広子は父が出て行くと毎日一人でアパートの六畳で暮した。お昼頃父が拵へて置いてくれた弁当を食べると、絵本などを見てゐるが、そのうちに段々淋しくなって耳を澄ます。すると隣りの部屋には夜半によく夢をみて怒鳴る怕い小父さんがゐるらしいのだが、ことりとも物音を立てないので何をしてゐるのか気味が悪くなる。と、それが直ぐにむかふに通じたのか、突然隣りの小父さんはへらへらと小声で笑ふのだ。……広子は一そう心細くなって、両手で顔を掩ふと畳の上にしゃがんでしまふ。絵本で見たお化けが、その時ちらちらと目蓋の闇に現れて来るのだ。そのうちに父の靴音が廊下から段々近づいて来る。
 ――お父さん  広子は父の姿を見ると半分泣声で云ふ。
 ――おお、おとなしく待ってたね  父は広子の頭を一寸撫でる。
 ――お父さん、お父さんはまだ赤ちゃん生まないの?
 さう云はれて父は急に片腹を痛さうに抑へてみて、
 ――うん、もうすぐ生れさうなのだが、さうだね、この調子だと明日かね、明後日はきっと生れるよ。
 ――お父さんは私も生んだの?
 ――さうだとも、広子ちゃんを生んだ時はな、実に訳なかったよ。ワン、ツのスリーで生れたんだよ。
 ――ぢゃあなぜ今度も早く生まないの!
 ――うん、うん、生むとも、なあ、今夜かね、明日かね、とにかくお父さんが赤ちゃんを生めば、お母さんだってすぐに他所から帰って呉れるよ、ハハハ、お母さんがゐなくて淋しいのだらう。
 広子は頭を横に振る。父はをかしさうに笑ひながら、
――おやおや、広子ちゃんはそんなにお母さんが嫌ひかい。
――お母さんは怕いの。
――ハハハ、なあに怕かないよ。  父は一寸舌を出して変な顔をする。

 そのうちに到頭広子の父は赤ん坊を生んだ。他所から父母が同時に帰って来て、赤ん坊を父が得意さうに抱へてゐたのだから、広子は終に父がお産をするところを見損った。母は少し青ざめた顔だったので帰ると直ぐに床を敷いて寝た。赤ん坊もその側に寝かされた。部屋が急に賑やかになって、赤ん坊はよく泣いた。母は物倦さうに赤ん坊に乳を含ませながら、
 ――煩さいね。  と広子を叱るやうな口調で赤ん坊を叱りつけた。赤ん坊は一そう泣き出した。
 ――あら、厭だわ、この児おしっこしちゃったの。
 ――あ、さうか、失敬、失敬さあこっちへ寄越した。  と父は赤ん坊に代って母に詑びながら、おしめを取りはづした。広子は赤ん坊のおしっこはどんなものか、近寄って覗き込んだ。
 ――広子馬鹿! 何見てるのさ!  母が怒鳴りつけたので広子は周章てて部屋の隅へ飛び退いたが、その拍子に土瓶をひっくりかへした。
 ――この馬鹿野郎!  と母の視線は広子を射屈いすくめた。
 ――お父さん!  と広子は悲鳴をあげる。
 ――お父さんがどうしました、さあ雑巾を持って来てお拭き。
 ――あ、さうかい、失敬、失敬、なあにしろ、お父さんは赤ん坊を生んで目がまはる。
 父は雑巾を持って来て畳の上を拭き出した。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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