の記憶は、まるで夢のようで一つも連絡がなく、思い出す道中の景色であったのか、また、旅をするようになってから見た景色であったのか、一向にはっきりけじめがつかぬのであるが、母が黒縮緬ちりめん頭巾をかぶっていたことだけは間違いないと思っている。
 松の木のまばらな、だらだらと長い坂を登りきると急に目の前がひらけて、遠く地平線にまでつづくひろびろとした平野があった。人家なぞも一軒も見当たらず、はるかな右手に大きな、とても大きな池があって、その池のむこうには小さな森と、それを囲む白い塀が見えた。陽はよほど西に傾いて、このひろびろとした池の水は冷たそうな光を放っていた。
 母は、この小さな森を指差して君子になにか言ったが、そのとき母がなにを言ったのか、君子にはどうしても思い出せない。今になって考えてみると、これは非常に大事なことで、そのときの一言さえ思い出せたら、夢のような一切がはっきりするに違いないと君子は残念に思うのであるが、それがどうしても思い出せない。山を下って森に着いてみると、それはずいぶん広い森で、長い田圃の突き当たりに大きい、大名のお城にあるような門が立っていた。門の前に立った君子の母は、しばらく躊躇ためらっていたが、君子に、お前はしばらくここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言っていやがる君子をそこに待たせて、お高祖頭巾をかぶったまま門のなかにはいって行った。そして、そのままである。母はついに再びこの門から出てこなかったのである。
 それから、すでに十年の月日がたっている。その時のさびしい自分の小さな姿を君子は今でもはっきりと胸に描くことができる。およそ一時間も待ったであろうか、あたりに家はなし、もちろん人通りなぞあろうはずがなく、子供心にもじっとしていることができなくなり、そっと門のなかまではいってみたが、建物なぞどこにあるのか、大きな木が何本もあって、門の外までつづいている道と同じような道が森の奥の方に消えている。君子はなんだか気味が悪くなって、再び門の外までひき返し、ベソをかきながらへいに沿うて屋敷の周囲を廻ってみたが、周囲の小門はかたく閉されてあったし、右に廻っても左に廻っても塀のつきるところは池になっていた。陽はだんだん西に傾く。風は冷たいし、君子はついに泣きながら再び門をはいって行った。
 ところどころに石の灯籠とうろうがあったり、池につづいているような小川に石の橋がかかっていたり、構えのなかはまるでお宮さんのようであった。長い塀がつづいて、納屋なやのような建物の天井に龍吐水りゅうどすいの箱や火事場用の手桶なぞがつってあった。お宮さんの社務所のような大きな玄関、その横の天井には、芝居の殿様が乗ってくるような駕籠かごがつってあった。君子は勝手口らしい入口の大きな戸を泣きながら身体で開けた。家のなかは人がいるのかいないのか、シンと静まり返ってしわぶきの音一つしない静かさだった。君子はなおもすすりあげながら、そこに立っていたが、誰も出てくる様子がないので、そっと中をのぞいて見た。そこには人の影はなく、ぴかぴかと黒光りのする板敷にで作ったスリッパのような上草履ぞうりが行儀よく並べてあった。君子は、お母ちゃんお母ちゃんと二声、三声呼んでみたが、誰も答えるものはなかった。君子は途方にくれて薄暗い庭に立っていた。
 しばらくすると奥の方から、静かな足音とともに、顔の平たい老人が出て来た。老人は君子がそこに立っているのを見ても一向に驚いた様子がなく、すぐ庭に下り、こちらにおいで、といってそのまま出口の方に出て行った。君子はこの老人に従うよりほかに、仕方がなかった。
 老人はだまって塀に沿うて歩いた。君子はこの伯父おじさんについて行けば母のいるところへ行けるものと思い、ややともすると遅れがちになる足を、ときどきチョコチョコ走りに運びながら老人のあとに従った。塀をはずれて大きな木の間をぬけ、小川に沿うてしばらく行くと、木の間から黄昏たそがれににぶく光る池の水が見えた。池のそばに立った老人は、君子のくるのを待って、それ、お前のお母さんだよ、といって池の水を指差した。そこに木の枝が水の上にかぶさって、一層うす暗くなっていたがこずえをとおす陽の光がかすかに射していた。その水のなかに母の死骸しがいは浮いていたのである。
 君子は、この老人の顔を、しっかり記憶していたつもりだった。それはこの老人の死骸を見せてくれただけでなく、君子を祖母のところにまで送りとどけてくれたのであるから。だがよく覚えていたつもりの老人の顔も、年をるにしたがって曖昧あいまいになり、その後に知った木賃宿きちんやど主人あるじや、泊まり合わして心安くなった旅芸人の老人なぞの顔とごっちゃになり、まったく記憶の外に逃げ去って、今では思い出すことさえできなくなっている。あるいはよく覚えていたと思うことさえたのみにならぬことであったかもしれない。もちろんこの地方の豪家らしい家のことなぞ、夢のようにしか記憶に残っていない。
 祖母の語ったところによると、君子と母が発足してから六日目の夜、君子は一人で大きな人形を抱いて掘っ立て小屋に帰ってきたということである。お母さんはどうしたか。と尋ねても、ただ大きなご門のなかにはいったまま出てこなかったということ、お母さんは死んでお池のなかに浮いていた、というだけで、なにを尋ねても要領を得ず、誰と一緒に帰ってきたのかと聞くと、よその伯父さん、と答えるだけで、どうして母が死んだのか、誰が送ってきたのか皆目かいもく見当がつかなかったそうである。祖母は君子が抱いて帰った人形になにか手がかりはないかと捜してみた。人形は菊菱の紋を散らした緋縮緬の長襦袢をつけ、紫紺に野菊を染め出した縮緬の衣裳を着ていた。帯はなんという織物か祖母には判断がつかなかったが時代を経た錦であることは間違いはなく、人形はどこ出来であるか分からなかったが、相当に年代を経たものらしく、また着ている衣裳なぞも、とても今出来の品ではなかった。そのように古色を帯びたものではあったが、よはど大切に扱われていたものとみえ、髪の毛一筋抜けてはおらず、すこし赤茶気た顔はかえって美しさを増していた。いずれにしてもむずがる子供をあやすために持たせたにしては高価で貴重にすぎる品には違いなかった。しかし、この人形からは不思議な君子の母の死を知る手掛りはなに一つ見出せなかったということである。
 それからの祖母は、君子の母が死んだものとは、どうしても思えぬと言いつづけたが、すでに年をとって身体も自由でなく、気も心もえきった祖母は、しまいにはあきらめたらしく、家の暮しがあまりに苦しいので、お金の工面に帰った母親が、金の工面ができず、進退きわまって池に身を投げたものに違いないと言いだした。
 君子は母の死骸を見たように思うし、それは旅をするようになってから見た池のある風景に、母の死を結びつけた夢ではなかったかと思えたりする。祖母の話にしたところで、それを全部覚えているわけではなく、きれぎれに、ちょうど夢を思い出すようにふいと頭に浮かぶ、その一片ずつを想像でつなぎ合わせてできあがった夢物語に等しいものではあるまいか。
 しかし人形は今もなお手離さずに持っている。この人形がある限り母の死んだ前後の事情がまるきり夢ではあるまい。だが君子には人形を抱えて遠いところから、知らぬ伯父さんに送られて祖母のところに帰ってきた記憶がすこしもないのである。
 祖母は君子が八歳のとき死んだ。
 それからの君子は、掘っ立て小屋を捨て、町に出て子守奉公をするようになったが、君子は子守がいやでしかたなかった。ある日空身からみでなんの当てもなく町はずれに出てみると、そこの空地に夫婦者らしい旅芸人が人を集めて手品を見せていた。女の方は商売道具の傍に坐って太鼓を叩き、その夫らしい男は前に出て玉子をんだり、針を呑んで見せたりする。ひとわたり芸がすむと女が立って来てはげたお盆をつきだし一銭二銭と金を集めてまわった。やがて人も散ってあとには芸人二人と君子が残ったのであるが、君子はいつまでもそこを去らなかった。旅芸人が商売道具を小さな車に乗せ身仕舞いにかかっても君子はなおそこを離れようとしなかった。こうして君子はついにこの旅芸人に連れられて旅から旅を流れ渡るようになった。
 旅芸人は時候が暖かになってくると北に向かい、涼しくなってくると南に向かって旅をした。それも去年は東海道を通ったから今年は中仙道なかせんどうというように毎年巡業の道を変えた。君子は旅の大道芸人の稼業が決して好きではなかった。ことにだんだん年頃になるにしたがって、この稼業がいやになったが、稼業よりもなおいやなことが一つあった。それは今まで親のように言っている親方が酒飲みで乱暴者で、それよりもなおがまんできぬことは、いやらしいことを仕向けることである。十年もこうして辛抱してきたのは、親方のおかみさんがとても親切に、身をもってかばってくれたためでもあるが、それより夢としてはあきらめかねる母の最後の池を捜しあてて、前後の事情をはっきりと知りたいためであった。
 今年も涼しい風が立ちはじめると君子達は南にむけて旅をつづけた。ある日、初日の商売を終わったその夜、その日の稼ぎが多かったためか、親方はいつもより酒を過ごして、またしても君子にいどみかかった。君子がはげしくこばむと酒乱の親方は、殺してやる、といって、出刃包丁を振りまわすという騒ぎだった。その夜あまり度々のことに辛抱しかねたか、親方のおかみさんはついに君子を逃がしてくれた。それも旅で知り合ったひと堅気かたぎになって、五里ばかり離れた町に住んでいるからと言って、添書てんしょをしてくれた。
 君子は、こればかりは手離されずに持っている風呂敷包みの人形をさげて暗い夜道を歩いた。こうして君子は十年という長い間の旅芸人から足を洗うことができた。
 親方のおかみさんが添書してくれた家にたどり着いた翌日、人気のないところで君子は風呂敷包みにしていた人形をそっと出して見た。それはながい間風呂敷に包んでいたので、どこか損じたところでもありはせぬかと案じたためだった。幸いに人形はどこも損じてはいなかったが、着物はとてもひどく着くずれがしていた。君子は着物を着せ直してやるつもりで帯を解いて着物を脱がした。君子がこの人形を持ってから十二、三年になるが着物を脱がしたのはこの時が初めてである。祖母が死んでから子守奉公、それから一日二日とあわただしい旅芸人、今日の日まで君子には人形の衣裳を脱がして見るほど落ち着いた気持ちの時がなかったのである。
 人形を裸にして見た君子は、そこに不思議なものを発見した。人形の左の乳の上あたりに梅の花のような格好の模様が黒々と描かれてあった。それは決して最初からあった人形の傷ではない。あとから墨で書き入れたものであることが明らかだった。
 何気なく人形の背中を見ると、そこには『抱茗荷だきみょうがの説』と、書かれてある。もし君子の記憶に抱茗荷の紋がなかったら、なんのことか分からなかったに違いない。だが、なんのために、こんなものが書かれてあるのか、そしてそれが何を意味しているのか、いくら考えても君子には分からなかった。君子は、この不思議を、そっとそのまま人形の着物に包んでおくよりほかにしかたがなかった。
 君子は旅の十年間、知らぬ土地へ行くと、このあたりに湖のような大きな池はないかと尋ねることにきめていた。それはいうまでもなく夢のように記憶の底にある池のほとりの森に囲まれた家を捜すためである。家の主人は一里ばかり離れたところに大きな池があると教えてくれた。そして、むかしこの町の庄屋に双生児ふたごがあって非常に仲がわるく、兄弟が争った末についに弟は家に火をけた。そのため町は焼土と化して全滅した。それから双生児はかたきの生まれかわりだといって町の人達は極度にみきらった。ところが庄屋のうちにまた双生児が生まれた。双生児を産んだ庄屋の嫁は、それを苦にして双生児を抱いたまま、池に身を投げて死んだ。その池は今でも『ふた子池』とよばれている。そして、その池の周囲の畑にできる茗荷は二つずつ抱き合った形でできるという古くから伝わっている説を話してくれた。
 君子がふた子池のほとりにある豪家に女中としてやとわれてきたのは、それから間もないことであった。この家にやとわれてきてから君子の身体のどっかに潜んでいた記憶が一つ一つ浮き上がってきた。大名のお城のような大きな門や、玄関の脇につってある塗り駕籠、龍吐水の箱など、それはいつも事実が想像より醜いものであるように、ほこりにまみれて見るかげもなく損じてはいるが、夢のように君子の記憶の底に沈んでいるそれに違いはなかった。ことに抱茗荷の紋をちりばめた大名の乗るような黒塗りの駕籠を見上げたとき、深いもやが一度に晴れるように、抱茗荷の紋がはっきりと思い出せた。それは、門のなかにはいって行く母の姿を見送ったとき、母がかぶっていたお高祖頭巾の背中に垂れたところに染め出されていた大きな紋であった。
 母の死骸が浮いていた、と記憶する池のほとりへも行ってみた。そこには、みごとに花をつけた椿の枝が水の上におおいかぶさり、落ちた椿の花がすこし赤茶気た、しかし琥珀こはくをとかしたように澄んでいる浅い水底に沈んでいた。まだ水に浮いている花もあった。じつと水を見ているとお高祖頭巾をかぶったままの母の美しい死骸が、底にすきとおって見えるようだった。
 こんな浅いところで死ねるだろうかしら、ふと君子は思った。たった一人の子である自分を門の外に待たしたまま母は自殺することができただろうか、お高祖頭巾の遍路が金のお札を飲まそうとしたのは父ではなく母であったはずだ。母は殺されたのではないか――母は殺されたのだ――そう思うと今まで夢のように思っていたいろいろの謎が少しずつ解けるように思われる。中風で口も、身体も自由が利かず寝たままの老女の頭髪は、よほど薄くはなっているが黒い毛の一本もまざらぬ白髪ではないか。下男の父は既に死んだということではあるが、それが十年前送ってきた老人に違いない。
 かりに、中風で寝ている白髪の老婆と、未亡人おくさんを、そのときの二人の女遍路として考えてみれば、二人は母が金のお札を飲んで死んだものと思っていたに違いない。それが数年を経てひょっこり現われた。殺されねばならなかったと想像することは決して無理ではない。未亡人といえば君子に不思議でならないことがある。それは君子が幼な心に覚えている母の面影とよく似ていることだ。母の殺された原因がここにあるのではないか。
 そう考えだした君子はこの謎を解くために苦しみとおしたが、結局これを解く鍵は人形より外にはないと思った。
 ある夜、ふけてから君子はそっと人形を出して見た。まず着物をはがし、襦袢から着物、帯にいたるまで丹念たんねんに調べて見たが、そこにはなんの不思議もなかった。背中に書いてある『抱茗荷だきみょうがの説』とは、結局相剋そうこくする双生児の伝説に違いない。と、すぐ考えられたが、左の乳の上に描かれている梅の模様はなんの意味であるのか、君子には容易に解けぬ謎であった。考えあぐんだ末に、君子は『抱茗荷の説』と人形の背中に書いてあるのは、内容を現わす題名に違いない。だからこの人形のどこかにその内容が隠されているのではないか。この上は人形の内部よりほかに探すところはない。君子は思いきって人形の首を抜いて見た。果たしてそこに一枚のかきつけが隠されてあった。

 姉妹は、抱茗荷の説をそのまま、かたきどうしの双生児として生まれました。そして二人はいずれとも区別のつかぬほどよく似ていたのです。姉妹の母は姉妹にそれぞれ一つずつ人形を与えましたが、その人形を区別するために別々の衣裳をつけさせました。しかし人形を裸にしたときに区別がつかないので、一つの人形の左の乳の上に梅の模様をかきいれました。それは姉妹のそこに梅の花のような形をしたあざがあったからです。姉妹は小さいときから仲がわるかったのですが、年頃になってからついに一人の男を争うようになりました。この争いは姉の勝利となり、姉はその男と結婚しましたが、二人が区別のつかぬほどよく似ているということが恐ろしい因縁で、男は妹の手にまた姉の手にというように、この醜い争いは繰り返されました。男が死んで互いに争う目標がなくなった後も、敵どうしの因縁をもって生まれた二人は莫大な財産を中心に争いをつづけましたが、今はもう争う必要がなくなりました。つまり、この人形が不要になったのです。母を失った代わりにこの人形だけでも与えておきましょう。

 日付もなければ署名もない。しかし人形の胸に描かれた梅の模様は、このかきつけを読んでいるうちに君子に分かってきた。それは君子の記憶の底に沈んでいた母の乳の上にもあった痣を思い出すことができたからである。しかし、この手紙のようなかきつけはさらに大きな疑問を君子に与えた。君子は手紙を手にしたまま深い考えに沈んだ。
 よほど夜がふけたらしく、あたりは死んだように静かである。ふと気がつくと、廊下に静かな、忍んでくるような足音がする。君子は急いでランプを吹き消した。あたりはうるしのように真っ暗な闇である。部屋ですみにうずくまり息をころしていると、できるだけ静かに忍びやかに歩いているらしい足音は、君子の部屋の前でとまったまま動かなくなった。やがて、幽霊が入ってくるときは、こうもあろうかと思われるほど静かに障子の開く音がした。君子は瞳をらしふくろうのように目を見張ったが、それはほんとうの幽霊ででもあるのか、ただ闇のなかにぼんやりとおぼろな影が見えるだけで、それが何者であるのかすこしも分からなかった。忍んできたものは静かに君子の部屋に入った様子であったが、そのまままた動かなくなった。じりじりと後にさがった君子は蝙蝠こうもりのように壁に身をつけた。じっと見つめていると真っ暗な闇のなかにしゃぼん玉のような五色の泡がいくつもぷかりぷかりと湧きあがってくるように思った。君子は急いでまたたきをした。そのときである。なにに驚いたのか、忍びこんでいたものは急いで、しかし静かに障子を閉め、来たときとは反対の廊下に去って行った。そのとき君子は遠くの廊下に、やはり忍んで歩いているらしい別の足音を聞いた。
 こんなことはその夜が初めてではなかった。すでにこれで三度目である。そして不思議なことには三度とも遠い廊下に聞える別な足音で君子は救われた。君子が母の自殺に疑いを持ち、夢のような記憶をたどって母の死因をたしかめようと志してから、妙に自分の身近に監視の目が光っているように思われるし、自分の命が危険にさらされているような不安さえ感じられる。今夜のようなことが三度もあるのはきっと自分の命を狙っているに違いない。人形の腹から出て来た手紙には、今は、もはや争う必要がなくなりました、この人形は不要になったのです、とある。母を殺したから、もはや争う必要がなく、人形が不要になったというのに違いない。だから君子が母の死因を探すことがきっと恐ろしいのだ。それでわざわいの根を断つために自分を殺そうとしているのだ。母を殺したものが父を殺したのだ。自分が殺されてなるものか、きっと復讐をしてやる――と、君子は雄々しくも決心したのであった。
 それからの君子は毎夜、用意を整えて待ちうけた。はたして四度目に黒い影の現われたのは十日ばかりの後であった。先のときと同じように長い間障子の外に立っていた黒い影は、暗い君子の部屋のなかに一歩踏み入れて、じっとそこに立ったまま室内をうかがっている様子だった。君子は闇のなかに瞳を凝らした。すると、いつもそうであるようにどこかの廊下から人の歩く足音が聞えてきた。黒い影は口のうちでなにか一言つぶやいたようであったが、そのままもとのとおり障子を閉めて去ろうとした。君子は素早くその後を追った。黒い影は長い廊下をまっすぐに突き当たり、雨戸を開ければ、立木をとおして池の見える縁廊下を静かに歩いて行く。君子は身を隠すところもない長い縁廊下を蜘蛛くものように部屋の障子に沿うて後をけた、今にも先に行く黒い影が引き返し、襲いかかりはしないかと不安と恐れにはずむ息を押えて。黒い影は廊下を曲り小さな橋を渡って離れに消えた。それは未亡人の部屋だった。
 やっぱり、考えたとおりだと君子は思った。しかし未亡人なら母の姉か妹か知らないけれども伯母おばさんに違いはない。たとえそれが伯母であろうと父を奪い、母を殺し、自分の命までも狙う鬼にも等しい伯母なら復讐するのは当然ではないか。ひき返した君子が自分の部屋にはいろうとしたとき、廊下の闇から忍ぶような声がした。松江まつえさん。君子はぎょっとして、そこに立ちすくんでしまった。あんたの身体はきっと僕が守ります。それは下男の芳夫よしおの声だった。
 少し風が出たのであろう。ふた子池のよしの鳴る音がかすかに聞える。
 私の父がどんなことをしたか、私は子供でなにごとも知りません。しかし子供心に私の知っている父は、とても陽気な男で晩酌ばんしゃくの機嫌なぞで唄の一つもやる男でした。それが、私の何歳頃のことでしたか、多分九つか十歳位のときだったと思います。それまで本当にただの一度も他所よそに泊まってきたことのない父が二、三日でしたか、私には四、五日のように長かったと思います――私には母がなかったのですから、特別父の留守が長かったのでしょう――帰ってこなかったことがあります。そのときから私には父の気性がすっかり変わったように思われました。酒の量もうんと増えましたし、唄はおろか笑顔さえ見せることがまれになりました。私は子供のことで大して気にもとめませんでしたが、だんだん大きくなるにしたがい、父がなにか大きな悩みのために苦しんでいることがよく分かりました。人のいないところで未亡人おくさんとひそひそ話をしているときなぞ、たまたま私がそばに行ったりすると真っ青になって私をにらみつけたりしたことがありました。私は父の死の瞬間までその悩みがなんであるか知りませんでした。父はこの大きな罪を背に負ったまま死んでゆくことができなかったのでしょう。死ぬときに……芳夫は暗い部屋で君子の前に立ったままここまで語ったが急にことばをきって、しばらく耳をすましていた。父が死ぬときに……芳夫は一層低い声でことばをつづけた――わしは人を殺した――みなし子になった君子さんが不憫ふびんだ――と言ったのです。私はあんたがこの邸に来た日からあんたの様子に心をひかれました。あんたは白石しらいし松江ではなく、ほんとうは田所君子であることもよく知っています。安心してください。私は決してあんたの敵ではありません。
 芳夫はそのまま暗い廊下に消えて行く。
 しかし君子にはまだ一抹いちまつの疑いが残っていた。ほんとうに未亡人おくさんが母を殺したものかどうかなお的確に知りたいと思ったし、ほんとうに殺したものなら生きながら少しは苦しんでもよいはずである。君子はこの二つの目的のために考えをらした。
 それから数日の後であった。君子は倉庫くらのなかにしまってあった抱茗荷紋のある琴のゆたんを外し、お高祖頭巾のようにかぶってその夜、ふけてから未亡人の部屋に忍んで行った。ふすまを開いてうす暗いそこに立つと、まだ寝ついていなかったとみえ、ふとんの上に起き直ったおくさんは、瞬間己の目を疑うように君子の様子を見つめたが、次の瞬間には、あっと低い叫びをあげて立ち上がり、泳ぐような手つきで君子に近づいてきた。が、そこになにを見たのか彫り物のように立ちすくんでしまった。
 君子にも気がつかなかったが、君子の後ろには芳夫が立っていたのである。
 翌日おくさんは終日床を離れなかった。君子は素知らぬ顔でご用をつとめた。用事のために君子がおくさんのお部屋に入って行くと、いつも芳夫が窓の下に立っていた。
 それから、また数日の後だった。君子はおくさんの留守の間に人形を床の間に飾った。これで最後のためしをするつもりだった。用便から部屋に帰ってきたおくさんは、しばらくはそれに気のつかぬ様子であったが、ふと床の間の人形に目がつくとあわてて抱きあげそっと部屋を見廻して、まるで怖いものを手にしたようにそっと畳の上に置いた。そして――やっぱり……知っているのか――と、つぶやくように言った。
 次の間からうかがっていた君子と芳夫は、ひそかに顔を見合わせた。
 君子は金の札を浅い茶碗の水に浮かべて中風のため口も身体もきかなくなって一室に寝たままの白髪の老女にすすめた。老女は中風やみ特有な表情でしばらくは茶碗のなかを見ていたが、やがてゆるしを乞うようにぼろぼろと涙を落としながら幾度もあたまを下げた。傍らに坐って不思議そうに見ていた芳夫に、君子は父の最期を物語って聞かせた。
 芳夫は言った。松江さん、あなたは女の身です、決して短気なことをなさらぬように、私はあんたのためなら水火も辞しません。それに父の犯した罪を償うのはあんたに対する義務です。あんたのお父さんやお母さんのかたきをとる義務は私にあります。
 その日のふた子池は風もないのに波立って、いまにも降るかと思われる黒い雲におおわれていた。はたして午後から吹きだした風は夕方から雨をよんで、夜になって暴風雨となり、ふけるにしたがってますますはげしく、この邸を包む大きな森の木という木はものすごい嵐のなかにものののように無気味な踊りをつづけた。ぎすました斧を右手にさげた芳夫が暗い廊下に立っていた。さすがに丈夫な建物も嵐の吹きつける度毎に不気味に鳴り、横なぐりの雨は雨戸にすごい音をたてた。芳夫は静かに障子を開いた。未亡人は連日の疲労に身も心もえきったように、力なく夜着の上に両手をだらりとのせてよく眠っているようだった。そっと枕元まで忍び寄った芳夫は斧を振りあげた。また、はげしい雨が雨戸を横なぐりに過ぎた。激しい、絹をさくような声とともに次の間から走りだした君子は、未亡人のそばに膝をついた。未亡人は梅のようなかたちの痣のある左の胸をあらわして、細く開いた目にいっぱいの涙をためていた。

底本:「怪奇探偵小説集」ハルキ文庫、角川春樹事務所
   1998(平成10)年7月18日第1刷発行
底本の親本:「怪奇探偵小説集 続々」双葉社
   1976(昭和51)年10月
初出:「ぷろふいる」
   1937(昭和12)年1月号
入力:鈴木厚司
校正:山本弘子
2008年1月26日作成
2013年1月29日修正
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