美術学校の教授を拝命したのが三月十二日、奈良京都への出張が同月十九日、拝命早々七日ばかりで旅に出まして、旅から帰ると学校の人となり、私の今日までの私生涯がここで一転化することになったのでありますが、それはそれとして、今日はその翌年の明治二十三年の十月十一日に帝室技芸員を拝命した話をしまして、それから楠公なんこうの像を製作した話へ移りましょう。

 この技芸員を拝命したということは、当時の官制にいろいろ新しい制度が出来て、その新しいことにわれわれがっ附かったのであって、新しい制度がどういう風に出来たかということは一向知りません。私のみならず、他の同時に技芸員を拝命した人々も皆不意であったのでありました。
 十月の十一日に宮内省から御用これあるに付き出頭すべしという差紙さしがみが参りました。自分には何んの御用であるか一向当りが附かないが、わるいことではあるまいと思っておりました。しかし何んのことかさらに分らんのでありました。翌日学校へ出ると、石川光明氏もお差紙が参ったということで、
「高村さん、あれは何んでしょう。どういう御用なのでしょう」という話です。私は石川氏に聞いて見ようと思っていたところへ、こう先からいわれたので、やはり石川さんも何んのことだか知らないと見える。氏は我々よりも先へ世の中へ出て交際の範囲も広く、世間的智識も広いのに、今の話で見ると、この事の当りが附かないものと見えるなと思っていると、橋本雅邦先生も食堂へ見えて、
「あなた方のところへもお呼び出しがあったのですか。私のもとへもありました。あれはなんでしょう」とやはり同じことをいっている。
 三人は一緒になって、さて何んのことだろうなど話し合いましたが、結局、宮内省で絵画並びに彫刻でもお買い上げになるので、我々にその鑑定をしろと仰せ附けられるのであろう。というような推測に一致しまして、とうとう「それに違いありますまい」と決めてしまいました。
 こういうわけであったから、出頭の当日まで実際何んのことであるか、さらに容子が分らないのであった。
 さて宮内省へ出頭すると、お呼び出しに預かった人々が出頭致しておった。……しかし、それは少数で橋本雅邦先生より、もっと、ずっと年をった狩野永悳かのうえいとく先生という老大家、この人はその頃根岸に住まっていて、八十以上の高齢であったから、出頭するに不自由であったか、代理の人が出ていた。それから、加納夏雄かのうなつお先生、このかたも私などから見ればはるかな年長者。それに石川光明氏。私というような顔触れであった(京都の方で鋳金家の秦蔵六はたぞうろく氏も当日お呼び出しになるはずであったのであるが、ちょうど数日前に物故ぶっこされてこの日出頭が出来なかったのであるということを後にいたって承りました。その他の方々はちょっと忘れました)。私たちは宮内省の控え室へ集まっていたのでした。
 すると、加納夏雄先生が、
「今日の御呼び出しは何んでしょうなア」と私たちに聞いていられましたが、誰も何んの御用かということを答えるものもありませんので、一同妙に気掛かりなような心持で腰掛けていたようなわけで、その席に臨んでいても、まだ何んのことか見当が附かなかったようなわけであった。
 それに、私としては、それよりも、もう一つ変に思ったことは、今日お呼び出しを受けて出頭した人々の顔触れを見ると、いずれも七十以上の高齢者であって、若い方でも六十以下の人はない。それにもかかわらず、石川氏と自分とはまだ四十歳そこそこという若い者……今日ではもはや私もおじいさんでありますが……この両人ふたりの若い者が、これらの老大家の中へ這入っているということはどういう訳だろう、妙なことだと思いました。
 かれこれする中に一人一人ずつ呼び出されました。一番初めには狩野老人の代理。次が確か橋本先生。それから夏雄先生というような順序であったと思う。……一同が元の席にくと、皆が帝室技芸員というものを拝命した辞令を持っておりました。そうして手当てあてとして年金百円を給すというもう一枚の書附かきつけと二枚……これで一同は帝室技芸員という役を拝命したのだということは分りましたが、さて、その役目がどんなことをするのか、誰にも分りませんので、誰いい出すとなく評定ひょうじょうが初まりました。
「一体、この帝室技芸員というのは何んでしょう。月に一度とか二度とか宮内省の方へ勤めるのでしょうか。何も勤めをせずにお手当を頂くということはないでしょう」
「無論、そうでしょうとも、何か御役目があるのでしょう」
など誰もいいましたが、さて何をするのか、とうとう分らずじまいで一同引き取って来たような次第であった。

 それから、段々、宮内省の方へ関係のある人たち――たとえば博物館長の九鬼隆一くきりゅういち氏。佐野常民氏。学校の方では岡倉先生――そういう方たちに右の帝室技芸員という役目について訳を聞きますと、「それは別段勤めるということはない。この帝室技芸員と申すは、そういう名称を作って、美術御奨励のためにという上の厚いおぼし召しであるので、年金を給したのはいわば慰労金といったようなもので、多年我邦わがくにの美術界のために尽くした功労をおめになった思し召しであろうと推察される。そういう御主意であろうと思うからして別段何んの役目をするということはないのである。しかしまた追々何か御用もあるかも知れないが、今日こんにちの処ではこれという御用はないようである。そこで実は我々の考えであるが、御参考までに申し述べて置くが、この帝室技芸員というものは、日本においては、美術家としてはまことにたっとい名義を下し置かれたもので、既にこの名称だけを得られただけでも光栄至極の義であるが、その上になおこの御手当として年金を給されたということは、聖上の思し召しまことに何んとも有難い次第である。それでこの高大な優渥ゆうあくな思し召しに対しては充分に技芸員たるものは気を附けねばならぬことと思う。すなわち美術および美術工芸のことには一層忠実でなくてはならないこと、同時にまた後進子弟に対しては親切懇篤の心をもって指導することは申すまでもなし、既に帝室技芸員という名称の下に身を置くものは一層身の行いを正し、誠実を旨として、各自に行いのみだらでないよう、この名称に恥じないよう、天恩の有難いことを思うて身を慎み行いを励まなくてはならない……」という意味のことを話されたのでありました。私たち技芸員はまことに御尤ごもっとものことであると存じたわけでありました。

 この帝室技芸員のことはこれでおしまいでありますが、それにつけて、当時、私と石川光明氏とは互いに申し合わしたことには、実に今度の事は不思議なことであった。他の老齢の諸先生方がこの恩典に預かったことはあり得べきことと思われるが、われわれはまだ老人というわけでもなく、また、今日まで多少美術のことに力を尽くして来たとはいうものの、まだ歳月も浅し、経験も浅く、功績というほどのことを残したと思うほどのこともない。それにもかかわらず、他の老巧の人々と同じように、われわれ両人が特にこの恩典に浴したことは、実に有難いことで、これを思うても、今後はさらに一層勉強しなければならないと話し合ったことでありました。
 そして、また我一己として考えて見ますに、私は難儀な世の中に生まれ、彫刻などいうことは地にちてほとんど社会から見返られなかったにもかかわらず、今日、ゆくりなくもこうした光栄を得たことを思うと、自分の過去が不幸であったに反して甚だ幸運であると存じました。これというのも、当時、年の若いものの中には、石川光明氏とか自分とかをおいては他に相当の人物が見当らなかったためにこの人数にんずの中へ加えられたのであろうが、今日にしてこの事のあるということは全く時の力であって、まことに不思議とも思われ、何んと申していか、過去のことを振り返ると、感慨無量とも申すべき心持でありました。それで、今日でも思うことでありますが、人間の事はまことに測り知りがたく不仕合わせな時もあり、また時が過ぐればその不仕合わせがかえって幸福ともなる。まことに妙なものであると思うことであります。

 それから、今日においても別に何んのお役に立ったこともありませんが、今日も引き続き帝室技芸員として恩典にあずかっているのであります。心ばかりは、何かと斯道しどうのために尽くしたいものであると思いおる次第であります。ついでながら今日の帝室技芸員で在京の人々の顔触れをいって置きましょう。明治二十三年に初めてこの名称が出来て以来、欠員があると入り代り立ち代り、いろいろの人が撰抜されまして、今日では確か十五名あると思います。東京に十名京都に五名と思いますが、東京の十名は、日本画では、河合玉堂かわいぎょくどう小堀鞆音こぼりともと、下村観山、西洋画では黒田清輝くろだせいき、彫刻では私と新海竹太郎しんかいたけたろう、刀剣では宮本包則かねのり蒔絵まきえでは白山松哉、写真では小川一真おがわいっしん、建築では佐々木岩次郎の諸氏であります。
 それから明治二十二年十二月に第三回内国勧業博覧会の審査員を命ぜられました。これもついでながら申し添え置きます。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月9日作成
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