一

 昨年の霜月のなかばごろ、私はひさしぶりに碓氷峠を越えて、信濃路の方へ旅したのである。山国の晩秋は、美しかった。
 麻生豊、正木不如丘の二氏と共に、いま戸倉温泉の陸軍療養所に、からだの回春を待ちわびている三百人ばかりの傷病兵の慰問を志して、上野駅から朝の準急に乗った。峠のトンネルを抜けて、沓茫とうぼうとした軽井沢の高原へ出ると、いままで汽車の窓から見た風物とは、衣物の表と裏のように、はっきりと彩を変えていた。二人は、たばこを喫いながら何か賑やかに話しているけれど、私は窓硝子へ吸いつくばかりにして、めぐりゆくそとの景趣に眺めいったのである。
 この秋は、陽気が遲れていた。いつもならば十一月のなかばがくると、上信国境の山々は、いくたびかの大霜にうたれ、木々の梢はうらぶれて、枯葉疎々として渓流のみぎわを訪れる、というのであるそうだが、いま見てきた妙義から角落の奇峭を飾る錦繍の色は、燃え立つほどに明るかった。横川宿あたりの桑園の葉も、緑に艶々しい。
 さくらもみじは、熊の平の駅へはいって漸く散りそめていた。霧積川の流れは岸に砕けて、さすがに晩秋らしく冷えびえと白い泡を立てていたけれど、崖から這い下がる葛の蔓が、いまもなお青かったところを見れば、淵の山女魚やまめの肌に浮く紫もまだ鮮やかに冴えていることであろう。
 ところが、碓氷の分水嶺を一足すぎて、この浅間の麓へ眼をやると、なんと寂しい、すべての草木のしぼれた姿であろうか。穂に出た芒は、枯れて西風に靡いている。路ゆく人の襟巻は、首に深い。落葉松はもう枯林となって、遠く野の果てに冬の彩を続けている。
 空はあおく、真昼のは輝いている。上州では高い空に白い浮雲をみたのに、信州へはいっては一片の雲もみない。その明るい陽に照らされて、浅間山の中腹から、前掛山の頂かけてあかねさすのは秋草の霜にうたれた色であるかも知れないと思う。それに連なって裾野の方へ、緑に広くいてみえるのは、黒松の林ではないであろうか。
 しかし、ひとたび深い雲を催せば、雨がくるのではあるまい。もう雪が降ることであろう。そんな想像をめぐらしているうち、三十年近くも過ぎた昔、私はこの蕭条たる枯野が真っ白に包まれた雪の上を、東から西へ向かって歩いて行ったことが頭へ浮かんできた。
 いや、ほんとうはこうして二人から離れ、私ひとり窓のそとの景色に忽焉こつえんとしているというのは、そのときのわが姿を、なん年振りかで眼に描いて、なつかしみたかったからである。若き日のわが俤が汽車の窓のそとを歩いている。
 その若き日の旅に、私は歯がたわしのように摺り減った日和下駄をはいていた。物好きの旅ではない。国々をさまよい歩いた末の、よるべなき我が身の上であったのである。

     二

 私は明治の末のある年の十一月下旬、勤め先を出奔したことがある。追っ手を恐れて一足飛びに土佐の国へ飛んだ。土佐の国を選んだというのは特に頼る人があった訳ではない。ただ地図の上で見て海を隔てた遠い国であるから、そこまでは追っ手の手も届くまいと考えたからであった。
 高知市で口入れ屋を尋ね、蕎麦屋の出前持ちを志願したけれど、戸籍謄本を持たないというので、ことわられた。そこで、土佐の国には諦めをつけ、神戸に渡ったのである。
 神戸では本町二丁目裏の大きなちゃぶ台のある近所の口入れ屋の二階に、四、五日ごろごろしていたが、そこでも仕事はみつからなかった。それから大阪の天王寺に旧友を訪ねて、電車賃を借りて京都まで行った。
 三条駅へ着いたが、京都にも別段たよる人がない。ひねもす、岡崎公園の石垣の上から疏水の流れを眺めていた。夕方になると、水のおもてに冷たい時雨しぐれが、ばらばらと降った。
 伏見の町で古着屋を捜して、トランクを中みぐるみ売った。トランクの中には、死ぬまで手離すまいと大切にしていた母が手織の太織縞のあわせも入っていた。そのとき、ふと感傷的になったのを、いまでも記憶している。
 その金で、相州小田原までの汽車の切符を買った。そして十二月から翌年の二月まで、小田原の友人の家へ居候していた。小田原の友人は、家なき私に親切であった。
 ところが、友人は私にもてなす酒のことで細君と喧嘩した。それが、二度、三度と重なったのである。
『おれの友達の、面倒がみられないようでは困る』
 と、友人が細君をたしなめると、
『それも程度問題ですわ』
 と、応酬した。
『それはいかん。どんなことでも、不平がましい顔を禁ずる』
『では、うちの経済がもちませんわよ』
『経済なんぞ、どうでもいい。破産してもかまわねえ』
『うちには、破産するほど財産なんかないでしょう』
 細君は一つも良人に負けていない。
『財産がないのがいやなら、出て行けっ』
『じゃあなたは、自分の家内より友達の方が大切なんですか』
『なにい』
『身のほども知らないで、居候なんか抱えこんで』
『うぬっ! 生意気っ!』
 とうとう、悪化してきたようである。
 隣座敷で、私はこれを聞いていた。細君の語勢は、隣座敷にいる私に、聞こえよがしであるように察しられるから、私は少々耳が痛かった。しかし、もとは私のことから出たのであってみれば、この喧嘩を知らん振りして黙っている訳にはゆかない。喧嘩の場へ飛びこんでいって、
『やめろよ。夫婦喧嘩は犬も食わないちうからな――』
 何と仲裁のしようもないから、こう言ったのである。
 細君は、顔ふくらして横向いた。友人は、
『君、気にかけて貰っちゃ困るよ』
 と、にこにこと笑った。
 私は、ひどくてれ臭かった。胸板の裏へ、何か物がつかえたような気持ちになった。
 友人というのは、魚問屋の帳場に勤めていて、あまり高給を頂戴している方ではなかった。足かけ三月も、居候していれば、その家がどんな暮らしをしているかは誰にも分かる。あまり物ごとに屈託しない私でも、深く責任を感じた。

     三

 二月に入るとすぐ、小田原をたった。友人に都合して貰った金で、上州の高崎まで汽車に乗ったのである。
 高崎の友人は、ひとり者であった。ところがこの友人は僅かな収入でありながら、一人の居候を抱えて苦しんでいた。そこへ私がころげ込んだのである。つまり居候の先輩がいた訳だ。
 友人は、急に三人ぐらしとなった。二人の居候は毎日、これといって用事もないのであるから酒のむことばかり考えている。それを何とか工面してくる友人のふところは、四、五日でいきづまった。友人は松本玉汗と呼び、先輩の居候は小池銀平と言った。ついに、玉汗は悲鳴をあげた。
 そこで玉汗が言うに、三人でここでこうしていたのでは、近く飢えるにきまっている。だから僕がいろいろ思案した揚句あげく、思い出したのはいま長野市にいる猪古目放太という友達だ。この男が、どうやら暮らしていることは風のたよりにきいている。その男に何とか、三人の身の振り方を相談しようではないか。何とかなるだろう。
 だが、果たして猪古目が長野にいるかどうかは、しばらくたよりがなかったから、長野まで訪ねてみねば分からない。しかし、いまはもう僕の懐には一文もない。旅費がないとすれば高崎から長野まで三十六里を歩いて行かねばならないのだが、諸君なにかほかに妙案があるか。
 居候二人に、何の妙案も持ち合わせないのは分かっているのである。万事、玉汗の指導にまかせることにした。
 もとより玉汗は僅かな家財しか持っていないのを売り食いしてきたのであるから、いま残っているのは古本ばかりだ。それを、紙屑屋に売って五十銭できた。これで何とか、長野まで露命をつながなければならないことになったのである。
 二月八日の、春たつ朝である。さて、三人は知恵を絞った。結局その五十銭のうちから、古道具屋へ行って矢立一本と、別に短冊十枚を買った。俳行脚はいあんぎゃの者にふんし、私が発句を読み、字の上手な玉汗が短冊に筆をはしらせ、道中で役場や小学校を捜しあて、口前のうまい銀平が短冊を売って歩こう、という仕組ができたのだ。
 ひる前に、高崎をたった。料峭りょうしょうの候である。余寒がきびしい。榛名山の西の腰から流れ出す烏川の冷たい流れを渡り、板鼻町へ入ったとき、さつま芋を五銭ほど買って、三人で分けて食べた。それから安中あんなか宿に続く古い並木を抜けた途上であったと思う。一つの小学校のあるのを発見した。そこでいよいよ商売に取りかかることになった。発句の方は私に旧稿があるし、字は玉汗がすらすらいけるからいいとして、一番しっかりやって貰わねばならないのは銀平の役目である。ところが銀平は尻ごみして動かない。
『おれは決心が鈍った』
 と言って、路傍の石に腰をおろし、空を向いて瞑目した。
『高崎をたつときは、随分鼻息が荒かったが、どうしたんだい』
『馬鹿にはにかんじゃったな――そんな人柄じゃあるめえ』
 などと、玉汗と私はからかったが、銀平は真面目な顔で、
『おれは不得手ふえてだ』
 とつぶやくのである。
 もっとものことだ。駄洒落だじゃれみたいな発句と妙な字をぬたくらせた短冊を、自分たちにしたところが、それを持って役場や学校の玄関へ立てるだろうか。どんなに押しの強い人間でも、これを買ってくださいとは言えぬ。無理もない。
『勇気が出ないか』
『駄目だ。売り捌きの方は免職させてくれ』
『そうだろう。僕なら一層駄目だと思うよ』
 私は、銀平を慰めた。すると、銀平の顔はにわかに明るくなった。
『やむを得ない。まあ一つくらい素通りしても、これから、いくらでも学校や役場はあるはずだ。しかし、この次は頑張ってくれ小池君。でないとこの十枚の短冊が無駄になるのはかまわないとしても、愚図々々していると胃袋の虫が承知しなくなる』
 居候関係は、高崎をたつと同時に一応解消して、三人は平等の人間になったようなものの、玉汗の言葉は依然として重きをなしていた。

     四

 碓氷うすい峠の登り口、坂本の宿へはまだ一、二里あろうという二軒在家の村へついたとき、もう浅春の陽はとっぷりと暮れていた。寒い西風が、村の路に埃をあげて吹いている。
 晩飯と、どこの軒下でもいい、一夜の寒さをしのぐ場所を求めたいと思うと、俄に気が焦ってきた。思いきって、そこの小学校の校長先生を訪れた。ところが校長先生は、つい四、五日前単身奥利根の方から転任してきたばかりだと言って、小ざっぱりした百姓家のやしきに下宿していたのである。百姓家のお婆さんが第の方へ案内してくれた。
 三人は校長先生に、とぎれとぎれに拙い言葉でつぎはぎに、旅に出た由来を申しあげた。そして、最後にこの短冊を買って頂きたいと、恐る恐るお願いしたのである。
 ちょうどその頃は、学生の無銭旅行がはやった時代であったから、校長先生は別段驚いた風もない。気軽に、
『そうか――わしも、俳句は好きだ。どれ、みせてごらん』
 と、言って短冊をとりあげ、
木瓜剪るや刺の附根の花芽より
 と、読んだ。そして、しばらく首を傾げていたが、
『まずいなあ、この俳句は――』
 こう言って、眉と眉の間へ皺をよせるのである。
『はい』
 私は、面目なかった。顔が、かっと熱くなった。それはただ、俳句のつたなかったのが面目なかったばかりではない。この場合、そのために短冊を買って貰うことができなかったら、どうしようかと思ったからだ。
 玉汗も、銀平もべそを掻いている。校長先生はそれをみて気の毒になったらしい。
『まあ俳句はどうでもいいが、こんなに暗くなってから碓氷峠を越す気かい。越せまいな――そこでどうだ。こんなせまいところで辛抱する気なら、こん夜ここへ泊まっていったらどうだい』
 まことに、予期に反した親切な言葉である。三人は口を揃えて、
『はい』
 と何の猶予も、考慮の風もなく、声を返すように答えた。
『そうだろう。急ぐ旅でもなさそうだ』
 そのときほど嬉しかったことを、かつて経験しない。恐らくこれから先もあるまいと思った。
 三人は、足袋の埃を叩いて座敷へ上がった。校長先生は、小型の南部の鉄瓶から自分で茶をいれてくれた。先生は、茶をのみながら俳論をはじめた。ところが静かに聞いてみると、校長先生は私らよりも、よほど造詣が深かった。私らは感服して、首を前へ傾げた。
 が、私はそれから二、三十分たつと自分の胃袋が、ぐつぐつと鳴るのを聞いた。胃袋が鳴るのに気がつくと、頭がじんじんするほど空腹を感じてきた。まことに相済まぬことだが、そうなると先生の声が耳へうつろに響く。

     五

 ――何とか、飯のことを言い出してくれそうなものだな――
 と、そればかり考えた。
 ――だが、俳諧の好きな人は、わりあいのんき者が多いから、そんなところへ気がつかないかも知れない――
 などとも考えてみた。それは、心細い思いまわしだ。結局先生がそこへ気がつかなければ、このまま寝かして貰うよりほかに順序はない訳である。
 しかし、そう簡単に見限るものでもあるまい。何とか苦心してみるのも、手段であると考え直した。
 そこで私は、きょうの昼飯は、さつま芋の蒸したのを五銭買って三人で分けて食べただけだ、というようなことを遠まわしに話した。俳論に夢中になっていた校長先生は漸くそれをさとったのであろう。
『つい、忘れていたが諸君、晩めしはどうした』
 と言った。
 先生は無頓着だとこちらで勝手にきめて気を落としてしまわないのが幸運であった。つまり、私の遠まわしが、効を奏したのである。
 ところがだ、何たることだろう。貧乏でありながら、日ごろ見え坊ではにかみ屋の玉汗は、眼と眼で私らに何の打ち合わせもしないで、
『いえもう、さきほど途中で済ませました。ご心配くださいませんで――』
 と、やってのけた。私は、ぎっくりして横眼で、きつく玉汗を睨めた。けれど、玉汗にはそれが何のための私の表情であるか分からない。私の心胆を砕いた遠まわしも水泡に帰した。もう取り返しがつかないのだ。
『そうかね、それじゃあ、まあ何もかまわんことにするから、眠くなるまでゆっくり話そう』
 情けない言葉だ。
 そこでまた、校長先生の口から碧梧桐の新傾向論がはじまった。それに続いて、元禄のころこの碓氷峠の裾に、芭蕉の弟子となった白雄という俳人がいた、という昔話になったのだが、口から綴り出すその糸のような言葉の、長いこと。
 私は、空腹が睡気に変わってきた。先生の話を感服して聞く誠実さがなくなった。玉汗一人が眼鏡を拭きふき、まことしやかであるだけだ。
 そこへ、母屋の方のお婆さんが、唐黍とうきびの焼餅を、大きな盆に山ほど積んで、お茶うけに持ってきた。この座敷の寒い空気に触れて、白い湯気がおいしそうに焼餅から立ち揺れる。
 眼が、急に輝いた。三人は、競うように大きな焼餅を貪り食った。――もう、晩飯はすんできた――という三人を、校長先生は呆れ顔で見ていた。
 翌朝、一升五合炊もはいろうと思う大きな米櫃こめびつへ、白い飯を山盛りいれて出してくれた。そのときの、下仁田葱の熱い味噌汁の味がいまでも忘れられない。給仕に出たお婆さんが、味噌汁を替えに行った留守、三人はひそひそと、
『きょうの昼めしは、どうなることか当てにはならない。そのつもりで、充分腹に支度をしておけ』
 と、囁き合った。米櫃はからからになった。私らは、厚く礼を述べた。そして、辞して去るとき先生は、
『これは、ほんの短冊の紙代だけだ』
 こう言って、紙のおひねりを出してくれた。
 私達は、また平伏したのである。
 中仙道へ出て四、五町歩いてから、その紙包みをあけてみると、二十銭はいっていた。
 あのとき、校長先生は四十歳を過ぎていたように見えたが、いまでもお達者に暮らしているであろうか。

     六

 碓氷の峠路から眺める重なり合った峯と谷はまだ寒山落木の姿であった。だが、東に向いた陽当たりの雪のない山肌には、波のようにやわらかいひだが走っていて、落葉の間にも何となくうるおいがある。やはり、春たつ順気が地の底に、眼ざめているのであろう。
 路は、この頃のようになだらかに改修されていなかったから、なかなか険しかった。足ごしらえの悪い腿が痛む。けれど、けさふんだんに食べた飯が腹にあるから、いずれも元気だ。
 ひるが少しまわったころ、峠の頂へ出た。ここには、上州と信州の国境を示す石の標柱が、嶺から平野へわたる風のなかに立っていた。その標柱の礎石の前の小さな石塊を背に分けて、東側に降った雨は遠く流れて太平洋へ、西側へ降った雨の粒は日本海へ、おのおのの行方を語るのであろう。路傍の赤土の面を掘った細い糸ほどの溝の跡が二本。一本は利根川を指し、一本は信濃川を慕い、思い思いの方を向いて互いに運命の坂を下っている。
 私らはそこから行手をみてびっくりした。かえりみれば、下野の男体山から赤城、榛名、妙義、荒船、秩父山かけて大きく包まれている関東平野は、もう浅春の薄い霞のとばりをおろして、遠く房州の方へ煙っているというのに、信濃の国の方は青銀色に冴えた一面の雪野原であった。
 山の中腹の、浅い雪からは、枯芒が穂だけ出している。吹きだまりの深い雪には落葉松が腰まで埋めている。大浅間の頂は、真っ黒な雪雲に掩われて窺い知れないが、南佐久の遙かな空には真っ白な蓼科山が鋭い線を描いて、高く天界をっていた。
 凄寒を催す眺めだ。この雲行ならば、また雪が飛んでくるかも知れない。風が、痛い。長野まではまだ道のりの半分もきていないのだけれど、何の防寒の用意もなく懐も冷たい私たちは、これから先、この積雪のなかを、踏み分け踏み分け行かねばならないのか。それを思うと、脚が立ちすくむ。
 こうして、寒雪に恐れていつまでもここに佇むわけにはゆかぬ。勇気をつけて、軽井沢の方へ坂を下った。軽井沢の宿へ入ると、人の踏みつけた雪は凍って、油断をすれば低く摺り減った日和下駄の歯が、危うく滑りそうになる。
 いまの軽井沢は、文化風の建物が櫛比しっぴして賑やかな都会となっているが、そのころはまだ北佐久郡東長倉村の一集落で、茅葺屋根の低い家並みが続いていて、ペンキ塗りの外人の避暑小屋は落葉松の林のなかに、ばらばらと数えるほどしか見えなかった。殊に冬は死んだように閑寂とした宿であった。
 きょうも長倉村でさつま芋を五銭買って分けて食べた。ところが信州は物が高いと見える。
 上州の板鼻で買ったときよりも、同じ五銭でありながら、きょうの方が量が少ない。そんな細かいことに気づいて、三人は笑った。
 浅間おろしが、横なぐりに雪の野を吹き荒れてくる。だが尻をからげて路を急いでいると、峠の上で恐ろしがったほど寒さを感じない。かえって、ほんのりと額に汗がにじむくらいである。
 沓掛の宿を過ぎた頃は、夕暮れに近い。

     七

 追分の宿へ着いたら、夜になった。
 馬子唄に唄う、
浅間さんなぜ焼きやさんす
      裾に十七持ちながら
 の唄で知られる宿場遊廓の、古い大きなもう滅びて誰も住んでいない建物の前を過ぎて行くと宿のはずれであろうと思うところで、村役場の看板を発見した。門から覗いてみれば、小使室らしいのなかで、榾火ほたびがあかあかと照っている。しめた、と思った。
 そこでまた、銀平の決心を促すことになったのである。けれど、一番若い銀平ばかりいじめるのは、いけないということになった。そして、三人一緒に小使室の土間へ入って行って、私が小使さんに訳を話して、
春の川 うぐいむらがり 遡りけり
 と、書いてある短冊を出した。小使さんは、それを受け取りながら、ひとりごとのように、
『こんなのが、この頃よくくるなあ――』
 と、呟いて事務室の方へ持って行った。事務室は、暗いが誰かいるとみえる。
 しばらくすると、事務室の窓の硝子戸が開いて声がした。
『君たち、こっちへきんさい』
 と、呼ぶのである。私たちは、開いた窓の下の庭に立った。窓を見上げると、窓のやみから手が出て、
『これを持って行き給え』
 と、言う。
『どうも、ありがとうございます』
 玉汗が右の手を差しのべると、暗から出た掌が開いて、光るものが玉汗の掌へ落ちた。
『どうもありがとうございます』
 と、玉汗は重ねて言った。しかし、事務室も暗い。また、そとも暗い。事務室のやみの主は、どんな人であるか分からないのである。声の色で判断すると、若い人のようでもあり、黒い手の色から考えると、年配者でもあるらしい。
 銀平も私も、暗のなかで黙って頭を下げた。窓の人は、そのまま黙って暗のなかへ引っ込んで行ってしまったのである。小使室の前へ立ち戻って、遠くほたあかりでかしてみると、玉汗の手にあるものは、五十銭銀貨であった。
 ――奇特なことである――
 私は感激して、心にこう思ったのであるから、銀平も玉汗も同じ思いであったろう。
 五十銭あれば安心だ。どこか木賃宿でもみつけよう、ということに相談一決した。往還へ出て路ゆく人に尋ねてみると、この宿の西の出はずれに、上州屋といって昔は、つまり汽車という交通機関がこの土地へ通じる前は、大きな立派な宿屋であったけれど、いまでは木賃宿というほどではないが、まあ安直の諸国商人宿風の店があるから、訪ねて行ってみるがいい。話のしようによれば、米も炊いてくれるだろうし、布団も貸してくれるだろう、と親切に教えてくれた。
 宿はずれに、上州屋というのがあった。路ゆく人の言葉通り、大きな店ではあるが半ば腐った古い軒が傾いていた。広い土間へ入って、かまちのそばに切ってある大きな爐に手をかざしていた盲縞の布子ぬのこを着ている五十格好のお神さんに、一夜の宿をお願い申した。
 お神さんは、私らの風体に下から上まで冷やかな視線を放ちながら私たちの口上をきいていたが、しばらく考えた末、手前どもでは旅の芸人を泊めないことにしている。この暮れ以来佐久地方へ、悪い者が入り込んであちこち騒がしているので警察の達しがやかましい。気の毒だがほかの土地へ行って貰いたい。しかし話をきけば哀れでもある。今夜一泊だけはそっと泊めてやろう。
『米を、買うぜにはあるかい』
『ございます』
『そうかい、豪勢だね。一升十七銭――三人だから一升あれば足りるだろう。ぜにをこっちへ出しな、わしが買ってきてやる』
『はい』
『ところで、木賃の方は八銭ずつ、都合二十四銭。みんなで四十一銭でがんす』
 ひどく胸算用の達者なお婆さんである。私たちは、おすがり申すという態度で、小さくなって框へかけた。玉汗が、先刻貰った五十銭銀貨を、お神さんに渡した。
 そこで、すぐ米を買いに行ってくれると思ったところ、漸く安心したらしいお神さんは、顔の皺を伸ばして、続いて私たちに言うに、見るところお前さんたちは、浪花節だろうね。浪花節はわしも好きならこの村の人たちは誰でもみんな好きだ。ところで、今夜お前さんたちがわしの店で一席やれば、村の人を大勢集めてきてお鳥目ちょうもくを貰ってやる。そこで、この五十銭はお前さんたちに返してもいいことになるのだがどうだい奮発して面白いところを一席やってみないかね。五十銭はここへ置くよ。
 これは、飛んでもないことになってきた。だが、私らは浪花節にみえるのかも知れない。三人は、頭の毛が伸びている。殊に私は、羊羹ようかんいろの斜子ななこ紋付もんつきを着ている上に、去年の霜月の末に、勤め先を出奔して以来というもの、一度も理髪屋へ行ったことがない。髪が汚く伸びて、ふわふわと肩のところまで垂れ下がっている。手の指も細いのだ。
『いや、浪花節じゃありません。ちがいます、ちがいます』
 と言って、三人で極力弁解したが、なかなかお神さんは承知しない。俳行脚の者であると説明したところで、こんなお婆さんに理解がゆく訳がないのだ。
『嘘ついても駄目だ。わしには、ちゃんと分かっているがに、後生だ、一席きかしておくれんさい』
 こんな次第である。が結局、ほんとうに浪花節語りでない者は、何とお神さんが頑張っても無駄である。そこでそのまま、一晩だけ泊めて貰うことになった。

     八

 三人は広い一間へ通された。ところが驚いた。
 その室の天井は、半分腐って剥げている。屋根には、大きな穴があいて星が見える。剥げた天井の下の畳二、三畳は、雨に腐って溶けているのだ。雪もよいの空は、さつま芋を分けて食べた頃から模様が変わって、いまでは降るような星空になっている。だから、夜になってから寒気はきびしい。こんな一間でも、小さな爐が切ってあって、お神さんが釜の下の焚きおとしを十能じゅうのうに山ほど持ってきてくれたけれど、屋根の穴から通う風に冷やされて、さっぱり室は暖かにならないのである。空腹が手伝うから、からだが、がたがたふるえが出る始末だ。
 やがて、温かいご飯が炊けてきた。お神さんがサービスに沢庵たくあんと生味噌を、小皿に一つ添えてくれたのである。
 米櫃の蓋をあけると、玉汗はまず杓子しゃもじでご飯を二つに分けて、一方を蓋に移した。それには理由があるのだ。元来、私は大めし喰いなのである。そして、掻っ込む速力がはやい。気ままにして置けば、人の二倍は食うであろう。それを、玉汗は前々から心得ている。だから、なるべく公平に、なるべく有効に、という風に思案したのに違いない。玉汗は、その作業が終えてから、
『君、蓋の方は今夜たべて、おひつの方は明朝たべることにしよう。今夜、全部平らげてしまうと、あすという日が思いやられる。諸君よろしいか』
『よかろう』
 銀平は即座に答えたが、私は黙っていた。五合の飯を血気盛りの三人で食べたのであるから、それは大蛇が蚊をのんだようなものだ。さっぱり腹がくちくなってもこないし、からだが暖かになってもこない。
 空になった蓋を、米櫃の上にのせた。そして、三人は煎餅布団せんべいふとんにくるまって寝たのである。寝るとき玉汗は、飯が凍るといけないからと言って、米櫃を自分の床の中へ抱え込んだ。行火あんかの代用にするつもりであったかも知れないと思ったのである。
 寒い夜があけて、朝となった。屋根の穴に、あかい朝の光がさしているが、指先が痛むほど温度は下がっている。誰も浄水じょうすいを使いに行こうというものがないのだ。そこで私は、お神さんからお茶の一杯も振る舞って貰ってから早く朝飯にしたいと考えているが、玉汗と銀平は妙に落ちつき払っている。
『どうだい。そろそろ、めしにしようじゃないか、諸君』
 と、私は言った。
『…………』
 二人とも、何とも答えない。
『ひどく沈着に構えているじゃないか――ゆんべの味噌が少し残っているはずだ』
 私は、こう言いながら玉汗が寝捨てた布団にくるまっている米櫃を取りに行こうとすると、二人は一時にどっと笑い出した。そして玉汗は眼鏡を羽織の裾で拭きながら、
『味噌もめしも、ないよ』
 と、言うのだ。玉汗は不必要に眼鏡を拭うくせがある。
『なぜ?』
『夜なかに、二人で食っちゃったよ』
 これは、銀平が言うのだ。
『あっ! ほんとか』
 私は、転ぶようにして、布団のなかの米櫃へ飛びついた。だがほんとうに米櫃は軽かった。私は、ぼうっとしてしまったのだ。
 気が、われに返ってから二人にきいてみると、
『君に、先手を打たれるといけないと思って、夜なかに起きて食べた訳さ』
『ひでえなあ』
『悪く思ってくれるな』
 ああ、やんぬるかなである。

     九

 その日、小諸町から善光寺街道へ路をとって、途中でみつけた蚕糸組合や郵便局へまで、つたない俳句の恥をさらしながら上田町を過ぎた。信州は昔から俳諧の盛んなところで、達者な人が数多くいるのを知らない訳ではなかったが、修業のためと考えて、歩きまわったわけであるなど、と私らは勝手な理屈をつけて歩きながら話し合った。
 上田から一里ばかり西の小県郡中条の木賃宿が、その夜の宿であった。そこでは宿の主人のまことに洒脱しゃだつな夫婦喧嘩を聞いた。その次の日は、千曲川の流れに沿う戸倉の村をぼつぼつと西へ向かって歩いたのである。
 戸倉はちかごろ、温泉が復活してからすさまじく繁華になって、いまはもう昔の親しみ深い宿場の模様を偲ぶよすがもない。西洋づくりの店が、軒を並べている。商店のウインドに、ネオンの管が渦巻いている。あのとき、この村の縄暖簾なわのれんで鍋一枚七銭の馬肉を食べ、吉原土手では一枚四銭であるのに、と言って憤慨してからもう年月はいくつ流れたであろう。あの縄暖簾は、宿場のどの辺にあったのであろうか。このたび、思いがけなく傷兵慰問の旅にきて、ひさし振りに信濃路の古き山河の俤を偲び、いまもなお、わが身に去りし日のあの若き血潮が生きているであろうか、と考えてみたのであった。
(一五・四・一)

底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。