私が歴史哲學上の諸問題に關心するのは、私の京都帝國大學哲學科在學の頃以來のことである。今自分の思想を一應、もとよりほんの一應、この書の形で※[#「纏」の「里」に代えて「黨−尚−れんが」、「广」に代えて「厂」、3-12]め、この後の研究のひとつの蹈石たらしめようと考へるに際し、私は自分のとにかくここまで歩んで來たのはひとへに師友の指導と刺戟とによることを思ひ、こころからなる感謝を捧げる。卷末に附した索引は池島重信君の力になるものである。君が貴重な研究の時間を割いてこの面倒な仕事にあたつてくれたのに對し特に謝意を表明する。
千九百三十二年一月三十一日
東京に於て
三木清
[#改ページ]ここに考察される對象を表はすところの「歴史」といふ語は、普通に二重の意味を負はされてゐる。これは我々に先立つて歴史の問題に就いて探求した人々によつて注意されたことであつて、既にヘーゲルの如きも、それをこの語の含む主觀的及び客觀的方面として區別したのである。即ち、歴史といふ語は、多くの國語に於て、我々の國語も例外をなすことなく、一方では主觀的に、「出來事の敍述」historia rerum gestarum の意味に於て、そして他方では客觀的に、「出來事」res gestae そのものの意味に於て、用ゐられてゐる。後者はまさに存在としての歴史にほかならず、これに反し前者はかかる存在としての歴史に就いての知識及び敍述であり、ロゴスとしての歴史と呼ばれることが出來よう。かくの如き二重の意味に相應して、我々は歴史を經驗する、などと云はれると共に、我々は歴史を書く、などとも云はれてゐるのである。
いま歴史に關する考察を始めるに際し、先づ、歴史のこのやうな二つの概念を區別しておくことが大切である。それが必要なだけ十分に區別されてゐないために、思想の曖昧と混亂とを惹き起し、多くの議論も的無きものとなつてゐるといふことは、決して稀ではない。兩者の區別は、例へば、次のやうに考へることによつて理解されよう。もしも東ローマの著述家たちが彼等の隣人に對して活溌な關心をもつてゐなかつたとしたならば、歴史家の云ふ如く、ロシア人、ハンガリア人、セルビア人、クロアチア人及びブルガリア人の早期に就いての我々の歴史的知識は「白紙」であつたであらう。然しながら、傳記者が書き留めるか否かといふことから獨立に行はれる客觀的な出來事の見地からするならば、「歴史無き」如何なる民族も存しない。歴史は必ずしもつねに歴史として記し傳へられるのではない。記し傳へられぬ歴史といふことは歌はぬ詩人といふことほどの矛盾も含んでゐない。そこでロゴスとしての歴史と存在としての歴史との間には或る距離、或る乖離があるといふことは明かであつて、この距離とこの乖離とに留意することが我々に對して先づ要求されるのである。固よりかくの如き乖離は兩者の關係の一面である。一つの語「歴史」Geschichte, histoire, history が歴史の二つの意味を自然的に結合して含むところに表現されてゐるやうに、存在としての歴史とロゴスとしての歴史との間には、他面に於て、或る統一の關係がある。けれども我々は、後に至つてこのやうな統一の關係を一層明瞭に認識し、それの性質を一層明確に規定するために、最初に兩者の間の乖離の關係を十分に理解しておかなければならないのである。
ところで事物の本性に從ふならば、存在としての歴史はもちろんロゴスとしての歴史の出發點である。前者は後者に先行し、或る歴史的事件の行はれた後に於て初めて、それに就いての歴史敍述も成立し得ることは明かである。然るにロゴスとしての歴史即ち歴史敍述の立場から云ふならば、存在としての歴史は自己の出發點ではなく、寧ろ自己の到着點であるといふことが普通である。歴史敍述は殆ど凡ての場合、出來事をそれが行はれてゐる間に直接に觀察することを許されてゐない、それは却て出來事の殘して行つた痕跡を研究することによつて、これを間接に知るのである。かくの如き痕跡は一般に史料と稱せられてゐる。恰も史料が、―― Quellen(源泉)といふそれに當る語の表はしてゐるやうに、――歴史學にとつての出發點である。然し史料は、―― docere(知らせる、教へる)から出たところの documents(史料)といふ語が示してゐるやうに、――出來事そのものであるのでなく、出來事に就いて知らせるものであり、歴史家は史料のもとに來たつて出來事に就いて問ひ合はせるのである。從つて史料と出來事そのものとの間には距離がある。歴史敍述にとつては、「史料、それは出發點である。過去の事實、それが到着點である*。」と云はれなければならぬ。そこで我々は史料と呼ばれるものの一般的位置を規定することが出來よう。それは存在としての歴史とロゴスとしての歴史との丁度中間に位する。歴史に關する考察にとつて有害な混亂の生じないために、史料のこのやうな中間的位置を正しく認識しておくことがまた必要であると思はれる。まことにかくの如き位置に相應して、史料は、一方では或る意味に於て存在としての歴史の性質を擔ひ、そして他方では或る意味に於てロゴスとしての歴史の性質を具へてゐるところから、或はそれが出來事そのものであるかのやうに、或はそれの羅列が歴史敍述そのものであるかのやうに、見做されるといふことが起り得る。然しながら史料はそのいづれとも等しくない。それと存在としての歴史との間には或る距離乃至乖離のあるために、そこからして歴史家が史料の「批判」と稱するものも飛び出して來るのである。また史料は歴史敍述の端初でこそあれ、それの目標ではない。歴史的研究に於て史料が突き合はされ、相互の聯關が尋ねられるといふのは、史料がこの研究の目標であるからではなく、却てかくすることによつて史料の背後にあるものが探り求められてゐるのである。史料の研究はこのものを光に持ち來たすための「地下の仕事」(ニーブール)である。歴史敍述にとつてはその素材を意味するところの史料の背後になほ存在としての歴史が横たはつてゐる。歴史的研究は史料に結び付き、それを把握することを通じてまさにこの背後のものを理解しなければならぬ。
* Langlois et Seignobos, Introduction aux
tudes historiques, p. 44.

然るに我々が丁度今指摘したこと、ロゴスとしての歴史が史料の位置へ移るといふことは、既に或る重要な問題を含んでゐる。それはとりもなほさず歴史が書き更へられるといふことである。歴史は樣々な條件のもとに於て書き更へられるに到る。ひとはかかる條件として何よりも史料の状態を擧げるであらう。從來の歴史敍述の基礎となつてゐた史料の虚僞または不確實の暴露、新たなる史料、特にこれまで用ゐられた史料と矛盾するやうな史料の發見、等々が歴史の書き更へられる條件に數へられるであらう。然しもし史料の状態に何等かくの如き變化が生じなかつたとしたならば、如何であらうか。そのときにもなほ歴史は書き更へられるに到る。書き更へられるといふことは歴史の内面的な、必然的な性質に屬してゐるのである。歴史が書き更へられるかくの如き内面的な、必然的な條件とはそもそも如何なるものであらうか。我々の歴史は途上にある。それは既に完結してしまつたのではなく、なほつねに進行しつつある。絶えず新たに生起する歴史的事件は絶えず新たな歴史敍述を促し、要求する。けれども唯それだけのことであるならば、歴史は書き加へられるとしても、本質的に書き更へられることはない。單に一が去つて他が來たるといふこと、言ひ換へれば、今が絶えず昔になるといふこと、このやうに歴史の運動の時間が直線的に表象されるところでは、歴史の書き更への内面的な理由は見出されないばかりでなく、一般に事物が歴史的なものとして受取られることさへも不可能でなければならぬ。單に今が昔になるばかりでなく、昔がまた今であるところに歴史はある。昔が今であるのは、それが單に過ぎ去つてしまつたものでなく、今になほ働き、影響を及ぼしてゐるためである。エドゥアルト・マイヤーは歴史的なものを「影響あるもの」wirksam と規定してゐる。歴史的關心の對象となる一個人、一民族、一國家、一文化、「これらの對象の如何なるものも、それが嘗てひとたび世界のうちに在りもしくは在つたといふ理由で純粹にそれ自身のために關心を喚び起すのではなく、却て唯それが及ぼした且つなほ及ぼしつつある影響のために關心を喚び起すのである。」「現存する諸状態はそれ自身として決して歴史の對象でなく、却て唯それが歴史的に影響ある限りに於てのみ、歴史の對象となる*。」然るに事物の影響といふものはその當時に盡きることなく、またその當時に於て明かであることなく、寧ろ後世に至つて初めて顯はになることが屡々であり、かかる事物こそ却て眞に影響力あるもの、從つて眞に歴史的なものと云はれ得る。さうであるならば、歴史は對象の影響が後に於て次第に顯はになるに從つて書き更へられねばならなくなりはしないか。然しながら唯それだけのことであるとすれば、歴史が書き更へられる必然性はなほ十分ではなからう。もし歴史的なものが影響する仕方にして、ひとつの源から發した水が次第に河床を穿ち、他の流を合せて進むに從つて、附近の土地を灌漑して行くといふが如きものであるとするならば、そのとき歴史は書き加へられこそすれ、書き更へられる必要は本質的には存しないであらう。書き更へられる必然性が内在してゐるためには、歴史的なものの影響の仕方はこのやうに唯ひとむきなる進行とは異るものであるべきである。
* Eduard Meyer, Zur Theorie und Methodik der Geschichte, Kleine Schriften 1910, S. 45, S. 57.
第一、歴史を書くことはそれを繰り返すといふことである。傳へられたものはなほ歴史ではない。傳へられたものをいま一度繰り返すところに歴史がある。この場合繰り返すといふことは傳へられるといふことに對してどのやうに違つた新たなものであるであらうか。傳へられるといふとき、昔から次第に今へと傳へられるのである。これとは違つて繰り返すといふことは本來手繰り寄せるといふことである。繰り返すといふことが手繰り寄せるといふことであるから歴史はあるのである。傳へられるといふとき、端初は過去にある。然し手繰り寄せるといふとき、端緒は自分の手元に、從つて現在にある。歴史の端初は、外見上さうあるやうに、過去にあるのではない。歴史的研究の行程は寧ろ、ヒッペルが嘗て小説に於て取らうともくろんだものに似てゐる、即ち彼は後方に向つて、次第に深く過去のうちへ、死から誕生へ、結果から原因へと、彼の道を取らうとしたのであつた。現在が歴史の端初である故に、歴史には書き更へられる必然性が内面的に屬する。もしその端初が過去であるとしたならば、歴史は本質的には唯書き加へられるのみで、書き更へられはしない。固より傳へられるといふことがなければ繰り返すといふこともないであらう。然し我々は傳へられたものを繰り返すことによつてそれを後に傳へ得るのである。
第二、歴史敍述には選擇が必要である。如何なる歴史敍述も過去の無數の出來事をそのまま模寫することが出來ず、よし出來たとしてもそれは無意味であらう。それは無數の傳へられたものの中から傳へるに足り、傳へるを要するものを選擇して繰り返すのである。ところでこのやうな選擇は何に基礎をもつのであらうか。「ここでもまた唯現代のみが答を與へ得る。」とマイヤーは云ふ。「選擇は、現代が或る影響、發展の結果に就いてもつ歴史的關心を基礎とし、この關心のために現代はそれを招致した諸機因を探索するといふ要求を感ずるのである。如何なる領域にこの關心が高い度合に於て向けられるかといふことは、現代の構成に依存してゐる、前景に現はれるのは、或る時は此の、或る時は彼の方面、即ち、或は政治史、或は宗教史、或は經濟史、或は文學、或は美術、等々である*。」かの歴史に於て繰り返すといふことは、選擇的に繰り返すといふことであることによつて、既に單に繰り返すといふことではあり得ず、それは手繰り寄せるといふことである故に、かかる選擇の原理は現代のうちに含まれてゐるのである。歴史敍述に於てこのやうにして選び出されるのは、もちろん、そのものが特に歴史的なものと考へられるためでなければならぬ。いづれの歴史敍述もそれの現代の立場から歴史的に重要と見える事件及び關係を取り上げて敍述する。この敍述に取り殘されるのは、そのものが特に歴史的なものとは見られてゐないからでなければならぬ。その限りに於てロゴスとしての歴史と存在としての歴史とは統一されてゐると云はれよう。この統一を成立せしめるものはそれぞれの現代である。然るにかくの如く兩者の統一の基礎となるものは同時に兩者の乖離の基礎となる。何が歴史的に重要なものと見られるかといふことにしてそれぞれの現代によつて規定されるとするならば、各々の新しい現代は過去の歴史敍述が特に歴史的なものと見たところのものをもはやかかるものとは見做さず、却て他のものを歴史的に重要なものと見るに到るであらう。そのとき從來敍述されたのとは異る對象、關係、側面が新たに歴史的なものと見られ、ここにロゴスとしての歴史と存在としての歴史との距離が顯はになり、兩者の間に乖離が生じる。新しい史料の發見などいふこともかかる條件のもとに於て行はれることが多い。そこからして歴史は各々の新しい現代と共に絶えず書き更へられねばならぬといふことが起るのである。固より歴史が過去の出來事のそのままの模寫であるとしたならばこのこともあり得ないのであつて、歴史を書くといふことが選擇するといふことであるがために、そのことも行はれ得ることは云ふまでもなからう。
* Op. cit., S. 44.



簡單に云へば、歴史はつねに唯「現在の時間のパースペクチヴ」Zeitperspektive der Gegenwart からしてのみ書かれることが出來る、とも云はれよう*。然し歴史が書かれるこの條件は同時にそれが書き更へられる條件でもあつた。かかる現在は、ロゴスとしての歴史と存在としての歴史とを統一すると共に、また乖離せしめるものでもあつた。歴史は現在によつて動かされてゐる。このことを理解しない人は、史料にのみ固執して、それをば或は存在としての歴史、或はロゴスとしての歴史と思ひ誤つてゐるのである。そこで我々の次の問題はかくの如き現在とは何であるかを出來るだけ明瞭に規定するといふことでなければならぬ。
* Vgl. Ed. Spranger, Der Sinn der Voraussetzungslosigkeit in den Geisteswissenschaften, 1929.
問題はかくの如き現在が存在としての歴史の秩序に屬するかどうかといふことである。存在としての歴史の秩序に於ける現在は普通に「現代」と稱せられる。それは歴史學者の所謂時代區分に於て、古代、中世、近世、そして現代と區別される場合に於ける現代である。いま我々が最も重要な概念として取り出した現在はこのやうな現代のことであらうか。歴史敍述にとつてのそれの重要性を主張した人々の多くは、この問に對して肯定的な態度をとつてゐるやうに見える。否、彼等はこの點に就いて寧ろ明確な自覺をもたず、曖昧のままにしてゐるのが普通である、と云つた方がよい。我々もこれまで「現代」と「現在」といふ二つの語を區別せずに用ゐて來た。然し今や兩者を術語的に區別することが必要である。我々のいふ現在は現代、即ち存在としての歴史の秩序に於て現在と考へられるものであることが出來ない。我々はそれを、存在としての歴史に對して、事實としての歴史と呼ばうと思ふ。かくて我々は歴史のまさに第三の概念として、事實としての歴史なる概念を得る。このものを他の二つの歴史の概念、就中存在としての歴史の概念から區別することが肝要である。マイヤーが「歴史家の現代は如何なる歴史敍述からも排除され得ない一の契機である」と云つた場合、この現代は存在としての歴史の秩序に於ける「現代」ではなく、却て「現在」のことでなければならない。クロオチェも現代性があらゆる歴史の本來の性格であり、凡ての歴史は現代の歴史であると述べてゐるが、もしここにいはれた現代にして存在としての歴史の秩序に於ける現代を意味するならば、古代の歴史、中世の歴史、等は、明かに古代の歴史、中世の歴史、等のほかのものでなく、それが凡て現代の歴史であるなどとはもちろん云はれ得ない筈である。從つて彼のいふ現代性 contemporaneit


一、我々は歴史を繰り返すといふことが手繰り寄せるといふことであることを云つた。歴史の端緒は現在であつて、そこから過去が手繰り寄せられるのである。今から昔へのこの順序は明かに存在としての歴史の進行とは逆である。後者は古代、中世、近世、そして現代へと進む。從つてその順序に於ては現代はどこまでも後のものであり、また後のものであるのほかなく、それが歴史の端初であるなどとは考へられ得ない。歴史の端初である現在はこのやうな現代ではなく、およそ存在としての歴史とは異る秩序のものでなければならぬ。それが事實としての歴史の秩序である。二、歴史的なものの選擇は現在を基礎に有する。然るにそのときもしこの現在にして現代のことであり、現代の見地から選擇がなされるのであるとすれば、そのときには、マルクスの非難した如き、「最後の形態が過去の諸形態を自己自身への諸段階と見、それをつねに一面的に把握する」といふ誤謬、或は「一切の歴史的差異を拭ひ消し、一切の社會形態のうちに市民的社會形態を見る經濟學者」に類する誤謬に陷るといふことも免れ難いであらう。そのときこそ歴史敍述は所謂パースペクチヴィズム Perspektivismus に伴ふ種々なる危險にさらされる。さうではなくて、現在に立ちながら、しかも諸時代のそれぞれの獨自性、その間の本質的な差異が認識され得るのは、この現在が現代のことではないからである。それだからこそ歴史的認識は單に現代とそれ以前の時代との比較といふが如き外面的なものでなく、一の内面的な統一を含むことも出來るのである。三、眞の歴史的認識が成立するためにはひとつの全體が與へられねばならない。この全體を與へるものは現在である。これに反して現代は歴史的時代の一つとして、寧ろかくの如き全體の一つの部分であるに過ぎぬ。古代、中世、近世と並んで同じ秩序に於て一つの部分であるものが全體を形作る原理であると考へられることは不可能である。かかる原理は存在としての歴史とは異る秩序のものでなければならず、それが事實としての歴史である。歴史は現在の時間のパースペクチヴからしてのみ書かれる、と云はれたが、このパースペクチヴの原理たる現在は存在としての歴史の秩序に屬さないのであるから、このこともなほ十分嚴密に語られてはゐないのである。歴史は現代を理解せしめる、と一般に云はれてゐる。これは固よりその通りである。然しひとは同時に、現在は歴史を理解せしめる、といふ更に深い眞理を忘れてはならない。
かくて現代と現在といふ二つの概念が區別せられる。しかもそれらは同じ秩序に於て區別せられるものではなく、全く異つた秩序に屬するものとして區別せられるのである。それ故に現在は現代と同じ列に續きその最先端に位すると考へられる意味に於ける所謂「瞬間」であるのではない。それは一年、一時間、一分などと計量される時間の最小なるものとしての瞬間であるのではない。もしも現在が現代と同じ秩序に於て連續してゐるとすれば、現在に最も密接に關係するのは古代や中世などであり得ず、まさに現代であるのほかないであらう。然るに眞實を云へば、ひとは歴史に於て屡々現代に對して全くよそよそしく覺え、却て遙かなる過去に對して最も親密を感じることがある。かのルネサンス時代の人々は彼等に對して一層近き過去たる中世を葬つて、一層遠き過去たる古代に彼等の現在の活動を結び付けたのであつた。凡てこのやうなことは、現在が存在としての歴史の秩序のものでなく、高次の秩序のものであることによつて可能である。現在はたとひ瞬間と呼ばれるにしても、それは決して計量される時間の百年、十年などとの比較に於てかく呼ばれるのではないのである。それは一般に計量され得る時間の秩序に屬してゐない。
普通に考へられるところによれば、歴史とは過ぎ去つたもの、既に在つたところのものである。あらゆるものは歴史となる、などと云はれるとき、歴史はこのやうに過去のものと考へられてゐるのである。まことに存在としての歴史は唯過去のものとしてある。それがこの歴史概念の本質的な規定であつて、歴史といふことが存在としての歴史を意味する限り、歴史の概念と過去の概念とは離れ難く結び付いてゐる。この場合所謂現代と雖も固より例外をなし得ない。存在としての歴史の秩序に屬する限り、現代もまたひとつの過去である。それ故にひとが屡々「歴史」と「現代」とを對立させてゐるのは、不精密であると云はれなければならぬ。あらゆる過去に對立するものは唯現在のみである。現代が存在としての歴史に屬するのに對して、それと區別された現在は事實としての歴史である。後者の立場からするならば、前者に於ける現代も何等現在ではなく、なほひとつの過去であるに過ぎない。一般的に云つて、歴史とは凡て過去のことであるとせられるのは、存在としての歴史の立場に於てでなく、唯事實としての歴史の立場に立つてのことでなければならぬ。健全な常識が歴史とは凡て過去のことであるとするのは、存在としての歴史とは異る秩序の事實としての歴史のあることを率直に語るものである。かくて眞の現在たる事實としての歴史は、最も近き現代をも要するに歴史であり、過去であるとすることによつて葬る。然しこの同じ事實としての歴史は、最も遠き過去をも手繰り寄せ、全體のうちに包むことによつて活かす。死のみあつて生のなきところにも、生のみあつて死のなきところにも、共に歴史はなく、歴史とは死と生との統一である。事實としての歴史は、それが過去の歴史を活かすものである限りまさしく「歴史的なもの」であるが、それがこのものを葬るものである限り却て「非歴史的なもの」である。それは歴史的なものであると共に非歴史的なものである。「非歴史的なものと歴史的なものとは同樣に、一個人、一民族、一文化の健康にとつて必要である」(ニイチェ)。ところで事實としての歴史はまた屡々「生」と稱せられてゐる。そしてこの場合、丁度歴史と現代とが對立させられた如く、歴史と生とが對立させられる。かやうに考へることが理由のあることであるとしても、我々はなほ注意することを忘れてはならない。眞の生は死と生との統一である。生は歴史を生あらしめるものであると同時に、歴史を葬るものも生である。また生といはれるものは本來二重のもの、即ち一方存在としての生、他方事實としての生である。前者は傳記に敍述されるやうな「生涯」である。從つて歴史に對立させられた生は存在としての生ではなく、事實としての生でなければならぬ。むろんこのやうに對立するからといつて、事實としての生が歴史でないのではない。それは事實としての歴史であるのである。
さて一般的に次の如く云はれることが出來る、――事實は存在に先立つ。これは一の最も原理的な命題である。もし事實にして存在に先立つならば、事實こそまさしく形而上學的なものである。もと形而上學 Metaphysik といふ語はギリシア語の τ





存在の概念はいつでも領域の概念と結び付いてゐる。あらゆる存在は領域的と考へられる。從つて一切の存在論はその性質上領域的存在論である。このやうにしてまた普通に歴史と自然とが區別されるのは、存在の秩序に於て領域の區別としてでなければならぬ。或は自然と精神(ディルタイ等)、或は自然と文化(リッカート等)、などと區別される場合も同樣である。歴史と自然とは、存在として、たしかに、それぞれひとつの領域を形作るものと見られる。これに反して事實といふものは何等領域的なものではないのである。ここに存在と事實とのひとつの最も重要な相違が横たはつてゐるであらう。それは何等領域的なものでない故に、かかる歴史は、それが領域の意味に於ける自然でないと同じやうに、領域としての自然に對する領域としての歴史の意味に於ける歴史でもない。事實としての歴史は自然から區別された歴史でない。この意味に於てはそれは寧ろ自然と歴史との統一であると云はるべきである。それは高次の自然であつて高次の歴史である。事實としての歴史は、單なる歴史でもなく、單なる自然でもなく、却てもともと事實の歴史性のことである。原始的意味に於ける歴史的なものと自然的なものとの統一が單なる統一でなく、實に辯證法的統一であるところに、事實の歴史性があるのである。
先づ事實としての歴史は行爲のことであると考へられる。人間は歴史を作ると云はれてゐる。このやうに歴史を作る行爲そのものが事實としての歴史であつて、これに對して作られた歴史が存在としての歴史であると考へられるのである。作ることは作られたものよりも根源的であり、作ることがなければ作られたものもないのであるから、その意味に於て事實としての歴史は存在としての歴史に先行するであらう。そしてまた實際、作ることと作られたものとは對立する。作られたものは固定した、限界せられた形態をとることによつて、それが作られるや否や、作ることに對して他者となる。「魂が語るや否や、既に魂はもはや語つてゐるのではない。」Spricht die Seele, so spricht, ach, schon die Seele nicht mehr. といふ句は、單に言語に就いてばかりでなく、あらゆる歴史的なものに就いて云はれ得ることであらう。從つて存在としての歴史は事實としての歴史に對して、一方固よりそれの實現であると共に、他方それの否定でもある。行爲はたしかに歴史的認識の基礎ともなつてゐる。なぜなら歴史的認識が成立するためには或る全體が與へられねばならないが、かかる全體は絶えず移行する歴史の過程を切斷すること Entscheidung によつて初めて形作られ得るのであり、そのためには決心すること Entscheidung が必要である。認識しようと欲する者は決心することを避けることが出來ない。ところで凡ての行爲は自由を含んでゐる。如何なる自由もないところには、本來行爲といはるべきものはない。その限りに於て事實としての歴史はまさに自由である。
然しながら行爲といふとき、行爲する「もの」が考へられる。フィヒテの如き觀念論の立場に立たない限り、かかる「もの」を離れて行爲を考へることは出來ない。哲學的に云つてかかる「もの」とは何であらうか。この問題はこの「もの」を「存在」と考へることによつては解決され得ないやうに思はれる。單に認識の場合に限らず、我々は一般に何等かの意味で主體=客體――認識論的意味に於て主觀=客觀といはれるのはそのひとつの場合である――なる概念を缺くことが出來ず、兩者はどこまでも區別される。認識論者が如何にしても客觀化され得ぬものが主觀であると云ふやうに、如何にしても客體の秩序に屬し得ないところに主體の本性が求められねばならぬ。我々は自己の存在をも行爲の客體とすることが出來る。それだからとて、我々は主體乃至主觀が純粹自我であるとか、凡そ意識であるとかと云ふのではない。我々は自己の意識の存在をさへ行爲の客體となし得る。從つて主體を客體と同じ意味で存在と呼ぶことは出來ない。主體は同時に客體であり、我々は主體客體の統一であるといふことは、或る意味では全く正しいことであるにしても、かかる統一はなほ主體と客體との區別を豫想せねばならぬ。我々は「行爲するもの」を事實と稱する。そこでは行爲と物とが二つでないところから、それは事實 Tat-Sache と云はれる。事實としての主體を前提した上で主體も初めて客體的存在であり得るのである。固より事實と存在とは全く無關係ではない。事實の如何なるものであるかも存在を通じてでなければ客觀的に認識されることが出來ぬ。
我々はロゴスとしての歴史と存在としての歴史とを區別して來た。然るにいま事實としての歴史といふ優越な見地に立つとき、ロゴスとしての歴史もやはり存在としての歴史に屬するものと見られ得る。歴史敍述は、藝術、法律等と並んで文化の一形態であり、かかるものとして存在としての歴史の中に數へられる。歴史敍述も作られた歴史の一種であり、それを作る行爲と見られる限りに於ける事實としての歴史の産物である。藝術を作ることが時に藝術的「實踐」と呼ばれてゐるやうに、歴史を書くことはひとつの實踐と考へられることが出來る。さうだからと云つて、もちろんロゴスとしての歴史と存在としての歴史との區別がなくされるわけではない。藝術そのものとそれに就いての歴史敍述たる藝術史とが區別されるやうに、歴史敍述そのものが文化のひとつとして、存在としての歴史と見られる場合にも、それとは區別されてかかる歴史敍述に就いての歴史敍述即ち史學史なるものが存し得るからである。實際、歴史を敍述するといふことは人間の行爲の最も根本的なものに屬してゐるのである。人類の最も古き傳説乃至神話も既にそれ自身の仕方に於てひとつの歴史敍述であつたのである。ヴィコは最古の諸神話は政治的眞理を含んでをり、そしてそれだから最初の諸民族の歴史を表現してゐると考へた。アリストテレスは神話を愛する者 φιλ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、29-13]μυθο


第一、我々は事實としての歴史を現在と稱して來た。然るに我々にとつて行爲の概念は未來といふ時間概念と結び付いてゐるのがつねである。我々の行爲は絶えず未來への關係を含む。このやうに現在は未來への關係を含むが故に、我々にとつて現在は「永遠」でなく、却て「瞬間」であるのである。永遠は時間でなく超時間的である。現在が瞬間であるところに時間がある。從つて時間の最も重要な契機は未來である。その限り時間の特性は豫料 Antizipation であり、時間は本來豫料的時間であると云つてよいであらう。それにとつて現在は瞬間であるから、我々の行爲は歴史的と考へられるのである。これに反して永遠は超歴史的であつて、歴史的ではなからう。そして現在が瞬間である故に、實にまた我々の行爲には「決心する」といふことが屬するのである。我々は上に於て、歴史は現在から書かれると述べておいたが、今や進んで、歴史は未來から書かれると云はねばならぬであらう。然るにかくの如く現在が永遠でなく瞬間であるのは、そこに否定的なものが含まれてゐるからでなければならない。即ち現在のうちに含まれる未來が現在に對して否定的なものの意味を擔つてゐるために、現在は瞬間であるのである。瞬間と云はれる最も特殊な時間概念はこのやうに否定的なものを離れてはないのであつて、單に未來を豫料するといふことだけからは現在が瞬間であるといふことは生じて來ない。行爲は未來に於て實現されると考へられる。然しながら單に實現といふ關係だけでは行爲的現在が瞬間であることはなく、かかる實現は同時に否定であるがために、現在は瞬間であるのである。事實としての歴史は存在としての歴史となる必然性を含む。かくなるといふことは一面實現の意味をもつてゐる。けれども事實としての歴史と存在としての歴史とは、既に云つたやうに、對立せざるを得ないのであるから、後者は他面に於て前者の否定である。未來が現在の否定または死である故に、未來を豫料する現在はまさに瞬間であるのである。この意味に於て時間の本性は終末觀的 eschatologisch 時間であるとも云はれよう。それだからこそ人間の行爲は決心するといふことであるのである。かくの如き瞬間が常識の考へるやうな計量的時間の最小なるものとは全く異ることは前に云つた通りである。現在たる瞬間は未來を含むばかりでなく、過去をも包み得る、過去の歴史を包んで活かすものは現在であると述べられた。まことにかかるものとして瞬間は時間のうちにありながら永遠の相を現はしてゐる。
第二、然るにもし現在の豫料する未來が現在に對して否定的な方面を有するとするならば、このことは現在そのものが否定的なものをそのひとつの契機とすることを證しするのでなければならぬ。現在そのものが既に否定的な契機を含むが故に、否定的な方面を有する未來を含まざるを得ないのである。換言すれば、行爲は絶對的に自由なものでなく、また必然的なものであるから、行爲は歴史的なのである。歴史は、シェリングも論じた如く、絶對的な自由をもつても、絶對的な必然をもつても成立するのでなく、却て唯兩者の結合によつてのみ可能である*。このやうな必然の原理は自然と呼ばれる。それは固より存在としての自然ではなく、事實のうちに含まれる自然的なものを意味する。いまかかる自然的なものは我々の行爲に必然的に結び付いてゐるところの感性的なもの、特に身體的なものと考へられることが出來る。我々は事實をば領域的ならぬものとして規定したが、哲學の歴史に於て領域的ならぬものを發見したのはカントであつたと見られ得る。彼のいふ自我がそれである。彼はこれによつて舊來の存在論、形而上學を破壞した。カントの自我は純粹に實踐的なものに徹底されることによつてフィヒテの所謂事行となつた。然しながら我々のいふ事實としての歴史はカントの自我はもとより、フィヒテの事行とも決して等しくない。それはフィヒテに於けるが如き純粹な行爲でなくして、却て感性的なもの、身體的なものと結び付いた實踐である。それは Tathandlung(事行)ではなく、まさに Tatsache(事實)である。換言すれば、それは Tat ――しかも Handlung より一層客觀的な意味に於ける行爲――であると共に、Sache ――しかも Tat よりも一層客觀的な意味に於ける物――の意味をもつてゐる。行爲が物の意味をもつのは、それが身體的、感性的であるがためである。蓋しもし事實としての歴史が單に行爲であると解されるならば、この行爲の主體は何であるかといふ問題が提起されるであらう。この行爲の主體は何等かの「存在」であり、行爲に先立つてそれの豫想をなすものと考へることが出來ない。さうかといつて、我々はフィヒテの如き立場を認めることはなほさら出來ないのである。そのいづれでもなくて、歴史の基礎であるところの行爲に於ては行爲が直ちに物の意味をもち、行爲が即ち事實であるのである。固より物もまた行爲の意味をもつてゐる、さうでなければ物は事實(Tat-sache)とは云はれない。物が行爲を前提するのでもなく、行爲が物を前提するのでもなく、行爲と物とが一つであるのである。感性は身體的なものとして決して單に受容的であるのではなく、寧ろ行爲的、實踐的である。感性のかくの如き實踐的性質を認め、力説したのはマルクスであつた。このやうに身體的、感性的であるために、人間の行爲は必然的に自然の存在或は存在としての自然に結び付く。身體は單に自然の存在であるのではない、――それだからしてそれは外的自然に對して内的自然とも、人間の自然とも呼ばれ得るのである、――身體は同時に事實としての自然的なものである。我々は身體を通じて外的自然につらなる。何等かの自然の存在に結び付くことがない如何なる行爲も歴史的とは云はれない。歴史は決して自然の存在から切り離されたものでなく、これと最も密接に聯關して展開するのである。
* Vgl. Schelling, System des transcendentalen Idealismus, WW.
. 3, S. 587 ff.

* 拙著『觀念形態論』一九八頁以下〔全集第三卷收緑〕參照。
事實としての歴史の含む否定の契機を明かにするために、ここになほひとつの概念を持ち出さう。我々は從來の歴史哲學のうちに於て運命 Schicksal の概念がひとつの重要な役割を絶えず演じて來たのを認めることが出來る。實際、現實的な歴史的思惟は唯或る特殊な運命の感情の背景のもとに於てのみ發展し得るとさへ見える。歴史上の大人物が屡々運命の直接的な干渉、のみならずその神託的な啓示に對する特殊に色づけられた信仰をもつてゐる如く、歴史的思惟もまた運命の感情、從つて特殊な運命の概念に結び付けられてゐる。ひとは運命の概念の變遷に於て歴史的意識の變化の洞見へのひとつの大切な手懸りを捉へ得るであらう。かくして個人主義的思惟から歴史的思惟への、早期ロマンティクからヘーゲルへの決定的な轉換は、實に運命の感情の變遷のうちに表現されて見出されるのである。早期ロマンティクの熱烈な信仰告白書、シュライエルマッハーの『モノローゲン』に於ては、運命は單に永久に敵對する「世界の過程」、自由なる自我がそれに對して反抗するところの粗野な、外的なものに過ぎない。個人はこの「世界」に對して永久の敵對關係にあり、そこに彼の自由の意識がある。かやうな運命の暴壓の最後の殘餘まで滅ぼしてしまふといふことが自由の最高の勝利である。「かくの如き(即ち自由なる)意志の思惟にあつては運命の概念は消え失せる*」、とシュライエルマッハーは云つてゐる。ヘーゲルは夙に、運命の思想を深く表現せるギリシア悲劇によつて、歴史的思惟に導き入れられた。彼は既に『キリスト教の精神とその運命』の中に於て運命の概念に就いての甚だ深い哲學的思索を示したが、『精神の現象學』の一章に於ても「罪と運命」に就いて取扱つたのである。ところでヘーゲルにあつては運命はもはや粗野な、不可抗的な、外的な力ではなく、却て深い、内的な必然性を意味する。「運命とは單に一定の個人が自體に於て内的な根源的な規定性としてあるものの現象である**」、と彼は云ふ。運命は或る全く内的なもの、肆意を完全に脱した或るものとなつた。ヘーゲルはそのためにパトス Pathos といふ特色ある概念を見出した。悲劇に於ける人間は、「實際生活に於ける凡俗な行爲に伴ふ言語のやうに、無意識的に、自然的に、素樸に彼等の決意と行動との外的なものを表白するのでなく、却て内的な本質を發表し、彼等の行爲の權利を證明し、彼等が屬するところのパトスを、偶然的な事情や個人の特性から自由に、その一般的な個性に於て思慮深く主張し、明確に表白するのである***。」と彼は書いてゐる。この場合パトスとは内的必然性として解された運命にほかならないのである。更にシェリングはまた次のやうに記してゐる、「歴史家にとつて悲劇は諸々の偉大な觀念及びそれに向つて彼が訓練されてゐなければならぬところの崇高な考へ方の眞の源泉である****。」ヘーゲルも、シェリングも、悲劇と云へばギリシア悲劇のことを考へてゐたのであつて、殊にシェリングに於て運命の概念が彼の歴史の見方に對し決定的に重要な意味をもつてゐたことは、彼が世界史の哲學的構成にあたり、世界史を運命、自然、攝理といふ三つの時代に區分したといふことによつても窺ひ知り得られるであらう。
* Schleiermacher, Monologen, Hrsg. v. F. M. Schiele, S. 54.
** Hegel, Ph
nomenologie des Geistes, WW.
, S. 236.


*** Ibid. S. 550.
**** Schelling, Vorlesungen
ber die Methode des akademischen Studiums, WW.
. 5, S. 312



* Hegel, Encyclopaedie § 396 Zusatz.
** Ph
nomenologie des Geistes, WW.
, S. 530.






* Martin Heidegger, Sein und Zeit, Erste H
lfte 1927, S. 385.

* Vgl. Oswald Spengler, Der Untergang des Abendlandes,
, 1923, S. 154 ff.

さて事實そのものの中に於て「基礎經驗」と我々の稱するものが自己自身を浮き上がらせる。事實としての歴史の中に於て歴史の基礎經驗が浮き出て來るのである。このことは左の如く觀察することによつて明瞭にならう。既にシェリングによつて、或はロッチェによつて言ひ表はされた如く、歴史の思想はもとギリシアになく、キリスト教によつて初めて人類に與へられた、と見做されてゐる*。シェリングによれば、ギリシアの神々はより高き自然の存在であり、常住不變なる諸々の姿である。これに反して、「キリスト教はその最も内的な精神に從つて且つその最も高き意味に於て歴史的である。」時間の各々の特殊な瞬間は神の一の特殊な方面の顯示であり、その各々に於て神は絶對的である、「ギリシアの宗教が同時的としてもつたものをキリスト教は繼起的としてもつのである。」ところで、もしもロゴスとしての歴史の見地からするならば、固よりギリシアにも立派な歴史があつた。ヘロドトスは歴史學の父と呼ばれ、ツキヂデスは歴史敍述の古典的なものと見られてゐる。またもしも存在としての歴史の見地からするならば、ギリシア人こそ最も輝かしき歴史を作つた民族である。それにも拘らずギリシアには歴史の思想がなかつたと云はれるとき、歴史といふ語は前者の意味に於てでもなく、また後者に關係してでもなく、却て或る他の意味に於て、他のものに關係して語られてゐるのでなければならぬであらう。或はまた十七世紀は非歴史的であつたと云はれてゐる。近代に於ける歴史的な見方はヘルダーから出て、十九世紀に於て成熟したと考へられ、この世紀は「歴史の世紀」とも稱せられる。更にまた今日、ブルジョワジーは非歴史的な見解をもち、これに反してプロレタリアートは歴史的な立場に立つ、と主張されてゐる。このやうな場合凡て歴史といふことがロゴスとしての歴史及び存在としての歴史のいづれにでもなく、却て或る他のものに關係して語られてゐることは明かであらう。しかもそれが特に或る優越な意味に於ける歴史の概念であることも同時に明かでなければならぬ。なぜならそれは、他の見方からは一樣に歴史的と見られてゐるものに就いてなほ歴史的と非歴史的とを區別するからである。從つてそれは或る規範的な意味のものである。このやうな歴史の思想は、我々はこれを歴史的意識と呼び慣はしてゐる**。そこで我々は、ギリシアには歴史的意識がなかつた、プロレタリアートは歴史的意識を有する、などと語るのである。歴史的意識を與へるものは根源的には事實としての歴史のほかなからう。――一般に存在の概念からは規範的な、價値評價的な意識の成立は説明されないのであつて、これを説明するためにも我々のいふ如き事實の概念が必要である。――然し事實の凡てが歴史的意識といはれる優越な、規範的な意味に於ける歴史の意識を與へるのではない。なぜならば、事實としての歴史は存在としての歴史の如何なる歴史的時代の根柢にもあると考へられねばならぬに拘らず、歴史的意識は唯一定の歴史的時代に於て、唯一定の關係のもとに於てのみ、與へられてゐるからである。それ故に事實としての歴史に就いて特に歴史的意識を與へる事實そのものが區別され得、また區別さるべきであつて、私はかかる優越な意味に於ける――固より唯歴史的意識との關係に於てのみ――事實を歴史の基礎經驗と名付ける。
* この點に關して全く異論がないわけではないことを我々は注意しておかう。例へば、ブルンナーはキリスト教の信仰の教義は歴史的思惟とは鋭い、意識的な對立をなすと主張する。我々はここでこの問題に深入りすることを必要としない。唯ブルンナーがその場合、歴史に就いて我々の如き辯證法的な考へ方のあることを顧みないで、歴史的思惟は直ちに有機體説的發展の思想であると解してゐることを云つておけば足りる。Vgl. Emil Brunner, Erlebnis, Erkenntnis und Glaube 1923, S. 105 ff.
** 歴史的意識に關しては拙著『觀念形態論』に於ける「歴史主義と歴史」〔全集第三卷收緑〕を見よ。
我々は歴史的なものが何であるかに就いて樣々に理解されてゐるのを見出すであらう。例へば、フンボルトは云つてゐる、「歴史の目的は唯、人類を通じて表現さるべきイデーの、あらゆる方面に向つての、有限な形式がそれに於てイデーと結合され得るあらゆる姿態に於ての、實現でのみあることが出來る、そして諸々の出來事の過程は唯、兩者が互にもはや貫き合ふことの出來ぬ場合にのみ中斷し得る。」「歴史家の仕事はその最後の、然し最も簡單な解決に於て、現實のうちで存在を獲得しようとするイデーの努力の敍述である。」「あらゆる出來事のうちに直接に知覺し得ぬイデーが支配するといふこと、然しこのイデーは唯諸々の出來事そのものに於てのみ認識され得るといふことは、この研究の行程の固持しようと努めて來た二つの事柄である*。」かくてフンボルトは「世界歴史は(神の)世界統治なしには理解されない」といふ有名な言葉を語る。このやうな歴史の見方に對して、然し、マルクスはその唯物論的な見地から反對し、批評しつつ云ふであらう、「從來の凡ての歴史觀は、歴史のこの現實的な土臺を全然顧慮せずにおいたか、さもなければ、單にそれを歴史の過程とは全く何等の關聯をももたぬ一の附隨物と見做して來た。それだから、歴史はいつも、歴史の外に横たはれる規準に從つて記述されざるを得ず、現實的な生活の生産が非歴史的なものとして現はれ、これに反して歴史的なるものが普通の生活から離れた格別超世俗的なものとして現はれるのである。」そして彼は自分の立場を主張して云ふ、「このやうにして、道徳、宗教、形而上學及びその他のイデオロギー、並にそれらに相應する諸々の意識形態は、もはや獨立性の外觀を保持しない。それらのものは何等歴史をもたない、それらのものは何等發展をもたない。却て彼等の物質的生産と彼等の物質的交通とを發展せしめつつある人間が、このやうな彼等の現實と共にまた彼等の思惟と彼等の思惟の生産物とを一緒に變化するのである。意識が生活を規定するのでなく、却て生活が意識を規定する。」フンボルトとマルクスとに於てはかくの如く歴史を理解する立場が異つてゐる。然しフンボルトは近代の歴史的意識を豐かに表現した人と見られてをり、マルクスもまた固より發達せる歴史的意識を體現せる人であつた。そこで注意すべきことは、歴史的意識は歴史を單に平面的なものとしてではなく寧ろつねに立體的なものとして考へてゐるといふことである。換言すれば、それは歴史のうちに、或はイデーとその現象、或は下部建築たる物質的生産的生活と上部建築たるイデオロギーといふ風に、いはば階層組織を考へてゐる。このことは、我々の意見によれば、根本的には、歴史が事實としての歴史と存在としての歴史といふ二重のものであることから來るのであつて、この二重のものの一定の史觀にもとづく解釋として現はれるのである。フンボルトのやうな歴史の見方は觀念論的な史觀と云はれ、マルクスの如き歴史の把握の仕方は唯物論的な史觀と云はれる。二人の史觀はかく對立せるにも拘らず、共に歴史的意識を有したと云はれ得るならば、「歴史的意識」の概念が「史觀」の概念に對して或る形式的な意味のものであることは明かであらう。丁度ヘーゲルは觀念論者であり、マルクスは唯物論者であるが、共に辯證家であるところから、兩者に共通な辯證法一般の理論といふものが考へられ、且つかかる辯證法一般の理論が打ち建てられ得るやうに、我々はヘーゲル、フンボルト等の觀念論的な史觀及びマルクス主義の唯物論的な史觀に共通な歴史的意識一般の理論といふものを考へることが出來、且つこのやうな理論を打ち建てることが出來よう。歴史哲學とはかかる歴史的意識の理論である、と定義されてもよい。この理論は哲學的である。なぜなら第一に、歴史的意識は個々の規定された史觀に對して形式的な意味をもち、このやうな形式性乃至一般性は哲學的認識のひとつの特徴をなしてゐる。第二に、歴史的意識は規範的な意味を擔つてゐる。そしてこのやうな規範的な性質もまた哲學的認識のひとつの特徴に屬する。第三に、歴史的意識はロゴスとしての歴史即ち歴史學と同位のものでなく、却てそれの根柢にあつてそれを規定する。歴史哲學はかかる歴史的意識の理論としてベルンハイム、セイニオボ等の論述したが如き歴史學方法論とは異る獨自の理論であり得る。辯證法の理論が辯證法は觀念論的であるべきか唯物論的であるべきかを決定するやうに、歴史的意識の理論は史觀が唯物論的であるべきか、それとも觀念論的であるべきかを決定する。然し歴史哲學が單に何か一定の史觀そのものの敍述とは異る或るものでなければならぬことは當然である。
* Wilhelm von Humboldt, Ueber die Aufgabe des Geschichtschreibers, Die sprachphilosophischen Werke Wilhelm's von Humboldt, Hrsg. v. H. Steinthal 1884, SS. 143, 144.
然しながら一層重要な點は、等しく歴史的意識を含むとせられる史觀に就いて、唯物論的と觀念論的とが區別せられるといふことでなければならぬ。この區別は存在としての歴史に於て何が優越な意味に於ける存在として決定されるかといふことに關係する。或は非感性的なイデーが、或は感性的な物質がそのやうなものとして決定せられる。即ち存在論的決定と我々の稱するものが各々の史觀のうちには含まれてゐるのであつて、このものが史觀の性質を規定する。然るにいはば客觀の側に於ける「存在論的決定」に主觀の側に於ては「人間學」が對應する。一定の人間學は必ず一定の存在論的決定と結び付く。この意味に於ては、主觀が客觀を規定するのでもなく、また客觀が主觀を規定するのでもなく、却て事實といふものが主觀と客觀とを共に規定するのである。即ち主觀の側に於ける人間學と客觀の側に於ける存在論的決定とは共に事實としての歴史によつて規定され、從つて兩者はまたつねに對應の關係にあることになる。史觀の問題といふ空漠な問題は、このやうにして、人間學及び存在論的決定の問題としてその哲學的内容を明かにされる。そこで歴史哲學にとつての一の重要な課題は、マックス・シェーラーがその論文『人間と歴史』の中で企てたが如き、史觀と人間學との聯關を明かにすること、然しとりわけ優越なものの意味を有する歴史的意識を構成するが如き歴史の人間學とは何であるか、歴史の存在論的決定とは何であるか、を示すことである。シェーラーの立場からは甚だ不十分にしか解決され得なかつたこれらの問題に就いては、後の章に於てつまびらかに論究されるであらう。
このやうにして我々は我々の歴史哲學の體系の基礎となるべき若干の根本概念をさしあたり必要な限り分析し、且つその一々を秩序付けて來た。中でも重要なのは事實としての歴史、存在としての歴史及びロゴスとしての歴史といふ三つの概念である。もしこれら三つの概念に相應するものを他に求めるとすれば、ディルタイがその『精神科學に於ける歴史的世界の構成』といふ勝れたる論文の中で生の三つの契機として擧げた體驗、表現及び理解といふ三つの概念があるであらう*。私は讀者の理解を容易ならしめるためにここにこのことを特に記しておかう。それにも拘らず我々の思想とディルタイの思想との間には種々なる、決して重大でなくはない對立があるのであつて、そのことは彼のいふ體驗が心理的乃至意識的なものであるに反して、我々のいふ事實としての歴史が單にこのやうなものでないところに於て既に明瞭である。一般的に云へば、彼の歴史哲學は解釋學的思想によつて導かれてゐる。解釋學の論理は有機體説的論理である。そこでディルタイは體驗、表現、理解の間の聯關を一の構造聯關であると考へる。これとは反對に、我々の歴史哲學を導くものは辯證法的思想である。ディルタイ及び彼の先輩たちは從來歴史的意識の發達に對して甚だ貢獻するところがあつた。我々はもちろん彼等の功績を認めなければならぬ。然しながら今や彼等の歴史觀のうちに含まれる解釋學的、有機體説的思想を批判し、克服することが要求されてゐると思ふ。これより後我々は歴史を構成する三つの契機としての事實としての歴史、存在としての歴史、ロゴスとしての歴史の間に於ける辯證法的な關係を更に詳細に究明するに際し、それぞれの機會の與へられるに從つて、ディルタイ及び彼の先蹤者たちの批判にも立ち入るであらう。
* Vgl. Wilh. Dilthey, Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften, Gesammelte Schriften,
. Band 1927. なほ拙著『史的觀念論の諸問題』に於ける「ディルタイの解釋學」〔全集第二卷收録〕參照。

我々は歴史の概念に就いて論じ、三つのものをその主要なる概念として區別して來た。いま次第に問題に深入りするに際し、さしあたり存在としての歴史の概念を手懸りとして我々の研究を進めようと思ふ。そして我々は、存在としての歴史はその存在に於て何か、と尋ねる。存在の歴史性の問題がそれである。研究のかくの如き手續は事物の秩序そのものに從つて與へられると見える。なぜなら存在としての歴史は、事實としての歴史及びロゴスとしての歴史に對し、秩序上丁度中間に立つのであるから、これを手懸りとして研究を進めることにより、我々は他の二つのものに對する見通しを得つつ、區別された歴史の三つの概念をそれら相互の聯關に於て統一的に把握することが出來ると考へられるからである。然しそのためには、存在としての歴史がそれにふさはしく根本的に取扱はれることが要求されてゐる。現代の歴史哲學の通弊である如く、このものが歴史敍述乃至歴史學的概念構成の方面から一面的に見られることのないやうに特に愼まれなければならない。我々はリッカートの如く、我々の歴史哲學を何よりも歴史的認識の問題に結び付けるのでなく、ましてこの問題を、彼がその主著を名付けたやうに、『自然科學的概念構成の限界』の意味に於てその方面から考察するのでないばかりでなく、我々はまた存在としての歴史を、ディルタイの如く、『精神科學に於ける歴史的世界の構成』の意味に於て何よりも精神科學的認識の側面から問題にするのでもない。現代哲學のうちに何等かの仕方で共通に現はれてゐるこのやうな「認識論的偏見」は、先づ我々の研究から遠くに推し退けられておかねばならぬ。存在としての歴史を何よりもその存在に於て問ふといふことが大切である。
歴史はその存在に於て何であらうか。この問に對して我々は、歴史はその存在に於て現實存在である、と答へる。この答は一見あまりに平凡であり、陳腐である。歴史的なものが現實的なものであるといふことは、殆ど凡ての場合に認められたことであると云つてよい。歴史を輕蔑した十八世紀の哲學者たちに於てさうであつた。彼等は恰も歴史を現實的なものと見做したが故に、法則、恆常的なもの、一般的なものを探求する哲學者にはふさはしからぬものとして、それを輕蔑したのであつた。史的唯物論の立場に立つ者が歴史を現實的なものと考へることは云ふまでもなく、その歴史的諸著作に於て歴史の行程に對するイデーの影響を高調したランケも、「單にイデーが獨立なる生命をもち、凡ての人間は自己をイデーをもつて充す單なる影または幻である」、かのやうに見るヘーゲル學派の見解に反對し、歴史の指導的イデーといふものを、「各々の世紀に於ける支配的なる傾向」として解釋し、規定したのである*。かくの如く、歴史は現實的な或るもの、少くともその本性に於て現實的なものとの必然的なつながりを含む或るものとして理解されるのがつねである。そこで歴史學はまた時に「現實科學」Wirklichkeitswissenschaft とも稱せられる(ジンメル)。歴史と現實といふことがこのやうに一緒に語られざるを得ないものであるにしても、所謂現實とはその存在に於て何であるか、といふことにして明瞭に規定されない限り、そのこともなほ殆ど全く何事も語つてゐないに等しい。現實的なものとは感性的なものである、と無雜作に云つてしまへば、ヘーゲルは反對に「唯イデーのみが現實的である」と主張するであらう。それ故に、歴史はその存在に於て現實存在であるといふ我々の命題は、答であると同時に問の意味を負はされなければならない。現實存在とは何であるかを根本的に解明し、そしてそこから存在としての歴史の諸規定を統一的に、原理的に展開するといふことが我々に對して要求されてゐるのである。
* Vgl. Leopold v. Ranke, Ueber die Epochen der neueren Geschichte, M
nchen und Leipzig, 1921, S. 18.

* 拙稿「辯證法の存在論的解明」、國際ヘーゲル聯盟日本版『ヘーゲルとヘーゲル主義』〔全集第四卷收録〕參照。
* Hegel, Encyclopaedie § 145 Zusatz. 哲學の歴史に通じてゐる者は、ヘーゲルがその論理學に於て如何に多くの場合從來の存在論の諸規定を踏襲し、新しい解釋を賦與しつつ、彼自身の立場に於て統一したかを知つてゐる。この態度は學ばれなければならぬ。
第一、自己の存在の根據を自己自身のうちにでなく、却て他のもののうちに有するものは、存在することも存在せぬことも可能であると見られ得る。その限りに於て偶然的なものは、トレンデレンブルクの定義した如く、「在らぬことの出來るもの」quod potest non esse である*。然しながら在らぬことの出來るものと云つても、決してそれが現實に存在しないといふことでない。寧ろ正反對に、偶然的と呼ばれるものは凡ての場合に於て既に現實に現はれてゐるものなのである。既にそこにあるのでないものは、もともと偶然的とは云はれない。この特殊な「既に」が凡ての偶然的なものを性格付けてゐる。それは何等かの既にそこにあるものである。それは恰も現實的なものとして「現に」そこにあるのであるが、この「現に」といふことが眞の「現在」を意味するのでなく、却て「既に」の意味を擔つてゐるところに、偶然性をその根本的規定とする現實存在の特性があるのである。このことは、「現にある」が「今ある」と言ひ換へられる場合に於ても、何等變りはない。「今」は決して眞の「現在」でなく、「既に」の意味を含む「現に」といふことである。かくして現實的なものに就いては、いはばその現存在が同時に既存在の意味を含んでゐるのである。固より、前に述べた如く、偶然的なものは在ることも在らぬことも可能であると考へられる故に、その限りに於て我々は、ローゼンクランツに從ひ、「偶然とは單に可能性の價値を有する現實である」、と云ふことも出來よう。然し偶然的なものは單に可能的でなく、どこまでも現實的である。どこまでも現實的であるものが單に可能性の價値を有するに過ぎないのは、その現實性が眞の現在でなく、「既に」といふことであるからでなければならない。かくの如き存在に對して、それから區別せられる存在の根據は眞の意味に於ける現在として區別せられるのでなければならぬ。ところで我々は事實としての歴史をかかる「現在」として規定した。歴史はその存在に於て現實存在であると云はれるとき、それに於ては存在と存在の根據とが二つでなければならないが、このとき存在の根據と見らるべきものは眞の現在たる事實としての歴史である。
* A. Trendelenburg, Logische Untersuchungen 1870,
, S. 218.

* Vgl. W. Windelband, Die Lehren vom Zufall 1870, S. 74. なほジンメルが現存在の自然法則的決定性の限界に就いて論じてゐるのを參照せよ。G. Simmel, Die Probleme der Geschichtsphilosophie 1922, SS. 130, 131. ジンメルに從へば、世界の現存すること、そしてそれがもともと一定の形態を有するものとして現存すること、否、自然法則の「現存」Existenz といふことでさへも、「或る單に現實的なもの、法則からは理解され得ぬものであり、寧ろ一の歴史的事實」である。我々のいふ「既に」がそれの現存を性格付けるであらう。然るに現存の問題、所謂事實の確定の問題が歴史家にとつてはどこまでも第一次的な問題である。
さて以上の敍述が歴史の考察にとつて何か縁遠いことであるかの如き外觀を惹き起さないために、我々はここに一二の現實的な問題の研究を試みよう。歴史的なものは一般に状況に於てあるものと云はれ得る。歴史的なものは單に大抵の場合或る状況に於てあるといふのでなく、このやうに状況に於てあることは歴史的なものにとつて構成的な意味をもつてゐる。數學的存在は本來状況性を擔ふものとは考へられない。凡そ本質もしくは本質存在なるものは状況性を有しないか、もし状況性を有するとしても状況性はそのものにとつて構成的であるとは考へられないのである。我々の普通見る赤は赤旗の赤、また赤い部屋の赤である。然し赤の本質、赤の自體にとつては旗とか部屋とかは單に附帶的なものと見做される。從つて色の本質の研究に於てはこのやうなものは括弧に入れられ、かくて色の幾何學として「色の空間」Farbenraum の理論(マイノング)も考へられ得る。然るに歴史的なものはその本性上かくの如きいはば純粹な存在ではなく、却つてつねに一定の状況に於てあるといふことをその最も根本的な規定として含んでゐる。状況性はそれにとつて構成的な範疇のひとつである。何等かの状況のうちにないものは歴史的とは云はれない。状況性は存在の歴史性の基本的なもののひとつである。ところで歴史學に於てはこのやうな状況は一般に「ミリュウ」(環境)milieu なる名稱をもつて知られてゐる。凡て歴史的なものはつねに或る環境に於てあるのである。
ミリュウの概念及びその理論は特にフランスの學者によつて有名にされた。就中テエヌがその『英文學史』の序に於て、歴史的研究の方法を規定しつつ、歴史を作るに與る三つの主要な力として人種 race、環境 milieu 及び時代 moment を擧げたことは著名である*。それらのものは、内部の彈力、外部からの壓力及び既に習得された動力を意味し、歴史の實存的な原因であるばかりでなく、それの運動の可能なるすべての原因であると考へられた。テエヌは環境の理論に就いて、或はボダン、モンテスキュウに於て、或はコントに於てその先蹤者をもつてゐる。イギリスでは既にベーコンがこの思想を唱へた。もともと、地理的状況、土壤の性状、氣候等のものがその地方の住民の性質に影響を及ぼすといふ發見は極めて古く、ヒポクラテスは夙に樣々な觀察を基礎とし多くの實例をもつてそのことを示してゐる。ドイツに於てヘルダーは單に諸民族の存在ばかりでなく、またその思惟、活動、即ち歴史は、その状況、その物理的環境に依存するといふことを詳細に論述した。彼の古典的な著作の冒頭には次の如く書かれてゐる、「人類歴史に就いての我々の哲學は、それがいはばこの名に値すべきであるならば、天體から始めなければならない**。」なぜなら我々の歴史の行はれる地球は「諸々の星のうちに於ける一つの星」であるからである。ヘルダーの思想はカール・リッターによつて科學的に展開され、フリードリヒ・ラッツェルに至つて所謂「人文地理學」Anthropogeographie として發展させられた。このものは人間を、「彼が地球の空間的諸關係に依存しもしくは影響される限りに於て」、地理學の對象の中に引き入れる。そしてラッツェルは「宗教、科學及び詩は大部分人間の精神に於て反射された自然の諸反映である***」とまで云つてゐる。
* H. Taine, Histoire de la litt
rature anglaise.

** Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit.
*** F. Ratzel, Anthropogeographie oder Grundz
ge der Anwendung der Erdkunde auf die Geschichte,
. Teil, zweite Auflage, S. 21.



* H. Taine, Philosophie de l'art,
, p. 8.

** Vgl. E. Bernheim, Lehrbuch der historischen Methode und der Geschichtsphilosophie 1914, S. 634 u. S. 677 ff. フランスの學者は「自然的環境」milieu naturel と「人爲的環境」milieu artificiel との區別を立ててゐる。P. Lafargue, Le mat
rialisme
conomique de Charles Marx. Ch. Seignobos, La m
thode historique appliqu
e aux sciences sociales. 等參照。




*** Henri Berr, La synth
se en histoire, p. 215.


* E. Durkheim, Les r
gles de la m
thode sociologique, p. 138.


第二、もとミリュウ milieu といふ語は「中央」を意味し、そこからこのものの「周圍」を意味する。何物かが中央となるのでなければ環境なるものもあり得ない。このとき中央にあるものとは如何なるものであらうか。もしこのものにして限定されないならば何が環境であるかも規定されない筈である。中央にあるものとは、純經濟過程、純法律過程、などいふやうな何等か「純粹なもの」であらうか。よしそのやうに純粹なものを抽象して考へることが可能であり、また一定の學問上の目的から必要であるとしても、かかるものはもはや現實的に歴史的なものではない故に、そこに於ては環境に就いて語ることは無意味にされてをり、否、環境的要素との絶縁といふことこそかかる學問的抽象の目的であるのである。現實の歴史に於ては寧ろ、法律、政治、宗教等の諸々の文化は相互に作用し合ひ一の作用聯關を形作つてゐると見られねばならぬであらう。この場合、例へば文學史を書く者がその認識目的の上から文學を中心としてそれ以外の文化的諸要素をそれに對する環境と見做すことが出來る。然しながら實際に於て環境の概念は單にこのやうな科學的概念構成に於て初めて作られたとは見られない現實的な意味をもつてゐる。そこで環境に對して中央にあるものとは「働くもの」と考へられないであらうか。この説明は尤もらしく見える。人間は働くものであり、彼等の周圍の自然は彼等によつて働きかけられるものとして環境といはれるやうである。然るに思想の歴史に於ては寧ろ反對に、環境理論は人間が自然によつて働きかけられるといふこと、從つて環境は働きかけるものであるといふことを主張することによつて發展したのである。もちろん自然の人間に及ぼす影響の重大性を説くラッツェルなどの人文地理學が一面的であることは免れないのであつて、これに對して、フランスの人文地理學 g

* 拙著『史的觀念論の諸問題』五九頁以下〔全集第二卷收録〕參照。
右の如くにして我々は環境の概念が根源的には事實としての歴史、即ち存在としての歴史の存在の根據の基礎の上に於て成立することを明かにした。そして事實としての歴史の見地からすれば、單に外的自然ばかりでなく、人間によつて作られた凡てのもの、ひとり他の人間によつてのみならず自分自身によつて作られたものでさへが環境の意味を含んでゐる。實際、普通なされる如く、自然的環境のほかに社會的環境などいふものが數へられるとすれば、いつたい環境であり得ないやうな如何なる「存在」があらう。如何にしても環境とは考へられぬものは唯「事實」のみである。それ故に單に存在としての歴史、從つてこのものに結び付くところの歴史敍述の立場に於ては、環境の概念は寧ろ無用であるとも云はれよう。ベルンハイムは環境といふ語を避け、歴史の「要素」として、自然的要素、心理的要素――これはもちろん我々の謂ふ事實としての歴史のことではない――及び文化的要素の三つを擧げてゐる。このとき人間と自然、或は社會と自然とを對立せしめ――兩者は存在の領域としては區別される――、人間に對して自然を環境と見做すことが、なほ有意味且つ必要であるとしても、重要なのは、マルクスの考へた如く、この對立が一の辯證法的な對立であり、從つて辯證法的な統一をなし、かくて人間と自然との相互作用の過程は全體として一の「自己變化」Selbstver

* 拙譯『ドイッチェ・イデオロギー』岩波文庫舊版三二頁參照。同書五四頁に我々は次の文章を讀む、「大評判の『人間と自然との統一』なるものは産業に於て既に以前から成立してをり、しかも各々の時代に於て産業の發達の大小に應じて異つた程度で成立してゐた、同じやうに、人間の生産力がそれに適應せる基礎の上に發達するに至るまでは、人間と自然との『鬪爭』もまたそのやうであつた。」
單に環境といはず、一般に存在としての歴史は、それ自身として見られる限り、云ふまでもなく、因果必然性の連鎖のうちに立つてゐる。從つて存在としての歴史を直接の對象とする歴史學にとつては、先づこのものの因果的認識が必要である。歴史學は決して因果的認識を全く排斥するのでなく、却てそれを缺くべからざる條件とする。因果的認識によつて初めて、それは或る歴史的なものが存在しなければならぬ必然性を把握することが出來る。因果法則に合致しない何物かが見出される場合、歴史家がそれの歴史的眞理を否定するといふことは當然である。然しながら我々は、歴史的認識が因果的認識以上の或るものであることを、多くの勝れた歴史家たち及び歴史理論家たちの認めたのを知つてゐる。因果的認識は眞の歴史的認識にとつて缺くべからざる條件であるとしても、終局的なものでない。因果的必然性は眞の歴史的必然性に對する條件であるけれども、そこにはなほ高次の必然性ともいふべきものが考へられねばならぬ。それによつて眞の歴史的認識が成立する高次の必然性とは如何なるものであらうか。これ即ち、全體と部分との關係に於て規定される必然性にほかならない。それぞれの特殊な出來事、特殊な段階は、それが全體の部分として全體に對する内面的な關係の明かにされることによつて初めて、その眞の歴史的必然性に於て理解されるのである。眞の歴史的必然性は、或るものが抽象的な法則的普遍によつて規定されてゐるところにではなく、寧ろそれが具體的な全體的普遍によつて生かされ、かかる全體をつねに自己のうちに寫し出してゐるところにある。然るにこのやうな、部分の全體に對する關係は、實に「意味」Bedeutung の範疇を基礎付ける。歴史の最も重要な範疇の一なる意味の範疇は、ディルタイの述べた如く、一般に、部分の全體に對する關係のうちに横たはつてゐるのである*。歴史的なものは凡て有意味的 bedeutsam である。歴史的認識はその本性に於て事物の有意味性からの認識である。けれどもこれらのことを哲學的に把握するためには、次のことどもが明瞭にされなければならぬと思ふ。
* Vgl. W. Dilthey, Gesammelte Schriften,
. Band, S. 232 ff.

なほ事實としての歴史と存在としての歴史との關係に就いて起り易い誤解を防ぐために、我々は更に詳しくこの關係を規定しておかう。この場合多くの者は恐らくそれを内的なものと外的なものとの關係と見るであらう。かくの如く見ることが或る正しいものを現はしてゐるとしても、そのことがまた種々なる危險を伴ひ易いことも注意されねばならぬ。普通理解されるところでは、外的なものとは感官に落ちて來る sinnf

一、體驗と云はれるとき、それは意識を意味する。然らばこの意識の内容をなすものは如何なるものであらうか。それは何等かの存在であると答へられるかも知れない。けれどもそれが特に體驗と名付けられる限り、それは單に「對象的な」意識でなく、寧ろ主觀的に色どられ、それのうちには主觀的なものがにじみ出てゐると考へられてゐる筈である。換言すれば體驗は感情的なもの、氣分的なものを含む。このことは根本的には、體驗といふものが單にいはば前面に於て客體的な存在によつて規定されるばかりでなく、背後に於て主體的な事實によつて規定されてゐることを意味するのでなければならぬ。かかる關係は就中創造の體驗、或はまた運命の感情に於て顯はにされて與へられるであらう。これらのものは、我々の意識には存在ならぬ事實によつて規定される方面のあることを認めるのでなければ、十分に理解されない。それは一般に「無」の體驗と云はれるであらうが、さうかと云つてそこに何物も無く、空無であるのではない。無の體驗とも考へられる創造の體驗は却て最も積極的なものを孕む。ハイデッガーは無を現存在の有限性から解釋した*。これによつて運命などいはれるもの、即ち事實としての歴史の含む否定的契機、の體驗は説明されるにしても、同じく無の體驗と呼ばれ得るところの創造などいふもの、即ち事實としての歴史の含む肯定的契機の體驗は説明されない。無は單に意識に過ぎないのではない。事實が存在に對して無と云はれるのである。事實は意識でなく、却て意識を規定し、自己をそのうちに表出するものである。ところでヘーゲルの考へた如く、有と無との對立及び統一が辯證法の根本であるとするならば、存在と事實とはかかる意味に於て辯證法的關係をなしてゐる。然しこのことは後に讓らう。
* Vgl. M. Heidegger, Was ist Metaphysik? 1929.
三、事實としての歴史を體驗と云ふとき、この體驗が自己を表現する場合、何故に必ずつねに自己を自然の存在、及び、過去並に現代の歴史的なものに結び付けねばならぬかの必然性は理解されない。體驗と表現といふ關係は全く自己充足的な過程と見られることが可能である。然るに實際に於ては、現在の體驗はその表現にあたつて必ずつねに自己を既にそこにあるものに結び付ける。どのやうな根源的な體驗内容と雖も自己を表現するに際し、先づ歴史に於て既に與へられた形式の或るものを取つて來なければならぬ。それは固よりそれ自身の形式を自己のうちに含んでゐるのであるけれども、先づ自己を歴史のうちに既にある何等かのものに結び付けることなくしては、それはかかる自己に内在的な形式をも發展させることも出來ないのである。人間は絶えず歴史に學ぶ。それ故に何等かの模範的なもの、「古典的なもの」をつねに有するといふことは歴史の根本的な規定の一つであり、「古典的なもの」といふのは存在の歴史性を表はす一の範疇的なものと見られ得る。然るにかくの如く現在の行爲(認識の活動、藝術的制作等を含めて)が必然的に他の既にそこにあるものに自己を結び付けるといふことは、もし事實にして純粹意志などいふが如きものであるとするならば、説明されないであらう。そのためには事實そのものが否定的なものを自己の契機とすると考へられねばならぬ。事實は否定的なものを含む故に、自己を實現するに際して過去の歴史に結び付かざるを得ないのである。かくすることによつて事實も自己を生かし、自己を發展せしめ得る。然しながら同時に過去の歴史は事實を制限し、抑壓するものでもある。「我々は凡て過去によつて生き、そして過去に於て滅ぶ」Wir alle leben vom Vergangenen und gehen am Vergangenen zu Grunde. とゲーテが書いてゐる。
一般に次の如く云はれ得よう。存在としての歴史と事實としての歴史との對立は存在と存在の根據との對立である。しかも兩者は、存在と存在の根據として互に相俟ち、對立でありながら統一である。如何なる現實的なものもその現實存在と現實存在の理由との二つの契機を含む統一である。かかる對立に於ける統一、統一に於ける對立は辯證法的として規定される。從つて一切の現實的なものは辯證法的である。事實としての歴史は自己の對立物たる存在としての歴史に於て自己を實現する。この場合それは過去の存在としての歴史に結び付くことを通じて自己の存在を規定する。これらのことなしにはそれはみづからを發展せしめ得ない。その限りに於て存在としての歴史は事實としての歴史の發展形式である。然し存在としての歴史はどこまでも事實としての歴史の對立物であり、前者はやがて後者に對する桎梏に轉化する。かくて一切の現實的なものは矛盾に陷るべき運命を有する。事實としての歴史はそのとき舊き存在形式を破壞し、新たなる存在形式へと發展する。ニイチェが、「現存在はただ一の間斷なき既存在である、自己自身を否定し、食ひ盡し、自己自身に矛盾することによつて生きる物である。」Dasein ist nur ein ununterbrochnes Gewesensein, ein Ding, das davon lebt, sich selbst zu verneinen und zu verzehren, sich selbst zu widersprechen. と記してゐるのは、かくの如き消息を傳へるであらう。辯證法は存在の歴史性に對する最も根本的な且つ最も包括的な表現である。ところでここに一の原理的な命題がある。――存在と存在の根據との間に於ける辯證法的關係は存在そのもののうちに現はれる辯證法的關係の基礎である。存在としての歴史そのもののうちには辯證法的關係が見出されるのであるが、かやうな辯證法的關係の根柢となつてそれを現出せしめるものは、もともと事實としての歴史と存在としての歴史との間に於ける辯證法的關係である。これは後の章に於て示さるべき根本命題である、その準備の意味をも含め、今はこれまで述べて來たこととの聯關に於て次のことを記すにとどめよう。
第一、事實としての歴史に就いて云へば、それが原理的な根源性をもつてゐる。それは存在に對して自己が存在の根據であるといふ意味に於て既に根源的であるばかりでなく、他の意味に於てもまた根源的である。即ち存在としての歴史は事實としての歴史に對立し、これに働きかけ、これを壓迫する性質を有する、けれども後者は、前者によつてどれほど抑壓されようとも、そのために決して馴らされてしまひ、萎えさせられてしまふことのない原始的なものである。辯證法的に矛盾するものは、いはば同等の力をもつて對立するのでなく、かく矛盾するものの一方が究極的な根源性を有するが故に、そこに辯證法的發展なるものもあり得るのである。唯物史觀に於て生産力と生産關係とが辯證法的な關係をなすと云はれるとき、生産力に就いてかくの如き根源性が認められてゐるのである。しかも生産力は生産關係の存在に對する存在の根據と見られてかかる根源性を有するのである。
第二、存在としての歴史と事實としての歴史との關係は「有」と「無」との關係として一般に規定され得る。前者が後者に對して有として性格付けられるのは、如何なる存在も「形態」あるものであり、「範疇」のうちに現はれたものであるからである。このやうなものに對する關係に於ては、事實は寧ろ無と呼ばれるにふさはしい性格を具へてゐる。それが無と稱せられるにしても、もちろんそれが空無であるといふのではない。それは却て根源的なものとしてあるのであるけれども、それを名付けるためには我々は存在の言葉によるのほかないのであつて、それ自身に於ては無と云はれるのみである。丁度生産關係の言葉が「經濟的範疇」であるに對して、生産力を現實的に表はす言葉はなく、それを現實的に表はさうとすれば生産關係の言葉を通ずるのほかないのと同樣である。そこからして我々は、ヘーゲルに倣つて、辯證法の一般的なものは有と無との辯證法であるとも云ひ得るであらう。否、ヘーゲルのいふ有と無との辯證法は、我々の如く、存在と存在の根據との辯證法と解するとき、初めて現實的に成立するのである。この場合無の根源性が認めらるべきは當然である。
第三、存在としての歴史に就いて云へば、それは固より事實としての歴史をその存在の根據とするけれども、しかもそれ自身の論理と法則性とを有する。もしそれがそれ自身の論理と法則性とをもたなかつたとしたならば、如何にしてそれは、根源的な勢力であるところの事實としての歴史に對して眞面目な對立物として、これに影響を及ぼすことが出來よう。從つて存在としての歴史は事實としての歴史の單なる「反映」であるとか、「表現」に過ぎぬとかと考へられ得ない或るものである。生産關係は自己自身の含む必然性に從つてみづから發展せんとする内面的な傾向を有すればこそ、生産力に對して矛盾するものともなるのである。一般にこのやうな關係があればこそ、科學に於て敍述されるものが「諸範疇の轉化」でもあり得るのである。例へばマルクスの『資本』に於て敍述されてゐるのは經濟的諸範疇、即ち生産關係を表はす諸概念、の轉化である。――科學の直接の對象となるのは一般に「存在」である。――そのとき諸範疇は恰も自己自身の含む矛盾によつてそれ自身だけで發展するかのやうに現はれる。然し諸範疇のこのやうな轉化も、根源的に見れば、我々が後に詳説すべき根本命題として掲げておいたものに從つて、本來存在と存在の根據との辯證法にもとづく。經濟的諸範疇の自己變化として現はれるものは、もともと生産力と生産關係との辯證法に由來するのである。
さてジンメルは『現代文化の葛藤』に就いて論ずるに際し、次の如く云ふ。「生が單に動物的なものを越えて精神の段階に進み、そして精神がそれ自身文化の段階に進むや否や、生のうちに於てひとつの内的な對立が顯はになる、この對立の發展、調停、新たなる生成が文化の全體の道を形作つてゐる。即ち明かに我々は、生の創造的な運動が或る生産物を作り出し、それらのものに於てこの運動が自己の表現、自己の實現の諸形式を見出し、そしてそれらのものがそれ自身また後に來る生の潮を自己のうちに受け入れ、これに内容と形式、活動範圍と秩序とを與へるとき、文化に就いて語る、社會制度、藝術作品、宗教、科學的認識、技術、市民的法律及び無數の他のものはかくの如きものである。然るにこれら生の過程の生産物は、それがその生成の瞬間に於て既に自己自身の確固たる存立性をもち、この存立性たるや、生そのものの休み無き律動、その生起と沒落、その絶えざる更新、その不斷の分裂と再結合とはもはや何等關係するところがない、特有なものをもつてゐる。それは、それを再び見棄て去るところの創造的な生の殼であり、そして遂にはそのうちにもはや宿を借りないところの後から流れて來る生の殼である。それは、それを創造した生の運動に對する或る種の分離と獨立とに於て、それ自身の論理と法則性、それ自身の意味と抵抗力とを示してゐる。この創造の瞬間に於てはそれは恐らく生に相應してゐるであらう、然し生が更に發展する程度に應じてそれは生に對する凝固した無關聯、實に對立性に陷るのをつねとする。ところでここに文化が歴史を有するといふことの究極の根源が存してゐる*。」また彼は云ふ。「生は唯自己の反對物の形式に於てのみ、換言すれば、一の形式に於てのみ現實のうちに現はれるといふことと離れ難く結び付いてゐる。この矛盾は、我々が唯生そのものと呼び得るのみなるかの内面性が、その造形されぬ強さに於て自己を主張する程度に應じて、他方では形式がその凝固せる自己存立性、その時效にかかることなき權利の要求に於て自己を我々の生存の本來の意味もしくは價値として告知する程度に應じて、それ故に恐らく文化の生長した程度に應じて、愈々激しくなり、調和し難く見えるのである**。」
* G. Simmel, Der Konflikt der modernen Kultur 1921, S. 3. なほ同じく Simmel, Die Transzendenz des Lebens in der ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、100-1]Lebensanschauung“1918. を參照せよ。
** Op. cit., S. 28.

* 私はこのやうな關係を嘗て「生の歴史性」及び「歴史の生命性」といふ語で表はした。拙著『社會科學の豫備概念』一三三頁〔全集第三卷二九一頁〕以下參照。
** Hegel, Philosophie der Geschichte, Hrsg. v. Lasson, S. 10 ff.
歴史の概念は就中發展の概念と最も一般的に且つ最も根源的に結び付いてゐる。このことはジイベル、ドロイセンを始め、ベルンハイム、ベロウに至るまで、殆ど凡ての人々によつて認められ、明らさまに言ひ表はされたところである。種々なる説明の仕方のうちここに一例を擧げてみよう。クセノポルは現象の二つの種類を區別し、一方を「共在的現象」ph







* A. D. X
nopol, La th
orie de l'histoire.


** J. G. Droysen, Natur und Geschichte, Beilage zum ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、103-4]Grundriss der Historik.“
* H. Rickert, Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung 1921, S. 301.
* F. Ratzel, Raum und Zeit in Geographie und Geologie 1907, S. 53.
** 拙著『社會科學の豫備概念』一〇一―一一三頁〔全集第三卷二五九―二六一頁〕に就きリッカートの歴史哲學に對する批評を見よ。
* Hegel, Wissenschaft der Logik, WW.
, SS. 67, 68, 69.

今日なほ廣く行はれるのは有機的發展の思想である。この思想は甚だ支配的であつて、發展と云へば、意識的または無意識的につねに有機的發展のことが理解されてゐるほどである。辯證法的發展に就いて語られる場合でさへ、それは元來有機的發展に對立すべきであるに拘らず、なほその中へこの思想の或るものが忍び込んでゐることも決して稀ではないのである。有機的發展の思想は、周知の如く、歴史學及び歴史哲學の内部に於ても非常な勢力を占めてゐる。このことは、一面、發展の概念が近代に於て、生物學上の進化學説の影響のもとに社會及び歴史に關する考察のうちへ導き入れられたといふことにも關係する。然しながらそれは何よりも、他方に於て、發展の思想がロマンティク時代の哲學及び文化によつて豐富にされ、且つ普遍化されるに至り、そしてこのとき發展は恰も有機的發展のことであつたといふ事情にもとづくのである。「ロマンティク期に於ては、發展の概念はもはや孤獨な、聞く者なき哲學者の思想たるにとどまらず、一般的な確信にまで擴げられた。それはもはやこつそりと暗示されて、或は文化の他の諸契機との矛盾に於て現はれたのでなく、その形、連繋、力、優勢なる支配を獲得した。」(クロオチェ)。このやうな影響は今日に至るまで持續し、かくて發展といへば直ちに何等かの有機的發展と同一視されるといふ有樣である。然るに既にここに二重の影響の根源が指摘された如く、有機的發展の思想と云はれるものにも樣々な傾向があり、極めて多彩なる形態が含まれる。それ故に我々は先づ一般に有機的として特徴付けられ得る發展の思想の種々なる方向を區別し、次にそれらに共通の前提及び基礎を檢討することにより、これとの對立に於て我々の見解を明瞭ならしめることに努めなければならぬ。
その第一の方向を我々は古典的と名付けてよいであらう。運動及び發展に就いて述べた最初の偉大なる哲學者はアリストテレスであつたと云はれる。このアリストテレスは、「運動とは、可能性にあるものの、かかるものである限りに於ける、現實性である*」※[#有気記号付きη、U+1F21、110-13] το※[#曲アクセント付きυ、U+1FE6、110-13] δυν









* Physica Γ. c. 1, 201a 10f.
** De anima B. 1, 2.
*** 拙稿「アリストテレス」、岩波講座『世界思潮』、〔全集第九卷收録〕參照。
**** Droysen, Grundriss der Historik 1875, S. 69.
* Vgl. E. Troeltsch, ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、116-3]Die deutsche historische Schule,“ Die Dioskuren, Erster Band 1922.
* H. Spencer, The Principles of Sociology,
, p. 462.

** H. Driesch, Logische Studien
ber Entwicklung 1918, S. 5.

我々は今やかくの如き種々なる形態に於ける有機的發展の思想の根本構造を探り出さなければならない。そのためには我々はそれらの種々なる思想をその前提に於て且つその歸結に於て捉へることが必要である。
一、有機的發展の思想は根源的には一の自然概念である。このことはここに繰り返すまでもなく右の敍述を顧みるときおのづから明瞭であらう。それは本來一の自然概念であるから、その基礎の上では固有なる意味に於ける歴史的發展の概念は成立つことが出來ない。そこでは寧ろ自然と歴史とは連續的或は統一的に把握され、歴史も何等かの自然的なもの、自然のひとつの高き段階と見られ、價値評價の方面に於ても、原生的なもの、自然生長的なものほど純粹に歴史的なものとしてより高く評價される。然しながら自然と歴史或は自然と人間――なぜなら人間の存在が自然に對し固有なる意味に於ける歴史の領域の中心をなしてゐる――との間には非連續性または對立性がある。固より兩者の間には連續的または統一的の側面もある。自然と歴史とのこのやうに連續的であると同時に對立的な關係は有機的發展の概念をもつては基礎付けられず、これを基礎付け得るものはただ辯證法のみである。尤も自然と云つても多義である。今の場合この概念の最も特徴的な意味が何であるかは次第に明瞭にならう。
二、有機的發展の思想は根本的には人間に於ける觀想的態度と連繋してゐる。この思想の古典的な代表者アリストテレスの哲學がかかる觀想的な世界觀の模範的な表現であつたことは、他の機會に説明しておいた通りである。ひとがブルノーやゲーテの如き詩人的哲學者乃至哲學者的詩人に於て有機體説の最も鮮かな表現に出會ふのも偶然ではなからう。かく有機體説が觀想的態度と結び付くところから、その基礎の上に於ては屡々歴史は藝術作品の如く見られ、歴史學もまた藝術と内面的な關係におかれるといふことがある。シェリングは歴史を汚れたる手の觸れるに堪へぬ「神的悟性の永遠なる詩」であると考へた。そして彼によれば、歴史學の絶對的な立場は「歴史的藝術」の立場である。蓋し眞の歴史學は與へられたもの、現實的なものと觀念的なものとの綜合の上に立つ。けれどもそれは哲學によつてではない、哲學は寧ろ現實を止揚して全然觀念的である。然るに歴史學は全く現實のうちにあり、しかも同時に觀念的であるべきである。このことは藝術に於てのほか何處に於ても可能でない、藝術は現實的なものを、舞臺が諸々の實在の事件或は歴史をそのままに存立させ、然し一の完結態と統一態とに於て表現し、これによつてそれらが最高の諸觀念の表現となる如く、全くそのままに存立させる。それ故に實に藝術によつて歴史學は、現實的なものそのものに就いての學でありながら、同時に現實的なものを越えて學の位する觀念的なもののより高い領域にまで引き上げられるのである。歴史學の對象は「自由の客觀的有機體」即ち國家の形成であるとせられ、國家は「藝術作品」として現はされねばならぬとせられる。またシェリングは、歴史は全體として敍事詩の樣式に從つて考察されねばならぬとも、或は歴史的文體の第一の原型は原始的な形に於ける敍事詩、及び悲劇であるとも云つてゐる*。同じ線に沿うて、我々は例へばブルックハルトが、科學者として一層實證的な立場に立ちつつ、然し同樣の美的歴史觀を次の如くあからさまに述べてゐるのを見出すであらう。「ひとつの形象を私の内部から紙の上に持ち出せないやうな場合には」、「私が直觀から出立し得ない場合には、私は何事も爲遂げることが出來ない。」「私が歴史的に組立てるものは、批評や思辨の結果でなく、直觀の間隙を充さうとする想像の結果である。歴史は私にとつてなほつねに大部分詩である、それは私にとつて一列の最も美しい繪畫的構圖である。――私の全歴史研究は、私の風景スケッチ及び私の美術研究と同じやうに、直觀に對する甚大な渇望から生れた。」ところで美的觀想的な態度にとつて内容となるのは主として類型的なもの、個性的なものであつて、法則ではあり得ない。逆に云へば、歴史的研究の目的を何等かの法則でなく類型的なもの或は個性的なものの認識におく思想の根柢には、有機體説が、そして美的觀想的な態度が含まれるのがつねである。然しながら、かやうな觀想的な態度は究極に於て發展の思想と相容れぬものをもつてゐるやうに思はれる。觀想の要求するものは特に形象である。光に輝ける形象は然るに直觀にとつて既に或る過去の意味を擔ふ形象、眞の現在の否定より生れる形象である。直觀が眞の現在に對して否定的であるのは、いづれの現在も完了されぬ生成であり、それが直觀の要求する如き形象を與へぬためである。唯完了的なもののみが形象となる。それ故に過去の歴史は觀想にとつて好ましき對象をなすであらう。けれどもかくの如く觀想は時間の主要契機なる現在を否定するところから、それにとつて發展といふことは眞に現實的な意味をもつことが出來ない。眞の歴史は過去の意味を有する歴史でなく、現在の歴史であり、このものは事實としての歴史として一切の歴史的發展の根源である。然るにブルックハルトの如きは却て時間的な見方をこそ排斥したのである。曰く、「時間的にやつてゆく歴史哲學は――相繼起した諸時代及び諸民族の間に於ける諸々の對立に寧ろ重きをおき、我々は諸々の同一と類似とに寧ろ重きをおく。彼處では他のものと成ることが寧ろ問題であり、此處では相似て在ることが問題である。」「歴史哲學者は過去のものを我々發展したものに對する對立及び前階として觀察する。――我々は繰り返すもの、恒常なもの、類型的なものを觀察する**。」然しこのやうな觀察の仕方が歴史をまた何等かの自然的なものと見る結果になることは爭はれない。時間的ならぬ如何なる歴史的なものもなく、繰り返すものは寧ろ自然である。いづれにせよ、有機的發展の形式によつては本來の意味に於ける時間、發展、歴史などいふものは考へられ得ない。これらのものは根本的には實踐的態度と結び付いてゐる辯證法的發展の論理の基礎の上に於てのみ十分に理解されることが出來る。
* Schelling, Vorlesungen
ber die Methode des akademischen Studiums, WW.
5, S. 309ff.


** Jakob Burckhardt, Weltgeschichtliche Betrachtungen, SS. 4, 82.
* かくて例へばリッカートの如きも哲學の體系的編制の問題を論ずるに際し、觀想と活動なる見地を持ち出し、前者のうちに理論的觀想と美的觀想とを含ませて、道徳的行爲と解せられた後者に對置した。ついでながら、彼によれば、前者にあつては形式が内容を抱擁するに反して、後者に於ては形式が内容を貫徹する。即ち、理論と藝術とにあつては形式は共に「觀想的・抱擁的形式」kontemplativ-umschliessende Form であり、道徳に於ては形式は「活動的・貫徹的形式」aktiv-durchdringende Form である。Vgl. H. Rickert, System der Philosophie,
, 1921, S. 365ff.

四、有機體説の最も基本的な規定は、そこでは發展なるものが何等かの仕方で可能性と現實性との關係として理解されるといふことである。その意味に於てアリストテレスの哲學はこの場合つねに模範的である。例へば、シュペングラーの次の文章を讀め。「私はひとつの文化の理念、即ちそれの内的な可能性の總體を、成就された實現としての歴史の形象に於けるそれの感性的な現象から區別する。それは魂が生ける身體、即ち我々の眼の光の世界のまなかに於けるそれの表現に對する關係である。ひとつの文化の歴史はそれの可能的なるものの進み行く實現である。完成は終末と同意義である。」ひとはこの文章に於て種々なる相違にも拘らずなほ根本的にアリストテレス的な思想を認めることが出來よう。可能的なものと現實的なものとの關係は決して對立乃至矛盾の關係でなく、却て連續的な生成の關係である。表現、或る意味ではまた實現といふ語は兩者の間のこのやうな連續的な關係を表はすにふさはしい。有機體説はそれ故に一般的に表現の哲學として特色付けられ得る。かかるものとしてそれは或る美的なものの性格を帶びる。キェルケゴールはヘーゲルの辯證法をも美的な辯證法であると云つて非難してゐる。これはヘーゲルの哲學が究極に於てその存在と存在の根據との一つであるところの絶對者の哲學であつたのにもとづく。かやうな絶對者を考へなくとも、何等かのものの存在と存在の根據とが單に連續的と見られる場合には、兩者の關係は根本に於て可能的なものと現實的なものとの關係、從つて表現の關係として有機體説的に見られてゐるのである。然るに我々はさきに存在の根據の意味をもつ事實がその否定的契機として自然的なものを含み、無の性格を擔ひ、これに對し存在が形式もしくは範疇に現はれたものであると語つた。このことによつて我々自身また何等かアリストテレス的な考へ方をしてゐるのではないであらうか。アリストテレスは可能性を質料と、現實性を形相と見做した。然しながら我々のいふ事實は、就中、先づそれが主體的なものであつて客體的なものでないといふ點に於て、從つて次にそれが「既にそこにあるもの」※[#有気記号付きυ、U+1F51、129-14]ποκε※[#鋭アクセント付きι、U+1F77、129-14]μενον でなく、却て眞の現在的なものである點に於て、第三にそれの含む自然的なものは根源的な「否定」であつて、單なる「缺乏」στ


かくて要するに有機的發展の思想は存在の根據と存在、即ち事實としての歴史と存在としての歴史との關係が唯單に連續的、内在的にのみ把捉されるところに成立する。そこに於ても存在とは異る事實が或る仕方で認められてゐる。さうでない限り、そもそも發展に就いて語られはしないであらう。蓋し發展は單なる變化でなく、有意味的な變化である。如何に理論家がそれを排除しようとするにせよ、發展の概念が現實に於て或る有意味性を含むことは否定され得ない。然るに有意味性なるものは單に客體的な存在の範圍内に於ては考へられ得ず、主體的な事實との關係に於て初めて理解されることが出來る。苟も發展が考へられる限り、存在は單なる存在としてではなく、その根柢に於て事實につながるものとして把捉されてゐるのである。有機體説にあつては主體的なものと客體的なものとが唯單に連續的内在的に見られる。從つてそこでは自然の存在も純粹に存在としてではなく、寧ろ絶えず事實の意味に解釋されて受取られる。ここにこの自然概念の特徴が生ずる。それが運命的なものと考へられるのもこのためである、ひとはこの思想がシェリングやシュペングラー等に於ての如く特に運命の觀念と結び付くことを知つてゐる。然しまたそこでは事實も絶えず存在の意味に理解される。それだから自然と歴史との間の非連續性も認められることが出來ない。存在としての歴史が運命として受取られるのは、もと事實としての歴史のうちに運命的なものが含まれるためである。我々はかかる運命的なものを事實としての歴史の含む否定の契機と解した。我々はそれをば、自由を豫想しつつそれの否定としての必然的なもの、實踐を前提しつつそれの否定としての觀想的なものと考へた。これら凡てのことを想ひ合はせるならば、有機體説的傾向は事實としての歴史への或る一定の關係を含むことによつて成立するといふことが理解されよう。それは事實としての歴史と存在としての歴史との關係を唯單に連續的統一的に把捉する、――然し兩者の間には同時にまた非連續的な、超越的な關係が存することを我々は力説して來た、――前者が後者に結び付くのは前者のうちに含まれる自然もしくは否定の契機のためであるといふのが我々の意見であつた。そこで兩者の關係を連續的統一的に見る有機體説的傾向のうちには事實としての歴史の寧ろ否定的な方面が表出されるといふことにならう。
我々は發展が有意味的な變化であると云つたのであるから、ここに簡單にかの進歩の觀念に論及しておくのが適當であると思ふ。この觀念は變化が單なる變化でなく、價値の増大なることを表はす。然しこの觀念に於ける特殊なものは、そこではかかる價値の増大が直線的な向上として表象されるといふことである。從つて繼起及び連續といふことがそれの重要な概念内容をなしてゐる。「幾世紀の久しきに亙る人類の全繼續は、恒久に生存し不斷に習得する唯一人の人間の如く見られねばならぬ。」といふパスカルの句が進歩の思想のモットーとして引かれるのも、そこでは直線的な向上が考へられてゐるためである。それ故また進歩の觀念は舊きものを絶えず推し退けて行く新しきものの生成を意味し、かくてそこでは現在の歴史の過去の歴史に對する内面的な關係は顧みられない。然るにこのやうに直線的に進行する時間は、後に説く如く、事實から抽象される限りに於ける存在としての歴史の時間である故に、進歩の思想は事實を認めず寧ろ存在の立場に立ちとどまつてゐる。從つてそのとき價値の向上といふことも外面的に考へられるほかない。これら凡てのことを思想の歴史が示してゐる。即ち「進歩の觀念」id


いま存在としての歴史に目を放つとき、そこには發展があり、且つこのものは辯證法的發展と見られる。然るに一般に存在としての歴史は諸範疇に於て現はれるといふことを根本的な規定とする。ここに諸範疇と云つたものは、或は「諸關係」――マルクスは「資本は一の社會的な生産關係である」と云ひ、資本はまた一の「經濟的範疇」であるとも云はれる――、或はまた「諸形式」――例へばジンメルが文化を生に對して形式と呼ぶ場合――とも稱せられる。凡そ物が「現はれる」といふとき、物は必ず諸形式に於て、諸關係に於て、諸範疇に於て現はれるのである。そして「現はれる」といふことは、我々が存在としての歴史の根本的な性格として指摘したかの「既に」を意味するのである。眞の現在たる事實としての歴史はこれに反しそれ自身としてはもと「現はれる」ものと云はれない。それは「現象」でなく、寧ろ「實體」であると考へられる。けれどもそれは客體的なものでなく、却て「主體」である。然るに存在は現象としての性格を含み、存在に於て事實は自己を現はす。事實は意識のうちに自己を表出するばかりでなく、寧ろいはば意識せられるよりも先に存在となる。事實は意識に内在的でなく、却て意識を突き破るものである。存在は諸範疇に於て現はれ、そこでまた存在としての歴史の發展の過程は諸範疇の變化として現はれるであらう。辯證法的な科學の内容をなすのは諸範疇の變化の敍述といふことである。ヘーゲルの體系の如何なる部分もこのやうな諸範疇の變化として敍述された。ところでヘーゲルの主張に從へば、諸範疇の變化といふことは諸範疇の自己變化にほかならず、一の範疇が自己自身に内在する矛盾に追ひ立てられて他の範疇へ移行する過程である。彼のこの主張は、辯證法を承認する立場にある者が普通考へる如く、文字通りに承諾されねばならず、また承認され得るであらうか。
問題は、範疇の辯證法的運動の根源とせられ、且つ範疇そのものに内在するとせられる矛盾は如何にしてあり得るかといふことである。この問題に關して我々は、範疇がかかる矛盾をいはば自己自身の力によつて自己のうちに内在せしめるのであると考へることは出來ぬと思ふ。よし範疇にどのやうな力が賦與されてゐるにしても、從つてたとひ範疇が歴史を支配し、歴史を創造する力であるとしても、そのことは不可能でなければならぬ。その場合範疇のうちに含まれると稱せられる矛盾も、ほかならぬ範疇のうちに包まれてゐるのであるから、そのやうな矛盾は眞の矛盾であるとは考へられ得ない。蓋し範疇は或る形相的なもの、イデー的なものであり、かかるイデー的なものの基礎の上に於ては一般に矛盾なるものは成立し得ないからである。範疇はまた「形式」であるとも云はれる。尤も辯證法に於ては形式は單なる形式でない。そこでは範疇は單に形式でなく、また實質的な内容であり、云ふべくんば、存在論的意味のものである。もしさうだとすれば、範疇そのもののうちに内在すると稱せられる矛盾は、このやうな内容と形式との矛盾によつて、範疇のうちに内在せしめられるのでもあらうか。然しながら範疇形式と範疇内容とが互に矛盾するものとは考へられ得ない。一般に形式と内容とが區別される場合、兩者は眞の對立 Antithesis をなすのでなく、却て唯他立 Heterothesis の關係にあるのみである。從つてそこには、リッカートの説くやうに、辯證法はなく、寧ろ他立法があるばかりであらう。さうではなくて、もし形式と内容とが相矛盾するものなる場合があるべきであれば、そのとき内容と見られるのは所謂「範疇内容」の意味を超越する或るものでなければならない。これをしも内容と呼ぶことを欲するならば、それは範疇内容がいはば第二次の内容であるに對し、第一次の内容とも稱せらるべきである。辯證法にあつては内容と形式とは抽象的に區別されず、辯證法は内容の論理學と考へられるとき、ここにいふ第一次の内容なるものは、かかる意味の内容と形式とを共に超越するものでなければならぬ。それは、「内容と形式」と云はれる場合、兩者に對して同時に超越的である。それは「存在を超越する」と我々が云ふのは恰もこの意味である。存在を超越する第一次の内容は、内容といふよりも事實と云はれるが適當である。それは何等かの存在でなく、却て存在の根據である。辯證法の意味に於ける範疇に内在的なものとして現はれる矛盾は、まさにかくの如き事實によつてそのうちに内在せしめられるのである。しかもそれは存在と事實との間に於ける根源的な矛盾の故にかく内在せしめられるのである。それは範疇に、從つて存在のうちにかく内在せしめられるものでありながら、それが所謂「内在的矛盾」として、即ち内在するものとして現はれるのは、事實がまさに存在の根據であり、その限りに於て兩者の間には連續的な、内在的な方面があり、いはば兩者相合して現實的なものを形作つてゐるためである。
再び辯證法的な唯物史觀により右の事態を例解しよう。マルクスは『賃勞働と資本』の中で書いてゐる、「個人がそのうちに於て生産するところの社會的關係、即ち社會的な生産關係はそれ故に變化し、物質的生産手段の、生産力の變化と發展とにつれて轉化する。その總體に於ける生産關係は、社會關係、社會と呼ばれるものを作り、しかも一定の、歴史的發展段階に於ける社會、即ち特有なる、區別された性格を有する社會を作るのである。古代的社會、封建的社會、有産者的社會はかくの如き生産關係の總體であつて、その各々は同時に人類の歴史に於けるひとつの特殊な發展段階を現はしてゐる。」即ちマルクスはこの箇所で人類歴史の發展段階を古代的、封建的及び有産者的社會として掲げ、そして社會と呼ばれるものは生産關係の總體にほかならぬと云つてゐる。丁度そのやうに、普通に歴史と稱せられるのは諸範疇の總體として現はれる存在としての歴史のことである。然るに生産關係の變化及び發展、從つて社會の變化と發展とはこのもの自身の含む矛盾によつて行はれると見える。けれどもその根源に從つて云へば、かくの如き變化は唯生産力の發展につれてのみ生ずるのである。一層正確に云へば、生産關係、從つて社會的經濟的範疇に内在的として現はれ、社會の發展の動力たる矛盾は、もともと生産力と生産關係との間に於ける矛盾によつて生産關係のうちに内在せしめられるのである。丁度そのやうに、歴史と稱せられるものに内在的として現はれ、歴史に於ける發展の根源たる矛盾は、本來、事實としての歴史と存在としての歴史との間に於ける矛盾によつて後者のうちに内在せしめられると考へられねばならぬ。かかる矛盾が所謂歴史に於ける内在的矛盾と見られるのは、事實としての歴史が存在としての歴史の存在の根據であり、その限りに於て兩者の間には連續的な、内在的な方面がある故である。
從來一般に發展はただ純粹な内在の立場に於てのみ考へられ得ると云はれてゐる。從つてそれはつねに全體の概念と結び付くとせられるばかりでなく、かかる全體は具體的普遍の概念によつて論理的に闡明し得るとせられる。蓋し具體的普遍の概念は純粹な内在の立場と結び付き、その基礎の上に於て十分な意味を有し得るものである。そして實際、發展が有機的發展のことであれば、このやうな主張は凡て正しい。或は寧ろ内在の立場に立つとき、發展は有機的發展の概念となる。然るに我々が確かめた辯證法的發展なるものは内在と共に超越のあるところに存する。それ故に我々の立場は單なる「史的一元論」ではないのである。單なる一元論の立場では發展とか辯證法とかは考へられない。そこで今我々は右の論述を囘顧しつつ、有機體説との對立に於て、辯證法的發展に就き特に次のことを強調して記しておかねばならぬ。
一、有機的發展の思想は存在としての歴史と事實としての歴史との關係を唯單に連續的と見るところに成立する。そこにそれの純粹な内在の立場が生れる。これに反し辯證法では兩者の間に内在の關係のみでなく超越の關係があると考へられるのである。存在と事實とを區別して見るとき、前者はそれ自身に於て寧ろ連續の性格を負ひ、後者はそれ自身に於て寧ろ非連續の性格を擔ふ。超越的な事實は非連續的に存在へ喰ひ入る。存在はこの切斷を絶えず繕つて連續を恢復する。そこに辯證法の面影がある。かくの如き發展は固よりテロス的でなく、從つてそれは目的ある目的論の過程でない。然し眞の行爲の立場からすれば目的ある目的論は寧ろ觀想的なものと云はれよう。もちろん、存在の根據であるものは存在にとつて連續的な側面を含まねばならぬ。さもない限り、それが存在の根據であるとも云はれないであらう。このやうにして存在と事實との關係は内在的であると同時に超越的であるをもつて、その間の矛盾は辯證法的と云はれ得るのである。
二、存在としての歴史そのもののうちに現はれる矛盾は、根源的には、存在と事實との間に於ける矛盾によつて存在のうちに内在せしめられたものである。然るに有機體説に於ては存在と事實とが單に連續的なものと見られるのであるから、發展は何等かの矛盾によつて生ずるといふよりも、寧ろ發出論的な性格をとる。辯證法にではなく、有機體説に屬するところの具體的普遍の論理はそこからして「發出論的論理」として特徴付けられることが出來る。このやうな發出性が單なる存在の平面に於て考へられ得ないことは云ふまでもない。存在の根據といふ優越な意味に於て働くもの、作るものなる事實を認め、これと存在とを純粹に連續的に見るところから發出性なるものも考へられるのである。然るに事實と存在とを連續的なものとして表はすのはまさに表現といふことであるから、具體的普遍の論理はやがて表現の論理である。そこでまたそれは美的な論理であつても行爲の論理であり得ない。行爲の論理は辯證法である。辯證法が發出論的論理でないのは、それにあつては存在と存在の根據との非連續もしくは超越の關係が重んぜられるためである。
三、然るに存在のうちに含ませられるものが恰も矛盾であるのは、存在の根據たる事實が純粹なイデー、光でなく、却て自己のうちに否定、闇の契機を含むからである。もしもさうでないならば、事實が存在と矛盾するといふことも理解されないであらう。イデー的なものの基礎に於ては一般に矛盾なるものは考へられない。我々は最初に事實としての歴史を主體的なもの、行爲的なものとして規定し、またかかるものとしてのそれがつねに自己を存在としての歴史に結び付けるといふ必然性は、事實としての歴史の含む否定的なものにもとづくことを論述した。まことに我々が行爲するとき、我々は絶えず自己を既にそこに見出される存在に結び付ける。事實は存在に結び付くことなしには自己自身を發展させることも出來ないのである。それ故にまた行爲の立場は唯單に目的なき目的論であることが出來ず、事實が自己を存在に結び付けるべき必然性の存する限り、それは同時に目的ある目的論でなければならぬ。このやうにして現實的な行爲の辯證法は、目的なき目的論と目的ある目的論との辯證法である。そしてそれは根本的には、存在と事實との内在的であると共に超越的であるといふ辯證法的關係にもとづくのである。ところで一般的に云つて、眞の「現在」たる事實としての歴史はつねに必ず「現代」の歴史に自己を結び付けるわけではなく、却て任意の(存在の根據との關係を抽象して存在の秩序からのみ見られる限り)存在としての歴史に自己を結び付ける。事實としての歴史の要求するに從つて古き過去の歴史も若返り、新たにされる。このやうな關係があればこそ歴史の發展は直線的でなく、辯證法的であると云はれ得るのである。然るに歴史の運動がかくの如き姿をとるといふことは、事實が存在に對して超越的な方面を有する限りに於て可能なのである。これに反し存在と存在の根據とを唯單に連續的と見る有機的發展の思想に於ては、何故に現在の行爲が屡々自己を遙かなる過去に結び付けるかは十分に説明されず、却て歴史の運動は直線的と考へられざるを得ないのである。蓋し存在の時間は過去から未來へ直線的に進行する、有機體説は事實と存在とを單に連續的に捉へるから、そこでは事實は絶えず存在の意味に理解されることとなり、かくて發展も究極に於て直線的と考へられざるを得ない。そしてもしも歴史がこのやうに直線的に發展するとすれば、相對主義は歴史の立場にとつて避け難きものである。有機的發展の思想が歴史主義に陷る理由はここにある。「現在は過去を含み未來を孕む」Le pr


四、我々はさきに歴史的認識の必然性が全體と部分との關係に於て規定される必然性であることに就いて語つた。果してその通りであるとすれば、かかる必然性は恰も有機體説を基礎とせねばならず、かくて我々はここに説いた辯證法的發展の思想と矛盾することを主張したのではなかつたであらうか。即ち全體と部分との關係に於て規定される必然性を基礎付けるものは具體的普遍の概念にほかならず、そしてこの概念は、我々自身の確定したやうに、有機體説と内的に關聯するのではないであらうか。從つてまた歴史學の方法はもと辯證法的でなく、解釋學的であるのではなからうか。けれども我々はその際同時に具體的普遍の概念にあつて全體が或る與へられたものの意味を含むことを述べておいた。それが與へられたものの意味を含むのは、そこでは存在と事實とが單に連續的と見られ、後者が前者の性格をなす「既に」の意味に理解されるといふことに關係してゐる。然るに我々は特に兩者の間の非連續的、超越的方面を力説する。このことに關聯して、我々が歴史的認識に缺くべからざるものと認める全體の概念は、與へられたものといふよりも寧ろ課せられたものの意味をもつてゐる。そしてこのことは辯證法が實踐的態度とつながるといふことと關係する。全體は與へられたものでなく、却て事實としての歴史の立場からそれぞれの場合に新たに作らるべきものなのである。かくて根源的には實踐――事實としての歴史は行爲的なものである――と關聯して形作られる全體は、ほかならぬ辯證法的普遍として具體的普遍から明確に區別されなければならない。部分の全體に對する關係が歴史的認識の範疇として重要な意味の範疇を基礎付けるのであつたが、この全體は何等か與へられたものでなく、絶えず新たに作られ、從つて作り直されるものであるために、我々の實際に見る如く、歴史的なものの意味が歴史に於て絶えず轉化するといふことが生ずるのである。我々は有機體説的傾向が、これと結び付く觀想的にして特に理論的といふことを意味する場合、格別に體系の概念と關係あることを述べた。然るに何等かの體系的性質は如何なる科學も、それ故に凡そ歴史學が科學である限り歴史學もまた或る意味で缺き得ぬものであるかの如く見える。辯證法はこの點に關して如何に考へるであらうか。
ヘーゲルは體系の概念を甚だ重んじた。彼は絶對的な體系を欲し、そして彼自身の哲學がかかるものであると信じた。絶對的な體系が成立するためには、無前提的な、絶對的な端初がなされねばならぬと考へられる。然るに注意すべきことには、ヘーゲル批評家として重要な位置を占める人々は皆この點に就いて彼を非難した。即ちフォイエルバッハ、マルクス及びエンゲルス、キェルケゴールは、固より銘々のヘーゲルに對する關係に於て著しく相違するに拘らず、體系、從つてまた端初に關するヘーゲルの思想を否認することに於て彼等は皆一致してゐる。唯物論者フォイエルバッハは云ふ、「いづれの哲學も、一定の時間の現象として、一の前提をもつて始める。それ自身は自分にとつてはもちろん無前提的として現はれる、それはまた以前の諸體系との關係に於てはその通りである、然し後の時代は實に、それもまた一の前提、換言すれば、絶對的な不合理に陷ることなしには否定され得ぬところの必然的な、理性的な諸前提とは異つて、一の特殊な、自體に於ては偶然的な前提をなしたといふことを認識する。それともヘーゲル哲學は一の前提をもつて始めないのでもあらうか。『否、それは純粹な有をもつて始める。それは何等特殊な端初をもつてではなく、却て純粹に無規定的なものをもつて、端初そのものをもつて始める。』さうであるか。然しそれならば、哲學が一般に一の端初をなさねばならぬといふことが既に一の前提なのではないか。『いま、凡てのものは實に始められねばならぬ、といふことはまことに自明のことである、それ故に哲學もまた始められなければならぬ。』もちろん。然しながらこの端初は一の偶然的な、任意的な端初である。これに反し哲學が始めるべき端初は特殊な意味、即ち自體に於てもしくは學問的に第一のものといふ意味をもつてゐる。然るに私はまさに、何故に一般にかくの如き端初をなすか、と問うてゐるのである。いつたい端初の概念はもはや批判の對象でないのか、それは直接的に眞であり、一般的に妥當的であるのか。何故に私は端初に於てまさに端初の概念を廢棄し得べきでないのか、何故に私は直接に現實的なものに私を關係させてはならないのであるか。」「哲學は自分のアンティテーゼ、自分の他我 Alter Ego をもつて始めなければならぬ。さうでない場合それはつねに主觀的に、つねに自我のうちに囚へられてとどまる。何物も前提しない哲學は自己自身を前提するところの、直接に自己自身をもつて始めるところの哲學である*。ヘーゲルが何故に無前提的な、絶對的な端初を求めたかと云へば、彼は思惟を體系的な思惟と考へたからである。これに對してフォイエルバッハは云ふ、「然しそれにも拘らず體系的な思惟は思惟自體、本質的な思惟でなく、却て單に自己を敍述する思惟である。」敍述乃至表現にとつては端初は本質的な關係をもつてゐるであらう。「敍述は敍述の前に意識されたものから抽象する。それは絶對的な端初をなすべきである。然るにまさにこの點に於て直ちに敍述の限界が顯はにされる。思惟は思惟の敍述に先立つ。敍述に於ける端初は唯敍述にとつてのものであり、思惟にとつて第一のものではない。」フォイエルバッハによれば、體系は思想の表現、從つて傳達のための手段であり、思想そのものと内的な、本質的な聯關があるのではない。「體系家はそれだから藝術家である。」「敍述的な、體系的な哲學は、自己のうちに向けられた實質的な思惟の敍情詩とは反對に劇的な、劇場的な哲學である**。」マルクス及びエンゲルスは彼等の辯證法的、唯物論的考察の仕方に就いて、この考察の仕方は無前提でなく、却て現實的な前提から出發し、それを瞬時と雖も離れないと云つてゐる。更にエンゲルスは次の如く論ずる。ヘーゲル哲學の前には、究極的な、絶對的な、神聖な何物も存し得ず、一切の物は自己の消滅性、過渡的性質を示さなければならない、これはヘーゲルの方法の必然的な歸結である、然るに彼自身がこの歸結を引き出さなかつたのは、彼が體系を作る必要に迫られたからである。このやうにエンゲルスは辯證法的方法と體系の概念とは相排斥するとした。ヘーゲルの絶對的な體系は圓環行程の形式をとつてゐる。それはかかるものとして有限と無限との統一たる眞の無限なるものを現はすと考へられる。然るに何よりも主觀性を尊重したキェルケゴールによれば、本來有限な存在者たる人間にとつては、ヘーゲルが惡しき無限として輕蔑したところの限りなき進行の無限こそ最高のものである。キェルケゴールのいふ現實的な人間の辯證法たる「性質的辯證法」は完結的な性質をもち得ず、從つて體系の概念とは根本的に相容れぬものを含んでゐる。
* L. Feuerbach, WW.
, SS. 165, 208, 209, 230.

** Op. cit., SS. 167, 173, 174, 176.
[#改ページ]
歴史的なものは時間的なものである。時間的ならぬものは非歴史的もしくは超歴史的と考へられる。歴史的なものは本來「時間から理解されることを欲する事物」である。蓋しそれは運動的、發展的なものであつた。その意味に於ては歴史 Geschichte は出來事 Geschehen であつて、存在 Sein ではないとも云はれることが出來よう*。歴史は在るのでなく、成るのである。然るに運動及び發展は時間といふものを離れて考へられない。かくて時間は、空間に對して、歴史を自然から區別するところの最も本質的な規定であるとさへ見られてゐる。ヘーゲルは云つてゐる、「それだから世界歴史は一般に、恰も空間に於てイデーは自己を自然として開示する如く、時間に於ける精神の開示である。」歴史的科學を「發展の科學」と呼んだラッツェルはそれをまた「時間の科學」Zeitwissenschaft とも稱した。ドロイセンもまた次のやうに書いたのである。「我々は我々の言語のうちに自然及び歴史なる語を見出す。そして何人も、歴史といふ語に直ちに過程の表象、時間的なるものの表象が結び付けられることを、一致して認めてゐるであらう。」そしてひとは彼が多少カント的な言ひ

* Vgl. F. Gottl, Die Grenzen der Geschichte 1904
** J. G. Droysen, Grundriss der Historik 1875, S. 64. u. S. 67.
*** Augustinus, Confessiones,
, 14.

けれどもそれだけでなほ問題は全く透明にされたわけでない。この不透明は歴史といふ語のもつ兩義性に關係してゐるものの如くに見える。即ち我々は最初に歴史なる語の擔ふ意味を分析し、就中事實としての歴史と存在としての歴史とを區別したが、丁度このことに相應して、自然的時間からひとまづ區別された歴史的時間の概念に於てもまた二つの意味が區別されねばならぬものと考へられるのである。我々はその一方を「事實的時間」と稱し、その他方を特に固有なる意味に於ける「歴史的時間」と名付けよう。ところで後者が例へば時代の概念として歴史的諸科學に於てそのロゴス的表現に達するものとするならば、前者即ち事實的時間は何處に於て自己をロゴス的に表現することにならうか。我々はかやうな表現の場所として、歴史的諸科學を裏付けしてゐる史觀なるものを示すことが出來ようかと思ふ。これ史觀のうちには事實としての歴史が自己を表出するといふことに相應するのである。それのみでなく、我々は事實としての歴史と存在としての歴史との間に或る一定の本質的な關係の横たはつてゐることを見出した。そこでまたそれに相應して歴史的時間――自然的時間から區別されたそれ――の二つの概念の間にも何等か一定の内面的な聯關が存するのでなければならない。
かくて時間の問題が歴史に關係して論ぜられるとき、そこには必ず明かにさるべき三つのものの關係のあることが知られるであらう。自然的時間、歴史的時間及び事實的時間の關係がそれであつて、このものを解明することによつて初めて時間の全構造は、歴史にかかはる限り、明瞭にされることが出來る。もしかくの如く現實の歴史の時間にしてこれら三つのものの構造聯關に於て成立せるものであるとするならば、それを普通になされるやうに唯ひとむきなる直線的進行として表象することが如何に誤つてゐるかは明白である。寧ろ歴史の現實的な時間を形成するそれら三つの要素はかかる時間の三つの次元と見らるべきであらう。現實の時間には奧行もあり、深さもある。云ふまでもなく時間形成的な三要素の形作る構造聯關は、時間の本性上動的であり、從つて現實的な時間はそれぞれの場合に於てそれぞれ異つてゐる。時間の範疇そのものが歴史的である、とも云はれ得るであらう。そして我々はそこに範疇の歴史性の最も原始的な且つ最も根源的な形態に出會ふのである。
いづれにせよ、歴史に於て甚だ種々なる時間の觀念が現はれてゐることはたしかである。二、三の例を擧げてみよう。今日普通に時間は無限に涯なく前進するものと考へられる。然るにこのやうな時間の觀念は古代人には殆ど全く縁のないものであつた。彼等のもつてゐたのは却て囘歸的時間の觀念であつた。「必然の環」とか「運命の車輪」などいふ言葉、プラトンの「完全年」の思想等がこれを示してゐる。アリストテレスもあらゆる種類の運動のうち圓運動が時間の最も正確なアナロジーを現はすと云つた。そして實際、歴史が圓環行程を形作るといふことは、單に最も偉大なギリシア及びローマの歴史家たちの見解であつたばかりでなく、その民族の一般的な考へ方であつたのである。彼等にとつて歴史は無限なる進歩を過程するといふ思想ほど縁遠いものはなかつた。これは全く近代人のものである。そこでフリードリヒ・シュレーゲルは、古代史と近代史とは二つの全く異つた法則の上に立つそれぞれの全體であると見做し、前者は「圓環行程の體系」をなし、後者はこれに反して「無限なる前進の體系」をなすと解釋した*。然るに原始キリスト教の場合に於ては如何であつたであらうか。その信徒等は彼等の感激に於て固より全く新しく明ける日の微風に包まれてゐるのを信じたが、然しそれは同時にこの世界の過ぎ去る最後の審判の日であるべきであつたのである。パウロがテッサロニケの教會を建てたとき、改宗者たちはかかる新しき日を經驗することなく死んで行く兄弟たちのために憂慮した、そこでパウロは自分自身は少くともこの日を肉の眼をもつて見るのであるといふ希望を仄めかすことによつて彼等を慰めたと云はれる。古代的な囘歸的時間、近代的な無限進行の時間に對し、ここには或る第三のものとして終末觀的時間がある。
* Vgl. Friedrich Schlegel, Vom Wert des Studiums der Griechen und R
mer.




我々は事實としての歴史をこれまで「現在」として規定して來た。「現在」は屡々「今」とも言ひ換へられる。然るに普通用ゐられるところでは、「現在」もしくは「今」といふ語は多義であつて、ここに少くともその三つの意味を區別することが必要である。そして我々のいふ事實的時間は、既に最初の章で云つた如く、まさに「瞬間」として規定せられて、それの他の二つの意味、即ち一方では「永遠」そして他方では後に説く如き固有なる意味に於ける「今」から區別されるのである。瞬間は先づ「永遠」といふことと等しくない。永遠もまた多くの場合に現在もしくは今といふ語で表はされてゐる。アウグスティヌスに於ての如きがさうである。彼は云ふ、「汝の年は一日である、そして汝の日は毎日でなく、今日である、汝の今日は明日に移るのでなく、また昨日に繼ぐのでもないからである。汝の今日は永遠である*。hodiernus tuus aeternitas.」今日といふことはここで永遠の意味に於て語られてゐる。ニコラウス・クザーヌスの「かくて今即ち現在は時間を包む」Ita nunc, sive praesens, complicat tempus といふ有名な言葉にあつても、今または現在が永遠を意味することは明かである。それはまさに永遠であつて、時間ではない。然るにかやうに現在が凡ての時間的なものを包むといふ思想はまたアウグスティヌスのものであつたのである。アウグスティヌスは彼の、そして一般にキリスト教の歴史哲學の最も雄大な體系を敍述した『神の國』の中で、時間は運動及び變化といふものなしには考へられないと述べてゐる。「ひとは正當にも永遠と時間とをば、時間は何か變化し運動するものなしにはなく、然るに永遠のうちには何等の變化もないといふ點で區別する。そこでもしもそれに於て運動によつて或る變化が行はれる被造物が生じなかつたとしたならば、明かに時間も存しないであらう。蓋し時間は兩者同時に存し得ぬところの一の状態が他の状態に所を讓り且つ繼ぐ場合、この運動及び變化によつて要求されるより短い或はより長い持續の間隔から從つて來るのである**。」それ故に何等の變化も含まぬ神は永遠であつて時間的でなく、却て「時間の創造者にして整序者」creator et ordinator temporum である。永遠のうちにあつては何物も過ぎ行くことなく、却て凡てはつねに現在的である。過ぎ去りしもの及び來らんとするあらゆるものは、永遠に現在的なるものによつて造られると考へられる。かくてアウグスティヌスにあつては時間の問題は神に對して被造物の根本的な存在の仕方の問題に關係してゐるのである。そして彼がその深き解明を試みたのは、外部の世界の時間、所謂「世界時間」の問題ではなく、寧ろ特に被造物たる人間の本質及びそれの神(從つて永遠)に對する關係の問題としての時間であつた。人間の本質とは精神 anima である。そこからして彼に於ては主體的な、内面的な時間が問題にされる。この場合にあたり我々は凡ての時間の樣態がまさに「現在」の方向に解釋されたといふことに注目しなければならない。即ちアウグスティヌスは云つてゐる、「いまや次のことが明白であり、明瞭である、未來も過去もあるのでなく、また三つの時、過去、現在及び未來、があると本來云はるべきでなく、却て恐らく本來、三つの時、即ち過去せるものの現在 praesens de praeteritis、現在するものの現在 praesens de praesentibus、未來なるものの現在 praesens de futuris があると云はるべきであらう***。」彼は進んで時間の諸樣態を精神のはたらきに關係して説明を企てた。未來と現在と過去とはそれぞれ期待 expecto、直觀 attendo 及び記憶 memini といふ精神の三つのはたらきから解明された。長い未來と云はれるとき、長いのは未來の時間ではない、なぜならそれは未だないから。却て長い未來とは未來の長い期待のことである。或はまた長いのは過去の時間ではない、なぜならそれは既にないから。却て長い過去とは過去の長い記憶のことである****。このやうに見るのは時間の諸樣態を特に現在から解明することでなければならない。詳しく言へば、期待とは未來なるものを現在的に把持することであり、直觀とは現在するものを現在的に把持することであり、記憶とは過去せるものを現在的に把持することである。そしてこのやうに時間が現在から解明を受けるとき、この現在がまた永遠といふものの方向に理解されてゐたのである。ところで、かくの如く時間を現在の方向に解釋するといふことは、人間の觀想的もしくは瞑想的態度と内的につながつてゐるであらう。我々は他の機會に於てアリストテレスの哲學のひとつの重要な要素をなす「現在」の概念をこの哲學の觀想的性格から説明しておいた。かやうな觀想的態度はアリストテレスの場合ではまた時間が客體的に解釋されたといふことにも關係をもつてゐる。彼が時間論を根本的に展開したのは何よりもその『フュジカ』に於てであつたことを想ひ起してみよ。アウグスティヌスは現在的に見る video, intueor といふ精神のはたらきの基礎の上に時間の諸樣態を考へる。從つて過去の基礎も現在であり、未來の基礎もまた現在であると云はれる。疑ひもなくアウグスティヌスの時間論は遙かに内面化されてゐる。彼がそれに就いて最も深き思索をめぐらしたのはその『コンフェショーネス』に於てであつた。觀想は純粹に内に向けられた觀想である。それはギリシア的な「觀想的生」β※[#鋭アクセント付きι、U+1F77、163-6]ο




* Augustinus, Confessiones,
, 16.

** De civitate Dei,
, 6.

*** Confessiones,
, 26.

**** Ibid.
, 28.

かくて事實的時間が、現在として、瞬間といふ意味で、先づ永遠といふ意味に於ける現在或は所謂「永遠の今」から區別せられるばかりでなく、それが次に客體的な時間に於ける現在からも區別せられなければならぬといふこともまたおのづから明かであらう。我々はさきにそれを「現在」と「現代」との區別として説明した。現代といふのは存在としての歴史の時間、即ち事實的時間から區別せられた歴史的時間の意味に於ける現在である。ここに於て我々はかやうな歴史的時間の本質を、瞬間として特性付けられた事實的時間に對して、更に正確に特性付けなければならぬと思ふ。
歴史的時間は範疇の一つであり、それは「範疇」としての時間である。さしあたりここにこの時間の重要な規定がある。これに對し事實的時間は同じ意味では決して範疇と云はれることが出來ない。もし強ひてそれを範疇に對して名付けようと欲するならば、ひとはそれを寧ろハイデッガーが Kategorie(範疇)と Existenzial(實存疇)とを區別したのに從ひ Existenzial と呼ぶのが適當であらう。彼によれば Existenzial が Dasein(現存在)に對する關係は Kategorie が Vorhandensein(既存在)に對する關係の如きものである*。我々のいふ事實は固よりハイデッガーのいふ現存在とは種々なる點に於て根本的に異つてゐるが、然しハイデッガーもその現存在の概念をもつて我々と同じく客體的な存在ならぬところの主體的な存在を考へようとしたのであつて、そこに彼の存在論が從來の存在論とは異る最も重要な特色が横たはつてゐる。いづれにせよ、事實的時間は普通考へられる範疇とは區別されねばならない或るものである。蓋し範疇なるものは普通には我々のいふ「存在」、即ち眞の現在でなく「既に」の性格を擔ふ存在の存在論的規定を表はすべきものであるからである。歴史も「存在」としてはまことにかくの如き範疇的關係を含み、時間はそれの主なるひとつである。事實的時間に對しこのやうな範疇としての時間の特殊性は何であらうか。
* Vgl. M. Heidegger, Sein und Zeit, Erste H
lfte, S. 54. 云ふまでもなく、我々は範疇といふ語をかかる制限を離れて用ゐることも出來、本書に於ても屡々そのやうな使用がなされてゐる。例へば我々もそれに就いて論じた「意味」なるものをディルタイは「生の範疇」に數へてゐる。そしてハイデッガーのいふ Existenzial はディルタイの「生の範疇」の純化し徹底されたものとも見られ得る。



* Vgl. G. Simmel, Das Problem der historischen Zeit (Zur Philosophie der Kunst 1922.)







* Aristoteles, Physica Δ. 11, 219b.
歴史の全體は我々にとつて現實に與へられたものでなく、却て單に一の理念に過ぎない。それ故にもしも歴史的時間の問題の解決の鍵がこのやうな全體のうちにあるとしたならば、歴史的時間は理念的本質のものとなり、かくて存在の歴史性といふこともつまりは理念的性質のものとなり、時間はまさに現實性の形式であり、存在の歴史性といふこともその基本的な意味では存在の現實性にほかならぬといふ最も明白な事柄に矛盾することになる。ジンメルの云ふやうに、歴史の全體が恰も全體として時間を越えたものであるとしたならば、かかる無時間的な全體のうちに於て一定の場所を決定されるといふことが、如何にして現實的に時間的の意味をもつのであらうか。絶對的な全體のうちに於て一義的に位置付けられるといふことは、時間的な事物が永遠化される所以でこそあつても、事物の時間化される所以ではあり得ないであらう。彼のいふ理解の統一としての全體はイデー的な全體であるが、單にイデー的なものからは時間は説明されない。時間的が考へられるためには、全體は永久に絶對的な仕方で自己自身のうちに安らへるものでなく、却て絶えず運動し發展するものと見られなければならぬ。理解の條件として我々も認めねばならず、且つ實際に認めて來たところの全體なるものは、ジンメルの説く如き何等かの仕方で與へられたものと見られる絶對的な全體として無時間的であるのでなく、却て我々のさきに述べたやうにそれぞれの場合に課せられたものであり、形作られるものである故に、そのうちに一義的に位置付けられたものは時間的の意味をもつのでなからうか。このやうな全體は事實としての歴史の立場から、これとの關係に於て存在としての歴史に於て形作られる。從つて後者の理解も前者の立場から、前者との關係に於て行はれるのである。ジンメルは現實内容は無時間的な根據から時間化されると云ふが、このことは我々によれば、存在としての歴史の秩序に屬するものの時間性は、これと同じ秩序の意味の時間とは見られない事實としての歴史の根據から規定されるといふことでなければならぬ。然し事實もそれ自身時間的であるから、理解は超時間的でなく、寧ろ時間的である。歴史的時間はこのやうにして事實的時間によつて制約される方面をもつてゐる。從つてそれは單に直線的なものでなく、却て全體と部分といふ形式をとる。このとき全體はどこまでも課せられたものの意味を含んでゐる。それだからこそそこに時間が考へられ得るのである。全體は課せられたものとして豫料的意味を含む、そしてコーヘンの云つた如く、豫料は時間の特性をなす。然るにジンメルは眞に主體的な事實的時間の概念を知らない。彼の知るのは客體的な存在の時間の概念のみである。それ故に彼は歴史的時間の問題を現實的に解決することが出來ない。この問題を解決するために彼は理解の統一たる全體の概念を持ち出す。ところで一般的に見て、歴史の問題を論ずるに際し、歴史を作る行爲の立場からでなく、歴史を理解する立場からそれに近づいて行くといふことは、現代の哲學に共通な傾向であり、それのひとつの偏見に屬する。ひとりジンメルのみでない、ディルタイに於ても歴史の理解といふことが何よりも歴史の問題への接近の通路をなしてゐる。ディルタイは客觀的な存在の時間とは異る「内的時間」を考へた、けれどもそれが要するに内的な意識の時間に過ぎなかつたのは、理解の立場が彼の哲學を指導してゐたといふことにも關係があるであらう。世界時間とは異る主體的な時間を純粹に取り上げることに全努力を傾けつつあるハイデッガーにあつてさへ、理解の立場、從つて解釋學的立場が決定的にはたらいてゐる。然るに一般に解釋學的立場は内在の立場であり、そこでは時間は結局意識の時間にとどまる。これに反し新しい歴史哲學は何よりも歴史そのものを作る行爲の立場に立たなければならぬ。固より人間は凡て或る意味で「歴史家」である。その限りに於て、理解といふことは彼の存在の仕方に根本的に屬してゐる。然しそれより以上に人間は凡て「歴史人」、即ち歴史を作りつつある人間である。行爲の立場は、これを徹底するとき、意識の立場、從つて觀念論的立場を突き破る。このことはひとり、普通云はれるやうに、行爲の立場は行爲の對象として意識を超越する「存在」を認めねばならぬといふことを意味するのみではない。それは單に前面に於て意識を超越する客體をばかりでなく、更に背後に於て意識を超越する主體たる「事實」を認めることなしには眞に行爲の立場であることが出來ない。かくの如きいはば二重の超越が初めて行爲の立場を成立せしめるのである。このやうにしてまた我々の事實的時間といふものは單に意識の時間と考へられてはならない。單なる意識の時間は瞬間といふ意味をもつことが出來ない。寧ろ超越的な主體的事實が絶えず新たに意識を破るところに瞬間なるものの面影がある。そして行爲の立場に立つとき、歴史的時間が事實的時間によつて規定されるといふことは誰にとつても明瞭に理解されよう。
歴史的時間は事實的時間によつて構造付けられる。具體的な歴史的時間とはまさにかくの如きものであり、そしてそこにそれが特に歴史的時間と呼ばれる特性があるのでもある。我々はさきに存在の歴史性に就いて論じ、それを存在と事實との辯證法的關係に於て見出した。そこからまた我々は歴史的時間の構造を辯證法的として規定することが出來る。即ちそれは到る處全體と部分といふ關係を含み、しかもこの全體はつねに事實としての歴史の立場から新たに課せられ、豫料せられるものである。固より歴史的時間は、上に云つた如く、どこまでも存在としての歴史の時間であり、その限り前後の關係に於て刻まれるといふ性質を失ふことが出來ない。けれどもよく觀察すれば、このやうに前後の關係に於て刻まれる仕方そのものがそれ自身既に事實的時間によつて構造付けられてゐるのが見出される。いま西洋に於ける年代計算に眼を投ずるならば、そこにはキリストの誕生以來初めて文化の一直線の向上があるといふ、それ以前の凡てのものが唯そのための準備に過ぎぬところの一囘的な行爲によつて、完成に向つて進む世界年代が開始されたといふ、一定の見方、史觀が含まれてゐたことが見られ得るであらう。然し特に歴史的時間を表はすものとして時代なる概念がある。歴史は時代的に區分され、刻まれるのをつねとする。このことは歴史的時間が刻々に交替してやむことなき時間でなく、却てそれが優越な意味に於ける「持續」Dauer を含み、時間が「期間」Zeitraum であることを現はす。このとき時代といふものは全體の意味を何等かの仕方で擔はせられてゐる。かの Periode といふ語はもとこのことを表はすべきであるのである。時代なるものは單に一の持續であるばかりでなく、また一の全體概念である。それはかかるものとしてそのうちに含まれる諸部分に對して有意味性の構造聯關に立つてゐる。このやうにして時代の概念は單に存在としての歴史の時間をもつては考へられず、却てそれは事實的時間によつて構造付けられてゐる。歴史に於ける時代區分は暦の時間に從つて平等なる間隔をもつて幾何かに區切られてゐるのではない。また時代區分の仕方は史觀の異るに應じてそれぞれ異つてゐるのである。最も簡單な例をとらう。今日なほ普通に行はれる古代、中世、近世なる時代區分はルネサンス時代の子供である。その當時盛んになつた古代研究はローマの偉大を知つた、人文主義者たちは千年以前に沒落したこの偉大を復興し得るものと考へた、かくてかの沒落とこの再興との間に横たはる期間は、いはば冬籠りの時期として、陰暗な中間時代 media aetas, medium aevum と見做され、そこからして三つの時代が區分されるに至つたのである。その他各々の史觀が各々自己に相應せる時代區分を立ててゐるばかりでなく、この區分が最も屡々三分法であること――五分法をとつてゐるものも根本的には三分法の基礎の上に立ち、このものに還元されることが多い――などは、恐らく、歴史的時間は凡て一樣に過去と見られ得るに拘らず、それが事實的時間によつて規定され、構造付けられてゐるところから、現實的な時間の含む過去、現在、未來といふ三つの時間契機がそこに寫し出されることを暗示するものではないであらうか。ひとは歴史とは本來現代の歴史であると云ふ。それ自身固より時代の概念のひとつでありながら、現代といはれるものがかくの如く優越な意味を負はされるのは、それがまさに事實的時間の存在としての歴史の時間のうちに於ける投影であるためである。そこからしてまた、かの根本的には三分法の上に立つところの古代、中世、近世なる時代區分にあつても、なほ近世のうちに特に現代なるものが選び出され、かくてそれが恰も古代、中世、近世、現代なる四分法をとるかの如き外觀を呈するに至るといふことが起るのである。かかる四分法の外觀は、その三分法がまさに眞の現在たる事實によつて規定されてゐることを現はしてゐる。
このやうにして我々は云ふことが出來る。――第一、歴史的時間は先づ存在としての歴史の時間として、事實的時間に對してはつねに或る過去の意味を擔ふ。それはどこまで延長されるにしてもいつでも「既に」の意味を含んでゐる。然しながらそのことは歴史的時間が囘顧的時間であるといふことと必ずしも等しくはないのである。却てそれは歴史的時間が存在としての歴史の時間であるといふことと根本的に關係する。即ちそれは「今」として特性付けられる存在の時間の本質に屬してゐる。そこでは未來もなほ或る「既に」の性格を負はされる、未來も「次の今」であり、「今」は眞の現在でなく「既に」の意味を含んでゐる。あらゆるユートピアは、存在としての歴史の秩序に於て考へられる限り、つまり過去の像である。眞の現在は今ではなく瞬間である。然るにこのやうに未來もなほ「既に」の意味をもつところでは、發明、發見、創造などいふこともその固有なる意味をもち得ず、從つて眞の歴史はない。これ根源的な歴史が存在とは區別される事實に於てあると考へられる所以である。
第二、歴史的時間は次に存在としての歴史の時間として、事實的時間によつて構造付けられてゐる。「今」の時間は何よりも連續性を現はす。これに反し「瞬間」の時間は寧ろ非連續性を現はしてゐる。事實的時間に於ては時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生れるのである。それ故に根源的な歴史性は瞬間的歴史性である。存在としての歴史はこれに對し寧ろ連續性を含み、從つてそれの歴史性は體系的歴史性であるとも言はれよう。歴史と云へばもと二重のもの、即ち事實としての歴史及び存在としての歴史であつた。兩者は存在と存在の根據として對立であると共に統一であつた。かくてその具體的な姿に於て歴史は瞬間的歴史性と體系的歴史性との辯證法である。事實は存在に對し絶えずその連續性を破らうとする。然し存在はかく破られた連續性を絶えず綴り合はさうとする。歴史的時間は事實的時間によつて構造付けられたものとして現實的に歴史的である。ヘーゲルの辯證法の體系的歴史性に對して瞬間的歴史性を高調したのはキェルケゴールの所謂性質的辯證法の功績であつた。然しまた後者が客觀的な存在の歴史を無視することによつて、却てまた他の意味では歴史的なものを失ひ、非歴史的な見方に陷つたといふことも爭はれないのである。
第三、存在の時間は過去から未來へと流れる。いまこれが事實的時間によつて構造付けられるとき、それは逆に未來から過去へといふ方向をとらせられると見える、事實的時間は本來の未來性を特徴とするからである。それはコーヘン的に云ふならば繼起 Folge でなく系列 Reihe の形式をとることとなる*。ところで過去から未來への時間が因果的な見方に相應するならば、未來から過去への時間は目的論的な見方に相應すると考へられるであらう。目的手段の關係は原因結果の關係の逆であると普通に考へられてゐる。歴史の原理が目的論であるといふことは我々も或る意味ではこれを認めなければならない。けれども目的論は因果論の單なる逆であるのではない。蓋し既に云つた如く、因果的な見方に於ては原因と結果とは同じく存在の秩序にあると考へられてゐる。然るに本來の目的論はこのやうな一重の見方でなく、存在とは區別される事實を認めるところに成立する。目的論的關係は、因果的關係の如く存在と存在との間に於てでなく、主體的事實と客體的存在との間に於てのみ成立することが出來る。しかも兩者が單に連續的でなく、却てまた非連續的であるが故に、そこに目的論もあり得るのである。このとき目的は根源的には事實の側にある。從つてかかる目的論にあつては、目的は存在の意味に於ては無いに等しい。本來の目的論はその限り目的なき目的論であると云はれなければならぬ。目的論は因果論の逆であるといふ通俗の見方にとつてのみ目的論は目的ある目的論であるのである。このやうにしてまた目的論は全體と部分との關係に於て成立すると云はれるにしても、このやうな全體と部分との關係は單に有機的に把握さるべきでなく、却て我々の述べた如き辯證法の基礎の上に於てのみ目的論は成立するのである。
* Vgl. H. Cohen, Logik der reinen Erkenntnis, zweite Auflage 1914, S. 154.
さて從來自然的時間として注意されて來たのは自然環境の時間であつた。即ち地球の公轉を基礎とする所謂太陽暦、或はまた太陰暦などの時間がそれである。このやうな自然的時間が存在の時間としてそれ自身前後の關係に從つて刻まれることは云ふまでもない。それが歴史にとつて有する重要性は、それがその規則性、就中その周期性の故に、歴史的時間を刻むための單位を與へるといふばかりでなく、その根本的な重要性は、寧ろ、人間のあらゆる歴史的活動が自然の基礎の上に於て行はれ、從つてまたつねに自然によつて制約される方面を有するといふ所に存してゐる。それだからこのやうな自然的時間は歴史的時間にとつて單に外面的である以上に深い關係を有するのでなければならない。歴史的時間はたしかに自然的時間に制約される方面をもつてゐる。
然るにかくの如き人間の歴史的活動の地盤乃至環境としての自然のほかに、なほ他のひとつの自然がある。普通に歴史的活動の主體と見られてゐる人間そのものがまさに一の有機的自然なのである。人間的有機的自然の時間の統一は「世代」といふ概念をもつて表はされる。ところでこのやうな時間概念は歴史にとつて環境的自然の時間よりも遙かに重要な意味をもつてゐるものの如くに思はれる。なぜなら世代は、環境的自然の時間のやうに、歴史を外部から測定するのでなく、却てまさに歴史の主體と見做される人間生命に結び付き、從つて歴史を内部から測定するやうに見えるからである。それは人間の歴史的活動に於ても、自然的環境からの相對的な獨立性の程度の高いところの所謂文化生産的な活動の歴史にとつてはとりわけ重要なものであるやうに考へられるのである。それ故に特にイデオロギーの歴史の研究に從事する人々の歴史理論の中へ世代の概念が一の原理的なものとして導き入れられるに至つたといふことは偶然ではなからう。我々は最近ドイツの文學史家の間に於て著しくこの傾向を認めることが出來る。その代表的理論家としてユリウス・ペーターゼンなどの名が擧げられるであらう。ペーターゼンの主張するところによれば、單に文學に關する科學ばかりでなく、人間及び彼の生産物に就いての一切の科學は、何等かの仕方で世代の問題に關係するのである*。
* Vgl. Julius Petersen, Die literarischen Generationen in der ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、186-11]Philosophie der Literaturwissenschaft,“ Hrsg. v. E. Ermatinger 1930.
* Vgl. Gustav R
melin, Ueber den Begriff und die Dauer einer Generation in den ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、189-8]Reden und Aufs
tze“
, 1875.



** Vgl. Ottokar Lorenz, Ueber ein nat
rliches System geschichtlicher Perioden in der ※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、189-11]Geschichtswissenschaft in Hauptrichtungen und Aufgaben“ 1886.

世代概念の特色は、既に述べた如く、それが自然的時間の概念でありながら、歴史的活動の主體と考へられる人間そのものに關係してゐるところにある。ローレンツは彼の所謂「三世代の法則」を「一の人間的自然に内在する原理」と呼んでゐる。然るに世代理論の主張者はかかる自然的時間を直ちに歴史的時間の位置に引き上げ、そこに一切の歴史的現象の時代區分の原理を求めようとする。この場合世代は、地球の公轉の一年の如く、歴史的時間測定の一の外的な單位にとどまるのでなく、それ自身が本質的に時代區分を形作つてゐると見做されてゐるのである。然るにこのことがあるのは、そのとき人間はもはや單に歴史的活動の基體としての自然の存在としてではなく、寧ろ歴史的活動そのもの、歴史そのものとして理解されてゐるためでなければならぬ。そこでは例へば文化の蓄積及び傳承などいふ歴史的行爲に重要な意味が與へられ、世代といふ自然的なものはかかる歴史的行爲と有機的な結合を保ち、有機的な統一を形成すると解釋されてゐるのである。ローレンツの如きが一世代をもつて歴史的時間を刻むことをせず、却てかの三世代の法則を立てねばならなかつたといふのも、根本的にはそのやうな理由によるのである。かくて世代の概念は次第に所謂精神科學的意味のものに解釋されることとなる。今日文學史家たちによつて開拓されてゐるのはそれのかかる意味なのである。既にディルタイがこの方向をとつた*。ディルタイは世代の概念を年齡 Lebensalter の概念と共に精神科學の方法概念として導き、それを彼の『シュライエルマッハー傳』に於て巧に使用した。彼によれば、世代とは「諸個人の同時性の關係」である。いはば相並んで生れたる、即ち共通の少年時代、共通の青年時代をもち、そしてその壯年の活動時代が一部分合致するところの人々は、同一の世代と呼ばれる。このやうな人々はひとつのより深い關係によつて結ばれてゐる。彼等はその感受性の最も強い年頃に於て同一の指導的な諸影響を受ける。彼等の感受の時代に於て現はれた同じ大きな事件及び變化に同樣に依存してゐることによつて、それに付け加つて來る他の要素の差異にも拘らず、一の同質的な全體に結び合はされる一定の範圍の個人は、一個の世代を形作る。このやうな世代を、例へば、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、シュライエルマッハー、アレキサンダー・フォン・フンボルト、ヘーゲル、ノ

* Vgl. Wilh. Dilthey, Ueber das Studium der Geschichte der Wissenschaften vom Menschen, der Gesellschaft und dem Staat 1875, Gesammelte Schriften
. Band, S. 38 ff.

そこで我々は世代概念の歴史理論的特性を有機體説的として規定することが出來る。このことを我々はこの概念の歴史的起原を突きとめることによつても理解し得るであらう。即ちローレンツの權威に從へば、彼の師ランケが世代の思想を暗示したと云ふ。ランケはその『ロマン的・ゲルマン的諸民族の歴史』の改訂(一八七四年)に際し、屡々引用されるところの次の文章を附け加へたのである。「恐らく一般に、諸世代をば、能ふ限り、それらが世界史の舞臺に於て互に一體となり且つ互に區別される有樣に從つて、順次に配置するといふことが課題であるであらう。ひとはそれら諸世代の各々を完全に公平に取扱はねばならぬであらう、ひとはその時々にそれぞれ互に最も密接な關係をもち且つその諸對立に於て世界發展が更に進展するところの最も光輝ある諸形態の系列を敍述し得るであらう、そのとき諸事件はそれの本性に一致する。」なほローレンツの傳へるところでは、ランケは世代の概念のもとに「人間一代のうちにはたらける或る一定の理念に對する表現」を理解した。然るにランケも根本的には例外をなさず、一般に、廣義に於けるドイツ歴史學派の特色をなしたものが有機體説的な歴史理論であつたことは、さきに論じた通りである。この學派はその最初の形而上學的傾向から次第に實證主義的方向へ進んで行つたが、それに應じてその有機體説も最初の形而上學的意味のものから實證主義的意味のものに變化した。このとき人間的有機的生命がその歴史理論の基礎におかれるやうになつたのは、最も自然的なことであつたであらう、この過程に於てかの「民族精神」なる理念は世代の概念によつて代られたとも見られることが出來る。そこでまた世代の概念を特色付けるものは、有機體説的な歴史の論理と實證主義との混合といふことである。實際、ローレンツの如きはランケ的な歴史を支配する理念といふ思想を全く棄て去つてゐないに拘らず、その世代の理論を生物學上の遺傳説によつて基礎付けようとしたのである。かやうにして、世代理論はまた我々がさきに有機的發展の思想に就いて掲げた種々なる性格を具へてゐる。例へばそれは、その實證主義的意圖にも拘らず、その有機體説的な理論に制約されて、歴史學に法則科學的意味を負はせることが出來ず、これを寧ろ形態學的に見るのほかない。從つてそこでは一般に類型、即ちテュプス、シュティルの如きが歴史學の中心概念とならざるを得ないのであつて、これ全くペーターゼンなどの明らさまに主張してゐる通りである。然るにローレンツは彼の世代理論をもつて歴史學の本來の意味に於ける「將來理論」であると主張した。同じやうにフランスの人ジュスタン・ドロメルはその『諸革命の法則』(一八六一年)に於て將來に對する科學的見通しを與へることを公言したのである。ドロメルによれば、民主主義の社會にあつては市民の政治的活動は平均四十年間に亙るが、この活動の初期は前世代の人間がなほ生存してゐることによつて、その末期は自分自身の世代の人間が既に死滅しつつあることによつて、共に制限を受ける。そこで各世代はただ約十五年の間投票に於ける多數を制し得、これによつて國家の運命を決定し得る。この法則はフランスに於ける諸變革が一七八九、一八〇〇、一八一五、一八三〇、一八四八の年々に起つてゐることによつて證明される、と云ふのである。今かりにローレンツの三世代の法則、或はドロメルの十五年説――この場合にはなほ社會が凡ての時代に民主主義的議會主義的であるのでないといふことを勘定に入れないで――が事實に適合するとしても、それは何等本來の意味に於ける法則であるのではない。それはたかだか歴史が周期的に、波動的に進行するといふことを記述的に表はすのみである。寧ろ我々は世代理論の特徴をその有機體説的方向に、その個性記述的乃至類型記述的理論の方向に求むべきであらう。そしてこのことによつて世代理論は美的な、觀想的な史觀に屬するのであつて、それが今日特に文學史家たちの間に喧傳されてゐるのも偶然的ではなからう。
さて我々は事實的時間、歴史的時間及び自然的時間の三つを區別して來た。後の二つは共に存在の時間である限り最初のものに對して或る共通な性質を具へてゐる。然し自然と歴史とが存在として區別される限り兩者の間にはまた差異がなければならぬ。我々は自然的時間を「待つ」wait 時間として、歴史的時間を「期待する」expect 時間として特性付けることも出來るであらう。自然は繰り返すこと或は循環することを特色とする。そこでは我々は待てばよいのである、待てば繰り返して來るのである。自然は繰り返すものと考へられ、歴史はこれに反し繰り返さぬもの、一囘的なものと考へられる。待つのでなく期待するといふことが歴史的時間の特色である。自然人は待ち、文化人は期待する。既に述べた如く、歴史的時間の歴史的なる所以はそれが事實的時間によつて構造付けられてゐるところに存し、そしてそれによつてその何處に於ても「既に」の性質を有する歴史的時間に或る未來性が負はされる。この特殊な未來性を現はすのは「期待する」といふことである。然し「期待する」といふ未來性は寧ろ非本來的な未來性に過ぎぬ。本來的な未來性はひとり事實的時間の性格である。これは期待するといふことでなく、寧ろ豫料するといふことである。思惟の意味に於て豫料するといふのでなく、却て行爲の意味に於て先取するといふことである、否、まさに「決心する」decide といふことである。期待するといふ未來性のうちにはもはや「既に」の意味が含まれてゐる。瞬間は未來から時來すると云つても、それは決して期待する時間ではないのである。ところで三つの時間は、固よりそれぞれ獨立な時間であるのでなく、却てそれらは眞に現實的な時間を構成する三つの要素乃至次元と見らるべきである。眞に現實的な時間はそれらのものの構造聯關に於て成立する。このやうにして、例へば、觀想的態度は自然的時間に優位を與へる。觀想的な世界觀の模範たるギリシア思想に於てさうであつた。そこでは自然的時間に象つて歴史的時間が理解され、從つて歴史は循環すると考へられた。けれどもこれが決して單なる自然的時間のアナロジーの意味に盡きるものでなく、また事實的時間の意味を含んでゐたことは、かかる囘歸的時間がまさに運命的なものを意味したといふことによつても知られよう。そしてこのやうな觀想的態度に於て永遠は「圓環」をもつて象徴されるのをつねとする。或は時間を「包む」といふことが永遠の本性であると考へられる。然るに實踐的態度にあつては自然的時間に對する歴史的時間の獨立性と獨自性とが高調される。このとき瞬間こそ永遠の象徴であると見られる。瞬間は凡ての時間を包むものといふ靜的な意味で永遠であるよりも、寧ろそれは存在の時間を超越し、そこから存在の時間の何處にでもつながり得るといふ動的な意味で永遠の相を現はしてゐるのである。然し實踐的態度は歴史的時間の現在に最も重要性をおくであらう、しかもそれは未來を期待するといふことと無關係ではなく、却てこのことの結果である。そこからしてフィヒテがその人類歴史の哲學的構成に於てこれを五つの時代に分ち、彼の現代はまさしくその第三の時代即ち「罪惡の完成した状態」にあると見做したが如きことも一部分説明され得るであらう*。即ち現代を最大の危機として把握することによつて現代の決定的な重大性が力説されるのである。なほシュレーゲルは古代史は圓環行程の體系をなし、近代史は無限なる前進の體系をなすと述べたが、このことは少くとも一面では、近代の歴史的發展に於て歴史的時間が自然的時間に對して次第にその相對的獨立性を増大して來たことを意味し、そしてこれは人間の自然に對するはたらきかけが深刻になり、擴張されて來たことを示すものとも考へられよう。いづれにせよ、我々の生活しつつある眞に現實的な時間はいはば一音のものでなく、却て多くの音の合成である。それは自然的時間、歴史的時間及び事實的時間のそれぞれ具體的な構造聯關に於て成立する。けれどもそこに響いて來るのは必ずしもつねに美しいシュムフォニーではない。この聯關は何よりも辯證法的に構造付けられてゐる。そしてこのことは存在と事實との辯證法的關係に相應する。固より事物の運動そのものが時間ではない、運動は却て時間のうちにあるのであるとも云はれるであらう。然しまた事物の運動を離れて時間は考へられない。かくて現實的な時間の形成そのものが動的である。
* Vgl. Fichte, Die Grundz
ge des gegenw
rtigen Zeitalters.


史觀とは何であるかに就いて、先づ下の如く答へられなければならない。第一、史觀は各々の歴史敍述のうちに含まれ、これをその根柢に於て規定してゐるところのものである。從つてそれは、その本性上、歴史科學的研究の後にその結論として初めて打ち建てられた一般的原理といふが如きものでない。それはもと個々の研究の結果を總括し概觀せしめる一般的命題ではない。史觀は歴史科學にとつてかやうな結論であるといふよりも寧ろそれの前提である。もちろん史觀は個々の科學的研究によつて影響され、それを通じて科學的な形態に形作られるに至るのであるけれども、その根源に從へば、決して科學的研究の結果初めて出て來るといふやうなものでなく、却てそれに先行し、それに對し豫め一定の方向を指定するところのものである。それは歴史家にとつて多くの場合自覺されぬ無意識的な前提としてはたらいてゐる。史觀はロゴスとしての歴史よりもいはば一層ロゴス的なものであるのでなく、却ていはば一層ロゴス的でないものである。前者は後者よりも意識として一層根源的である。第二に、そのことと關係して、史觀が歴史學にとつて或る前提的なものを意味するにしても、それは單に歴史學の論理的乃至方法論的前提に過ぎぬといふが如きものではない。史觀は單にロゴス的前提的なものでなく、却て存在に關係して前提的なものである。即ち史觀の問題は、根本的には、歴史學の對象であり、それに就いて科學的方法論的研究がなされる存在としての歴史の存在そのものの把捉の仕方に關係してゐる。それだから、例へば、ひとが唯物史觀に於ける唯物論といふものを全く方法論的意味に理解し、それを單に方法論上の「現實主義」といふ意味に解釋するが如きは誤であると云はなければならぬ。固より歴史學の對象たる存在が、そしてそれに關聯してまた意識が、如何に把捉されるかといふことは、歴史學の論理的、方法論的立場にとつて沒交渉ではない。然し史觀の問題は決して後者の意味に盡きるのでなく、寧ろ前者に關係して決定的な重要性をもつてゐる。歴史學の方法論そのものも史觀によつて規定されるのである。然しながら第三に、史觀に於ける固有なるものは、それがロゴスの平面よりも深く存在の問題に關係するばかりでなく、寧ろそれが客體的存在よりも更に深く主體的事實に關係するところに求められなければならない。即ち史觀はその根源に於て事實としての歴史によつて規定されてゐる。それは固より存在としての歴史によつて規定されることがないと云ふのではない。然し史觀の固有なる本性は、それが客體的なものを模寫してゐるところに見らるべきでなく、寧ろ主體的なものを自己のうちに表出してゐるところに捉へらるべきである。かかるものとしてそれはロゴスとしての歴史よりも根源的な意味をもつ意識なのである。存在の問題が如何に把握されるかといふことも史觀を通じて事實としての歴史によつて規定される。そして歴史敍述はその根柢に於て史觀に規定されることによつてイデオロギーとしての性格を擔はせられることとなる。蓋しイデオロギーといふ言葉は、ロゴスが單に客體的なものを模寫するにとどまらず、同時に主體的なものを自己のうちに表出し、且つそれが如何に前者を模寫するかの仕方そのものがかかる主體的なものによつて規定されてゐるといふことを表はしてゐる。今日特に史觀の問題が我々の間でやかましく論ぜられるのも、歴史敍述のイデオロギー的性質、從つてそれの主體的制約の暴露及び批判に關係してのことである。
それではかくの如き根源的な意識としての史觀の問題を具體的に解明すべき場所は何處に求めらるべきであらうか。それは凡ての史觀が共通に立つてゐる處に求められねばならぬ。さうでない限り、問題はそれにふさはしく根本的に取扱はれることが出來ない。なぜなら問題は、種々なる史觀に於ける相違もしくは對立の由來するもとを究めることであり、そして凡ての史觀が共通に立つてゐる處こそ恰もそれらの間に於ける相違もしくは對立の出て來る源の存する處である。この問題の解明に際し、我々は先づ存在としての歴史に手懸りを求めようと思ふ。そしてそのとき我々は何よりも次のことを見出すであらう。存在としての歴史はそれ自身一個の領域を形作り、自然の存在の領域から自己を區別する。この區別は歴史の領域の中心には人間が立つてゐるといふところに根本的に横たはつてゐる。歴史には人間が屬する、歴史は人間と共に始まりまた終る、少くとも優越な且つ決定的な意味ではさうであると思はれる。その限りに於て、歴史と云へば人間歴史のことである。然るにこのやうに歴史と人間とを實質的に聯關させるといふことは、單に觀念論的な史觀にのみ特有なことなのでなく、唯物史觀の立場をとる人々によつても等しく認められてゐるところである。即ちエンゲルスも、「各人が彼自身の、意識的に意欲した諸目的を追求することによつて、人間はそれがどういふことにならうと彼等の歴史を作る、そして種々なる方向にはたらくこの多數の意志及びこのものの外界に對する多種多樣の作用の結果がとりもなほさず歴史である*。」と書いてゐる。歴史とは自然でなく人間の作るものである。或は人間自身は自然から區別せられて歴史である。どのやうな意味に於てであれ、人間が人間として自然から區別せられるといふことがないならば、存在としての歴史、換言すれば自然とは異るものとしての歴史に就いて語るといふことは無意味にされてゐると云はなければならぬ。優越な、固有な意味に於ける歴史的なものとは人間的なものであるといふことは、凡ての史觀によつて何等かの仕方で共通に認められてゐる事柄である。
* F. Engels, Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen Philosophie, Marxistische Bibliothek, S. 56.
この場合すぐさま次のやうな問題が生じて來るであらう。歴史は、好んで用ゐられる比喩によれば、その内容が人間の諸運命であるところの芝居に見立てられる。芝居には舞臺があり、また役者がある。歴史の舞臺は我々の棲息する地球であり、歴史の役者は我々人間である。然るに地球はそれ自身地球の發達史をもつてをり、次に人間もまた人間の發展史をその背後に負うてゐる。そして後者は前者につらなり、前者の終るところに後者は始まると見られることが出來よう。蓋し人間の發展史は生命の發達史の單なる一節をなすに過ぎず、このものはまた母なる自然の全體の出來事の發展の流の中に注ぎ入る、それはいはば地質學的な幾百萬年の出來事のうちに自己を見失つてしまふであらう。かくていまこれら一切の出來事の總體は一つの連續として、表象されることが出來る。そして更にその場合かかる出來事の連續に相應して認識の連續が考へられることとなる。即ち、歴史學、先史學、歴史的地質學、なほ動物及び植物の發達史を加へて、これら凡ての學科はその本質に於て同質的な認識であり得、またあらねばならぬであらう。これらのものはその精神に於て姉妹であり、皆等しく「歴史的」科學と稱せられることが出來る。それ故もしも宇宙の總體の出來事にして單に連續的と見られるならば、その固有なる意味に於ける歴史學――特に自然科學に對する區別に於て――なるものの獨自性は認めらるべくもない。そのときには、歴史的時代と先史時代との區別も單に相對的と考へられるほかないのであるから、その固有なる意味に於ける歴史的時代の發展の諸段階の區分の如きは殆ど全く無意味とせられるであらう。かくて實際に次の如き見解が現はれてゐる。ダーウ※[#小書き片仮名ヰ、210-5]ン主義の影響を受けたルド・モーリッツ・ハルトマンは『歴史的發展に就いて』語り、就中次のやうに論じてゐる*、「何處にいつたいかの原始的諸發展と所謂歴史的時代の諸發展との間に於ける原理的な差異が存するのであらうか。唯我々にとつて、純粹に主觀的にのみ、一の對立が存するのである。」「人間相互の及び人間の自然に對する諸關係はより複雜になつてゐるにせよ、しかも原始人の時代から我々の時代に至るまで發展にとつて何等全然新しい動因も附け加はらなかつたことは明かである。原始人と文化人とはいはば程度上區別されるのであつて、質的に區別されるのではない。」「原始的諸状態と文化との間に於ける對立にとつての諸規準は、歴史的時代の古代、中世及び近世への普通の區分にとつての諸規準に劣らず相對的且つ主觀的である。」然しもしこのやうに考へられるときには、ひとは進んで原始人と高等哺乳動物との、更に爾餘の動物との差異なども凡て主觀的であり、相對的であると云はなければならなくなるであらう。從つてそのときには、何故にハルトマンが自然的發展に就いてでなく、歴史的發展に就いて語つてゐることになるかも理解されない。そしてこのやうな發展に就いて語ることが何故に、ハルトマン自身の提唱するやうに、「歴史的社會學」なるものへの序論となるのであらうか。社會といふことに關しても例へばエスピナスの如く「動物社會」といふ如きものを考へ得るにしても、かかる動物社會と人間社會との間に決定的な非連續、從つて單に量的差異とは見られない質的差異があるのでなければ、もと「社會」なる語はその固有な、含蓄的なる意味に於ては語られ得ない筈である。ハルトマンは自分の見方とマルクスとの間には聯關があるもののやうに主張してゐる。然しながらマルクス自身はこれに對して恐らく、彼がランゲに就いて云つた言葉を繰り返すであらう。曰く、「ランゲ氏(勞働者問題、第二版)は、自分自身を偉らさうに見せるために、私に大變な讚辭を呈してゐる。即ちランゲ氏は一の大發見をなしたのである。全歴史は單に唯一の大自然法則のもとに凝縮せしむべきである。この自然法則といふのは『生存のための鬪爭』struggle for life といふ空語(――ダーウ※[#小書き片仮名ヰ、211-12]ンの言葉はこのやうな適用に於ては單なる空語となる――)であり、そしてこの空語の内容はマルサスの人口法則或は寧ろ過剩人口法則である。それ故に生存のための鬪爭をば、それが歴史的に種々なる一定の社會形態のうちに現はれてゐる樣に於て分析する代りに、ひとはあらゆる具體的な鬪爭を『生存のための鬪爭』といふ空語に、そしてこの空語をマルサスの人口に關する想像に換へさへすればよいのだ**。」なほ注意すべきことに、マルクスはこの同じ書簡の中でヘーゲルの辯證法に論及してゐる。實際、辯證法的發展の思想のみが歴史的時代の諸段階の間に於ける、そして根本的には自然と人間、或は自然の歴史と優越な意味に於ける歴史即ち人間の歴史との間に於ける非連續乃至飛躍を明かにし得る。そしてそれによつて歴史學の自然科學に對する獨自性の基礎付けも可能にされる。この非連續性はどこまでも決定的なものでなければならぬ。けれども他面自然と人間、從つてまた自然科學と歴史學との間に何等の連續性も存しないといふのではない。かくの如き連續に於ける非連續、非連續に於ける連續の關係を理解せしめるものが辯證法にほかならないのである。然るに我々の既に確かめたところによれば、辯證法はもと單なる存在の平面に於ては考へられない。これを單なる存在の平面に於て考へようとすれば、因果的な見方と辯證法的な見方との混同と混亂とは免れ難きものとなるであらう。從つて自然と歴史或は自然と人間との間の辯證法的非連續性がまさにかかるものとして把握されるためには、歴史もしくは人間が單に客體的に存在としてでなく、同時にまた主體的に事實として把握されるのでなければならぬ。このことは即ち次のことを意味する。單に存在的 ontisch にのみ考察されるとき、自然と人間との間の非連續性は眞に理解され得ない。單に存在的にのみ考察すれば、我々は寧ろ反對に兩者の間の限りなき連續性、そこでまた同一性を發見することが可能である。自然と人間との間の非連續性は、人間が單に存在的にでなく同時に存在論的 ontologisch に理解されるとき、初めて現實的に把握され得るのである。存在論的といふ語も多義であり、我々はそれを特殊な意味に用ゐる。即ちそれは、存在的といふことが存在を存在の秩序に於て存在そのものの聯關から認識することを意味するに對し、存在を事實との聯關に於て、從つて主體的なもの、行爲するものとの關係から理解することを意味する。この場合固より事實が何であるかはそれ自身に於ては理解され得ない、然し事實は意識に於て表出され、しかも意識の特殊性は、後にも述べる如く主體的な事實をまさに主體的に表出するところにある。存在は事實にはたらきかけるが、かくはたらきかける意味、換言すれば存在の主體的な意味は意識に於て顯はにされて與へられる。そこで存在論的といふことは存在を存在の意識、しかも存在を客觀的に模寫する限りに於ける意識でなく、主體的なものの存在に對する關係を表出する限りに於ける意識に即して理解するといふこととなる。かかる意識の問題は單に主觀的な問題に過ぎぬのではない。この意識そのものは寧ろ決して單に主觀的とは云はれない事實によつて規定され、存在の事實に對する意味及び事實の存在に對する根源的な要求を自己のうちに表出する。それ故に存在の意識の問題は單に存在と意識との關係の問題でなく、同時に存在と事實との關係の問題である。存在論的見方の深さはそこにある。存在論的は單にそれが意識に關係することによつてでなく、却つてそれが事實との關係を含むことによつて存在的から區別される、――存在的も或る意味では意識と無關係ではなからう。然しまた事實は内在的に自己を意識せしめるのみでなく、寧ろそれよりも先に意識を破つて意識に超越的に自己を存在として現はす。從つて存在論的見方は存在的見方を離れ得ない。かくて事實が一方客體的に存在に於て表現され、他方主體的に意識に於て表出されるところから、歴史または人間に關する考察の仕方は存在的・存在論的でなければならぬ。それがかかる考察の仕方をそれ自身に於て要求するのは、それが屡々云つた如く一重でなく二重のものだからである。それの存在論的規定は存在的規定を俟つて初めて現實的となる。然しまたそれの存在的規定は存在論的に理解されて初めて具體的となる。存在的見方と存在論的見方とが唯相補ふ二つのものでなく、存在的・存在論的見方として統一であり得るのはこのやうにして、我々の如く存在と意識との根柢に事實といふものを認めてのことでなければならない。そしてまた存在的と存在論的とが無差別であり得ないのは、存在と事實とが單に連續的なものでないからである。存在的・存在論的見方は辯證法的である。これらに關しては後に更めて論じよう。唯ここで注意しておかねばならないのは、歴史を存在的・存在論的に把握するといふことは、自覺された哲學的要求にとどまらず、我々の日常的な、原始的な歴史の理解に於て既に行はれてゐる事柄である。即ち「自然」といふ語は普通自然の存在と自然科學とを一緒に意味しないに反し、「歴史」といふ一つの語が普通存在としての歴史とロゴスとしての歴史とを同時に意味するのは、恰もこのことを示すものと見られよう。
* Ludo Moritz Hartmann, Ueber historische Entwicklung, Sechs Vortr
ge zur Einleitung in eine historische Soziologie 1905, SS. 10, 11.

** K. Marx, Briefe an Kugelmann, Hrsg. v. H. Duncker, zweite Auflage 1927, S. 85.
さて史觀の問題の所在を明にするために我々はもう一度出發點に立ち歸らねばならぬ。根源的な存在理解に於て歴史と人間とは結び付けられてゐる。そこで我々は次のやうに問ふ。然らば如何なる意味に於て人間の出現は宇宙の出來事の總體の發展のうちに鋭い且つ深い線を劃し、それによつて自然と歴史とが區別せられることになるのであらうか。この問の意味を出來るだけ明瞭にするために、我々はいまそれを極端にまで推し進め、フリードリヒ・ゴットルに倣つてそれを「歴史の限界」もしくは端初の問題として問はうと思ふ。然るに歴史と人間とが離れ難く結び付いてゐるとすれば、このやうな歴史の限界は丁度人類の起原と合致することとなる。今日の人類學、古生物學乃至地質學の研究の結果が人類の起原を何處におくにせよ、そのおかれた處に丁度歴史の限界は句切られてゐる筈である。けれども現實に於て我々の歴史學はそのやうな處からその歴史敍述を始めてゐはしない。我々の歴史學は人間歴史のたかだか數千年を取扱つてゐるに過ぎぬ。それ以前に數十萬年をもつて數へられる所謂「先史時代」なるものが横たはる。ここでも出來事はやはり人間と結び付いてゐるに拘らず、我々の歴史學がそれをほかならぬ先史時代として自己の本來の領域から除外するのは何にもとづくであらうか。それは先づ第一に歴史敍述の實際上の可能性の問題に關係するかの如く見える。もしランケの云つたやうに、あらゆる歴史は文書と共に初めて始まるとするならば、或る一定の時以前には文字による記録の存しないために、そこでは歴史敍述も實際上不可能であり、そのためにその時以前は先史時代と見做されることともならう。もしもさうだとすれば、それは歴史學にとつて避け得るならば避けたき一の實際上の窮迫を意味するに過ぎないとも考へられよう。然しながら先史時代といふ語は一層理論的な意味を含む如くに思はれる。それは單に歴史敍述の實際上の可能性の限界を表はすにとどまらず、また第二にそれの理論上の可能性の限界の問題に連繋してゐる。蓋し、例へば歴史は文書と共に始まると云ふとき、自己の活動を言語及び文字によつて表現もしくは記録するといふことは精神的文化的活動であり、從つてそのとき歴史敍述の限界は理論上から見て精神的文化の發端といふところになければならぬとせられてゐるとも考へられよう。このやうにしてオトカル・ローレンツは歴史の端初を「國家に於て活動する人間の出現」のうちに、或はエドゥアルト・マイヤーは嘗てそれを「一民族の生活の中へ侵入する要素としての個人の進出」のうちに見た。かかる仕方で歴史の端初が問題にされるとき、それは云ふまでもなく歴史敍述はもと如何なるものであらうとするかといふ問題に關係してゐる。即ちそれは、ディトリヒ・シェーファーの語を用ゐれば、「歴史の本來の作業領域*」の問題であつて、歴史家がかかる理論的問題に對して取る態度の如何なるものであるかは、特に、彼が歴史敍述の本質をそれの端初の形象に於て眺めようと試みるとき最も顯はになるであらう。この問題に關係して我々は、歴史は本來政治史であるべきか、それとも文化史であるべきかに就いての、往年の有名な論爭を想ひ起すことが出來る。然るにこのやうな歴史敍述の理論上の可能性の限界の問題は、その根柢に於て、より深い層に横たはるところの歴史の限界の問題につらなつてゐる。これとりもなほさず歴史的出來事そのものの限界の問題である。この第三の意味に於ける歴史の限界の問題は、もはや歴史敍述に關係するロゴス的問題でなく、寧ろ存在としての歴史に關係する存在的・存在論的問題である。然るに歴史はその實體に於て人間の歴史にほかならないから、この問題はやがて人間に就いての存在的・存在論的問題であり、少くとも本質的な關係に於てはさうでなければならぬ。人間に關するかやうな存在的・存在論的理解がまさに人間學と呼ばれるものの本來の内容であるとすれば、歴史の問題にとつて人間學が最も密接な聯關を有することは明瞭であらう。人間がその本性に於て何であるとして理解されるかの仕方は、歴史的なものがその本質に於て何であるかに就いての理解の仕方に連繋する。ゴットルは歴史敍述の限界の問題とは區別される歴史的出來事そのものの限界の問題を明快に摘出したが、彼はこの問題に答へて、歴史學の向つて行く出來事といふのは「我々が論理的思惟諸法則の地盤からして、理性的行爲の組合せとして把捉するところの出來事」であると述べてゐる。換言すれば、歴史學の對象たる出來事に就いては、「ここでは論理がいはば出來事そのもののうちに差込まれてをり、論理がそれの實體に屬し、それの特殊な構造に對して決定を與へてゐる」と云はれる**。然るに存在としての歴史に關するかかる見解は既に人間に就いての一定の解釋、即ちこの場合では理性人間の人間學といふものにもとづいてゐるのではないか。他の者は、歴史的なものは人間的なものであることを同じく認めつつも、異つた人間學の上に立つて彼とは違つた見解を述べるであらう。そしてこのやうにそれ自身或る一定の人間學によつて規定される歴史的出來事そのものの限界に關する見方は、次に自分の側から、歴史敍述の本來の作業領域が何であるかといふそれの理論上の可能性の限界に關する見方を規定し、そしてこのものは更に、歴史敍述の實際上の可能性の限界が何處にあるかに關する見方を規定する。それ故これら三つの意味に於ける歴史の限界の問題は、ゴットルの考へた如くそれぞれ獨立したものでなく、寧ろ相互に密接に關聯する。しかも我々はそれらの問題に關する見解がその根柢に於て人間學によつて規定されてゐるのを見出す。人間學はこのやうにして歴史のあらゆる問題にとつて少なからぬ交渉をもつてゐる。マイヤーが歴史の端初は一民族の生活の中へ侵入する要素としての個人の進出にあると考へたとき、そこには既に一定の人間學、即ち人間の本質を個人の人格的自覺と自由とに於て見る人間に關する一定の解釋が言ひ表はされてゐる。
* Dietrich Sch
fer, Das eigentliche Arbeitsgebiet der Geschichte 1888.

** F. Gottl, Op. cit., S. 37.
* Max Scheler, Mensch und Geschichte, Z
rich 1929, S. 8. またハイデッガー(M. Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik 1929, S. 200.)、更にディルタイ(W. Dilthey, Gesammelte Schriften,
. Band, S. 88.)を見よ。


** 拙著『唯物史觀と現代の意識』に於ける「人間學のマルクス的形態」〔全集第三卷收録〕參照。
なほこの論文に就き人間學とイデオロギーとの辯證法的關係、並びに、我々が「ロゴスの第一次變革過程」及び「ロゴスの第二次變革過程」と云つたものに注目せよ。これらのことは歴史の場合にも當て嵌まるのである。
* Vgl. Kant, Muthmasslicher Anfang der Menschengeschichte.
** Kant, Kritik der reinen Vernunft, B. 868.
*** Vgl. O. Spengler, Der Mensch und die Technik 1931.
第一、人間學は一般的に云つて人間の自己解釋である。人間が自己を解釋するといふのは彼にとつて決して外的なことでなく、却て彼の存在の仕方の最も根本的なもののひとつである。人間は種々なる存在者のまなかにある存在者であり、そしてその際彼でないところの存在者及び彼自身であるところの存在者が彼にとつてつねに既に顯はになつてゐるといふことが含まれてゐる。人間のこのやうな存在の仕方がハイデッガーによつて實存 Existenz と呼ばれる。ただ存在理解 Seinsverst

* M. Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik, S. 219.
第三、然しながら既に云つた如く、事實は一方主體的に自己を意識に於て表出するにとどまらず、他方客體的に自己を存在に於て實現する。事實は行爲するものとして意識のうちに閉ぢ込められてゐるのでなく、意識を超出して自己を存在に於て客觀化する。事實は意識されるに先立つて存在となる。かくの如き事實の意識超出の方面に留意されることがまた甚だ必要である。人間が何であるかは彼が主觀的に自己を如何に理解してゐるかに從つてでなく、彼が客觀的に何を爲し、また爲したかによつて知られる。これは哲學者の智慧であるのみでなく、我々は我々の日常の生活に於てこれをよく理解してゐるのである。それだから根源的な人間學のうちにはつねに既に、單に存在論的な見方のみならず、また存在的な見方が含まれてゐる。人間は種々なる存在を觀察することによつてシェーラーの所謂「宇宙に於ける人間の位置」、その特殊位置を知り、就中社會に於ける自己の位置を理解する。人間の自己解釋たる人間學はこのやうにして特に彼の社會的「存在」によつて規定されてゐる。彼の存在の社會的規定を離れて彼の有する根源的な人間學の性質を把握することは出來ない。かくて要するに人間學は事實と存在との二重の規定を受けてゐることにならう。尤も注意すべきことは、單に人間の存在のみが社會的なのではないといふことである。最初に記しておいた如く、事實もまたそれ自身の意味で社會的である。寧ろ人間は事實として社會的であるが故に、彼等は社會的存在を作るに至るのである。それ故に存在的見方のみが社會的見方であると云はるべきでなく、存在論的見方もそれ自身社會的なものを含む。意識も元來社會的なものであり、人間學はその本性上根源的に社會的規定を有する。人間は唯社會のうちに於てのみ自己を個別化し得る。かくて學問的に取り上げられた人間學の方法も存在的・存在論的でなければならぬことは明瞭であらう。存在的見方と存在論的見方との二重のものがそこに於て要求され、しかもそれらが單に二つのものでなく統一であるといふのは、事實が一面主體的に意識に於て自己を表出すると同時に、他面客體的に存在に於て自己を實現するからであり、このやうに意識も存在も共に根源的に事實によつて規定されてゐるからである。存在的・存在論的見方はかかるものとして辯證法的でなければならぬ。史觀も同じやうに現在の歴史と現代の歴史との二重の制約のもとに立ち、意識として存在的・存在論的構造のものである。人間學も史觀もこのやうに本來存在的・存在論的規定のものであるけれども、一般的にイデオロギーに對する關係に於て人間學を、特殊的に歴史敍述に對する關係に於て史觀を見るとき、前者が主として存在的なるに對し、特に後者の存在論的な側面が強調されることとなる。我々も實際これまでかくの如き特に強調された意味に從つてそれらのものに就いて語つて來たのである。科學的研究は直接にはつねに存在を對象としてゐる。一般的にイデオロギー、特殊的に歴史敍述が主體的な規定を受けるといふのも、主としてそれらが一般的には人間學、特殊的には史觀によつてその根柢に於て規定される關係を通じてであると云はれることが出來る。
さて如何ほど種々なる人間學、そしてそれに相應して如何ほど種々なる史觀が從來歴史に於て現はれたかを立入つて檢討することは今の問題でない。シェーラーは『人間と歴史』といふ論文の中で彼の詳細な研究の結果として、かかるものを五つの根本的類型に區別して擧げてゐる。それに就いて我々はここで再吟味を試みようとも思はない。ここには彼が人間學と歴史との聯關を總括した次の文章を同意しつつ引用するにとどめよう。「何故に我々は今日かくも多くの且つかくも全く相異つた歴史觀及び社會學が互に激烈に爭つてゐるのを見るかの最も深い理由は、凡てこれらの歴史觀の根柢には人間の本質、構造及び起原に關する根本的に相異る諸理念が存するといふことのうちに看取さるべきである。なぜなら各々の歴史理論は、歴史家、社會學者または歴史哲學者にそれが意識され、理解されてゐると否とに拘らず、一定の種類の人間學にその基礎を有するからである。」我々はこの場合、今日人間の本性に關する人々の意見の間に何等の統一も存しないのは、我々の社會が分裂し、その内部に激烈な諸對立が含まれてゐるところにひとつの重要な理由を有するといふことを附け加へておかう。
ここで問題は、如何なる種類の人間學が我々の初めに規定した優越な意味に於ける「歴史的意識」と結び付き、それを構成するやうな人間學であるかといふことである。かかる意味に於て歴史的な人間學と非歴史的な人間學とが區別される。そして歴史的意識から非歴史的と見られる史觀には非歴史的な人間學が結び付いてゐるのがつねである。かの非歴史的な啓蒙時代に例をとらう。この時代の一般的な史觀は「實用主義的」と稱せられるものであつた。ヒュームは歴史の研究に就いて論じ、この研究は三つの利益を有すると述べてゐる。歴史は先づ想像を樂しましめ、次に悟性を改善し、そして最後に徳を力づける。歴史家は彼の敍述によつて賞讚及び非難の活溌な感情を喚び起し、それによつて情操に對して道徳的感化を及ぼす者である。歴史的意識が非歴史的と見做すこのやうな實用主義的史觀には次の如き非歴史的な人間學が結び付いてゐたのである。即ちヒュームは書いてゐる、「人間性はあらゆる時あらゆる處に於て全く同一であり、そこで歴史は人間性に就いて我々に何等新しいことまたは珍しいことを傳へない。歴史の主要な利益は唯人間性の恒常的な且つ普遍的な諸原理を發見することにある、といふのは、歴史は人間を境遇及び状況のあらゆる可能なる相違に於て示し、かくて我々に我々の觀察の材料を提供し、これに就いて我々は人間の行爲及び活動の規則的な諸原因を知ることが出來る。」ヒュームにとつて歴史は人間の認識のための心理學的材料の供給される場所である。人間は唯限られた數の動機及び性質しかもたず、これはヒュームの言葉を用ゐれば歴史に於て何等の擴大も受けないのである*。これに反し歴史的意識の發達に決定的な影響を與へ、近代の歴史學の發展に重要な寄與をなしたヘーゲルにあつては如何であらうか。ヘーゲルは理性人間の人間學の上に立つてゐる。然し彼は、この人間學がもと理性を歴史的にも民族的にも恒常な量と見たのに對し、理性をもつてそれ自身運動するもの、歴史に於て發展するものと考へた。人間は生成の過程に於て彼が理念上あるところのもの即ち自由の絶えず高まりゆく意識に到達する。「世界歴史は自由の意識に於ける進歩である。」彼は自由の意識の發展段階を次のやうに敍述した。一、なほ直接的な、精神が自然性の中に沈める状態。二、精神がこの状態を脱して自己の自由の意識に移つてゆく段階、けれどもここではまだ自然からの分離は不完全で、部分的である。三、この特殊的な自由よりその純粹な普遍性への高昇、ここに於て精神はその實質たる自由の完全な自己意識に到達する。第一の段階にあたるのは東洋人の世界であつて、そこでは唯一人の、即ち專制君主の自由があるのみである。人間は自體に於て自由であることを知らず、從つて自由でない。第二の段階はギリシア人及びローマ人の世界である。ここでは自由の意識は特殊的には目覺めてゐるけれども、この世界は奴隷の存在を前提するのであるから、唯若干人の自由があるのみである。第三の段階はゲルマン人の世界であつて、キリスト教的世界である。ここに於て少くとも原理上一切の人間が人間として自由なものであることの自覺に到達されたのである。かくの如くにして既に、取り立てて言ふを俟たないほど明かなことは、歴史的意識と結合する人間學、即ち歴史的人間學ともいふべきものに於ては、人間が彼等自身發展的なものとして把握されねばならぬといふことであらう。單に個人のみでない、人類が、人類社會が發展するものと考へられなければならないのである。歴史的人間學の體系的な展開を企てることは他の機會に讓られねばならないであらう、今はこれまでに述べて來たこととの聯關に於て特に左の諸點を指摘しておくにとどめようと思ふ。
* Vgl. J. Goldstein, Die empiristische Geschichtsauffassung David Humes 1903.
二、然し人間は單に主體的事實でなく、同時に客體的存在である。人間は現實的なものとして主體=客體の統一である。この統一は對立に於ける統一であり、從つて人間はその本性に於て辯證法的なものである。人間は自己を絶えず二つのものに分裂し、分裂しつつ統一である。かかるものとして人間は運動的、發展的である。それ故に人間を單に主體的にのみ捉へて、同時に客體的に捉へないことは、それ自身また一の非歴史的な見方と云はれねばならぬ。かかる意味での非歴史的な見方をひとはなほハイデッガーに於て見出すであらう。人間はみづから存在としての歴史に屬し、これによつて規定され、制約される方面を有する。かかる制約、即ち普通に人間の歴史性といはれるものの尊重されることが大切である。人間は歴史的存在である。歴史的存在として人間は先づ自然の制約のもとに立つてゐる。人間の歴史性には彼等の風土的規定性その他のものが屬する。然し最も特有なのは、人間の生産物が生産者たる人間自身を規定し、支配するに至るといふことである。かやうな生産物といふのは彼等の物質的な生産物に限られず、彼等の觀念的な生産物がまたさうである。一般的に云へば、歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷屬せしめる。かやうな壓迫を越えての發展即ち眞の歴史があるためには、既に云つた如く、事實そのものが眞に運動的、發展的と見られねばならぬ。眞に運動的、發展的なものにして「實體」でなく「主體」であるとも考へられ得るのである。存在の運動ももと存在の根據たる事實の運動にもとづく。もしも事實にして眞に發展的でないならば、存在に於て如何に多姿多態なる變化が現はれるにせよ、我々は結局ショーペンハワーの如く語らねばならぬであらう。世界の實體を盲目的な意志と見做した彼によれば、「歴史はあらゆるページに於て種々なる形態のもとに唯同一のものを示すに過ぎぬ。諸民族の歴史の諸章は根本に於て唯名と年數とによつてのみ異つてゐる。本來の本質的な内容は到る處同一である。」存在に於ける變化はそれ自身として發展――單なる變化でなく――と見らるべき必然性を含まない。發展は存在と事實との關係に於て考へられる。然しそのためには事實は眞に發展的と見られなければならない。存在のみが歴史的なのではない、事實も事實としての歴史である。そして意識の歴史性といふことも、意識の特殊性に從つて本來、それが存在の歴史性よりも寧ろ事實の歴史性即ち瞬間的歴史性によつて規定される側面に於て認められねばならぬ。
三、歴史的意識は個人主義的でなく、超個人主義的 transpersonalistisch な見方を含んでゐる。歴史は固より個人がそれを作るに參加するのであるけれども、個人にとつてどこまでも作られるものの意味をもつてゐなければならない。歴史的人間學は人間を社會的に把握する。しかもこのことは原理的に二重の意味に於てでなければならぬ。即ち人間は存在として社會的であるばかりでなく、また事實として社會的である。社會的なものを單に客體的方向にのみ見て、主體的なもののうちに理解しないといふことは多くの場合に見られる誤謬である。もし社會的といふことが唯客體的な意味しかもたないとすれば、そのとき主體的なものを尊ぶといふことは單なる主觀主義に陷ることともなり、またそのときには社會的なものを重んずるといふことは單なる客觀主義に陷ることともなるであらう。主觀主義はその場合また觀念論につらなるであらう。歴史的意識が客觀主義的であるとは屡々語られるところである。然しながら單なる客觀的見方から歴史の出て來ないことは我々の論述した如くである。けれどもさうかと云つて、我々の立場は主觀主義であるのでもない。我々は事實の概念によつて主觀性を指すのでなく、却て主體的なもの、行爲するものを理解するのである。行爲が物の意味をもつのは、事實が純粹なイデーでなく、感性の意味を有し、身體的自然的なものを含むからでなければならぬ。丁度それ故にまた事實はそれ自身社會的なものの意味をもち得るのである。蓋し何等かの意味で感性的なもの、身體的なもの、自然的なものを認めることなしには社會なるものは考へられない。これが普通に社會的なものを唯客體的方向に於てのみ見るといふことにひとを導く理由でもある。我々によれば、人間は存在としてよりも更に深く事實として社會的である。然るにもし主體的なものを純粹にイデー的と考へるならば、それによつて超個的自我といふ如きものは考へられるにしても、そのものは現實的に社會的な意味を含み得ないであらう。超個的と社會的とは同一でない。そこで我々は社會と個人との關係といふ重要な問題に遭遇せざるを得ないのであるが、それに就いては我々の社會哲學に於て更めて論ずることにしたい。
けれどもここになほ次のことを簡單に附け加へておかなければならないであらう。我々はさきに歴史的なものをその存在に於て規定して、現實存在であるとした。歴史的な見方は現實存在をもつて優越な意味に於ける存在として決定することにより初めて具體的に成立する。そこには我々のいふ現實存在の方向に於ける存在論的決定が含まれてゐるのでなければならぬ。これに反しもしも本質存在の方向に存在論的決定がなされる場合には、他の點に關してはどれほど深く歴史的な見方がなされてゐるにしても、究極に於てそれも非歴史的な見方に終らざるを得ない。このことは歴史的な見方をしながらなほイデーをば最も實在的な存在と考へたヘーゲルの歴史哲學に就いて何よりもよく示されることが出來よう*。然るに如何なる方向に存在論的決定がなされるかといふことは根本的には如何なる種類の人間學がとられるかといふことに相應する。今日も多くの哲學の自明の――この自明性こそ最も危險な性質のものである――前提をなしてゐる理性人間の人間學は「ギリシア人の發見」に屬する。これに相應してギリシアの代表的哲學はイデー即ち一般的には本質存在の哲學であつた。そしてギリシア哲學が非歴史的であつたことをひとは知つてゐる。歴史的な見方は現實存在の方向に於ける存在論的決定を含まねばならず、このものに相應するのは我々がその二三の點に就いて規定した如き歴史的人間學でなければならぬ。このやうにしてまた人間の存在解釋は人間の自己解釋に相應する、とも云はれよう。人間は彼自身を解釋する仕方に相應して存在を解釋するのである。その限り人間學と存在論とは、ハイデッガーの云ふやうに、よし區別さるべきものであるとしても、相互に最も内面的につながり合つてゐる。生の哲學はそのよき例である。否、ハイデッガー自身の哲學がその最もよき例であらう。そのやうな點から見ても人間學は心理學的な言葉をもつてよりも存在論的な言葉をもつて一層現實的に、具體的に規定され得るであらう。我々はこのことを實行して來た。人間學は單なる心理學ではないのである。云ふまでもなく、存在論的決定はその根源に從へば決して意識的に、自覺的に行はれるわけではない。學問に於ける存在論上の態度 Einstellung は寧ろその根柢に於てかかる根源的な存在論的決定によつて規定されてゐる。「存在」といふ言葉が語られるとき、ひとがそのもとに直接的自然的に如何なる種類の存在を理解するかは、それぞれの時代に於て異つてゐる。一定の時代の歴史に對する關係は既にそこに現はれる。如何なるイデオロギーもその基礎に一定の人間學を含むと共にそれに相應する一定のかくの如き根源的な存在論的決定を含む。人間學と同じく、存在論的決定そのものもその根柢に於て事實によつて規定されてゐる。兩者は絶對的に主體的なものとも云はるべき事實の上に於て成立する主觀と客觀との側面を現はしてゐる。このやうにしてそれぞれの人間學にかかはる史觀はまたそれぞれの存在論的決定にかかはる。それ故に史觀の問題は單にロゴスとしての歴史にかかはることでなく、實に存在としての歴史にかかはることでもあるのである。
* 拙稿「ヘーゲルの歴史哲學」(『史的觀念論の諸問題』)〔全集第二卷收録〕參照。
歴史的知識は人類そのものと共に古い。ひとつの民族が唯何等かの仕方で文化の段階に到達した處では、到る處既に或る歴史敍述が見出される。「歴史的感覺は人間の本性のうちに於て、それが夙に、幸福な諸關係のもとで、適當な形式に於てそれの表現を見出す筈がないには、あまりに活溌である。そしてこの自然的なタクトこそは、今もなほ我々の諸研究に道を示し、形式を與へるところのものである。」(ドロイセン)。凡ての人間は歴史人であると共に歴史家である。然るに歴史理論家によれば、かかる歴史敍述は一定の階梯を經て近代の所謂歴史學にまで發展した。この點に就いてベルンハイムの説くところは模範的として認められてゐる*。彼は歴史學の概念の歴史的發展を三つの階梯に分つた。第一、物語的(報告的)歴史。この階梯に於ては、ひとはただ何が起つたかを知らうと欲する、材料そのものが知識慾の對象である。歴史的材料はその自然的な時間上の順序に從つて物語られ、または數へ上げられる。この動機となる材料に對する關心は樣々な方向のものであり、そしてそれに應じて再現の形式も色々と違つてゐる。最も古いのは、半ば傳説風な、半ば歴史風な敍事詩などの場合の如く、人の目を惹く英雄的な行爲、人間の運命の變化または冒險に就いての美的關心である。ホメロスの詩はその類である。次に名譽心や功名心、重要と見える事件、殊に權力者の行爲を記憶に保存しようとする願望から他の類の記録が生ずる。石、金屬或は木に法律、條約、戰勝のことどもが彫り付けられる場合の如きである。更により實際的な關心、即ち宗教上、儀禮上、政治上の目的から或る事實を保存し、確實に傳へようとするとき、他の形式が生れて來る。君主及び役人の人名録、家族または氏族の系圖等がこの類に屬してゐる。第二、教訓的(實用的)歴史。この見方の最初の意識的な且つ古典的な代表者としてツキヂデスが擧げられる。彼はあからさまに彼の著作が過去のことに就いて、そしてそれによつて人事の常としていつかその通りにもしくは似た仕方で起り得ることに就いて、明瞭な觀念を得ようとする人々に役立つと述べた。從つて彼は、過去に關する知識から以後の同樣の政治的状態にとつての實際上の教訓を汲み取らうとする者であつて、このことは人間の本性及び行爲の普遍的な類似性のために可能であると彼は考へた。「實用的」pragmatisch といふ語はもとポリビオスから出たものであり、彼もまた教訓的歴史の立場をとつた。尤もこの有名になつた「實用的」といふ語は最初かやうな立場を表はしたのでなく、却てポリビオスは彼の歴史敍述を、それが國事 πρ

* 例へば、A. Meister, Grundz
ge der historischen Methode, zweite Auflage 1913. A. Feder, Lehrbuch der historischen Methodik, zweite Auflage 1921. 等は皆同じ分類の仕方に從つてゐる。坪井九馬三氏の『史學研究法』が歴史の種類として、物語、かがみ、史學の三つを掲げてゐるのも同樣の内容のものである。なほヘーゲルに從へば、歴史の考察の仕方には原始的歴史、反省的歴史、哲學的歴史の三つの種類が區別される。

* Bernheim, Lehrbuch S. 37f.
** 拙著『觀念形態論』に於ける「科學の發展の制限とその飛躍」〔全集第三卷收録〕を參照せよ。
* Vgl. Nietzsche, Vom Nutzen und Nachtheil der Historie f
r das Leben.

然しここに恐らく一の重大な懸念が生ずるであらう。もしも歴史が主體的事實の見地から書かれるものとすれば歴史には當然科學性が否認されねばならぬといふことにならないであらうか。歴史はいつたい科學ではないのか。ニイチェは歴史が純粹な認識であるべきことを拒んだ。歴史が科學たらんとする要求を掲げるや否や、歴史は單に過去を知るための過去の知識となり、かやうな知識が増せば増すほど、生ける生の歩行は困難にされるばかりである。そのときひとは過去の無數の顯微鏡的事實に向つて好奇心をはたらかせ、生きること、一切の問題を忘れることを學ぶべき場合に、認識の問題を求める。科學的歴史は生の健康を害するものであり、「歴史的疾病」と見らるべきものである、とニイチェは考へた。然しながら歴史的知識をひたすら生への有用性の見地からのみ見るところの、かくの如き歴史的プラグマチズムに對しては、一般にプラグマチズムに向ひ人々の繰り返へしてゐる非難、即ち知識は生にとつて有用だから眞であるのでなく、却て眞であるから生にとつても有用なのである、といふ非難が當て嵌まるであらう。單に生に對する有用性といふ目的からのみ知識を求めるとき、ひとは却てかかる有用性にも到達することが出來ない。歴史的知識と主體的事實との關係を重んずる我々の立場はプラグマチズムであつてはならぬ。それ故ここに我々は、一方歴史を何等か純粹な認識であるとする見解に反對すると共に、他方然し我々の立場からそのプラグマチズム的外觀を除き去ることが要求されてゐると思ふ。
先づ歴史的知識をいはゆる純粹な認識であるとする見解は、それ自身が既に歴史的でないといふ缺點をもつてゐる。ニイチェの云つたやうに、「歴史的知識の根源がそれ自身また歴史的に認識されねばならぬ、歴史は歴史そのものの問題を解かねばならぬ、知識はその針を自分自身に向けなければならない。」歴史的知識は何よりも自己自身を歴史的に究明すべきである。そして事物の成立の仕方を解明することはとりもなほさずその事物の本性を解明することである。あらゆる歴史的なもの、人間的なものに就いてと同じく、歴史的知識がもと如何なる性質のものであるかは、それが如何にして成立したかを明かにすることによつて根本的に示されることが出來る。それは、ニイチェ的に云へば、歴史的知識の「系譜學」Genealogie の問題にほかならない。系譜學的に見るならば、歴史の根源は事實のうちにある。分り易く云へば、歴史的知識の根源は人間の歴史性のうちに存するのであつて、人間が歴史的である故に、歴史的知識もあり得るのである。事實が事實としての歴史であるから、歴史的知識もあり得るのである。もし主體的事實にして自己を發展させるために、或は自己を存在に於て實現するために、過去の歴史に自己を結び付けるといふ必然性を何等含まないとしたならば、ロゴスとしての歴史は一般に存在しないであらう。然るにこのやうに存在としての歴史に自己を結び付けることは事實の歴史性を現はすものであり、且つそのことがあるのは、事實が自己のうちに否定的なものを含むからであり、このやうな否定の契機を含む故に事實も歴史的である。歴史を書くといふことが既にひとつの歴史的行爲として事實としての歴史にもとづくのである。
ところで我々のいふ事實は決して單に心理的なものであるのではない。この點に於て我々は多くのプラグマチズムが心理主義的であるのと全然反對である。我々は系譜學的立場に立つことによつて心理的發生的な見方をとるのでなく、寧ろ我々の立場は云ふべくんば存在論的發生的である。もしも事實にしてただ心理的なものであるとしたならば、我々は單なる主觀主義乃至相對主義に陷るのほかなく、かくては固より歴史的認識の客觀性も基礎付けられ得ないであらう。事實が心理的主觀的なものでなく、その意味では却て最も客觀的なものであることに就いて我々はこれまで屡々論述した。それのみでなく、我々は事實の存在に對する超越的關係を力説することにより、事實の立場に立つことが普通の意味に於て目的論でないことを示したのであるから、それが實用主義であるとはなほさら云はるべきでないであらう。
事實は主體的なものである、然るに何等かのものは、それが主體的なものとの關係に於て理解されることにより初めて歴史的といふ意味をもち得る。主體的なものは歴史的世界の認識にとつて任意に除き去り得或は除き去らねばならぬ要素でなく、却てもともとそれの成立するために缺くべからざる根本的な條件である。かかる主體的なものは客觀的なものとして、我々はそれを存在の根據として規定した。存在としての歴史は作られたものであり、事實としての歴史は作るものである。前者と後者との間にはこのやうに作られたものと作るものとの關係があるために歴史的認識の可能性も與へられると云はねばならぬ。既にヴィコがこの原理的な事態を明瞭に言ひ表はした。「歴史的世界は全くたしかに人間によつて作られた、そしてそれだから我々自身の人間的精神の諸形態のうちに歴史的世界の諸原理は發見されることが出來る。」「歴史的世界は、人間がそれを作つたが故に、それを人間は認識することが出來る*。」ヴィコに從へば、自然の世界は神がそれを作つたのであるから、それはひとり神によつてのみ認識され得、自然に關する人間の知識は不完全たるを免れないけれども、歴史は人間自身が作る世界である故に、人間はこのものに就いて確實な認識をもち得るのである。我々の意見によれば、どのやうな認識論もいはば自己自身から始まるのでなく、却て一定の存在論的前提ともいふべきものを含んでゐる**。彼の作つたものは彼自身によつて確實に認識されることが出來るといふ命題は、認識論のこのやうな存在論的前提のひとつを言ひ表はす。それは認識可能の前提として古くから認められて來たところの、知るものと知られるものとのアナロジーの關係――心理學者イェンシュは近頃それを「自我と外界との凝聚」Koh

* Vgl. Giambattista Vico, Die neue Wissenschaft
ber die gemeinschaftliche Natur der V
lker, Uebersetzt von E. Auerbach, S. 125 u. S. 139.


** この命題は我々の認識論に於て基礎付けられ、展開されるであらう。簡單には拙稿「認識論の構造」(『觀念形態論』)〔全集第三卷收録〕を見よ。

* Vgl. Adolf v. Harnack, Ueber die Sicherheit und die Grenzen geschichtlicher Erkenntnis 1917.
* 「私は時間と空間とから離して美を理解し得ない、そこで私は精神の産物に就いて、私がそれと生活とのつながりを發見するとき初めて喜びを感じ始める、且つそれが私をひきつける結合點である。ヒサルリックの粗野な土器は私をしてイリアスをよりよく愛せしめた、そして私は十三世紀に於けるフィレンツェの生活を知つてゐるために神曲をよりよく味ふ。私が藝術家のうちに求めるのは人間、ただ人間である。最も美しき詩は遺物以外の何であらうか。ゲーテは『唯一の永續力ある作品は折にふれての作品である。』といふ深い言葉を語つた。然るに結局は一般にただ折にふれての作品があるのみである、なぜならあらゆる作品はそれが作られた場所と瞬間とに依存してゐるから。ひとはそれを、もしその起原の所、時そして事情を知らないならば、理解ある愛をもつて理解することも愛することも出來ない。自己充足的な作品を作つたと信ずるのは傲慢な馬鹿に屬してゐる。最高の作品はただ生活に對するそれの關係によつてのみ價値を有する。この關係をよく捉へれば捉へるだけ、私は作品に對して愈々興味を感ずる。」(Anatole France, Le Jardin d'
picure.)。專ら古代の美術、詩、哲學の偉大なる精神的産物の理念的世界に生き、そして無意識的にこれらの領域の理念性を古代人の實生活に就いて自己の形作つた形象の中へ移入したクラシシズムの古代解釋に對して、我々はアナトール・フランスのこの文章のうちに古代學のリアリズムの立場が鮮かに言ひ表はされたのを讀む。

歴史的認識の方法がその基本的構造に於て如何なるものであるべきかは、歴史そのものの根本的構成によつて規定されてゐるであらう。歴史は二重のもの、事實としての歴史及び存在としての歴史であり、前者は作るもの、後者は作られたものである。歴史的研究の直接の對象となるのは云ふまでもなく存在としての歴史であらう。然し歴史家は最も多くの場合このものを直接に觀察し得るのでなく、直接には寧ろ與へられた史料に結び付きその背後に横たはる存在としての歴史を探り出すのである。然し存在としての歴史の認識は事實としての歴史との關聯に於て初めて歴史的認識ともなる。歴史的なものが歴史的として把握される場合、我々は既に事實としての歴史の上に立つてゐるのである。そればかりでなく、歴史的研究に於て求められるのは、單に史料の背後にある存在としての歴史にとどまらず、また更にこのものの背後にある事實としての歴史である、とさへも云はれ得るであらう。この意味でハルナックが力、方向及び仕事の究明をもつて歴史的研究にとつての最も重要な課題と考へたのは興味あることである。彼はこれらのものによつて存在ではなく、却て我々のいふ事實の位置にあたるものを表はさうとした筈である。それだからこそ、大事件、制度の如き存在の位置にあるものを史料の意味に誤解することとなつたのでもあらう。固より事實としての歴史はそれ自身に於て認識され得ない。それは存在に於てのみ客觀的に認識されることが出來る。それ故に歴史家が彼等の研究の目標を何よりも存在としての歴史におくべきことは當然である。そしてそれは我々の現實の生そのものにとつても偶然的なことでなく、無意味なことでもない。なぜなら我々は單に事實でなくまた存在の秩序に屬し、それの歴史的制約のもとに立つてゐるのであるから、かかる制約を明かにし、將來の發展に對する或る見通しを得るといふことは、我々にとつて必然でもあり、必要でもある。然しながらこのやうな研究と雖もその根柢に於て事實としての歴史の上に立つてゐるばかりでなく、寧ろ歴史家のうち勝れたる者は存在としての歴史の敍述を通じて事實としての歴史への或る洞見を與へようとしてゐることが見出されるであらう。或はまた少くとも歴史家は客體的なものを主體的なものに關係させて解釋しようとしてゐる。彼等はその歴史的存在の研究に際し、多くの心理的分析を行つてゐるのであるが、我々はこれをもつて客體的なものを主體的なものとの關係に於て把捉しようとする彼等の努力と解することも出來る。なぜなら、意識もむろん或る意味ではひとつの存在と見做され得るにしても、それの特殊性は、既に記した如く、意識は主體的事實がその主體性に於て自己を表出する場面であるといふところにあるからである。それだから歴史的なものの認識にして主體的なものとの聯關を全く見棄てるべきでないならば、心理的分析は歴史的研究にとつて缺き得ぬものと云はれよう。心理的分析は更に單純な理由から既に必要である。歴史家にとつて過去の歴史は史料に於て與へられてをり、然るに史料は過去の歴史そのものでなく、却てそれに就いての把捉であるといふ理由から既にそれは必要である。けれども我々は心理的分析の重要性を過大視するといふ危險に陷つてはならない。存在は固より事實の根據の上に立つてゐるのであるけれども、それはそれ自身の論理を含み、自己法則性をもつてをり、その限りに於て事實に對して獨立的な方面を有する。それだからこそ存在を存在として研究することも可能なのである。それだからこそまたそれは事實の反射とか反映とかに過ぎぬものでなく、却て事實に對立し、これと矛盾するに至るものでもあるのである。そこでまた存在をそれ自身に於て研究することを輕んじ、心理もしくは體驗の研究を重んずるといふことが、おのづから有機體説的考へ方の基礎の上に立つものであることが理解され得よう。
心理的研究の價値の過重といふまことに屡々現はれる危險に對して警戒するために、我々はなほ以下のことどもを注意しておかうと思ふ。――一、歴史の根柢たる事實は單に心理的なものでない。事實は自己を意識に於て或る仕方で顯はにするけれども、それ自身心理的なものに過ぎぬのではない。それを單に心理的なものと考へるとき、歴史の究極の原因は心理的なものに求められ、あらゆる歴史を心理から説明しようとすることとなる。これは所謂實用主義的歴史に於て多く見られることであり、かくの如き小商人根性はヘーゲルの特に嘲笑し、輕蔑したところである。反對に彼は社會や國家等の最も客觀的なものに於て理性の如何なるものであるかを示さうとした。我々もまた心理的分析を存在的分析に結合せねばならぬ。同じことは凡てランプレヒト流の歴史學に於ける社會心理的立場に對しても云はれ得よう。歴史の根柢は社會心理でなく、却てそれ自身社會性を含む事實である。二、歴史的なものは人間的なものである、然るに人間は意識を具へることが疑はれない限り、歴史の研究にとつて心理的分析は缺くべからざるものである、と考へられる。實にその通りである。けれど歴史的なもののうちに意識が織り合はされてゐるといふことと、意識が凡て歴史を作るといふこととは等しくない。そして人間は哲學者の想像するよりも遙かに廣範圍に亙り無意識的に行動する。またヘーゲルが「理性の狡智」と云つた如く、人間は彼等の行動に於て彼等が主觀的に意欲したのとはほかのものを客觀的に實現する。一般的に云へば、事實は意識を超出して存在となる。存在としての歴史は到底心理的なものに還元されて説明され得るものでない。從つて歴史の研究はまた心理的分析によらず、寧ろ存在を存在として研究しなければならないのである。三、人間が意識を有し、意識が彼等の活動に對して重要な意味を有することは疑はれないにしても、この意識そのものが、一面主體的事實によつて規定されると共に、然しまた他面客體的存在によつて規定されてゐるのである。彼等の社會的存在が彼等の意識を規定する。それだから意識が何であるかも現實の存在の分析を離れては具體的に理解されない。ところで意識が存在によつて規定されるといふことはまた二重の關係に於てである、即ち、意識はそれが存在を對象的に表象し、これを模寫する關係に於て存在によつて規定されると共に、より重要なことは、意識は存在が事實に對してはたらきかける意味即ち主體的な意味に從つて、情意的に、存在によつて規定される。表象は所謂「對象の要求」に從ひ、これに反し情意は却て「對象への要求」を現はすものと考へられる。意識の構造が表象及び思惟の方向と感情及び意志の方向を含むといふことは、我々の見るところでは、存在と事實といふ二重のものに相應してゐる。この關係に相應して意識そのものもまた辯證法的構造を含むであらう。そして根源的な歴史が事實としての歴史であるとすれば、我々の歴史的活動にとつてより重要な意味を有するのは情意でなければならぬ。人間は歴史人としては寧ろ情意の人である。情意はいま述べた通り存在が事實に對してはたらきかける主體的な意味を現はすものとしてたしかに存在によつて規定される方面をもつてゐる。然し情意の意味はこれに盡きるのでなく、他面全く根源的に事實そのものを表出する、情意の深さはここに求められなければならぬ。情意は表象及び思惟に對して主觀的であると云はれる、けれども情意の主觀性にしてそれが主體的事實を全く根源的に表出するところに存するとすれば、この主觀性が單に主觀的であり得ないことは明かである。事實は存在よりも或る意味に於て客觀的である限り、情意は表象よりも客觀的なものと云はれねばならぬ。そして情意といつてもそこに感情と意志とが區別せられるのは、もと事實が二重の契機を含むにもとづくものとも考へられよう。換言すれば、感情は事實の含む否定的なものに結び付き、意志はそれの積極的なものに結び付く。そこでまた感情は運命(我々は運命的なものをかかる否定的なものとして規定した)の體驗としてその固有なるものであり、意志は自由の體驗としてその固有なるものであるとも見られ得よう。運命の感情及び自由の意志に於て事實は主體的に、且つ全く根源的に自己を表出する。存在の有に對し事實が無の意味をもつとすれば、情意は無の體驗としてその最も固有なるもの、最も根源的なものであるとも云はれよう。然しながら客體的存在も歴史的なものとしては主體的事實に對する關係を含んでをらねばならず、そこからして單に表象的にのみでなく、またつねに情意的に把捉されてゐる。かかる情意的な把捉を含む存在に對して人間は彼等の歴史的活動を向はしめるのである。その限りに於て存在の分析は心理的分析に結び付かなければならないであらう。――かくて要するに、歴史的研究の方法はその基本的構造に於て存在的分析と心理的分析との結合である。この意味でディルタイが精神科學の方法を「歴史的分析と心理的分析との結合」として規定したのは正當であつたと云はれねばならぬであらう。そして歴史的研究の方法がこのやうな構造のものでなければならぬといふことは、事實が一面主體的に自己を意識に於て表出し、他面客體的に自己を存在に於て實現するといふことによつて要求されるのである。意識も存在も根源的には事實によつて規定されてゐるのであるから、心理的分析と存在的分析とは二つのものでありながら、統一である。
さて右の如き見地から我々は近代の解釋學、就中シュライエルマッハー、ベエクを經てディルタイに於て哲學的に解明されたそれを評價することが出來る。即ちこの解釋學の功績は、一方では、歴史的なものを一重のものとは考へず、客體的なものの根柢に主體的なものを認め、前者を後者から理解しようとしたところにある。解釋學とは一般的に云つて「理解」の方法的自覺であるが、ディルタイの定義に從へば、理解とは、「それに於て我々が外部から感性的に與へられた記號からして内部を認識する過程」である*。理解は主體的なものとの關係に於ての理解として初めて理解であり、そのことが理解は説明乃至所謂認識とは異る過程と見られる所以であり、また理解は單なる思惟のことでなく、情意的なものと考へられる所以でもある。或はまた理解は單なる受容であるべきでなく、作品の受容を作者の創作活動と結び付けねばならぬとも云はれてゐる。歴史學を科學の位置に高めるために因果的方法によらうとしたバックルなどの見解に對し解釋學的見方の勝れた點は、このやうにして歴史を單なる存在と考へず、主體的なものを特に重んじたところにある。然し解釋學の功績は、他方では、かくの如き内部の理解はつねに外部に於て客觀的に與へられたものに結び付くことにより、それを通じてなされなければならぬといふ點を強調したところに認められねばならぬ。再びディルタイを引用しよう、「人間的精神が何であるかは、唯歴史的意識が、その精神の生活し且つ生産したものに於て、認識に持ち來たすことが出來る、そして精神のこの歴史的自己意識がひとり我々をして人間に就いての科學的にして體系的なる思惟を漸次に作り出すことを可能ならしめる。」心理的分析は勢ひ主觀的になるといふ危險にさらされてゐる。それ故に固定した輪郭を有する永續的な客觀的な諸形態を我々の前にもち、我々の研究は絶えず繰り返しこのものに還つていつて、その正しさをつねに檢證することが必要である。このやうに内なるものの研究が外なるものに結び付くことが有意味であるのは、外なるものが内なるものの表現であるがためである。
* Dilthey, Die Entstehung der Hermeneutik, Gesammelte Schriften,
. Bd. S. 318.

一、解釋學は外なるものを通じて内なるものを理解しようとする。内なるものはもとヘーゲル的なイデーを意味した。この場合にはその汎神論的前提のために客觀的な歴史的存在そのものに沈潜するといふことも十分に重んぜられ得た。汎神論にとつては神は即ち世界にほかならないからである。「まことの謙虚はまさに神を一切に於て認識し、彼を一切に於て光榮あらしめ、そして特に世界歴史の舞臺に於てそのことをなすに存する。」(ヘーゲル)。然しながらかかる絶對體驗ともいふべきものは次第に失はれ、イデーに對する信仰は漸次に薄らぎ行き、内なるものはかくて唯心理的なもの、體驗的なものと見られるに至つた。しかも解釋學は一般に内在の立場に立つところから、意識を超越する事實といふ如きものを認めず、寧ろ心理的なもの、體驗的なものが事實の位置に据ゑられる。然るにこのものは所謂内部知覺によつて知覺され得、或は内的に經驗され得る。そしてその際このやうな内部知覺乃至體驗はそれ自身に於て外的知覺または經驗よりも一層確實であると考へられる。かくして解釋學は、實際に於ては、心理的解釋に優越性を認めるといふ結果になつてゐる。解釋學的立場は外なるものを内なるものの表現と見、從つて兩者の間の超越或はまた矛盾の關係を考へないところから、この傾向は益々強められるであらう。かやうな心理的解釋の偏重に對しては、ここに反對にハルナックの説を想ひ起すことも無駄でなからう。この人は考へる、例へば、フリードリヒ大王が七年戰爭を欲したかどうか、或はエムス電報事件は本當にはどうであつたか、といふが如き問題は、最も嚴密な意味ではもはや何等史學上の問題でなく、却て傳記上の問題である。なぜなら七年戰爭また一八七〇年の戰爭の現實的な原因が如何なるものであつたかは、遙かにより一般的な且つより深い觀察及び考慮から決定されるのであつて、何等の心的動機の研究も人心觀破術も必要としないのである。ハルナックによれば、人物の動機や心の状態などの研究は「歴史」には屬せず、「傳記」Biographie に屬する。然るに歴史と傳記とはもちろん關聯してはゐるけれども、相異る課題を有するものである。傳記家は云ふまでもなく先づ歴史家でなければならないが、彼にとつては心理學者及び藝術家であることが同樣に必要である。けれども傳記は歴史の大筋に這入るべき性質のものでない、なぜなら動機や心理の研究は單に歴史の確實性を危くするばかりでなく、また歴史の本來の課題を害ふからである。ここで我々は傳記が歴史にとつて如何なる位置を占めるかを決定しようとは思はない。人間の心理と雖も必ずしも單に主觀的にして客觀性を含まないとは云はれないであらう。既に我々は個人意識でなく社會意識といふものを考へねばならぬ。然し多少偏頗であるにせよ、心理的研究の過重視を戒めたと見られ得るハルナックの右の意見に對し、ディルタイが傳記の意味に就いて述べたことを比較してみるのは興味がなくはなからう。ディルタイは心理學或は人間學を特に重要視し、それをもつて精神科學の基礎と見做した。そして彼は一般的歴史學の内部に於ける傳記の位置は、歴史的社會的現實に關する理論的諸科學の内部に於ける人間學の位置に相當すると考へる。「傳記は基礎的な歴史的事實を純粹に、全體的に、その實在性に於て敍述する。そして唯、いはばこれらの生命諸統一體から出發して歴史を築き上げるところの、類型及び代表の概念を通じて諸身分、社會的諸結合一般、諸時代に關する見解に近づかうと努めるところの、諸世代の概念によつて生の諸過程を連繋するところの歴史家のみが、多くは諸記録から取つて來られる死せる諸抽象物との對立に於て、歴史的全體の實在性を把捉するであらう*。」この文章から推して直ちにディルタイの歴史觀を個人主義的として論評するのは固より早計であらう。彼は歴史及び社會に先行する事實としての人間は一の擬制に過ぎぬと述べ、また人間と自然との交互作用をも閑却してゐない。それにも拘らず、彼の解釋學的立場の必然的な歸結として現はれるところの心理的分析の一方的な重視は、歴史敍述に於ておのづから個人を偏重し、少くとも個人を基礎乃至中心とするといふ結果に傾き易いことは爭はれないであらう。
* Dilthey, Einleitung in die Geisteswissenschaften, SS. 33, 34.
* Vgl. Dilthey,
, SS. 333, 334.


* Briefwechsel zwischen Wilhelm Dilthey und dem Grafen Paul Yorck v. Wartenburg 1923, SS. 191, 193.