一

 近年、お正月の門松の林のなかに羽織袴をつけた酔っ払いが、海豚いるかが岡へあがったようなさまでぶっ倒れている風景にあまり接しなくなったのは年始人お行儀のために、まことに結構な話である。また露地の入口に小間物店を開いた跡が絶えて少なくなったのも衛生上甚だ喜ばしい。
 それというのは、ご時世で物の値が一帯に高くなり酒ばかり飲んでいたのでは生活向きが立たなくなるという考えが、飲み放題のお正月へも影響してお互いに控えましょう、となった結果であると思う。松の内くらいは、などと意地汚いのは時代にわぬものだ。お互いに、物の消費を少なくして、国家経済の向かうところに従ってゆこうではないか。だが、理屈は抜きにして昔のお正月のことを回顧して、こん日の美俗に思いを寄せると、ただ何となく物さびしい気がする。
 私なども、若い時から大酒飲みで讃酒の生涯を送ってきたが、この頃では大して飲まなくなった。いや、飲まなくなったのではない、飲めなくなったのだ。心献しんこんに、輓近ばんきんの美俗を尊重するつもりはないのだけれど、こう物価が鰻のぼりにのぼってきては、思う存分飲む訳にはゆかないからである。ほんとうに、これで参ったというほど頂戴してみたい。などと、さもしい夢をみることもある。
 私の父も、随分酒が好きであった。毎日、朝から酔っ払っていたのである。しかし、おとなしい酒で、酔ってもにこにこしているが、一年中朝からにこにこされているのには家族の者も閉口した。私の子供のころ、近所の醸造元から毎夕二升入りの兵庫樽を配達してきた。それで金三十銭。つまり、一升十五銭という勘定である。こんな安い大乗だいじょうの茶を飲んで、朝から瓶盞へいさんの仁となっていられた父は幸福であった。
 いま時、一升十五銭などという安い酒は思いもよらない。酒楼に上がれば、一合三、四勺入りの徳利を二合入りと称して、一本七十銭から八十銭と勘定書についてくる。酔い潰れるほど、飲めなくなった所以ゆえんであろう。

     二

 二升入りの兵庫樽一本三十銭は、明治中世の話であるが、維新前は我々に想像もつかぬほど安かったものだ。
 奈良般若寺の古牒こちょうによると、慶長七年三月十三日の買い入れで、厨事ちゅうじ以下行米三石六斗の代価七貫百三十二文、上酒一斗二百十八文、下酒二斗三升で二百十七文とあるが、当時の貸幣価値は当時使用したものでなければ分からないから、慶長頃の酒がどんなに安かったものか判断がつかない。二代将軍秀忠の慶安年中は、いまから二百九十年ばかり前になる。そのころ、江戸鍛冶橋御門前南隅に小島屋嘉兵衛という酒類、醤油を売る店があった。この店で市中へ撒いた引き札に、古酒一升につき大酒代六十四文、西宮上酒代七十二文、伊丹西宮上酒代八十文、池田極上酒代百文、大極上酒代百十六文、大極上々酒代百三十二文とある。ところが、同じ引き札に醤油の値段も書いてある。それによると、大阪河内屋代百八文、難屋代七十二文、近江屋代七十文、銚子代六十文とあるのを見ると、当時は酒に比べて醤油の方が割合に高価で、醤油の上物と酒の極上物と相匹敵しているのは、いま酒の市価が醤油の四倍から五倍になっているのを思うと、甚だ残念でたまらぬ。
 くだって、享保頃の諸式の価を調べてみると、とぼし油五合で一百文、白豆四升六合で一百文、白木綿一反で三百文、岩槻霜降木綿一反が四百文、新諸白(新清酒)二升が百四十八文、上々醤油一樽が四百四十八文、上酒五升で四百三十文、上白餅米三斗六升で一分、足袋四足が百七十二文(七文半二足一足三十文宛、九文半さし足袋六十三文、九文半四十八文)、白米三斗九升が一分、秩父絹二疋で二朱と四百文、駕籠かご賃(飯田台から赤羽橋まで)七十四文、大まぐろ片身二百二十四文、かやの油五合が二十四文、白砂糖半斤五十二文、駕籠賃(尾張町から白山まで)百十文。
 以上のような物の価であるが、当時一分に対して銭が一貫二百六十文、また文金一歩に対して銭が七百五十二文であった。
 そのころ私らが生まれていれば、一升八十文の上酒を茶碗に酌んで、片身二百二十四文の大鮪を眺めることができたろうに――。
 ついで明治五年以前には、半紙が十二文から、十四文、十六文、二十文と騰貴とうきし、酒は一升百二十四文から百三十二文、さらに百四十八文から百六十四文、二百文に急騰した。これは明治五年に、南鐐四文銭が世に出て相場が賤くなり、諸色が貴くなった関係であるという。
 文化文政ごろの酒については、『五月雨草紙』に和泉町四方の滝水一升二百文なり。鎌倉河岸豊島屋の剣菱同二百八十文なり。予が先考は、酒をたしなみたれど剣菱を用いて、その薄色辛口というを常の飲料とせり。その次は二百五十文、二百文、下に至りて百五十文まであり。されば、一樽の価最上の品一両二分。それより一両一分、また三分二朱位までもあり。その頃の酒品の宜しと思えるは、先考は物を煮るにいたく美淋酒をいとわれ、常に剣菱を鍋の中に入れ沸かし、火をその中へ投ずれば忽ち燃ゆ。両三次にしてその味を生ずる故、魚をいれて煮たり。その醇醪じゅんろうなること知るべし。いま時は一合の価むかしの一升に過ぎたれど、火を投ずれば直ちに滅すること水に異ならず。外祖父三木正啓翁(寛政年中御先手加役火附盗賊改役を勤めて有名なりし長谷川平蔵の弟なり)予が家に来りて環るる毎に外祖母に語られたるは、婿殿の家に至り酒を飲楽しけれど、その気烈にして鼻をき、眼をくんずるに困ると申されたりと。と、書いてある。

     三

 江戸末期になると、酒の質が次第に悪くなったようである。気烈にして鼻を衝き、眼を薫ずるには閉口する、とこぼしたたぐいの酒が市中を横行したに違いない。
 やはり、文政頃の酒価と酒の質について『異聞雑考』の記すところでは――味噌は甲午の夏五月より、金一両二十貫四百目になりぬ。諸物の貴きこと此ときにきわまれり。酒は一升三百三十二文より下価の物なし。それも水を加味しぬるより、味ひ水くさく酔はずといふ。多く飲む者は必ず下痢す。升売酒屋は各紙牌を張り出し、酒高価に付はかり切に仕候[#「候」は底本では「侯」]。入れ物御持参下さるべく候、と記したり。この余、薪炭紙絹布の類、魚肉野菜に至るまで、日用の物はひとつも下値なるはなし。悉く記するにいとまあらず。余は、なぞらへて知るべし――と、あった。
 文化文政頃の酒徒が、元享永祿の昔、伊勢国で酒一升銭十九文から二十三文位の値であったという古い記録を見て、大いに自分達の不幸を嘆じたさまが、眼に映るようだ。けれど、天正時代となると既に酒が高くなったのをこぼしているのがある。『天正日記』に――天正十八年十日、はれる。江戸入のしたくにて万右衛門殿はじめ、とりどりかけはしる。酒一升七十文、するがより五文たかし。殿様今日御城へ御入也。酒一升七十文は、米価に比するに大抵五倍の差あり、酒価の古記に見えしものを参考するに、余り貴きに似たり――と、昔を恋しがった。
 されば、昭和時代の我々酒徒が、酒が高くなったのに愚痴ぐちを重ねて囁くのも当然だ。もうこれからは、白粉おしろいをつけた女のいる酒場で一杯二円、三円の洋酒など、山芋が鰻になっても飲むまいぞ。もし、僕たちが若い時から飲兵衛でなかったら、随分いま頃は金持ちになっていただろうなあと嘆息まじりに飲み仲間で談じ合うことが度々たびたびある。く内輪に見て、一日平均三合宛飲んだとすれば、この歳になるまで一体どの位の量になったろう。かりに三十年間飲んだとして、一万九百五十日、計三十二石八斗五升となる。つまり、六尺樽一本近くだ。この金で、国債でも買って置いたならなど、死んだ児の齢を数えるように、熟柿に似た呼吸を吹き合う。
 それは、私の十七歳の初夏であったと思う。赤城山へ登山して、地蔵岳から鍬柄峠の方へ続くあの広い牧場で淡紅の馬つつじを眺め、帰り路は湯の沢の渓を下山した。塚原卜伝と真庭念流の小天狗と木剣を交えた三夜沢の赤城神社を参拝してから、関東の大侠大前田英五郎の墓のある大胡町へ泊まった。宿屋は、伊勢屋というのであったと記憶している。
 台洋灯の下へ、女中が晩の膳を運んできた。その時、何ということなしに、ふと、
 ――酒を飲んでみようか――
 と考えた。日ごろ、父がおいしそうに飲む姿を眺めていると、父は酔眼のめじりを垂れて私に、
『お前も一杯やってみるか』
 などとからかうことがある。ところが、これを母がすかさず聞きつけて、
『とんでもない――酒は子供の頂くものじゃない』
と、父と私をきびしくたしなめたことが幾度かあった。
 だから私は、酒が飲みたいなどと一度も思ったことがなかった。けれど、こうしてひとりで旅の宿に夜を迎え、高足膳に対してみると、一室の主人公といったような気持ちがする。
『お前も一杯やってみるか』と言った父の言葉が頭の何処どこかをかすめた。そこで、ただ何となく『飲んでみるか』と軽く考えたのである。
『女中さん、酒一本持ってきておくれ』
 誰はばかるものがいないのだから、私は大胆に注文した。すると、女中はこの子供がまあ呆れたといったような顔して眼をみはる。
『嘘じゃない、ほんとだよ』
 たとえ、少年であっても俺は客だ、という気でいるから、私は人怖じなどしない。
 女中は微笑しながらっていって、やがて酒壜と杯を持ってきた。この壜に正味一合入ることは、いつも徳利の大小について父と母との問答を聞いているから、的確に判断がつく。
『ごゆっくり』
 と、言って女中がまた微笑して去ったあとで、私は眼をつむってまず一杯を喉へおとした。眼をつむるというのは、舌に感覚を与えまいとする用心なのだ。つまり酒は随分苦いだろう、という予感があったからだ。ところが苦いどころか甚だおいしい。眼をつむるなんて、近ごろの言葉でいえばひどく認識不足であると自笑した。
 それからは眼を開いたまま、グイグイと忽ち一本を平らげた。手を叩いて、も一本。さらに、も一本。都合三本を、手間ひまかけずに飲み干したのである。であるのに、少し肩の骨がゆるんだような気がしているのと、正面の襖が左に回転しかけて、また元の位置へ戻る運動を続けはじめたくらいで、別段苦しくも何ともない。いい気持ちである。
 ――さすがに、俺は父の子である――
 と、思った。生まれてはじめて口にした酒を、正味三合ぺろりと酌んでしまったのには我れながら驚く。しかも、飲み抜けていま酔態を演じているとも考えぬ。
 ――俺は、酒の天才かな――
 ひそかに、こんなことを感ずる。それから女中を呼んで、飯を盛らせて静かに食べた。

     四

 酒の天才など、何の役にもたたない。とうとう私の一生は、酒のためにたたられてしまった。
『本朝二十四孝』八人の猩々講しょうじょうこうに――波の鼓の色もよく、長崎の湊にして猩々講を結び、椙村のうちに松尾大明神を勧請中、甘口辛口二つの壺を[#「壺を」は底本では「壼を」]ならべ、名のある八人の大上戸ここに集まる。大蛇の甚三郎、酒呑童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鈎掛升の六之進、早意の久左衛門、九日の菊兵衛この者共の参会、元日より大年まで酔の覚めたる時もなく、いつとても千秋楽は酒のみかかる時うたうて仕舞、兎角正気のあるうちは、身を酒瓶の底にしづめ、万上のたのしみ是にきはめける――
 と、あるが私の身にとっては、酒は万世のたのしみどころではない、苦しみであった。もしこの世に酒という水がなかったならばと怨んだことが幾度あったか数えられないほどである。
 そもそも私が、禁酒の念を起こしたのは二十四歳の春であった。契禁酒、と紙に書いて床の間にかけ朝夕礼拝したこともあり、自今禁酒の新聞広告をしたことさえある。けれど、ものの一週間と続いたためしがない。
 竹林の七賢の筆頭劉伶りゅうれいは、かつて酒渇を病んだことがある。酒渇というのは、いまの酒精中毒のことであろう。それでも、女房の顔さえ見れば『酒を出せ、酒を出せ』とせがむのだ。細君は劉伶の身を案じて蔵に入れて置いた酒を棄て、夫君鍾愛の酒器を毀してしまった。そして泣いていさめて言うに、何としてもあなたは大酒すぎる。これは、決して摂生の道ではありません。どうぞ、禁酒を断行してください、と貞節のほどを示したのである。すると劉伶は、にっこりと笑って妻君に向かい、よく分かった。けれど、俺は意志薄弱で自分の心だけでは、禁酒の契を実行できそうもない。そこで考えたのだが、鬼神に自分の必を契って酒を断つのが、一番いい方法だろう。それには、鬼神に酒と肉を供えて礼を尽くす必要がある。善は急げだ。お前はもう酒を棄て酒器を砕いてしまったのだから、何処かへいって酒肴を買ってきてくれ。と言った。細君は、夫が自分の言葉をきいてくれたのを喜んで、いそいそと出ていって買ってきた。ところが劉伶は、その酒と肉を鬼神には供えないで自分の前へ供えてしまった。そして、跪いて祝詞を唱え、天劉伶を生む、酒を以て名を為す。一飲一斛五斗にして醒を解す。女の言葉など慎んで聴くものじゃない、と言って破顔一笑。すなわち酒を引き肉を御し、隗然かいぜんたるのみ。復た酔う矣。
 こんな話が、太平御覧という書物に書いてある。私は劉伶をまねて自分を偽るのではない。やはり、薄志弱行のために禁酒が続けられないのだ。必の契りを破るたびに、劉伶の話を思い出し百万の味方を得た感を深うするのである。

     五

 慶安三年の五月ごろ、酒井雅楽頭の侍医で武州江戸大塚に住んでいた樽次こと茨木春朔と、やはり武州池上新田に住する池上太郎右衛門底深という人と酒合戦を行なったことは、茨木樽次が戲書『水鳥記』に詳しく書いてあるので誰も知っている。慶安のころであるというと、この酒合戦には一升六十四文から、百三十文位の値段の酒を用いたのであろう。
 茨木春朔の墓は、小石川戸崎町瑞鳳山祥雲寺にあり、正面に不動の立像を刻し、左に法名は酒徳院酔翁樽枕居士。左に辞世の二首、
皆人の 道こそかわれ しじの山 打ちこえみれば おなじふもと路
南無三ぼう 数多の樽を 飲みほして 身はあき樽に 帰る古里
 と、いうのが刻んである。台石の蓮花の中に、延宝八庚申正月八日とあるのは、この碑を建てた日である、と※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)いんてい雑録に載っている。戸崎町は、私の陋屋ろうおくから遠くはない。近く小春日を選んで、祥雲寺に我ら酒徒の大先輩の墓を展し、礼を捧げたいと考えている。
 蜀山人の書いた『酒戦記』の事実は、江戸北郊千住宿六丁目に住む中屋六右衛門という人の隠家で、文化十二年霜月二十一日に行なわれた酒合戦の模様を描写したものである。この酒合戦に集まったもの一百余人。中には、狂花(腹立上戸)、病葉(眠り上戸)、酒悲(泣き上戸)、観場害馬(理屈上戸)などもやってくる。席に、宮島盃(一升入り)、万寿無彊盃(一升五合入り)、緑毛亀盃(二升五合入り)、丹頂鶴盃(三升入り)をならべ、干肴は台にからすみ、花塩、さざれ梅、また、別の台には蟹とうずらの焼鳥を盛り、あつものは鯉の切身に、はた子を添えた。
 この戦果を検すると、新吉原中の町に住む伊勢屋言慶という老人が三升五合余りを飲んだ。馬喰ばくろ町の大阪屋長兵衛という四十男が四升余り、千住かもん宿の方からきた市兵衛と名乗るのが、万寿無彊盃で三杯飲んだというから合計四升五合。やはり千住の松助は、宮島盃、万寿無彊盃、緑毛亀盃、丹頂鶴盃など一通り飲み干したから都合八升。
 はるばる下野の国小山から参加した作兵衛というのが七升五合。浅草蔵前の左官蔵前正太が三升。新吉原の大門長次というのは水一升をまず飲んで、次に醤油一升は、三味線で拍子をとらせ口鼓をうちながら飲んだという。千住掃部宿の天満屋五郎左衛門は四升。
 女猩々も参戦した。江の島で酌女をつとめ、鎌倉界隈かいわいでは名うての豪傑おいくとおぶん、天満屋五郎左衛門が女房おみよの三人は一升五合入りの万寿無彊盃を傾けて酔った風もなく、千住の菊屋おすみは二升五合入りの緑毛亀盃をグイと飲んで、うわばみ振りを発揮した。
 料理人の太助というのが三升入りの丹頂鶴盃の縁から、すうっと吸い込み、会津の旅人河田と名乗るのが万寿無彊盃から緑毛亀盃まで三通り合計七升を平らげ、丹頂鶴金に及ばなかったのが残念であった、と宙に向かって息を吹く。大長という男は四升余りを飲み尽くして近所に寝ていたが、次の朝、辰の刻ごろに眼をさまして再び中屋六右衛門の隠家へやってきて、きのう会った人々に一礼をなし、そこでまた一升五合飲んで家へ帰ったという。

     六

 日本の酒合戦は、遠い昔から行なわれている。いまから一千余年前、醍醐天皇の延喜十一年六月十五日、折りから盛夏の候であった。太上法皇は水閣を開いて、当時天下に聞こえた酒豪を招いて醇酒を賜わったのである。けだし禅観の暇、法慮の余、避暑の情をやり、選閑の趣を助けたというから、随分風流にくつろいだ催しであったに違いない。
 けれど、ご招きに応じた者は甚だ少なかった。参議藤原仲平、兵部大輔源嗣敬、右近衛少将藤原兼茂、藤原俊蔭、出羽守藤原経邦、兵部少輔良峰、遠視左兵衛佐藤原伊衡、平希也など僅かに八人であったのである。何れも当時無双の大上戸で、四海でその名を知らぬ者とてなかった。酒を飲んで石に及ぶといえども、水をもってすなそそぐが如き者であったというのであるから、浴びるほど飲んでいたのであろう。
 一同顔が揃うと宴席に勅令がくだった。大杯の内側に墨で線を描き、増さず減ぜず深浅平均。これを二十杯ずつ回し飲みにして、雄を称せよ、という御意であったのである。そこで、諸豪は何れも口を任せ、競うてあおりつけた。ついに大杯が、一座を六、七巡に及んだ。すると、大いに酩酊した。東西も分からず、ふらふらとなってしまった。そのうち一番ひどかったのは平希也で門外につぶれて動けなくなった。次に降参したのは藤原仲平で、殿上に小間物屋開店に及んだ。他の連中にも我にして我にあらず、泥之泥也。
 中には、舌がもつれて口がまわらず、鳥が囀るような声を出すのもある。藤原経邦の如きに至っては、はじめ快飲を示していたけれど、とうとう心身共にほおけてしまい、げろを吐いて窮声喧々という有様だ。ところが、この厳しい合戦にわずかに態を乱さなかったのは藤原伊衡一人で、法皇からご賞詞があり、褒美として駿馬一頭を賜わった。けれど、御意の二十杯には達せず、その半分の十杯を飲んだだけで、後は、
『もはや、叶わぬ』
 と、掌を横に振った。時に漸く夏日暮れんとし、笙歌しょうか数奏。豪勇ども各々纏頭てんとう、這うようにして帰った――
 このころの、酒の価についての文献は見当たらぬ。もっとも、この酒合戦は雲上で行なわれたことであるから、酒の値段など詮議しないでもよろしかろう。
 正体なく酔い潰れたのを泥之泥という。肥前の唐津では、酔っ払いのことを『さんてつまごろう』と称えるが、これはどういう意味であろうか。大阪で『よたんぽ』というのも分からぬ。
 私は、この年輩になってもまだ泥のように酔うので困る。体力が次第になくなるので、これから先は一層酒に対してこたえが無くなるのではないかと思うと、ほんとうに心細い。稗官小説に――南海に虫ありて骨なし、名づけて泥といふ。水中に在れば則ち活き、水を失へば則ち酔ひて一堆の泥の如し――と書いてあるが、この虫は岡へ上がった河童と同じように、水から離れると正体を失ってしまうものと見える。私も酒を飲んでいる時の方が、機嫌がいい。だが劉伶と同じように既に酒渇を病んでいるのでは、堪らぬと思う。
 万葉の歌人大伴旅人は、
なかなかに 人とあらすは 酒壺に[#「酒壺に」は底本では「酒壼に」] なりてしかも 酒に染なん
 と、詠った。嗚呼ああ[#「嗚呼」は底本では「鳴呼」]、われ何をか言わん。

     七

 細川家に、増田蔵人という六千石を領する重臣があった。これは若い時から身持ちが悪く、いつも酒ばかり飲んで放埓ほうらつであったから、父の某は臨終に家中の井戸亀右衛門を枕頭に招き、わが死後は伜の行状を厳重に監督してくれ、とくれぐれも頼んで息を引きとった。
 それから、亀右衛門と蔵人は殊のほか眤懇じっこんになった。亀右衛門はもと丹後の小野木縫殿助の家来で、忍びの名人として天下に聞こえ、大力の上に早業をよくし城の塀など飛鳥のように飛び越す武人であったが、小野木家滅後細川家へ仕えたのである。そして二千石を領していた。
 蔵人は、父の死後も身持ちが直らない。朝から酒をくらって遊び歩き六千石の大身でありながら、少しの金の蓄えもなくいつも財用不足勝ちであった。だから、亀右衛門は折り折り強意見を加えた。ところが、その時は承服するけれど見奢りきった僻やまず、これを見て亀右衛門はほんとうに心を痛めてきたのである。ある年、蔵人が江戸の勤番を終えて帰国する途中をはかり、亀右衛門は十人ばかりの家来をつれて馬上に乗り出し、路上でばったり蔵人と出合わした。亀右衛門はことさらに忙しい風を装い、ただ一礼したのみで行き過ぎた。蔵人はこれを不審に思って馬をかえして亀右衛門を呼び止め、
『貴公、大分忙しそうだが何か急用でもできたのか』
 と、問うた。ところが、亀右衛門は、
『大事起こり候』
 こう答えたばかりで、また行きすぎようとする。蔵人は、いよいよ不審に思って、さらに馬をかえして亀右衛門を呼び、
『日ごろ眤懇のよしみ、このままでは水臭い。どんな大事か聞かせてくれ』
『そうか――いや別ではないが、このたび大阪に戦の用意あるによって主人も出陣との沙汰がある。ついては、拙者もその仕度に出かけるところだ』
『それは大変だ』
『そこで、加賀山隼人も近々三百人ほどの家来を打ち立てしとのこと――貴公も隼人と同祿であるから三百人の家来を用意して出陣せずばなるまい』
 亀右衛門は、こう言ってから口を一文字に結んで顔を緊張させた。これを聞いて、蔵人はその場で色を失ってしまったのである。
『面目ない。いま我らには金の蓄えが一文もご座らぬから、このたびの軍役は勤め難い。この申し訳に、帰宅の上切腹仕らん。貴殿との面会もただ今限りである』と、涙を払ってから『同じ家中の人々には、戦場にて討死なし、功を立てるものもあろうに、軍役が勤まらで、居ながら切腹する身はいよいよ武運尽きた。いざ、お別れ申さん』
 と、蔵人は馬の頭を向け直し覚悟は充分であるという風があった。この体を見て亀右衛門は、
『これこれ、ちょっと待ってくれ、拙者も貴殿の宅まで同道しよう』
 と、言いながら蔵人と馬の頭をならべて歩き出した。しばらく、二人は無言でいたが、やがて亀右衛門が静かに言うよう、
『拙者、ただ今申したことは、皆偽りである、けれど、遠からず大阪に合戦が起こるであろうことは、誰が眼にも見えているところだ。その時、今日の後悔がないように、拙者ただ今偽りを申した。いまから奢りをやめ倹を専らにして、いつ合戦が起こるとも差し支えなきよう、軍用金を蓄え置くことこそ、武士のたしなみに候』
『かたじけなし――』
 蔵人の眼から、暑い涙がふり落ちた。
『これまで、貴殿のいましめを用いなかったは、わが生涯の誤りであった。いまから、諫めをきっと守るであろう』
 と、言って馬上に低頭したのである。
 蔵人が、亀右衛門の信義に発奮してから三年目に、果たして大阪に乱が起こった。そのとき、蔵人は六千石の家格に恥ずかしからぬ軍役を全うしたと言う――
(一四・一・七)

底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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