私の実見じっけんは、ただのこれが一度だが、実際にいやだった、それはかつて、麹町三番町こうじまちさんばんちょうに住んでいた時なので、其家そこ間取まどりというのは、すこぶれな、一寸ちょいと字に書いてみようなら、あだかの字の形とでも言おうか、その中央なかの棒が廊下ともつかず座敷ともつかぬ、細長い部屋になっていて、妙にるく陰気で暗いところだった。そして一方のが、母屋で、また一方が離座敷はなれざしきになっていて、それが私の書斎兼寝室であったのだ。或夜あるよのこと、それは冬だったが、当時私の習慣で、仮令たとえ見ても見ないでも、必ず枕許まくらもとに五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早もはや大分夜もけたから洋燈ランプけたまま、読みさしの本をわきに置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、うつつともなく、鬼気きき人に迫るものがあって、カンカン明るくけておいた筈の洋燈ランプあかりが、ジュウジュウと音を立てて暗くなって来た、私はその音に不図ふと何心なにごころなく眼が覚めて、一寸ちょいと寝返りをして横を見ると、アッ吃驚びっくりした、自分の枕許まくらもとに、痩躯やせぎすひざ台洋燈だいランプわきに出して、黙って座ってる女がる、鼠地ねずみじ縞物しまもののお召縮緬めしちりめんの着物の色合摸様まで歴々ありありと見えるのだ、がしかし今時分、こんなところへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯のところまでは、かろうじて見えるが、それから上は、見ようとして、いくら身を悶掻もがいても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼はひらいているが、如何どうしても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女のひざ鼠地ねずみじ縞物しまもので、お召縮緬めしちりめんの着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そしてあだかも上から何か重い物に、おさえ付けられるような具合に、何ともいえぬ苦しみだ、私はいて心を落着おちつけて、耳をすまして考えてみると、時は既に真夜半まよなかのことであるから、四隣あたりはシーンとしているので、益々ますます物凄い、私は最早もはや苦しさと、恐ろしさとにえかねて、跳起はねおきようとしたが、からだ一躰いったい嘛痺しびれたようになって、起きる力も出ない、丁度ちょうど十五分ばかりのあいだというものは、この苦しい切無せつなおもいをつづけて、やがてほっという息をいてみると、蘇生よみがえった様にからだが楽になって、女も何時いつしか、もう其処そこには居なかった、洋燈ランプ矢張やはりもとの如くいていて、本が枕許まくらもとにあるばかりだ。私はその時に不図ふと気付いて、この積んであった本があるいは自分の眼に、女の姿と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切いっせつ片附けて枕許まくらもとには何も置かずにとこに入った、ところが、やがて昨晩ゆうべと、ほとんど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しくされるようになったので、不図ふとまた眼を開けて見ると、再度にど吃驚びっくりしたというのは、仰向きに寝ていた私の胸先に、着物も帯も昨夜ゆうべ見たと変らない女が、ムッと馬乗うまのりまたがっているのだ、私はその時にも、矢張やっぱりその女を払いける勇気が出ないので、苦しみながらに眼を無理に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、女の顔を見てやろうとしたが、矢張やっぱり召縮緬めしちりめん痩躯やせぎすひざと、紫の帯とが見ゆるばかりで、如何どうしても頭が枕から上らないから、それから上は何にも解らない、しかもその苦しさ切無せつなさといったら、昨夜ゆうべにも増して一層いっそうはなはだしい、その間も前夜より長くおさえ付けられて苦しんだがそれもやがて何事もなくおわったのだ、がこの二晩の出来事で私もすこぶ怯気おじけがついたので、その翌晩からは、遂に座敷を変えて寝たが、そのは別に何のこともなかった、何でもその近所の噂に聞くと、前に住んでいたのが、陸軍の主計官とかで、その人が細君をめかけめに、非常に虐待したものから、細君は常に夫の無情を恨んで、口惜くやし口惜くやしいといってついに死んだ、その細君が、何時いつ不断着ふだんぎ鼠地ねずみじ縞物しまもののお召縮緬めしちりめん衣服きものを着て紫繻子むらさきじゅすの帯をめていたと云うことを聞込ききこんだから、私も尚更なおさら、いやな気がおこって早々に転居してしまった。その其家そこ如何どうなったか知らないが、かく、嫌なうちだった。

底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
   1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月24日作成
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