新青年ではじめて探偵小説の懸賞募集をやったのは昭和何年であったか、戦災による罹災で書籍や参考記録の一切を焼いてしまった私の手元では、今はっきりと判らないが、何でも枚数は五十枚、賞金は一等五百円であったかと思う。
 その時故人夢野久作さんの『押絵の奇蹟』と私の『窓』が当選した。この発表にさきだって応募作品全部の題名と作者の氏名が発表されたが、何でも応募総数は四百編位であったと思う。ところが、その応募者総覧のなかに私の氏名が見当らぬ。郵送の途中紛失したものか、或は編輯部でどこかにまぎれこんでしまったものか、私は作品に折角自信を持っていただけに残念でたまらず、直接編輯部へ書面で問合せたところ森下雨村氏から返事があって「貴作は優秀作として入選している、応募者総覧に漏したのは作品を名古屋在住の選者小酒井不木氏に送付後あの総覧を作ったので題名と、作者名が判らず出たら目の名で編輯を終ったものである」との返事に接した。
 一等に相当する作品がなく夢野さんと私のものが何れも二等ということで賞金を半分ずつ貰ったと覚えている。私の『窓』がさきに選者の感想と共に発表された。江戸川乱歩氏が大変に私の作を支持して下さって相当の高点を与えて下さったが甲賀三郎氏がずいぶんシンラツで選者中一等点が辛かったと記憶している。甲賀氏と云えば氏と私に就て、も一つこれに似たことがあった。それは読売新聞で一五〇回の小説を懸賞募集したことがあり、それに応募した私の作品に対し選者白井喬二氏が相当の高点を与えて支持されたに反しやはり選者であった甲賀三郎氏の点が非常に辛かったため遂に落選の憂目を見たことがあった。私の『窓』に続いて翌月の「新青年」に夢野久作さんの『押絵の奇蹟』が載った。この作品を見たとき私は全く驚いてしまった。賞選作としては私の『窓』が第一席ということになっていたのであるが、私の作なぞとても足もとにも寄れぬ優れた作品で、その時すでに私は夢野さんが大作家の質を備えて居られることを感じ恐れをなした次第であった。次で「新青年」で同時当選した者として一度手紙でも出して見ようかと幾度も思ったのであったが、作品から受けた私の「オジケ」た気持がそれをなし得ず一度の文通もせず氏は故人となられた次第である。
 新青年を中心とする思い出は、なかなか多いのであるが、なお思い出の多いのは「ぷろふいる」である。故人となった加納哲が、熊谷さんが探偵雑誌を出そうと言っていられるがどうだろうとの相談を受けたとき、到底長続きはすまいと思ったが、加納哲が少くとも一年は絶対にやめないと熊谷さんが言って居られるというので、それではということになり関西在住の探偵小説作家に支援を乞うて、いよいよ創刊号を出すことになり四條の八尾政で創刊記念の会を開いた。その時集った人達は西田政治さん、山下利三郎さんを筆頭に十人ばかりであったと記憶する。加納哲の編輯で創刊号を出したが、毎号赤字続きで、いつ廃刊になるかと、少々ビクビクもので居たところ、一年が二年経っても廃刊にならず、遂に五年も続いた。東京方面では、熊谷というのは一体何者か京都からこんな雑誌が出て五年もつづいているのは一つの奇蹟であると云った人もあったそうである。全く私などもこれが五年続いたには驚ろいていた次第である。
 その当時は「ぷろふいる」を中心に神戸をはじめ名古屋、京都、大阪、はては仙台、札幌、遠くは大連にまで探偵小説クラブという会が出来て同好の連中が集まり毎月例会の消息を知らせてくるという盛況ぶりであった。この「ぷろふいる」の編輯に九鬼澹君が当るようになり、中央との関係がますます深くなって来たので、京都にあった編輯部を東京に移したのであったが、さすがねばり強かった「ぷろふいる」も、東京へ移ったのが一つの逆効果となり「探偵クラブ」と改題したものの遂に廃刊になってしまった。
 この「ぷろふいる」が日本探偵小説壇に残した功績は相当高く買ってよいと思う。例えばその功績のなかでも探偵小説評論を生んだことである。当時「大衆文学」は批判の対象とはならず探偵小説も然りであったが「ぷろふいる」では盛んに批評をやり遂に相当まとまった評論を生むに至った。
 その中でも木々高太郎氏の探偵小説は芸術品たり得るという所謂『探偵小説芸術論』と甲賀三郎氏の探偵小説は本質的に通俗作品であって芸術品たり得ない、という所謂『探偵小説通俗論』の論争である。これは五ヶ月に亙って論争せられ、それに江戸川乱歩氏が木々説を支持したり大変華やかな筆論であった。はては甲賀氏一流の筆法で感情論にまで及ぶに至って終ったが、何といってもこの論争は大変面白い読物であると同時に探偵小説を学ぶものにとって益するところの多いものであった。
 この論争の外に西田政治氏の毒草園、中島親氏の探偵小説月評があり、西田氏の毒草園は大朝の「天声人語」や大毎の「硯滴」流にすこぶる正鵠、シンラツなもので「ぷろふいる」誌第一の読物であった。中島親氏の月評も又堂々たるものでたしかに探偵小説が文芸として批評の対象たり得ることを示すと同時に、親氏自身立派に探偵小説評論の専門家として一家をなすに至っていた。
「ぷろふいる」はその誌の性質上新らしい作家を生み出すことに骨を折り、相当無名新人の作品を集めて優遇したが、なかなか新人を得ることが困難で僅かに大阪に蒼井雄君、鎌倉に西尾正君を発見した位のものであった。蒼井君は所謂気の利いた短篇物なぞは書けなかったがガッチリとした本格的な長篇物が得意で、それだけに大物という感じがあり将来を期待された人であったが、もっともかんじんな台頭時代事変のためにその後の消息を断つに至ったのは残念である。
 平凡社の「大衆文学全集」が出たとき新進作家集としてその一冊が振り当てられ、森下雨村氏の監輯で当時新進であった十人の作家が集められたが、そのなかに現在の大家大下宇陀児氏、角田喜久雄氏、横溝正史氏なぞがあり、牧逸馬氏や川田功氏、なぞ故人となられた人達、それに山下利三郎氏や私のように折角作家としての台頭の機会に恵まれながら、その機会を逸した者なぞなかなかに感慨は深い。「探偵趣味」、「探偵文学」その他探偵雑誌のことなぞなかなかに思い出はつきないが今度「ぷろふいる」が再発行されるとなると、更に思出新たなるものがあるが命ぜられた紙数がつきたのでこれでやめることにしよう。
(「ぷろふいる」一九四六年七月)

底本:「甦る推理雑誌2 「黒猫」傑作選」光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年11月20日初版1刷
初出:「ぷろふいる」
   1946(昭和21)年7月
入力:鈴木厚司
校正:山本弘子
2010年4月21日作成
2011年4月14日修正
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