一 鹿野山二十咏

大正二年の夏、上總の鹿野山に遊びて、鹿野山二十詠を作る。これ歌に非ず、三十一文字の案内記也。
一  八尾やを八作やさく八峯やみね八つ塚大杉の森の中なる大伽藍哉
二  上總にて第一と聞く大寺の由來は古し聖徳太子
三  本堂の後ろの箱にとぐろ卷く大蛇をろちは左甚五郎の作
四  山頂の平地ぞ世には類ひなき西は上町うはまちひがし下町
五  山頂の東のはてぞ珍らしき九十九谷の日の出月の出
六  山頂の西の端なる鳥居崎十三州は脚下あしもとにして
七  富士筑波箱根日光關東の名山すべて一目にぞ見る
八  大海の彼方に見ゆる烟突の烟ぞ花の都なりける
九  欄干にもたれて見るも面白や東京灣の出船入船
一〇 白鳥の社に落つる涙かな日本武尊やまとたけるの昔おもへば
一一 その昔暴威ふるひし阿久留王首は討たれて殘る胴坂
一二 神野寺じんやじを南に下る十餘町山腹ゆすり落つる大瀧
一三 幾千代の昔は波も寄せにけむ鹿野の山の崖の貝殼
一四 西春日かすが東白鳥中藥師これぞ鹿野の山の三つ峯
一五 西佐貫東市宿いちじゆく草牛さうぐ南湊は山の入口
一六 臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして
一七 清澄も鋸山も富山とみさんも總房の山みな見ゆるなり
一八 鬼どもが敗れて泣きし跡と聞く鹿野つゞきの鬼涙山きなだやま
一九 盂蘭盆の夜ぞ面白き少女子がサンチヨコ節を歌ひ囃して
二〇 神木に棲みぬる烏數百羽打連れ歸る入相の鐘

        二 神野寺

聞く、深山の平地は、禪を修するに適すとて、弘法大師は高野山を開けりとかや。天下に山は多けれども、山頂に平地あるは、關西にては、ひとり高野山あるのみ。關東にては、ひとり鹿野山あるのみ。品川灣頭に出でて見よ。海の彼方に見ゆる山の中にて最も大いに、最も高きが、即ち鹿野山也。直徑十三里もあるべし。鹿野山上より東京の方を望むに、深川の諸烟突より出づる數十百條の烟うす黒く見ゆ。其中に唯※(二の字点、1-2-22)一つ一抹の白烟の帝都の空に搖曳せるあり。雲か、雲に非ず。波か、波に非ず。之を土地の人に問ふに、皆知らず。一學生あり。曰く、これ淺野セメント會社の烟突より出づる石灰抹の飛散せるなり。東京に居りては見えざれど、羽田にゆけば見ゆるなりと。
 神野寺を中心として、五六十の人家東西に連なりて、小市街を爲す。東を下町、一に閼伽井町と稱し、西を上町、一に箕輪と稱す。箕輪町に四五軒の旅館あり。眺望開く。下町は眺望開けず。砂地にして、兩側に茅屋竝ぶ。海邊の村落かとばかり思はれて、山上に在る心地はせざる也。神野寺は聖徳太子の草創と稱す。今眞言宗新義派の智山派に屬す。上總第一の大伽藍也。十間四方の本堂、仁王門をひかへ、觀音堂をひかへ、一切經藏をひかへ、鐘樓をひかへて、老杉の森の中に、燦然として光る。左甚五郎の作と稱する門を入れば、客殿宏壯にして、青苔地に滿つ。客殿の後ろに方丈あり。築山をひかへ老杉に圍まれて、瀟洒にして間寂、別天地中の別天地也。寺の執事楠純隆氏、文を善くす。余を遇すること厚し。われ方丈に起臥して日を經るまゝに、末の子の四郎の五歳になれるが、余を慕ひて、母と共に山に登り來たる。大正の石童丸は、母と共に父に逢へるなりと一笑す。

        三 演説會

鹿野山小學校の校長鴇田鹿鳴に要せられて、校舍に演説す。その晩、共に大塚屋の樓上に飮む。われ一絶を作つて曰く、
天風一陣氣如秋。人在峯頭百尺樓。笑把巨杯磊塊。酒香吹散十三州。
鹿鳴次韻して曰く、
占得人間以外秋。胸襟披盡醉高樓。風流今夜凌千古。笑見十三州又州。
 鹿野山の東北麓なる小絲村の青年會より請はれて、往いて演説す。戯れに俗謠を作つて曰く、
小絲言はれて斷られうか
  儂の思ひも鹿野山
 鎌田善一郎、松崎長治の二氏來り請ひ、當日は二氏の外、副會長の石川光次氏も來り迎へ、翌日は會長谷中國樹氏、石川光次氏、久保十三郎氏來り謝す。會長は小絲村の字大井戸にして、歡迎會を開きしは、字福岡なりければ、狂歌を作つて曰く、
聽衆が思つたよりも大井戸に
  調子に乘つて法螺を福岡
 飯野村の青年會員六十餘名、會長鈴木正作氏に率ゐられて登山し、演説を請ふ。里程は四里内外、その熱心喜ぶべし。神野寺の客殿にて演説す。狂歌を作つて曰く、
辯舌が飯野惡いの言はれても
  僕は諸君の來るを大町
 湊町の石井滿氏來りて、湊町小學校校友會に演説せよと請ふまゝに、妻子をつれてゆく。途中、鬼涙山の山腹に櫻井といふ山村あり。下り果つれば、湊川溶々として流る。櫻井と湊川と相接せるに、處は變れど、誰か當年の楠公父子を懷ひ起さざるを得むや。
櫻井の村を過ぐれば湊川
  正成おもふ津の國ならねど
 石井氏に迎へられて、其家に午食す。石井氏曰く、時なほ早し。理髮店、直ぐ前に在り。理髮せられずやと。鹿野山上、理髮店なきまゝに、われ理髮せざること久し。石井氏は見かねしなるべし。さらばとて行く。店頭の時計、一時間も進めり。あまりに進み過ぎて居るに非ずやと云へば、然り、わざと進めたるなり。今日は早く店を休みて、御演説を拜聽せむとす。仕事は今日に限りたるに非ず。先生の御演説は、今日を除きて、また拜聽するの時あらむやといふ。口先ばかりのお世辭では無きやう也。石井氏の老大人、一代にて身上を起し、鉅萬の財を積みけるが、慈善心に富みて、能く散じ、村人之を仰ぐこと神の如しなど物語るに、われ圖らずも、石井氏の由來を知り、いとゞ感激に堪へざりき。

        四 山中の一軒家

この夜、石井氏の家に宿し、翌日佐貫を經て歸らむとすれば、石井滿氏、小學校長谷中市太郎氏と共に送り來りて、湊河口の濱邊に逍遙し、終に旗亭に淺酌して相別る。佐貫にて自動車を下りて徒歩す。暑さ甚だし。四郎おくれがちにて、ぐず/\いふ。背に負へば忽ち元氣になる。昨夜の歡迎會に、五分演説を爲したる者もあり、土地の俗謠を歌ひたるものもあり。その俗謠を思ひ出して、
鬼涙山から飛んで來た烏
と云へば、背中の上にて、『鬼涙山から飛んで來た烏』、
錢のないのにかはう/\と
『錢のないのにかはう/\と』と和す。この俗謠の調子をもじくりて、
湊町から上つて來る四郎
背中の上にて、同じく、『湊町から上つて來る四郎』、
足のあるのにおんぶ/″\
と云へば、イヤ/\とて、身體をゆすりて泣聲を出す。そんなら歩けとて、背中よりおろす。又ぐづつく。又負ふ。『鬼涙山から』を歌ひ、順次、『足のあるのに』に至りて、またおろす。寶龍寺の部落を離るれば、山と山と相迫りて、唯※(二の字点、1-2-22)一條の血染川と細逕とを餘すのみなり。一軒の茅屋あり、短籬の外、溪水ちよろ/\流る。紫なる紫陽花、紅なる華魁草、水邊に相映發して、いと風趣あるに、水に汗を洗ひ、花に對して休息す。腰のまがりかけたる一老人下り來り、お茶でも飮んで行かれよといふは、この家の主人と見えたり。年を問へば、七十二歳なりといふ。山中の一軒家、さぞ寂しからむと云へば、この春、妻死して、今は獨棲の身、雨の降る夜などは、寂しさに堪へざることあり。もとこの山に牛を放養せし時、番人に雇はれて來り住みたるものなるが、牧牛の事は止まりたれど、ひま/\に開きし畑、一人食ふには餘りあり。息子ども頻りに家に歸れといひ越せど、畑が惜しさに、寂しさを怺へて、住み居るなり。あれ見られよ、あの水楊は、始めてこゝに來りし時、杖にせるものをさしたるが、あの通りに生長せりとて、指ざす方を見れば、ほゞ一抱へもありて、青々として屋を蔽へり。狹長なる畑、山崖と溪流との間にあり。この山の一木一草、すべてこの翁の一代記を語るとばかり思はれて、ゆかしくもあり、あはれにもあり。老人は話相手ほしき顏付なれど、日暮れぬ程にとて、又上りゆく。二里の路に、五時間もかかりけるが、山上近くなれば、四郎俄に元氣になり、待て/\といふをも聽かず、兩親より二三町も先きになりて宿につきたり。

        五 九十九谷

神野寺より東すれば、六町にして九十九谷に至り、西すれば、十二町にして鳥居崎に至る。神野寺に詣で、九十九谷と鳥居崎とに行けば、鹿野山の遊覽は、一と通り終れりと云ふべし。九十九谷は公園となりて、芝生ひろし。掛茶屋あり。仰げば、石磴三百級、岌々として天に朝す。其上に白鳥神社を安置す。この祠、日本武尊を祀る。鹿野山は日本武尊が兇賊を討滅し給ひたる故跡なりと云ひ傳ふ。祠に詣づる者、誰か思ひを二千年の昔に馳せざるを得むや。鳥居を後にし、芝生の中を數十間も行けば、懸崖忽ち直下す。鹿野山は、どの方面も傾斜緩漫なるが、こゝのみは峭壁となる。されど、巖にはあらずして、草をさへ帶びたれば、物凄き感は起らず。小絲川の流域は近く露れ、小櫃川の流域は、山の彼方にあり。立ち昇る朝霧に、それと知らる。眼界は百八十度にひろまり、六七里の外に達す。千山奇を爭ひ、萬壑怪を競ふ。近く尖り立てるは高宕山なり。天邊に桃の割れたるが如きは大福山なり。清澄山は烏帽子の如く、富山は二峯に分れ、一峯は草、一峯は樹林を帶びて、恰も獅子の臥するが如し。處々に村落あり、田あり、畑あり。初夏の頃は躑躅の觀、美を極むと聞く。一種パノラマ的風景として、天下にその類ひ稀なるが、われ此處に日の出を見て、其美觀に驚きぬ。月の出を見て、又其美觀に驚きぬ。秋になれば、朝霧一面に大海を現出し、數百の峯尖、島嶼となりて浮ぶの奇觀を呈すとかや。

        六 鳥居崎

鳥居崎にも、老杉の下に掛茶店あり。九十九谷にては見えざりし鋸山、こゝに來れば、近く屹立せるを見る。東京灣脚底に展開し、相模灘遠く天に接す。富津の三砲臺は、恰も巨船の如し。富士を盟主として、十三州の名山、悉く寸眸に收まる。安房、上總、下總、相模、武藏、上野、下野、常陸が所謂關八州也。天城山にて伊豆を見、富士山にて駿河甲斐を見、淺間山にて信濃を見、三國山にて越後を見る。眼界の及ぶ所都合十三州也。横須賀は近く瓦鱗にあらはれ、東京は遠く烟突の煙にあらはる。白帆坐し、汽船走る。伊豆の大島は、海上に長鯨の如く横はる。斜陽、夏は富士の右に入り、冬は富士の左に入る。九十九谷を奇觀とすれば、鳥居崎は壯觀也。九十九谷と鳥居崎とを并せ得て、鹿野山の眺望は天下の絶景也。上町に於ける旅館の眺望も、鳥居崎に彷彿たるものあり。世に眺望の佳なる山は少なからざれども、多くは足を停むべき設備なし。適※(二の字点、1-2-22)之あるも、掛茶屋ぐらゐのもの也。旅館の樓上、杯を含んで十三州を見渡すの快觀は、鹿野山の外、幾んど其類を見ざる也。

        七 神木の烏

鹿野山は砂の山也。どの方面を上下しても、一巖をも見る能はず。大瀧を見に行きしに、高さ三四丈もあり。懸崖峭立して幽邃なるが、こゝとても砂の巖也。夏は山百合一面に咲きて、山を白了す。千振せんぶりと稱する藥草も多し。鹽手といふ草、この山と日光山とのみにありて、春はその芽を食ふべしと聞く。氣候は東京に比すれば、十度以上の差あるべし。神野寺の老杉、雲を呼びて、夏あるを知らず。八月最中、鶯は時鳥と相和して啼く。神野寺の神木に棲める烏、その幾百羽なるを知らず。聞く、烏は百五十歳の壽を保つと。一群の中には數十代の遠祖もあれば、數十代の遠孫もあるべし。朝は四方へ飛び去り、夕べは四方より集まり來たる。寺にては日に唯※(二の字点、1-2-22)一度、入相の鐘を撞く。烏の歸り來るは、恰も其鐘の鳴る頃也。鹿野山上の一觀たらずんばあらず。
ゆふべ/\歸る烏にこと問はむ
  下界にかはる事はなしやと
(大正二年)

底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年11月28日作成
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