これは私が十七の時の話です。
 私の伯母の内に小間使をしてゐたお時といふ十七になる女が、二月ばかり私の内へ手傳に來てゐたことがありました。何でも内の小間使が、親が死んだかどうかして、暫く國へ歸つてゐた間の事です。
 お時は鼻の少し大きな女でしたが、少し下つた眼尻に何とも言へぬ愛嬌があつて、年頃の男の氣を引くにはそれでもう十分でした。それに色のくッきりと白いのと、聲の可愛いのと、態度の如何にも色ッぽいのとが、餘計に私共の氣を浮き立たせたのです。
 併し、伯母の所へ來たての時分は、高い所につてゐる青い林檎の實のやうに、惡くコツ/\と堅くて、私共の手の屆かぬ所へ始終逃げてるといふ、風がありました。
 その逃げる所が又可愛いので、なほ私共は追つかけたものです。伯母の留守を狙つて行つては、よく家中追つかけ廻したものですよ。二人とも跣足で庭へ飛び降りて築山の椿のうしろ箒合戰はうきがつせんをした事などは度々です。何でもふざけてふざけて、ふざけ拔いて、草臥れるまではいつも止めないのですね。お時はいつでもしまひに、
『あんまり常談をなさるとおかあ樣にいつママけますよ。』
 と少し怒つたやうな顏でいふのです。すると私は初めて自分に歸るのです。
 その時分私にとつて阿母さん程恐い者は無かつたのですからねえ。いつでもお時にこれを言はれると、默つて直ぐふざけるのはして了ふのです。そして、
『ぢやァ、もう廢すからね。勘辯してお呉れよ。ね、ね。阿母さんに言つちや厭だよ。』
 と、拜むやうな眼附をするのです。それから澄まして、學校の荷物か何か抱へて歸つて來るのです。
 土曜日の晩は大抵伯母の所へ泊りに參りました。そして伯母の寢る時、一度一緒に寐たふりをして、伯母の寐ついたのを見極めると、そつと自分だけ起きて、まだ女中部屋に起きてゐるお時の所へ出かけるのです。そして面白い話をしてやるとか何とか言ひながら、又例の惡ふざけを始めるのです。
 所がいつも斯ういふ時は御膳焚のお里といふ大女を味方にして、二人で私を押伏せて了ふのです。そのお里といふ奴は中々力がありましたから、こいつに兩方の手首を押へられて了ふと、私はどうする事も出來なくなるのです。
爲樣しやうのねえ坊ッちやまだ。男の癖に女中の部屋などに來るものぢやねえよ。早くあッちへ行つて寐ねえと、そら酷いから。』
 こんな事を言ひながら、厭といふ程私の手首を締めつけるのです。私はいつでも堪らなくなつてあやまつて了ふのです。
『寐るから、寐るから勘辨してお呉れよ。寐るからッてばさァ。』
 などとよく泣き聲を出したものです。それをお時は側で笑つて見てゐるのです。
 隨分追つかけ廻つたものですが、餘り先が強情がうじやうなんで、もうとても望は無いと思ひましたから、諦めて了つて、それからもう伯母の所へ行つても餘り惡ふざけはしなくなりました。
 段々伯母の所へ行く度數も少くなりました。
 然るに半年ばかり立つと、妙な噂が私の耳へ這入つて來ました。『お時は近頃色氣づいた。』『隣の本山もとやまさんへ來る牛乳配達とをかしい。』『いつでも垣根の向うと此方でベチャ/\何か話してゐる。』こんな噂です。
 これを聞くと、私は何となく愉快に感じました。小な勝利を得たやうな氣がしました。『好い氣味だとう/\俺の思ふやうな氣持になりやァがつた。もう此方のものだ。』と、こんな事も考へました。
 青くて堅かつた林檎の實は、いつか赤くれて落ちよう落ちようと枝を下へ引くやうになつたのです。
 林檎は何處へ落ちて誰の口へ這入らうといふ目當があるのではありません。唯廣い大地を戀しがつてゐるのです。あらゆる人間の舌に觸れようとしてゐるのです。
 本山さんへ來る牛乳配達は、偶々たま/\その林檎の木の下に休んだ旅人の一人に過ぎないのです。
 私はその牛乳配達を少しも敵だとは思ひませんでした。寧ろ味方だと思ひました。自分が先づつかはした斥候のやうに考へたのです。その斥候が巧く遣つたので、もうおれが出かけても大丈夫だと思つたのです。
 さう思つてゐる時に、丁度お時が内へ來る事になつたのです。その時分私の内は伯母の内とは一里も離れてゐましたから、もう牛乳配達に會ふ氣遣は無いのです。伯母がお時を私の内へ寄越よこしたのも、實はその邊があつたからだらうと思ふのです。
 ところが、私の内には又私の内で、私といふ者が待つてゐたのです。

 内へ來てからのお時は、もう以前のお時とは大分樣子が變つてゐました。前のやうに人を逃げよう逃げようとする能度[#「能度」はママ]はすッかり無くなつてゐて、人に近づかう近づかうとする樣子ばかり見えるのです。
 私も前から見ると、少し大人にもなつてゐたので、もう亂暴な事などはちッともしませんでした。唯親切に親切にとお時を取扱つて遣りました。精々親切にして置いて、窃に時期の來るのを待つてゐた譯なのです。
 お時は内へ來てから、もう牛乳屋の事は全く忘れて了つたやうでした。手紙を出すやうな樣子もありませんし、伯母の所を戀しがるやうな氣勢も一向に見えませんでした。一生懸命に私の母に氣に入るやう氣に入るやうと勤めてゐるのが好く分りました。
 私に對しても前とは違つて、いやに叮嚀になりました。僅の間でも主從は主從だからと、伯母のやかましいいましめがあつたのださうです。
 そんな風でしたから、向ふの内部的態度が始終私に近づかう近づかうとしてゐるにもかゝはらず、私の態度は外部的に義理にもお時を離れよう離れようとしなければならなかつたのです。
 私の部屋へやへ茶や菓子を持つて來ても、大抵お時は椽側えんがわひざをついて、障子を細目に明けて、持つて來た物を部屋の中へ入れると、直ぐ御辞儀をして、逃げるやうに行つて了ふのです。
 私はどうかして成るべく長くお時を自分の側に置きたいと思ひまして、巧い事を考へ出しました。それは片附物の手傳をさせる事なのです。
 私は子供に似合はず、その時分から大の藏書家でしたから、部屋の中には日本流の本箱が六本も七本も置いてあつた計りでなく、雜誌などの本箱に這入り切らないのが、いつもそこらに山のやうになつてゐたのです。
 月に二度位、私はその雜誌の整理をするのです。『少年世界』は『少年世界』、『少國民』は『少國民』、『少年園』は『少年園』と一々別々に揃へて、號數を合せるのです。そして製本屋に遣る分は、巾の廣い紙で帶封をして背に入れる文字をその帶封の上に書くのです。
 この手傳をさせては、時々お時を私の部屋に長く留めたものです。私の心は母に分りませんから、母は唯無邪氣に雜誌を片附けてゐる事とのみ思つてゐるのです。
 二三度、これを遣つて見た所が、母は一向に信用してゐるやうですから、段々大膽になつて來て、月に二度が三度、三度が四度、四度が五度になつて終には三日に上げず、
『時、時。片附物があるから用が濟んだら來て呉れ。』
どなるやうになりました。
 併し、お時が側にゐたからと言つて、私は別に何も言ふのではないのです。唯それはその中へ這入るのではないよとか、その帶封へは斯う書いてお呉れとか、本の用だけの事を言ふのです。
 勿論まだ修飾した言葉で女をたきつけようとする丈の智惠もありませんでしたし、又さういふ種類の言葉に對する知識を持つてゐなかつたのです。唯時々じつとお時の手先を見詰めたり襟筋を見詰めたりするより外何も爲なかつたのです。それでも自分だけでは何となく滿足なのでした。
 こんな事をして、私は唯時期の來るのを待つてゐたのです。
 やがて時期が來ました。
 或晩、母が伯母の所へ行つて留守でした。御飯焚ごはんたきの千代も、下男の寅も使に出てをりました。私は又お時に片附物の手傳をさせました。
 その時、戸棚の奧にある古雜誌をお時に出して呉れと頼みました。お時は何の氣なしに戸棚の中に匍ひ込むやうにして、體を半分戸棚の中へ突込みました……

 それからといふものは、毎日の樣に私は機會を機會をと狙つてゐて、大抵一日に一度はお時を自分の側に引寄せるやうにしました。お時も、前とは違つて、多少は自分の方から機會を作るに努めるやうでした。
 或日、伯母の所から私へ當てゝ手紙が參りました。伯母から手紙が來るのは訝しい、用があるなら呼んで呉れゝば好いのにと思つて、明けて見ると驚きました。
 伯母は私とお時の關係をすッかり知つてゐるのです。若い者の事だから、決して責めるではないが、身分違ひの者とさういふ事をすると、出世のさまたげになるからせと書いてあるのです。この度に限つて、おかあ樣にはいつけずに置くが、二度と斯ういふ事があると必といつけずには置かないと書いてあるのです。この事は誰の口から聞いたのでもない、お時が、自分で來て言つた事だと書いてあるのです。
 私は吃驚びつくりしました。大變だと思ひました。自分の顏の眞赤になつて行くのが自分に分りました。見られてはならぬ事を見られた恥づかしさと、知られてはならぬ事を知られた恐ろしさとで、齒の根の合はぬ程慄へました。併し、爲てはならぬ事を爲たといふ道徳的の呵責に身を苦しめられるやうな事は一向に無かつたのです。
 たゞ伯母に知られたのが耻づかしかつたのです。若しも母に知れたら大變だと思つたのです。これが若し母に知れたら、もう俺の滅亡だと思つた位、當時の私は母を恐れてゐたのです。
 世間といふものを全く知らなかつた當時の私にとつては、母が世間の全部であつたのです。名譽の對象も、榮達の對象も、悉く唯母だけであつたのです。
 私はその晩早速伯母の所へ返事を出しました。お時の母へでも送るやうな手紙を書いたのです。一言一句に罪を謝して、身の置き所を知らぬやうに恐れ入つたのです。その手紙を書きながら、實際私は涙を混しました。
『もう決して致しません。決して致しません、決して致しません。私は血涙を以て、この誓の詞に印を捺します。』
 これが最後の文句でした。
 伯母からは、直ぐその明くる日返事が參りました。よく私の言ふ事を聞いて呉れた、お前はやッぱり阿父さんの子だつた。どうかその決心を一生忘れずにゐてお呉れ。過ぎた事はもうお互に二度と口にしまい。お前にそれだけの決心がついたら、もう阿母さんに言ふ必要もない事だから、これは永久に祕密にして置かう。就いては、お前の將來の爲もある事だから、お時へ宛てゝとは言はない、私へ宛てゝ一通あやまり證文を何とでも可いからお書き。そしてその中へお時は何處へ嫁に行つても構はないと一言書いて置いてお呉れ。私はお前ばかりに小言を言ふのではない。こなひだお時もよく叱つて置いた。お時にも罪はあるのだから、お時から私へ當てて詫り證文を取る事にしてある。そして今後お前が出世してどんな嫁を貰はうと、決して苦情は申し出ないと言ふ事を書かして置く。時期さへ來れば、どんな立派なお嫁さんでも伯母さんが貰つて上げるから、向後決して身分違ひの女などに眼をかけるではない。と、それはそれは親切な手紙でした。
 併し、私はその親切を喜ぶより、母には言はないといふ一言ひとことを千倍も萬倍も有難いと思ひました。
 詫り證文の一件は少し可笑をかしいやうにも不必要なやうにも思ひましたが、成程然う遣つて置く方が先へ行つて或は安心かとも思ひましたので、早速書いて送りました。
 二三日すると、お時が伯母の所へ呼ばれました。多分同じ物を書かせに呼んだのだらうと思つてゐますと、果してその明くる日、伯母が自身で私の内へ出向いて參りました。
 母が一寸ちよつとそとへ出た隙を見て、伯母は私の部屋へ這入つて參りました。私は下を向いたきり一言も口が利けませんでした。伯母も、もう言ふだけの事は手紙で言つてあるんだからといふ風で、別に何も言ひませんでした。たゞお時が下手な字で書いた詫り證文を出して、私に見せて呉れました。私はそんな物は見たかありませんでしたが、見ないでも惡いと思つて一通り眼を通しました。
『若樣と御ねんごろに致し候段』といふ文句が眼に這入ました。『よそより奧樣お迎へなされ候ても決して否やは申すまじく』といふ文句にも眼が留まりました。
 私は一言『拜見致しました。』とだけ言つて、伯母にそれを返しましたが、腹の中では、お時といふ奴は存外生意氣な奴だと思ひました。厭な奴だと思ひました。
 伯母はふところから私の書いた一さつを出してそれをお時のに重ねました。そしてそれを又懷に入れながら、
『これはいつまでも伯母さんが預かつて置きませう……今にそんな事もあつたかねえと言ふやうな時が必と來ますよ。まあ何でも可いから勉強してえらい者になつて下さいよ。』
 こんな事を言ひました。
 事件が濟むと、私はお時が憎らしくて憎らしくて堪らなくなりました。
『何だつて伯母さんの所へなぞいつけに行きやがつたんだらう。馬鹿な野郎だ……きつと、伯母さんに言へば夫婦にでもして貰へると思つたに違ひない。馬鹿な奴だ、誰があんな教育の無い者を妻君にする事が出來るもんか……勿論一時のいたづらさ。それに極つてるぢやないか……それが分らないんだからあいつは馬鹿だ……。』
 こんな風な事を考へて、いづれ一度お時をとッちめて遣らうと、機會の來るのを待つてゐたものです。けれども、もうお時はあんまり私の側へ寄り附かなくなりました。
 一つには極りが惡かつたのですね。自分では大眞面目で持ち込んだ事が、手もなく伯母の一笑に附せられて了つたのですからね。一つには、然うと極れば、何もさう若樣にちやほやする事はない、とも思つたのでせう。又一面には、今後若樣に近づきでもして、それが伯母樣に知れやうものなら、きつとお暇になる、お暇になればお嫁に行く時世話をして呉れる者が無くなる。だから若樣の側へ行かない方がやッぱり自分の爲だ、とも思つたのでせう。
『今までは、若樣が自分に對して惡い事をなされば、それは若樣が惡いので、自分はそれに對して何處までも權利を主張する事が出來るものだと思つてゐたところが事實はそれと反對だつた。若樣はどんな惡い事をなすつてもやッぱり若樣なのだ、どんなに主張の出來る權利があつても、女中はやッぱり女中なのだ。若樣と女中との地位が變るまでは、自分は何をされても、何も言ふ事は出來ないのだ。自分は默つてゐなければならないのだ……。』
 こんな事も思つたのでせう。私と顏を合せるやうな事があつても、何だか物足らぬといつたやうな不平さうな顏ばかりしてゐるのです。
 さてさうなると、私は益々しやくに障つて來ました。
 どうかして一遍捕へて、ひどい目に逢はして遣らうと思つてゐましたが、どうも機會がありませんでした。
 或日の事です。私が母に借りた小説をお時に渡して、返して來いと言つてゐるのを、便所の歸り道にちらと母の部屋の外から聞たのです。
 私は知らん顏をして部屋へ歸つて、今に來るだらうと待つてをりましたところが中々遣つて來ないのです。日の暮れるまで心待に待つてゐましたが、とう/\遣つて來ませんでした。『極りが惡いので來られないのだな。きつと自分の部屋へでも持つて行つて置いて、返した積りにしてゐるのだらう。よし、そんならそれで面白い事がある。どうしても來させずにや置かないから。』と、私は或事をたくらんでひそかに夜の更けるのを待つてをりました。
 母の寐たなと思ふ時分に、私はベルを鳴らしました。すると、御飯焚の千代が遣つて來ました。
『お前では分らない。時はどうしたのだ。』
『もうふせッてしまひました。』
『寐たなら起して聞け。今日おかあ樣からお使つかひを頼まれてゐるだらう。その品物を直ぐ持つて來いと言へ。あいつは近頃横着わうちやくになつた。』
 とわざこはい顏をしますと、千代は驚いて女中部屋の方へ駈けて參りました。千代は正直者だから、斯ういふ風に言へば、きつとお時を寄越さずには置くまいと思つたのです。
 果してお時が遣つて參りました。母から頼まれた小説を右の手に持つて左の手で頭を押へながら厭々來たといふ風で部屋の外で躊躇ぐづ/″\してるのです。
『馬鹿。』
 私は先づ強い聲で斯う浴せかけました。
『まあ這入れ。』
 お時は私の威に壓されて、覺えず部屋の中へ這入りました。
『何故物を頼まれたら、直ぐに持つて來ない。』
『はい。』
『はいでは分らん。惡いと思つたら詫れ。』
『惡うございました。』
『一體貴樣は馬鹿だ……こなひだの事だつて然うだ。何も伯母さんにいつけないだつて好いぢやないか、俺に極りの惡い思ひをさせて、それで貴樣は面白いのか。』
『いゝえ……さういふ譯では。』
『そんなら何故いひつけになぞ行つたんだ。お前のいつけた結果はどうなつた。俺の利益にもならなかつたし、お前の利益にもならなかつたぢやないか。二人が伯母さんの前で恥をかいただけの話ぢやないか……。』
 お時は如何にも恐れ入つたといふ風でした。まるで首を垂れたッきりなのです。
『女のする事は大抵そんな事だ……。』
 最後にこの一言をお時の襟元へ浴せかけるやうに云つて遣りました。お時は唯疊へ突いた指を震はしてゐるばかりです。
 私は自分の憎んでゐる女が自分の前に小さくなつてゐるのを見て、愉快で堪りませんでした。
 併し私の復讐精神は中々そんな事では滿足しませんでした。
『どうだ。俺の言ふ事が分つたか……俺の言ふ事を本當だと思ふか。』
 お時は默つてうなづいてゐるばかりなのです。
内證ないしよにさへしてゐれば好いんだ……默つてさへゐれば好いんだ。俺は少しもお前と喧嘩したりなんかしたかないんだ。元々お前が好きだからこんな事にもなつたんだ……。』
 お時はやッぱり默つて袖を噛みながら頷いてゐるのです。
『俺は何處までもお前の爲を思つてゐるんだ。お前が内證にさへしてゐて呉れゝば、お前が嫁に行く時でも何でも、俺は出來るだけの事はして遣らうと思つてゐたのだ。それだのにお前は…』
 と言ひながら、私はお時の肩に手をかけました。
『だから、これからだつて、内證にさへしてゐれば好いだらう、え、然うだらう。然うぢやないか。』
 私は『これからだつて』などゝ、何か又然ういふ相談でも既に起つてゐるやうに、態と大膽に言つて見たのです。ところが女は案外驚きもしない樣子なのです。そして、
『ええ。さうですわね。』と品をして言ふのです。
 私は初めて勝利を感じましたね。『好い氣味だ。ざまを見ろ。とう/\自分の爲た事をすッかり反古ほごにしてしまやがつた。』と斯う思ひました。
 實際私達二人は伯母さんに出した詫り證文を忽ち反古にして了つたのです。
 二年立つて、お時は嫁に行きました。伯母の世話で、大層立派にして遣つて貰つたといふ事でしたが、私はもうその時分には冷淡極るものでどんな所へ行つたか、それさへ耳にしませんでした。
(終)

底本:「發禁作品集」八雲書店
   1948(昭和23)年9月1日発行
初出:「新思潮 第二次第一號」鳴皐書院
   1910(明治43)年9月
入力:林 幸雄
校正:宮城高志
2010年9月9日作成
2010年11月9日修正
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