それで、右の木彫を宮城へ持って来て御覧に供せよとの御沙汰が岡倉校長に降ったのでありました。その事について、三月十七日、斎藤侍従が学校へお出でになって校長と打ち合せの上、上覧に供える時日は来る二十一日午前十時と定められました。
学校は名誉なことにて早速お受けを致して、関係者一同協議をしましたが、何しろかなり大作であるから、御指定の場所にそれを運搬して組み立てるまでの手順、何時間手間が掛かるか、途中故障などが生ずるようなことはないか、その辺のことを充分研究する必要がありますので、まずその練習をすることになりました。
行り方は、三本の丸太をもって足場の替りにして、滑車で引き揚げると、旨く組み立てが出来ました。この練習をやってまず一時間あれば組み立てが出来るということが分りました。
それで、岡倉校長、私など宮城へ場所選定に参りまして、掛かりの人と相談を致しましたが、位置は、陛下が御玄関へ出御あって御覧の出来る所、すなわち正門内よりほかあるまいということになった。その地位は、二重橋を這入った正面の御玄関からぐるりと廻って南面したところの御玄関先ということに決まりました。
明治二十六年三月二十一日がその当日でありました。
東の空が白む頃関係者は学校へ出揃い、木型を車に積んで運び出しましたが、上野から宮城までにかれこれ二時間位掛かり、御門を這入って、それから三本の足場を立て、滑車で木寄せの各部分を引き揚げては組み合わせるのに、熟練はしていても一時間半位を費やし、都合四時間ほどの時間が掛かりました。なかなか大騒ぎで、大八車が三台、細引だの滑車だの手落ちのないよう万事気を附け、岡倉校長を先導に主任の私、山田、後藤、石川、竹内、その他の助手、人足など大勢が繰り込みましたことで、仕事は滞りなく予定の時刻の九時頃に終りました。御玄関に向った正面へ飾り附け、足場を払って綺麗に掃除を致し、幔幕を張って背景を作ると、御玄関先は西から南を向いて石垣になっていて余り広くはありませんから、其所へ楠公馬上の像が立つとなかなか大きなものでありました。
それに材は檜で、只今、出来たばかりのことで、木地が白く旭日に輝き、美事でありました。
これで好いとなりましたのが午前十一時。
聖上には正十二時御出御という触れ。一同謹んで整列をして差し控えておりますと、やがて、フロックコオトの御姿で侍従長徳大寺公をお伴れになってお出ましで御座いました。
陛下には靴をお召しで、階段の上にお立ちになってお出でで御座いましたが、やがて階段をば一段二段とお下りになって玄関先に御歩を止め御覧になってお出でで御座いました。岡倉美術学校校長は徳大寺侍従長のお取り次ぎで御説明を申し上げておりました。すると、聖上には、何時か、御玄関先から地上へお降り遊ばされ、楠公像の正面にお立ちであったが、また、馬の周囲を御廻りになって、仔細に御覧になってお出でで御座いました。
そして、陛下には、いろいろこの彫刻の急所々々を御下問になるので、岡倉校長は、一々お答えを申し上げたが、実に御下問の条々が理に叶って尋常のお尋ねではないので、岡倉校長は恐懼致されたと、後に承ったことで御座いました。私たちも馬の直ぐ近くに整列致しておりますので、お尋ねの御言葉は能く聞き取れました。この楠公馬上の像は楠公がどうしている所の図かとのお尋ねがあった時、岡倉校長は、これは楠公の生涯において最も時を得ました折のことにて、金剛山の重囲を破って兵庫に出で、隠岐より還御あらせられたる天皇を御道筋にて御迎え申し上げている所で御座いますと奉答をされたよう承りました。なお、聖上にはこの像は、木の材を纏めて製作したものか、学校の教員たちが力を協せて作ったものか、などいろいろ立ち入って御下問があったとの事で、御答えを申すには、実にゆるがせでなく恐れ入ったということをこれまた校長から後に承りました。
聖上御覧の間は、私は責任が重いものでありますから非常に心配をしました。御覧済みとなって御入御になった時はほっとしました。今日でも骨身に滲みるようにその時心配をした事を記憶しておりますが、実は、聖上御覧の間に、楠公の甲の鍬形と鍬形との間にある前立の剣が、風のために揺れて、ゆらゆらと動いているのには実に胸がどきどき致しました。これは組み立ての時に、どうしたことか、楔をはめることを忘れたので、根が締まっていないので風で動いたので、楔一本のため、どれ位心配をしたことか。もし剣が風のために飛んだりなどしては大変な不調法となることであったが、落ち度もなくて胸を撫で卸した次第でありました。
陛下御覧済みになりますと、引き続いて、午後一時に皇后陛下が御出御で、これもなかなか御念入りで三十分ほども御覧で御座いましたが、この時も落ち度なく役目を終ったことで御座いました。元通り取り崩してちょうど午後二時半頃一同は引き退りました。宮中にて一同午餐を頂戴しまして、目出たく学校へ帰ったのが午後四時頃でありました。
当日はまことに万事が滞りなく都合よく運んだのは私どもの幸運で御座いましたが、こんな大事な場合は、能く能く落ち附いて考えなければならないことは、今も申したようなちょっとした手抜かりがあって、生命を縮めるような心配を致さねばなりませんから、心すべきことであると存じます。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月9日作成
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