去年の夏のことだ。
 H君夫妻が、終戦後はじめて軽井沢の別荘びらきをするといふので、われわれ旧友二三人が招かれたことがある。そのなかに、久しぶりでわれわれの前に姿をあらはしたG君もゐた。これは思ひがけなかつた。
 われわれ仲間といふのは、ほんの高等学校の頃に同室だつただけの関係なのだが、そんな漠然とした若い時代の友情が、めいめい別れ別れに大学へ進んでからも、やがて社会へ出てからも、案外そこなはれずに続いてゐたのである。
 同勢は六人ほどで、文科系統が多かつたけれども、G君は工科だつた。もう一人、さんといふ山東さんとう出身の留学生がゐて、これは医科だつた。のつぽといつていいくらゐ背の高い男で、とつつきの悪い不愛想なところがあつたが、実は飃々ひょうひょうとした楽天家で、案外すみに置けない粋人すいじんでもあつた。魏怡春ぎいしゅんといふ名前が、まさにたいをあらはしてゐたわけである。
 そんな彼に、われわれはよく甘えたり、罪のない艶聞えんぶんをからかつたりしたものだ。大学を出ると長崎へ行つて、はじめは医大につとめ、やがて開業した。日本人の細君をもらつたとかいふうわさもあつたが、そのへんから段々消息がぼやけて来て、まもなく戦争になつた。山東へ帰つたらしいと、誰いふとなしにそんな風聞も伝はつたが、確かなところは分らなかつた。もし帰つたとすれば、彼の運命は果してどうなつてゐるだらう。無事で、若白毛わかしらががますますしもを加へて、相変らず飃々ひょうひょうとしてゐるだらうか。……われわれはまづ、そんなことを噂し合つた。
 G君は、われわれの仲間ではただ一人の山岳部員だつた。かと云つて先頭に立つてにぎやかに音頭をとるのではなく、むしろ黙々として小人数で沢歩きをするといつた風であつた。一度など、単身で雨あがりのザンザ洞へいどんで、トラヴァスの失敗から人事不省になつたことさへある。まだ沢歩きが今ほどはやらない時分のことだから、木樵きこり小屋の人がひよつこり水をみに降りて来なかつたら、とつくにGは白骨を水に洗はれてゐたに相違ない。……そんな経験のあつたことを、われわれ仲間でさへ余程あとになつて、彼が何首かの歌に歌ひこむまでは、さつぱり知らずにゐた始末だつた。
 歌といへば、Gはわれわれの中で唯一人の歌よみでもあつた。当時の風潮にしたがつてアララギ調で、なかでも千樫ちかし私淑ししゅくしてゐたらしいが、ちよいちよい校友会雑誌などに載るその作品は全部が全部自然諷詠ふうえいで、たえて人事にわたらなかつた。格調がととのひすぎて、つめたく取澄ましてゐるやうな彼の歌風は、学校の短歌会の連中から変に煙たがれてゐたらしい。そこでも彼は孤独だつたのだ。学校の先輩に当る詩人に、Gがわれわれの仲間のSを介して、歌稿の批評をもとめたことがある。その人は詩壇きつての理知派と云はれてゐたが、一流のきらりと光るやうな微笑とともに、
「ああ、この人は鉱物だね」
 と評し去つたさうだ。Sは面白がつて、この評語をわれわれに披露したが、さすがに当人にはかくしてゐたらしい。悪意の批評ではないまでも、少しばかり的を射すぎてゐると思つたのだらう。Sは世話ずきな男だつた。
 なるほどさう言はれてみれば、Gには人間を鉱物に還元して考へるやうなところがあつた。そのためにはづ自分自身を、鉱物に還元するのである。自然との対話によつて、やうやく自分の孤独を満たしたやうな人なら、古来めづらしいことではない。さういふ人たちは好んで自分を草木に化する。Gはそれができない性格だつた。あるひは草木の時代を、まだ自分が生まれないずつと遠い昔に経過してゐるのかも知れなかつた。がとにかく、そんな人間は詩歌など作らぬ方がいい――と、例の理知派の詩人は皮肉つてゐるらしく思はれた。その詩人は、その後まもなく毒薬自殺をした。そしてGは、やがて忘れたやうに歌を作らなくなつた。
 Gは、大学では建築をやつた。卒業設計は大がかりな綜合そうごう病院のプランだつた。いよいよ出来あがつて提出する前、彼は大きな図面を何枚もわれわれに見せて、かなり丁寧に説明してくれたものだが、今ではもう、おそろしく沢山たくさんむねに分れた複雑きはまる見取図や、オランダの民家を見るやうな柔らかな屋根の色や線が、おぼろげに記憶に残つてゐるだけで、こまごました技術上の苦心や抱負などは、当時にしてもわれわれには見当さへつかなかつた。
 が、そんな夢みたいな設計図でも、専門家の眼には何か見どころがあつたらしい。Gは卒業後しばらく東京のT工務所につとめたのち、ちやうど京城けいじょうに新たに建つことになつた大きな病院の仕事に、破格なほど高い椅子いすを与へられた。そのまま大陸に居すわつてしまひ、やがて満洲へ渡つたことだけはわれわれの耳に伝はつたが、あとはさつぱり消息が絶えた。つまりGは、例の魏さんに次いでわれわれの視界から姿を消したのである。
 そんな彼に、われわれはHの別荘で、ほとんど二十年ぶりに再会したわけだ。懐かしいといふより、一種の間のわるさが先に立つた。年月の空白といふものは、男の場合でも女の場合でも、何ともぎごちないものだからである。男女の間なら、一種の擬勢でそれを埋めることができるかも知れない。だが男どうしでは、その助け舟も頼みにはならない。
 外交官のSは、身についた社交辞令で、とにかくGのその後の生活について根掘り葉掘り問ひかけたが、満足な答は得られなかつた。Gが照れる先に、当のSが照れてゐるのだから話にならない。結局わかつたことは、Gが現在独身であること(その口ぶりでは、どうやら一度は結婚したらしくある――)、それにもう一つ、朝鮮や満洲に十ほど病院を建てて来た、といふことだけだつた。口数の少ないかつての彼を見馴みなれてゐるわれわれは、それだけで十分満足した。やがて、交際ずきなHの細君さいくん奔走ほんそうで、知合ひの夫人や令嬢を招いての夜会になつた。Hの細君としては、早くもGの後添のちぞいのことを想像に描いてゐたのかも知れない。その席でGは案外器用な踊りぶりを見せたが、令嬢にしろ夫人にしろ、彼が注意を特にかたむけたとおぼしい相手は一人もなかつた。大きい眼をむいてひそかに彼の一挙一動に気をくばつてゐたHの細君は、ほとんど露骨な失望の色を見せた。
 夜会から一日おいての朝、われわれは夏山登りを思ひついて、あまり気の進まないらしいGに案内役を無理やり承諾させた。Gはしばらく思案してゐたが、浅間といふ誰やらの提案をしりぞけて、一文字山から網張山を経て鼻曲山へ出る尾根歩きならお附合ひしてもいいと言ひ出した。それなら都合によつては、霧積きりづみ温泉に泊る手もあるといふのである。
 ゆふべの令嬢たちの中からも二人ほど加はることになつて、出発はひるちかくなつた。のみならず、その夏はまだこのコースを踏んだ人があまりないと見えて、思はぬ場所にやぶがはびこつてゐたりして、女連中の足はなかなかはかどらなかつた。鼻曲山の頂上にたどり着いた頃は、落日が鬼押出おにおしだしの斜面に大きくかかつてゐた。
 日帰りはあきらめなければならなかつた。われわれは日の影りかけてゐる東の尾根を霧積へ下りることはやめて、明るい西斜面づたひに小瀬温泉をめざした。温泉に着いてみるともう暗かつた。
 その晩、わたしはGと同じ小部屋で寝ることになつた。あかりを消して眼をつぶつてみたが、疲れてゐるくせに眠気がささない。Gも同じらしかつた。ほとんど一時間ほどもさうしてゐた挙句に、どつちから言ひだすともなく連れだつて浴室へ下りた。
 月はなく、山あひの闇が思ひがけないほどの重さで窓に迫つてゐた。湯川の瀬音が耳もとへ迫つたり、遠まつたりしてゐた。私たちは湯ぶねの中に向ひあつて瞑目めいもくしたまま、その音を聞くともなしに聞いてゐた。まるで息をしてゐるのが私たち二人ではなくて、かえつて自然の方であるやうな気がした。
 何かしら苦しい沈黙だつた。するとその時、すぐそこの松山の中でギギッとけたたましいき声がした。同時にするどい羽音がして、中ぞらへ闇を裂いた。そして消えた。
「なんだらう、雉子きじかな?」と私は言つてみた。
「さあね、五位鷺ごいさぎぢやないかな。」
 Gは目をつぶつたまま、鈍い声で答へた。あとはふたたび瀬音だつた。
 湯からあがつて、また寝床へもぐりこんだが、今度もやつぱり寝つけない。先に辛抱を切らしたのはGの方だつた。彼はライターをつけて、枕もとの水をうまさうに飲んだ。私も腹這はらばひになつて、暗がりでタバコを吸ひだした。
「寝られないかい?」とGがきく。
「うん。つい鼻の先まで夢は来てるんだが、どうもいけない。……さつきの鳥の声がまた聞えさうな気なんかがして、また夢のやつ、スイと向うへ逃げちまふ。」
「ああ、あの声か。……やつこさん、へびにでも襲はれたかな。」
「さうかも知れない。とにかく、かう耳につきだしたら百年目だ。」
 Gは低く笑つた。しばらくして、何気ない調子でこんなことを言ひだした。――
「何か話でもしようか。君があんなことを言ひだすものだから、僕まであの声が耳について来た。……」そこで言葉をきつて、「実はね、あの鳥の声で、ふつと思ひだしたことがあるんだよ。つまらん話だがそれでもしようか。」
 私が承知をすると、Gは次のやうな話をしだした。……

        *

 内地を出て、最初の五年ほどは京城にゐた。つぎの七年は満洲にゐた。そのあひだにまづまづ自分の仕事と呼んで差支へない病院を、大小とりまぜて十ほど作つた。最後の三つなどは、設計から施工の監督まで僕の手一本でやつた。なかでも新京しんきょうの慶民病院は、規模こそ小さかつたが、まあ悪くはないと思つてゐるのだがね。
 その仕事が済むと、まもなく太平洋戦争になつた。満洲の建設どころではあるまいから、その辺で見きりをつけて、外地歩きから足を洗はうかと思つた。うつかり帰ると待つてゐましたとばかり徴用されるぞ――そんなことを言つておどかす友人もゐた。なるほど徴用も結構だが、マーシャル・カロリンあたりの設営隊へ駆りだされるのは、ぞつとしなかつた。もう一つ二つ建てておきたい病院の夢もあるものでね。くだらん執着には違ひない。だが、どうも自分が、まんいち前線基地へでも出ていつたら最後、まつ先に脳天を射抜かれるやうな男に思へてならなかつたのだ。……ああ、家内かい? (と彼は私の挿んだ質問にこたへて)家内は京城でもらつて、京城で死なした。産褥さんじょく熱だつた。子供も一緒に死んでしまつたから、まあ、その点はさばさばしたものだが、とにかく僕は躊躇ちゅうちょしたね。
 そのまま役所通ひをしながら形勢をうかがつてゐると、やがて華北交通から来ないかと言つて来た。最初の仕事は、北京ペキンの郊外あたりに鉄道病院みたいなものを作るのだといふ。僕はその頃、採光の様式についてちよつとした発見をしたところだつた。もちろん机上のプランだから、なんとかして実地に試してみたくてならなかつた。それには材料の上で或る註文ちゅうもんがあつた。その材料が北支なら、まだまだ使へる可能性があるやうに想像された。
 そこで僕は休暇をとつて大連だいれんへ行つた。満鉄の本社に北支の事情に明るい先輩がゐたので、その人の意見を求めるつもりだつた。あひにくその人は天津てんしんへ出張中で、あと四五日しないと帰つて来ないといふことだつた。大連は二度目だつたが、どうも好きになれない町だ。星ヶ浦に泊ることにしたが、どうもそこも、安手のブルジョア趣味で僕を落着かせない。白状すると、僕はその頃ちよつとばかりノスタルジヤにやられてゐたのかも知れなかつた。何しろ内地通ひの便船が、つい目と鼻の先で煙を吐いてゐるのだからね。
 そこでホテルの支配人に、どこか静かな場所はないかと相談を持ちかけてみると、旅順りょじゅんの町はづれにある黄金台ホテルといふのを教へてくれた。もつともこんな時世だし、避暑のシーズンも過ぎたしするので、休業してゐるかも知れない……といふ話だ。電話で連絡してみると、あと十日ぐらゐで閉めるところだといふ。なるほどもう九月も中旬にかかつてゐた。僕は早速トランク一つぶらさげて出かけた。
 いささか不安な気持もあつた。旅順といへば、小さい時から植ゑつけられてゐる先入主があつたからね。つい血なまぐさい、かさかさした土地を想像しがちだつた。だが行つてみて、僕の想像はきれいに裏ぎられた。青い小さな湾をひつそり抱いてゐるやうな町だつた。海岸通りのアカシヤの並木が美しかつた。
 黄金台といふのは、湾口を東からやくしてゐる岬の名だ。ホテルはその岬の裏側にあつた。市街から洋車でものの二十分もかからうかといふ松林のなかに、置き忘れられたやうに立つてゐた。バンガロー風のポーチに立つて、二三べん大きな声で呼んでみてもしばらくは誰も出て来ない。そんなホテルだつた。
 泊り客はどうやらゐないらしかつた。いや第一、使用人もゐるのかゐないのか分らぬほどだつた。ポーチに出て来たのも若い支配人自身なら、二階の部屋へ案内してくれたのも同じ彼だつた。閑静を通りこして、むしろ無人に近い。僕はちよつときつねにつままれたやうな気がしたね。
 下のサロンで、支配人が手づから運んで来てくれたお茶を飲んでから、僕は海岸へ出てみた。ちよつと七里ヶ浜を思はせるやうな荒れさびた浜だつた。薄ぐもりの空の下で、黄海の波がなまりいろにうねつてゐた。人つ子ひとりゐない。ペンキのせた海水小屋がぽつりぽつりと立つてゐる。みんな鍵がかけてある。僕はそれを一つ一つのぞいて廻つた。何か風俗のきれはしでも落ちてゐはしまいかと思つたのだ。何もなかつた。ただ作りつけのベンチの上に、砂が乾いてゐるだけだつた。やうやく一つ、桃色の破れスリッパの片つぽが落ちてゐるのを見つけた時には、何かしらほつとした気持だつた。
 僕は引き返して、ホテルの前を通りこし、裏山へ登るらしい道をみつけると、ぶらぶらのぼつていつた。松、とべら、ぐみ、あふち、そんな樹々のつやつやした葉なみが、じつに久しぶりで眼にしみた。何しろ十何年のあひだ僕は緑らしい緑を見ずにゐたのだからね。だんだん登つて行くと、ちらほら家の屋根らしいものが見えはじめた。最初に現はれた一軒は、張りだした円室を持つた古めかしい洋館だつた。外まはりの漆喰しっくいは青ずんで、ところどころげ落ちてゐる。ポーチを支へてゐる石の円柱も、風雨にさらされて黒ずんでゐる。窓の鎧戸よろいどの破れから覗いてみると、なかの薄暗がりに椅子いすテーブルが片寄せに積みあげられ、ねずみが喰ひ散らしたらしい古新聞や空罐あきかんなどがちらばつてゐる。そのほかに小会堂風のだの、バンガロー風のだのが、林間のそこここに立つてゐたが、どれを見ても内も外も一様にひどく荒廃してゐた。その建築様式や住み方の工合ぐあいが、なんとなくロシヤ臭い。僕は、ひよつとするとこれは、昔ここがロシヤの要塞だつた頃の遺物ぢやあるまいかと思つた。夕闇が迫つてゐた。僕はすこし不気味になつて、その空屋部落を立去つた。
 夕食はがらんとした食堂で、一人きりで食べた。そのあとで支配人が顔を見せたので、例の空屋部落のことを聞いてみると、やつぱり思つたとほり、ステッセルの幕僚たちの官舎だといふことだつた。
「すつかり荒れてしまひました。何しろ四十年からになりますからね。それでも修繕しいしい、貸別荘に使つてゐました。ええ、夏場などハルビンあたりのロシヤ人が、よく来てゐたものです。この二、三年ぱつたり姿を見せなくなりましたがね。いくら修繕しても雨漏あまもりがして、今ぢやとても住めたものぢやありませんよ。」
 そんなことを支配人は言つた。
 僕は部屋へあがつて、今しがた支配人がくれた案内記を読みはじめた。そして、さも遊覧客らしく、明日の予定を心に描きはじめた。さうでもするよりほかに仕事がなかつたからだ。森閑しんかんとしてゐた。下にも二階にも物音ひとつしなかつた。時々かすかに波の音が伝はつてきた。そのうちにふつと、さつき見た空屋の一つのエレヴェーションが眼にうかんだ。ちよつと使つて見たい線がそこにあつたのだ。僕はスケッチ・ブックを出して、記憶をたどりながら素描しはじめた。どこかで水の音がした。二階の廊下を鍵の手にまがつたずつと奥のあたりで、誰かが水道の栓をひねつたらしい。音はすぐやんだ。空耳かも知れなかつた。ちよつと気になつたが、すぐ忘れた。
 鉛筆のついでに、例の小会堂風の空屋の印象を素描してみたりした。そのうちに僕の眼前を、あの外套がいとうみたいな灰色の軍服をきたロシヤの将校たちの姿が、ちらちらしはじめた。それがあの空屋を出たり入つたりする。ポーチの敷石に引きずる佩剣はいけんの音もする。……それが幻といふより夢に近かつたらしい。僕はいつのまにかうとうとしてゐたのだ。
 はつと目がさめた。何か音がしたと見える。しばらく耳をすましてゐたが、何も聞えない。僕はもう寝ようと思つて、いつもの習慣どほり、寝る前のうがひをしようと思つた。廊下へ出て、すぐ前の洗面室へはいつた。カランをひねらうとしてふと気がつくと、水盤は栓がしつぱなしで、濁つた水が八分目ほどたまつてゐた。そのうへ、そこらぢゆうに水がはねかつてゐる。明らかに僕の仕業ではない。僕はちよつと不愉快になつて小窓をあけ、そこからうがひの水を吐かうと思つた。
 空はすつかり曇つてゐるらしい。低い、押しつけるやうな闇だつた。その中へ、咽喉のどの水を吐きだした途端に、ほら、ちやうど先刻みたいなギギーッと裂くやうな啼声なきごえと、けたたましい羽ばたきがしたのさ。不意のことだし、不愉快になりかけてゐた矢先のことだしするので、そのぎよつとした感じが、しこりのやうに残つて変に腹だたしく、しばらくはつけなかつた。
 あくる日は晴れだつた。僕は昨夜の予定どほり、朝のうちから博物館へ出かけた。案内記で大体の見当はつけてゐたが、こんな半島の先つぽ、しかも戦蹟せんせきとしてばかり名高いこの町に、よくもあれだけの博物館があつたものだ。はじめの幾室かは仏像の蒐集しゅうしゅうだつた。僕はもちろん、仏像のことはよく分らない。だが、ぼんやり眺めてゐることは好きだ。朝鮮の頃はさうでもなかつたが、満洲ではついぞそんな心の休まるやうな時にめぐまれなかつた。僕はだんだん引き入れられるやうに一つ一つケースをのぞいて廻つた。洛陽らくようだの太原たいげんだの西安せいあんだのから来たものが多い。北魏ほくぎの石の仏頭は、スフィンクスみたいな表情をしてゐた。六朝りくちょうの石仏の一つは、うつとりとねむたさうな微笑を浮べてゐた。ガンダーラの小さな石の首からは、ギリシャの海の音が聞えた。そうの青銅仏は概して俗だが、木彫りには、いゝものがあつた。なかに徳利とくりをさげた観音の立像がある。僕は法隆寺の酒買ひ観音を思ひだした。ああ、あの百済くだら観音さ。それから大学の頃Y教授に引率されてちよいちよい見学に行つた奈良の寺々のあの dim light を思ひだした。僕は僕の青春を思ひだした。……
 をかしな話だ。千何百年も昔の遺物にとり囲まれながら、青春を思ひだすなんて。だが、さうした遺物が彫られたり刻まれたりした頃、人類はやはり何といつても若かつたのだ。いはば人類の若い息吹きが、のみの跡に香りたかくこもつてゐるのだ。みづみづしい力だ。ゆたかな気魄きはくだ。それにしても、なんといふ堅固さだらう。なんといふ耐久力だらう。それを見てゐると心が温まつてくる。造型といふものへの、かすかな信頼もいてくる。……
 そんなことを言ふと、回顧趣味だとか古代マニヤだとかいつて笑はれるかも知れない。笑はれたつて構はない。古代を笑ふ近代マニヤ連中の内兜うちかぶとは、すつかり見透しなのだからね。あの連中の傲慢ごうまんな表情はじつは裏返された卑屈感と焦躁しょうそうにすぎない。あの連中とはつまりわれわれのことだ。僕たちは、たとへ逆立ちしたつて、もはや古代の建築や彫刻のあのゆたかな安定性には達しられないだらう。人類は疲労した。日は沈みつつあるのだ。
 たしかに人類の技術は、近代に入つて異常な進歩をとげた。僕たちの畑にしたつて建築材料も構造力学も、この二三十年に面目を一新した。だが、ガラスは紙より強い。鉄筋は木骨より丈夫だなんて、のんきな事を言つちやゐられない。生活はそのため、ちつとも確実さを増してはゐないのだ。技術の進歩はひよつとすると、人類が自分の疲労をかくすために発明した興奮剤にすぎないのかも知れない。厚化粧かも知れない。その反面に、陰険な破壊力は幾何級数的、いやそれ以上の勢ひで増大しつつあるのだ。それが近代といふものなのだ。そんな近代にもし思ひおごれるやうな人があつたら、それは残念ながら近代人とは言へまい。……
 ざつとさういつた考へが、仏像をのぞきまはつてゐるうちに次第に頭をもたげて、僕はいつのまにか興奮してゐた。僕はその頃、建築材料のことで或る難問に逢着ほうちゃくしてゐたので、いさゝか神経衰弱ぎみだつたのかも知れない。やがて西域出土物の室にはいつて、ムルックの石窟せっくつ寺のものだといふ壁画の断片を見たり、小さな像やつぼの破片を眺めたりした。壁画は、色彩といひ描線といひ、法隆寺の金堂のあれにそつくりだつた。僕ははげしい郷愁を感じた。もつともその郷愁は、奈良へ向ふよりは一層つよく西方へかれるものだつた。僕はためらつてゐた北京赴任を、ほとんど決心した。
 ミイラ室を最後に、僕は博物館を出た。そこには高昌こうしょう国人だといふミイラが、さう、たしか六七体ほどならべてあつた。高昌といふ国を僕は知らなかつた。君もひよつとすると知らないかもしれない。案内記によると、西域といつてもずつと中国寄りの、天山南路にあつた国で、大たい五世紀ごろから七世紀ごろまで存続してゐたらしい。もと匈奴きょうどの根拠地だつたのが、次第に漢民族の侵蝕をかうむつて、ついにその殖民地になつたのだといふ。いはばトルキスタンとフンと漢と、この三つの勢力が早くから抗争して交流してゐた地方なのだ。したがつて一口に高昌人といつても、その正確な人種的決定は案外むづかしいかもしれない。現に当の匈奴にしてからが、蒙古もうこ系とする説とトルコ系とする説とがあつて、はつきりした結論は出てゐないといふではないか。いや、そんな詮議だてはどうでもいいことだつた。僕はのあたりに古代人を見たのだ。その生きてゐる姿を見たのだ。もし生きてゐると言つて悪ければ、生きてゐる以上の、と言ひ直してもいい。何しろそのミイラたちは、千三百年ものあひだ、そのままの恰好かっこうでじつと眠りつづけてゐるのだからね。……
 身長は大きい方ではなかつた。褐色に黒ずんで固まつてゐるものだから、なおさら小さく見えた。顔は面長おもながの方だつた。骨組はがつしりしてゐるらしいが、どれも一様に胸はくぼみ、腰骨がひどく出張でばつて見えた。そんな姿から、僕は彼らの遊牧生活を、まざまざと思ひ描くことができた。彼らを起きあがらせ、片手に長いつえをつかせ、荒野に羊の群を追はせることができた。女性のミイラも二三体あつた。男よりも一段と小柄で、一層しなび疲れてゐるやうに思へた。そのためか恥骨の隆起がするどく目についた。あの下には子宮が枯れしぼんで、まだ残つてゐるだらうか――僕はふつと、そんな妙なことを考へた。多分のこつてゐるだらう――僕は自分に答へた。畏怖いふといつてもいいほどの何かみづみづしい感動だつた。僕は情慾の脈うちを感じた。そればかりか、からだの一部にひそかな充血をさへおぼえた。
 彼らはひつそりと横たはつてゐた。もし小声で呼びかけたら、千三百年のヴェールを払ひのけて、むつくり起きあがつて来さうな気がした。それはまつたく確実なことのやうに思はれた。そんなむくろの群を、いつのまに西へ廻つたのか、まるで落日のやうに赤ちやけた反射光が、静かに照らしてゐた。影が深くなつて、そのためミイラたちは浮き立つやうに見えた。僕は時計を見た。もう三時近かつた。僕はまるで古代の重みからのがれでもするやうに、急ぎ足で外へでた。そしてまぶしいほど白い、ひろびろした街路へ出ると、ほつと大きな息をついた。アカシヤの並木がかすかにそよいでゐた。
 ホテルに帰つてからも、僕はまだ何か幻にうかされてゐるやうな気がした。それはもう、感動といふよりは疲労のせゐだつたらう。何しろ昼飯もわすれて、五時間ちかくガラス棚をのぞき廻つてゐたのだからね。僕は大急ぎでトーストと珈琲コーヒーをたのむと、誰もゐないサロンで満洲日報を読みはじめた。なるべく早く現実へもどる必要を感じたからだ。景気のいい戦争記事が、大きな活字でべたべた並べ立ててあつた。だがどれを読んでも空々しい感じしかしなかつた。さうだ、一刻も早く北京へ――そんな声が、心の隅でささやいてゐた。それも早ければ早いほどいい。一日おくれればそれだけ、僕の求めるものが失はれて行くやうな気がした。僕を蘇生そせいさせてくれるエレクシールが、どしどし減つて行くやうな気がした。僕は危ふく大連へ電話を申込まうとさへした。だが例の先輩がまだ帰任してゐないことは明らかだつた。僕はしぶしぶあきらめた。
 だが、そんな風にふらふらしてゐた僕を、すばやく現実へ引きもどしてくれるものが、案外手ぢかな所から現はれた。はじめは小刻みなくつ音だつた。それが二階から下りて来たのだ。敷物が薄いからよく響く。下りきると、急ぎ足と言つていいほどの足どりで帳場の前を横ぎり、まつすぐこつちへ向つて来た。ライラック色の支那しな服をきたの高い女だつた。廊下のまん中で立ちどまると、いきなりこつちへ横を見せて、奥の食堂の方を透かすやうに見た。ほとんど肩すれすれまで、むきだしになつてゐる豊かな二の腕が、ろう色に汗ばんで、どうやら胸をはずませてゐるらしい。一二歩、食堂の方へ行きかけたがやめて今度はキッとこつちを見た。もし僕が新聞をたてにしてゐるのでなかつたら、おそらく眼と眼がぶつかつたに相違ない。そして僕は何かしら声を立てたにちがひない。あの女だ――と僕は咄嗟とっさに思つたからだ。が、女は僕に気づかなかつた。瞬間ありありと失望の色を浮べると、長いすそるやうにして姿を消した。例の支那服特有の裾の裂け目から、きりりと締つたふくらはぎが、一度二度ひらめいた。臙脂えんじ色の小さなくつもちらりと見えたやうだ。そのどつちも僕は見覚えがあつた。
 僕は耳を澄ました。沓音はポーチの敷石にひびき返つて、外へ出ていつたらしい。しばらくすると洋車の出て行くらしいきしりがかすかにした。
 ところで君は、一体その女は僕にとつて何者なのかと、いささか好奇心をもやしてゐるかも知れないね。もしさうだつたら、なんとも申訳ない次第だ。現実はあひにくと、小説ほど都合よくできてはゐないからね。実をいふと僕はその女について、ほとんど知つてゐることはないんだよ。一体あれは何者だつたらうと、未だに時どき思ひだすぐらゐのところさ。
 さうだ、どうせここまで話したら、はつきり言つてしまはう。僕はその女に、三昼夜半ほど前に、たつた一度会つたことがあるだけだつた。会つたといつても、安心したまへ、汽車の中でのことだ。僕はそれまで勤めてゐた民生部を、大体やめる決心がつくと、辞表を懇意な上役にあづけて、新京を去つて奉天ほうてんへ行つた。二人ほど別れを告げたい友達がゐたものでね。二日ほどして、大連行きの朝の急行に乗りこむと、案内されたコンパートメントは僕一人だつたのを幸ひ、発車するかしないうちにうとうとしはじめた。しばらくして僕はボーイに揺り起された。席がなくつて困つてゐる婦人がある。少々ゆづつてあげてくれないか――といふのだ。コンパートメントは四人はたつぷり掛けられる。僕はしぶしぶ快諾した。何しろ二晩悪友のお附合をさせられた挙句で、僕はひどくねむかつたものでね。やがてはいつて来たのが今いつた女だつたのだ。
 その時はライラック色ではなしに、こまかい紅色の花を一面に散らした黒い服を着てゐた。持物もそれにふさはしい地味で上品なものだつた。歯ぎれのいい支那語でことわりを言ひ、にこやかに席についた。かすかに竜涎香りゅうぜんこうが匂つた。お伴の若い小間使も入口ちかく席を占めた。僕は一目で、これは満人ではないとにらんだ。なんぼ僕だつて七年もゐれば、そのくらゐの見分けはつくさ。
 大人びた物をぢしない身のこなしだつた。はじめはただ美しいと思つたその顔も、近々と横から眺めれば三十の半ばには少なくも達してゐるらしい。愛想よく二言三言はなしかけて来たが、こちは何しろお耳に入れるも恥かしいブロークンな満語だ。まあ大体のところ、日本内地からやつて来た旅行者に見立ててもらふ方針で、言葉すくなに応待するうち、向うもおよその安心が行つたものか、何やら小声で小間使とうなづき合はせると、みごとな宣化葡萄ぶどう小籠こかごをとりだして、まづ僕に取れと言つてすすめた。僕はなるべく小さな一房を選んで頂戴ちょうだいする。僕はふと思ひだした、小脇のポートフォリオの中から、ゆふべ友人の細君が「道中で召上れ」といつてれたハルビンのチョコレートの小函こばこを出し、ふたを払つてうやうやしく夫人にすすめた。
 そのへんで僕は御免かうむつて食堂へ立つたから、あとのことは知らない。食堂では昼間は禁制のビールを二本ほど、できるだけゆっくり飲んだ。帰つてみると夫人と小間使とは、たがいにもたれ合つて安らかに眠つてゐた。夫人の頭は、まるまるした小間使の肩にあづけてある。臙脂えんじ色の小沓こぐつをはいた片足は、無心に通路の中ほどへ投げだしてあつた。葡萄ぶどうかごは半ば空つぽになつて、洗面台の上にのせてある。そこで僕も安心して、こつそり窓ぎはの席にすわるとぐつすり寝てしまつた。ボーイか誰かが起してくれたと見え、僕がやつと目を覚ました時には、列車はもう大連西郊の工場街にかかつてゐ、夫人はすつかり身仕舞ひをして、廊下の窓につてゐたといふわけだ。そのまま、税関の検査のどさくさのうちに離れ離れになつたのだから、まあしごく泰平無事だつたといへるだらうね。
 所もあらうに、季節はづれの旅順なんかで、しかもそんな人気ひとけのないホテルで、その女にぱつたり再会したのだ。ちつとは驚いてもよからうぢやないか、だがそれつきり、その日は彼女の姿を見かけなかつた。夕食はやつぱり僕一人だつた。
 あの婦人はここに泊つてゐるわけではあるまいと、僕は断案をくだした。おそらく知人かそれとも良人おっとを訪ねてきて、それがゐないので失望して帰つたのだらう。もしそれだとすると、誰か僕のほかに二階に泊つてゐる人があることになる。その人が夜更けに水道の栓をひねつたり、洗面盤の水をはねかしたりしたわけだ。だがまた、その下手人げしゅにんは必ずしも泊り客でなくてもいいわけだ。二階の客の用にそなへて、ホテルでは大抵どこか二階の奥あたりに、ボーイの詰所つめしょがあるはずだ。そこにシーズン外れの時節には、コックさんか何かが寝泊りしてゐてもいいわけだ。……そんなことを僕は漠然と考へた。その女が誰を訪ねて来たかといふ点は、依然として不明なわけだが、さうさうこだはる必要もないことだつた。
 あくる日はほとんど終日、僕はホテルにゐなかつた。午前中は例の空屋部落へ行つて、だいぶ長いこと歩き廻つたりスケッチをとつたりした。それから一たんホテルに帰ると、旧市街へ出かけた。ふと目についた戦蹟せんせき巡覧のバスに、空席があるといふので、ふらりとそれに乗りこんだ。バスは、天井に大きな弾痕だんこんのあるロシヤ軍の将校集会所を振りだしに、山へ登つて、坦々たんたんたるドライヴ・ウェイを上下しながら、主防備線づたひにぐるぐるめぐつて行く。主だつた激戦地ではバスを降りて、運転手が朴訥ぼくとつな口調で説明してくれる、堡塁ほうるいやジグザグの攻撃路などが、一々丹念に復元されてゐて、廃墟といふより、何か精巧な模型の上でも歩いてゐるやうに空々しい。それなりに、肉弾といふ奇怪な言葉が、するどく思ひ返されもする。東鶏冠山とうけいかんざん北堡塁ほくほうるいや、松樹山の補備砲台は、平生へいぜいセメントや煉瓦れんがをいぢくる商売がら、つい熱心に見て廻つたが、けつきよく僕にわかつたことは、chair ※(グレーブアクセント付きA小文字) canon と human bullet と、この二つの言葉の、はつきりした区別にすぎなかつた。そのはざまから、胸にきりきり突刺さつてくる針があつた。
 午後はまた博物館へ行つた。昨日みのこした工芸品の蒐集しゅうしゅうを、何か腑抜ふぬけたやうな気持で眺めてまはつた。まあ雍正ようせいだの李朝りちょうだの青花せいかだのといふたぐひだつたが、なかに不思議なものがあつた。陳列棚一ぱいぎつしりつまつた鼻煙壺のコレクションだ。鼻煙壺といふから、まあかぎタバコの入れ物だらう。その香水びんほどの可愛かわいらしいやつが、色玻璃はりだの玉石だの白磁だの、まれには堆朱ついしゅだのの肌をきらめかせながら、ざつと二三百ほども並んでゐるのだ。これにはあきれたね。おそらく乾隆康煕けんりゅうこうきのころの宮女なんかが使つたものだらう。つい楽しくなつて眺めてゐるうち、僕はふつと例のライラック夫人を思ひだした。いや、つまらん聯想れんそうのいたづらだが、満洲に渡つて七年、僕は正直のところあれだけの美人にはついぞお目にかからなかつたやうな気がする。……

        ★

 Gは言葉を切つた。しばらく黙つてゐたが、やがてライターをつけた。タバコを吸ひつけるつかのま、Gの横顔が闇の中にうかんでゐた。どうやら笑ひを含んでゐるらしかつたが、その性質が突きとめられないうちにライターは消えた、私は無言だつた。
「僕の話は、まあこれでお仕舞なんだが」と、やがてGは言つた。――「もつとも、もし君がまだ眠気ねむけがささないといふのなら、もう一つ二つ蛇足を添へてもいいがね。」
 私が「ああ」と答へると、Gは時どきタバコの火で横顔をぼんやり浮き出させながら、次のやうな話をした。
「その真夜中のことだ。僕はがやがやいふ人声で目が覚めた。じつと聞いてゐると、どうやらそれはすぐ下の玄関先でしてゐるらしい。人数は二人らしく、あたりはばからぬ高声で何やら口論してゐる。乱暴な支那語で、もちろん中身はわからない。しばらく我慢してゐたが、やがてマッチをすつて時計を見た。四時だつた。だんだん聞くうちに、べつに喧嘩けんかでもないらしいことが分つた。ものの十五分も僕はそのまま横になつてゐたらうか。突然、どこか二階の窓がガタリとあいて、いきなり「ギギッ」と叫んだ者がある。僕は思はず跳ね起きた。一昨日の晩の、あの夜鳥の叫びにそつくりだつたのだ。僕は窓を押しあけた。洋車が二台、梶棒かじぼうの根もとのランプを都合四つ明るくきらめかせながら、静かに馬車廻しの植込みをまはつて出て行くところだつた。……ではあの高話しは、車夫が早目に来て退屈まぎれにしてゐた雑談だつたのだ。いやそれよりも僕が思はず自分の眼を疑つたのは、その前のくるまに乗つてゐるのが、ほとんど紛れもなくあの支那婦人だつたことだ。後の俥は樹立こだちの加減で見さだめる暇がなかつたが、まづこのあひだの小間使だつたらしい。とにかく女に違ひなかつた。……」
「そんなに早く、どこへ行つたんだらう」と、Gがしばらく黙つてゐるので私はきいた。
「あとで時間表を見たら、五時に出る大連行の初発があつた。それに乗ると、大連で乗換へて、奉天発北京行の特急にちやうど間に合ふことも分つた……」
「つまりその女の人は、北京か天津から来てゐたといふわけだね。ところで、その二階の窓から、まるで夜の鳥みたいな声で叫んだといふ人物は、結局だれだつたのだい。」
「知らない。声から判ずると、どうやら男のやうでもあり、また女のやうでもあつた。甲高かんだかい叫び声といふものは、その区別がつきにくいものだよ。」
「なるほど。……で君は、別に調べても見なかつたのかい。」
「そんな必要があつたらうか?」とGは反問した。思ひなしか、声が少しとがつてゐた。
「いや失敬々々。……それで君は、その女の人にまたどこかでめぐり会つたのかい。」
「いや、会はなかつた。どこの何者かも、むろん知らない。ただ名前だけは知つてゐる。それは Wei Jolan といふのだ。……あくる日の午後、僕も旅順を立つたが。出発の間ぎはになつて支配人が、忘れてゐた署名を僕にもとめたのだ。その宿帳は大型な薄つぺらなもので、まだおろしたてと見え最初のページが出てゐた。その一ばん下のところに、達者な横文字で、はつきり Wei Jolan と書いてあつた。出発はちやんとその日の日附になつてゐた。到着は僕の来た前の日だつた。アドレスは果して天津だつた。」
「なんだつてわざわざ横文字なんかで書いたんだらうな。」
「知らない。たぶん天津や北京あたりには、そんな習慣があるのだらう。国籍は民国人になつてゐたからね。」
「ウェイ・ジョーランか……いい響きだね。漢字ではどう書くのかな。」
「ジョーランは多分、若いといふ字に、蘭だらう。ウェイは、むろん魏だ。」
「え、魏だつて?……あの魏さんの魏かい?」
 返事が絶えた。私はGが闇のなかでうなづいたやうな気配を感じた。そこでやうやく、私は自分の迂闊うかつさに思ひあたつた。
「ああ、さうだつたのか。つい気がつかなかつたよ……」
 私はほかに言ひやうがなかつた。私たちの仲間で、Gと魏怡春の二人がとりわけ親しかつたことを私は思ひだしたのだ。魏がGのすぐ下の妹に恋して、結婚の申込をまでしたといふうわささへあつたほどである。そのときSなどは可笑おかしがつて、面とむかつて魏怡春をからかひなどしたものだつたが、魏さんはもちろん例の飃々ひょうひょうとした態度で、かるくあしらつてゐたものだつた。そしてGは?……そのGの胸の中を、私は今頃になつて――そろそろ髪の毛のうすくなつた今頃になつて、夜の鳥の手引きではじめて知つたのである。

底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文学界」
   1949(昭和24)年8月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
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