富士を遠景に、霞のなかに浮ぶ峠の古風な掛茶屋。軒先に山桜の一株が綻び始めてゐます。
茶屋の主、東定臣が、ネルのシヤツにコオルテンの半ズボンを穿き、店の前の道を鍬でらしてゐます。時々、腰を伸ばし、空を見上げるのですが、やがて、

定臣  ああ、やつとこの峠にも春が来た。それにしても昨日までの冬はどこへ行つた? 満洲か? 西比利亜か? さうだ、ここんところ、東北の饑饉騒ぎで、兵隊さんに送る慰問袋の方を、すつかり怠けてゐた。人間の頭つていふもんは、さう一どきに何もかも考へつくもんぢやない。新聞が気をきかして、絶えずあれこれと注意してくれればよささうなもんを、これがまた、わいわい云ふ時には云ふが、云はん時にはうんともすんとも云はんので困る。非常時だ。なるほど、それや百も承知だが、いつたい、われわれの議会は何をしとるんだ? 年末だ年始だと云つて、この際休むといふ手はない。一週間で地球をひと週りできる時代ぢやないか! 世界の大勢は、飛行機ほどのスピィドで移りはせんといふのか? そんなら、青森の娘達が、一夜にして娼婦となるのを知らんのか? ルウズベルト大統領が、元日の朝、ストゥヴの前で宣戦布告の文案を作つてゐたらどうする? いやいや、その方は、われらの将軍、われらの提督に委せておかう。提督といへば、スタンドレエといふのは、あれや、何者ぢや。間口さへ広ければ大きな番頭面ができるといふ肚に違ひない。活動に出て来る南極探検みたいな帽子を冠りやがつて、五五三の比率か? 笑はせやがらあ。それにしても、村の税金が集らんといふ話はこいつ、聞き捨てにならん。小学校の先生には、まあ、月給が渡らんぐらゐ辛棒してもらふとして、それで国家の経済がどうなるかといふことだ。いざ建艦競争となれば、めいめいの家の鍋釜を残らず掻き集めても事足るやうなもんだが、やはり、現金も必要だらう。日本銀行にいくら貯金があるか知らんが、失礼ながら、手元不如意とお察しする。これといふのも、若いものが骨惜みをするからだ。いかに山国とはいへ、冬は遊ぶものと決めてゐるからだ。炭を焼く男がだんだん減つて行くといふぢやないか? 一俵いくらにしかならんといふ考へがそもそも気に入らん。枯木に花を咲かせよう、土を掘つて小判を出さう、これが当節の嘆かはしい気風だ。おれを見ろ、おれを……。雪に埋れた峠の茶屋で、二十年この方、手間を惜まず道普請だ。東西二十町の県道が、この通り、坦々剃刀の革砥のやうだといふのは、これみな、おれの奉公心からだ。
この時、娘の孝子が、谷間からバケツを提げて上つて来る。

孝子  おとつつあん、もう、こら、こんなに芹が出てるわ。
定臣  芹も出るだらう。自然の恵みは有難いものだ。汁の身にするといい。それから、おつ母さんにちつと起きてみるやうに云へ。冬越しの頭痛なんていふのは名誉にならん。
孝子  あたし、一番の乗合で、南さんへ行つて来ようかしら……。
定臣  南病院の薬なら、あれや、飲まん方がいい。アスピリンといふやつにきまつとる。実母散から取つたもんで、元は同じだ。日本在来の薬は、どうして、なかなか馬鹿にならんのだよ。近頃、博士連中でもそれに気がついて、こつそり使つてるのがあるといふ話だ。
孝子  序に、あたし、買ひ物があるの。
定臣  オォライさんに頼めばいいぢやないか。
孝子  冷やかされるから、いや。
定臣  夕方、役場へ行くから、そん時買つて来てやる、なんだ?
孝子  レタア・ペエパア。
定臣  やれやれ、巻紙ぢや手紙の書けん人間をだれが作つたんだ。お民のお多福が洋服に靴をはいて、「出かけませう」つていふ代りに、「オォライ」と吐かしやがるんだから、これも時世と諦めるより仕方があるまい。ところで、腹が空いて来たのには弱つた。早く飯にしてくれ。
孝子  オォライ。
定臣  はは、飯に出かけませうか。
孝子が裏にはいると、定臣は、再び鍬を動かしはじめる。風呂敷包みを背負つた男が現はれる。

定臣  忠さんか、早いね。
忠  早いにもなんにも、昨夕ゆうべから歩き通しだ。
定臣  へえ、女房を貰ふと精が出るもんだね。
忠  女房のせいぢやないよ。非常時のせいだよ。こん中になにがはいつてると思ふ?
定臣  まさか爆弾ぢやあるまい。
忠  おとつつあん、桔梗ヶ原に工場の立つこたあ知つてるかい。
定臣  あ、そいつは知らない。なんの工場だい?
忠  あの辺の土から妙なものが取れるらしいんだ。ずつと以前、石を切り出してたところ、覚えてるかい?
定臣  三年たつたら、溶けちまつたつて石だらう。
忠  あの石が曲者らしいよ。うちの大将の地面があの続きなもんだから、いま、事務所へ掘つた土を見せに行くところだ。当りや大きいよ。坪いくらつて、値が出てるんだからね。
定臣  その石をなんにするんだね。
忠  だれもよくは知らないんだが、なんでも、戦争の用意らしいんだ。火薬の材料ぢやないかつて、云ふものもあるんだがね。
定臣  そいぢや、やつぱり、わしの云つた通りだ。こいつは、爆弾だ。(風呂敷包みを叩く)
忠  混つちまふからよしてくれ。おまけに、職工募集が始まつてるんだぜ。日当六十銭で、われもわれもさ。さうだらう、畑を掘つたつて、それだけのものは出て来やしない。
定臣  (腕を組んで考へ込む)
忠  大きな声ぢや云へないが、おれも名前だけ書き込んで来るつもりだ。作男で水つ洟を垂らしてるよりや、気がきいてらあね。
定臣  なにを云ふんだ、忠さん。自分のことばかり考へてる時ぢやないよ。お前がゐなくなつたら、新庄さんとこの大根はだれが作る? 大根が取れなくなつたら、新庄さんは税金をどうして納める? 税金がはいらなくなつたら、国家はだれが養ふ?
忠  うちの大将、税金なんか、どうせ払つてやしないよ。
定臣  それが困るんだ。地主がさうだから村も立ち行かんし、お上も難儀をなさる。職工になり手はいくらだつてゐるよ。
忠  まあまあ、そこはおとつつあんの知つたこつちやない。渋茶でも入れなよ。
定臣  ほんとかね、それや……。工場が建つつてね。悦んでいいことか、悲しんでいいことか……
忠  おいおい、どつちかに早く決めて、茶を出しなよ。さつきから喉がひつつきさうなんだぜ。
定臣  裏へ行つて、水でも飲んで来なよ。お前なんかにいちいち茶を出してゐられるかい。
忠  云つたな、おやぢ。青年団の忠助をいい加減にあしらふ気だな?
定臣  そつちが青年団なら、こつちは訓練所の監督だ。愛国茶屋の主、東定臣をだれだと思つてやがる。
忠  (包みを背負つて起ち上り)訓練所の監督はいいが、娘の監督は大丈夫か。
その後ろ姿を見送りながら、定臣は、憤然とする。

定臣  (やがて)近頃はなんのかんのと、若いもんを煽てすぎる。祖国の運命は諸君の双肩にありなどと、県知事までが余計なお世辞を使ふもんだから、青年たちが生意気になり、年寄りを年寄りとも思はんやうになる。国の乱れる兆だ。
奥から「お父つつあん、ご飯……」といふ娘の声。
定臣は、鍬を軒下に立てかけて、奥にはいる。
入れ代りに、孝子が店先に出て来て、箒でその辺を掃きなどする。
遠くから、皺嗄れた軍歌の声が聞える。娘は耳をそばだてる。
やがて、一人の洋服を着た中年の男が現はれる。兵頭である。

孝子  あら、先生、どちらへ……。
兵頭  校長の代理で役場へ行くんだ。どうも生徒の出が悪くつて閉口だよ。昼の弁当をなんとかせにやならんといふわけさ。ほほう、ここでも桜が咲いたね。どうした、久しいこと、学校へ遊びに来んが……。
孝子  近いうち行かうと思つてたんですわ。矢代先生もお変りありません?
兵頭  矢代君は、ほら、毎年凍傷に罹るのがいやだつて、去年の暮神奈川へ変つたよ。いま、だから、臨時に、荒井に手伝つて貰つてる。君の組にゐた荒井だよ。
孝子  お金ちやん、まあ……。(奥に向ひ)お父つつあん、兵頭先生よ。
定臣  (奥から出て来て)早速ですが、先生、桔梗ヶ原へ工場が建つつていふのは本当ですか。
兵頭  さういふ話ですね。それがどうしたんです。
定臣  普通の工場と訳が違ふらしいから、まあ文句は云へませんが、土地の人気がどうも悪くなりさうでね。さもなくてさへ、百姓が田地を売りたがつてるんだから……。
兵頭  売りたいもんは売らしたらいいぢやありませんか。土地は桑と大根を作るものときまつてはゐませんよ。
定臣  おほきに。だが、それは先生のお説ですか? 生徒にもさういふ教へ方を、なすつてらつしやるんですか?
兵頭  子供には子供に云ふやうな云ひ方があります。(孝子が茶を汲んで出す)や、ありがたう。当節の子供は、不思議に物の考へ方が変つてきました。「これはかういふもの」では承知しない。理由が必要です。それも、こぢつけた理由なんかぢや、眼でうなづいて、鼻で笑つてゐる。教師もなかなか面倒になつてきました。
定臣  あなたなどは別でせうが、その先生にも、大体、信念といふものがなくなつてきた。わたしらが小学校で歴史の講義を聴いた頃は、先生も、これで日本人を作らうつていふ熱と意気をもつてゐた。二宮尊徳の話をする時なんか、眼から涙をぼたぼた……。
兵頭  さういふ人は、今でもゐます。御心配には及びません。うちの校長も、その一人ですよ。生徒たちは面白がつてますが、ああいふのがいいんですかね。どうだい、お孝ちやん……。
孝子  まるで浪花節そつくり……。
定臣  へえ、そんなかねえ。
兵頭  あれに節さへつけりや、なるほど、浪花節だ。――「さるほどに、逆臣足利尊氏は、正平二年の冬枯れに、高師直を将となし、弟師泰と二手に分れ、吉野を一挙に攻めんずと、旗指物をひらめかし、四条畷に陣を張る」
孝子  ほんとに、その通りだわ。
定臣  さういへば、足利尊氏のことを褒めた大臣がゐて、問題になりましたね。
兵頭  ゐたね。どう褒めたんだか知らないけれど、悪人はなるだけ悪人にしておかないと世間は承知しないんですね。かういふ人間の一面にかういふところもあるつて云つちやどうしていけないのか、罪を憎んで人を憎まずといふ思想も、××××××ないと見えますよ。ああ、富士が今朝は見事だ。日本の歴史から、一人づつ汚名を著た人物を除いて行くことが、ほんとうの日本人なんだがなあ。忠臣を作るために、賊子を作らなければならぬといふ法はない。足利尊氏は別として、御用学者や、通俗作家の手で、不当な侮辱を受けてゐる可なりな人物がゐますよ。僕は、職務柄、過激なことは云ひたくないんだが、立派なことをしたから、その人間が好きだといふのは嘘だと思ふ。子供に納豆を売らせて、その上りを……。
この時、坂を上つて来る乗合自動車の音次第に近づく。
自動車が止ると、一斉に挙る少女たちの歓声。女学生の団体である。

男の教師  ここが有名な愛国峠です。遥か向うに見えるのが富士の霊峰……。(少女たちの笑声)ここにあるのが、敷島の、綻び始めた山桜……。
少女A  朝日に匂つてるわ。
少女B  敷島の乙女心を人問はば……。
男の教師  黙つて! 皆さん、よくお聴きなさい。この峠に立つて、われわれが先づ感じるものはなんでせう。
少女C  冷たい風!
男の教師  ほかに?
少女D  爽やかな気分!
男の教師  まだほかに?
少女A  自分のみすぼらしさ!
男の教師  もつと切実な感じ?
少女B  喉の渇き!(少女たちの笑声)
男の教師  真面目に、真面目に!
女の教師  みなさん、察しがわるいのね。
少女A  わかつた。浩然の気!
男の教師  大分近くなつた。それを現代の言葉で云ふと?
沈黙。

女の教師  駄目ね、みんな……。いいこと、あたしの口をごらんなさい……。
少女一同  ニ、ホ、ン、ジ、ン、ト、シ、テ、ノ、ホ、コ、リ……。
男の教師  よろしい。日本人としての矜り! この大自然の美は、われわれの魂です。祖先伝来の大和心を、今こそ、しみじみと感じなければなりません。そして、この比類なき国に生れたことを、ひたすら、感謝しなければなりません。気候温和、五穀豊饒、四海波穏かにして、人はみな勤勉であります。男子は勇猛果敢、女子は貞淑優雅、誠に人類の花、宇宙の宝である。宜なる哉、これを世界の楽園と呼び、不老不死の国と称するや。山河清くして偉人生るの譬へは偽りでない。われらはみな、英雄たり、烈婦たるの素質を恵まれてゐるのである。朝に富士を仰ぎ、夕に……夕に……その……近江の琵琶湖を伏し拝むわが同胞の精神力は、ロツキイ山、バイカル湖を友とする輩の比ではない。諸君、ここでひとつ、万歳を三唱しよう。日本帝国万歳!
少女一同  バンザアイ。
男の教師  バンザアイ。
少女一同  バンザアイ。
男の教師  バンバンザアイ。
少女一同  バンバンザアイ。
女の教師  愛国峠万歳!(少女たちの歓声)では、あたくしも、それでは、一言云はして貰ひませう。エヘン、今国守先生からたいへん有益なお話がありましたが、あたくしは、国語の教師として、みなさんに、ここで、和歌を一首づつ詠んでいただきたいと思ひます。(少女たちの抗議的なざわめき)静かになさい。別に、点もつけませんし、成績に関係しませんから、極く自由に、即興的に、思つたことを三十一文字にまとめて下さい。
少女A  あたし、困るわ。
少女B  チエツ、そんなつもりぢやなかつた。
少女D  こんなことなら、病気になるとよかつたわ。
女の教師  なにもむづかしいことはないでせう。みなさんぐらゐの年になれば、そんな嗜みもなくちやいけません。普通教養のある女性なら、この風景を前にして、いやでも詩的感興が湧くべきです。椿さん、いかが?
少女C  ――愛国の峠に立てば……。
女の教師  それから……?
少女C  今更に……。
女の教師  ふん。
少女C  大和心を感じけるかも。
女の教師  ちつと散文的だが、まあよろしい。次は、どなた? 杉さん!
少女B  まだ、上の句しかできませんの……。
女の教師  云つてごらんなさい。
少女B  千早ふる……神の恵よ峠茶屋……。
女の教師  面白いですね。それから……?
少女B  国を愛でよてふ……。
ある声  教へかしこし。
女の教師  だれです。後をつけたのは?(間)よろしい。もう少し叙景が欲しいですね。橘さん!
少女A  春浅き峠に咲ける山桜……。
女の教師  春浅き峠に咲ける山桜……なかなかよろしい。ふん。
少女A  富士はおまけとわれは見にけり……(少女たちの歓声)
女の教師  おまけはどうですかね。実感ならしかたがありますまい。ちよつと、車掌さん、時間はまだようござんすか?
女車掌  さあ、もうそろそろ出かけませんと、連絡に間に合ひますかどうですか……。
男の教師  ぢや、残念だが、ここはこれくらゐにして……。
少女D  先生のを伺ひたいわ。
声  賛成!
女の教師  先生は、そんなこと云つて、考へる暇なんかなかつたわ。
声  ずるいの、ずるいの!
女の教師  さ、遅れると大変だから、みんな乗つて下さい。
男の教師  (はしやいで)乗車ア!
少女たちのざわめきに交つて、エンヂンの動き出す音。

女車掌  (高らかに)オォライ。
車が走り出すと同時に、少女たちの合唱がはじまる。それが次第に遠ざかると、

定臣  やれやれ、賑やかなこつた。都のお嬢さんたちは元気がいい。――春浅き峠に咲ける――か。
兵頭  僕もそれをいつでも思ふんだが、なぜ田舎の少女たちは、ああ暗い顔をしてるのかねえ。お孝ちやんなんか例外の方だ。
定臣  先生は、まだ、オォライぢやないんですか?
兵頭  オォライたあ、なんです。
定臣  ひやあ、英語ださうですよ。おや、あれやなんでせう。夫婦連れですぜ。乗合ができてから、ああいふのは珍しいな。おや、おまけに、女の方は洋服だ。大分、へこたれたとみえる、可哀想に……。この峠を、あの恰好で越えるのは無理だ。尤も近頃は、山登りつて奴もあるさうだが、あれや、まるで、散歩かなんかしてるやうだ。おい、お孝、座蒲団を出しときな。
兵頭  どれ、僕は、そろそろ、腰をあげよう。
峠までもう一息といふところで、旅の男女は、立止る。

男  おい、しつかりしろよ。今朝の勢はどうしたんだ。そこまで行けば、あとは下りだよ。
女  そんなことわかつてるわ。いつまでも登りつきりなんて山、話に聞かないわ。
男  口だけは達者でやがら……。おい、しやがんぢまふなよ。人が来たぢやないか。(話しかけるやうに)ちよつと伺ひます。そこが愛国峠つていふんですか。
兵頭  さうです。あの国旗の立つてるところがさうです。失礼ですが、どちらまでお出でですか?
男  いや、その峠へあがつたら、すぐ引つ返すんです。今朝、蓬莱町の宿を出て来たんですけれど、歩いてもぢきだつて云ふもんだから……。
兵頭  ああ、それぢや……。僕はまた、この峠をお越えになるんだと、大変だと思つて……。向うは山道を十里歩かないと、八島町へ着きませんから……。
女  その愛国峠つていふの、何があるんですの?
兵頭  なんにもありません。茶屋が一軒あるきりです。
女  景色がいいつていふだけなんでせう。
兵頭  まあ、さうです。
女  それごらんなさい。女中の話ぢやわからないなんて、自分で勝手にきめてるからをかしいわ。すばらしいお宮があつて、そのお宮に世界中の豚を集めてあるんだなんて出鱈目なのね。
兵頭  だれがそんなことを云ひましたか?
女  いいえ、この人がですよ。なんでも、空想して、それを実際みたいに云ふ癖があるんですよ。瞞されて損しちやつた。
兵頭  はははは。瞞されでもしなけれや、この坂道をお歩けにはなれなかつたでせう。帰りはお楽です。では、ごゆつくり……。(去る)
男  それぢや、ここから引つ返すかい。あそこまで行つてみる元気ない?
女  元気はあつても興味がないのよ。一人で行つて来るといいわ。
男  ぢや、君はそこで、地べたへ絵でも描いてたまへ。アナ嬉シ、悦バシ、戦ヒ勝チヌ……。
女  (しくしく泣きだす)
男  ヒステリイはよしてくれよ。
女  ヒステリイぢやないわよ。足のゆびが痛いのよ。
男  どうすればいいんだい。
女  靴がして……。
男  よしきた。かうかい。それから……?
女  あら、血が出てるわ。エーン、エーン……(泣く真似)
男  早くしろよ。
女  いぢつて見て!
男  そんなもん、いぢつたつてしようがない。靴擦れだよ、ただの。
女  ただでない靴擦れだつたら、どうする?
男  うるさいなあ。さあ、おぶされ。
女  靴、あんた持つて!
男  手は痛くないんだらう。
女  あたしに持たせるの? ぢや、かゝとが口ん中へはいつたつてしらないわよ。
男  ぢや、貸せ! なんだ、軽いもんだ、こんなもん。
女  初めてみたいに云はないのよ。
男  埴生ノヤドーモ、ワーガーアヤアド。
(間)

定臣  驚いたお客だ。いらつしやい。どうかお休み下さい。愛国茶屋の渋茶を一杯、召上つて下さい。
孝子  いらつしやいませ。どうぞお敷き下さい。
女  まあ、好い景色だこと。
男  僕一人に見せるのは、勿体ないつてことがわかつたらう。
女  あたし一人だつたら、帰つてあなたになんてお話ししようかしら……。
男  形容なんかしなくたつて、君の眼つきで想像がつくよ。
定臣  おい、お孝、奥へ行つてろ。
女  ねえ、小父さん、どうして、この峠を愛国峠つて云ふの?
定臣  へへえ、それはでございます。第一に、この峠に立つて、あなたがたは先づなにをお感じになります。申すまでもなく、日本人の矜り! この大自然の美は、われわれの魂です。祖先伝来の大和心を今こそしみじみとお感じになるでせう。四海波穏かにして、男子は勇猛果敢、女子は貞淑優雅、宜なる哉、山河清くして偉人生るの譬へ、あそこに見ゆるは富士の霊峰、ここ、咲き匂ふは国花山桜、嘗て清少納言も歌つてをります――春浅き峠に、なんだつけ、……さやう、峠に咲ける山桜……富士はおまけとわれは見にけり……。おまけとはよく云つたもので、誠に、十二分の眺めで、来た甲斐があるどころではない。お土産にしてもなほ余りがあるといふ意味を、いみじくも詠まれたものと思ひます。
男  もういいよ、小父さん。
定臣  へえ、別にお金はいただきません。これも御国のためでございます。
(一九三五・二)

底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「文藝春秋 第十三年第二号」
   1935(昭和10)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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