コレラが流行り出した。コレラはもう四五町先までやって来た。胃腸の弱い彼はすっかり神経を鋭らせた。買はないと云ふのに魚屋は毎日勝手口からやって来て、お宅の井戸は、と賞めながら勝手に水を飲む。用事もない奴等が出入りする度に彼は冷々した。到頭、我慢がならないので、
コレラ流行につき無用の者出入りすべからず
と一筆貼り出した。
 すると翌朝、巡査と医者がやって来た。「御宅に病人があるさうですが……」と二人は彼がまだ寝てゐるところへどかどか侵入して来た。「患者と云ふのはあなたですな。」と医者は彼を一目で判断した。
「いや、僕は胃腸が悪いことは事実ですが、まだコレラには罹ってゐませんよ。」と彼は拙く弁解した。
「それでは一つ規則ですから避病院へ入って貰ひませう。」と巡査が云ふ。
「ハハハ、一体僕がどうしてコレラなのかしら。」
「駄目だ、匿したってちゃんとこちらにはわかってる。さあ入院の支度し給へ。」
「詳しい診断ことはとにかく避病院へおいでになってからにしませう。」と医者も急かす。彼の女房はわーと泣き出した。そのうちに自動車が迎へに来る。彼は啜泣く女房と二人で自動車に乗ると、窓から見る暑い街のアスファルトがこの世の見をさめではないかと思はれた。なに、屹度直ぐに戻れるとも思った。
 避病院に着くと、彼はとんとんと廊下を通った。患者がぴんぴん歩けるので、看護婦は目を瞠った。
 ともかく16号室に入れられて、今度は違ふ医者がやって来た。
「僕がどうしてコレラですか。」と彼が抗議すると、その医者は静かに肯いた。
「まあまあ。さう興奮なさるな、四五日経過してみて疑ひが晴れれば直ぐに退院させますから。」
 彼は四五日したら、それこそほんもののコレラになりさうな気がした。ベットも天井もコレラ菌だらけの部屋のやうに思へた。
 茫として時間が長かった。そして、やうやく夜になった。睡らうとすると、隣りの部屋が急にざわめき出した。誰かの息子の断末魔らしく、低く低く喘ぐ声がつづいてゐたが、突然母親らしい声が怒鳴り出した。
「それみろ、云はないことか、あれほど殺生するなと云ったのに、お前が釣ばかししてゐたから魚の罰があたったのだ、ええッ、情ない、極道息子め!」
 そのうちに急に、しーんと物音が歇んだ。次いで今度は二つ三つの泣声がゆるく流れて来た。ふと、彼はベットから女房の方を見下した。女房もまだ起きてゐて、不思議に毅然たる姿勢を保ってゐた。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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