十歳の時の夏、構造は川端の小母の家で暮した。小母は夕方、構造を連れて畑のなかを通って、或る家の風呂へ入らして貰ひに行くのだった。湯気で上気した小母の顔が湯気の中の電燈と一緒に彼の瞳に映ったりした。帰りは月が出てゐて、畑には棉の花が咲いてゐた。
 或る日、母が来て、久し振りで見た母の顔は懐しかったが、もういい加減で家へ帰らないかと誘ひ出すと、構造は顔を顰めて駄々を捏ねた。それを二人の女は面白いことのやうに笑った。

 今度東京を離れて千葉海岸の借家へ移ると四坪の庭と風呂桶が附いてゐた。それで風呂桶を買って据ゑ、庭には何か蒔かうかと思った。何時か妻が棉売りから棉を買った時、一つまみの棉の種を貰ったのを想ひ出した。彼はそれを尋ねてみた。しかし、妻は割烹着のポケットのなかに、いろんな書きつけなどと一緒に入れてゐたのだが、何処へやったのかもう憶ひ出せなかった。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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