おつかさん、黄金機会ツてなに?
大層好いをり、好都合の時といふことですよ。
では、なぜ黄金ていの?、金のをりなんて、なに?
母はニツコリ笑つて、それは西洋風の譬の言葉で、金といふものは大層貴い、稀れなものだから、其場合が貴くつて稀な機会だといふ代りに黄金といふ重宝な一字で間に合せるのだとおいひでした。大層好いをり、好都合の時といふことですよ。
では、なぜ黄金ていの?、金のをりなんて、なに?
私は篤と母の説明を考へ合せ、かう申升た。
かあさま、其黄金機会ツていふ様なことはお金のたんとある人か、さうでなければ、昔しの人か、さうでなければ書物に書てある、マア日本で正成とか、西洋でワシントンとかいふ様な人にしかないかと思ひ升ネ。なんだかふだん見る本統の人や子供にはない様ですわ。
ナニ、俊子の様な子供に其黄金機会がないとおいひのか?おまへ一寸、さしあたりどんな黄金機会が入用なのですか、
私は今考へれば極く取止めなき子供らしい答へをいたし升た、ナニ、俊子の様な子供に其黄金機会がないとおいひのか?おまへ一寸、さしあたりどんな黄金機会が入用なのですか、
さうネ、こないだ雑誌で読んだ西洋の婦人みたいにどこか戦争のある処へ行つて怪我人の看病がして遣度いですわ、さうでなければ、ソラ日本の歴史にある橘姫みた様にお国に大切な人の身代りになり度の。アラ、それでも私が海へ跳び込んで見たつて、何の益にも立ないのネ。
さうですとも。何の益にもたちませんよ。
私はまた少し考へ、さうですとも。何の益にもたちませんよ。
それから、またそれが何か人の益にたつたつて、自分にはなんにも分りませんものネ、つまらないわ。死んじまふんだもの。
母はまた笑ひながら「さうとも」といひ升たから、余り馬鹿らしいこといふて恥しいとおもひ、出直てモソツト悧巧らしい考案を出しました。
かあさま、それはいけないとして、こんなことはどうでせう、饑饉でみんな貧乏人が斃れて死んでしまふといふ時、お倉にお米や、お金が沢山ある人になつてゝ、みんなにどん/\施しをして遣るといふ様なのわ。デモ、さういふ黄金機会がなにもないんですもの。
いゝえ、さうとも一概にいへませんよ。人に善を施こすといふ折は誰にも随分有るもんです。さうして其折を外さず用ゐて行けば、キツト人を助けられるもんです。つまりわたしたちの心一ツで黄金機会が出来るんですよ。
アノ、西洋のハウアドとかいふ人ネ、牢屋にはいつて居る可愛さうな人を助けて出してやつたつてネ、わたしもあの鎖で繋がれて馬や牛みた様に働らかされてる人たちをゆるしてみんなうちへ帰る様にして遣り度と思ひ升たけれどネ………それは出来ませんのさ、しかし貧乏人に人間の義務といふものを教へて遣つたり暮しの立つ様に家業を見つけてやつたりして、貧に迫られて、盗をしない様に世話をしてやれば、始から牢やへはいらない様にしてやれませう。
母は此時私に噛んで含める様にかういふことの心得をいひきかせてくれまして、人が善をしようと心掛ければ決して機会の見つからぬことはないといふことと、ハウアドと他の人々の違ふ処は当時の事情よりか、忍耐と熱心のあるないに因るといふことなどを細々と聞かせられましたが、其話しは一々今覚えて居りません、たゞ間もなく祖父の部屋へ連れて行かれたことを覚えて居り升。こゝは祖父が書物をする書斎で、母は中に取り散らした紙や本などの片づけに来たのでした。祖父は今思つて見れば、此時原稿の校正をして居り升たのでした。私は其様子を見て、兼て母の申聞かせもあることですから、ヂツト辛抱して黙つて坐つて居り升た。其中お祖父さまが摺ものの上へ筆の先で一寸蚯蚓の攀れた様なものをお書なすつたが見え升たから、不思議で/\、黙つて居ようと思つても、堪らへ切れませんで、ツイいゝえ、さうとも一概にいへませんよ。人に善を施こすといふ折は誰にも随分有るもんです。さうして其折を外さず用ゐて行けば、キツト人を助けられるもんです。つまりわたしたちの心一ツで黄金機会が出来るんですよ。
アノ、西洋のハウアドとかいふ人ネ、牢屋にはいつて居る可愛さうな人を助けて出してやつたつてネ、わたしもあの鎖で繋がれて馬や牛みた様に働らかされてる人たちをゆるしてみんなうちへ帰る様にして遣り度と思ひ升たけれどネ………それは出来ませんのさ、しかし貧乏人に人間の義務といふものを教へて遣つたり暮しの立つ様に家業を見つけてやつたりして、貧に迫られて、盗をしない様に世話をしてやれば、始から牢やへはいらない様にしてやれませう。
おぢいさま、そのめゝずみたいな物なぜお書なすつたの?
なぜつて、字が倒まになつてるから、活版やに直せといふ記しだよ。
デモ丸でめゝず見たやうですわ、活版やで知つてるのかしら、ヒヨツト知らないで、そんなめゝずの絵を入れてしまつたらどうでせう?
祖父はわたくしの申したことが聞こえた顔もせず、筆を筆立へ納めて、大欠伸をし、母に命じて捲いた書物を待たせて置いた小僧にやらせ升た。祖父は母の部屋を出る姿を見送り、私を側へ引よせて、なぜつて、字が倒まになつてるから、活版やに直せといふ記しだよ。
デモ丸でめゝず見たやうですわ、活版やで知つてるのかしら、ヒヨツト知らないで、そんなめゝずの絵を入れてしまつたらどうでせう?
どうだ、貴様はお袋の様な音なしくつて悧こい女になれるか、チツト六ヶ敷様だな、今のみゝずの話しも十一の児にしちやア余り馬鹿げた様だな、どうだ、アハヽヽ、そんな真面目な顔をせずともだ。けふは貴様の誕生日だらう。何か祝つてやらずばなるまいな。どうら。
お祖父さまは此時冗談半分に革の大きい金入れを出し、中をあちらこちらと反して見て居られました。さうして、
おぢいさんなんぞが子供の時は、誰も金を呉れる人はなかつたぞ。
私はお祖父さまの、機嫌のよくなつたを見済まして、側へすりよりて、財布の中を覗き升た。其中に、一円の金貨が六ツか八ツも有升たがお祖父さまは軈て其一をとり出して麗々とわたしの手の掌へ戴て下つた時、矢張冗談かと思ひ升た。
貴様それがなんだか知つてるか?
金貨の一円でせう。
どうだ、貴様にやるがつかへると思ふか?
エー/\つかへ升とも。
イヨー、中々慾に抜目はないな。貴様にやつたつて益には立ないが、どうも仕方がない、誕生日のお祝ひにやるとしやうよ。
アラ、あんなこと仰つて、益にたゝないなんて、なぜ?
格別の益にはたゝんといふのだよ、着るものや、食るものや、雨露を凌ぐ家はみんな両親に供へて貰らふのだから、外に大した入用はないではないか?
さうネ、それでも此金貨はわたくしの好な様につかつてよう御坐い升か?
よいとも、モウ貴様にやつたものだからな。
全体、おぢいさまなにかはこんな金貨いくら持つて入つしやるか知れないのネ、つかつておしまひなさるとまたあとからお金入れへはいつて居升のネ、
さうかな。
私なにかは、この一ツつ切りじやありませんか、だから大事ですわ。アノおぢいさま、アノおぢいさまはみんなお金をどうしておしまひなさるんでせうか、私なんかそんなにたんと持つて居たらいろんな好なもの買升けどネ。
いかさま、先第一木彫の人形か、其次は………イヤ中店のおもちやを一手買占も出るだらうな。処がたつたこれ一ツしか授からないから、先づおあいにくさまといふ処だ、貴様がうつちやる権理のあるのはこれ一枚限りだ、おあいにくさまだナア、アハヽヽヽ
でも、私だつてうつちやると諦つてはしませんよ、なにか好ことにつかふかも知れませんもの。
善根を蒔く為につかふといふのか、これはしたり、それはまた大したこつたな、さうともそれなら、うつちやるもんぢやないとも。
それから私は先刻読んだことから、母に聞いたことを細かに話し始め升て、丁度おしまひにしようといふ時、下女がはいつて来て、もみくちやになつた紙の上に二十銭の銀貨と一銭銅貨を載せて、「御隠居さま、靴やにお払いを遣り升て、これがおうつりで御座い升」といひ升た。お祖父さまはそれを請取り、銀貨を引くらかへし、兎見角見して、新らしい銀貨だと仰つて二ツとも其まゝ私に下すつて、まだ書物があるからといつて急に私にあちらへ行けと仰り升たから、私は真直ぐ母の居処をさがして、生れて始めて持つた莫大の富を母に示し升た。金貨の一円でせう。
どうだ、貴様にやるがつかへると思ふか?
エー/\つかへ升とも。
イヨー、中々慾に抜目はないな。貴様にやつたつて益には立ないが、どうも仕方がない、誕生日のお祝ひにやるとしやうよ。
アラ、あんなこと仰つて、益にたゝないなんて、なぜ?
格別の益にはたゝんといふのだよ、着るものや、食るものや、雨露を凌ぐ家はみんな両親に供へて貰らふのだから、外に大した入用はないではないか?
さうネ、それでも此金貨はわたくしの好な様につかつてよう御坐い升か?
よいとも、モウ貴様にやつたものだからな。
全体、おぢいさまなにかはこんな金貨いくら持つて入つしやるか知れないのネ、つかつておしまひなさるとまたあとからお金入れへはいつて居升のネ、
さうかな。
私なにかは、この一ツつ切りじやありませんか、だから大事ですわ。アノおぢいさま、アノおぢいさまはみんなお金をどうしておしまひなさるんでせうか、私なんかそんなにたんと持つて居たらいろんな好なもの買升けどネ。
いかさま、先第一木彫の人形か、其次は………イヤ中店のおもちやを一手買占も出るだらうな。処がたつたこれ一ツしか授からないから、先づおあいにくさまといふ処だ、貴様がうつちやる権理のあるのはこれ一枚限りだ、おあいにくさまだナア、アハヽヽヽ
でも、私だつてうつちやると諦つてはしませんよ、なにか好ことにつかふかも知れませんもの。
善根を蒔く為につかふといふのか、これはしたり、それはまた大したこつたな、さうともそれなら、うつちやるもんぢやないとも。
私は此時母の前へ此三ツの貨幣を置いて其廻りをトン/\踊り廻つたのを覚えて居り升、「金の機会に、銀の機会に、銅の機会だ」といつて。疲れ果てるまで跳びまはり升たあとで、フト思ひつき、母に貰ふた甲斐絹の切で三ツの袋を拵らへに取り掛り升た。これは何が為なれば、其貨幣を入れる為で、それを一ツつゝ形に合せて丸く縫ふことと太白の糸で口をくゝることなどに容易ならぬ苦心をいたし升たこともハツキリ覚えて居り升。さてまた此大したお金を何ぞ善いことに遣ひ度と思ふにつけ、さき/\の考が胸の中に浮んで来升たが、何れも夢か幻の様な空な考へでした。しかし前日の母の教へを記臆して居り升たから、まんざら吾儘な慾張つた様なこと丈は其中に有ませんかつた。
翌日は半日のお稽古で帰つて来升と、父が下町へ行くから一処に連れようかといはれ升た。父と下町へ行くのはいつも私の楽しみにして居たことで、此日もかういはれると嬉しくて堪らず、父の手に引れてイソ/\出で行升た。父は銀行に用があるので、済まで待つて居る様にといつて、出入の仕立ものする女の家へ暫らく預けられ升た。平生田畑の青々した気色計り眺めて居るものが折々賑やかな都へ出ることですから見るものが珍らしく、小さな魂はみんな眼一ツへ集つた心地がして居り升た。
仕立やの隣りには此辺にて余り見ぬほど立派な西洋小間物を商ふ家があり升たが、例のシヤツ、靴足袋、襟捲などが華やかにブラ下つて居る中に、子供の眼につく美麗なおもちやが沢山に飾つて有升た。私は知らず/\隣店の方へ首を伸し、頻りにそちらへ気をとられて居るのを見て、仕立家の主婦が
お嬢様、おとなりへ入つして御覧遊しましな。
行つても好の?
宜しう御座い升とも、御覧遊したら、其先へ入つしやらずと、直ぐお帰り遊ばしまし、さう遊ばせば、何にもわるいことは御座いません。
私は外へ行かぬことにシカト約束を諦めて、二足三足歩むと隣りの店の前へ参り升た。私は此時心の中に此店の主人ほど羨しい人はないと思ひ、あんなか愛い人形を棚へのせて構ずにゐられるとは不思議な人、わたしならばあの人形、あのゴム鞠、アレあの異人笛、どうしてあゝして飾つて計り置かれやう、おまけに人がお金を出したとて、どうして手離すことが出来るだらうと思案いたし升た。私はまばゆい程華やかな店先に佇んでトント夢中に見惚れて居たものと見え、店の主人が近よつて声をかけ升た時ビツクラし升た。行つても好の?
宜しう御座い升とも、御覧遊したら、其先へ入つしやらずと、直ぐお帰り遊ばしまし、さう遊ばせば、何にもわるいことは御座いません。
嬢さま、おはいりなさいまし。
声を和らげ、微笑をつくつた其様子を見て、マアなんといふ深切な人だかと嬉しく、早速敷居を跨ぎ升た。主人はいよ/\笑顔になり、
嬢さま、何がお眼に止り升た? 何ぞお買ひなすつて。
といひ升から、知らぬ店へ立寄るは物を買ふ為でなければならぬのに、ウツカリはいつてと始めて気がつき、我知らず顔を赤らめ、やうやく
いゝえ、なんにも買ふのぢやないの。
それはどうも、イヤナニ此人形や風琴はツイをとついイギリスの船で揚り升たものですから、丁度好い処で、ヘイ、なんぞ御意に入つたものは御座い升まいかナ、ナニ十日もたち升とみんな売切升からナ。折角お出ですからなんぞ……
と頻りにしやべり立升た。私は其言葉を一々聞とり。それはどうも、イヤナニ此人形や風琴はツイをとついイギリスの船で揚り升たものですから、丁度好い処で、ヘイ、なんぞ御意に入つたものは御座い升まいかナ、ナニ十日もたち升とみんな売切升からナ。折角お出ですからなんぞ……
オヤ、さう、みんな売れつちまふの? みんななくなるの?
と眼を丸くしていふと、主人はまじめに
左様ですとも、モウいまにどん/\買においでなさい升。見る中になくなつてしまひ升。
いひながら側にあつた小形の風琴をとり、両手をかけて引き伸すと雑作もなく「てふちよ、てふちよ」と何ともいはれぬ面白い調子に鳴り出し升た。私はあつけにとられて、聞惚れて居升と、主人はます/\得意に商買口をきく、見たり聞たりして居る私は兼ての決心も何もかも忘れ果てゝむやみと風琴が欲しくなり、見てとる主人は花主を逃さずたうとう売つけてしまひ升て、新聞紙へ包んだ風琴を持つて其店を出升た時は、巾着へ納めて懐へ入れた大事の/\金貨がチヤント人手に渡つてしまつて居り升た。私は父と家へ帰りしな、此風琴の弾易いことを父に話し。
とうさま、両方の手に持つて引張つたり、縮めたりしさへすればようく鳴るんですよ、易しいの、いつでもおとうさまにひいてあげ升よ。
といひ升たが、父は銀行へ行つた用事のことでも考へてか、墓々敷く返事もして呉れませんかつた。家へ着き升と母は他出して留守でしたから、早速祖父に見せますと、これも別段よく買つて来たとも、わるかたつともいはず、善根を蒔く為につかはうといつた言葉を無にしたといつて驚ろく様子も有ませんでしたが、さりとて私は心の中に何となく咎められてソロ/\風琴を買つたことが嫌になつて来升た。何はさて置き、おもちや屋の亭主がした通りを真似て、引て見ても縮めて見ても、どうひねくり廻しても「てふちよ、てふちよ」のふしは出ず、よつて此時始めて悟り升た、此風琴も琴、三味線同様、一々人に習はなければ何のふしも出せないといふことを。恥しさと口惜さに二階の暗がりで風琴を前へ置いて泣いて居り升と、母が丁度帰つて来まして、此様子を見てビツクリし。
おまへどうおしだ?
私は母の顔を見ると一層激しくシヤクリあげ、
アノ………アノこんなもの買つちまつたの………弾けも何もしないものを………モウ黄金……黄金機会がなくなつちまつたア――
と喚[#ルビの「わめ」は底本では「わき」]き立升と、母は
オヤ、モウあの金貨をつかつてしまひ升たの? 長やの捨坊を学校へやる筈ではなかつたの、あのお金があれば、半年学校へやれるつていつて聞かせて上たでせう。
私はまた新たに泣始め升た。母は私の側へよつて手拭で私の涙をぬぐひ
おまへモウ買つてしまつたのだから仕方がないけれど、よく考へて御覧なさいよ。おまへも善い事をし度とおもはないではないが、一生懸命にならないからいけませんよ。それが熱心でないといふのです。誰でも善事をし度ないとおもふ人はないが、本気になつて、一心にそれをしようと思ふ人と好加減に上つらでし度と思ふ人とで大変な違ひになるんですよ。おまへは子供にしては余程のお金を持つて、それを善い事につかへば、大層立派な行状が出来たものを、大切な機会を外しておしまひだつたよ。
私がじつと聞いて居る処見届けて、母はまたあとをつぎ、
あのお捨坊を半年学校へやつて御覧、それこそあの児の為にどの位結搆なことだつたか知ませんよ、第一読書のことも少しは覚えられる、また色/\身の為になる結搆なお話しもきける、あの児の一生にどの位利益があつたか知れませんよ、さうして其立派な善行を行ふ機会を何ととりかへたかといへば………
私はこれまで聞いてモウたまらなくなり、
私が大へんわるかつたんですから、かあさまどうぞ御免下さい、買ふつもりでも何でもないんでしたもの、あの人が弾てるの聞いてたら、みんな忘れつちまつたんです。知らないで、ウツカリ買つちまつたんです。モウ決してこんな事しませんネイ、かあさま、モウおもちや屋なんか行ませんよ。
オヤおまへおもちや屋[#「おもちや屋」は底本では「おもち屋」]計りが決心の忘れ処だとお思ひか、気をつけないとまだ他の処で幾度かこんなことをし升よ。
涙を流さぬ計りの母の言葉を聞升て、私もとも/\悲しくなり、オヤおまへおもちや屋[#「おもちや屋」は底本では「おもち屋」]計りが決心の忘れ処だとお思ひか、気をつけないとまだ他の処で幾度かこんなことをし升よ。
かあさま、それでは私はモウどうしても善いことは出来升まいか、私が何か善事をしようと思ひ升と、いつの間にか外の考へが来て邪魔をして居升もの。とうさまが私のことを棒ふらの様だなんて仰るんですもの。
おまへは決心をしてそれを為遂げることの六ヶ敷方には違ひ有ません。それが為におまへもいかい苦労をおしだ、わたしも中/\はたで気が揉め升。しかしまた少さいにしては感心な処も有升。それはおまへを高慢にしよう為ではない、余り気を落さない為に話して聞かせて置升。
かあさま、それは何ですか早く話して頂戴。
ナニネ、おまへが真実善をし度と思ふ心根です。たとひウツカリ忘れて、ずるに諦めたことをせずにしまふことが有ても、又思直して新らしく決心をするから、それが一ツ取どころです。だん/\其忘れる癖を矯め直して、心を落着け、恐れ多いことですが、総べて聖き御心のまゝに治めて入つしやる御神の見まへと思つて万事する様にしたら、キツトしまひには思ひ通り出来る様になりませう。
かあさま、本統に仰る通りですよ、此風琴を見ると心地がわるくなり升から、たゝんでしまひませうネかあさま、
といつて、此時涙を拭ひながら其おもちやを片づけ升た。銀貨と銅貨はまだ残つて居り升たが、黄金機会はモウおしまひでした。おまへは決心をしてそれを為遂げることの六ヶ敷方には違ひ有ません。それが為におまへもいかい苦労をおしだ、わたしも中/\はたで気が揉め升。しかしまた少さいにしては感心な処も有升。それはおまへを高慢にしよう為ではない、余り気を落さない為に話して聞かせて置升。
かあさま、それは何ですか早く話して頂戴。
ナニネ、おまへが真実善をし度と思ふ心根です。たとひウツカリ忘れて、ずるに諦めたことをせずにしまふことが有ても、又思直して新らしく決心をするから、それが一ツ取どころです。だん/\其忘れる癖を矯め直して、心を落着け、恐れ多いことですが、総べて聖き御心のまゝに治めて入つしやる御神の見まへと思つて万事する様にしたら、キツトしまひには思ひ通り出来る様になりませう。
かあさま、本統に仰る通りですよ、此風琴を見ると心地がわるくなり升から、たゝんでしまひませうネかあさま、
此次は銀と銅の機会を私がどうつかつたかお話しいたしませう。
さて私の誕生日も過ぎて一週間あとになつた時までも銀貨は銅貨とも/\例の絹の袋に居残つて手をつけずに有升た。私は一旦落した気も今は漸く取り直して、あの銀貨はどうしてつかはうとソロ/\分別し始め升た。一銭銅貨なんぞどう出来ようと思ひ升た故、それは始めからあてにしては居りませんかつた。
私の直近処に塩煎餅を売つて細々暮らしを立てゝ居た可愛さうな後家が有升たが、母は家政を整へて次には貧民の面倒を見ることを義務にして居た人ですから、此後家を気の毒がつて何かにつけて力になつておやりでした。丁度此時分此女が少し病気で、いとゞ不自由の中を十日計りも寝て居り升たから、母は折々私をつれてこの女を見舞ひ、私は母に申つけられて毎日の様に参つて食物なども運んでやり升た。ある日母は独りで此女のところへ行つて来たかへりがけに、私を見かけて一寸と手でまねき、かういひ升た。
おまへ、あの銀貨をあの金貨の埋合せになんぞ善いことにつかい度とおいひだつけネ、あの塩煎餅やのかみさんもモウ大分よくなつたから、二三日中には田舎へ行切りに行くつて、けふいつてましたよ、おまへもあの女に今まで可愛がつてお貰ひだつたから、日和下駄の一足もそれで買つておやりだと好ネ。それとも外につかひ道があればだが。
いゝえ、かあさま何にもつかひ道を考へちやないの、だから買つてやりますよ、本たうに好こと、かあさま悦び升かネ、
それは大悦びでせうよ、それではそれとお諦だネ、おまへが買つておやりでなければわたしが買つて贐にやらうと思つてたのです。おまへ又お忘れでないよ。おとうさまが明日は町へお出でだから其時行つて見て来たら好でせう。
私は先日の取りかへしをする積りで心嬉しく、イソ/\して居る処へ私の従妹二人から其晩言伝があつて、明る日の午過に遊びにくるといふことでした。これは私が自分で玉蜀黍を蒔いてよく出来たから見に来と此間いつてやつたからのことで、私の大中好の人たち故、日和下駄一件は一寸忘れてしまひ、其晩枕についてからもいろ/\あしたの楽しみのことを思て、夢にまで見る位でした。あくる日になると、私は朝飯前から畑へ出て丹精の植物を眺め、艶々した葉の緑の吹流し見た様な処、アツサリした茶色の髪が奇麗に垂れた間から黄金色の実の見える塩梅などをト見カウ見して、従妹たちがどの様に羨しがるだらう、折角美事に出来て居るものだから惜しいけれど是非二三本は掻いて御馳走せねばなるまいなどと。考へる中にフト思ひついたことが有つて、手を拍ち升た、さうだ/\、さうしよう、此葦洲と此朝顔、これを上へ這はして丁度好涼み場になる、玉蜀黍畑によく見えるこゝへと独りで合点した、折しも朝飯が出来たとて、母の声で呼ばれ升た故心に楽しみある身は、何より軽く、トン/\跳ねながら家へ参り升た。いゝえ、かあさま何にもつかひ道を考へちやないの、だから買つてやりますよ、本たうに好こと、かあさま悦び升かネ、
それは大悦びでせうよ、それではそれとお諦だネ、おまへが買つておやりでなければわたしが買つて贐にやらうと思つてたのです。おまへ又お忘れでないよ。おとうさまが明日は町へお出でだから其時行つて見て来たら好でせう。
御飯も大急ぎに済まし、作男のぢいやに委細を呑込ませ、四角に竹を打込むから、よしずを廻り三方と屋根へくご繩で結びつけるまでもして貰らひ、あとは自分でさま/\工夫を凝らして見憎処のない様に朝貌の蔓をあちらこちらへ這はせ升た。此凝胆をして居る最中に父が出て参り升て、
アヽおまへこゝに居たネ、おつかさんが町へつれてつて呉れろといつたが、行くなら早く仕度をするが好い、直と出るから、
といひ升から、私は時のたつたのにビツクラし、
オヤモウ十時ですか、今行けば此涼場がどうしても間に合ひませんネ、
何に間に合わんといふのだ?
アレ、とうさま、吉田のとしちやんと秀ちやんがくるんですよ、モウお忘れなすつて?
さうだつたナ、さういふ大切なことを忘れては済まんかつた、アハヽヽ併しあれらが来る設にするのならば、家に居て拵らへてしまふがよからう町はまたこん度としてナ。
父は例の下駄のはなしは少しも知らぬもの故、かうしたので、それを知つてはこの様には勤めなかつたらうと思ひながら私は家に居度くもあり、さりとて前日の決心に対し、行かぬといへば何となく済まぬ様なりて、少しく躊躇つて居ると、母も出て参り升たから、母に頼んで諦めて貰らはうと思ひつき升た。父は母に何に間に合わんといふのだ?
アレ、とうさま、吉田のとしちやんと秀ちやんがくるんですよ、モウお忘れなすつて?
さうだつたナ、さういふ大切なことを忘れては済まんかつた、アハヽヽ併しあれらが来る設にするのならば、家に居て拵らへてしまふがよからう町はまたこん度としてナ。
この児は今拵らへて居る涼場を仕挙度さうだから、けふはうちに居るとしたらよからう、それにけふは連れて行つて都合のよくないこともあるから、尤も大した用事なら格別だが。
母が答へる暇のない中に父は足早に家の方へ行つてしまひ私は朝貌の蔓を手に持つたなりで惘然とあとを見送つて居り升た。母は私にあとを追ひかけて行けと命ずるかとおもひ升たが、さうもせず、併しどうやらジツト私の様子を見て居る様に掛念されて、まだモヂ/\して居升と、折よくぢいやが庭の草花を植ゑ直す指図をして貰らひに来て、母はぢいやを先にたて、行つてしまひ升た。私は始めてホツト息をつき、下駄はいづれ其中に買はうと自分ながら気安めな考をして居り升た。私はこれより心のムシヤクシヤするのを追払らふ積りで一際精神籠めて働らき、昼頃までに美事立派な亭が出来あがり升た。高さこそは私の丈より少し低い位でしたが、三人坐つて遊ぶにはもつてこいといふ加減で、下にぢいやに頼んで枯草を敷いて貰らひ、其上へ胡座を敷やらおもちやの茶道具を運ぶやらすつかり来客の仕度をして待つて居り升た。
午飯をしまつて少し過ぎると、二人の従妹が参り升たから蜀畑を見せ、手製の亭を見せると、二人は慾目で見る私さへ満足するほどに賞揚してくれ升て、私も大分得意になり、此日はいつもより身に染みて愛想よくし、三人とも暮方まで思ふ存分遊び興じ升た。遊びに耽れば是非思はぬいたづらもするもので、私は此日父の言つけを忘れてウツカリ桃の実を屋根へ投り挙げ、二階座敷へ近ごろいれた大版のガラス二枚破し升た。
此日は土曜日でしたが、あくる日曜日を措いて、月曜日学校から、帰つて来て家に居ると、父が窓下を通る処を見かけ升たから、側に居た母にもし父が町へ行くのならば、一処に行き度と申升た、すると母が
おまへ何しに行くのだえ?
あれ、かあさま、塩煎餅やのをばさんにやる下駄を買ひにですよ。
アヽヽそれならば、モウ今朝早く立ち升たよ。
母は私の顔を見ず、何となく不興気にかういひ升た。さうして見れば、母は私の忘れて居る間に下駄を買つておやりなすつたことか、もしさうでなければあの歯かけ下駄をはいて田舎まで行つたかしら、あの人はよく私を可愛がつて呉れたつけにヽヽヽヽアヽわるいことをした、又しても面目ないと思ひ出し、一言も口へは出ず、ソツト抜け出して、庭へ出て見ると、パツタリ父に出逢ひ升た、父は南向の二階座敷を下から眺めて、ガラス障子の穴に気の附たものと見えあれ、かあさま、塩煎餅やのをばさんにやる下駄を買ひにですよ。
アヽヽそれならば、モウ今朝早く立ち升たよ。
アヽ、これ、あの障子はおまへがこはしたのか?
うつむく私の様子を見て、少し厳しく、
此間もようくいつて聞かせたゞらう、下の障子をこはした時、又忘れたのかッ?
私はやうやく頭をあげ、
おとうさま、御免なさいな。
おまへは詫をしても忘れるから困り升。今度は忘れさせない様にせずばなるまい、おまへ自分の金をいくらか持つて居るか?
二十銭の銀貨と一銭銅貨と持つて居升の。
中/\それではあのガラスを取代へる事は出来んが、先づ其銭はおまへのいたづらの罰金にとつて置かう。
かう聞くと共に私の眼は涙で一杯になつて、例の袋をさぐる手先が見えぬ程でした、それ故父の顔も見ず甲斐絹袋のまゝ渡し升と、父は妙なかほつきして暫らく其袋を眺めて居り升た。さまで念入れに拵らへた袋を見ては、罰金をとるのが可愛さうになつたのでしたらう。おまへは詫をしても忘れるから困り升。今度は忘れさせない様にせずばなるまい、おまへ自分の金をいくらか持つて居るか?
二十銭の銀貨と一銭銅貨と持つて居升の。
中/\それではあのガラスを取代へる事は出来んが、先づ其銭はおまへのいたづらの罰金にとつて置かう。
おまへこれ丈しか持つて居ぬのか?
エー………あと銅貨が一ツある切り………
といつて、私は子供ながらも、父が其金を罰金にとるを非常につらく思つて居つたことはようく分つて居り升た。父は手の平へ其袋を載せてやゝ姑らく眺めて居り升たから、私は今度限り勘弁してやるといつて、返して呉れるかと一寸は思ひ升た、併しそれほど姑息な父ではありませんから、懲めはつまり私の為と思切つて、其金を懐へ収め、エー………あと銅貨が一ツある切り………
これに懲て今度はモツト気をつけるが好い。
といひながら向ふへ行つていまひ升た。私は父の影が見えなくなると直ぐ前日拵らへた亭へかけ込んで、声を惜まず泣叫び升た。子供のうち過をして罰せられた時泣くのは、自分のわるかつたことを後悔するのか、罰しられるが悲しいのか、よく区別がつかぬものです。私も此時までは罰しられて泣く時の涙の訳を我ながら知らずに居り升た。然るに此時はいたづらをして罰金をとられたといふことよりも、父が当惑な顔をして、心を痛めたといふことに………自分が遊戯に耽つて善をする機会を失なつてしまつたといふことよりも、なぜ自分はかうも意気地なく善い決心が守れまいといふ口惜さに泣けたのでした。私はまだ泣ながらフト頭を挙げて見升と、父が気の毒さうな顔をして側に立つて居升たから、なにやら恥しい気がして、口早に、
とうさま、あのお金を取りあげておしまひなすつたつて、泣てるんぢや有ませんよ。
それでは何を泣て居るのだ?
といつて、私を椽先まで手を引いて行き、側へ坐らせ柔和に私の憂の基を問ふてくれた父に私は心をすつかり打あけて、どうぞ決心のよく守れる仕方を教へてと頼み升た。それでは何を泣て居るのだ?
存外おはなしが長くなり升てお躰屈でせうが紙数が限つて有升から銅貨のお話しは此次へ廻します。
父は静に私を諭して、つまり此ごろの失策が私の稽古で、父の教より母の諭しより私の為になるのだから、よく心を沈めて考へる様にと申されました。父の言葉を一々今覚えて居りませんが、たゞ一ツしつかりと私の心に留つたことがあり升、何かといふと、自分の弱味を知る時は即はち自分の強くなる時で、人は進歩しようと思ふには一歩/\自修して行ねばならぬといふことです。父が話しをやめ升た時、私は嘆息をつき、
とうさま、モウ黄金機会も何もなくなつて、たつた此銅貨一ツになつちまひ升たよ。
其一銭でも真心をもつてつかへば、決して馬鹿に出来ない好い結果があるかも知れんよ。
父は間もなく用事が出来て行つてしまひ、私も子供心に憂を長く覚えては居ず、椽先で手鞠をついて居り升た。暫らくする中に、時々母がものを恵んでやつた貧乏のおばあさんが門から這入つて来升たが、間もなく下女の声ですげなく其一銭でも真心をもつてつかへば、決して馬鹿に出来ない好い結果があるかも知れんよ。
御新さまはさつきお出かけで、まだお帰りはないよ、アー、いつお帰りになるかネー、分らないよ。
といふが聞えると、先のばあさんは力なさゝうにトボ/\元来た道を帰つて行く様子でした。アヽ何かおつかさんに貰らひにでも来て、留守といふのに気を落したのではないかと、フト私の心に浮んでは、巾着の一銭銅貨が急にやり度なり、考へ直す暇もなく椽を下りて、一ト走り、
ちよいと、おばあさん、お待なさいよ、これ………
とて手に載せて出したものを見て、老母は始めは驚いた様子でしたが、軈て私がやらうといふのを気づいたと見えて、ニツト、ほんの義理にホヽ笑の真似をして
嬢さん、ありがたう。
も、口の内で、又トボ/\家路さして帰り升た。何ことと後へ来て見て居た下女は
可哀さうに、よくおやりなさい升たネ、あのばあさんは、ぢいさんと一処にあした救育院へやられつちまふんですとさ可哀さうに、
と繰かへして言つて居升た、私は漸やく一銭銅貨のつかひ処を見つけて、まづよかつたと安心した。ばあさんも気の毒と思はないでも有ませんかつたが、別段久しくは覚えて居ず、其まゝ時を過ごし升た。さてこれからどの位たち升たか、半月か一月もたつたことでしたらう、私は妹を連れて、のぶといふ守と一処に遊びに出升た。花を摘み、木栂をとりなどして、小半日もあちこちと遊び歩き升て妹は草臥れたとて泣出し升たから、日影の草原へ腰かけて息んで居升と、間近に見える草屋根の家から、ばあさんが古手桶を下げて出て参り升て、私どもの腰かけてる側の小川の中へ手桶を浸し、半分ほどはいつた水を重気に持あげ升た。此時までもばあさんは私どものこゝに居るに気つかず、私も格別気を止めませんかつたが、のぶが急に声をかけて、
オヤ、おとめさん、此節はおかはりも有ませんか、おぢいさんはどうし升た。
アヽ、ナニ、こねいだは大分好よ、ぢいさまもネ、この頃は又畑へ出て、アレあすこに、人の仕事してるとこで石ツころを拾はして貰つてまさあ。ハヽイヤ、ふたりともこねいだからいつにねい、笑らあこともあるんだ、アハヽヽ
のぶは少し声を張りあげ、(ばあさまの聾なる故か)アヽ、ナニ、こねいだは大分好よ、ぢいさまもネ、この頃は又畑へ出て、アレあすこに、人の仕事してるとこで石ツころを拾はして貰つてまさあ。ハヽイヤ、ふたりともこねいだからいつにねい、笑らあこともあるんだ、アハヽヽ
あの、うちでもみんな悦んで居升たよ、おとめさん夫婦はとんだ仕合せだつてネ、御新さまなんども大へんと悦んでおいでなすつたよ。
どうも有がていこつてネ。
といひながらまだ何か話したさうに、手桶を川端へ置き、一本橋を渡つて私どもの側へ参り升た。のぶは丁寧に自分の腰掛た草を別けて老母を腰かけさせ升た、私は麦藁で螢籠を編んで居り升たから、両人の話しを聞くとはなしに聞いて居り升た。のぶは好い話し合手を見つけたといふ調子で、どうも有がていこつてネ。
で、家賃も何もみんな払へたつて本統ですか? 芳さんなんて善い息子をお持ちなすつたのが何よりお仕合せですネ。
さうともネ、なんてい、有がていこつたか、おつかさんがよくしておくんなすつた恩は忘れませんてネ、よ、手紙へけいてよこしてさ、あの児がネ、ほんたうに孝行だよ。
のぶは何故か此話しを一生懸命に聞いて居り升た。芳さんといつた壮年のことは格別気をとめて聞く訳のあつたことはズツトあとになつて私にも分り升た。此時もあらましは知つて居たらしい、其事柄を推して尋ね、さうともネ、なんてい、有がていこつたか、おつかさんがよくしておくんなすつた恩は忘れませんてネ、よ、手紙へけいてよこしてさ、あの児がネ、ほんたうに孝行だよ。
おとめさん、始めつからの話しをおきかせなさいな。話さうともネ、あの日さ、御新さんとけへ行つた時ネ、どうもわたしもよつぽど困つてたのさ、なんて、気持がわるかつたかよ、なんだつていふと、あの朝大家さまから使が来てネ、おめひら何年もこゝに居て気の毒だが、さう/\店賃が滞つちやア困るから、どうも仕方がねい、あしたにも出てもれひてい、おれの方からねげひ出して救育院ていのへ遣つてやるつてネ、
のぶは此時
ほんたうにひどいネー、こんなに長く居た人たちを………
ばあさんはあとをつぎ、
それさ、わたしもあんまりだと思ふから、いつたのさ、御尤様ですとネ、御尤様にやア相違御ぜいませんけど、あの通りぢいさんも足が痛んで寝て居るもんで、今ちつと勘弁は出来升めいかつて、いつて見ても、中々いふことを聞いて呉れるどこでない、ひでい権幕で、おめいらの様なものへは一日も貸して置かれねい、店賃計ぢやねい、あつちこつち借財があるさうだつていはつしやる、さういへばさうなんだが、わたしらあ茶だら一杯入れやしねい、倹約に倹約して暮らして居たんだからネ、
のぶはまた話しの腰を折つて、
いくら借ておいでなすつたんだネ?
そつちこつちで三両二分もあつたかネ、それに店賃が三月分溜つて二両と七〆さ。米やへは其前に払ひして、薬料はやる、家にあ、からつきり一文もなかつたんだよ、食べるものといつたら一とかけらだつてなくなつてさ。
のぶはまたそつちこつちで三両二分もあつたかネ、それに店賃が三月分溜つて二両と七〆さ。米やへは其前に払ひして、薬料はやる、家にあ、からつきり一文もなかつたんだよ、食べるものといつたら一とかけらだつてなくなつてさ。
そこを助けたんだから芳さんもほんたうに孝行だネ、
さうとも、わたしの腹を痛めた児ぢやアねいがネ、実の児とおんなじこと、可愛がつてそだつたから、をやぢよりわたしをこよしがるくらゐだよ。だが、あゝしてうちを出て人につかはれて居るんだから、あの時分居どこが知れなくなつてネ、なほと困つたんだ。丁度あの日わたしも実困つちまつてよ、どうすることもなしだから、いつも贔屓にしておくんなはる御新さんにおはなしゝて、迚も大変なお金だからしやうがあるめいけど、たゞ可哀さうだつていつて貰つてもそれ丈気もちが好と思つてさ、
のぶは同情を感じたらしくさうとも、わたしの腹を痛めた児ぢやアねいがネ、実の児とおんなじこと、可愛がつてそだつたから、をやぢよりわたしをこよしがるくらゐだよ。だが、あゝしてうちを出て人につかはれて居るんだから、あの時分居どこが知れなくなつてネ、なほと困つたんだ。丁度あの日わたしも実困つちまつてよ、どうすることもなしだから、いつも贔屓にしておくんなはる御新さんにおはなしゝて、迚も大変なお金だからしやうがあるめいけど、たゞ可哀さうだつていつて貰つてもそれ丈気もちが好と思つてさ、
本にさうとも、気の毒がつて貰ふ計りでも、嬉しいもんですからネ。
御新さんもお留守ださうで、むだ足して帰るとこをよ、この嬢さんがひよつくら来て、一銭銅貨アくれたんだ、可愛らしいけんど、どうすべい、五両も六両も借てるもんに一銭があになるべいと思つたが、よく/\思ひ直して、今夜つける油もねいから、よし/\これで蝋燭一挺買てぢいさんとふたり暗闇で今夜泣くとこを、このおかげに、燈がつけられると思つてネ、万やへボツ/\いつて蝋燭一挺買つてネ、直ぐ帰らうとすると万やの五郎兵衛どんが、おとめさん久振りだ一服吸つていきなつて愛想するから、其気になつてちよつこら腰を息めてると、そこへあすこのかみさんが出て来てネ、思付いた様に「オヤ、おとめさんかへ? きのふ来た手紙を忘れずにやらないでは」といふので、五郎兵衛どんも漸く気がついたと見えて、「さうだつけ、モウちつとで忘れるとこだつけ」といふ様な訳さネ。わたしも粟アくつて、「なにかへ、芳んとこから来たんぢやねいか」ツていふと、これだといふのさ、挨拶もろくにしねいでうちへけいて蝋燭うつけてぢいさんに読んで貰ふと、今度福井ツていふ方へお供に来て、大分お金の貰はれる様になつたから月々送る、これは久しく溜めておいたのだから少し計りだけどつてネ、十円札が一枚はいつて居るぢやねいか、ぢいさんもわたしも頭ア挙らなかつたネ、嬉し泣になけてよ、
ばあさんは其金で店賃も、他の借財も奇麗に払つたといふ話しをまだ長々としつゞけ、大家がどんな顔せしたとか、あとに残つたお金はどうつかふとか聞手のあるまゝに嬉しげに話しつゞけまして、私が一銭銅貨をやつた時とは月と炭団ほどもちがふ顔して、大口にアハヽヽアハヽヽヽと笑い興じ升て、一時間余もたつたあとで漸く手桶下げて家へはいり升た。ばあさんにも、おのぶにも少しも気がつかなかつた様子でしたが、私は子供心に此老夫婦の悦の中には私の一銭銅貨が余ほど役にたつて居るといふことを気づき升た。おのぶにも申ませんでしたが、私は帰りがけ何となく嬉しく、自分の手柄ではない中にも一銭を真心もつて人に恵んだおかげに金銀に勝たつかひ様が出来たと思ひ、足が地につかない様に跳び/\家に帰り升た。御新さんもお留守ださうで、むだ足して帰るとこをよ、この嬢さんがひよつくら来て、一銭銅貨アくれたんだ、可愛らしいけんど、どうすべい、五両も六両も借てるもんに一銭があになるべいと思つたが、よく/\思ひ直して、今夜つける油もねいから、よし/\これで蝋燭一挺買てぢいさんとふたり暗闇で今夜泣くとこを、このおかげに、燈がつけられると思つてネ、万やへボツ/\いつて蝋燭一挺買つてネ、直ぐ帰らうとすると万やの五郎兵衛どんが、おとめさん久振りだ一服吸つていきなつて愛想するから、其気になつてちよつこら腰を息めてると、そこへあすこのかみさんが出て来てネ、思付いた様に「オヤ、おとめさんかへ? きのふ来た手紙を忘れずにやらないでは」といふので、五郎兵衛どんも漸く気がついたと見えて、「さうだつけ、モウちつとで忘れるとこだつけ」といふ様な訳さネ。わたしも粟アくつて、「なにかへ、芳んとこから来たんぢやねいか」ツていふと、これだといふのさ、挨拶もろくにしねいでうちへけいて蝋燭うつけてぢいさんに読んで貰ふと、今度福井ツていふ方へお供に来て、大分お金の貰はれる様になつたから月々送る、これは久しく溜めておいたのだから少し計りだけどつてネ、十円札が一枚はいつて居るぢやねいか、ぢいさんもわたしも頭ア挙らなかつたネ、嬉し泣になけてよ、