桃の雫

 年若い時分には、私は何事につけても深く/\と入つて行くことを心掛け、また、それを歡びとした。だん/\この世の旅をして、いろ/\な人にも交つて見るうちに、淺く/\と出て行くことの歡びを知つて來た。


 古い言葉に、この世にめづらしく思はれるものが三つある。いや、四つある。空に飛ぶ鷲の路、磐の上にはふ蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢ふ路がそれである、と。わたしたちの辿つて行く文學にも路と名のついたものがない。路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。

 あるところより、日本最古の茶園で製せらるゝといふ茶を分けて貰つた。日頃茶好きなわたしはうれしく思つて、早速それを試みたところ、成程めづらしい茶だ。往時支那人がその實をこの園に携へて來て製法までも傳へたとかいふもので、大量に製産する今日普通の器械製とちがひ、こまかい葉の色艶からして見るからに好ましく、手製で精選したといふ感じがする。まことに正味の茶には相違ないが、いかに言つても生一本きいつぽんで、灰汁あくが強い。それに思つたほどの味が出ない。わたしは自分の茶のいれかたが惡いのかと氣づいたから、丁度茶の道に精しい川越の老母が家に見えてゐるので、この老母に湯加減を見て貰つた。香も高く、こくもある割合には、どうも折角の良い茶に味がすくない。自分の家の近くには深山といふ茶の老舖しにせがあつて、そこから來るものは日頃わたしの口に適してゐるので、試みに買置きの深山を混ぜて見た。どうだらう、實に良い風味がそこから浮んで來た。その時の老母の話に、茶には香にすぐれたものと、味にすぐれたものとの別がある。一體に暖國に産する茶は香氣は高くてもその割合に味に劣り、寒い地方に産する茶は香氣には乏しいがこまやかな味に富むといふ。この老母に言はせると、おそらく深山のやうな老舖で賣る茶は多年の經驗から、古葉に新葉をとりまぜ、いろ/\な地方で産するものを鹽梅あんばいし、それに茶の中の茶ともいふべき『おひした』(味素)を加味して、それらの適當な調合から香もあり味もある自園の特色を造り出してゐるのであらうとの話もあつた。
 この茶から、わたしは生一本のものが必ずしも自分等の口に適するものでないことを學んだ。生一本は尊い。しかしさういふものにかぎつて灰汁あくが強い。新葉の愛はもとより、古葉をおろそかにしないといふことが好い風味を見つける道であらう。鋭いものはくじかねばならぬ。柔いものは大切にせねばならぬ。淡き、甘き、澁き、濃き、一つの茶碗に盛りきれないやうな茶の味がそこから生れて來る。
 頃日、太田君の著『芭蕉連句の根本解説』を折り/\あけて讀んで見た。芭蕉は本來、生一本で起つた人に相違ない。さもなくて『冬の日』、『曠野』、『ひさご』の境地から、あの『猿蓑』にまで突き拔け得る筈もない。しかし蕉門の諸詩人が遺した連句なるものを味つて見ると、芭蕉はじめ、去來、凡兆、杜國、史邦、野水なぞの俳諧が、なか/\たゞの生一本でないことを知る。

 好い手紙を人から貰つた時ほどうれしいものはない。眞情の籠つた手紙は、ほんの無沙汰の見舞のやうなものでも好ましい。それが何度も讀み返して見たいやうな、こまかい心持までよくあらはされたものであれば、なほ/\好ましい。

 わたしたちが母の時代の人達は、今日の婦人のやうに手紙を書きかはすことも、あまりしなかつたやうに思はれる。わたしは少年時代に母の膝もとを離れて東京に遊學したものであるが、郷里にある母から手紙を貰つたことが殆んどなかつた。母からの便りと言へば、いつでもあによめが代筆してよこした。今日から考へると、母が子に送る手紙を書いたこともないなぞとは信じ難い。しかし實際さういふ時代もあつた。

 昔は手紙を書くことを知らない婦人すらあつた。手紙と言へば、おほよそ定められた手本があつて、さういふ文範の教へる書き方によらなければ書けないものだと思つた人達が多かつたらしい。
 さういふ昔にも、好い手紙をのこした婦人達がなくもない。わたしはある商家の老婦人がその娘に宛てた數通の手紙の殘つたのを讀んで感心したことがあつた。その老婦人の書いたものも、『一筆しめしあげまゐらせ候』から始めて、『あら/\かしく』で結んだものではあつたが、内容は自由に、昔風な手紙の型の堅さなどはすこしもなく、こまかい心持もよくあらはれてゐて、子を思ふ母親の心がおのづからそんな好い手紙を書かせたのだと感心したことがあつた。その中には、『どうして自分の生んだ娘はこんなやくざなものばかりか』となげきかなしんだ言葉のあつたことを覺えてゐる。

 今日の婦人には最早わたしたちの母の時代のやうな窮屈さはない。婦人の教育はさかんになり、一切の舊い型は破れ、見るもの聞くものは清新に、深い窓にのみ籠り暮した昔の婦人に比べたら實に廣々とした世界へ躍り出して來てゐる。これほどの時代に生れ合せた人達が思ふことを自由に言ひあらはせない筈もない。
 ところが、わたしは身のまはりに集まつて來る諸方からの音信に接する度に、これはと思ふやうな手紙を書く婦人のすくないのに驚くことがある。何も言ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しの巧みさを求めるでもない。澤山な言葉を求めるでもない。眞情が直敍されてあつて、その人がよくあらはれてゐればと思ふのだが、さういふ手紙もすくないものだと思ふ。勿論、書けば書いたで、書かなければ書かないで、兎角物足りなさが先に立つて、わたしたちの思ふことがなか/\さう盡せる筈もないのだが、しかし相應に心も深く、生活も豐當で、逢つて話して見れば感心するやうな婦人が、どうしてこんな手紙を書くかと思つて心に驚ろくこともある。近頃、わたしはあるお孃さんが人の許に寄せた手紙のことに就いて、その話を又聞きにしたことがあつた。それを受け取つた人は、これが今の日本で最も進んだ教育を受けたといふお孃さんの書いた手紙かとさう思つたといふ。現代の人の口にのぼる問題でおよそ知らないことはないと言ふほどのお孃さんにして、どうしてそんな感じを人に與へるのか。教養と物書くこととは別の物であるのか、手紙を書くといふことも一つの才能であるのか、舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせるのか。

 それにつけて思ひ出す。曾て外國の旅にあつた頃、言葉の不自由さには自分でも苦しみ、在留する人達からもよくその話を聞かされた。國の方で語學の教師がつとまるほど外國の言葉に親しんだ人でも、一歩海の外へ身を置いた時は、靴一足注文するにもまごつくものだとの話なぞが出たことを覺えてゐる。ある人が以太利イタリーに留學したばかりの頃、その人を泊めた宿の以太利の婦人は不審を打つて、『今度日本から見えた客は不思議な方で、話をさせてはすこししか以太利語を話さないが、手紙なら實にすら/\とお書きなさる』と言つて驚いたといふ話もある。わたしたちの語學は多く眼から入る語學で、耳から入る語學ではないのだから、日常使用する些細な言葉の語彙には乏しくて、書物の中に出て來るやうなむつかしい名詞、形容詞を暗記してゐることは、しば/\外國人を驚かす。ある倫敦ロンドンの婦人は、日本から行つた留學生を前に置いて、『あなたがたは大きな言葉をよく知つてゐるが、小さな言葉を御存じない』と言つて見せたとか。どうしてこんなことをこゝにくど/\しく書きつけて見るかと言ふに、その英吉利イギリスの婦人が言つたといふ大きな言葉と小さな言葉の關係こそは、わたしたちの忘れてならないことで、一度その言葉の祕訣を會得したら、自由に思ふことも言ひあらはせるからである。これは會話の上のことにのみ限らない。物書く祕訣も、實はそんなところに潜んでゐるのではあるまいか。

 そこで、わたしは婦人の書く手紙のことに返つて、こんなことを考へてみる。成程、教養と物書くこととは別の物であるかも知れない。手紙を書くといふことも一つの才能であるかも知れない。舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせる場合もあるかも知れない。しかし、大きな言葉を知ると共に小さな言葉を知つて、その祕訣をつかんだなら、すくなくも生きた手紙を書き得るであらうと。

 現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出て來る學問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣がつかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書くほどのものは、いづれもこの小さな言葉をおろそかにしない。故福澤諭吉翁はあの通り明治初年の頃に文明論を書いた人であるが、あれほどの論文も大きな言葉ばかりでは書かなかつた。

 こゝに昔の人の書いた好い手紙の一節がある。大きな言葉ばかりでわたしたちの心が訴へられないことは、この手紙の一節を味つて見てもわかる。
『……松茸御所柿は心のまゝに喰ひちらし、今はおもひの殘るものなしと、暮秋二十八日より三十二日目に武江深川に至り候。盤子につかはされ候御返翰は、熱田は人々取り込み候へば、封のまゝにて岡崎まで持ち參り候て、窓の破れより風吹き入り、戸の透間より月泄りかゝれる、いをの油のなまぐさきよごれ行燈の前にて、御文まづ開く。なみだ、紙面にそゝり候。』
 手紙もこんな風に書けたら、どんなに樂しからう。そして、こんなに眞情が直敍されたなら、物書くその事が直ちにわたしたちの心を滿たすことであらうとも思はれる。


 新しい時代の歩みは今のところ激しく移り動いて底止するところを知らない。この趨勢は私達の日常生活から娯樂や運動の上に及び、通信交通の機關を換へるばかりでなく、印刷出版の面目をも改めつゝある。衣に、食に、住に、今日ほど新舊のものがめまぐるしく入り亂れてゐる時代もめづらしい。急激に時世後れになつて行く古い習慣がある。眼前には廢れて行く古くからの風俗がある。誰もがこの光景を目撃しながら、その感知したところのものを容易に言ひあらはせないでゐる。そこで要領のいゝ人達があつて、あるひは科學の浸潤、あるひは器械の發達、あるひは國際關係の激變、その他種々な言葉をもつて、その光景を私達に指摘して見せて呉れる。いづれにしても私達はこのめまぐるしい時代に處して、一方には近代的な施設を受け容れ、一方にはテンポの速さに應じて行かねばならぬ。これは一種の洪水だ。世界的の氾濫だ。こんな時に行き惱むもののあるのはむしろ當然で、それを見て嘲笑の聲を浴せかけるのは、無情と言はねばならない。

『無才無能にしてこの一筋につながると言つた昔の人もあるやうですが、私はそれほど自分を責めるでもなく、寢ごとを書いて暮すうちに、最早五十代を終らうとしてゐます。』
 こんなことを書いて去年の冬の『新潮』に寄せたこともある。人として行き得るかぎりを行き盡したところには、何が自分等を待つてゐるだらうかといふやうなことは、今からそれを言つて見ることも出來ない。
 しかし同じ老年とは言つても、人生の旅は一筋道ではなささうだ。去年の初秋、私はある河のほとりに沿うて山道を旅したことがある。私の降りて行く道は、やがて河の流れて行く道だ。その時、私はさう思つた。晝夜を止めずに低きに就くやうなこの水は、進みつゝあるのだらうか、それとも歸りつゝあるのだらうかと。

 私は七十歳に近い一人の老婦人を知つてゐるが、此婦人なぞのするところを見るに、物を探し物を掴まうとする日常刻々の努力にかけては、殆ど青年に異ならない。たゞ青年の探すものが好かれ惡しかれ新しい刺激を與へるやうなものであるにひきかへ、この老婦人の探すものは、若い時分に刺激を受けたものにどうかしてもう一度めぐり逢はうと思ふの相違だ。例へば變り果てた町の中を歩くにしても以前にあつた古着屋などを探し當てゝ、昔流行つた着物の殘りをなつかしむといふ風である。そこで私はこの老婦人を見る度に去年の河のほとりでの旅を思ひ出して自分に言つて見る。その年になつても休息することを知らないやうなこの老婦人は、更に人生の旅路を進めつゝあるのだらうか、それともあるところから引き返して來て若かつた時分の方へと、どん/\歸路を急ぎつゝあるのだらうかと。

 過ぐる多事な一年もさびしく暮れて行つた。曾て私は世界大戰の最中に佛蘭西を辭しヴェルダン要塞戰の始まりかけた頃に英吉利海峽を後に見て、大西洋上の危險區域を船で通り過ぎたことがある。その時、船中の無線電信室を訪ねると、遠い海上で助けを求める聲が受信機に傳はつて來てゐた。どうしてこんなことをこゝに書きつけて見るかといふに、餘日も少い去年の暮あたり、私の耳の底にある受信機には、何程の助けを呼ぶ聲が傳はつて來たとも知れなかつたからである。

 兎も角も私達は餅をつき、松の小枝を門にさし、輪かざりを軒にかけて、新しい正月を迎へることが出來た。古人も多く旅に死んだとやら。笠をかぶり草鞋をはいて年を越えると言つた昔の人は、一年に一度のかち栗、ごまめ、數の子の味をよく噛みしめることをこの私達に教へて呉れる。


 ※(「魚+陸のつくり」、第3水準1-94-44)かんむつ鮟鱇あんかう寒比目魚かんびらめなぞをかつぎながら、毎日大森の方から來てわたしの家の前に荷をおろす年若な肴屋がある。冬の魚を賣つて行く。その後には何かしら威勢のいゝ、勇みなものが殘る。かうした肴屋の聲にかぎらず、いろいろな物賣の聲には、機械を通じて傳はつて來る響にないものがある。町を呼んで通り過ぎる花屋の聲のすゞしさ、寒紅賣かんべにうりのやさしさ、竿竹賣のおもしろさ。あたりの空氣をやはらげたり引き立てたりするものは、どうしても陰影の多い人の聲にかぎるやうだ。

 ずつと以前にはわたしたちもよく聲を出したものだ。少年時代に四書五經の素讀から始めたわたしなぞは、聲を出して讀書することを樂しみに思つたばかりでなく、それを聽くことをも樂しみに思つた。わたしたちの出す聲は隨分無茶で書生流儀のものではあつたが、いくら叫んでも叫び足りなかつたやうに、わたしたちの胸から迸り出るものが、いろ/\な試みともなつたのである。

 どうも、この節は聲を出すといふことが、どの方面にも少くなつたやうな氣がする。どつちを向いて見ても、鳴りを潜めて、沈まり返つてゐるやうな氣がする。物をいへば口唇が寒いのか。吹き狂ふ世紀のつめたい風がこんなに人を沈默させるのか。

 書物に對してすら、今の私達は音讀の習慣を失ふやうになつた。默讀、默讀だ。これは自分等のやうな年頃のものばかりでないと見えて、町を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてもめつたに若々しい讀書の聲をきかない。

 先づ聲を出せ。そのことに思ひついて、音讀や朗吟の氣風を再興したいといひ出した人がある。その趣意を弘めるための試みの一つとして、最近に短歌五首と長詩一篇とを朗吟し、それをポリドオル蓄音器會社のレコードに吹き込んだ人がある。それを吹き込んだ人が土岐善麿君であるのだから、私にはめづらしく思はれた。そのレコードの半面は遠くは西行や實朝から近くは啄木までの五人の短歌一首づゝ、半面にはわたしの千曲川旅情の歌を組み合せたものであるが、發行所から寄贈されたのを聽いて見ると、自分らの青春はそんなところにも隱れてゐるかのやうな心持を起させる。あの朗吟は、それほど自然で、すこしのわざとらしさもない。耳ざはりも實に爽かである。おもしろい試みと思つた。

 滿目蕭條――寒い季節がやつて來た。さういふ中で、町へ來る冬の雨の音ほど、このわたしの心を落ちつかせるものはない。その音を聽くたびに、わたしはいろ/\なことを思ひ出す。平素は殆ど忘れてゐたやうなことまで思ひ出す。そして、この生を耐へる氣になる。

人々をしぐれよ宿は寒くとも
 南の障子に近く行つてこの昔の人の句を口ずさんで見る。雪景色が好きでよく描いたらしい王維の繪畫にあらはしてあるやうな、あの寒い遠さを一緒に胸に浮かべて見る。しぐれながらも人を訪ふものがあり、雪に濡れながらも道を行くものがある。さういふ思ひを傳へるものは、句にしても繪畫にしても、すべて親しい。それが冬の姿であれ風情であれ、底に燃える焔を形にあらはして見せて呉れるやうなものであるなら、猶々ありがたい。

 昨年度において、私の心に引かれたものの一つは、ゲエテ百年祭を機會にあの詩人を囘顧する聲のかなり賑やかであつたことである。岩波書店で發行する雜誌『思想』のゲエテ研究號を初め、わたしは自分の手の屆くかぎり諸家の筆になるものを讀むのを樂しみにして、ゲエテの研究もこゝまで深められたかと想つて見た。その人が亡くなつてから百年もの後になつて、こんなにゲエテを探す聲の聞えて來るのは、どういふわけかと想つて見た。それほどわたしたちの生活が急速な歩調で、自然から遠ざかりつゝあるためではなからうかとも想つて見た。
 大きな自然を母とすることにおいて、ゲエテはまさしく十九世紀の人である。わたしたちの求むべきものは、ゲエテの跡を求めることではなくて、ゲエテの求めたものを求めることにある。
 ゲエテの生涯になつかしいことは、あれほど險しい理路を辿りながら、しかも正しい感情を解放し得たところにある。あれほど人間的なものを愛し、また一生を通してその愛を深めて行つたところにある。

 昨年度は、市川團十郎の三十年祭といふことでも、いろ/\な催しがあり、諸家の追憶談で賑はつた。どうも非常時には亡くなつた偉人を喚び起すことが流行して、故人のやうな劇壇の偶像破壞者までを更に偶像扱ひにすることは感心しないが、しかし三十年後の今日に故人の生涯を見直さうとした幾人かの人達の眼のあつたことは心強い。歌舞伎の世界に反抗の精神を持ち來した故人が、淫靡で頽廢した江戸末期の舞臺の上の空氣に決して滿足しなかつたこと、故人の一面がその意味において歌舞伎の破壞者であつたこと、しかし故人のやうな性格の俳優は默阿彌にも櫻痴居士にも遂に『作者』を見出さなかつたことなぞが、それらの人達の眼によつて明かになつた。これを書きかけると、ふと思ひがけない人の詩の句が私の胸に浮んで來た。『こゝろざしといふものは果して幾人によつて憐まれるであらうか』との意味の句である。長く舞臺を踏んで多くの見物があこがれの的であつた成田屋のやうな人でも、やはり無言なこゝろざしを懷にして、見る人の見るまゝに任せながら、この世を過ぎて行つたであらうか。

 人間的なものであればなんでも好ましい、といつたゲエテのやうな人もある。植物からも動物からもその材料を採つて、紡ぎ、織り、染め、そして着るわたしたちの衣服こそ、どこまでが『自然』でありどこまでが『人工』であるともいへないほど調和したものの一つであらう。かういふことは、人間の世界以外にちよつと見當らない。わたしたちは着る物によつて、實に種々さま/″\なことを感ずる。新舊の悲喜劇は着物からも起る。假令たとへ食ふ物をすこしぐらゐ減らしてまでも、着る方に浮身をやつすといふ人さへある。それを思ふといぢらしい。

 小紋といふ染模樣は、今はすたれたが、わたしの青年時代までは年若な人たちが好んで着たことを覺えてゐる。ひとり年若な人達ばかりでなく、年老いた男でも女でも昔はよくあれを着たものであるとか。小紋は鼠地を本色とするといふ。こまかい粉のやうな雪を一面に散らしたやうな意匠の染模樣は、白と鼠色との好ましい調和だ。染色が化學工業の時代に移つてから、好い鼠色を出すことの困難なため、小紋も次第に染色の世界から隱れるやうになつたと聞くが、あゝいふおもしろい意匠が往時の流行にとゞまり、もう一度歸つて來ないのは惜しい。

 わたしの家には今、埼玉の冬を避けに出て來た川越明仁堂の老母がゐる。この年とつた婦人が自分の父親から聞いた話だとして、小紋の染模樣の意匠を遠く在原業平の昔にまで持つて行つて見せた。老母の口吻によると、業平はよほどの洒落者であつたと見えて、鼠地の衣裳の上に白い雪の降りかゝつたのをおもしろく思ひ、それを模樣に染めさせたのが、そも/\の小紋のはじめであると、その道の人の間にいひ傳へられて來たとか。業平小紋なるものがそれだともいふ。この話をある人にしたところ、かういふことには兎角附會の説が多いから、業平小紋もおそらく傳説的な形容の言葉であらうと言つてゐた。兎もあれ、小紋を着るに最もふさはしく思はれるのは冬の日だ。雪やあられと同じ灰白な色調を着て徘徊した時代もあつたと考へて見ただけでも、そこにいひあらはしがたい風情が浮んで來る。

 近江と美濃の國境には寢物語の里の名が殘つてゐる。兩國の村里が相接して、國と國との寢ものがたりする趣のあるといふところから、その名がある。めづらしく思つて、以前にもわたしはさういふ村里のあることを物のはしに書きつけて見たこともある。木曾路名所圖會をあけて見ると、あの邊が東山道の街道筋に當るところで、左右に見える近江と美濃の山々がたけくらべする趣のあるところから、別にたけくらべの里の名も殘つてゐるといふ。名所圖會にはあの村里の圖も出てゐるが、それを見ると兩國の境は壁一重といつてもいゝ。一方に美濃の兩國屋といふ休茶屋があれば、一方には近江の境屋といふ旅籠屋はたごやがある。さういふ民家が軒を並べてゐる。兩國のものが相往來し、互に寢物語りも出來さうなところである。

 さういふわたしは、信濃と美濃の國境に生れたところから、殊にあの寢物語の里のやうな土地柄には特別に興味を覺える。わたしの郷里では、國も違へば言葉のなまりまで違ふものが山一つへだてながら隣合つて住んでゐる場合であつて、村と村とがそれほど接近した位置にあるわけでもない。でも、美濃派の俳諧は古くからわたしの郷里に流れ込んで來てゐるし、わたしの村に生れた古い畫家の筆は隣國にある人の家のふすまや屏風を飾つてゐる。こちらから嫁にも行けば、向ふから養子にもくる。國の境もそこまで行けば、ほとんど境なきに至る。兩國のものは一切の相違を忘れて、互に混り合ひもすれば、許し合ひもしてゐるのだ。


 改造社から出版された日本文學講座はすでに第十四囘の配本を終り、和歌文學に、物語小説に、隨筆日記に、俳諧文學に、その他明治以來の新しい文學等に、一大文學史の觀あるこの講座もまさに完成されようとしてゐる。わたしは筆執り物を書くものの一人としても、この講座編輯者が骨折と苦心とに對しては感謝の意を寄せたい。これほどの講座は明治年代にはあらはれなかつたもので、わたしたちとしても益を得ることが多かつた。一方からは、明治年代以來の準備期を經て、諸家の研究がこゝまで進んで來たことを語つてゐるとも言ひ得ると思ふ。一つの例を言へば、安江不空氏が在原業平の研究のごとき、伊勢物語の歌を採つて業平の人物のすべてを推斷せんとするごときは至極の危險であるとなし、朝臣あそんが自歌と認むべきものはごく少數であるとなし、その正調と目すべき數首の歌を擧げ示されたなぞは、たしかに有益な文字であつた。さらにまた一つの例を言へば、英文學に造詣の深い土居光知氏が比較研究の立場から平安朝の日記文學について記述された一篇のごとき、伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記等の文體を探つて、國文の創造とその組織にまでさかのぼつたことは、これまた有益な文字であつたと思ふ。

 さういふわたしはこの講座の編輯者に約束して、自分の愛する日本文學ともいふべき題目のもとに、いさゝかの感想を寄せたいと思つてゐたが、長い創作の仕事を控へてゐる身には、思ふやうにその約束も果せない。こゝには胸に浮ぶことを順序もなくしるしつけるにとゞめる。

 遠い萬葉時代の古は想像も及ばないが、奈良朝美術のさかんな頃であつた當時の社會の空氣を想ひ、海のかなたは黄河の流域にあるものと楊子江の流域にあるものとの完全な統一と調和とに達したと言はるゝ唐時代であることを想ひ、その高潮に達した支那文化がこの國に及ぼした刺激と影響とを想ひ、大陸より歸來する遣唐使又は渡來する佛僧工人等の活動なぞを想ひ見ただけでも、歌人としての人麿はたしかにおもしろい時に生きてゐたと考へられる。
 ひとり唐土との直接な交通にとゞまらない。同じやうに内地の交通がひらけ、わたしの郷里に當る岐蘇きそ山道のひらけたのもまたあの萬葉時代であつたと考へて見ることも樂しい。當時の宮廷といひ、君臣の關係といふものも、後の平安朝時代とはよほど趣を異にしたものでなかつたらうか。天皇が群臣をしたがへて遠い山野の狩に出かけられたすゞしい光景は、萬葉集中の諸作にもうかゞふことが出來る。いかにものび/\として、こだはりのない當時の人達の氣象が思ひやられる。
ひむがしのにかぎろひのたつ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
 この人麿の歌が生れて來てゐるのも偶然ではない。

 奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係は、どうもまだわたしにははつきりしないところがある。飛鳥あすか朝時代のことはしばらく措くとしても、藤原宮に遷つてから五年目に成つた藥師寺の佛教美術と、人麿等の和歌とはどういふ關係にあるだらう。古代の佛教が人麿等の文學に影をさしてゐるとは、どうも思はれない。それのやゝ感じられるのは萬葉時代も憶良や家持に降つて行つた頃である。萬葉集の中には、博通、通觀、滿誓、惠行、妙觀、その他の僧尼の歌をも納めてあるが、いづれも生き、愛し、死ぬる存在に、まともにぶつかつて行つた歌のやうである。後世の無常觀などで萬葉盛時の文學を律するのは至極の危險であるやうだ。
 わたしはもつと奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係を考へて見たいと思つてゐる。それには先づ平安朝以後の時代の尺度を捨てねばならぬ。圓滿で美しい希臘ギリシヤ美術にも比較さるゝ奈良朝時代のそれとの關係を考へて見ることは、やがて萬葉集の文學の讀みを深めることになる。

 人麿は唐の李白、杜子美、及び王摩詰などの諸詩人に先立つてあの和歌を完成して行つた人のやうである。支那大陸の文學が李杜王三家を得て詩の最高潮に達した頃は、これを萬葉の諸歌人にあてはめて見ると、憶良あたりの時代にあたるかと思ふ。

 奈良朝から降つて平安朝に移ると、すべてのものが變つて行つたやうに見える。尤も、これは一朝一夕の變化ではなく、奈良朝も末になつてあの大伴家持がこの世を去つた延暦年代の頃には、すでに宮廷の事情も變り、君臣の關係も變り、寺院や僧侶の位置も變り、農兵の關係も變りつゝあつたばかりでなく、海のかなたより絶えずこの國に大きな影響を與へた大陸そのものすら變りつゝあつたやうである。さういふ中にあつて、ひとり日本の文學ばかりが舊態を保つてゐる筈もない。人の心が大陸的であつた時は過ぎて、同じ大和精神やまとごゝろでもそのデリケエトな方面をあらはし來つた時がそれに替つて行つたやうに見える。

 僧最澄は唐土から歸朝して天台宗を傳へ、空海は歸朝して眞言宗を傳へた。これは新しい都の平安京に遷つた十二三年後のことであり、同時に印度及び支那方面に於ける創造的精神の變遷を語るものであるといふ。肉體を苦しめる難行苦行と、肉體的な歡びの崇拜と、その兩極端の不思議な結びつきは、密教の輸入以來のことのやうにも見える。平安朝時代の文學に、後になればなるほど多くの肉體的な歡びと迷信とをみつけることも、その由來する源は深いやうである。これはこの國に於ける佛教の信仰が印度教の大きな影響を受けるに至つた以後のことではあるまいか。

 貫之の土佐日記なぞを見ると、男のする日記を女もして見ると言つてあり、當時男のもてはやした文學が憶良の『悲傷亡妻詩』の序や、または家持の大伴池主に報いた詩の序の延長のやうな漢文口調のものであつたらうかと想像すると、支那文化の影響も大きいといふ感じがする。貫之なぞはそれに對して大和言葉のために戰つた人と言つていゝ。
 一體、平安朝時代は、前代の大陸的な時代とも違ひ、徐々に國民的なものを打ち建てゝ行つた新時代であるとも言はるゝ。しかし、これは壓倒的な大陸の影響と戰ふことに依つてのみ成し就げられて行つたことを忘れてはなるまい。そこには幾多の大陸の惡影響がはびこつてゐたこと、又、唐土そのものもすでに萬葉時代に交通した唐土ではなかつたことをも想ひ見ねばなるまい。

 わたしは山口隆一君より贈られた一册の過海大師東征傳を愛藏してゐるが、過海大師とは奈良招提寺の鑑眞和尚の事で、この唐僧が佛法の戒律を傳へに來朝したのは、平安遷都より三十年ほど前にあたる。
 芭蕉の『おひ小文こぶみ』を讀むものは、あの中に鑑眞和尚のことに關した記事を見つけるであらう。芭蕉が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌浦の方を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃で、その折に招提寺を訪ね、鑑眞和尚の像を拜んだとある。人も知る『若葉しておん眼の雫ぬぐはばや』の芭蕉の吟は、この盲目な唐僧の像に對してである。
 こんなことをこゝに書き添へて見るのも、他ではない。鑑眞が幾多の途中の困難と戰つた後で、漸く薩摩の國の港に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺に入つた時は、宰相、右大臣、大納言已下の官人百餘人の訪問を受け、吉備眞備は正四位下朝臣の格で勅使として訪ねて來るほどのもてなしを受けたとのことであるが、この唐僧が東征の志を果して自己の周圍に見出したものは何かといふに、それは實に當時の佛教が早くも政治的な黨爭の渦中に卷き込まれてゐたことであつたといふ。

 在原業平は貞觀時代の人である。その時代を念頭に置いて、それから朝臣の歌に行くと、あの多感な歌人の位置もいくらかはつきりして來るやうに思はれる。おそらく新時代の先驅となつたほどの人でその周圍と戰はなかつたものはあるまい。

 業平はわたしが好きな古人の一人だ。あの和歌の高い香氣は、おのづからにしてロマンチックなものだ。朝臣はさびしい道を歩いた人かも知れないが、そのかはり後から歩いて來るものを喚び起した。もし朝臣のやうな人が後の平安朝時代の諸歌人のために新しい道を開拓して置かなかつたら、と考へて見る時に、あの古人の足跡の深さがわかる。

 こゝですこし支那文學の影響といふことをも書きつけたい。平安朝時代に於けるその影響は今更言つて見るまでもないが、しかしそれがどの程度のものであつたらう。清少納言の枕の草紙なぞを見ても、いかに當時の人達が白氏文集を愛したかはよくうかゞはれるが、それが李杜王三家に及んでゐたとは、どうも思はれない。これは李杜王三家に見るごときおごそかな氣魄を掴むといふことよりも、むしろもつとものやはらかな情緒に就いた當時の人の心の傾向を語るものであらうか。あたかも古代佛教徒の男性的な鍛錬から離れて、もつと易く行ける道に就き、阿彌陀の名をとなへ、空也の念佛に餘念もなくなつたのと、その趣を同じくしてゐるとも言へるであらう。

 北條氏時代に於ける蒙古人の襲來(元寇)は歴史上最も注意すべき大きな出來事の一つである。あれからいろいろなものが變つて行つたであらう。あれはわが國にとつての大きな出來事であつたばかりでなく、支那全土に亙つて大きな破壞を持ち來したものであらうとも思はれる。わたしは、大痴山人とも言ひ黄鶴山樵とも言つた王蒙が蒙古人の支配の下に忍耐してあの藝術上の仕事を仕上げて行つたことを想つて見る。再び漢民族の世となつて頭を持ちあげた石濤にしても八大山人にしても皆あの王蒙の仕事を受け繼いだ人達であつたらう。一概に東洋人の藝術を消極的、隱遁的であるとして、その底に光る涙を見ない人は話せないやうな氣がする。
 應仁元年に四十八歳で明に渡つた畫僧雪舟が大陸に見出したものは、その大きな破壞の過ぎた跡で、そこには江南に發達した宗教と藝術があり、遣唐使時代の昔に思ひ比べたら、全くの別天地ではなかつたらうか。

 いろ/\書きつけて見たいことは多く、文藝上の近代のはじめを足利時代に置き、支那より禪僧雪舟なぞの歸來するに及んでロマンチックな一新時代の開けて來たのがその近代のはじめであるとする岡倉覺三の意見も紹介したく、徳川中期から明治年代へかけて明清あたりの先入主となつた大陸の影響で東洋的なもののすべてを推斷するのは避けたいことなども語りたいと思ふが、こゝには盡せない。

 古い佛像に、眼を三つ具へた相好さうがうのものがある。どういふ製作者があゝいふかほかたちを考へ出して、それを佛像に刻んだものか知らないが、一つの眼は眉間みけんのまん中から上に縱について、額のところに光つてゐる。ちよつと考へると、氣味の惡いものだ。何か怪物の異相のやうにも思はれるものだ。しかしさうでない。あの眼こそ、第三の眼といふものであらう。それを形にあらはしたものであらう。
 愚かなものでも、第三の眼を見開くことが出來る。だん/\この世の旅をして、いろ/\な人にも交つて見るうちには、いつの間にかあの眼で物を見ることが出來るやうになる。あの眼は、いつたい何を見る眼か。

若葉して御眼の雫ぬぐはばや
 これは芭蕉が奈良の招提寺を訪ねた時の吟である。翁が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌の浦の方を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃であつたといふ。その招提寺に翁は鑑眞和尚の像といふものを拜んだ。翁が『雫ぬぐはばや』と吟じたほど心を打たれたといふのも和尚の眼であるが、この眼がまた、たゞの眼とも思はれない。そのことをこゝに書き添へる。
『笈の小文』といふは、その折の芭蕉翁の紀行である。その中に、『招提寺、鑑眞和尚來朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御眼のうち鹽風吹き入りて、終に御眼めしひさせ給ふ』とあるのが、それだ。鑑眞和尚の傳記によると、實際は日本への航海の途中に失明したものでもなく、和尚がこの國へ向けて出發する以前に、この準備を心掛ける頃にすでに盲目の人であつたといふことである。おそらく、そのまぶたのぬれない時はなかつたほど、涙の多い生涯を送つた人とも思はれるが、一方にはその盲目が反つて物を明かに見る別の眼を見開かせたであらう。

『舟の上に生涯を浮べ、馬の口をとらへて老を迎ふるものは、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。』
『奧の細道』を讀んだほどの人で、この昔の教師の言葉から旅の意味を教へられなかつたものはあるまい。背に雨具、筆、墨のたぐひ、あるひは夜の防ぎにもと紙布、ゆかたの類までも用意して百里二百里の道を踏んだといふ頃にわたしたちの心を馳せるとしたら、そして初しぐれの來る季節を想像し、山茶花なぞの咲く宿々を想像するとしたら、旅人と自分の名を呼ばれようと言つた昔の人の姿がおのづとそこに浮んで來る。

 朝を思ひ、又夕を思ふべし、とか。昔の人に取つてこそ、旅も修行ではあつたらう。前途百里の思ひに胸が塞がると言ひ、日々の道中に雨風を厭ふと言ひ、旅は九日路のものなら十日かゝつて行けと言ふほどにして、思はず荒く踏み立てる足まで大切にするやうな昔の人の心づかひは、今日旅するものの知らないことである。思へばわたしたちの踏む道は變つて來た。多くの人に取つて、旅は最早修行でもない。電車、自動車は一ト息にわたしたちを終點地へと運んで行く。今のわたしたちには、雨具を背にする必要もない。笠を日に傾け、夜の防ぎとなるものを肩に掛けるやうな必要もない。わたしたちはひたすら前進する力の速さをたよりとして、目的とするところへ到着することをのみ考へるやうになつた。

 今のわたしたちの周圍には、動搖のうちに靜かに立つものがないでもない。波の上にある舵手、海岸にある燈臺守、鐵道の側にある線路番人、町にある交通巡査なぞがそれだ。これらの人達の信號や相圖を必要とするほどに、わたしたちの旅は急がしく、めまぐるしくなつて來た。わたしたちは必要に應じて、實に瞬間に物を見定めたり、判斷したり、決定したりしなければならない。

 こんなにわたしたちの生活は變りつゝある。わたしたちが現にこの世の旅から學ぶものは、これを過去の人達に比べたら、何といふ大きな相違だらう。

 金錢は重要な交通機關ではなからうか。わたしは金錢の本質をさう考へるやうになつた。言語もまた重要な交通機關ではなからうか。わたしは言語の本質をもさう考へるやうになつた。交通の持ち來す變革がこんなことをわたしに教へた。

 いつぞや郷里の方へ歸つた折に、八幡屋といふ家に殘つた古い町人の覺書を見つけた。今の八幡屋の當主は村醫者であるが、その先祖は通り名の蜂谷源十郎で知られた地方の町人であつた。わたしが見つけた覺書は、その二代目蜂谷源十郎の殘したものである。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。

 わたしの郷里の方のことで言つて見ても、純百姓の家に殘つてゐる古い記録はあまり見當らない。彼等にそんな暇がなかつたためかと言へば、さうばかりとは思はれない。農閑期といふものもある。彼等に文字がなかつたためかと言へば、これまた、さうばかりとは思はれない。彼等の中には百姓總代なり組頭なりとして、隨分宿村の相談にあづかり、相應に文字を解する人はゐた筈である。こんなに百姓が書いたものを殘さないといふは、全く彼等のたづさはる仕事の性質によることであらう。多くの百姓は僅かに古い小遣帳ぐらゐを殘し、その長い苦鬪の歴史をも、土に親しんで見た多年の經驗をも、或は老後の思ひ出をも、あまり筆にはしなかつたもののやうである。
 そこへ行くと、町人の中には隨分筆まめな人もある。わたしの郷里も今では全くの農村であるが、以前は東西交通の要路とも言ふべき街道筋に當つてゐたから、その驛路時代に三十歳の頃から七十二歳の晩年まで、四十年間殆んど一日も缺かさずにと言つていゝくらゐの日記を殘した町人もある。これは百姓と町人との生活の相違によることは勿論であるが、一つには彼等町人が帳場格子の前に坐り、帳面をくりひろげ、硯箱を引き寄せ、自然と筆に親しむ機會も多かつたところから來てゐよう。今から百四十餘年ほど前に、蜂谷源十郎の殘した覺書も、やはりさうした町人の手に成つたものの一つだ。
 もとより、これは一町人の覺書に過ぎない。然し源十郎がその子に宛てたもので、他人に見せるために書いたやうな性質のものではない。それだけ本當のことも出てゐて、徳川時代に於ける町人が私生活の奧も窺へるかと思ふ。半紙二つ折りの横綴の古帳に、事細かく、當時流行つた御家流の書體で達者に書きしるしてある。天保三年、源十郎五十歳の頃の覺書である。
 源十郎は先づその子に宛、先代の隱居のことを語つてゐる。八幡屋の普請をはじめたのは、その年から數へて二十五年前、すなはち寶暦七年のことで、當時隱居は六十五歳、二代目源十郎としての彼が二十五歳の時であつたと言ひ、それから土藏、米倉、小屋、その他の建物を造るためには五六年の間かゝつたが、それらを成就するまでの隱居の辛勞は日々しばらくも彼には忘れられないと語つて見せてある。
 この源十郎に言はせると、彼は兄弟四人の末子に生れた。もと/\馬籠まごめ(わたしの郷里)なぞは至つてひどいところで、古から困窮な宿であつたから、有徳者と言へるほどの者なぞ一向になく、彼が子供の時分に一分か二分の金を借りるにも隣宿の妻籠つまごか美濃の中津川邊でするくらゐのところで、中津川備前屋の親仁おやぢ伊左衞門なぞは師走しはすの月にでもなると馬籠下町の紋九郎方に來て十日あまりも滯在し、町中へ小貸しなどして、それで漸く宿内のものが年の暮の始末をしたやうなところであつた。隱居のはなしにはよくそのことが出た。さういふ土地柄で隱居は四人も子供があつたから、心勞も一通りでなく、それに馬籠は街道筋といひながら町並の家居も惡いところだから、どうかして家を建て直したら旅人の泊り客も多からうとの考へから、その經營に取りかゝつたが、さて、その建直しを成就しようとなると古金で六十六兩の借金が出來た。これは大借ではあるが、まだその頃は隱居も四十になるやならずのことであり、なにとぞして精出し、神佛に非禮な行ひもしなかつたら、志の成し遂げられないこともあるまいと考へ、子供をも路頭には立てまいとの念願から、更に隱居の奮發となつた。言つて見れば、山家での朝の草刈りも、青草を見かける頃から、九月、十月の霜をつかむまで、毎朝二度づゝは刈り、晝は人並に農業を勤め、晩は泊り客を第一にした。その間には、すこしづゝ米商ひもして、殊に八幡屋は蜂屋から分れた家ではあつたが、その元をたゞせば一旦打ち絶えた宿役人の家柄ででもあつたと見えて、年寄役をも勤めた。そんなところから隱居は出發して、漸く彼源十郎が少年と成つた頃にはすこしは勝手も※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、ます/\隱居の精出したことは彼もすこしは見覺えてゐると言つてある。
 こんな境涯の中で、四人目の彼への心當てなぞは思ひもよらないことであつた。彼はそれを言つて見せて、それでも兄弟は追々と一人づゝ片付き、末子の彼までが町中に家を持つ迄の隱居の辛苦は、なか/\言葉にも筆にも盡しがたいものがあつたといふ。馬籠なぞでは、代々總領は親の仕來つたやうに、百姓は百姓、駕籠かきは駕籠かき、それも長男と生れたもののみが親の仕事を繼げるのであつて、次男からは十三四歳の頃より奉公し、二十四五歳にもなつて己が引き合ふ女房も出來る頃には、自前で漸く賃取り仕事にもありつくやうなものであるが、末には我が生地にも居られないで、後に雲助となつたものもこれ迄には數多くある。のみならず、親の心からは、相續の子よりも反つてさうした次男三男の方に一段の不便ふびんも増さう。それを思へば、一生親の胸を傷め、かた/″\不幸なものはその數を知らない。たとへ實體じつていに勤めたところで、彼の如く末子に生れたものは、成身しても七里役(飛脚)か、馬追、駕籠かきと極まつた身分の時代にあつて、兎にもかくにも彼は例外の仕合せを兩親の側に見出した。しばらくもその冥加みやうがを彼が忘れたら、生れ得たまゝの馬追か駕籠かきで生涯を終るか、それも恥づかしくなれば遠國へでも走り、非人乞食の仲間入りより外なかつたであらう。そこまで源十郎は覺書に書いて來て、更に『その方ども』といふ昔風な言葉でその子に呼びかけ、お前達はその末子の自分の子供で、言はゞ末の末のものである。東西を知る頃より草刈奉公にも遣はすべき筈のところ、隱居の御蔭で、われらが身分にも過ぎた成し下され方といふものである。冥加のほども恐ろしい。自分としてはしばらくもそのことを忘れないが、元來お前達は得生もすくなしのくせに、口悧巧で人に出過ぎ、殊に馬籠は人少なのところゆゑ、われら如きのものまでが宿方の役人を勤めるところから――尤も、自分としては、日々わが身の『俗生』を顧みはするものゝ、自然と人の敬ふにつけて自分等の本を忘れ、兎角人目にあまることは、漸くこの五十の歳に及んでそれを知つたとも言つてある。
 源十郎は又、すでに他へ縁付いてゐる娘のことをも、この覺書に書き添へることを忘れなかつた。
『その方どもは、わけて女子兄弟とては一人のことにて、殊に母早世ゆゑ、成身に隨ひ追々便りなからんと、われらとても一入ひとしほ不便にぞんじ申し候。縁付き候ても子持ちのことにこれあり、且は年頃にても女子は親の家へ遊びに參るを樂みにいたし候よし世間にてほゞ承はり候へども、母なきところにては是等のこと一人の娘不便の事に候。なにとぞ、兄は兩親に成り替り、隨分目をかけ呉れ候やうにとぞんじたてまつり候。たとへ、一段不便をかけ候ても、兄は姉程には心安くなきものに候へば、これらのところをも考へ、たゞ何事も神佛ならびに先祖の御蔭によることを思ひ、しばらくも冥加を忘れず、御禮申し、家業第一に相勤め申すべく候。』
 この覺書の末には、折ふしは兄弟うち寄つて慰みにこれを一覽するがいゝといふやうな、優しい言葉も殘してある。

 源十郎がその子に殘さうと思ひ立つた覺書は長いこと心掛けたものらしく、明和九年、彼が三十九歳の頃に、すでにその下書をつくりはじめ、五十歳の頃になつて更に筆を加へた部分もあるらしい。それほど彼は初代八幡屋の父が出發當時のことを忘れさうな子孫の末を案じたらしく思はれる。
 それから三年後、天明六年の六月十二日の日附で、彼は今一通の別な覺書をつくつた。『御隱居御存生の中の御咄おはなしあらまし覺書』として、やはり前のものと同じやうな半紙二つ折りの横とぢの古帳であるが、それには、
『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にてひまに候間、覺書いたし候――源十郎五十三歳記す』
 とある。これを見ても、二代目としての彼は父の隱居の仕事を幾倍かにひろげ、五十三歳の頃にはすでにかなり大きな造り酒屋に坐つて、その子に酒の一番火入でもさせ、越しかた、行く末を思ひながら、後の覺書をつくらうとするやうな人であつたらうと思はれる。

『八十年來の浮世の思ひ出、すべて思ひ出し/\、あらまし書きつく。』
 これは源十郎が後の覺書のはじに書き添へた言葉だ。五十餘歳にして、八十年來の浮世の思ひ出とは異樣にも聞えるが、おそらく彼は八十歳の老齡までも生きてゐた人で、後から/\思ひ出し/\、書き足した部分もあつたのであらう。前後二通の覺書は、彼が長い年月をかけて、その子のために用意して置いて行つたものと見ていゝ。殊に、後の覺書は前のものの不足を補はうとして、多少重複したところがなくもないが、一層こまやかに、心を籠めて書いてある。
 もう一度、源十郎のやうな町人をして、彼等自身をこゝに語らせたい。彼に言はせると、自分等は代々の百姓で、先代より困窮のよしにうけたまはつてゐるが、兩親が追々の骨折りで當時安樂に暮すやうになつた。これは、まつたく先祖と兩親との御蔭である。自分が若年の頃から朝晩の咄にうけたまはつたところによると、隱居は十八歳で身上しんしやうを受け取り、蜂谷の名跡みやうせきをつぎ、馬籠宿の年寄役を勤め、二十八九の頃に八幡屋の普請をしたが、困窮の際であつたから農業にも精出してやつた。母人はまた母人で、この隱居を助けて、夜通し普請の折の木の片をとぼし、それを油火に替へたとやら。その頃、母が片手間の商賣には豆腐屋をして、夜通し石臼をひき、その間には三四人の子供をひかへての辛勞から、夜一夜安氣あんきに眠つたこともなかつたといふ。新宅のことで、夜番の燈火あかりを表にあげる時には、毎朝々々夜明け前の軒行燈のきあんどんの下掃除をして置いて、その油布巾で戸障子の敷居などを拭いたものであつたともいふ。若年の頃からこの彼が耳にしたところでは、當家八幡屋、本家蜂屋の普請より三十七年目、すなはち寶暦八年に普請工事に着手し、翌年落成して家を移したといふことであるが、それから隱居は十九年も存生であつた。初代としての隱居が出發當時のことを言へば、田地を仕立てるにも、芝草用意もなりかねるところから、麥ですこしづゝ刈り作り、その頃本家蜂屋では隣村湯舟澤から來る人足の宿をしてゐたところから思ひ付いて、その馴染の人達から米三斗づゝ内證で借り受け、それを食米に宛てた。そして秋米で四斗づゝ返すほどに苦心した。これとても彼の祖母が口をきいて、隣村の人足達に特に頼んだから出來たことであつたといふ。
 初代夫婦はこんなところから出發した。さうして旅籠屋ならびに農業に精出したところ、元來馬籠はひどい片田舍で、他に綺麗な家もなかつたため、新宅と言つて泊る人も多く、殊にその心で挨拶なぞにも意を用ゐたために、追々常得意の客もつき、小女も置き、その奉公人の給金も最初の三分を翌年は一兩にしてやれるほどになつた。そんなふうにして追々と勵むうちに、飯米も一升買のものは一俵にし、後には隣國の中津川から馬で呼ぶやうになり、そのうちに少しづゝ商賣などもして、次第に今日に至るやうになつたとは、彼の兩親夫婦が折々の咄であつたとか。
 源十郎はこの覺書をつくるにつけても、自分等の暮し方、心の持ち方、町人としての身分、氣分、それから子供の育て方なぞを何くれとなく考へて見て、先代と今日とでは譬へも及ばないほどの相違であることをその子に言つて見せてゐる。彼にして見ると、第一朝夕の勤め方が大した相違である。すべては時に隨ふことではあるが、よその附合なぞも目立たないやう、その堪忍もして出來ないことはなささうなものであるに、當時は下着に郡内縞、又は時花小紋、上には縮などの羽織を重ね、袴、帶、腰の物までそれに順じ、さながら知行取りか乘物にでも乘りさうな人柄に見えるのを好い人體にんていと心得、その身は猶更、親々までが元を忘れて、自然と先代からの奢りを増長することになる。これでは、三代目か四代目には登り詰めるか、下るか、いづれはどうしやうもない身分となるに相違ない。これは元を忘れるといふもの。得生の百姓達の身分には、あるまじきことである。そんな風に、元を忘れ、奢りに長じたら、おのづから上を恐れず、人を侮り、正しきものの味方から背き去るやからも出て來るものである。彼はそのことを懇々と説いて、自分の子には折節は相集まつて互に過分な風俗を改めさせたいと言つてゐる。得生の元に歸れ、そのことを心に忘れずに、身分、氣分を定めたいものであると教へてゐる。亭主たる名跡でよそへ出掛けるにも、常の式日には綿布ばかりとするがいゝ。夏は布羽織、格別の節は糸縞。上着は紬までに定め置いて、それより上等の衣類などは用意に及ばないと考へよ。萬事内輪に勤める方が、何事につけても安氣に思はれる、ともその子に教へてゐる。
 彼は後の覺書の終りに、次のやうな意味の言葉をも書いた。
『人々の得生、もとより天より下さるゝことであれば、親の自分が言ふやうに子に行へと求めるのではないけれども、先祖より讓られた家督、諸道具、その他すべての物――天よりの預り物と心得て、隨分大切に預り、入念に扱へば間違ひはない。今、日の本の一つの寶なる金銀、みだりにそれを我が物と心得、私用に費さうものなら、いつかは天道へ泄れ聞える時も來る。』
 源十郎の覺書はその言葉で終つてゐる。
 これを讀むと、源十郎はたゞ親から讓られた身代をよく護れといふやうな、ありふれた町人根性でのみこんな覺書をその子に殘した人とも思はれない。すくなくも彼は『天』といふことを考へた町人のやうだ。『得生の元に歸れ』とは、彼の覺書を貫く言葉である。心から出た汗のやうな言葉である。四人の子供を控へた初代源十郎夫婦の小歴史は、馬籠のやうな困窮な村にあつて激しい生活苦と鬪つた人達の歴史とも言へよう。彼のやうに少年時代からその兩親の苦鬪の跡を見て來て、だん/\この世の旅をし、いろ/\な人にも交つて見たものは、『日の本の一つの寶なる金銀、みだりにそれを我が物と心得、私用に費さうものなら、いつかは天道へ泄れ聞える時も來る』と言ふやうなところへ出て來てゐる。金銀、財産、諸道具、その他一切は、天よりの預りものと考へよ――この考へは、さうめづらしいことではないかも知れないが、彼のやうな町人の口からその言葉を聞くことはおもしろい。兎にもかくにも、彼はその年になつて見て、何物をもみだりに私すべきでないといふところに行き着いた。昔の町人の中には、かういふ人もゐたと考へて見ることも、またおもしろい。

 もし今の世に笑を持ち來す人があつて、詩歌小説であれ、繪畫彫刻であれ、演劇であれ、あるひは映畫であれ、何等かの形によくそれをあらはして見せて呉れるなら、どんなにわたしなぞはそれを見ることを樂しみにするだらう。
 誰でも人間の笑顏を見たいと思はないものはない。もし又、その笑が冷たいものでもなくて、直ぐにも親しめるやうなものであつて呉れるなら、どんなに樂しからう。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。

 笑で思ひ出す。昔から美しい人のたとへにもよく引合に出される名高い支那の妃が、めつたに笑はなかつた人であるといふことは、やがて深窓に運命の激しさをかこつ東洋の婦人の多かつたことを語るものであらうか。後の世までその名をうたはるゝほど、みめかたち麗しく生れついた人達が、さうめつたに笑はなかつたといふことは面白い。さういふ人達が一度笑つたら、國を傾けるほど美しかつたといふことも面白い。
 古い東洋文學の一面といふものは、さうした多情多恨の文字で滿たされてゐる。そこには、香魂とか、香骨とかの言葉が拾つても/\盡きないほどある。そして、どうかして得たいと思ふさういふ笑のためには、千金をなげうつことも惜しまなかつたやうな人や、高い地位勢力を利用したやうな人や、才智腕力の衆にすぐれた人や、又は情人なぞのかず/\の數奇な生涯が語つてある。ねやしとねから、枕の類にまで事寄せ、あるひは戀とし、あるひは哀傷として、詩にも作られ、歌にも詠まれ、文章にも綴られて來たのは、さういふ婦人達がこの世に持ち來した笑の美しさに就いてである。

 しかし、あはれの深さは、薄命な婦人達の姿にのみかぎらない。よく見れば、どんな人の姿でもあはれの深くないものはない。わたしたちの眼の前を通り過ぎる人でも、わたしたちの直ぐ隣にゐる人でも。

 どうしてこんなことを書きつけて見るかといふに、昭和も八年の春を迎へた今日、これを明治の初から數へて見るなら、すでに六十六年目にもなるが、だん/\わたしなぞは笑へなくなつたやうな氣がするからだ。周圍を見るに、どうやらわたしばかりでもなささうだ。これは明治生れのわたしなぞが追々と年老いて行くためばかりとも思はれない。この世の嬉しいや悲しいを一通り通り越して、わたしたちの笑が冷たくなつたためかといふに、さうばかりとも思はれない。

 些細なことがわたしたちを慰める、何故かなら些細なことがわたしたちを傷ませるからとやら。さういふわたしなぞも、些細なことに笑へたものだ。信州の山の上に七年の月日を送つた頃、長野でのクリスマスの晩に招かれて、燈火の泄れる教會堂へと案内される途中に、年若な牧師夫人が、二度も三度も雪に滑つて轉ぶ音を聞いた時。ずつと以前に仙臺への旅をして荒濱の方で鳴る海の音を下宿の窓に聞きつけた頃、その下宿の田舍娘から自分のアスの太いことを仙臺訛で笑はれて見ると、それが自分の長い放浪の結果であつたと初めて氣がついた時。ちよつと思ひ出して見たばかりでも、實に些細なことに笑ふことの出來た過去の自分が胸に浮んで來る。そして周圍にあつた友人等と同じやうに、自分等の性情を伸ばして行くことが出來たやうな氣がする。

 西洋の人に言はせると、一體に東洋人は笑はない、だから氣心が知りにくいといふ話を聞いたこともある。併しわたしたちの先祖からして、決して笑を解さない人達ではない。頬骨の高く鼻の低い『おかめ』の面の福々しいものから、農業時代の豐饒を祝福するかのやうな『翁』の面の氣高く老いさびたものにまで、古人の笑が殘つてゐるばかりでなく、おそらく外國には類の少なからうと思はれる笑をあらはした神像までわたしたちの國にはある。あの大國主、事代主の二神が國讓りの難局に處せられた遠い昔を想ひ見ると、今日の所謂非常時で、なか/\笑へる場合でもないのだ。それでも退いて民に稼穡かしよくの道を教へ、父は農業の祖神となり、子は商業と漁業との祖神となつたと言はれる神達が、どんな笑をこの世に持ち來したかは、えびす大黒として邊鄙な片田舍の神棚にも祀つてある一對の彫刻にもそれがあらはれてゐる。あの神達の笑はあまりに古くて、よく分らないが、後世の慾の深い人間が譯もなしに祭り上げるやうなものではなくて、思ひの外な深い笑であつたかも知れない。

 そんな遠い昔のことはしばらく措くとして、もつと近いところはどうだらう。どうして、わたしたちの先祖が笑を解さないどころか、猿樂から狂言となり、狂言から芝居となり、近代へと降つて來れば來るほど、古人の戲れた姿は殆んどわたしたちの應接にいとまがないくらゐだ。
 一例を言へば『暫』だ。舞臺の上の關白は對抗する力のために、見事にその荒膽あらぎもを取りひしがれる。そこには江戸人の高い笑がある。又、一例を言へば三千歳みちとせの芝居だ。舞臺の上の武士はその情婦から嫌はれ、損な役※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを勤めた上で、すご/\とその場を引きさがらなければならない。そこにも作者の笑が隱れてゐる。

 ある。ある。徳川中期の草雙紙、黄表紙、それから洒落本の類をあけて見たものは、當時の戲作者げさくしやが度はづれた笑に一驚するであらうと思はれるほど多くある。故北村透谷なぞはあの通りの人だから、それを徳川時代の平民的虚無思想といふことに結びつけて考へたくらゐだ。八笑人といふやうな、まるで笑の團隊のやうな人達もあれば、彌次郎兵衞、喜多八のやうに行く先に笑を振り撒く二人組の旅行者もある。

 しかし、最早わたしたちは、あの東海道や木曾街道の膝栗毛なぞをあけて見ても、昔の人のやうには笑へなくなつた。その滑稽がそれほど滑稽とも感じられなくなつた。本馬何文、輕尻からじり何文、人足何文と言つた昔に、道中記をふところにしながら宿場から宿場へとかゝつた頃の人と、今日のわたしたちとは違ふからだ。これは止むを得ないことだとしても、さういふわたしなぞが亡くなつた友人のまだ達者でゐた頃のやうにすら笑へなくなつたのには驚く。世界の地圖を變へ、民族の興廢を變へたばかりでなく、二十世紀の舞臺はあれからまさしく一轉したやうな、大正三年より數年にも亙る世界大戰の影響といふものは、こんなにわたしたちを變へたであらうか。この節、朝に晩に吾家へ配達して來る新聞紙を開いて見ても、殆んどわたしはその中に笑といふものを見出さない。たまに見つけるものはあつても、それは刺すやうに痛い時事の漫畫か、さもなければこの世界の苦の中に震へながら立ち盡してゐるやうな人々のカリカチュウル(戲畫)だ。こんなことで、どうしてわたしたちは自分等を延ばして行かれよう。

 好い笑は、暖かい冬の陽ざしのやうなものだ。誰でも親しめる。廣いこの世の中には、どうして見ても駄目だといふこともある。しかしそれを駄目だとしてしまはないで、どうかして温めて見たいと思ふのが、わたしたちの自然な願ひではないだらうか。

 ことしの正月は、親戚の年寄の御相伴で、市川團十郎追善興行の二度目の催しを舞臺の上に眺めて來た。噂のあつた古い歌舞伎の『鳴神なるかみ』をも初めて見物して來た。ちやうど幕合の廊下で、石井柏亭君や有島生馬君に逢つて、わたしたちはあの『鳴神』の面白さに就いて語り合つた。あれは謠曲の『一角仙人』から來たものと聞くが、婦人の名が雲の絶間姫といふことからしてをかしくもあるし、曲の主要な部分が假白こわいろから成つてゐて、音曲はたゞそれを導き出すやうに作られてあるのも、歌舞伎としてはめづらしい。不思議にも、わたしは樂しく燃える蝋燭の火でも望むやうに、あの血の氣の通つた舞臺を靜かに眺めることが出來た。そこに人間性に觸れることの深いユウモアの力があると思つた。あの中には、行ひすました行者が美しい婦人の誘惑に神通力を失ひ、戒壇の上から轉がり落ちる場面なぞがある。自分はまだ笑へる、さう考へて歸つて來た時はうれしかつた。

 過去に於いて、この國に深い笑を持ち來したものは、何と言つても徳川時代の俳諧の作者であらう。わたしが芭蕉を愛し、丈草、去來、凡兆等の蕉門の作者を思ふのは、古人等が淺い滑稽から出發してそれを好いユウモアにまで深めて行つたところにある。古人等には風狂の説があつて、この世のさびしさの中にも笑ふことを教へて呉れる。わたしは又その意味に於いて西鶴の機智に感じ、徳川の世もさかりを過ぎた頃に一茶のやうな作者の生きてゐたといふことにも心をひかれる。

『先生――ごめん下さい、新年早々から。』
 ことしの正月のことであつた。ある未知の少年から、かういふ書出しの葉書を貰つた。それには可愛らしい筆蹟で次のやうな言葉も認めてあつた。
『でも僕、氣にかゝつて仕方がないのです。といふのは、先生がいつも「達」といふ字を間違つてゐられるからです。こんなことは、どうでもいゝのですが、どうも先生の御寫眞を見てをりますと氣にかゝりますので、お知らせいたします。今年もよいお仕事をして下さい。』
 とある。
 これには、わたしも赤面した。成程、この未知の少年が教へてよこして呉れた通り、わたしはいつも『達』といふ字を間違つて書いてゐた。そして自分等の年若な時分に一度間違つて覺え込んだことは、何十年經つても容易にそれを改めることは出來ないものだと思つた。


『日の出』の編輯氏から、その創刊號のはじに何か書きつけることを求められた。月々の讀者を相手にする雜誌發行のことは書物を出版するとも違ひ、言はゞ長く置けない鮮魚を魚河岸へ送り出すやうなものであらうし、殊にその雜誌の趣意は今々河岸へ着いたばかりの魚のやうなイキの新しさを求めるばかりでなく、一般の讀者にもわかり易く味はれ易い平談俗語を主とすることであらうと思はれるから、自分もまたそんな輕い氣持ですこしばかりの寢言を書きつけ、それをはなむけの言葉にかへよう。
『日の出』で思ひ出す。古い傳説によると、曾て太陽は天の岩屋に隱れてしまつたことがあつた。この世は全く長い夜の連續であつた。そこへ思慮の深い『知識』の神が來た。『知識』の神はこの世に日の出の遠くないことを感づいて、夜明けを告げるために澤山な鷄を集めた。常夜とこよ長鳴鳥ながなきどりといふものの聲が闇の空を破つて遠くにも近くにも起つたが、そこいらはまだ暗かつた。そこへ今度は逞しい『力』の神が來た。いかな『力』の神でも、堅く閉ぢた岩屋の扉をこじあけることは出來ない。岩屋の前には、鍛冶に造らせた眞鐵まがねの鏡を持つて來て暗黒を照して見る『まこと』の神もある。玉造りに造らせた珠を持つて來て見る『徳』の神もある。枝葉の茂つた常磐木ときはぎをそこへ運んで來て、一切の穢汚きたないもの、あさましいものを拂ひきよめるために、青い布や白い布をその枝にかけて見る『淨化』の神もある。あるひは樺の皮を用ゐて占卜うらなひに餘念もない『豫言』の神まである。これだけの神が揃つても、天の岩屋に隱れた太陽をどうすることも出來なかつた。最後に、そこへ面白い恰好をした女神が來た。この女神は日蔭ひかげかづらを襷にかけ、正木まさきかづらの鉢卷をして、笹の葉を手に持ち、足拍子を取りながら扉の前で踊り出すといふ滑稽さであつた。のみならず、神が人間に乘り移つた時のやうな姿をして、恥かしい乳をあらはして見せ、腰から下には裳の紐をぶらさげた。それを見て笑はない神々はなかつたといふ。さすがの堅い岩屋の扉が細目に開けたのはその時であつた。『知識』でも、『力』でも、『眞』でも、『徳』でも、『淨化』でも、『豫言』でも、いかなる神の力でも開かれなかつた天の岩戸が、『笑』の女神の力によつて開かれた。
 わたしは戲れにこんな古い傳説を持ち出した譯ではない。『眞』の鏡も、太陽に向つてそれを光らせる時にのみ役立つことを語りたいのである。大きな『力』も、太陽が岩戸からやゝ姿をあらはしかけた時に、その手を執つて引き出すことにのみ役立つたことを語りたいのである。何と言つても、『笑』の力は大きかつた。そこから日の光もあらはれ、大地も微笑み、神も人と交つた。
 さて、雜誌『日の出』がどういふ讀物を滿載して、多くの讀者を樂しませようとするのであるか、それをわたしは、言つて見ることも出來ない。襷、鉢卷、足拍子の面白さは、當時流行のエロ、グロ、ナンセンスであつても構はない。願はくは、それがわたしたちの内にも外にも高く太陽を掲げるためのものであつて欲しい。暗い岩戸を押しひらいて、知らず識らずのうちに、大衆を高めることの出來るやうな、好い滑稽が溢れたものであつて欲しい。

夏麻引なつそび海上潟うなかみがたの沖つに船はとゞめむさ夜ふけにけり
 後の代のものがどの程度まで遠い過去の藝術に入つて行けるかといふことは、よくわたしに起つて來る疑問であるが、謠曲の蝉丸を喜多六平太氏方の能舞臺に見た時、原作者の説き明さうとしたものが時と共に失はれ來た後世になつても、その人の感じたものだけは長く殘つてゐることに氣がついた。萬葉の古歌に就いても同じやうなことが言はれよう。この東歌は、人も知るごとく上總かづさの國の歌として、卷十四に載せてある雜歌である。わたしはこの歌を感ずることは出來ても、十分に説き明すことは出來ない。萬葉の古歌がさう完全にはわからないことは、良寛のやうな人の書き殘したものにも見える。たゞその感じ得られる部分が、この東歌にはいかにも深い。何度繰り返して見ても盡きない趣がある。

 澤木梢君が亡くなつた後、『三田文學』では特に記念號を出して、君を記念するために多くの頁を割いた。いろ/\な方面の人達からの追悼録があつめてあつて、しかもその多くが通り一遍の美しい言葉で君の生涯を埋めてしまふやうなものでないのには感心した。その中には知己友人の持ち寄つた澤木君らしい逸話もあり、曾ては君の教へ子であつたといふ人達の率直な印象も語つてある。
 どうして、人が亡くなつた後になつて、こんな風に語られるといふ場合がさうざらにあらうとも思はれない。君の性格が性格だから、だん/\話の合ふ人もすくなくなつて行つたかと思はれるし、殊に病苦と戰ふやうになつてから、ずつと引籠りがちに暮されたやうで、長くもない君が生涯の終りには、かなり寂しくこの世を辭して行かれたかと想像せられるが、しかし君の亡き後になつて、こんなに舊知の人達から本當のことを言つて貰へるところを見ると、やはり君には人と違つたところがあつたと思はれる。
 わたしが澤木君を知つたのは佛蘭西の旅にある頃であつた。君はわたしよりも早く歐羅巴の方に渡つてゐて、南獨逸のミュンヘンからわたしのゐた巴里の下宿へ夏を送りに來た。そんなわけで、あの佛蘭西の旅を思ひ出し、巴里の町を思ひ出し、そこにあつた下宿を思ひ出すことが、わたしに取つては澤木君を思ひ出すことになる。ブウル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アル・ポオル・ロワイアル、八十六番地。そこは巴里のサン・ジャックの古いごちや/\とした町と、ポオル・ロワイアルの電車通りとの交叉した角にあたる。石造と言ひたいがその實は所謂羅甸ラテン區の界隈によく見かける塗屋風の建物だ。それでも七層の高さがあつて、第一階から上には二十家族を容れるほどのアパアトマンがあり、階下の歩道に接したところは粗末な珈琲店を兼ねた煙草屋、その他の店が佛蘭西風の暖簾のれんを並べてゐた。その第二階の左側に佛蘭西中部地方出のシモネエといふお婆さんが五間ほどの部屋を借り、下女を一人使つて下宿をやつてゐた。プラタナスの並木町の歩道に接して、高い堅牢な二枚戸の入口がある。壁に添うて螺旋形の階段がある。短いズボンに空脛からずねをあらはした子供、前垂掛けでスリッパをはいた下女、松葉杖を手にした背蟲せむしの男なぞが、その階段を昇つたり降りたりしてゐる。第二階の扉を押すと、廊下がそこに續いてゐて、七層の建物を圍む深い内庭の石を敷きつめた空地が窓の外にある。わたしが初めて澤木君を迎へたのも、その煤けた色硝子のはまつた薄暗い窓の側であつた。
 君の部屋を思ひ出して見る。
[#ここから3段組]
壁の上に銅板畫の額。置箪笥は鏡張りで、人の姿が映る。この箪笥の側に旅行用の鞄、杖、洋傘などいろ/\
[#改段]

ゴブラン織の厚い窓掛、別にレエスの窓掛。窓に向つて机、肘掛椅子、堅い椅子、敷物
[#改段]
洗面臺
暖爐
[#ここで3段組終わり]
  寢臺(燭臺置物、便器入れ兼用)
                      部屋の入口の扉
 この寢臺、置箪笥、ゴブラン織の窓掛なぞは部屋についた造作と見ていゝ。洗面臺の上には造花模樣の陶製洗面器と、同じ陶製の水さしとが置いてあつたが、下宿のあるところから遠くないゴブランの町の陶器店で手に入れ得る程度のものだ。石造の暖爐の上は床の間の感じに近い。そこには古い置時計や、白い蝋燭をさした燭臺や、ランプや、その他にロココ式の古めかしい置物なぞがうるさいほどに並べてあつたと覺えてゐる。入口の扉の外は暗い廊下で、一方は食堂に續き、一方は狹い臺所と雪隱とにも近い。おそらく潔癖な澤木君はこの部屋に多くの薄ぎたないものを見つけたであらう。ちやうど君がわたしの下宿へ見えた時は、他に明き間もなくて、この部屋で我慢して貰つたが、たゞ廣いばかりで落ちつきもなくお氣の毒なくらゐのところだつた。こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。實は、そこにあつた寢臺なり、洗面器なり、青々とした葉かげの深いプラタナスの並木の枝から向ふの町の空に天文臺の圓い塔まで見えた窓の側なりは、このわたしに取つて君の記憶と引きはなしては考へられないくらゐである。のみならず、壁一重隔てた隣りの部屋はわたしが三年の月日を送つたところで、澤木君が顏を洗ふ音でも、窓をあける音でも、部屋を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る音でも、そこにゐてわたしは手に取るやうに聞くことが出來たからであつた。
 澤木君はいかなる場合にも十分な支度をして置いて、それから事に當るといふ風の人であつたらしい。君はわたしの下宿に見える前に、ミュンヘンの方で佛蘭西美術を探ぐるに必要な支度を十分にして來た。だから巴里へ來たばかりの時に既に相應な佛蘭西美術の知識を持ち、その方面の消息にも通じてゐて、どこへ行けば何があるぐらゐの見當はおほよそはじめからついてゐた。さういふ澤木君のことだから、その後、伊太利の旅に出掛ける時にもかなりの支度があつたらうと思ふ。おそらく君の足がまだ伊太利の國境をも越えない前から、君の内にあるあの熱心な鋭い眼はアッシッシの丘にあるサン・フランチェスコの寺を見、羅馬にあるフォラムの殘礎をさまよつてゐたらうかと思はれる。君から貰つた歐羅巴での旅の消息は今、いくらもわたしの手許に殘つてゐない。僅かに數葉の繪葉書しか殘つてゐない。
『歐羅巴の秋の美は筆紙に盡しがたく候。大島氏にも御紹介によりて大に便宜を得、感謝に堪へず候。來月七日ナポリに向ひ、途中古希臘式殿堂の造りを見、歸路にはボロニヤ、ミラン等を經、二十日過ぎリオンに立ち歸り、月末には巴里に入る豫定に候。シモネエによろしく。羅馬にて。』
     十月二十九日
 これは千九百十三年の秋に君から屆いたものだ。戰時になつて君は英吉利の方にあの混亂を避け、わたしは巴里に踏みとゞまつてゐたが、倫敦からもよく君の便りを貰つた。その中の殘つた葉書の一つに、
『この頃はいかにお暮しですか。さびしき夜、火にあたりて物思ふ時なぞは、よくあなたの事を思ひ出してしみじみとお話したくなります。をこがましいやうですけれども、お慰めしたいなぞと考へたりします。ミュンヘンにありし時のことなぞまで獨りで思ひ出してゐます。非常に親しく交つた學生なぞも戰地に行つてゐます。生死も分りません。當地にて阿部君とはよく一緒になります。』
 とある。今一つの繪葉書の殘つたのはストラットフォド・オブ・エデンからとしてあるもので、
『先日の長いお手紙はどんなにか私を喜ばせたでせう。御返事も遲れて甚だすみません。今日は此地に沙翁誕生記念演劇あるを幸ひ、阿部君と詩人の生地にやつて來ました。今晩は※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ニスの商人です。町も村も輕い緑の芽を出しましたけれど、風が底冷く吹いて妙に旅の愁を催させます。明後日あたり倫敦に歸ります。』
 ともある。
 いかに多感多愁の人が君の内部に隱れてゐたかは、これらの葉書便りに殘つた僅かの言葉にも窺はれる。この多感多愁は早く君をしてオスカア・ワイルドのやうな耽美的な傾向を持たせ、又、一面にはハイネの激情を思ひ出させるところのものであつたらう。君が生涯のずつと終りに近くなつて、おのづから君の口に上つて來たやうな短歌の製作を君は何よりの心やりとせられたと聞くが、この多感多愁は脈々として終りまで君の内部に流れてゐたものではなかつたらうかと思ふ。かういふ澤木君にも、借りたものは必ず返し、貸したものはまた必ず返して貰ふといふやうに、貸借關係なぞにかけては人に迷惑を掛けないかはりに人からも迷惑を掛けられたくないやうなところがあつて、さういふ點で君はズボラな詩人肌の人とはちがつてゐた。さういふ散文的な一面があればこそ、あれほどキチンとした生活も出來たのだと考へられる。君はわたしと一緒に下宿にゐる間、一度激しく吐血されたこともあつたが、さういふ時でも君には取りみだしたやうな風はすこしもなかつた。
 今になつてわたしは君が歐羅巴を旅した足跡を辿つて見る。君は先づ獨逸に行つて、かず/\の近代的なものに觸れた。獨逸、殊に伯林は、あらゆる意味に於いて近代的だとは、よく君の口から聞いたところだ。佛蘭西に來てからの君が近代の繪畫を見る眼は一層深められたやうであつたが、一方にはそこに殘存する中世から十八世紀へかけての藝術――殊に、ゴシックの建築美は君が探求の的の一つとなつたらしい。それからルネッサンス時代の遺物の多い伊太利の旅へと進んで行つた。君がアカデミックでないクラシックの精神に近づくやうになつたのも、伊太利の旅に得るところが多かつたのであらうと思はれる。おそらく旅の事情と君の健康とが許したら、君の足跡は希臘にまで達したであらう。わたしとしてもあのアテエナに君のやうな探求者を置いて考へたかつた。世界の大戰は旅行者の自由を奪つてしまつたのだ。
『三田文學』の追悼録の中には、安倍能成氏が君を惜んだ一文も出てゐる。その中に『今一つ考へることは、澤木君が西洋美術史を通じて西洋文化を根本的に究明しようとして、輕々しく東洋趣味の横道に足を踏込まれなかつた學者的な專一な風格である』とあつたのはうれしかつた。それから、同じ追懷のつゞきに、左の一節は殊にわたしの心をひいた。
『澤木君が東京帝國大學の文學部の講師をして居られた頃でなかつたかと思ふが、一春文學部の學生達に加はつて澤木君と一緒に、奈良京都の美術旅行にいつたことがあつた。その時のことである。唐招提寺金堂の千手觀音の前であの澤山の觀音の手の美的效果に就て澤木君が傍の人と論じてゐたのを記憶する。その時の議論の内容を忘れたが、澤木君の論調には西洋美術のグウを持して容易に東洋美術に許さない樣な所があつた。さうして西洋美術の本筋をそのレアリズムに認めて居られたらしく考へられた。』
 いかにも澤木君の面目がはつきりとよく出てゐる。これだ、これが澤木君だ、とわたしはさう思つた。尤も、その時の議論の内容は忘れたと安倍氏が言はれるくらゐだから、わたしには猶更よくは分らないが、澤木君の持説なるレアリズムの内容が他人のそれとどう異なつてゐたか、君はその最も深い根據をどこに置いてゐられたのか、例へばゴシック建築の内部の構造にあらはれてゐるやうな數理の觀念と美との結合が全く東洋美術には缺けたものとせられたのか、それらのことを聞いて見たかつた。
 いづれにしてもあの元氣な澤木君がこんなに早く亡くならうとは思ひがけなかつた。わたしたちの周圍は今、いろいろな問題で滿たされてゐる。十年以前と今日とでは歐羅巴もずつと近くなつたやうな氣がする。君のやうに西洋文化を本質から見てかゝらうとする人のあつたことは、それだけでも意味が深い。君は飽くまでその熱意を持ち續けて、もつと長くこの時代に生きてゐて貰ひたかつた。

『根岸の鶯』とは、最近に出來た故岡野知十君の俳句集『鶯日』にちなみ、またその舊廬『鶯日居』にも因んで、わたしが勝手に呼んで見た根岸の作者のことである。不思議な縁故で、わたしは作者の古巣とも言ふべき『借紅居』を知るところから、やがてその初音を聞きつける頃よりある親しみを覺えて來た。四十年も根氣よく啼きつゞけたといふこの老鶯は、わたしの耳に何をさゝやいて呉れるか。
 俳句集『鶯日』は作者の一周忌に際し、その令息や弟子とも友達とも言つていゝ人々なぞの骨折から、故人が風興發句の殆んど全部を蒐めて二卷に編んだ記念の出版である。そのはじめに小泉三申氏の序があつて、その言葉の中に、
『余知十と交ること四十年になむ/\とせり。常に以爲おもへらく、古人の俳人、初めに芭蕉あり、中ごろに蕪村あり、一茶あり、後には知十ありと。敢てみづからその故をあきらめむとはせず、唯みづからこれを信じて疑はざるのみ。』
 とある。
 誰が何と言はうと自分はさう信じて疑はないと言はれるやうなこの序の筆者の言葉は強い。俳人としての知十君は言つて見れば俳諧の暖簾をうけ繼いだ六代目にも七代目にも、あるひはもつと後の代にも當る人で、初代の芭蕉もしくはそこから分れて江戸座の一風を成した其角なぞが出發當時の苦勞はせずに濟んだかと思ふ。あの蕉門の諸詩人が嘗めたやうな虚栗みなしぐり時代のにがい彷徨は知十君にはない。そこでわたしは古い俳人のことはしばらく措いて、もつと自分等の時代に近い一茶を引合に出して見ることがおもしろくないかと思つてゐる。さうしたら知十君の特色がはつきりわたしたちの胸に纏まつて浮んで來はしないかと思つて居る。江戸に於ける十年さすらひの生活は芭蕉のやうな人にも都會人らしいところを與へたかと思はれるふしもあるが、一茶はあの中年の長い放浪生活にもかゝはらず、江戸じまぬことおびたゞしい。無器用で、正直で、狹量で、多分の野性に富んでゐて[#「富んでゐて」は底本では「當んでゐて」]、容易に他と調和しがたい一茶が田舍に置いて考へて見たい人なら、『鶯日』の作者はどこまでも東京の水で洗つて洗ひぬいたやうな人である。そこに都會の詩人らしさがある。
 心が涼しければ、句もまた涼しい。その涼しさを失はずに持ちつゞけて行つたところから、『鶯日』二卷に溢れてゐるやうなあの活氣と色艶とに富んだ詩情が迸り出て來てゐる。物わかりのよさ、情のあつさなぞは、二卷のどの頁にも見出される。作者はまた、都會の人にして初めて捉へ得るやうなものを實におもしろく短い十七字の形に盛つて見せる感覺の鋭敏さを具へてゐる。これを天稟てんぴんと思はないわけにいかない。どうかするとわたしは作者が贈答の句なぞに突き當つて、あまりの輕さにまごつくこともある。
新年に一つまゐらう松の鮨
 いかにも知十君の句らしい。そこには口を衝いて出るやうな才華の煥發があり、わざとらしくないユウモアもある。しかしこの松の鮨ですら、最早淺草代地の名物でもなくなつてゐる。小松が何を食はせる店で、辨松が何の仕出しする家かも分らなくなつて行く日があるとすると、このすぐれた都會の詩人が書いたものにもかなり難解に思はれる部分が殘らう。ともあれ、『鶯日』の作者には、やゝもすると都會の人の陷り易い早呑込みがない。すべてが正味だ。作者は痰を吐く如くに句を作るべしと言つてゐて、虚心平氣ならば何の難いことがあらうかと語つて見せたといふことが、小泉氏の序の中にも見える。この鶯の好い聲はさうざらに聞かれるものとも思はれない。眞似の造り聲ではもとよりない。
君が手をわがふところに夜寒かな
 この句なぞ知十君の生涯の中でいつ頃に出來たものか、その邊はよく知らないが、いかにも眞情がうち出してあつて好ましい。
青簾壁はまだ中塗りのまゝ
いつまでも簾の青き願かな
 わたしは都會詩人としての知十君の特色をその夏の句に見つけることが多いと思ひ、殊に句の姿も涼しいと思ふものであるが、こゝには盡しがたい。

 過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添へるつもりで、思はずいろ/\なことを書き、親戚から送つて貰つた桃の葉で僅かに汗疹あせもを凌いだこと、遲くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かつたこと、覺えて置かうと思ふこともかなり多いと書いて見た。この稀な大暑を忘れないため、流しつゞけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寢言なりと書きつけようと思ふ心持をもその時に引き出された。ことしのやうな年もめづらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行つた草も多い。坂の降り口にある乾き切つた石段の横手の芝なぞもそれだ。日頃懇意な植木屋が呉れた根も淺い鉢植の七草は、これもとつくに死んで行つた仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつゞけて來た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同じやうに、わたしも草木なしにはゐられない方だから、これまでいろ/\なものを植ゑるには植ゑて見たが、日當りはわるく、風通しもよくなく、おまけに谷の底のやうなこの町中では、どの草も思ふやうに生長しない。さういふ中で、わたしの好きな※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)かをりぐさだけは殘つた。わたしの家の庭で見せたいものは、と言つたところで、ほんとに猫の額ほどしかないやうな狹いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)は、春咲く蘭に對して、秋蘭と呼んで見てもいゝもので、かれが長い冬季の霜雪に耐へても蕾を用意するだけの力をもつた北のものなら、これは激しい夏の暑さを凌いで花をつける南のものだ。緑も添ひ、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。この※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)が今は花のさかりである。さう言へば、長く都會に住んで見るほどのもので、町中に來る夏の親しみを覺えないものはなからうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を樂しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のやうに思ひ、これまで殆んど避暑の旅に出たこともない。ことしもと、それを樂しみにしてゐるところへこの陽氣だつた。不思議にも、ことしにかぎつて、夏らしい短か夜の感じが殆んどわたしに起つて來ない。好い風の來る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、曉から鳴く蝉の聲、早朝からはじまるラヂオ體操の掛聲まで耳について、毎日三十度以上の熱した都會の空氣の中では夜はあつても無いにもひとしかつた。わたしは古人の隱逸を學ぶでも何でもなく、何とかしてこの暑苦を凌がうがためのわざくれから、家の前の狹い露地に十四五本ばかりの竹を立て、三間ほどの垣を結んで、そこに朝顏を植ゑた。といふは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から來る反射が、まともにわたしの家の入口の格子をも露地に接した窓をも射るからであつた。わたしはまだ日の出ないうちに朝顏に水をそゝぐことの發育を促すに好い方法であると知つて、それを毎朝の日課のやうにしてゐるうちに、そこにも可憐な秋草の成長を見た。花のさま/″\、葉のさま/″\、蔓のさま/″\を見ても、朝顏はかなり古い草かと思ふ。蒸暑く寢苦しい夜を送つた後なぞ、わたしは町の空の白まないうちに起きて、夜明け前の靜かさを樂しむこともある。二階の窓をあけて見ると、まだ垣も暗い。そのうちに、紅と藍色とのまじつたものを基調の色素にして瑠璃にも行けば柿色にも薄むらさきにも行き、その極は白にも行くやうな花の顏がほのかに見えて來る。物數寄ものずきな家族のもののあつまりのことで、花の風情を人の姿に見立て、あるものには大音羽屋、あるものには橘屋、あるものには勉強家などの名がついたといふのも、見るからにみづ/\しい生氣を呼吸する草の一もとを頼まうとするからの戲れであつた。時には、大森の方から魚を賣りに來る男が狹い露地に荷をおろし、蕾を見せた草の根を踏み折ることなぞもあつた。そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に續く石段の方から通つて來るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往つたり來たりして、曾て朝顏狂と言はれたほどこの花に凝つた鮫島理學士のことを思ひ出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釋を聞かせて呉れたあの理學士の聲はまだわたしの耳にある。今度わたしはその人の愛したものを自分でもすこしばかり植ゑて見て、どの草でも花咲くさかりの時を持たないものはないことを知つた。おそらくどんな藝術家でも花の純粹を譯出することは不可能だと言つて見せたロダンのやうな人もあるが、その言葉に籠る眞實も思ひ當る。朝顏を秋草といふは、いつの頃から誰の言ひ出したことかは知らないが、梅雨あけから秋風までも味はせて呉れるこんな花もめづらしいと思ふ。わたしがこれを書いてゐるのは九月の十二日だ。新涼の秋氣はすでに二階の部屋にも滿ちて來た。この一夏の間、わたしは例年の三分の一に當るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩はなかつただけでもありがたいと思へと人に言はれて、僅かに慰めるほどの日を送つて來たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかにひとみを見開かないといふ朝とてもなかつた。今朝も、わたしの家では、十八九輪もの眼のさめるやうなやつが互の小さな生命を競ひ合ふやうに咲いてゐる。これから追々と花も小さくなつて、秋深い空氣の中に咲き殘るのもまた捨てがたい風情があらう。

 海に山に暑さを避けようとする人も多い中で、わたしはこれまで殆んど避暑といふことに出掛けたことのないものの一人だ。夏の凌ぎがたいのは、むしろ梅雨明けのころで、それを通り越せばわたしたちのからだもいくらか暑さに慣れて來る。それに夏は自分の好きな季節でもあつて、暑くてもなんでも割合に仕事の出來るところから、この町中を離れる氣にならない。こゝろみに、このごろの日課を書きつけて見る。

 怠けものの體操。これは一名エキサアサイズ・オン・ゼ・ベッドで、半身づゝの極靜かな運動である。枕の上で寢ながら出來るところから、なまけものの體操の名がある。鷄の鳴聲を聞きつけるころに眼をさましてそのまま枕の上で運動にとりかゝる。末梢より中樞に及ぼし、あるひは中樞より末梢に及ぼす。約三十分ばかり。
 朝早く火鉢の火をつぎ鐵瓶の湯の沸くやうにして置いて、それから朝顏の根に水をそゝぎに行く。去年からわたしはこんな朝顏の培養をはじめたが、これは風雅でも洒落でもなく、隣家の高いトタン塀から來る烈しい日光の反射を防がうがための必要から思ひついたことであつた。でも、早曉の草の手入れは、そのことがすでに爽かで涼しい。地を割つて頭を持ち上げる貝割葉のころから一つとして同じものもないやうな朝顏の中には、最早三尺あまりも自然な蔓の姿を見せて、七月はじめの生氣を呼吸してゐるのもある。

 朝茶。小一時間ばかりの朝茶の時がわたしには一日の中の樂しい靜坐の時である。外國の作者の書いたものを見ると、朝早く屋外を一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りして一時間ばかりを散歩の時にあて、それから歸つて來て自分でコーヒイを沸かし、いはゆるプッチ・デヂュネといふやつをとるやうな習慣の人もあつたやうであるが、しかし、仕事を控へての早朝の散歩もどんなものか。
 ずつと以前淺草新片町の方に住んだころ、わたしもよく夏の朝の散歩に出て隅田川の岸などを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つたものだが、あのころは午前の十一時ごろから仕事にとりかゝつて、おもに午後に働いた。家のものの寢しずまる深夜のころまで机にむかつてゐて、どうかすると一番鷄の聲を聞いたこともある。ところが、このごろはおもに午前中を仕事にあてたいと思ふものだから、朝早くそこいらを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るとなると、いろ/\見つける物象も多いかはりに、どうも氣が散つて困る。やはり今のわたしには靜かにしてゐる方がいゝ。たまには家のものを連れ、月島の魚河岸の方まで出掛けて行つて、そこで探した鮮魚なぞを提げながら、朝飯前に歸つて來ることもあるが、そんなことはまづ例外だ。

 朝食。毎朝簡單に茶粥で濟ませる。一ころはオート・ミイルを試みたこともあつたが、どうしたものか町で賣る品も粗惡なものばかりになつて、だん/\自分の口には適しなくなつた。茶粥二椀、牛乳一合、その用ゐ方は殆んどオート・ミイルの場合と同じだ。これがまたわたしの好物の一つだ。奈良の方の寺では茶粥に里芋をまぜるといふ話をある人から聞いて、それも試みたことがあるが、すこし味が重くなるかと思ふ。野菜のスープに燒昆布を入れて造ることはわたしの思ひ付きだが、そんなものでもあれば朝の食事は一層樂しい。
 今のわたしに夏が好いといふことの一つは、日の長いといふことでもある。なるべくわたしは午前中に自分の仕事を濟ますやうにしてゐる。


 曾て山陰の旅に出掛けて、石見いはみの國益田にある古い寺院の奧に、雪舟の遺した庭を訪ねたことがあつた。古大家の意匠を前にして、わたしはしばらく旅の時を送つて來た。近代の曙はまだそんなところに殘つて、私の眼前めのまへに息づいてゐるやうであつた。しかもそこにある草木はみな新葉を着けてゐて、その古い庭の意匠と生々とした草木の新しさとの混じ合つたところから、わたしは言ふに言はれぬ深い感じに打たれたことを覺えてゐる。喜多氏方の例會に來て、その見物席に身を置いた時のわたしの感じがそれだ。その舞臺で演ぜらるゝことは近代の極早い頃から流れ傳はつた古人の意匠を受け繼ぎ受け繼ぎして來たものであらうが、しかも舞臺の上の人はみな新しい。

 能の舞臺には一曲ごとに變化する背景もない。幕といふものもない。たゞ松の緑の構圖を以てした簡素な板戸があるのみだ。そこには一切の陰影となるべきものを悉く追ひ出してあるやうに見える。この單調を破つて、平地に波瀾を引き起すことは容易でない。先づ基調を起して來る笛、引き續いて起る大鼓小鼓の音、その間にまじる驚くばかり激しい掛け聲、それらの甲高かんだかく強い音と、やさしく柔い音との調節にはじまつて、やがて肉聲の合唱が續く。わたしたちのまご/\してゐる心はいつの間にか劇中の世界へと連れて行かれる。能の演技にあつてはこのオーケストラなり、コオラスなりの働きが一通りでないことを知る。

 能の舞臺の位置は、所謂アンフィシヤタア風の演技場に比べて、ずつと高い。仰ぎ見るほどの位置にはあつても、見おろすやうな位置には造られてない。この位置の高さは、舞臺の正面の前に、あるひはその周圍に、ある空虚な深さをつくる。舞臺に立つ能役者が正面の柱の側まで進み出でゝ來る時に、殊にその效果を感じ過ぎるくらゐだ。

 古い散樂と言つた時代から能樂に移る頃の舞臺の構造はどんなものであつたらうか。あの舞臺の上部に原形を殘したやうな屋根の形といひ、三方より見られるやうに露出した舞臺面の意匠といひ、日光の導き方から、ある意味での光線の無視といひ、正面の背景、隱れた樂屋の位置、すべてが屋外の裝置でないものはないやうな氣がする。言つて見るなら、今見る能の舞臺といふものはもつと日光の滿ちた屋外へこのまゝ持ち出すことも出來ようといふ氣さへして來る。能の演技からわたしたちの受ける印象は、繪畫的であるよりも、むしろ彫刻的であるが、さういふ印象の起つて來るといふのも、一つはその舞臺の構造、裝置、あるひはその高さなぞの約束にもとづくことを思ふ。

 能には、殘存した中世そのまゝのやうな稚拙がある。

 近代の曙らしい憂鬱も感じられる。

 それにしても、あの充實した感じはどうだ、舞臺はさながら嚴肅な道場のやうにさへ見える時がある。

 こんなに美しいものが殘つてゐるのに、それを知らずにゐたのかと思ふほどわたしを驚かしたのは、喜多六平太氏が受持つた役の蝉丸の面だ。わたしたちは生きてゐる人の動いた顏に行くよりも、反つてあの一見靜物のやうな面により多くの表情と、感動と、性格とを見出す。六平太氏があの蝉丸の面をつけて、長いこと動かずにわたしたちの前に立つてゐた時は、無量の思ひの籠る彫刻を見る感じがした。すぐれた能役者のあらはして見せるものは、その姿勢の一つ/\が彫刻そのまゝであるかとも思ふ。

 蝉丸は王子である。何故にあの盲目な王子が父の帝によりて捨てられねばならなかつたか、その作者の意圖ははつきりとわたしたちの胸に來ない。わたしの想像によると、蝉丸は中世風な苦行者の首途かどでに置かれた王子であつて、父なる帝はその子に解脱への道を教へたものであらうと考へるが、これはわたしの想像であるに過ぎない。おそらく中世の昔の人達はあの作者の意圖を今日のわたしたちより遙かによく汲み取つたであらう。それにひきかへて、不幸な王子の姿はあり/\とわたしたちの眼に浮ぶ。作者の説き明さうとするものが時と共に失はれて來た後世になつても、その人の感じたものだけはこんなに長く殘つてゐることが思はれる。

 わたしはこの年になるまで、僅かに三度しか能樂堂に足を踏み入れたことがない。一度は寶生の舞臺に俊寛を見た時。一度は同じ舞臺に安宅を見た時。今一度がこの喜多氏方だ。戸川君がわたしのために六平太氏の蝉丸を選んで誘つて呉れたのはありがたかつた。わたしはまだ高砂を見たことがない。六平太氏のやうなすぐれた能役者によりて演ぜらるゝ高砂は、わたしの見たいと思ふものの一つだ。

 謠曲が純粹な佛教時代の文學であるといふことは、わたしには疑問である。本地垂跡の教と、その後に來る兩部神道との發達した中間の時代へ持つて行つて、謠曲の文學を考へて見たい氣がする。

 能について書かれたもののうち、戸川君がその隨筆集に載せた一文はよくわたしの胸に浮ぶ。あれは好い隨筆だつた。能の持つ特色についていろ/\なことをわたしに教へて呉れたのもあの隨筆だ。たしか魚の活き返るおもしろい物語、地獄に墮ちて苦しむ男の物語なぞがいかに能舞臺の上で表現されるかも、あの中に書かれてあつたと覺えてゐる。野口米次郎君も能について數篇の詩文を書かれたことを想ひ起す。舞臺の上に動く能役者の足どりとその白い足袋の感じが、水中に動く魚に譬へてあつたやうだが、あの美しい形容も忘れがたい。

 これを書いてゐると、わたしの側に人があつて、能を見るには相應な支度のいることをわたしに言つて見せた。しかしわたしのやうに何の支度もなしに、いきなり出掛けて行つたものでも、それを樂しむことが出來てうれしかつた。終に、中古以來の人の日常生活と結びついたもので、能なぞの舞臺面をも彩るものの一つは、扇の活用であることをこゝに書き添へよう。この國の扇は手や足ほどに物を言ふ。あれは外國のオペラなぞにちよつとないものだ。古風な舞なぞからあの扇の働きを引き離しては考へられないくらゐだ。喜多氏方でもあの扇が實によく眼についた。

 猶、能のやうな藝術に子供の世界のあまり感じられないのは、どういふ理由であるのか、それもわたしの知りたいと思ふことの一つである。涙の奧にある深い悲哀、笑の奧にある深い微笑、そこまで辿つて行くと、能の藝術に隱れてゐる幽玄といふことに突き當る心地もする。

 にはかに思ひ立つて伊香保まで出掛けた。日頃わたしは避暑の旅に出たこともなく、夏は殆んど東京の町中に暮してゐるが、そのかはり春蠶、秋蠶の後の骨休めを心掛ける農家の人達のやうに、自分の仕事の合間を見てはちよいちよい小さな旅に出掛ける。わたしの足はよく湘南地方へ向く。湯河原あたりへはよく二三日の保養に出掛けて、あの温泉地で長い仕事の疲れを忘れて來る。これは僅かの時間で氣輕に行き得るためでもある。ことしの六月、入梅の頃は、すこし山の方へ向きを變へた。それにわたしに取つては伊香保は初めてでもあつた。

 野外は麥の熟する頃で、ところ/″\に濃く青く密集して生長した苗代のあざやかなのも眼についたが、上野驛から高崎まで二時間半ばかりの平野の汽車旅はかなり單調な感じがする。その單調から救はれるのは、次第に近く山容をあらはして來る榛名、妙義、赤城なぞの山々の眺めである。いつ汽車で通つても、あの利根川の流域から上州の山々を望み見る感じは新鮮で、そして深い。あれは東海道邊から足柄連山を望むともちがつて、また別の趣がある。曾て七年の月日を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、あの上州の山々を汽車の窓から望んだことも忘れがたい。

 伊香保は思つたほどの山の上でもなく、むしろ山の中腹の位置にあつて、直ぐにも親しめるやうな北向の谷間たにあひであるのもうれしかつた。七月八月はどの旅館も殆んど客で一ぱいと聞くに、わたしが僅かの暇を見つけてからだを養ひに行つたのはそんな入梅の季節だから、湯の客もすくない時であつた。でも、あゝした湯治場のさびしくひつそりとした時に行き合はせたのもわるくない。この伊香保行にはわたしはかねて籾山梓月君から贈られた伊香保日記を旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合卷としてあるもので、かねて非賣品として知人の間に分けられたほどの心づくしの册子であるが、自分にも贈つて貰つた時から最早五年の月日がたち、長いこと讀み返して見る折もなく本箱の中にしまつて置いてあつたものだ。さすがに朝夕をおろそかにしない人の心を籠めて書いたものは、何年たつて開いて見ても好い。土を踏まないこと五十日、とその日記の最初に出てゐる病後らしい消息の記事が先づ身にしみた。家を出るにもそゞろに足が行きなやんで、たちまち眼もくるめくとある。
年寄に留守をあづけて秋の旅
唐黍たうきびは採りてたうべよ留守のほど
朝顏の垣根に寄るや暇乞
 これらはその日記の中に見える首途かどでの吟で、人をいたはり、又みづからをいたはる病後の思ひがにじむばかりに出てゐる。殊に、年寄に留守をあづけてと何氣なくうち出してある述懷には心をひかれた。さういふわたしは自分一人ぎりの旅でもない。川越から上京した老母に留守を頼み、妻同伴でこの保養に出掛けて來た。
 その日記の中に、『あんこ別れ』といふ伊香保言葉が出てゐる。この温泉地へ通ふ電車や自動車の便もまだなかつた昔は、毎年の夏、山駕籠をかつぐ男が湯の客の送り迎へに、麓の村々から集まつて來るものも多かつたとか。そろ/\山も寒く、湯の客も散ずる季節を迎へると、九月十五日といふ日の晩を期して、仲間のもの一同が互に慰勞の酒を酌みかはす。伊香保にとゞまつて山かせぎするものも、山を降りて思ひ/\の家路に就かうとするものも、こぞり、つどつて、その一夜を飮みあかすことを駕籠かきどもの『あんこ別れ』といふよしである。

 この『あんこ別れ』の一語には伊香保の昔が殘つてゐて、今でもそれを感じられるやうに思はれるが、しかしその言葉の意味は最早土地のものにもはつきりしない。伊香保日記の筆者もそのことを言つて、あんこはあの子であらうか、そんなら、あんこ別れはあの子別れである、馴染の女に別れるといふこゝろであらうと書いてある。このことは土地のものに尋ねて見てもはつきりしないと言つてゐた。わたしたちはあんこ別れの昔を感ずることは出來ても、それを説き明すといふことは出來ない。しかし、『あんこ』といふことは、わたしの郷里の方でも言ふ。木曾では女馬をあんこ馬とも言ふ。あんこ別れはしばらく馴染になつた土地の女子に別れるの意味であらう。

 わたしたちが澁川から伊香保に着いたのは、晴れたり曇つたりするやうな日の午後で、時に薄い泄れ日が谷の窪地に射して來たり、時に雷雨がやつて來たりした。輕井澤あたりのやうな空氣の乾く高原地へ行つたともちがひ、わたしたちは山の中腹の位置に身を置いて、思ふさま、うち濕つた山氣を呼吸することが出來た。一方に空がひらけて、旅館にゐながらでも、遠い山々を望むことの出來るやうなところだ。秋はさぞかしと思はれる。
 こゝへ來て聽きつける小鳥の聲も、わたしには自分の郷里を思ひ出させる。あの木曾山に多い、杉、檜、それから栗の林なぞは、この伊香保の里にもある。こゝは自分の郷里ほど深い谷間でもなく、又、あれほど大きな森林地帶でもないが、そのかはり自分の郷里にはないものがある。熱すぎるくらゐであるが、しかし豐富な山の湯がある。

 伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉地でも熱海のやうに無制限な發展の出來ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の惱みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、溪水を飮む地方の人は心までもきよいとやら。日頃飮む水の輕さ、重さ、荒さ、やはらかさが、自然とわたしたちの體質や氣質にまで影響することはありさうに思はれる。その意味から言つて、伊香保がどことなく田舍めき、他の温泉地に見るやうな華美がすくなく、土地のものはむしろ昔ながらの質朴を誇つてゐるといふのも、偶然ではないかも知れない。

 山の湯たりとも人の發掘したものには相違ない。昔の人はこゝに神佛禮拜の靈場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯樂と運動の機關を結びつける。さういふ舊いものと新しいものとがこゝには同棲してゐる。二百年も以前から代々この地にあつて湯宿を營むことを誇りとし今だに本家分家の區別をやかましく言ふやうな古めかしさは、おそらく近代的なケエブル・カアの設備やその大仕掛な電氣事業とよく調和しないやうなものであるが、それがこの温泉地にあつては左程の不調和でないのも不思議だ。まつたく、どこの温泉地にも見つけるやうな卑俗なものから、一切を洗ひきよめるやうな自然なものまでが一緒になつて、しかもその不調和を忘れさせるといふのも、温泉の徳であらう。

 旅に來ては口に合ふ食物もすくない。わたしたちのやうに往復三日ぐらゐの豫定で來て、山の見える旅館の二階にでも寢轉んで行けばそれで滿足するほどのものは、知らない土地へ來て何もそんなに多くを求めるではない。でも、何程わたしたちはこの短い保養を樂しみにしてやつて來たか知れない。せめて自分等の口に合ふ山家料理になりと有りつくことが出來たらばと思ふ。いそがしく物を煮て出さなければ成らないかうした湯宿なぞで、種々な好みも違へば、年齡も違ふ男女の客を相手に、誰をも滿足させるやうな包丁の使ひ分けや、鹽加減といふものはあり得ないかも知れないのだ。しかし、山のわらびが膳に上る季節でありながら、それを甘辛あまからに煮つけてしまつたでは、折角の新鮮な山の物の風味に乏しい。惜しいことだ。これはわたしたちばかりでもないと見えて、伊香保へ入湯に出掛けた親戚のものなぞは皆それを言ふ。ともあれ、これほど樂しみにしてやつて來て、快い温泉に身を浸すことが出來れば、それだけでもわたしたちには澤山だつた。わたしたちはまた、この温泉地に縁故の深い故徳富蘆花君の噂なぞを土地のものから聞くだけにも滿足して、歸りの土産には伊香保名物のちまき、饅頭、それから東京の留守宅の方にわたしたちを待ち受けてゐて呉れる年寄のために木細工の刻煙草入なぞを求めた。
 山を降りる時のわたしたちの自動車には、一人の宿の女中をも乘せた。その女中は齒の療治に行きたいが、澁川まで一緒に乘せて行つては呉れまいかと言ふ。これも東海道の旅にはない圖であつた。

六月八日。
川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあつたので、留守居かた/″\出て來て呉れた。家内の實母は根が東京の人であるところから、わたしの仕事のあひまを見ては、一年に四度づゝはかならず上京し、吾家に滯在することを樂しみにしてゐる。
九日。
きのふは一日手紙を書いて暮した。あれも、これも、と心にかゝることはありながら、最早何となく小旅行の氣分が浮んで來た。旅する豫定の日數も短かいから、出掛ける前日をも旅のうちに數へて、けふは細見京繪圖大全としてある文久版の古い京都の地圖なぞを取り出して見た。
十日。
京都蛸藥師通り富小路西入る、千切屋に投宿。
十一日。
朝早く中京の町を歩いて見た。この小さな旅には家内を連れて來て、若王寺にある和辻君の家族を訪ねるといふたのしみがあつた。さすがに清げに住みなしてあつた。六疊の客間には座蒲團が五つに、煙草盆が三つも出た。晝すこし前に、和辻君に案内されて君の書齋を見、眺望のある二階の部屋へも上つて見た。夏はその二階も暑いと聞くが、でもそんなところに寢ころんで、青い楓の映る天井を眺めながら、裏山の小鳥の聲でも聽いて見たらばと思ふやうなところだ。軒先には枝ぶりおもしろい梨の木もあつて、その風情のある青い葉が客間からも食堂からも見られた。それが花から實に變る頃には澁くて食はれない『かりん』の實に似たものが成るとの細君の話も出た。果樹として無能無用に近いこんな梨の木ではあるが、風にも日の光にも敏感で、君が家族のすべての人達に愛されてゐた。
午後、和辻君は紫野の大徳寺へ案内しようと言つて呉れた。一臺の自動車は君等を載せ、お孃さんを載せ、元氣な夏彦君を載せ、家内とは舊い馴染の信子さんを載せ、そこへわたしたちまで割り込んだ時は車の上は二家族のものでこぼれるばかり。乘つて行つた先は洛北の地で、あの額田女王の古歌にある紫野のあととはこゝかとも想像して見たが、そのことはよく分らない。西陣の工藝地を通り過ぎて行つたところに大徳寺の古めかしい境内があつた。一休禪師の木像の安置してある眞珠庵を訪ねて、その一隅に遺つた利休の茶室を見る。庵主の僧も不在の時で、茶室の窓々はしめきつてあつたから、そこいらは薄暗い。僅かに案内の少年があけて呉れた一方の窓から古い床の間の壁に射し入る光線があるばかり。わたしたちは昔の人の意匠を前にして、心靜かに時を送ることもかなはなかつた。といふのは餘りに深く蒸した庭の苔は胸に迫つて來て、わたしたちの凝視を妨げもしたからであつた。人間の親和力を茶の道に結びつけた昔の人はこんなところで深く物を考へたものかなどと、とりとめもないことを想像しながら、その庵を辭した。歸路には往きと同じ道をとつて、新開地らしい町の出來たところを車の上から見て通り過ぎた。洛北の郊外も今は激しく移り變りつゝある。
十二日。
ゆうべ家内を連れて三條の大橋近くまで歩いて見た。
京都に見るべきものと言へば、何人なんぴとも先づこの都會に多い寺院に指を屈するが、それらの多くは長い年月の間に改築されたものであり、原形のまゝな記念の建築物の殘存するものは少數にしか過ぎないと聞く。現にわたしたちが見て來た大徳寺の眞珠庵も改築されたものの一つであつた。これは京都が幾度か兵亂の巷となつて、その度に、町も建物も改まつたことを語るものであらう。物語に見る朱雀大路のあとなぞも今は尋ぬべくもない。自分一個としては、この都會に多い寺院よりも、むしろ民家や商家の方に心をひかれる。その民家、商家に見つけるものの感じは、概して簡素で、重厚だ。
今度京都に來て見て意外にめづらしく思つたことはいろ/\あるが、衣、食、住、共に禪家の意匠から發したものの多く殘つてゐることも、その一つだ。遠い昔の遣唐使が支那から持ち來したものの深い影響を奈良に與へたことを思へば、多くの有爲な僧侶が宋時代あたりの支那からこの京都に持ち來したものの多いといふことも、不思議はないかも知れない。
すこし風邪の氣味で、けふは一日千切屋に暮した。青年時代の昔に、江州の方から旅して來て、京都魚の棚、油の小路といふところに泊つて見た日のことが胸に浮んで來る。佛蘭西から旅の歸りに激しく疲れたからだを休めて行つたのも、鴨川の河原から來る照りかへしの暑い日であつたことなぞも浮んで來る。家内は晝過ぎから和辻君の家へ行つて、夕景に戻つて來た。細君や信子さんも若王寺から話しに來た。
十三日。
和辻君の周旋で、午前に二條城のあとを見ることが出來た。君等とわたしたち兩人は、思ひがけない人に案内されて、今は離宮となつてゐるあの歴史的な建築物の内の深さに入つて見た。午後に、和辻君等に別れを告げた。三日の滯在は短かつたが、わたしたちは君の家族をこの地に見るだけにも滿足した。南の一方に開けて、東と北と西とに山を負ふ盆地の地勢をなした京都の市街の一部を君等が住居の二階から、又、樂しい樹蔭の多い若王寺の裏山の位置から望み見るだけにも滿足した。せめてこの都會に北西の山の間が開けてゐたら、とは今度來て見て、胸に浮べたことだ。この夏季の熱と光とを防ぐために、京都人は二階を低くし、窓を狹くし、格子を深くし、壁を厚くし、部屋を暗くして住むとも聞く。これを知つて見ると、わたしは今まで漠然としか抱いてゐなかつた吾國の古典にある季節の感じを改めてかゝらねばならないやうな氣もする。もう一度清少納言なぞの書きのこしたものをあけて見たら、京都の夏がいろ/\とあの草紙の中に見つけられて、例へば結縁けちえんの説教を聽きに行つた日の暑さの描寫なぞも、今までよりはつきりと感じられるであらうと思ふ。兎に角、わたしたちは關東の氣分で京都にある一切のものを呑み込み易い。やさしい京都言葉ですら、その實弱々しいものではない。よく聽いて見れば、一語々々張りのある抑揚の響きをもつてゐる。これほどのアクセントも東京言葉にはないもののやうだ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられずにある驛々を汽車の窓から見て通り過ぎた。
十四日。
彦根滯在。
曾て青年時代の馬場君がこの地の中學に教鞭を執つたことがあり、關ヶ原を通り過ぎて上京する度に、その旅の話のよく出たことなぞが思ひ出される。わたしたちの泊つた樂々園といふは、もと井伊氏の下屋敷とか。古城のあとの一區域にその下屋敷があつて、庭も廣く、つゝじ咲き殘り、黄ばんだ六月の花は眼にある若草を一面に明るく見せてゐた。城として好いところは、城址としても好いといふある人の言葉もわたしたちを欺かない。ちやうど旅客もすくない時に泊り合せて、多くの部屋を見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ると、西に湖水の眺望がひらけて、青い蘆を渡つて來る風の涼しい座敷もある。まるまげに髮を結つた女中が來ての話に、神戸邊のある年老いた商人を一夜の客として泊めて見たところ、その人は東京への汽車の往き還りにいつかこの彦根に泊つて見たいと心掛けながら、漸く六十年の間に一度の思ひを果すことが出來たと語つたとか。さう言へば、自分とてもやはりその一人だ。
二條城のあとを見た眼で、この彦根の城址を見ると、往時三十五萬石の雄藩として京都に對してゐた井伊氏の歴史上の位置を想ひやることが出來る。ともあれ、あの杜子美の詩にある『國破山河在、城春草木深』とは文字通りこゝに當てはまるやうなところだ。尾張、美濃のやうに今は工業の發達した地方に比べると、こゝは依然たる農業國であるが、これはこれでいゝ。こゝで味ふ彦根の米もうまい。のみならず、青年時代の旅の記憶につながれてゐるためかして、わたしは近江の自然に特別の親しみを覺える。この湖畔に旅の日を送つて、蛙の聲を聽くやうな機會がもう一度自分にあるかなぞと、そんなことがしきりに思はれた。
十五日。
歸京。
十六日。
幸ひと旅の間は一日も降られなかつた。けふは雨になつた。
 力餅といふものは大福に製して賣るところもあるが、多くは餡ころに造つて、旅する人の助けとする。先頃信州南佐久の臼田まで行かうと思ひ立つことがあつて、家族のものを引き連れ東京を出ようとしたが、折柄利根川増水の噂で信越線もにはかに不通の時であつた。餘儀なく中央線で下諏訪の方へ遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りし、途中汽車の窓から音に聞えた甲州の荒川を眺め、連日降雨の後とて川添の稻田の中には濁流のために洗はれた跡などの眼にうつるのも心許なく思ひながら、同夜下諏訪の龜屋方に一泊、翌朝は自動車で和田峠を越えた。あの峠の上まで行くと、西餅屋といふが一軒殘つて、そこで力餅を賣つてゐた。かくいふ自分は少年期から青年期へ移りかける年頃に徒歩であの峠を越し、遠く山と山との間にひらけた空に淺間のけぶりのなびくのを望んだ記憶もある。多くの旅人が道中記をふところにして木曾街道を踏んだ昔は、いづれもあの峠の上の休茶屋に足を休めて行つた跡だ。

 おのれら一生の旅の間にはいくつかの峠も待つてゐる。空腹で險路の攀ぢがたいのは、滿腹でそれの出來ないのにひとしからう。いさゝかの力餅が、さういふ時のおのれらを力づけて呉れる。こんな力餅のことをこゝに持ち出して見るといふのも、他ではない。多くの立志傳中の人物が、發憤の逸話なぞを引き合ひに出すまでもなく、この世の旅の途中に、何等かの形で力餅を味はないものは、おそらく、なからうと思はれるからである。

 力はこの世に開放された祕密のごときものであらうか。單なる肉體的なものから、深い精神に充ちたものに至るまで、あらゆる姿に於いて力は人をひきつける。たゞめづらしい力持があるといふだけでも、人は眼をみはる。遊戲として力をたゝかはせるものがあれば、それだけでも人の眼をよろこばせる。

 金剛力といふべきものが人間の大きい體躯にのみ宿るとは限らないやうだ。むしろさういふすぐれた力の持主といふものは、背とてもあまり高くなく、どちらかと言へば小柄な人の方にあると聞くのもおもしろい。不思議な縁故から、わたしは、川越の隱居を通して眞庭流の劍客、故樋口十郎左衞門といふ人の平生をすこしばかり知る機會を持つたことがある。この劍道の達人は好きな蕎麥など人並はづれて食ひ、臺所に置く昔風な銅壺附きの二つ竈ぐらゐは樂々と持ち運び、夜中の半鐘に眼をさまして、それ火事だと聞きつける時は、明治初年の頃まで東京の町々の角にあつた木戸を飛び越えるくらゐの早業を平氣でして、まことに不思議な力の持主であつた。しかも平素それを人に誇る氣色もなかつたといふことで、人もまたこの一藝に達した劍客がおよそ何程の力を貯へてゐるものやら測りかねてゐたところ、ある日、ふとしたことから夫婦で爭つた際に、さすが曲者の正體をあらはした。
 十郎左衞門は寡默の人であつたから、口に出してさう爭はうとはしなかつたが、そのかはり對ひ合つて坐つてゐる細君の膝の下へ兩手をさし入れたかと思ふと、いつのまにか細君のからだは庭の眞中へ飛んでゐたといふ。しかもすこしも細君を傷つけることなしに。さういふ十郎左衞門その人がまた、至つて小柄、小造の男であつたとも傳へられる。

 ある人が來て、力も術にまで鍛へられるには種々な修業時代を通り過ぎるとの話が出た。騎馬の術にしても、普通の騎士の場合は別にして、動きのある馬上で槍でも使はうとするほどの武道者に取つては、先づ三年は木馬に跨る修業を要するといふ。あたかもこれは、ある地方に住む蕃人等が細く鋭い漁具の鎗を用意して、流水の中に動く魚を突きさす前に、先づ西瓜の類を坂にころがし、それを突きさす修業を積むの類であらうか。
 同じ人が來て、ある病弱者が山に入り捨身になつて病と戰つた揚句に不思議な力を獲得して還つたといふ話をわたしの許に置いて行つた。弱い人間もそこまで行けば、果實ぐらゐの食に露命をつなぎとめて、人並以上の力を囘復することも出來るものか。病める身が追々と丈夫になり、高い木の枝ぐらゐには飛びつけるやうになり、しまひには重い岩石をも動かすほどの力の持主となり得たといふことだ。

 世には天性肉體の力にすぐれたものもある。さういふ力の持主はどこの國でも人に騷がれると見える。佛蘭西あたりの少年の讀本の中にもすぐれた力持のことが面白く語つてあつたやうに覺えてゐる。どこそこの家には代々力持が出るといふやうな話のあるのを見ても、肉體の力は遺傳するものらしい。その力が婦人に傳はると、その人一代かぎりで絶えるとも聞く。川越の隱居が實母に當る人はわたしも逢つたことのないおばあさんであるが、めづらしい力を持つた娘のことがそのおばあさんの生前の咄しの中によく出たとか。飛んだ器量好しで、まことに愛くるしく見えるところから、どこかの商家にその娘が奉公してゐた頃、うるさくからかひに來る店の若者もすくなくなかつたといふ。ある日のこと、その娘は臺所を掃除しようとして、そこに有り合ふ大きな重い酒樽を片手に持ちあげ、いかにも無造作にその下を掃いてゐた。その力に恐れをなしてか、それぎり娘のところへからかひに來る若者もなくなつたともいふ。こんな愛くるしい娘の小さな肉體に宿つためづらしい力は、おそらく親讓りのものであつたらう。

 すでに肉體の力が遺傳するものとすれば、精神力といふべきものも祖先から傳はりもしようし、子孫に遺りもしよう。それの絶えることもあらう。また、それの再び生きるといふこともあらう。

 思はずわたしはこんなことを書きつけて見た。それにつけても、又聞きにしたある僧の話を思ひ出す。その人が十歳ばかりの少年の身をある寺の和尚の許に寄せてゐた頃、思ひがけない問を出されて面喰つたことがあつたといふ。和尚尋ねて曰く、『お前はどうしたら俺のやうな和尚になれると考へるか』と。そこで少年が答へた。『まゝ食つて寢て、飯食つて寢て、大きくなれば和尚さまのやうになれます』と。その答へをきくと、和尚はいきなり鞭を持つて來て少年の頭をなぐりつけたとの話である。この少年は十歳ばかりの年頃に一生忘れがたいやうな力餅を味はつたのであらう。そして、和尚から貰つた力でも、長い生涯の間にはそれを自分のものに變へることも出來たのであらう。さう思ふと、力は不思議なものだ。

 平和の使者ともいふべき姿をもつて戰亂の空に迷ひ、兵火と砲彈とのために廢墟のやうになつた市街の建造物の間に見出されたといふ一羽の鳩の風情は、かの佛蘭西近代の畫家シャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌが好んで描いた壁畫の中にでも持つて行つて見たいほどのものである。ましてそれの見出されたのは、黄浦口に臨む上海シャンハイで、東洋のマルセエユにも譬へたいところであり、かの畫家の製作を思ひ出させるやうな活きた歴史のかず/\を語る國際的の港だからである。
 この鳩を見出した西村眞琴君は昨年一月より三月に亙る上海市街戰の空氣の中で、大阪毎日及び東京日日新聞社を代表し陣中慰問使としてかの地に赴いた人であると聞く。君がそんな小さなものを見つけた深い印象は忘れがたいほどのものであつたと見え、どうかして養ひたいとの念から、困難な旅の中にもその事に心を碎き、國にまで伴なひ歸つたといふことである。當時に於ける上海の風物の薄暗い空氣に包まれた中で、何等かの安らかさを君等にさゝやき、陣中愛撫の的となつたのも、この一羽の鳩であつたらう。
 過ぐる日、西村君はわたしのもとに手紙を寄せられ、旅の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話をわたしに分ち、この鳩について何かわたしにも書きつけることを求められた。その手紙にはいろ/\なことが語つてある。當時の上海は十圓の金を投げ出しても豆一粒も手に入らないほどの死の街であつたから、君は食パンを豆の大きさにまるめ、僅かに命をつながせたとあり、青島チンタオまで伴なひ歸つて漸く豆を與へ、大連まで來て高粱カウリヤンを與へることが出來たとある。君が國に歸つた時、この鳩を大毎の傳書鳩舍に同棲させたところ、何さま遠方の客であり、それに頭上にすこし毛立ちがしてゐて、異邦人扱ひを受けるらしいのに氣づいたが、その中に一羽友達が出來たから、早速この二羽を別居させるほどの心づかひをしたとある。當時事變講演會の催しがあつて君もしば/\引き出される毎に、君はこの鳩を伴なつて行つて、鳩同志の親善を大衆に説いたとある。惜しいことに、この鳩が死んで、君が家内中で藤の根に近くその死體を葬つたのは、昨年三月二十六日の君の誕生日を迎へた頃であつたともある。
 三義とは、この鳩の名である。上海の三義里街にちなむところから、その名がある。陸戰隊長植松少將の命名にかかるものであるとか。ことしの三月二十六日には、また西村君の誕生日がめぐつて來た。ちやうど亡き鳩を葬つた日の一周年にあたり、村の人が集まつてその塚に小さい碑を立てた。上海には縁故の深い重光公使の筆によつて、その碑に、『三義之塚』の文字が記された。すべてこれらのことは君からの消息にくはしい。
 時を感じては花に涙をそゝぎ、別れを惜しんでは鳥にも心を驚かすとやら。あの多感な詩人の言葉は君をもうなづかしめるであらうと信ずる。おそらく、その鳩塚に近い藤の根にも、またことしの春がめぐつて來よう。緑はそひ、生命は活きかへつて、その碑の上に再び他日の蔭を落すことであらう。これは小さなものの名殘、短かくはあるがおのづからな親善と愛との形見である。

 私の煙草好きも久しいものだが、客でもあつて、この私に向つて、君はその敷嶋を一日に幾袋あけるかと聞かれる時はつらい。雇ひ入れた下女なぞが思ひの外な始末のいゝ人で、私の紙卷煙草の吸殼をひそかに貯へて置いて、藪入りの日にでもそれを里へ持ち歸らうとする時は、猶更つらい。好きなものは兎角隱したい。


 われ住めば、いつしか壁もまばらに、滿床こと/″\くめづらしき雪の珠を散らしぬ。時には頸を縮めて暗き涙も飮みたれど、古人が樹下のすみかを憶ひては心をひるがへしたり。

 年若くして文章の道に出發するほどのものは、先づ自分の持つものを粗末にしないことこそ願はしい。言葉の感覺にはさとくありたい。その感覺に鈍くては文章の道には到り得ない。失敗を恐れて、試みることを躊躇するやうなものも、またこの道を行き盡せない。われら幼少の頃には、食物なぞにも好き嫌ひが多かつたが、追々成人するにしたがつて何でも食へるやうになり、血氣さかんに食慾も進む年頃に達しては何を食つて見てもうまく、おほよその食物を選り好みするといふこともなかつた。さういふところを通り越してからは、むしろ食を減ずるやうになつたが、そのかはり食物の味は増して來た。さかんに多く食ふといふよりは、精しく味はつて食ふことの方に變つて來た。文章とてもその通り、さう若いうちから、噛みしめるやうな味を出さうとつとめなくとも、多く讀み、多く書き、そして多く忘れた後には、その人/\にそなはる味はおのづから出て來ると思ふ。文思、湧くがごとし。青春の時は先づさうありたい。

 市川團十郎の三十年忌が來た。妙な縁故で、わたしは芝居道に關係の深い人の家に自分の少年期から青年期を送つたから、あの名高い役者が貧しく骨の折れた時代を知つてゐるし、後には馬車で樂屋入りをした時代をも知つてゐるし、またあの人の藝を舞臺の上に見る機會も多かつた。あの人の生前に、ある日、議會の傍聽に出掛けて、歸つてから傍のものに話したといふ言葉は、又聞きではあるが今だにわたしの記憶に殘つてゐる。議員諸氏は平常の事を議するにも、あんな大きな聲を出してゐるが、もし非常時に出逢つたら、どんな大きな聲を出すつもりだらう、と團十郎は言つたとか。さすがに舞臺の人だ。その人の平常の心掛けもしのばれて、一見識ある言葉と思つた。

 世阿彌もおもしろいことを言つた。この人は能樂の太夫であり、作者であり、七十二歳の老翁になつて佐渡ヶ島へ流されたといふ閲歴をもち、觀世流の源をなしたほどの昔の人ではあるが、この世阿彌の口傳書の中に、諸道の藝の祕密も、それをあらはしてしまへば、そんなに大したことでもないものである、しかしそれを大したことでもないと言つてしまふ人は、まだ藝の祕密を知らないからだ、と教へてある。この人の書きのこしたものを見ても、さう大きな聲で物が言つてない。能の舞臺ですることに文字の風情にあたることは何かと人に尋ねられた時、それはこまやかな稽古であると答へ、その風情こそいろ/\な働きとなる初めであると答へ、舞臺の上の身づかひといふのもその風情であると答へ、さらにそれを花の風情に譬へて、濕つてしまつてはおもしろくない、花の萎れたところが面白いのだ、とさう教へてある。世阿彌といふ人が眼のつけ方も、心の持ち方も、すべてこの類だ。

 諸藝に達した人々は、こんなに小さなことを粗末にしない。大きな聲を出すことを知つて、小さな聲を出すことを知らない者は疲れる。大きく働くことを知つてゐても、小さく働くことを知らない者は退屈する。大きな言葉ばかりを知りながら、小さな言葉のあることを知らない者は悶える。
 故福澤翁に、小出しの説がある。人に物を贈らうとするのに、一時に多く贈らうと思ふことは反つてよくない、假令たとへ少しづゝでもその折にふれて何度にも贈れといふことが、翁の書いたものに見える。物は小出しにせよと教へてあるのだ。小事をおろそかにしない人でなければ、かういふことは言へない。また、かういふところへ氣もつくまい。

 うす暗い行燈や蝋燭をつけて夜を送つた昔には、それによく映る衣裳の色があつた。その行燈や蝋燭に替はる明るいランプの時代が來ると、曾てうす暗いところで美しく見えたものが、最早見られない。そこで衣裳の色が變り、風俗の好みも移る。今度はランプよりもつと明るい電燈の時代を迎へると、また/\流行の衣裳の色が變つて來た。近頃の婦人が夜の席に着る薄色の晴着なぞは、電燈時代を語つてゐないものはない。
 わたしの側へ來て、この話をして見せた人がある。世の中の流行が變る前に、すでに燈火が變つてゐるのだ。わたしたちが日頃經驗することは、これに似たものが多い。早くその照光に氣のついた者は、あるひは流行の外に立つといふことも出來よう。いつまでもランプ時代と同じつもりでゐる者は、流行の輕薄を嘲るか、さもなければその後を追ひかけるのほかはあるまい。

 トルストイがその晩年に、老子の教を探し求めてゐたといふことは床しい。思想とは完成するにつれて殼を脱ぐやうなものではあるまいか。あらゆるものを見盡し、あらゆる試錬に耐へ、その志を弱くし、その骨を強くするところまで行つて、萬苦を經て後に思想無きに到つたやうな人が老子ではあるまいか。

 わたしはパスカルのやうな思想家で宗教的な生涯を送つた人が數學の天才で早い青年期に既に高遠な數理を考へた人であつたといふことに日頃深い興味を覺える。大地に堅く足をつけてかゝつた歐羅巴人が近代に根を張つたことの決して偶然でないことを想ひ見る。先づ生活力の基礎となるべき數理を會得することだ。眼前の事物にばかり囚はれないことだ。想像力を豐かにして、數の美を感知することだ。形、面、積、量、質、長さ、高さ、廣さ、深さ、厚さ、距離、位置、度數、速力、配合、組立等の持つ美を感知することだ。この數理の觀念と美の結合は、私達の生活を簡素にすることに役立ち、やがて新しい創造に向はせることになる。このことは建築や工藝ばかりでなく、文藝上の制作にも重要な働きをすると思ふ。(印度經典の文學がいかに無限大、無限小の想像に富むかを見よ。古人の設計になる茶室の簡素がいかに數量の美に基くかを見よ。)私の周圍には、すでにこのことを言ひ出した人もある。かうした時代に順應して、出來るだけ私達の生活を單純にするためには、數理をおろそかにしてはならない。

玉露凋傷楓樹林
巫山巫峽氣蕭森
江間波浪兼天涌
塞上風雲接地陰
叢菊兩開他日涙
孤舟一繋故園心
寒衣處々催刀尺
白帝城高急暮砧
 この詩、五句目にある兩開とは、兩年の秋に開くの意であり、他日の涙とは過ぎし日の涙の意である。昨年の秋に開いた菊が今年の秋にも開いて、過ぎし日の涙を催させたとの意である。六句目の故園を思ふ心にかけて孤舟といふことを言ひ出して來てあるのは、作者が山峽の間にゐて江流の涌き立つさまを眺めながら、一日も早く舟に乘つてその山峽を出たいと思ひ立つ時であつたからである。これは『秋興八首』としてある詩の一つで、作者は杜子美である。
 わたしはまだ信濃の山の上の方にゐて、千曲川のスケッチなぞをつくつてゐた頃のことであつた。當時小諸義塾の塾主であつた木村熊二翁がこの詩をわたしに示し、特にその中の『叢菊兩開他日涙、孤舟一繋故園心』の二句を指摘して、いかにこの詩の作者が心の深い人であるかをわたしに言つて見せた。それが日頃自分の愛讀する杜詩であつたといふことにもわたしは心をひかれ、これを示した木村翁が自分とはずつと年齡も違へば學問の仕方もまるきり違つてゐることにも心をひかれた。わたしは自分と同じ杜詩の愛を思ひがけないところに見つけたやうな氣がして、それからは『秋興八首』を讀み返して見る度によく翁の生涯を思ひ出す。
 青年時代にはそれほどはつきりとしなかつた杜詩の大きな背景、それらのものがこの節しきりとわたしの想像に上つて來る。言つて見れば、詩人としての杜子美は大きな現實主義者である。性格的にさう言へると思ふ。五十九歳で唐の來陽といふところに病死したといふその涙に滿ちた生涯が何よりの證據だ。さういふ點で、多分にロマンチックな要素をそなへてゐたあの李太白の質とはいちじるしい對照を見せる。杜詩の痛切な現實性は、一字一句の末にもあらはれてゐないではないが、それよりもこれらの詩の全體が語るものにこそ、まことの詩人らしさが窺はれると思ふ。

 芭蕉は六人ある兄妹の中の次男に生まれた。長兄との間に姉が一人あり、妹が三人あつたといふ。さういふ家族の中に成長したことも、少年期から青年期へかけての芭蕉には大切なことであつたらう。幼名金作、後に甚七郎、元服しての名を忠右衞門と言つた芭蕉が伊賀の山の中で送つた少年時代の記憶は、それがいろ/\な形となつて後年の句作の中にあらはれてゐるのではなからうかと思ふ。芭蕉の句には深い山の中の空氣を感じさせるものがあるが、わたしはそれを作者が少年時代や青年時代の記憶とひき離しては考へられないやうな氣もする。
 父松尾與左衞門とは、どんな人であつたらう。主家藤堂氏とても、伊賀上野の代官として五千石を領したといふくらゐだから、當時にあつてそれほど大きな知行取りではなかつたらしい。宗房時代の芭蕉が若君の從士として、藤堂家に仕へ、そこに藤堂良忠のやうな人を見出したことは奇縁と言ふべきである。

月の鏡小春に見るや目正月
あちこちや面々さばき柳髮
うかれけり人や初瀬の山ざくら
糸櫻こやかへるさの足もつれ
 芭蕉二十一歳から二十四歳頃へかけての青年期の句である。
 若主人藤堂良忠は貞徳の流れを酌み、貞室と季吟とに師事し、談林派の宗因とも交り、自ら蝉吟と號したといふほどの人である。この人の伊賀上野の家中に與へた感化は大きいものであつたらう。當時の人の句を編んだものには、伊賀の作者三十六人を數へるといふ。芭蕉は二十三歳の頃に、この好い若主人を失つてゐる。この人の死が年若な芭蕉に取つて深い打撃であつたことは爭はれまい――假令、その遺骨を高野山に納めたなどの説はよく分らないまでも。

降る音や耳もすうなる梅の雨
夕顏にみとるゝや身もうかりひよん
荻の聲こや秋風の口うつし
女夫鹿めをしかや毛に毛がそろふて毛むつかし
雲とへだつ友かやかりの生わかれ
 芭蕉二十四歳より二十九歳頃へかけての句である。
 實に、句の姿はいろ/\に動いて、若い作者が精神の動搖のはげしさを感じさせる。あるひは貞室に行き、季吟に行き、あるひは宗因に行きして、暗いところに物を探り求めてゐたやうな芭蕉のことがわたしの想像に上つて來る。

波の花と雪もや水のかへり花
この梅に牛も初音と鳴きつべし
富士の風や扇にのせて江戸土産
近江蚊屋汗やさゞ波夜の床
庭訓ていきんの往來誰が文庫より今朝の春
雨の日や世間の秋を堺町
 これは芭蕉が三十一歳より三十六歳の頃へかけての句である。
 芭蕉がどうして江戸へ出るやうになつたかは明かでないが、これは伊賀上野の藤堂家を辭し、江戸に生活を送つた頃の作である。俳諧作者として漸く一家を成さうとする芭蕉が、いろ/\の意味で修業を重ねたのも、この頃であるらしい。
 芭蕉とても伊賀時代から、いきなり野ざらしの境地に飛び込んだではない。いろ/\な人の世話になり、いろ/\な仕事にも關係して、江戸の市中に流寓してゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省し、京都に赴き、歌道の奧儀について季吟から教へらるゝところの多かつたといふもまたこの時代である。

夜ルひそかニ蟲は月下の栗を穿つ
いづくしぐれ傘を手にさげて歸る僧
盛りじや花にそゞろ浮法師ぬめり妻
夕顏の白ク夜ルの後架に紙燭とりて
櫓の聲波ヲ打て腸氷る夜やなみだ
髭風を吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
 これは三十七歳より三十九歳の頃にかけての句である。俳諧革新の意氣は、先づこの『虚栗みなしぐり』の破調となつてあらはれて來てゐる。其角その他の氣鋭な詩人の中心として、當時の芭蕉を想像して見ることもおもしろいと言へばおもしろいが、實はこれらの句、隨分危く、讀み返して見るとひや/\する。芭蕉にもこんな試錬の時代があつたかと思ひやられる。
 しかし芭蕉には、すでに伊賀を出る頃から『雲とへだつ友かや雁の生わかれ』のやうに、一句の姿を聳え立つやうに仕立てる傾向がなくもない。この傾向は『虚栗』の時代にはげしいはけ口を見つけてゐると思ふ。かういふ傾向が作風の單調を破つて、あたかも山脈の骨のやうに、ずつと後年の圓熟した作の中にまじつて出て來てゐることも見逃せない。

 よく見れば芭蕉には、この時代にすでに次のやうな句もある。
雪の朝獨り干鮭ほしかを噛み得たり
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
 更にまた次のやうな句もある。
はせを植てまづにくむ荻の二葉哉
あさがほに我はめしくふをとこ哉
世にふるはさらに宗祇のやどり哉
 こんな風に芭蕉はまことの詩人らしい眼を開いて行つた。新しく興つた元祿の俳諧と、すでに先蹤のあつた天明の俳諧との相違も、そこにあると思ふ。わたしは芭蕉の青年期を振り返つて見て、この人にもこんな彷徨の時代があつたかと考へる。それほど周圍は暗かつたのだ。談林風の輕い滑稽はあつても、生氣の充實した好いユウモアに達し得たものはなかつたのだ。さういふ中で、芭蕉がいろ/\なものを振ひ捨てゝ、『猿蓑』の深さにまで詩の境地を進めて行つたあの不斷の努力と精進とを想ひ見ると、あれほど動搖の多かつたその青年時代もまたなつかしい。おそらく年若い頃の芭蕉が才氣にまかせて歩いた路はわたしたちの想像以上ではなかつたらうか。何程の精神の革新がそこに持ち來されたことだらう。さう想つて見ると、あの『一つぬいでうしろに負ひぬ』の更衣の吟も、たゞの旅路の口ずさみとは思はれない。

 明治維新に對する本居宣長の位置は、あたかも佛蘭西革命に對するルウソオの位置に似てゐる。彼に『ヌウ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ル・エロイズ』があれば、是に物のあはれの説があり、戀愛の説があるのも似てゐる。わたしは儒教風な男女關係の教に對して大膽に戀愛を肯定して見せた最初の人は明治年代の北村透谷だとばかり思つてゐたが、本居宣長の戀愛觀に接した時に、この自分の考へ方を改めなければならなかつた。この人の戀愛生活を探つて行つて見たら、どんな思ひがけないものが、出て來まいものでもあるまいといふ氣もする。兎もあれ、あのルウソオと殆んど時代を同じくして、東西符節を合せたやうに『自然に歸れ』と教へた人が吾國にも生れたといふことは、不思議なくらゐに思はれる。假令、その『自然』の内容に關しては、東西おのづから異なるところがあり、さう概括的には言つてしまへないまでも。
 本居宣長は新しい時代を感知しそれに呼びかけ、又その道をあけたといふべき人で、徳川時代を見渡したところ近代人の父とも呼ばるべきはおそらくこの人かと私は心ひそかにさう思つて來た。


 これを書いた頃のトルストイが部屋の外には、すでに薄暮が迫つてゐたやうな氣がする。彼は部屋を明るくしようとして燈火をつけた。それがこの基督傳だ。トルストイの長い生涯の中でも、『アンナ・カレニナ』製作後は別人の觀があるが、今度わたしはこの書を手にして見て、それほど彼を變へたものは彼の内部よりも、むしろ外部にあつたらうといふことを感知した。さすがに、これが簡淨な筆で書かれてあることは譯文によつてもよく窺はれて、かの釋迦の言行を録した阿含の精神にも近いかと思はれる。


 人生の冷たさ、温かさを簡潔な筆に盡して、姿あはれに情深きはチエホフの作品である。傳ふるところによると、曾てアンドレエフはチエホフの『三人姉妹』を舞臺の上に見、これこそほんたうの人生だと言つて、涙の流れるのを禁じ得なかつたといふ。このことは移してチエホフの全作品にあてはまる。すぐれた外國作者も數多くあるが、その中でわたしの最も好きな作者の一人はチエホフだ。彼こそまことの『笑』をこの世に持ち來した稀な文學者だ。
 頃日、中村白葉君はチエホフの全著作を邦語に移すべく思ひ立ち、すでにその初期作品の飜譯を一卷に纏めたと言つて、わたしのもとへも新裁の譯本一册を分けて贈つてよこして呉れた。わたしはよろこびのあまり、早速君へ手紙を出して、君は好い仕事をはじめて呉れたと書き送つた。白葉君は『ライフ・ワーク』としてチエホフ全著作集の邦譯に着手せられたと聞く。これほど熱心で責任感の強い譯者が原作者の愛をわたしたちにまで分けられるとは、何と言つてもうれしい。おそらく、どんな氣質を異にしたものでも、この譯本を手にして、原作者が天才の誠實に打たれないものはなからう。またその表現の的確で、豐富なのに驚かないものはなからう。文字の純粹性の何であるかをさゝやいてわたしたちを勵まして呉れるのもかうした著作だ。わたしはこの十六卷の邦譯が完成されることを切に希望する。


 バルザックに就いては今更多言を費すまでもない。問題は今日に於いていかにバルザックを讀むべきかにあらうと思ふ。バルザックに歸れとは世界大戰以前の當時に本國の佛蘭西に起つた一つの聲でもあつた。從來、吾國にはバルザックを知らうとするものはあつても、その著作の英譯せられたものはすくなく、比較的早く彼の作品に接した人達の中でも數種の英譯を手にし得たに過ぎなかつた。他の佛蘭西近代の作家にくらべて、彼の著作が吾國に傳へらるゝことのすくなかつた理由の一つは斯うした事情によるのであり、今一つは彼の大きさと深さとに入るためには相應の年月を要するからであつた。今囘、佛蘭西文學に精進する諸君の手によつてバルザック全集邦譯のごとき困難な仕事が企てられ、その著作の全貌を窺ひ知る機會の與へらるゝことは、何と言つてもよろこばしい。バルザックを讀む準備はわれひとの間に、すでに十分出來てゐると信ずるからである。


『一日として事なき日なし』といふことを座右の銘としたゾラを今日に生かして見たい。彼は本國の方でも廣く讀まれ、その著作には多數に呼びかける要素を多分に持つた作家であるから、彼が今日の日本に出現したとしたら持前の健筆で忽ち日本の大衆をひきつけたことであらう。彼は現實を掴み出して紙の上にひろげて見せる逞ましい力に富んだ作家であるから、現代日本を觀察して何を捉へ何を赤裸々に描寫するか、興味ある問題となつたであらう。彼は實驗的な方法を文學に取り入れようとした作家であるから、かなり簡潔で、且つ明快な日本文を書いたであらう。彼は人間の獸性を突きつめて行く作家であるから、現代の社會を背景に取り入れた日本的ナナの物語が多くの讀者を戰慄せしめたであらう。然し彼は大衆に悦ばれるやうなものを書いても淺くなく、現實を曝露しても冷くなく、實驗的であつても濕ひがあり、好色の男女を描いても生氣と健康とを失はない。彼が現代日本の社會にそゝぎ入れるものは、何より先づこの生氣と健康とであらねばならぬ。彼の死後本國の方に擡頭した多くの文學者はいづれも彼の缺點を感知して起つて來た。彼とても全く人間を書き得たとは言へなかつたかも知れない。しかし、私は上に述べたやうな意味で、ゾラの叢書の飜譯を歡迎する。あのドレフュウス事件では人道のために惡戰苦鬪した彼が先輩ルウソオと枕を並べて巴里のパンテオンに葬らるゝ人となつたことさへ不思議であるのに、今またその遺著が現代の日本に要求され、諸家の筆に譯さるゝ日を迎へたことは、おそらく生前の彼が夢想だもしなかつたことであらうと思ふ。

 再吟味といへば、當然それをされていゝ人で、未だに等閑にされてゐる明治年代のすぐれた人もある。岡倉覺三の生涯なぞはその第一に數ふべきであらう。自分の好みにおもねるではないが、東洋と西洋との文化をほんたうによく噛み碎いた彼の著作こそは、明治年代がわたしたちに遺して呉れた最もいゝ遺産の一つと言つていゝ。いつぞやわたしは織田正信君の厚意で、かねて長いこと心掛けてゐた彼が東洋美術に關する諸論文を讀む機會を得た。彼がその創見に滿ちた『東方の諸理想』の中で教へてゐることは、ひとり東洋の美術にのみ止らないで、文學にも宗教にも哲學にも亙つてゐる。明治時代に岡倉覺三のやうな東洋の諸美術と文學宗教との關係に對する廣い知識と洞察力とをもつてゐた人があつたといふことすら不思議なくらゐだ。彼天心居士が日本、南北の支那、及び印度地方の美術に關する熱心な探求は、あたかもかのウ※[#小書き片仮名ヰ、271-11]ンケルマンが希臘美術の探求に比べて見たいもので、おそらくその研究の困難は獨逸人のそれにも過ぎたものがあつたらうと思はれる。おそらく近代に『東洋』を發見したもので、彼の所説に負ふところのないものは少なからう。岡倉覺三こそは、まことにわたしたちが好い教師の一人である。

 先年、私は山陰の方へ旅をして、鴎外先生の郷里の方まで行つて見たことがある。石見いはみの國の高津川に沿うて行つたが、長州の國境に近い山間の小都會に津和野と云ふ町があつて、そこが先生の郷里であつた。そこ迄行くと、長州的な色彩も濃くなつて、石見からするものと、長州からするものが落ち合つたやうな感じを受ける。ちやうど、眞水と鹽水の落ち合つた感じのする町であつた。私は自分の郷里が、信濃の國境にあつて美濃に接近してゐるところから、さうした津和野のやうなところには特別の興味を覺えた。
 そこに養老館がある。津和野の藩校の跡が殘つてゐる。少年時代の先生は、そこで學ばれたものらしい。その構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながらに、津和野のミュウゼアムと云へるのも珍らしく思つたが、その養老館の跡に學則風のものを書いた古い額が殘つてゐた。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術としてあつて、鴎外先生の學問はこれだ、と思つて見て來た。後年に軍醫でもあれば、國學と漢學と洋學とに精通した學者でもあり、また、たくさんな創作や飜譯を殘された作者でもあつた先生のやうな人が生れて來たことは、偶然ではないことを知つた。先生は文學の上で言葉の世界を豐富にしたばかりでなしに、今日陸軍で行はれてゐる軍事上の術語なぞも多く先生の考案によると云ふことを聞く。行くところとして可ならざるはないやうなその才能は驚かれる程で、博物館の館長も勤まれば、國語調査會の會長も勤まると云ふ人だつた。若い者の仕事などを喜んで助けると云ふやうなさう云ふ麗はしい性質を多分に持つてゐた人で、小山内君が自由劇場を始める時に、先生はイブセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を口譯し、それを鈴木春浦君に筆記させて與へたこともある。小山内君の新劇運動にも、その蔭には先生のやうな人の助力があつた。

 いつぞや正宗君、里見君と同席で、先生の噂などが出た折に、一體先生は東西の文學者の中で誰に私淑したらうかと云ふ問が出た。その時私は、先生が日頃の言説から押して、それはゲエテであらうかと答へて見た。そこで、ひとしきり私達の話はゲエテの生涯と先生の生涯の比較になつた。私はあの席で、二君にも話したことだが、ゲエテの生涯には何事につけても、身を以て當ると云ふところがあつたと思ふ。そこから、『若きヱルテルのわづらひ』のやうな青春の書も生まれて來たし、生の肯定の苦しみを描いた『ファウスト』のやうな劇的な主題を取り扱つたものも生まれて來たし、またあのゲエテの晩年に見るやうな深い自然觀にも到達したかと思ふ。そこへ行くと鴎外漁史は違ふ。先生はあの通りな明徹の人であつたから、何事にもゲエテのやうに深入りしなかつたのではなからうか。それにゲエテは先生の行き方ともちがひ、むしろ感性に重きを置き、感情こそ一切だと言ふやうな人であつたから、その生涯を先生に比較することがすでに無理かも知れない。

 鴎外先生の長い文學生涯から言つても、澤山な創作を殘されたのは先生の文體が一變してから後のことのやうである。『スバル』に『三田文學』に、先生の書かれるものは一頃よりは却つて若々しくさへ見えた。あの『舞姫』から出發せられた頃に思ひ比べると、表現の方法からして別人のやうになつた。先生のやうに長く精力の續いた人もめづらしい。幸田氏なぞがあの創作の筆を收めて、默し勝ちに暮さるゝやうになつても、まだ先生は長い歴史物を書いて倦まない人であつたところから見ると、やはり先生の内には他の先輩とちがつた『青年』があつて、あたかも古葉のためにも煩はされずに、絶えず若葉する老樹のやうな力を持ち、晩年になつてもまだその力が衰へずにあつたかと思はれる。


 シェークスピアを讀み直して見ることは、ある意味に於いて西洋文學を讀み直して見ることである。これはひとり東洋人ばかりでなく、西洋人にとつてもまた大切なことで、これまで幾度かその讀み直しが行はれ、そこから獨逸流の新解釋も生れ、佛蘭西風の見方も起り、トルストイのやうな人の異説ともなつた。われらとてもシェークスピアの如き西洋文學の代表的な作者をよく知らねばならない。今日國文學の研究熱がさかんに興つて來てゐる時に當つて、シェークスピア全集讀み直しの機會が與へられたことは、偶然なこととも思はれない。過去の經驗によれば、國文學の復興はたゞ單獨にはやつて來ない。それには必ず外國文學に對する新しい情熱を伴ふ。その意味から言つても、今囘中央公論社の發起によつて、坪内博士の新修シェークスピア全集が發行される日の來たことをわたしは多くの讀者諸君と共に悦びたい。
 わたしがこれを書いてゐる日は、讀者諸君はすでに清楚な新裝の成つた譯本の一部を手にせらるゝ頃かと思ふ。試みにあの『ハムレット』や『以尺報尺』の中に書いてある博士の緒言と附記とを熟讀したまへ。おそらく諸君は西洋文學探求の決してゆるがせにすべきでないことを感知せらるゝであらう。ありのまゝに言へば、わたしは博士の譯筆に接して、どうかするとあまりの輕さにまごつくこともある。しかし、シェークスピア文學のやうな古典を、殊に『ハムレット』のやうな戲曲を、どういふ言葉でこの國に移し得るかをも考へて見る。これは、かのウイルアム・アーチャアがイブセンの散文戲曲の英譯を企てたにも勝るとも劣ることのない困難な仕事だ。何よりも先づこの骨折と、熱心とは尊い。
 讀者諸君のために言へば、わたしはこの國の貞享元祿の作者達が、あるひは『五人女』を完成しあるひは『曠野集』八卷を編むより八十餘年も前の方に、先づ諸君の想像を誘ひたい。この國の徳川家康が晩年にも當る頃に、『ハムレット』が初演せられ、出版せられたことを想ひ見てもらひたい。その風俗も、その言葉も、またその感情も、おのづから後の代とは異ならうではないか。言つて見れば、十六世紀末から十七世紀の初へかけてのシェークスピアの時代は、まだ/\歐羅巴の中世的なものが多分に殘存した時であらう。新舊時代のものの入れまじつた時であらう。そのことはハムレットその人の複雜な性格の中にも見出されるであらう。彼はわれらの時代の人に近い近代人であるばかりでなく、同時に遠い昔の人のやうな中世騎士の面影を具へてゐる。あたかも、わが國元祿時代の近松、西鶴、芭蕉等の文學に新興の氣象の溢れてゐるやうに、シェークスピア戲曲の面白味もまたさういふ新舊の色彩の錯綜したところにあるのではあるまいか。その作品には縱横自在に筆が振つてあるにもかゝはらず、何となく古雅で、十九世紀初期の諸詩人の作風の涼しさ新しさとおもしろい對照を見せてゐるのは、いはれのないことでもない。
 今から四十餘年前に、西歐の文學を探らうと志した明治青年の多くは、佛蘭西のモリエールやコルネエユに行かないで、先づ英吉利のシェークスピアに行つた。これは外國交通の便宜と言語の習得等の事情によることは勿論であるが、大體の選擇に於いてわれらの先輩もかなり要領のいゝ人達であつたと思ふ。といふは、ダンテの高さを望み見るにしても、ゲエテの深さに思ひを潜めるにしても、先づシェークスピアから入るといふことが踏み迷はない好い道だからである。このことは四十餘年後の今日にもあてはまる。諸君は安心して西洋文學の定石をこゝに見出すことが出來る。これを後の近代文學に比較して見ようと、どうその發展の跡を辿らうと、諸君の勝手である。この集の中には西歐の傳説を骨にした幾多の戲曲もあつて、讀物としても多くの興味を諸君に與へるであらうと信ずる。わたしはこの好い機會に、シェークスピアの讀み直しを諸君に薦め、今日誰もが無關心でゐられる筈もない西洋文學の長所短所を一層はつきりと感知せらるゝことを切望する。

 教育のことはその源に遡らなければならない。それには少年期に於ける情操の養成をゆるがせにしてはならない。人の一生が殆んどその發芽の時代に決すると言つてもいゝことは、誰しもこの世に經驗するところである。その源をおろそかにして、どうしてまことの智をたつとび、まことの徳に從ひ、まことの美を愛するといふことが出來よう。濱田廣介君はこゝに見るところがあつてか、郷土と民族とに根ざすことの深いまことの童話を教育に結びつけることを思ひ立たれた。これはトルストイが晩年に到達した教育事業の精神にも近い。その意味から、わたしは君が新しき出發を祝し、志操の堅きこと十年一日の如き君のためにこの應援の言葉を送るものである。

 畏敬する吉江喬松君が世界文藝大辭典編輯の大きな事業も着々その工作を進め、今やその第一卷を刊行し、第二卷刊行の日もまた近きにあるであらうと聞く。これは東洋方面の文化の覺醒を期待して、世界のそれに合流せしむることの眼に見えない一つの港を造らうとするがごときものである。吉江君はその起工の始めに當り、多くの希望を抱いて出發せられたもののやうである。編輯者としての君が所謂『現實に徹して理想に向ひ、國民意識に徹して世界意識に伸展する力』とは則ちこれを造らうとする君の意圖を語るもので、そのために君の用意された比較研究と歸納實證の方法は、あたかも海波をせきとめるために築きあげた港の堤防に譬ふべきものであらうか。もしこれが無事に竣工されたあかつきには、凡ゆる種類の文藝思想藝術を載せた何百の船がこの港に碇泊すると言ひ盡すことも出來まい。雄大な氣象はおのづからそこに感ぜらるゝであらう。吉江君はこの世界文藝大辭典のはじめに序して、『我邦の文藝は今や世界文化の表面に第二の大きなルネエサンスを呼び來すべき重要な使命を持つて進展しつつあるのである』と言ひ、『その時機は徐々に近づきつゝあると感ずる』とも言つて、曾て東洋の宗教哲學思想藝術を集大成した我日本は更に第二の重要な綜合時期に邂逅しつゝあることを警告し、最も公平無私に世界文藝の現象を追究し得る立場に置かれてゐるものは現在われら日本人を措いて他にないとなし、その當然の責務を遂行することによつて文藝意識の高揚を計るこそ、目下の急務であると語つてゐる。おそらくこれを造るために今日まで費された努力、またこれを完成するまでの努力は莫大なものであらう。わたしは君が志をさかんなりとし、多くの讀者諸君もまたこの良い企てに協力せらるゝことを勸めたい。これは尋常一樣の辭典ではない。

 最近に、わたしは昔の人の筆になつた『童蒙入學問』といふ本を開いて見て、すくなからず心に驚いたことがある。といふは、昔の人が子供の讀本にと書いて與へたのはこんなむつかしい言葉であつたかと思ふからであつた。わたしは又、それらの教へ草があまりに嚴格で、教訓的なのに驚きもした。さういふわたしは木曾の山村に生れ、あの深い森林地帶に自分の少年時代を送つたものであるが、父は熱心な子弟の教育者であつたから、わたしも父から與へらるゝまゝに、よく聲をあげてそれらの昔の教へ草を暗誦したことを覺えてゐる。わたしは子供心にもそれらの著者を尊敬することは知つてゐても、どうしてもその内に入つて行くことは出來なかつた。反つて家の圍爐裏ばたにゐる爺さんなぞの話しかけて呉れる言葉の方に耳を傾け、子供にもわかり易い昔話、解き易い謎、さては田圃や畠の間にころがつてゐるやうなお伽話に、言ひ知れぬ親しみを覺えたものであつた。このわたしたちの幼少な時分に思ひ比べたら、今日の兒童は遙かに幸福であると言へよう。何と言つても、新しい兒童の文學がこの國に開拓されたのは、明治以來の文學者がそれまで在り來つた堅く狹苦しい制約を破つて、言葉と文章との一致といふことを考へたところから始まる。この愛兒讀本の著者、小野君もやはりその歴史を見て來た人の一人で、おそらく言葉と文章とを結びつけることの歡びにかけては、わたしたちと感を同じくせられるであらうと思ふ。さてこそ、この讀本に見るやうな、やさしい言葉も生れて來たのである。まつたく、幼いものに話しかけることの樂しさ。もしその言葉が子供の耳にも入り易くて、直ぐにも彼等に親しまれるとしたら、どんなにうれしからう。もし又、その言葉が子供にとつて面白いばかりでなく、彼等幼いもののおのづからな性情を養ひ、その胸を開かせることに役立つとしたら、どんなにうれしからうと、君が新著のはじに書きつけておくる。


 これまで文筆に從事するものが各自の作品を持ち寄つて一つの集をつくり、友とする人、あるひは師とする人に贈つたといふことはあるが、こゝにわたしたちが作品を持ち寄つたやうに雜誌經營者の多年の骨折に報ゆるため一つの集をつくることは、おそらくこれを初めとする。
 今更言ふまでもないが、いかに筆執り物を書く英才が雲のやうに起る時代でも、適當な發表の機關なしには叶はぬこと。明治以來の新しい文學がとにもかくにも民間の事業として今日までの發達を見たことは、いさゝかわたしたちが自らの慰めとし勵ましともするところであるが、それにはわたしたちに幾多の舞臺を提供して呉れた人々の力に待つことも多かつたことを想ひ起さずにはゐられない。
 明治年代以來、わが國に於ける雜誌の發達にも驚かれるものがある。成程、明治以前には澤山な書籍はあつた。しかし、雜誌のあつたといふことを聞かない。芭蕉、近松、西鶴時代の人はもとより、秋成時代から降つて京傳、馬琴、種彦、三馬時代の人になつても雜誌に物を書いたといふことは聞かない。まつたく雜誌の經營はわたしたちの時代に起つた一つの新しいあらはれで、もしその發達のあとをさかのぼつて見るなら、そこにもこゝにも活きた歴史の光景を指摘することが出來るであらう。自分の狹い視野の範圍から言つても、これまで雜誌のいとなみはつねに書籍刊行の事業に先んじて來たやうである。民友社、政教社、乃至女學雜誌社と數へるまでもなく、明治年代に看板をかゝげはじめた博文館のやうな大規模の出版會社までも書籍を後にして雜誌を先にした。これは編輯、印刷、發賣の便にもより、資金の囘收と市場の關係等の種々な事情から誘致されたことであらうが、しかしそれのみとは決して言ひがたい。それにはかうした氣運を導いた人々のあつたことを見逃せない。何といつても書籍の刊行には明治以前からの長い傳統もあり、それに携はる人々は仕事の性質からも兎角舊套になづみ易かつたのに引きかへ、雜誌の經營は多く活溌な新人の仕事で、その足どりも輕く、時を見る眼のさとさにもすぐれてゐたと言はねばならない。今は故人となつた瀧田君なぞはたしかにその一人に數へられるべき人であらう。
 瀧田君が雜誌の仕事に心身を投じはじめた頃の中央公論社はまだ新世帶であつて、同君は社主の麻田君を相手に臺所の相談にも預かれば、編輯も切り盛りし、廣告文にまで自ら筆を執るといふ風であつたと思ふ。わたしが瀧田君を知るやうになつたのも明治三十九年以後のことで、同君の新しい出發はやはりわたしたちと同じやうに日露戰爭以後の一大轉換期に際會した頃であつた。反省雜誌以來の中央公論が面目をあらため、文學の創作欄にも大に力を入れるやうになつたのは、その頃からであつたと記憶する。わたしは西大久保の方にあつた舊居でも、淺草新片町の方にあつた書齋でも、よく瀧田君の訪問を受けたが、一面には同君は文學の愛好者で、わたしたちが寄稿するものをところ/″\暗誦し、時には同君一流の批評を試みるほどの熱心さであつた。あの瀧田君が血の氣の多い頬、つぶらな眼、特色のある縮れ髮、それから堅肥りのした精力的な體躯なぞは、今だにわたしの眼にある。
 こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。あの瀧田君の記憶と中央公論とはわたしには引きはなして考へられないものであり、今日わたしたちがこの集のために作品を持ち寄るにつけても、一片懷舊の情禁じがたく、同時に瀧田君が後繼者としてその仕事を幾倍かに擴げた嶋中君に望むことも多いからである。こゝろみに日露戰爭以後の文學に縁故の深かつた雜誌でわたしの胸に浮ぶものを數へて見ても、太陽、新小説、文藝界、文章世界、それから舊早稻田文學、藝苑、新古文林、帝國文學なぞ、いづれも今は過去のものとなつた。その中にあつて中央公論が創立以來五十周年を今日に迎へると聞くことは異數とせねばならぬ。この長い骨折はわたしたちとしても感謝していゝ。
 わたしは今、他の諸君と共に、こゝろざしばかりのものをこゝに持ち寄つた。又、これを機として、めづらしい作品集の出來たことを一つのよろこびともし、この集の内容にはかゝはりのないやうなこんな寢言をしるしつけて、序の言葉にかへたいと思ふ。

 龍の髭の紫、千兩、萬兩、藪柑子やぶかうじ、さては南天の白と紅。隱れたところにある庭の隅なぞに、それ等の草木の實を見つけるのはうれしい。寄贈を受ける諸雜誌の讀物の中から、木の實や草の實にも譬へたいやうな二三の言葉を拾つて見ようと思ふ。
『河』といふ同人雜誌には、以前毎號の卷頭にゲエテの言葉を譯載した。あれは拾つても/\盡せない美しい珠のやうなものばかりだつた。その中に『自然には進化はない、變化があるばかりだ』といふ意味の言葉なぞはいかにもゲエテのやうな人が到達した境地らしく思つた。
『三田文學』新年號を讀む。譯載してあつた論文の中に、ヘエゲルの表現によればとして、『矛盾なるものはすべての領域――從つて藝術的上層建築の領域に於いても亦――に於ける歴史的過程の指導原理である』との一句には心をひかれた。
 佐藤春夫君が編輯する『古東多滿』を讀む。その中に、ロダンの彫刻の特質を一つの氾濫と言つてある高田博厚氏の文章にも心をひかれた。彼ロダンの價値はこの多樣の氾濫から一つの要素を要約したことにあると云ひ、併しこの失敗の多かつた氾濫は彼の性癖や好みから直接來たものではなくて、むしろ彼の飽くことのない『自然探求の努力の成果である、ロダンほど彫刻を自然の要素に於て見た者はない』と云つてある。『あくどいまでに貪婪どんらんなロダンはそれだけの犧牲を拂つた。彼の歩む道は簡單ではなかつたのだ。複雜を極め、また困難であつた。さうして寧ろ彼は「理想」や「原則」を主張せず、手放しで彷徨したのだ』とある。この言葉も忘れがたい。理想や原則に嚴しく自己を縛りつけてしまはないで、むしろ失敗の多かつた氾濫に身を任せたロダンのやうな彫刻家もあつたのだ。
『思想』新年號を讀む。高坂正顯氏が論文の中に『我々は歴史を理性に於いて見るかはりに理性を歴史に於いて見なければならない』といふ言葉にも心を引かれて、氏の言ふ時に關する四つの見方の前に連れて行かれた。『一つは過去から現在を經て未來に向ふ時であつた。二つは未來から現在を經て過去に向ふ時であつた。三つは現在から過去と未來とへ行く時であつた。四つは永遠から過去、現在、未來へ降りてくる時であつた』とある。氏はこの見方から、單なる過去は歴史ではなくて現在に於いて生命を有するもののみが歴史であると言ひながらも、猶、發展する歴史が歴史の全部でなく、歴史の全部が連續的なのではなく、歴史は現在の内に盛り盡し得ざる深き意味を過去に止めることを指摘して見せてゐる。
 雜誌ではないが齋藤勇君が編輯する『文學論パンフレット』の中に、ヰルバア・エル・クロスといふ人の『近代英米小説』が出てゐる。織田正信君の譯だ。その中に『文藝の革新には常に幻想を伴ふものである』との言葉を見つけた。幻想を伴ふもの必ずしも文藝の革新にのみ限らないやうな氣がして、あの言葉も忘れがたい。

『著作生活を始めようとする時に私の書生流儀に考へたことは、兎にも角にも出版業者がそれ/″\の店を構へ店員を使用して相應な生計を營んで行くのに、その原料を提供する著作者が食ふや食はずに居る法はないといふことであつた。それからまた私の考へたことは、從來著作者と出版業者との間にわだかまる幾多の情實に拘泥して居るよりも、むしろ自分等は進んで新しい讀者を開拓したいといふことであつた。
 ――私が柄にもない自費出版なぞを思ひ立つたのは、實に當時の著作者と出版業者との關係に安んじられないものがあつたからだ。何とかして著作者の位置も高めたい、その私の要求はかなり強いものであつた。その心から私は書籍も自分で造り、印刷所や製本屋へも自分で通ひ、自分の作品を直接に市場に送り出さうとした。私はその資金を得るに苦しんで、北海道の方にある親戚を訪ふために日露戰爭當時の空氣の中を小諸から遠く旅したこともある。私の最初の長篇は前半は小諸で書いたが、それまでの教員生活から離れてあの作を完成し得るあてもなかつた。私は書きかけの長篇の草稿を抱いて山を降りる前に、親しい友人の助力を期待して小諸から志賀の山村まで深い雪の道を踏んで行つたこともある。私の「緑蔭叢書」が世に出るやうになつたのも、あの友人の勵ましに負ふところが多かつた。
 ――自費出版で思ひ出す。「緑蔭叢書」は數寄屋橋の方にあつた秀英舍の工場で印刷した。一體、私は木曾のやうな田舍に生れて、少年時代に自分の着る物でも食べるものでも多くは家で手造りにしたやうなものであつたから、そんな幼少の頃からのならはしが自然と私の内に浸み込んで居て、自分で自分の本を出すといふ場合にも物を手造りにするやうな悦びを覺えた。それに私は書齋の中に引込んでばかり居るよりも、時には工場を訪ひ製本屋を訪ひして、いろ/\な職業の違つた人達の間に交ることをも樂しみに思つた。あの叢書の最初の製本が出來た日、私は本を積んだ荷車の後について、數寄屋橋から神田の裏神保町まで歩いたことがあつた。丁度雨降り揚句の蒸し/\と暑い日であつた。高い足駄ばきであの神田河岸の乾いた道を踏んで行つた時のことは忘れられない。』
 これは『著作と出版』と云ふ題下に最初讀賣新聞へ寄せた感想の一節で、その後、自分の感想集『市井にありて』の中にも入れてあるから、讀者諸君の中には既にそれを讀んだ人もあらうかと思ふ。
 今になつて、私は、この『緑蔭叢書』の自費出版が自分等の道を切り開くことに於て深い關係のあつたのに思ひ當る。私は、どうしたら、從來、著作者と出版業者との間にわだかまる情實などに拘泥せず、もとつ廣々とした自由な天地へ踏み出して行かれるかと考へ、一方には江戸時代から引き續いて來た作者氣質を脱して、もつと著作者の位置を高めなければならぬと考へて、その結果、この自費出版の方法を思ひ付いたのであつた。
 このことは明治年代の文學を振り返つて見る人たちにとつて、あまり、顧みられてゐなかつた。さう云ふ人たちは、私が最初の長篇小説の試みであつた『破戒』が、新しい文學の進出に一轉期を劃したものと云ふ風にのみ考へてゐるやうに見えるが、自分としては、どうも、さうばかりとは思はれない。勿論『破戒』のやうな作が多少の刺戟を文壇に與へはしたであらうが、あの小説が自分の微力をこめた單行本でなしに、もつと他の違つた形で世に送り出されたとしたら、恐らく、あれほどはつきりとは自分等の進み得る道を開拓し得なかつたらうと思ふ。
 そこで、私の長い著作生活を通じて、この『緑蔭叢書』の出版は、最も深い思ひ出の一つとなつたわけである。
 今日のやうに印刷術も進歩し、素人が書籍を出版することも困難でない時代に、私の執つた方法なぞも珍らしいことではないかも知れぬが、私の『破戒』を出した頃は出版界も狹苦しく、印刷術などもまだ割合に幼稚で、五六百頁からの長篇を獨力で世に送り出すと云ふことも、なか/\容易な業ではなかつた。當時は活字に對する知識なども幼稚で、本の組方なども極めて粗雜に考へられてゐた。一頁の天地左右の開きなぞも、殆んど定まつた意匠の下になつたやうなものではなく、極めて無雜作に組み入れられると云ふ状態であつた。さうしたことに注意する人も少く、又、考へる人もなかつたかと思ふ。
 やむを得ず私はハイネマン社の出版になる小説本の組方を參考に天地左右の開きを定めたこともある。私は又、なるべく、無駄を省いて本を造りたいと思ひ、奧附が必ずしも本の最後に、と云ふ風に考へなくも、それを扉と一緒にしようかとまで思つたこともあつたが、それはあまりに極端だと云ふ、當時上田書店に居た小酒井五一郎君の話で思ひ止まつたこともあつた。
 これらは一例に過ぎないが、私も年若くあつたから、あの本を世に送り出すについては、かなり心を碎いた。
『緑蔭叢書』の出版は小さな試みには相違なかつたが、進んで新しい讀者を開拓すること、自分等の著作生活を築くこと、其の他いろ/\のことを私に教へたのも、あの自費出版であつた。

老年は私が達したいと思ふ理想郷だ。今更私は若くなりたいなぞと望まない。ほんたうに年をとりたいものだと思ふ。十人の九人までは、年をとらないで萎れてしまふ。その中の一人だけが僅かに眞の老年に達し得るかと思ふ。
 こんなことを物のはしに書きつけて見たのは、今から十四五年の前にあたる。その頃の私は孫の可愛さといふものを經驗したこともなかつたから、自分の子供のそのまた子供から初めて『おぢいさん』と呼ばれた時の氣持は、果してどんな深刻なものだらうと考へて、まことの老年は孫の愛から始まるといふ風に想つて見たこともあつた。さういふ自分には最早孫が二人も出來た。しかしまだ/\私はほんたうの老年の世界を覗いて見るといふところへすらも達してゐないやうな氣がする。
 こゝに『高砂』のおきなおうなのやうな、古人の想像から生れて來た二つの像がある。共白髮の末の末までとは、下世話げせわにもよく言ふことであるが、一切をさゝげて惜まないほどの人間の情熱にすら、それを根から覆さずには置かないやうな破壞と、矛盾と、悲哀と、不安との伴つて來ることを、誰か結婚の初めに豫期しよう。さてこそ、『高砂』の翁と嫗のやうな二つの像が古人の想像に上つたのも謂れのあることだ。男女の道も絶え果て、かりそめの契りも寢物語になつたかと思はるゝ年頃に達しながら、まだあの老夫婦は二人してこの世の旅を遠く續けてゐる。さう思ふと、あの老年は深い。

 古人の言葉に、
『おふくは、鼻の低いかはりに、瞼が高うて、好いをなごじやの、なんのかのとて、いつかいお世話でござんす。』
 これは、名高い昔の禪僧が殘した言葉で、おふくが文を持つ立姿の圖に、その畫賛として書かれたものであるといふ。假令たとへ鼻が低いと言はれようが、瞼が高いと調戲からかはれようが、女の身ながらに眼を見開くなら、この世に隱れてゐる寶と生命と幸福とが得られるといふこゝろもちを、いかにも輕く取り扱つてあるらしい。
 このおふくのことで想ひ起すのは、彼女の姉妹とも言ひたいおかめのおもかげである。共に婦人の笑顏をあらはして、遠い昔からいろ/\な繪や、彫刻や、演劇舞踊の中にまで見えつ隱れつしてゐるのが、わたしの心をひく。中世以來、續きに續いた婦人の世界の暗さを思へば、『笑』を失つたものが多からうと思はれる中で、あれは光つた笑顏に相違ない。ところが、こゝに縁起をかつぐやうなことばかりを知つて、あのおかめの面の奧を覗いて見たこともないやうな人達がある。さういふ人達が寄つてたかつて、太神樂だいかぐらの道化役にも使ひ、とりいちの熊手のかざりにまで引張り出す。折角をかしみのある女の風情も、長い間に磨り減らされ、踏みにじられてしまつた。おかめの『笑』と言へば、今はたゞ淺い滑稽の表象でしかない。人はいかなるものをも弄ぶやうになるものだ。すくなくもこの世に幸福を持ち來しさうなあの福々しい女のほゝゑみも、あれはその實、笑つてゐるのか泣いてゐるのか分らないやうな氣がする。

これは詩人川路柳虹君の紹介により、佛國巴里の佛日協會にて發行する『フランス・ジャポン』誌に寄書したもの。もとより原稿は國の言葉で書き送つたものであるが、佛文にて譯載されたのもめづらしく思ふまゝ。
 Le v※(アキュートアクセント付きE小文字)ritable cultivateur, dit-on, ne s'amuse pas avec la terre. Ceux qui ne sont pas agriculteurs peuvent s'imaginer q※(アキュートアクセント付きU小文字)ils travaillent la terre, mais, en r※(アキュートアクセント付きE小文字)alit※(アキュートアクセント付きE小文字), touchant inutilement le sol, ce ne sont pas des cultivateurs. Le vrai paysan ※(アキュートアクセント付きE小文字)vite de toucher la terre, car on s'ab※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)me la main, on ne peut supporter des travaux de longue haleine. Ceux qui ne sont pas cultivateurs se pr※(アキュートアクセント付きE小文字)cipitent pour toucher la terre de leurs mains d※(グレーブアクセント付きE小文字)s q※(アキュートアクセント付きU小文字)ils la voient. Les vrais cultivateurs soignent leurs mains et se servent de la b※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)che et de la houe. Eux seuls connaissent la vraie terreur de la terre.
 Il en est de la soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字) humaine comme du sol. En Orient comme en Occident, le monde entier est dans une grande ※(アキュートアクセント付きE小文字)poque de transition. Autour de moi, je vois de nombreuses personnes qui sont pr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tes ※(グレーブアクセント付きA小文字) toucher la terre d※(グレーブアクセント付きE小文字)s q※(アキュートアクセント付きU小文字)elles la voient. Comme ces cultivateurs qui travaillent malgr※(アキュートアクセント付きE小文字) le vent et la pluie, nous ne devons pas oublier d'utiliser la houe et la b※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)che. Je crois que les Hindours et les Hell※(グレーブアクセント付きE小文字)nes anciens savaient comment se servir de ces instrurments, et q※(アキュートアクセント付きU小文字)ils avaient le c※(リガチャOE小文字)ur ※(グレーブアクセント付きA小文字) la t※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)che.

 芝三縁亭の會は近頃こゝろもちのいゝ集りであつたと言つてよこして呉れる人があり、徳田秋聲君はじめ諸氏よりの招きを受けたことはありがたかつた。果して自分は作の目的を達したのか、それとも失敗したのか、それすら分らないやうな仕事に、過ぎた祝意を寄せられて恐縮する外はなかつたが、兎にも角にも身は無事で『夜明け前』二部を書き終ることの出來たのはうれしい。わたしの周圍にはこの仕事の濟むのを待ち受けて横濱の方に新しい家庭をつくらうとしてゐたものがあり、二卷の書を活字に組ませ、校正し、印刷に附し、製本させて世に送り出すまでの心づかひも容易でなかつた上に、にはかに訪ねて來る客は多く、頼まれる用事も多く、この二月ばかりたゞ/\あわたゞしい日を送つた。こゝには過ぐる七八年の思ひ出などすこし書きつけて見る。
 著作するものの勞苦は説くもせんなきことであるが、田山花袋君はあの通り精力も衆にすぐれた人でありながら、それでも折々は私にむかつて勞作の苦を訴へられたことがある。年老いてから筆が持てなかつたといふ古人の話をよく持ちだしたのも同君で、その古人は手に筆をしばりつけながらでも書いたと私にいつて見せ、筆執り物書くからにはそこまで行きたいといふ話なぞの出たこともあつたと思ふ。私は又、トルストイほどのたくましい精力の人でも、『アンナ・カレニナ』を書き終つた時には非常に疲れて、細君がロシア風な酢乳を造つてその夫に飮ませたといふ話を思ひだし、それを同君の前に持ちだしたことなどを覺えてゐる。私が長い仕事に取りかゝる頃は花袋君はまだ達者でゐたが、さすがに著作の經驗の多い同君は年四囘發表といふやうな私のやりかたを危ぶまれ、今度の飯倉の仕事はおそらく一年とは續けられまいかと人に向つて語られたこともあつたとか。その私がどうやら仕事を續けてゐるうちに、心配してくれた同君の方が思ひがけない病氣にかゝつた。作の出來不出來は別としても、二卷にまとまつた本をあの友達の手に取つて見てもらへないことはまことに殘念に思ふ。さういふ私は年若な頃とも違つて今では少量の食しかとらないし、あの友達なぞに比べると三分の一の仕事も覺束ない。人一倍強壯な體格の持主であつた花袋君が先に亡くなつて、自分のやうなものが生き殘つたことさへ不思議なくらゐだ。
 この仕事をはじめかけた頃、次男と三男は相前後して歐洲への畫學修業に遠く旅立ち、長兄の連合つれあひにあたる嫂が青山の親戚の家の方で亡くなつた。昭和四年の六月のはじめ、まだ梅雨の季節のやつて來ないうちに自分がこの作第一部の第二章を書き終つたのは、病床にあつた花袋君の一時快癒を聞く頃であつたと思ふ。中央公論誌上でわたしの發表しはじめた序の章はいくらかでも同君の無聊を慰めたかして、例の鉛筆で次の一詩を葉書にかいて寄せられたことも忘れがたい。
 讀『黎明前』序章賦呈
想起曾縢馬籠驛
萬山雲湧卷還舒
大溪幽壑藍青淀
仄屋斜簷深奧岨
盛列諸侯騎前蹕
亂槍敗將釜中魚
[#「月+童」、U+81A7、291-3]朧日出襯今代
君作一篇足
 この詩、花袋君が形見としてわたしの手許に殘つた。第一部の第二章までをあの友達に讀んで見て貰へたことも今は思ひ出の種となつてしまつた。

 まだわたしは長い仕事の跡片付もすつかり濟ましてゐない。『夜明け前』を書くためには、作の性質から言つても參考となるべき種々な舊い記録を讀まねばならなかつたから、その都度各方面から借り受けた古帳日記の類は追々と返して來たものゝ、まだそれでも自分の手許にはいろ/\なものがそのまゝ殘してある。あれも返さねばならない、これも返さねばならないと心には掛りながら、たゞ/\休息したいと思ふこゝろもちで一ぱいなのが昨今のわたしだ。木曾王瀧村松原氏の庄屋古帳、中仙道追分宿土屋氏の名主古帳、信州埴科郡新地村山崎氏の名主古帳、木曾福島宿公用記録、妻籠本陣の御年貢皆濟目録及び本陣日記、馬籠宿役人蜂谷源十郎のつけた八幡屋覺帳の類は、街道筋その他のことを知る上にそれ/″\好い參考になつた。古い記録といふものも讀みがたいものが多く、反古裏ほごうらに書込みなどしたのもあり、お家流の書體でしかも走り書の文字を辿つてゐるときなぞは、まつたく茫然としてしまふこともあつた。しかし、それらの記録を殘して置いて呉れた人達があつて、明治維新前後の民間の事情もどうやら今日に辿られるやうなものだ。そのあるものを讀むと、木曾谷を領してゐた尾州徳川家では寛政年代の昔に名古屋藩としての觸書を出して、谷中のものが所持する源敬公時代以來の古記録を徴集した事蹟のあることなぞを知る。わたしはこの作をするにつけて今の尾州徳川家の蓬左文庫に負ふことも多い。

 大黒屋日記(年内諸事日記帳)の一節に曰く、
『中のかや(馬籠宿一部落の小名)五兵衞參り、土産に玉子十一惠み下され、就いては伜貞助當年拙者方へ預け、手習、算術など教へ、手すきの節は酒つぎなりと致させ(大黒屋は造り酒屋なれば)、厄介ながら頼みたきよし申し候につき、至て兩爲メと相成り候やと存じ、引き請け申し候。尤も、日柄見合せ、遣はさるべきやう申し遣はし候。(文久三年一月十八日)
右につき、二十四日に、五兵衞伜同道にて參り、兩三年も世話を頼むとあり。赤飯、さかな、柿など土産あり。』
 これを見ると、大黒屋日記の筆者は手習ひ子なぞをも教へたと見える。當時のお家流をよく書き、狂歌狂句の一通りは心得てゐた町人と見えて、物の捉へ方や記述する筆づかひにもなか/\性格が面白く出てゐる。
 この日記の筆者は大脇信興といひ、通稱を兵右衞門といふ。わたしの郷里の人で、今の大黒屋の當主大脇文平君の曾祖父に當る。この隱居は以前のわたしの家の上隣りに住み、郷里馬籠の宿場時代には宿役人の年寄役及び問屋後見として、わたしの祖父とは日夕相往來した間柄であつたらしい。この隱居の一番日記は文政九年、同じく十年、十一年の三ヶ年間の日記帳より成るもので、それをつけはじめたのは三十歳の頃かと思はれる。さういふ日記帳が二十七番までも文平君の家に仕舞つてあつた。最初のうちはわたしもあの隱居が二十七番の日記を殘したこととのみ思つてゐたが、そのうちに文平君からまだ四册殘つてゐたと言つて送つてよこして呉れたのを見ると、實際は三十一番まであつて、隱居三十歳の頃から七十餘歳まで、年代から云へば文政九年から明治三年までおよそ四十餘年間に亙る街道生活の日記帳である。それを見ると、御傳馬御改めのことから、飛脚、問屋場附米及び附荷、御救ひ米の賣出し、水損じの見分け、木曾街道の御用出勤、御繼立のことが出てゐて、宗門改めや罪人追放のことも書いてあり、疱瘡に罹つて途中に病死した旅人のことも書いてあり、通行の記事としては、諸大名、御鷹方、大阪御番衆、例幣使、尾州御材木方、寺社奉行をはじめ、公儀御普請役、御奉行道中取締役、各宿日〆帳簿御改め役等の諸公役から、伊勢や善光寺への參詣者、江戸藝者、義太夫語り、長唄の師匠、太神樂なぞの諸藝人、稀には畫師や算術の先生までがあの宿場に入り込んだことも書いてあつて、およそ街道に關することはわたしのやうに宿場全盛の時代を知らないものにも手に取るやうに分る。昭和二年のはじめには、わたしはすでに『夜明け前』の腹案を立ててはゐたが、まだ街道といふものを通して父の時代に突き入る十分な勇氣が持てなかつた。といふのは、わたしの祖父や父が長い街道生活の間に書き殘したものもいろ/\あつたらしいのであるが、日清戰爭前の村の大火に父の藏書は燒けて、參考となる舊い記録とても吾家にはさう多く殘つてゐないからであつた。これなら安心して筆が執れるといふ氣をわたしに起させたのも大黒屋日記であつた。その年にわたしは一夏かゝつて大脇の隱居が殘した日記の摘要をつくり、それから長い仕事の支度に取りかゝつた。

 好かれ惡しかれ、わたしたちは父の時代を知らねばならない。それをするには、わたしはやはり『言葉』から入つて行つた。『言葉』から歴史に入ることは、わたしなぞの取り得る眞實に近い方法だ。それを思ふと、おのづから讀み出でた歌や、根氣につけた日記や、その他種々な記録を殘して置いて呉れた過去の人達には感謝しなければならない。

 過去をさぐればさぐるほど、平素のわたしたちが歴史上の知識と呼んで來たものも、その實はきはめて曖昧なものであつたことを知る。といふのは、兎角わたしたちは先入主となつた事物の見方に支配され易いからである。『夜明け前』には嘉永六年以來の木曾街道のことが書いてあるから、あの中には參覲交代の諸大名や公用を帶びた御番衆方などの通行の記事がよく出て來るが、やれ何百人からの人足を木曾谷中から寄せただけではまだそれでも手が足りなかつたの何のと、大袈裟なことばかり。ところが、あの地方に殘つた古帳なぞをしらべて見ると、今日わたしたちの考へでは信じ難いやうな事實があり/\ と隱れてゐるのだから驚かれる。

 過去が無造作に掘り起せるものでないことは、今度わたしも『夜明け前』を書いて見て、つく/″\それを思ひ知つた。昔は一藩の家老が地方を巡見したといふだけでも、ちよつと今日の尺度ものさしにはあてはめられない。どんな遠近法をわたしたちが見つけるにしたところで、それは『言葉』の現實性を目安にする外はないと思ふ。信州埴科新地村の山崎氏方には天保九年度の『御巡見樣御馳走、御役人樣御宿、御書上帳』なるものが殘つてゐる。それは松代藩の家老一行があの地方を巡見した折のことらしいが、その書上帳によると、家老上下三十人(御馬一疋)、使者上下九人(馬一疋)、奉行は道橋奉行の組を合せて上下十九人(馬二疋)、火消三人、足輕衆十人、代官上下五人、醫師上下十二人、祐筆四人、附添勘定上下八人、徒目附上下三人、大工頭八人、小頭二人、道橋元締二人、賄方手代二人、同じく目付三人、先拂と注進〆て六人、飛脚二人、手※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り二十四人、掃除方八人、仲間十四人、張番組十二人、駕籠十八人としてあつて、それに宿方の物貸宿、人馬割場、圍宿、近村の役人宿、馬宿、名主から、御宿詰御勘定亭主役、手代、料理人までが書き出してある。一藩の家老が地方巡見の際にすら、その蔭にはこれほどの人の動きがある。過去に隱れてゐるものはこの類だ。

 同じ中仙道筋でも、追分宿には問屋場の他に街道を通過する荷物の貫目御改所なるものが設けてあり、そこには陣屋役人の詰所もあつたやうで、その構造は備後表の縁付へりつきの疊を敷いた瓦葺の建家と、葺おろしの下家との二軒より成り、その坪數も三十三坪餘はあつたといふ。これなぞは特別の構造と見てよく、普通中仙道筋の問屋場は二間幅ほどの表入口に三尺の板庇をつけ、入口は障子、敷居下は羽目板にして蹴込みを取りつけ、宿役人の詰所の方も二間四方ばかりあつて、板縁の押入れが取りつけてあつたものらしい。馬籠宿本陣附屬の問屋場の構造も先づそんなところであつたらうと思はれる。

 街道筋の宿役人がおよそどんな風に地方の世話をしてゐたかは、追分宿の年寄役をつとめてゐた土屋氏の古帳なぞにその邊の消息が窺はれる。文政六年三月附で、地方諸書類の控として書かれたのは、左のごときものである。
    覺
一 御水帳        四册
一 御割附       十三通
一 御年貢皆濟目録   十三通
一 御林御繪圖面      一
一 御年貢取立帳    十三册
一 宗門人別帳      三册
一 五人組帳       一册
一 村差出明細帳     一册
一 御用留控       一册
一 諸運上取立帳     五册
一 鐵砲水車運上取立帳  三册
一 御林下草永小前割賦帳 一册
一 口訴状寫       一通
一 博奕御觸流町内受書  五通
一 田畑裏印控      一册
一 小前より取置き候書付 二袋
一 御役所御※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)状留書   五册
 右の外、文化九年度の分には、田畑取調帳、田畑反別帳、貯穀小前帳、御檢見内見帳、貧民一件、その他がある。何と言つても水帳はこれらの諸書類の筆頭にあるくらゐだが、徳川時代の末にはさういふ水帳といふものも宿役人の手には渡されず、田畑字附高名寄帳なるものをその代りに渡され、それを水帳と心得て收納の事を勤めたとのことである。筆のついでに、當時の宿役人が藩の諸奉行なぞを案内する折のことを言つて見るなら、普通の場合は羽織に無刀、扇子を差し、村の境目まで出て、そこに控へ、案内すべき人の駕籠の兩側へ二人づゝ附き添ふ心得で、いろ/\指圖を受けるやうにしては勤めたものらしい。

 こんなことをこゝに書きつけて見たところで多くの讀者には興味もないかも知れないが、『夜明け前』序の章の第一節にある『水役』といふ言葉一つの意味をさぐるだけにも、ずゐぶんわたしは無駄な骨を折つた。わたしの祖父や父があの街道筋に働いた頃の馬籠宿には、二十五軒の御傳馬役と、三十二軒の水役とのあつたことは確かで、そのことは馬籠の脇本陣であり代々年寄役でもあつた八幡屋の覺帳にも明記してある。ところが誰もあの水役の性質をはつきり知るものがない。徳川林政史研究室の所三男君は例の研究癖から、この水役を問題にして諸方へ問ひ質しなどされたことがあり、わたしはまた冬の季節に當つて木曾山から數多の材木を伐り出す尾州藩時代の作業のことに思ひ合せ、それを小谷狩とか大谷狩とか言ひならはして來たことにも思ひ合せて、あの御嶽山より流れ出る王瀧川その他に出て働く人達の役を、あるひはその役を勤める代りに金錢米穀等を納めさせられる家々のことを水役と言つたかといふ風に想像したこともあつた。七年もかゝつてさがして見た末に、それが傳馬役以外の雜役と解したら一番妥當であらうといふことになつた。この解釋は木曾出身の工學士遠藤於莵君を通して奈良井徳利屋の主人がわたしに答へて呉れたのであつた。過去を探らうとすると、一寸した一例がこんな場合に突き當る。尤も、分らないことは分らないなりに、讀者諸君には讀み過して貰つて、それでいゝ。わたしはその流儀だ。

 それにしても、『夜明け前』の中にはわたしの説明不充分で、書いてあることの意味が讀者諸君に通じかねるやうな箇處もすくなくはなからうと思ふ。第一部第六章の一節に、『馬は四分より一疋出す、人足は五分より一人出す』といふところがあるが、あれなぞも一ヶ年の石高百石を標準にすることを斷るべきであつたかも知れない。伊那の谷の方から木曾下四宿へ繼立てを應援し人馬を補充するために出た助郷といふものも、正徳二年の昔までは十六ヶ村であつたが、翌三年には二十八ヶ村に増した。といふのは、正徳三年に尾州公が徳川直屬の代官に代つて木曾福島の關所を預ることになり、したがつて街道筋の繼立てもにはかに頻繁になつたからであつた。それでも當時の伊那助郷は、百石につき人足は四人半、馬は一疋半の程度であつた。天保年度となると、人足だけでも百石につき十七人二分餘の激増を示してゐる。わたしは伊那村民と宿驛との關係にかけて、この助郷のことを重く見て書いた。そして、地方の百姓でも、町人でも、結局繋がるところは交通と深い關係にあることを感じた。

 中央公論誌上に年四囘づゝ自作の續稿を發表した折、その都度わたしは他郷の人には耳遠い地方語や、過去に流行しても今日では用ゐ方の異なつて來た言葉や、あるひはすでに死んだ言葉や、その他特殊な言葉を見つけることも多かつたが、それを取りいれて草稿を作る場合にも一々自註を附けては置かなかつた。讀んで見て呉れる方でも、その煩はしさには堪へなからうと思つたからである。第一部第三章の二節目の中にある小谷狩、大谷狩、それから木鼻、木尻の作業なぞの言葉も註なしにはどうであらう。

 木曾山の背伐りといふ言葉は、序の章に出て來るし、その他の場處にも書いてあるので、ある人から背伐りの嚴禁を犯すとはどういふ意味かと、その解釋を求められたこともあつた。伐採を禁じられてあつた檜木なぞの一部を、立木のまゝ削ぎ取り、樹木の皮だけをそつくりあてがつて置いて、山中見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りの折の役人の眼をかすめるのをいふ。

 街道筋の人がよく使用する店座敷といふ言葉のことは、草稿の附記の中にも書いて置いたと覺えてゐる。店座敷とは表座敷の意。店といふ言葉は商家にのみ用ゐられたのではなく、單に表といふ意味で、一般の家庭にも用ゐられた時代があつたと考へていゝやうだ。あの多くの旅客を相手にして朝夕を送つた人達が街道に接した表座敷を店座敷と呼び、問屋場につゞく會所の内の宿役人の詰所にも、本陣の屋根の下にも、その名のあつたことは、いかにも往時の宿場にふさはしい氣がする。

 日本評論社の主催でわたしの『夜明け前』についての座談會があつた晩、わたしは古い記録なぞをしらべてゐる中にふと見つけた言葉のことを言ひ出し、當時の流行語として昔の人が特に使つたと思はれるやうな言葉のあることを言ひ、ちよつと今日使はないやうな場合にもさういふ言葉を使つたらうと思ふと言つた。その一例として、第一部第二章の牛方事件の中には年寄役金兵衞の言葉として、『隨分一札を入れさせ』とあるのをそこへ持ち出した。あゝいふ時の隨分などといふ言葉は、あれは當時流行の言葉ではなかつたかとわたしが言つて見た。すると座には宇野浩二君や室生犀星君などがあつて、隨分といふことは今でも隨分言つてをるといふ話が出た。しかしわたしの言はうとした意味は兩君の隨分とはすこし違ふ。その時、金兵衞の隨分とは屹度きつとの意味だと言ひ出したのは山崎斌君であり、出來るだけの意味に用ゐたのだと言ひ出したのが幸田成友君であつた。『隨分一札を入れさせ』なぞとは、いかにも面白く昔の人が使つてゐたやうに思はれ、言葉に籠る陰影には言ひ盡せないものが顯れてゐる。

 後日の思ひ出に、蘭醫ケンペルのことをもこゝにすこし書きつけて置きたい。ケンペルに關したことは、わたしの稿では第二部のはじめの方に出してあるが、元祿年代に渡來したあの蘭醫こそ、長崎出島の和蘭屋敷内に歐羅巴風の植物園を開いた最初の人であるといふ。おそらく萬里の波濤を越えて持ち來した和蘭藥草の種子が初めてこの國の土に蒔かれもし又根づきもしたのも、ケンペルの開拓した植物園であつたらう。往時の長崎奉行とも言ひたい風俗の士が從者と共に異人の間にまじつてその靜かな園内を逍遙するさまを描いたものは、銅版畫としても殘つてゐる。蘭醫の大家として名高いシイボルトがずつと後になつて長崎に渡來し、この先着の同國人が殘した植物園を見た時は餘程の感慨を覺えたものらしい。シイボルトがケンペルを記念するために園内に建てた碑は今は長崎の公園の方に移されてあるといふ。わたしはその碑文の譯を見たこともあるが、今だにあれは忘れがたい言葉としてわたしの胸に殘つてゐる。どういふ人の筆になつたものか知らないが、その譯も好い。
『緑そひ、咲きいで、そが植ゑたる主をしのびては、めでたき花のかつらをなしつゝあるを。』
 今度の仕事が第二部第二章までを中央公論誌上に發表した頃、匿名の人よりわたしは葉書を貰つた。それには、『貴作「夜明け前」を雜誌の上で缺かさず愛讀してゐるものです。「中央公論」七月號のも拜讀いたしました。その中で、三十五頁の十三行目に、「大阪平野の景色」云々といふところは河内平野ではないかと思ひます。或ひは河内平野の方がよいかと思ひます。あの邊の淀川は河内(現在北河内郡)を流れて居りますから。大變失禮ですが、一寸氣がつきましたので御參考に申し上げる次第です。』としてあつた。この注意はありがたいと思つて、次囘を發表する時に訂正を附記し、併せてその厚意をも謝して置いたが、匿名の人の誰であるかは分らなかつた。過ぐる日、芝三縁亭の會で宇野浩二君と一緒になつて見ると、あの葉書を呉れた愛讀者とは君であつたとか。あんなに思ひがけなく、またうれしく思つたこともない。

 餘事ながら、第一部を通讀したしるしにと言つて、織田正信君を介してその愛藏する『慊堂遺文』二卷を贈られ、自分を勵まして呉れたY博士のやうな人もあつた。過ぐる七年の間、わたしは自作草稿の第一部を作るために三年を費し、第二部のためには四年を費したが、こんなに月日をかけたことが決して自慢にならない。むしろそれら一切を忘れたい。

めづらしき友とあひ見て語らへばくやしくも我は耳しひてあり
耳しひてあれども何かくやむべきあひ見るだにも難しと思へば
有明
 郷を去つて飄然西の方へ下つて行つた武林無想庵君が途中からの葉書便りを受け取つて見ると、同君は靜岡に蒲原さんを訪ねたと書いてよこして、同じ葉書に有明君の筆でこの歌二首かきつけてある。『めづらしき友』とは武林君のこと。あの『草わかば』、『春鳥集』、『有明集』の作者に、今日の不自由さが待つてゐようとは誰しも思ひがけないことで、耳ひた詩人からの便りを机の上に置き、しぐれがちな初冬の夜の空氣も身にしみる電燈のかげに、二首の歌を繰り返し讀んで見た時は思はず胸が迫つた。

 歐羅巴人の見地よりする古代印度の研究者として名高く、吾國から巴里に遊んだ學者達をはじめ多くの日本の留學生を愛した佛蘭西大學のシル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・レヰイ老教授のことは知る人は知る。あの佛蘭西の學者も近く故人となつたと聞く。
 レヰイ教授は、アインシュタインなぞと同じやうに猶太ユダヤ系統の人であつた。あの教授の家庭では他の佛蘭西人のそれと變つたこともないが、たゞ一年に一度、家族の人達と共に黒パンを食ふ日が定めてあつたとのことである。これは猶太民族が埃及エジプトを出た遠い昔を記念するための年中行事の一つとして、教授の家庭に行はれてゐたことであるとか。今は東京の天文臺に在勤する福見尚文君は長いこと巴里に遊學時代を送つた篤學の人で、レヰイ教授の家族とも親しかつたところから、わたしは同君を通してその話を聞いたことを覺えてゐる。ことしの冬、教授のを耳にするにつけても、曾てわたしは巴里の植物園の近くに住む家族の人達から茶の會や食事なぞに招かれたことを思ひ出し、わたしが國から遠い旅の記念にもと用意して行つた茶、椿、銀杏、沈丁花なぞの日本産植物の種子を贈つたのも教授の許であつたことを思ひ出した。一年に一度の黒パンは何でもないことのやうだが、民族の長い歴史にかけてそれを記念するところに教授が心の奧もしのばれて、あの話は忘れがたい。

 異國の教授の上ばかりでなく、過ぐる七年の月日の間に亡くなつた老幼の舊知を數へて見ても驚かれるばかり。小山内薫君、岡野知十君、いづれも今は故人だ。根岸の岡崎幸之助君は舊姓池田と言つて、高橋の河岸の角に薪炭問屋を營んでゐた岡崎家を相續した人で、京橋數寄屋河岸の泰明小學校へ通つて來られた頃はわたしも共に机を並べた少年時代からの友達であるが、その人なつこい性質は年を取つても變りがなく、時にはこれは昔の岡崎と思へと言つて記念の置時計を持つて來て呉れたり、時には互にいそがしいからだでも一つどうかいふ日を見つけて湯河原あたりへ骨休めに同行したいものだと言ひ出したりして、ことしの蜜柑の黄色くなる頃こそはと、その約束までしてあつたのに、この舊い馴染も最早この世にはゐない人だ。不思議な縁故からつながれるやうになつた浦島堅吉老人、幼い加藤二郎さん、川越の老母、この人達もまた亡き數に入つてしまつた。殊に、川越の老母は東京生れの人であつたところから、自分の長い仕事が一ト切りになる頃を見計らつては、一年に四度づゝは必ず東京の町中の空氣を吸ひに、上京することを樂しみにし、『はい、今日は』とでも言ふべきところを、『はい、只今』などと言ふほどにしてわれらが家の格子戸をくゞり、昨年、一昨年、一昨々年の冬もわれらと一緒に年を越して、短くても二十日、どうかすると三十日も四十日も長く家に逗留したものであつた。この老母まことに話はおもしろく、茶と音曲と料理の道にも明るく、かず/\の美しい性質を具へてゐたことは稀に見るほどの老婦人で、自分が長い仕事を終るまでは是非達者でゐると言ひ/\して、ことしの六月の上京をも心待ちにしてゐたといふことであつたのに實に惜しいことをした。

 いへは舊く、身もまた舊い。これは岡野知十君が遺稿の中に見つけた言葉であるが、このまゝ今日の自分の上にもあてはまる。二疊の玄關は茶の間への廊下續きに當るところで、路地からの風も吹き入り夏は涼しい。ことしの暑中にも午後からはそこを讀書の場處にして、日除ひよけがはりに路地の片隅へ造りつけた朝顏棚の方へ行くことを慰みの一つにして來たが、いつの間にか枯れ/″\な蔓のみが疎らな竹の垣に殘るやうになつた。夏は深い日除になり、秋は黄葉の落ちるまでを味はせ、冬はまた物干場のかはりになるのも吾家の庭の片隅にある青桐だ。しかし、どうやら七年の重荷をおろすことの出來た自分にはこの舊い屋根の下もなつかしい。今は身も心も僅かに輕くなつたやうな氣がする。

過去を探ることの容易でない一例として、この覺書の中にも書いてある木曾路の『水役』につき、自分の知り得たことをすこし記しつけて見る。木曾奈良井に住む徳利屋主人より遠藤工學士宛の手紙によれば、奈良井邊でいふ水役とは檜職人の役で、勞役はせず、金錢にて納め來つたものであるとのこと。同地水役の家は檜物手形を一戸分一兩一ヶ年に納金する株で、配役の一人分は三朱づゝ。されば一兩の株の外に當役の時は四朱を負擔せしものであるともいふ。このことは同地にある九十一歳の老人によつて判明したと徳利屋主人の手紙の中に書いてあつた。
水役が傳馬役以外の雜役を意味することは、その後、福井縣下味見の高島正氏といふ人から貰つた便りで一層判明するやうになつた。同氏は自ら六十六翁と書いて、次のやうに説明してよこして呉れた。
『水役は、老生の居村――農山村にては、人別帳後に一村を合計して、高持何軒、水役何軒と記しありて、高持に對する無高を意味し、誰々水役より高持になると記録に特記して身分の向上を慶びたり。現今の如き戸別割の賦課なく、藩主への税納を高に割賦せし時代の無高は村にても蔑視され、高持とは同座し得ず。最賤なる水酌役、即ち雜役に使はれ來りし語なるが如し。水役は一に雜家ざふけ――(雜役家の略か)と言ひ慣はし候。猶、序に申上げ候、慶長年代以來の所謂水帳とは※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)地帳、則ち高附帳の意ならんと存じ候。老生藏する慶長※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)地帳によるも、水帳とは建築の際に水平を※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)して最初に張る繩を水繩と稱するより來りしものの如し。右は水役の水とは同語なれども、意は大に異なり申し候。』
未知の讀者の厚意からわたしの疑問が解けたのはありがたい。それにしても、こんな風に過去を探つて行くとなると、一つの言葉の意味を知るだけでも容易でない。眞に考證の正確を期することは、わたしたちの手の屆かないところにある。知らないことは知らないなりにとゞめて、わたしたちの領分は別にあると考へていゝかと思ふ。

 苦さ、甘さ、寂しさ、侘しさ、あるひはまた樂しさ――晝寢の味もいろ/\である。花蓆はなむしろの一枚に、汗をはじく枕でもあれば、それでことが足りて、涼しい風の吹き入るところに身を横にすることも出來る夏の晝寢も無雑作でいゝが、冬の日にはさうもいかない。われら年若いころには、日の長い暑中でもめつたに晝寢をするといふことはなかつたが、年をとるにつれて、その味を覺え、この節はごく日の短いさかりでも、とき/″\寢たりなぞする。追々たがのゆるむのを忘れて横着に構へるといふわけでもないが、先づ一仕事濟んだといつては横になり、こんなにしてはゐられないといつては横になる。どうかすると、枕もとに古い煙草盆を引きよせ、好きな煙草を一服やつて、さて眠られても眠られなくても、靜かに横になるのを樂しむこともある。

 小泉八雲といふ先生は、この人も寢ることにかけてはわれらの友達仲間であつたと見え、いつぞや山陰地方へ旅し先生の遺跡を訪ねた折に、その故家に先生遺愛の古い枕を見出した。黒い漆を塗つた小さな木枕であつた。そのところ/″\漆の剥げるまで生前愛用されたらしいもので、晝寢の夢のあとはあり/\と殘つてゐた。異邦人ながらに先生が見つけたこの國の愛はそんな古風な枕の類にまで及んでゐたかとめづらしく思ひ、どんな寢心地のものか自分も一つ試みるつもりで、松江を去る時にその出雲土産を買ひ求めて來た。歸京後にそれを取り出して、ときどき試用して見たが、いかにいつても枕としては低く、木の質も堅く、新しい手拭など折り疊んでその上にあてがひ横になつて見ても、どうも自分には適しなかつたことを覺えてゐる。その後、支那出來の枕を一つ手に入れた。それはまた支那人の部屋にあつてこそよく調和するやうな赤と黄の色に塗つたもので、自分の部屋などには不似合な調度ではあつたが、支那風な好みの形にも雅致があり、寢心地も惡くない。ある年の夏、戸棚から取出して見ると、枕の隅々を鼠にかじられあまり好い心地こゝろもちはしなかつたので、それを涼しさうな和紙に貼りかへたこともある。去年の夏もそれを取り出して、汚れた紙の上に更にある人から貰ひ受けた木版刷の模樣のついた紙を貼りつけて見た。それは光悦が意匠を寫したものとかで、からくれなゐに水くゝるとはの古歌の意があらはしてあり、流れに浮くもみぢの模樣なぞはすこしなまめかしいくらゐのものが出來上つた。晝寢の友とあれば、そんなものでも笑つて濟ませる。

 なにかと心せはしく暮してゐる間にも、半日の閑を見つけ、なすべき仕事からも離れて、疲れた身を休める晝寢は樂しい。何氣なく人のいひ捨てた言葉、あるひは人の書きつけたものにふと見つけたことなぞを枕の上に思ひ出すのも、さういふ時だ。料理のことに明るい人の思ひ出として、ある雜誌の中で讀んだ若狹わかさの魚商人の話なぞもその一つだ。京都も今とは違つて、昔は魚に不自由したところであつたさうだが、若狹の方から商人のかついで來る魚にかぎつて、活き/\とした味を失はないのはどういふ譯かと、料理人仲間の噂に上つたとのこと。だん/\樣子をきいて見ると、若狹の商人が北陸の海邊から山越しに京都まで運んで來る魚荷の中には、かならず笹の葉が入れてあつて、そのために魚の味の落ちないことが判つたといふ。さすがに一つの道に精しい人達はおもしろいところへ眼をつけるものだと思つて、あの笹の葉の話は妙に忘れがたい。

 深く眠るまでもない晝寢には、手近にある古い字書なぞを引きよせて枕のかはりとしても、それでも事は足りるやうなものだ。しかし横になる時の姿勢だけは、なるべく安らかにありたい。古代のギリシャ人は片足を長く延ばし、片足をすこし折りまげた寢像の彫刻を造つて、それで眠りを表現した。よく生きることを知つてゐた古代のギリシャ人は、よく眠ることをも心得たゐたと見える。

 かつてフランスの旅にあつたころ、パリの郊外にペエル・ラセエズの墓地を訪ねたことがある。そこはフランスに名のある歴史的な人物やパリで客死したといふイギリスの詩人オスカア・ワイルドの墓などのあるところで、墓地としてもかなり廣い。岡の地勢に添うた樹木の多い區域が行く先に展けてゐるやうなところだつた。深く分け入るうちに古めかしく物錆びた一宇の堂の前へ出た。男と女の寢像がその堂のうちに靜かに置いてあつた。アベラアルとエロイズの墓だ。男は中世紀の哲學者であり神學者でありソルボンヌの先生であつたといはれるし、女は學問のある尼僧であつたといはれる。古く黒ずんだ堂の横手には、この人達は終生變ることのない精神的な愛情をかはしたといふことなぞが立派に書き掲げてあり、堂を取りまく鐵柵の中には何の花とも知らない草花があはれげに咲き亂れてゐたことを覺えてゐる。あれも晝寢の仲間かと思ひ出して見ると、あんなに天地に俯仰して恥ぢないやうな堂々とした寢像としてあらはされてゐるのも、どんなものかと思ふ。『戀ゆゑにそんな悲哀と苦惱とを得た』とフランスの詩人フランソア・※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ロンには歌はれ、死後には翼をならべた形を彫刻にまで造られて、それを戀とも哀傷ともされ、たゞ/\二人にあやかりたいやうな男や女の語り草となる。まことの人間の姿は尋ねるよしもない。いぢらしい人達だ。

 年若いころのことであつた。わたしはある娘を知つてゐた。この娘まことに健康な人で、夏の晩なぞよく大の字なりに熟睡しては便所の方へ行くわたしの通り路を塞いでゐた。仕方なしに娘の上をまたいで通り過ぎたものだが、その人は何も知らなかつたことを覺えてゐる。こんなことはさう咎めるに當らない。娘のころに枕をはづして眠るぐらゐは有り勝ちなことで、それが反つて好い健康の證據ともなる。だん/\年をとるやうになれば、誰しも若いうちのやうなことはなくなつて來る。さういふ中でも、寢姿の好い人こそ、女の中の女と考へられなくもない。

 戸も出ずに籠り暮してゐてしと/\降る雨の音なぞをきく時の晝寢は侘しく、語るにも友もない時の晝寢は寂しく、われとわが身をいたはる時の晝寢は甘い。寢るよりほかに分別のないやうなこともあつて、さういふ時の晝寢ほどまた苦いものもない。

酒飮めばいとゞ寢られぬ夜の雪
 こんな句を殘した古人もあるが、さういふ眠りがたい夜にかぎつて自分は呼び茶をする。するとます/\寢られなくなる。このわたしが樂しみの一つは、さういふ翌日になつて家にある風呂の下なぞを焚きつけ、そこに一切を忘れることだ。心の落ちつかない日には、わたしは自分でくべた薪のぱち/\燃える音をきゝながら、狹い風呂場のかまどの前に時を送ることもすくなくない。

 ある人への返事に。
『御手紙拜見しました。力はどうしたら得られるかとの御尋ねのやうですが、あのゲエテやトルストイのやうな人達でも先づ自分の持つものを粗末にしないところから出發したやうです。そして長い生涯の間には他と交換したものでもそれを自分のものにすることが出來て行つたやうです。君は明治以來のこの國の青年の弱味が歴史精神に缺けてゐたことだとお考へにはなりませんか。故岡倉覺三のごときはそれを持つてゐた稀な人でせう。只今白木屋に開催中の古書展覽會へ行けば「天心全集」三卷は手にも入りませうから、あゝいふものを探されて、熟讀三思せらるゝことを君にお勸めしたいと思ひます。』

 この節すこし讀書する暇があつて、いろ/\な好い書物から毎日のやうに新しいことを學ぶ。町々はまだ春先の殘雪のために埋められ、とき/″\恐ろしげな地響きを立てゝ屋根から崩れ落ちる雪の音もするが、この雪に濡れて反つて光を増すかしはの葉などの輝くさまは眼もさめるばかり。明るい障子に近くゐて心靜かに讀んで見る書物から受けるさま/″\な感銘の中には、讀者諸君に分けたいと思ふやうなこともすくなくない。その一つをこゝに取り出して見る。
 かねてわたしは茅野蕭々氏の著したゲエテ研究を讀みたいと思ひながら、その折もなくてゐたが、先頃町の本屋で黄色い表紙の裝幀も好ましい學生版を買ひ求め、同時に栗原佑氏の譯にかゝるブランデスがゲエテ研究をも求めて來て、この二つを讀み比べて見ることからゲエテのやうな人の生涯をもつとよく考へたいと思ひ、先ず茅野氏の著書から讀みはじめた。同氏の筆はゲエテがその※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イマア生活の初期の頃に好い影響を受けた幾多の先輩ばかりでなく、彼を啓發した幾多の婦人の方へも讀む者の心を連れて行く。そして同時代に、性格のある種々なすぐれた婦人を知ることの出來た人の幸福に就いて語つてある。その中に、ジャネッテ・ルイゼ・フォン・※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルテレン夫人のやうな人に關する記事もある。この美しい、垢拔けのした、精神の籠つた、『極めて愛すべき』婦人から、ゲエテは世間智を學んだと言はれてゐるとある。『あらゆる藝術に天才があるならば、生活の藝術に於ける天才ともいふべきは彼女である』と言はれてゐるともある。
 たゞこれだけのことなら、この※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルテレン夫人がゲエテ作品中にも重きを成す『※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルヘルム・マイステル』の中の伯爵夫人のモデルであるといふことを承知するぐらゐにとゞめて、わたしも讀み過したであらう。その後の方でわたしは彼女に關する次のやうな記事にぶつかつた。それは千七百八十二年の三月頃にゲエテが親しいフォン・シュタイン夫人宛に書き送つたものの中に、この※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルテレン夫人に就いて言つた言葉として、
『この小さい人間は私を啓發した。』
と言ひ、彼女は『世間を取扱ふ』ことを心得てゐると言ひ、瞬間のうちに數千粒に分れしかもまた集まつて一丸となる水銀のやうだとも言つてゐる。
 この水銀の譬はいかにも美しく形容してあると思ふ。そしてあらゆる同時代の先輩からばかりでなく、また婦人の友達からも學ばうとしたことにかけては、あたかも花のしべから蕊へと深く分け入つて蜜を探した蜂のやうな、あのゲエテの心が求めたものは、實にこの『水銀』であつたらうかと想像される。言つて見れば、それはさかんな綜合力だ。ひとり※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルテレン夫人が心得てゐたやうな生活の藝術にかぎらず、あらゆる創造的な人間から生れて來るものは、その『水銀』の力をヌキにしては考へられない――小は個人の營みから、大は同胞全體の上に働きかけることに至るまで。

 舊南部領に紫根染の殘つてゐることを傳へ聞き、それを心あてに染色の古法をたづねるため、今一つには紫の一もとなりとも採集したいとの願ひから、遠く南部の地を踏み、花輪の山奧なる湯瀬といふところまで旅して歸つて來た人は、赤坂田町に住む草木屋の主人である。
 同君の土産話によれば、わが國固有の染料たりし紫草の根も、外國より輸入する化學染料の流行に壓せられて、今は顧るものもなき状態にあるといふ。その栽培も、今日では全くそれを行ふものを聞かないとのことである。僅かに本邦各地に殘存する野生のものを採集し得るにとゞまるとのことでもある。紫の一もとたりともそれを育てるものがなければ、荒蕪に歸る。わたしたちと自然との微妙な關係は常にかうしたものかと思ふ。
 多くの場合に、わたしたちは自然から與へらるゝことばかりを知つて、自然に與へることを知らない。母なる大きな自然を養はうとすることが、やがてわたしたちの生活をまことに豐富にする所以ではあるまいか。

 けふも町の空に發動機の爆音を聽いた。
 二三の航空機が乾いた寒空を衝いて飯倉の町の上を横ぎつて行つた。いつぞや遠く獨逸の方から訪れて來た一臺のツェッペリンが、この町の空にあらはれた時は、銀色の機體に黒く記された文字があざやかに讀まれたほどで、やがて光の海を渡る船のやうに遠ざかつて行つたが、あの鋭く美しいものの姿はまだわたしたちの記憶に新しい。今はグライダアのやうなものまで出來て、あの滑翔機の曳航飛行が各地に行はれるだらうといふ噂なぞも、さうめづらしいことではなくなつた。過去數世紀の間、その往來に數週間もしくは數ヶ月を費した太平洋上の交通ですら、僅かに數日間で相接觸することの出來る定期航空路の開設を見るのも最早そんなに遠いことではなからうと言はれ、やがては旅客、商品、および郵便物があたかも田舍から田舍へ行くやうに何の造作もなく太平洋上を行き交ふことになるだらうとも言はれる。
 大空を飛ぶ人工の翼こそは、まことに現代を象徴するものの一つであらう。佛蘭西近代の畫家として知られたシャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌは普佛戰爭當時の記念として巴里籠城の圖を作り、遠景の空に浮び上る輕氣球を描き、その前景には一羽の鳩を持つ婦人を描いて佛蘭西人が平和を待つ心をあらはした。シャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの筆によつて描き出された清げに美しい婦人のひとみは、さながら救ひを望むもののやうに遠い輕氣球の方角にそゝがれてゐる。これが今日のことにして見たら、あの輕氣球も新鋭な航空機に置き替へられなければなるまい。
 しかし、この現代に生きるものに取つて忘れてならないやうな好い教訓を與へた人がある。それは先年、太平洋横斷の冒險に成功した亞米利加の飛行家だ。飛行家ほど自然の征服者のやうに見えるものもないが、その實、高く飛ぶことによつて、より大きな自然の懷裡ふところに飛び込むことを身をもつて證據立てたのも、あの亞米利加人であつた。高く飛ぶことを知るものは、風の力に身を任せることをも知つてゐるのだ。あの飛行家が他の飛行を試みるものに殘したといふ言葉は、おそらくあらゆる技藝の祕訣もそこにあららうと思はれるもので、わたしは新聞紙上にその消息の傳へてあつたのを讀み、今だに忘れがたく思つてゐる。その言葉、
『なるべく高く飛べ。そして又、なるべく眞ツ直ぐに飛べ。』

 歴史と傳説とは曾てごく雜然とわたしの内に同棲してゐたやうなものであつた。この二つの區別に氣づくと氣づかないとでは、いろ/\な過去の物語を讀んで見る上にも、文學制作の方法の上にも、あるひは文學以外の藝術を識別する上にも、格段な差があるのに、長いことわたしはそんな區別を考へて見ようともしなかつた。
 しかし、一度そこへ氣づいて見ると、これまで遠山の花でも望むやうにごく漠然としか看てゐなかつたあの『雨月物語』や『春雨物語』の作者が日本の文學史上にある位置なぞもはつきりして來たし、『白峯』、『淺茅が宿』、『蛇性の婬』、乃至『目一つの神』なぞに見るやうな特殊な文體の生れたこともわかつて來たし、傳説を傳説として取り扱つた上田秋成には元祿の作者にもない別の高さのあることもはつきりして來た。前に新井白石のやうな人があり、同時代には本居宣長のやうな人のある徳川天明期に、あゝいふ特色のある物語の作られたのも偶然ではないことをも知つて來た。
 これを舊い歌舞伎の世界に思ひくらべても、謠曲から來たものが多く傳説を取り扱ひ、淨瑠璃から來たものの一面が歴史を取り扱つてあるといふ風に考へて見ることは、やがて歌舞伎の中幕物と一番目物との本質を知る上に解を得ることが多い。そして中幕物と一番目物とは種々の技法を異にするばかりでなく、それを助くる音曲までを異にし、前者が舞臺の上で用ゐらるゝのは常磐津ときはづ、清元、長唄の曲であるのに引きかへ、後者では義太夫の曲であるやうな、さういふ相違のあることもはつきりして來る。傳説を傳説として好く取り扱つたものは、歌舞伎の世界にして見ても動かせないやうな氣がする。『羽衣』、『茨木』の類は、今見てもそれ/″\おもしろいばかりでなく、おそらく後世の人の眼をもよろこばすであらう。『鳴神』、『鏡獅子』、それから『道成寺』なぞもさうだ。『勸進帳』を直ちに傳説とは言へないまでも、すくなくもそこにあらはれて來るのは多分に傳説化された人物である。『暫』となるとやゝ趣を異にして、その勢力は當時の京都を凌がうとする江戸人の笑をあらはした漫畫に近いやうな氣もするが、あれとても舞臺の上の表現は多分に傳説的だ。ともかくも、それらに共通な誇張や、グロテスクな隈取りや、濃厚な色彩なぞは、傳説を取り扱ふ上にのみ許されていゝやうなもので、そこに歌舞伎の一面の味がある。歴史を取り扱つたものは、さうは行かない。それほどの誇張と濃い色彩とは歴史には許されない。ところが傳説と歴史とは兎角混同され易いために、どつちつかずのやうな時代物もある譯で、時を經るにしたがつて色も褪せ、種々な物足らなさも起つて來てゐると思ふ。歴史には歴史の取り扱ひ方があつていゝ筈だ。今になつて想像すると、故人九代目團十郎はそこに氣がついた人であつたかして、所謂活歴なるものを創始しようと試みた。その趣意は活きた歴史を舞臺の上に取り扱はうとするところにあつたらしいが、作者にその人を得なかつたためか、折角のおもしろい試みも目的を達しないで世人の嘲笑の裡に葬られたやうである。いかに故實をよくしらべ、考證の行屆いたやり方でも、たゞそれだけでは歴史は活き返つて來なかつたとも言はれよう。それにしても失敗を恐れなかつたところにあの故人の面目は躍如としてゐた。
 こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。わたしは『夜明け前』のやうなものを書いて見てゐる間に、だん/\作の意圖を深めて行くにつれて、歴史と傳説と實相とはどうしてもその取扱ひの方法を異にしなければならないことを感じて來たからであつた。
 ことしの正月、わたしは長い仕事をすました後の輕々とした心地で、久しぶりに改造社版フロオベル全集の譯本をあけて見た。フロオベル晩年の『三つの小さな物語』がそこにある。『ジュリアン聖人傳』は鈴木信太郎氏の譯、『エロディヤス』は辰野隆氏の譯、『純な心』はまた吉江喬松君の譯である。第一の物語は傳説、第二の物語は歴史、第三の物語は實相で、この三つの區別をフロオベルは三通りの樣式に書き分けてゐる。『ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイ夫人』のやうな作品を書き、更に『サランボオ』のやうな作品で過去を掘り起して見た作者なればこそ、その境地にも到り得たかと考へられる。殊に傳説を取り扱つたものは、その一節一句が殆んど寶石の光を放つとも言ひたいもので、よく讀んで見ればそれは隨分思ひ切つた誇張や濃い色彩が精しい觀察に結びついて來てゐることも分る。さすがに歴史を取り扱つたものの方にはそんな筆づかひはしてないが、さうかと言つて實相を書いたもののやうにこまかくは入つてゐないし、會話もすくない。日頃自分の考へてゐたことを明かに三種の文體に書き分けて見せて呉れたフロオベルのやうな先人もあつたと想ひ見た時はうれしかつた。尤もこれは物語の技法と文章文體の上の話で、それを充たして行く作者の内の生命のことではない。そんなら、歴史と傳説とはどうしたら活き返つて來るかといふことになると、それはまた別問題だ。單なる過去は歴史でも傳説でもないからである。

 牧野信一君の『文學的自敍傳』はおもに少年時代を敍したもので、これから大人の世界に入つて見たことを書きはじめようといふところで筆が止めてある。止めてあるといふよりは、むしろそこで筆が進まなくなつて、自然に止まつてしまつたといふ趣のものだ。文學的な自敍傳としてはそんな端緒に過ぎないやうなものであるが、自然と文學へ赴くより他に結局道もなかつたかの感を抱かせ、一作家の生ひ立を思はせるには十分なほどに出來るだけの壓縮もその筆に加へてあつて、少年時代のどの一片をとりあげても、いづれも意味深く語つてある。その中に、君は小學でも中學でも凡ゆる學科のうちで綴り方と作文が何より不得手で、幾度も零點を取り、旅先などから母親に宛てる手紙も書きにくかつたといふ一節がある。君はそれに續けて次のやうに書いてゐる。
『母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一文章がまるで成つて居らず、おまけに無禮な調子であると訂正されるうちに、作文でも手紙でも私は、眞に考へたことや感じたことを、そのまゝ書くべきものではなく、さういふことを餘程六ヶ敷むづかしい言葉を用ひて書くべきだ、さういふ窮屈を忍んで、決りきつたやうな眞面目さうな、いかめしさうな、そして思ひもよらぬ大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬのかと考へると、文字が亦、これがまた言語道斷といふ程拙劣であつて私は途方に暮れた。親戚などに父の代理として時候見舞などを書かされる場合に、母が傍で視張つてゐるのであるが、私には何うしても、末筆ながら御一同樣へも何卒宜しく御鳳聲の程を――などとは書けぬのであつた。』
とある。
 眞に考へたことや感じたことは、どうしてそのまゝ書くべきものではないかの疑問が、早くも牧野少年の胸に宿つたのであらう。君自身の語るところによると、君は結婚以前に三度もの戀愛を經驗したが、手紙はまるで駄目で、どんな類ひの手紙を相手の娘から貰つても容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが讀み返すと、いつも全身が砥石にかゝつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つたといふ。さういふ情人を見る時の君はまた、つい默り勝ちで、思はず欠伸あくびをするやうなことになつたり、眞面目なことを言はなければならない場合にも、つい空呆そらとぼけて横を向いたりするやうな始末であつて、そのために君の求めるものは酬いられず、皆失戀に終つたとも語つてある。
『どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、戀しき君よ……などとは書けず、また徹底的に眞面目さうな表情で、屹度結婚しようネ――などとさゝやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘(中學を終る頃にさかんに手紙のやりとりをしたアメリカ人の娘)に示した態度や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて驅使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われ/\の言葉や文字は、尊嚴に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに變つた。』
 新時代の作家として牧野君が出發はこゝにきざしてゐる。君はその言葉や文字の『尊嚴』や、到底犯し得ぬ『貴重』やを打ち碎くだけの才能と勇氣とをめぐまれた。あれほど少年時代に、あらゆる學科のうちで綴り方と作文が何より不得手で、母親に宛てる手紙すら思ふやうには書けなかつたと言ふ君が、その意味を悟る時を迎へるのだと思はれる。さてこそ、君が藝術には感情の解放ともいふべきものが強く働いてゐて、その特色が君の作の字々句々の上にあらはれ、わたしたちの心をひかれるのも主としてその點にある。あの雜誌『十三人』に載つた短篇『爪』などは君の學生時代の作ださうだが、君は戸外に飛び出し、君が手と足とを持つてゐることを、初めて感じたと言つてもいゝほどのものであつた。
 不思議な縁故から、わたしは牧野君を引き出す役割をつとめたやうなものゝ、あの『十三人』時代の君は早晩頭角をあらはすべき人で、わたしはたゞ割合に早く君を見つけたといふに過ぎない。君の自敍傳によると、君は自身を裸島へ泳ぎついた漂流者に譬へてゐる。この漂流者は日々の營みを怠らずあちこちと移り住んだが、わづかな風にさへその打ち建てた小屋は忽ち吹き飛んで未だに家を成さないとも言つてゐる。それを君は運命的であると考へるやうになつて行つた人のやうでもあるし、またそんな昨日の自己を絶對の姿とは考へたくないと言ふ人ででもあつた。君はいつも自身の文章を讀み返すと、凡ての過去そのものの如く、いつそ自烈じれつたいといふ氣を起した。君は一切の過去を棄却しなければならないとした。容易ならぬ人間の脱皮だ。それには身をもつて當らねばならない。君はその邊の深い消息を僅かに『文學的自敍傳』の終の方に泄らして置いて、それぎり歸つて來ない人のやうになつてしまつた。
 何としても君の最後は傷ましい。筆執り物書くものに取つてはひとごととも思はれない。わたしのやうにして君の出發を迎へたものが、今また君を惜しむ諸君の仲間入りをして、こんな記念をこゝに書きつけるといふことは、これも何かの縁かと思ふ。生前の君が泳ぎついたその裸島にゐて、絶望と陶醉との底から身をも心をも起さうとしたといふことは、どんな新しい文學を豫感しての結果であつたか、それは推しはかれるかぎりでもないが、君が殘したかず/\の新鮮な作品と、この世に盡し得なかつた抱懷とは、わたしなぞのやうに長く文筆に從事するものの垢を洗つて呉れるであらう。短篇集『酒盜人』、『鬼涙村』の二卷は、折を得て更によく讀みかへして見たい。


 蜘蛛といふものは、みづからの細い糸に身を托し、風の來るのを待つて、物と物との間をつなぐ好き距離を見つける。學者が古典探求の態度はまさにかくのごときものであらうか。日本の文藝も最近には學としてその方法と體系とを探し求めようとする岡崎義惠君のやうな熱心な學者がまとまつた研究を發表するところまで進んで來た。同君が長い年月をかけて見究めようとしてゐる物のあはれ、それから有心と幽玄の考察なぞは、中世時代の文藝から近代のそれへかけての間をつなぐ好き距離とも言つて見たいもので、近頃有益な文字であつたと思ふ。

 過去の日本人が日本海であるとするなら、現代の日本人は太平洋であると言つてもよからうか。太平洋に就いて想ひ當るのは、最近讀んだものの中に見つけたブランデスの言葉だ。ブランデスは太平洋が地球の諸海洋に伍し占めてゐる地位にたぐへて、實に心にくいことを言つてゐる。『太平洋、則ち靜かなる大洋は、最大にして同時に最深の海洋である。併し實際に靜かなのは、唯その帶状の一部分に過ぎない。太平洋の北部と南部は、樣々の氣流や貿易風のために、絶間なく波濤を擧げてゐる。幾多の海潮、それの逆潮、暖流、寒流が流れ巡つてゐる。太平洋には、また他の海洋には無い地震の波動がある』とこんなことが言つてあるのだ。われらは東西の文化を包容し得る最も惠まれた位置にあつて、過去に蓄積したものだけでも既にかなりの深さに達してゐるからと言つて、現代の創造的諸精神が皆われらの中に流れ込んで來ると考へるほど己惚うぬぼれの強いものではないが、すくなくも平和を愛し、また靜かさを愛することにかけては他のいかなる國民にも劣るものでないと信ずる。これ、われらの太平洋であり、靜かなる大洋である所以だ。しかし、われらが現に營みつゝある歴史と活動の中には、廣い和やかな一帶がある外に、強い嵐があり、暖流と寒流とがあり、幾多の海潮とその逆潮とがあり、それから地震の波動があることもまた太平洋に似てゐる。あのブランデスの言葉の中に多くの反省すべきものがあると感ずるのは、おそらくわたし一人ではあるまいと思ふ。

 曾て山陰地方への旅をして、城崎きのさきに近い瀬戸の日和山からも、香住の岡見公園からも、浦富、出雲浦等の海岸からも、あるひは石見いはみ高角山たかつのやまからも日本海を望み見た。あの海岸に連なり續く高い岩壁は、大陸に面して立つ一大城廓に似てゐた。五ヶ月もの長さに亙るといふ冬季の日本海の活動から、その深い風雪と荒れ狂ふ怒濤とから、われわれの島國を守るやうな位置にあるのも、あの海岸の岩壁であつた。そこには到るところに湧き出づる温泉があり、金、銀、鐵、石炭、その他の鑛物を産する無盡藏の寶庫があつた。かのラフカヂオ・ハアンをして『これより麗しい洞窟は世界中殆んど想像し得ない』と言はしめたほど、空氣の如く明澄な海水を内に湛へ、また幾多の古い傳説が生れて來てゐる數限りもないやうな洞窟によつて飾られてゐるのもあの海岸であつた。この腰骨の強さこそ、大陸的なものをよく受けとめることの出來たわれらの祖先が姿であつたらう。しかし過去の日本人が日本海であると言つて見たいのは、たゞその海岸の特色のみには限らない。翠色の滴るやうな日本の島影を後方にする位置にまで出て行くなら、そこには濃い藍色の黒潮も流れて來てゐる。朝鮮、支那、印度はもとより、どうかするとペルシャから印度を通して來た希臘ギリシヤ的なものまでがこの島國に着いた時代もあつたらうかと想像されるのもその海だ。遠い古代の遣唐使船が航路とてもいづれはその海の上であり、雪舟のやうな畫僧が中世の終に生れて南方支那の宗教と藝術とを探り求めるために風波の困難を凌ぎ進んだのもまたその海の上であつたらう。おそらく揚子江の河口から押し來る滔々たる濁流を見た眼で、大陸を離るれば離れるほど青さを増す日本海の色を見たほどのものは、過去の日本人の特色がおよそどの邊にあつたかといふことを看て取ることも出來ようと思はれる。わたしは太平洋を日本海に置きかへて見るところに萬葉集をも感じるし、また近代の曙光を望み見るやうな雪舟の藝術をも感じる。

 兎もあれ、われらの眼に映る大洋は、最早はても無く續いてゐる大海原ではなくて、彼岸へ渡ることの出來る大洋である。東は東、西は西で、永遠に逢ふこともなからうと言ふ人もあつた二つのものが、日本に於いて相會しようとしてゐるとも考へられる。

「桃の雫」――終

底本:「藤村全集第十三卷」筑摩書房
   1967(昭和42)年3月10日初版発行
   1978(昭和53)年8月30日愛蔵版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年5月14日作成
2012年4月26日作成
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