目次
人物
押川 進  三十一
妻なる子  二十四
持山六郎  三十二
妻なぞえ  二十五
陽々軒女将 三十五
摺沢    六十
紙屋    二十五
印刷屋   十八
製本屋   四十五
彦     十六

場所
東京の裏街の二階家。電話もない小出版社、北極書院の事務所兼住宅。階下は玄関とも三間で、中央の八畳に、テーブルを二つ並べ、これが主人押川進の事務を取るところ。部屋の周囲には、堆高き書籍の山。
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押川進がテーブルに倚つて、しきりに帳簿を調べてゐる。
なる子が左手からはひつて来る。

なる子  お酒屋だけなんとかならないでせうか。
押川  ならないね。
なる子  半分だけでいゝわ。
押川  駄目だ。
なる子  四十円なにがしよ。
押川  問題はなにがしにあるんぢやない。一銭も、そつちいは出せないよ。
なる子、黙つて去る。
押川、口笛を吹きはじめる。が、算盤の手は休めずに、時々、厳粛な顔をして、帳簿をのぞき込む。
玄関の格子が開く。紙屋である。

押川  あ、今、電話をかけようと思つてたんだ。もう少しあとにしてくれないか。
紙屋  何時頃ならよろしいでせう。
押川  さあ、その時間になつてみないとわからないが、まあ、十二時過ぎとしといてみてくれ。
紙屋  それや困りますなあ。
押川  困る! ぢや、きつかりでもいゝや。
紙屋  間違ひなく頂けませうか。
押川  そんなことを訊いてどうするんだ、君、そこは信用ぢやないか。
紙屋  その信用が、どうもね。
押川  ぢや、仕方がない。結果を見よう。今ちよつといそがしいから、またゆつくり……(算盤を置きはじめる)
紙屋  (出て行きながら)なんべんも無駄足をさせないで下さいよ。
やがてまた、なる子が、通帳をもつて現はれる。

なる子  ねえ、あなた、この分ですけどね、十円だけ入れといてやりませうよ。
押川  なんだ、肴屋か。何処も公平に行かうぢやないか。今年は総て延期だ。ゐるのかい。
なる子  えゝ。なんとかしてくれつて云ふの。
押川  そつちでどうかしろつて云へ。
なる子  小さな店なんだから、可哀想だわ。
押川  向うでもさう云つてるだらう。いゝから、追つ払つた、追つ払つた。
なる子、引退る。
入れ代りに、玄関が開く。印刷屋である。

押川  あ、今、電話をかけようと思つてたんだ。もう少しあとにしてくれ給へ。
印刷屋  後つたつて、もう日が暮れちまひますぜ。
押川  なんだい、それや。日暮れて路遠しの洒落しやれか。君んところなんか、まだ近い方だぜ。品川から三度もやつて来た人がゐるよ。
印刷屋  ついでがありやまだいゝですよ。こつちは、あんたのとこだけですから、この方面ぢや……。
押川  勉強が足りないからさ。また、どつか紹介するよ。その代り、もう一月ひとつき待ち給へ。
印刷屋  戯談じやうだん云つちやいけない。今度つていふ今度は、大将が承知しませんよ。
押川  さうかなあ。さうでもあるまい。ぢや、兎に角、十二時前後に来て見てくれ給へ。都合によつちや、なんとかするから……。
印刷屋  大丈夫ですか。
押川  僕に僕の保証をさせるのかい。知らないよ。おい、今少し、忙しいんだ。話は後からにしてくれ。(仕事にかゝる)
印刷屋  (帰りかけて)ちえツ、しやうがねえなあ……。
押川は、また口笛を吹き、今度は、算盤を投げ出して、煙草に火をつける。
なる子がはひつて来る。

なる子  困つちやつたわ。あたし、すつかり忘れてたの。
押川  丁度いゝぢやないか。
なる子  (書付を出し)これよ、ほら……。
押川  なんだ、向うで覚えてるのか。
なる子  先月、あんたが脳貧血を起した、あん時のよ。
押川  往診弐円、注射壱円、頓服散薬五拾銭……。
なる子  看護婦さんが来てるのよ。
押川  のちほど伺ひますつて……。
なる子  また来やしないでせうね。
押川  おい、そつちはそつちで、引受けるつて約束だらう。いちいち相談に来るなよ。
なる子、引込む。
玄関が開く。今度は、製本屋である。

押川  やあ、失敬々々、今電話をかけようと思つたんだ。済まないが、今夜出来るだけ遅く出直して来て貰ひたいんだがなあ。
製本屋  弱つたなあ。
押川  もう、ついではないの。
製本屋  なに、ついでがなくつたつて、来るにや来ますが、一体、出来るんですか、出来ないんですか。
押川  はつきり云へつて云ふのかい。
製本屋  えゝ。
押川  出来さうもないよ。
製本屋  ぢや、どうするんです。
押川  さあ、どうしたもんだらうね。
製本屋  話をめて頂きたいんですがね。
押川  と、云ふと?
製本屋  あんたの方で、さう出て来るなら、こつちにも考へがあるつてことさ。
押川  可笑をかしなことを云ふね。僕の方で、どう出たね。真面目まじめに相談してるんぢやないか。君も製本屋だ。さうだらう。本屋が困つてれば、君も困るのは当り前ぢやないか。そこをなんとか切り抜けるのには、お互、智慧をし合はなけれやならない。君の智慧をりようつていふんぢやないか。わからないかい。
製本屋  わかつてますよ。たゞ、そんな智慧は、こちとらにやねえからしやうがねえ。
押川  ない。そいぢや、僕がさう。君のところは、僕のとこより、らくだ。
製本屋  巫山戯ふざけちやいけねえ。
押川  どうして? 君のところは、方々へ払ひを五月いつつきも溜めてるかい。貧乏臭い話はしたくないが、まあ勝手へ廻つて帳面を見て来給へ。
製本屋  そんなことをしなくつたつて、大抵わかつてるがね。
押川  有難う。ぢや、なんにも云はずに、待つてくれ給へ。
製本屋  今日はどうしても駄目かね。
押川  さあ、それが、まだわからないんだ。集金の都合が、どうなるか……。
製本屋  なにしろ、こつちも苦しいんだから、ぢや、かうしませう。今夜遅く、もう一度寄つてみるからね、出来るだけ入れておくんなさい。
押川  よろしい。ぢや、失敬。
製本屋、去る。
押川、起ち上つて、部屋中を歩きまはる。時々、積み上げた本を、あれこれと抜き取つて、ぱらぱらと頁を繰りなどする。
なる子がはひつて来る。

押川  (本を一冊、妻の方に差出し)いゝね、この装幀は……。ナンセンス物には惜しいくらゐだ。
なる子  さうよ、初めからどれもみんな御自分でなさればよかつたんだわ。
押川  下手へたな絵かきなんかに頼むよりね。
なる子  ひんがいゝわ、第一……。
押川  品がね。それより、目につき易いだらう、並べてあつてさ。適度に刺戟的だ。
なる子  ぱツとしたところがあるわね。
押川  「知識の花弁」といふところだ。
なる子  持山さん、まだ御覧にならないんでせう。
押川  あいつは、装帳なんかどうでもいゝんだよ。てんで趣味はないらしい。珍しい男さ。第一、自分の本を、手元に一冊も置いてないなんて、あきれるよ。
なる子  売つておしまひになるんでせう。
押川  さうさ。古本屋へ行つて、かう云ふんだとさ――「この本は、まだ出たてだが、五割引ならいゝだらう」つて……。
なる子  聞いたわ、その話……。すると、亭主が、「この著者のもんでは、どうも」つて云ふんでせう。
押川  その話を聞いて、おれもうつかり笑つたけど、実際、笑ひごとぢやないよ。
なる子  それはさうと、まだ買物が少しあるんだけど……。
押川  来年のことにしろよ。
なる子  二三円でいゝの。
押川  今、すつからかんだつて云つてるぢやないか。彦の奴、一旦帰つて来りやいゝのに……。
なる子  あゝあ、くたびれた。
押川  同感だ。しかし、もうお前の方のかたはついたのかい。
なる子  ついたやうなもんだわ。
押川  それぢやよし。もう別に用がないなら、夜店でもひやかして来い。
なる子  あなたの方はまだなの。
押川  これからだ。
なる子  しつかりおやんなさい。どれ、こつちはあたしがゐても仕様がないから、お炬燵こたにでもはひつてくるわ。
押川  風邪かぜを引くなよ。
なる子  大丈夫、蒲団を着てるから。
押川  なんだ、もう寝るのか。
なる子  いけない?
押川  いゝとも、いゝとも。ゆつくりおやすみ。
なる子  ぢや、除夜の鐘が鳴つたら起してね。七輪にお湯が沸いててよ。
なる子去る。
押川はテーブルにつき、また帳簿を繰りはじめる。
やがて、玄関が開き、持山六郎がはひつて来る。

持山  まだ仕事かい。
押川  うん。まあ上れ。
持山  なかなか寒い。
押川  あゝ、寒い。
持山  (椅子に掛けながら)静かだね。
押川  (相変らず帳簿の上に目を落し)あゝ。
持山  どうだい、景気は。
押川  大したこともない。(間)本が出たよ。
持山  本? どの本?
押川  呑気のんきな奴だなあ。「蛇の足」さ。
持山  あゝ、俺のか。ちつたあ売れるかい。
押川  あわてるなよ。やつと配本を済ましたばかりだ。
持山  十冊ばかり持つてくぜ。
押川  待てよ。今、古本に出されちや困るよ。
持山  細君は?
押川  二階だ。
持山  余裕綽々ぢやないか。
押川  ふん。ざつとね。実は、ぐたぐたになつて寝てるんだ。
持山  ほう。これはまた、しほらしいね。といふのが、僕のところぢや、かういふわけなんだ……。
押川  ちよつと……。今、こいつを済ましちまふから。
持山  (手持無沙汰さうに、煙草を出して、火を点ける)
押川  (算盤を弾く。やがて)これでよしと……。(急に調子を更へて)いよいよ今年も終りだね。
持山  (面喰つて)あゝ、終りだ。よく出来たもんだ。
押川  几帳面にね。(間)ところで、ちよつと、一時間ばかり、出かけて来なきやならないんだが、君、さし支へがなかつたら、留守を頼みたいんだがな。
持山  いゝよ。君さへさし支へなければ。
押川  (咄嗟に呑みこめず)うん、ぢや、頼む。茶が欲しかつたら、台所に湯が沸いてるから。
持山  もうお客さんはないかね。
押川  それが、あると思ふがね。よろしくやつといてくれ。
持山がきよとんとして、後を見送つてゐる間に、押川は玄関で二重廻しを着、帽子を持つたまゝ、外へ出る。

持山  おい、それでなにかい……。
押川の姿は、見えなくなる。
とりのこされて、持山六郎は、はじめて責任の重大なるを感じたるが如く、腰を浮かせて、あたりを見廻してゐる。


持山六郎が、主人然とテーブルに就き、陽々軒の女将が、火鉢の傍に椅子を引き寄せて、背中を丸めてゐる。

持山  偶然つていふものは、妙なもんですね。僕が降りる、向うが乗るさ、電車にですよ。こつちで気がつかなけれや、それまでぢやありませんか。「おい、どこへ行くんだ」と声をかけると、やつこさん、ちよつと驚いたには驚いたらしいがね。洒々しやあ/\とかうぬかすぢやありませんか――「こんな晩に、あたしひとりでうちにゐられますか」……。もつともな話だから、僕も亦、ふらふらと、電車に乗り込んだわけです。こんな晩に、僕だつて、ひとりでうちにゐたくありませんからね。(そこで、女将おかみが何か云はうとする)いや、そのことなら、もう分りましたよ。今日けふは、黙つて帰り給へ。
女将  でも、ほんとに、あなたは押川さんとどういふ御関係なんです?
持山  どういふ関係に見えますね?
女将  このお店にいらつしやるかたぢやないでせう。
持山  僕は店員といふわけぢやないが、まあ、それに類したものです。此処に積んである本は、大方おほかた僕が書いたの。
女将  あら、さうですか。ぢや、先生ですね。
持山  同時に、押川とは学校友達でね。まあ、無二の親友さ。
女将  へえ、そんなに御懇意なんですか。そんなら、あなた、なんとかして下さいよ。奥さんには内証だつておつしやるから、今まで伺はずにゐたんですよ。
持山  内証話は、大きな声でするもんぢやない。で、勘定はいくら?
女将  (書付を出し)大分だいぶ溜つてるんですよ。
持山  百円足らずですね。
女将  チップはついてをりません。
持山  さあ、今、ちよつと持ち合せはないが、押川が帰つたら、相談してみませう。
女将  あらいやだ。そんなら、あなたにお願ひしなくたつていゝんですわ。
持山  僕もそのうち行きますよ。
女将  どうぞ……。洋酒は吟味してございます。
持山  やあ、それぢや、また、何れ……。どうぞ、僕におかまひなく……。
女将  あなたは、押川さんをお待ちになつてるんでせう。
持山  いや、別に待つてもゐないが、生憎あいにく、留守番を頼まれたんでね。なに、ぶらつと金を借りに来たら、それを云ひ出さないうちに、やつこさん、出かけちまつたんだ。僕は、今日は、急がないから、かうしてるだけさ。ほんとに、御遠慮なく……。
女将  えゝ。でも、このまゝぢや帰れませんから……。
持山  君んところは、洋食の方もやつてるんですね。
女将  えゝ、この辺ぢやどうしてもね、その方がしゆになりますわ。
持山  女給さんは幾人ゐるの?
女将  今、三人ですの。
この時、玄関が開く。押川である。黙つて、立つてゐる。

持山  何か忘れもんでもしたのか。
押川  (しぶしぶ上りながら)いや。(女将おかみに)何時いつ来たんだ。
女将  お留守にどうも……。今日お寄り下さるつてお話でしたから、ついさつきまでお待ちしてたんですけれど……。
押川  寄つて来たよ。
女将  あら、ほんとですか。
押川  ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だと思ふなら帰つてみ給へ。金はお豊に預けて来たよ。全部ぢやないが、現金でだ。偽札だつたら日本銀行を訴へてくれ。
女将  からかつてるんだわね。
押川  とにかく、帰つてみ給へ。
女将  帰りますから、幾ら置いて来て下すつたの?
押川  十円ばかりだ。
女将  あら、それぢや困るわ。
押川  困る? ほんとに困る? おれも困る。
持山  それみ給へ。世間はみんな困つてる。ねえ、お女将かみさん、そこに積んである本をみてごらん。みんな定価がついてる。とこの上のが、あれで一冊一円八十銭、そこの赤い函にはひつてるのが、九十銭、向うの金文字入りが、ああ見えて、一円二十銭……(押川に)今度のはいくら?
押川  六十銭……。
持山  (取りに行き)これ……。一冊、進呈しよう。わりに面白いよ。僕のペンネーム……(著者の名前を指す)
玄関が開く。摺沢がはひつて来る。

摺沢  今晩は……。
押川  やあ、どうもわざわざ……。今日、お電話をしようと思つてたんですけど……つい……。
摺沢  いえ、なに、おいそがしいところを、そんな……。
押川  まあ、お上り下さい。かまはないんです。
女将  ぢや、どうしませうね。
押川  どうしよう? まあ、ちよつと待つててみ給へ。さあ、どうぞ……(持山に、書物をのせた椅子を指し)ちよつと、そいつをおろしてくれ。
持山  (指図通りにして)これへどうか……。
摺沢  (大きな鞄を抱へて上つて来る)如何いかゞです。益々御盛大で……。
押川  えゝ、お蔭で……。(持山に)あゝ、この方はね、摺沢さん……ほら……あれさ。
持山  あゝ、僕、持山六郎です。
押川  親友です。同時に……。
摺沢  やあ、これは……。
押川  (持山に)話さなかつたかしら……摺沢さんは、僕の大事な金主だよ。
持山  あゝ、なるほど……。押川が大変御厄介になつて……。
摺沢  いや、どういたしまして……。
押川  六年前に、僕がこの仕事をはじめる時、二千円といふ資本を出して下すつたのはこのかただ。それが面白いぢやないか。お互は赤の他人なんだぜ。
摺沢  いやあ。
押川  全くさ。ある偶然の機会に、僕は、一二度会つたきりのこのかたに、今度かういふ仕事をはじめたいんだが、実は金が無いんでといふやうな話をしたんだ。
摺沢  その通りでしたよ。
押川  するとね、驚くぢやないか。わたしが一肌ひとはだ脱ぎませうつていふわけでね、即座に小切手を書いて下さつたもんだ。無論、証書へ判だけは捺した。
持山  無抵当でね。
摺沢  それがです。わたくし、予々かね/″\、出版といふ仕事に興味をもつてをりまして……。
押川  御自分では経験もないしするから、つまり、僕の事業をたすけながら……。
摺沢  わたくしも、ひと儲けしたいと思ひまして……。
押川  早く云へば、僕の腕に……。
摺沢  二千円、賭けさせていたゞきましたんです。
持山  と云ふと、つまり……。
押川  一種の投機さ。
持山  それはわかつてるが……。
押川  利子のことかい。
持山  うん、そこまでは聞かなくつていゝが……。
押川  いや、話すよ。ねえ、摺沢さん、こゝだけの話だからいゝでせう。
摺沢  細かいことは、御勘弁を願ひます。
押川  大ざつぱに云ひませう。六年目の今日、元利合計、九千なにがしになつてゐるんだ。
女将  まあ……。
持山  ふん、利殖としては悪くないね。
押川  それが、まだ、一文も払つてないんだ。
持山  もう少し、待つて頂くさ。さきが見えてるんだもの。
摺沢  いえ、それやもう、お待ちすることはいくらでもお待ちいたしますんです。
押川  この手だからね。証書を書き替へさへすれやいゝんでせう。
摺沢  用意して来てをります。
持山  凄いね。失礼ですが、御商売は?
押川  おい、馬鹿なことを訊くなよ。
玄関が開く。さつきの製本屋である。

押川  ちよつと、そこで待つててくれ。今行くから……。
持山  僕も、最近、何か一つ、商売をはじめようと思つてるんですが、あなたのお考へでは、どういふ種類の……。
摺沢  さやうですな。今の御商売が一番結構だと思ひますな。
持山  さうですか。実は、それについて、困ることは、資本のないことで……。
玄関が開く。例の印刷屋である。

持山  (その方に)あゝ、和光さんだね。少し待つてくれ給へ。(摺沢に)どうでせう、ひとつ……二千円ばかり……。
押川  おい、まてよ。こつちに少し話があるんだ。ところで、摺沢さん、御覧の通り、この店ではもう手狭てぜまなくらゐ、本の数もえましたし……。
摺沢  いや、さつきから、それを拝見して、ひそかに喜んでゐるやうな次第です。
押川  ですからして、こゝを、なんとか、切り抜けさせて下さい。なにしろ、今迄は、資本を寝かす一方でして、もう一息ひといきといふところで、動きがとれなくなるのが、どうも残念なんです。あと千円もあれば、この暮れがどうにか……。
摺沢  押川さん、それや、いけません。わたしは、たゞ本年度の利息を頂戴に上つたんです。
押川  ですから……。
摺沢  それも、待てとおつしやれば、よろしい、それはお待ちしませう。
押川  ですから……。
玄関が開く。さつきの紙屋である。

押川  そこは狭いね。上り給へ、みんな、上つてくれ給へ。まとめて片づけよう。和光さん、寒いから、外套を着たまゝでいゝよ。(摺沢に)ですから、おついでに、もう千円だけ、是非、この際……。
製本屋、印刷屋、紙屋の順に上つて来る。椅子がないので、みんな立つたまゝでゐる。女将が起ち上つて、製本屋に椅子を薦めなどする。

押川  (持山に)君、ちよつとそつちを頼む。(摺沢に)さういふわけですから……(いて来いといふ合図をして、自分から先へ席を立ち、隣りの部屋に行く。摺沢、仕方がなく、その後に従ふ。鞄を忘れずに持つて行く)御承知の通り、出版といふ仕事は、当つたら、その機会をつかんで……。
摺沢  いや、それはもう、わたしには専門の知識は……。
押川  ざつくばらんにお話しますとね……(後は聞えない)
持山  (思ひ出したやうに)では、君たちの御用は?
製本屋  もうわかつてるんですから……。
持山  (印刷屋に)君は、和光さん。
印刷屋  へゝゝゝゝ。
持山  あゝ、さう、わかつた。君は、何屋さんだい。
紙屋  紙屋です。
持山  紙屋さんは、もう済んでるんぢやないの。
紙屋  いえ、とんだこつてす。
持山  まあ、さう怒るなよ。今、向うの話がつき次第、払ふものは払ふから、一服やつててくれ給へ。あの人のかゝへてる鞄をみ給へ。君たちが五人や十人来たつて、びくともしさうにないだらう。あの人が、摺沢さんつて云ふ多額納税者だ。北極書院の隠れたる金主だから覚えとき給へ。
押川  (突然語調を強めて)しかし、さうして下さらなきや、僕の仕事はぺしやんこですよ。
摺沢  (落ちつき私つて)むを得ません。あなたが損をなさるんですよ。
持山  (一同に)駄目だ。見込みはなささうだ。諸君、気の毒だが、これで引きとつてくれ給へ。僕は、僕の名誉にかけて諸君に誓ふ、北極書院が潰れる日は、持山六郎の破滅の日だ。諸君にこのうへ迷惑はかけない。諸君への支払ひに対しては、僕が共同の責任を負ふ。
摺沢  (押川から遠ざかり)いやいや、もうその話は何度うかゞつてもおんなじです。ぢや、兎に角、証書を書換へておきませう。(テーブルの方へ近づく)
押川  (その後から追ひ縋るやうに)僕はもう、そんな証書に判は捺しませんよ。
摺沢  (相変らず冷静に)では、お約束通り、財産差押へを致しませうか。
押川  どうぞ御勝手に……。
持山  どうしたんだい。さうお互ひに、短気を起しちやいかんよ。摺沢さん、この男のいゝところは、こゝなんです。どんな場合にでも、一直線の道を歩く。正々堂々と、障碍にぶつかつて行くんです。お気をわるくなさらないで下さい。押川、君もちつと相手を考へろよ。摺沢さんを、敵にしちや損だ。ねえ、摺沢さん。
摺沢  (何事もなかつたやうに)いやなに、わたしも、押川さんのさういふところを見込んで、一肌ひとはだ脱いだ訳なんですから、心のなかでは、何とも思つてやしません。
持山  (他のものに)諸君も、お聞きのやうなわけだ。今日けふのところは、みんな、厭な顔をしないで別れようぢやないか。
製本屋  どうかして貰ふまでは、動かないつもりですがね、あつしや……。
押川  動かずにゐ給へ。
持山  また、それだ。喧嘩をするなよ、喧嘩を……。かういふ時には、根気こんきが大事だ。みんな根気くらべだ。
摺沢  では、急ぎますから、ひとつ、形式だけ整へて置きませう。
持山  硯ですか。(硯の蓋をあけてやる)
摺沢  大体書き入れてはありますが……。(鞄をあけ、書類を出す)
紙屋  ぢや、かうしていたゞけませんか。講義録と、最後の「蛇の足」の分だけ、あの紙はほかから取つたもんですから……。
押川  わかつてる。誠に申訳がない。
印刷屋  こつちは、すつかり当てにしてたんで、どうも……。
持山  わかつてるつて云つたぢやないか。
女将  あたしや、そいぢや、御暇しませう。
持山  まあ、いゝぢやないですか。
女将  いえ、またつてことにしますわ。
持山  さうかね。
押川  ぢや、頼む。みんなによろしく。
持山  (女将を送つて出ながら)もう少したつと、集金の小僧が帰つて来るんだがね。ことによつたら、君の方だけ、幾分入れられると思ふんだがなあ。
女将  さうですか。そんなら……。
押川  絶対駄目だ。集りつこないよ。さつき電話で方々当つてみたんだ。
持山  (この時、何を思つたか、突然、厳粛な調子になり)さうときまれば、みんなもう諦めるより外はない。僕も諦めた。さ、諸君は、其処にさうしてつてゐる必要はない。それとも、押川のふところへ、天からさつが降つて来るとでも思つてるのか。が、待ち給へ。僕が一つ、名案を授けよう。
摺沢  (さつきから、書類に何か書き入れてゐたが、この時)押川さん、では、こゝへ御判をひとつ……。
押川  (証書を受取つて読む)
持山  名案といふのは、外でもない。非常手段だ。諸君がそれほど欲しがつてゐるものなら、その一念で、なんとかならうぢやないか。
摺沢  (書類を指し)此処と、こゝへ、どうぞ……。
持山  しかし、非常手段といふからには、失敗を覚悟しなけれあならん。たとひそれが空想であつたにしろ、諸君は、いつ時、胸を躍らすに違ひない。罪ならば罪で、僕がたゞ一人、その罪を着よう。(と云ひながら、片手を伸ばして、摺沢が蓋を開けたまゝ側らに置いた例の鞄を引寄せ、悠々と、中にある札束を掴み出す)えゝと、みんな受取を出し給へ。
一同は、あつけに取られながら、それでも、順々に書付を出す。

持山  君からだね、六百二十七円……八十何銭はどうでもいゝだらう。(札を数へながら)一、二、三、四、……あゝ、面倒臭い。勝手に、めいめいで分け給へ!
この壮絶なる一句と共に、紙幣の束が、次ぎ次ぎに、集金人たちの眼前に投げ出される。
その少し前から、摺沢と押川とは、この異様な光景を、訝しげに眺めてゐたが、摺沢の眼は、次第に空ろになり、はツと気がついて側を見る。そこからは、鞄が何時の間にか消え去つてゐる。

摺沢  (愕然として)あ、わたしの鞄! それ、わたしの……(と、叫びながら、テーブルの上下に散乱した紙幣を、無我夢中で掻き集める)なにをするんだ、この人は……。しからん。みんなどいてくれ、さ、どいてくれ。さ、どいてくれ。誰もさはつちやいかん。近所に交番はないか……。
持山  (愉快さうに)どうだい、年末の余興としては、ちよつといゝ思ひつきだらう。
摺沢  もう、その辺に落ちてないかね。誰も足の下へ入れてやしないかね。
持山  大丈夫、そんな素捷すばしつこい奴は、一人もゐませんよ。ゆつくりお拾ひなさい。さて、諸君、胸がちつとはすつとしたでせう。いゝ年をお迎へなさい。
摺沢は、あらまし紙幣を拾ひ集めたらしく、この時、一同の顔面は、そろそろ硬直が旧に復して、押川、紙屋、印刷屋、製本屋、照れたやうな、淋しいやうな、そのくせ、善心そのものゝやうな微笑を口辺に浮び上らせる。そして、摺沢が、一心不乱に数へてゐる紙幣の一枚々々の上に、それぞれの輝いた視線が集中し、遂に、一座の悉くは、期せずして、摺沢のする通りに、頭を上下に動かし、無心に紙幣を数へはじめる。


前場の人物は、押川と持山とを除き、既にみな帰つたあとである。持山は、座蒲団の上に、寝転んでゐる。押川は、勝手に行つて茶器を運んで来る。

持山  細君はうまくやつてるね。
押川  うん。
持山  君の計らひだらうな。
押川  世帯の方は、どうやらやり繰りをつけて、夕方からとこへもぐり込んぢまつた。店の方はどうだといふから、こつちはおれが引受けると返事をした。安心しててるだらう。除夜の鐘が鳴つたら起すことになつてゐる。
持山  おれの女房は、今頃は、何処をうろついてるか。これも、除夜の鐘が鳴つたら、此処へ来いと云つてある。
押川  お蔭で助かつたよ。やりきれん。
持山  なに、おれの戦法は、二度かんのでね。
押川  鮮やかなもんだ。
持山  貧友のよしみといふやつさ。こつちは、何処でことわるのもおんなじだ。相手の顔が違ふだけさ。あたりが、馬鹿に静かになつた。おい、炭は何処にある?
押川  今持つて来る。
持山  (時計を見て)あ、もう、そろそろ、除夜だぜ、あと、二分……十五秒……。(ラヂオの時報を真似て)あと、一分五十秒……三十秒……二十秒……十秒……あと五秒……鳴らねえや。
長い間。

押川  (勝手から炭取りを運び)鳴つてるかい。
持山  坊主居睡ゐねむりか。
押川  時計眠とぼけだ。おや、玄関が開いたやうだね。
持山  錯覚だ。
押川  いや、慥かに、玄関に誰か来てるよ。声は聞えないが、人のゐる気配がする。(出てみる)そらみろ、やあ、お待ちしてゐました。さあ、どうぞ。
持山  あゝ、もう来やがつたな。時間まで待ちきれずにか。上れ、上れ。
押川  コートはそのまゝでいゝでせう。部屋ん中も、なかなか寒いですよ。
持山の妻なぞえがはひつて来る。

持山  早いぞ。まだ鳴らないぢやないか。
なぞえ  鳴つたわよ、とつくに。
押川  さうだらう、変だと思つた。
持山  まあいゝや。浅草かい。
なぞえ  当つたわ。変なもんね、やつぱり足が向いちまふの。去年も一昨年をとゝしも、ほら、行つたわね。
持山  鐘を聴きにね。
押川  しかし、此処にゐて聞えない筈はないんだがなあ。
なぞえ  除夜の鐘? 風向きで、さういふこともあるわ。こら、手がこんなよ。(夫の手に触る)
押川、二階に駈け上る。

なぞえ  いやな方ねえ。なにをぼんやりしてらしつたの?
持山  ぼんやりしてれば、聞える筈だ。するとあの騒動の最中さいちうかな。
なぞえ  騒動つて、なにかあつたの?
持山  いや、別に……。何処でもある程度のもんさ。浅草は、相変らずかい?
なぞえ  さうね、相変らずつていふんでせうね。あたし、喜劇ちやつた。可笑をかしくもなんともないの。
持山  喜劇でね。そいつあ変つたもんだな。
なぞえ  ほかの見物けんぶつは、そいでも笑つてたわ。
持山  さうだらう。喜劇を見せられたら、笑ふのが礼儀だ。時に、どうする、今夜は、此処へ泊つてかうか。
なぞえ  どうでも。夜具はそろつてゐるかしら……。
持山  そいつは、向うで心配するだらう。旅で正月をするのも久し振りだね。
なぞえ  えゝ。
持山  (二階の方を見上げて)あ、押川夫人のお眼覚めだ。
なぞえ  なに、寝てらしつたの?
持山  受持ちが違ふんださうだ。
なぞえ  よく眠られるわね。でも、こちら、うちみたいなことはないでせう。
持山  さあ、わからんね。
押川が降りて来る。

押川  ぐつすり眠込ねこんでるから感心だよ。健康なのもそのお蔭だ。奥さんはよくおやすみになる方ですか。
なぞえ  むらがありますの。られないとなると、どうしてもつかれませんの。この人ですわ、人にしやべらしといて、ぐうぐう鼾をかいてるのは。
持山  ほかのことを考へてるより、罪はないさ。
押川の妻、なる子が現はれる。

なる子  いらつしやいませ。どうも、失礼いたしました。もつと早く起してくれゝばいいんですのに……。お寒いわね。あら、こんな火ぢや駄目だわ……瓦斯で起して来ませう。
持山  (押川の顔をつくづく眺め)どうだらう、五十円ばかり、どうかならんかね。
押川  (これもぢつと持山の顔を見据ゑ)あゝ、さう云へば、チビがまだ帰つて来ないや。
持山  途中でさらはれちまつたかな。
押川  小さな口だけ廻らしたんだが、五十円にもなれあ大手柄だ。
持山  ぢや、かうしよう、五十円未満だつたらおれが持つて行く。それ以上は、君が取れ。
押川  もう金の話はよせよ。
なぞえ  ほんとだわ。
持山  なんだ、自分で云ひ出したんぢやないか。旅行する金を工面しろつて……。
なる子が、十能をもつて現はれ、火鉢に火をつぐ。

なる子  (なぞえに)お正月の御馳走はもうお出来になつて?
押川  それを今、云つてるんだがね、お二人は、これから大島へ旅行ださうだ。
持山  大島もいゝね。僕は、伊東ぐらゐのつもりでゐたんだが……。
このせりふの間に、遥か、鐘の音が響いて来る。一同は顔を見合はす。

持山  おや、鳴つてるね。
押川  鳴つとる。
なる子  鳴つてるわ。
なぞえ  さうよ。
持山  さうよたあ、なんだい。
なぞえ  だつて、外は寒くつて、時間なんか待つてゐられなかつたんですもの。
押川  なるほど。必要のない※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)つてものは、女性的だからな。
なる子  なに、除夜の鐘がもう鳴つたつて、奥様がおつしやつたの。
押川  (にやにやしながら)二度聴くのもわるくないな。
なる子  ぢや、さつきの夢は今年の夢ぢやなかつたんだわ。
持山  さては、惜しい夢かな。
なる子  まあね。
なぞえ  伺ひたいわ。
なる子  云つてみませうか。
押川  夢の話なんか、つまらん。
持山  現金なことを云ふな。夜が明けるまでは、大分間があるぜ、奥さんの夢物語でも聴いて、ねむくなつたら、そのへんに寝かして貰はうぢやないか。
なぞえ  まあ、失礼な……。
なる子  あら、子守歌の代りになれば、光栄ぢやありませんか。おなか、おきにならない。おかちんでも焼きませうか。(餅と餅網を取りに行く)
なぞえ  (この間、なぞえは、夫の洋服の肩にかゝつてゐるフケを、やけに払ひ落しながら)さつきから、あたし、おなかがぺこぺこなの。
持山  しつかりしろよ。
なる子が現はれる。

なる子  (餅を一つ一つ網の上に並べながら)おや、聴いて下さる。どうせ夢だから、辻棲の合はないところがあつてよ。
押川  夢のせゐにするない。
なる子  黙つていらつしやい。(文字通り夢を追ひながら)処は何処だかわからないの。なんでも、ビルディングがまはりに聳えてるやうな町の中よ。押川と一緒に歩いてゐますの。あたしは、馬鹿に急いでて、なんの用があるんだか、早く歩きたくてしやうがないんでせう。それに、この人つたら、ゆつくりゆつくり、まるで散歩かなんかするやうに、ステッキを振つて歩いてるんですの。そのうちに、晴れてゐた空が急に曇つて来て、雪のやうなもんが降り出したんですけれど、別にそれが顔にあたつてもつめたくはないんですの。夢でよくさういふことありますわね。それと、その雪のやうなもんが、地べたへ積ると、白くなる筈だのに、それが、かう、薄茶色に、紫がかつたやうな、さうかと思ふと、ところどころ、黒いぽつぽつが見えたりして、どうも可笑をかしいんですの。さう思ふと、押川も、おやつていふやうな顔をして、あたりを眺めまはしてゐるでせう。すると、だしぬけに、「原稿が降つて来た、原稿が降つて来た。早く拾へ。早く……。風呂敷かなんか持つてないか」つて怒鳴り出しましたの。あたしが、それでも、そんな筈はないと思つて、よく地べたの上をみますと、まあ、どうしたと云ふんでせう、道いつぱいに、おさつが積つてるんですわ。
押川  大きな声を出すなよ。
なる子  (餅が焦げ出したので、慌ててそれをひつくり返す。なぞえも、手伝ひはじめる)で、あたしも、これはと思つて……(男たちは思はず吹出す)どうして? これはと思ふのが可笑をかしくて?
持山  まあいゝですよ。
なる子  これは警察へ届けなくつちやいけないかしらと思つてると、押川は、「なにを愚図々々してるんだ。おれが天から授かつた原稿を、一枚でも失くしたら取返しがつかん」さういひながら、片手でそれを掻き集めながら、もう一方の手で拾つた一枚を夢中で読んでるんですの。「戯談じやうだんぢあないわ、これは、みんな拾円札よ」つて、あたしが、それこそいくら云つても、きかないんですよ。「素晴しく面白い。傑作だ。当るぞ」――そんなことを、繰返して云つてるもんで、あたし、たうとう、じれつたくなつて、自分でどんどん拾ひ出しましたの。生憎あひにく風呂敷は一枚きり持つてゐないんですけれど、袂や懐や、帯の間へ、出来るだけねぢこんで……(男たちまた笑ふ)いゝぢやありませんか、ほんとなんですもの。でも、そんなことぢや、とても追つつきつこありませんわ。全く途方に暮れて、これが、せめてうちの庭だつたらと思ひましたわ。(一同笑ふ)さうかうしてゐるうちに、向うから、一人、男がやつて来ました。「やあ、これは、これは、お手伝ひしませうか」とかなんとか云つて、その人、夕刊を持つてたもんで、そん中へ、またいつぱい包んで、あたしの手に渡すんですの。それをまた、あたしも、不思議には思はないんですのね。「恐れ入ります」つていふわけよ。(笑ふ)すると、その男も、こいつはきりがないと思つたんでせうね。「待つていらつしやい。その辺にゐる人をみんな呼んで来ますから」つて、大急ぎで走り出さうとしますから、あたし、そんなことされたら大変だと思つて、(一同だんだん厳粛な顔になる)「待つて頂戴。それより、タクシイを一台、見つけて下さいませんか」つて、さう云ひますと、「タクシイよりトラックがいいでせう」……。
持山  同感だな。
なる子  すぐに、トラックが二台、来ましたの。その男の人は、どつかから、箒を持つて来ましたわ。押川はどうしたかと思ふと、だんだん積つて来るおさつの中に埋つて、首だけ出してますの。片手にはやつぱり、お札を一枚持つて、しきりになんか読み耽つてるといふ風でせう。あきれちまひましたわ。(間)それからあと、ちよつと思ひ出せないんですけれど、なにしろ、あたしたちは、お札を山と積んだトラックの、そのまた上へ乗つて、たしかお濠端を走つてゐます。通る人が、みんな振り返つて見るんですわ。そん時、ふつと、「あゝ、さつきの男の人に、もつとお礼を云ふんだつた」と気がつき、何気なにげなく後ろを向くと、遥か向うの方で、その男の人が、にこにこ笑ひながら、こつちを見てゐるんです。それが、可笑しいのね。持山さん、あなたなのよ。
持山  わあ!
なる子  (焼けた餅を皿に盛り)いかゞ、焼けましたわ。
押川  それから、どうしたんだい?
なる子  そこで、あんたの背中を叩いて、あたし、さう云つたのよ。――「さつきの人、あれごらんなさい。持山さんよ」つて……。
押川  さうしたら?
なる子  あんたのいふことがいゝわ。――「持山ならそれくらゐのことはするよ」ですつて……。
持山  また、わあだ!
この時、玄関の格子があいて、のつそりはひつて来たのが小僧の彦である。

押川  どうした。
彦  たうとう、渋谷の方は廻りきれませんでした。
押川  あゝ、あつちはどうでもいゝや。それで……
彦  はじめ文隆堂へ行つたんですが、今年は駄目だつていふんです。
押川  さうだらう、あとは?
彦  先進館は、半分くれました。十五円です。(書類を出す)
押川  上等だ。
彦  忠孝社は講義録だけで、八円五十銭……。
押川  いちいち云はなくつてもいゝ。
彦  目白ぢや、どうにもならないんです。火事があつて、とほれないんです。廻り道をしたら自転車のチェーンがはづれて、真暗まつくらなもんで、なかなか……。
押川  よし、よし、早くしろ。なにか食つたか。
彦  それがです、蕎麦屋が何処も満員で……。
押川  話はあとにしろ。出すものは出して、さつさと寝給へ。
彦  へえ、ですけれど、年の暮つて、何処でも大変なもんですね。大塚の近所ぢや交番に……。
なる子  さ、おかちんをあげるから、あつちへ行つておあがり。お金を落しやしないだらうね。
彦  へえ。大丈夫です。これぱつち、持つて歩くのは平気ですよ。
持山  大きく出るぞ。どれつぱつちだい、云つてみろ。
彦  まだ、数へてみませんが……。
持山  どら、貸せ。おれが勘定してやる。算盤を持つて来い。(彦、鞄を出す)
なぞえ  余計なことおよしなさいよ。
持山  (鞄から紙幣貨幣を掴み出し)さつきと、手触てざはりが違はあ。おや、案外、集めたぞ。(一同のぞき込む)待てよ。先づ、分類してみよう。これが十円、これが五円、これが……と、一円札といふもんは少くなつたね。次は五十銭……十銭……五銭……あと銅貨だ……。さあ、みんなで、いくら……。当てた、当てた。
なる子  おかちんが固くなりますよ。
持山  これで三十……三十……六十。こまかいので……。大分だいぶあるぞ……。十、二十、三十……九十……と……四……五……六……。二十……七……。間違ひないね。帳面と引合せよう。あとにするか。ところで、押川、こいつは、一体、どうする。困るだらうな。
押川  うん、いや、別に、……。さつき云つた通りにすれやいゝだらう。
持山  五十円、貰つとくか。が、まあ、よさう。さ、奥さん、みんなそつちいしまつといて下さい。どれ、餅でも食はう。(餅を食ひはじめる)
押川  どうだい、いつそ、みんなで、大島へ出かけようか。あとはどうにかならあ。無二の貧友が餅を頬張つて、楽しい旅を諦めようとしてる、これが、黙つてみてゐられるかだ。
持山  (急に、泣きたいやうな顔をして、いきなり、押川の方に手を差出し、二人が真面目に握手をしたと思ふと、彼は、どさりと仰向けにひつくり返り、無理に、頓狂な声を立てて笑ふ。手足をばたばたと振り動かし、笑ひが止まらぬ風を粧ひながら、実は笑ひが止ることを防いでゐるのだ。)

底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「職業」改造社
   1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「経済往来 第八巻第八号(夏季増刊新作三十三人集)」
   1933(昭和8)年7月5日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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