隣家の庭に初めてあけびが生つたからと沢山わけていただいた。私といつしよに暮してゐる山形生れのHは、かねてからあけびは実よりも皮の方がおいしい、皮を四五日かげぼしにしてから細かくきざんで油でいためたのを醤油でゆつくり煮しめて食べるのだといふことをしきりに言つてゐたから、すぐにその料理を作つてもらつた。じつに珍味であつた。ほろにがく、甘く、やはらかく、たべてゐるうちに山や渓の空気を感じた。
 茘枝れいしをいためて煮つけたのも甘くほろにがく、やはらかく、そしてもつとふくざつな味で、多少中国料理の感じでもあつた。あの赤黄いろい、ぎざぎざした形からわが国の物らしくは見えず南国の産らしい。母はとてもその茘枝れいしの料理が好きであつた。私が大森に住むやうになつてからも時々こしらへたけれど、家の人たちがにがい物を好まないやうで、私ひとりが食べた。この何年にも、どこの垣根にも茘枝れいしの生つてゐるのを見たことがない。今、あけびの油いためを食べてみると、昔の夏の茘枝れいしを思ひ出す。
 蕗のとうもやはりほろにがい、にがみをいへば、これが一ばんにがい。蕗のとうだけは油でいためない、すこし砂糖を入れて佃煮よりはややうす味に煮つける、無類に雅な味はひである。わかい時分に蕗のとうの好ききらひをみんなで話しあつたとき「根性の悪い人が蕗のとうを好きなんでせう」と或る江戸つ子の友達が言つた。「それでも、私みたいに善良な人間でも、蕗のとうが好きよ」と言ふと「それは例外よ」彼女は事もなく言つたけれど、しかし考へてみると、根性は悪くはないのだが、私はずゐぶん気むづかしい人間だから彼女の言葉が本当なのかもしれない。ずつと以前、池上の山ちかくに尼寺があつて、その庭が蕗で一ぱいで、春は蕗のとうが白々と見えてゐた。散歩しながら垣根の中をのぞいて、きつと、ここの尼さんたちは毎日蕗や蕗のとうを食べるのだらうと思つたりした。もう何年かあの辺を歩かない。あの尼寺はあつても、庭はあつても、蕗が生へてゐないかもしれない。
 うこぎの新芽もおいしいさうである。うこぎ(五加木)は灌木で、生垣なぞにも使はれてゐるといふ。たぶん武蔵野も北寄りのこの辺はさういふ山の木があるに違ひないけれど、私はまだ見てゐない。むろん食べたこともないが、夏山のうつくしい香りがしてほんのりにがいもので、胡麻あへにするとおいしいさうである。うこぎのやうににがみはないが、くこの葉も好いにほひがして、まぜ御飯にするとおいしい。これは醤油でなく塩味だと白と青の色がきれいに見える。むかし私が生まれて育つた麻布の家の北向きの崖には垣根といふほどでなく、くこの灌木がいつぱい繁つてゐて、夕御飯のためにみんなで摘んだのを今も愉しくおもひ出す。赤い実がきれいであつたが、どんな味がしたか覚えてゐない。
 山うども清々しい苦みがあつて山の香りが強い。おいしい煮物であり、和へものでもあるが、畑のものは山うどのやうに細かな濃厚な味がない。朝の食事にパンをたべる人がうどを皮をむいてタテに割つて生のまま塩をつけて食べる時ほんとうに春の味がするといふ。うどに生椎茸とむつの子のうま煮を白い白い御飯と食べたのは春や昔のことである。
 山の草や野菜ではないけれど、毎日いただくお茶は香りとにがみを頂くのである。おうすにしろお濃い茶にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。おせん茶の法式がどんなものか知らないが、出からしはたしかに本当の式ではないだらう。世の中すべてアプレになつてこの頃はそんな念入りな接待法がなくなつたことは嬉しい。こんなぐちを長く言つてしまつたのは、たぶん私の苦い思ひ出の一つなのだらう。
 あるアメリカ夫人が私たちお弟子をランチに招んだ時、ざぼんをガラス皿にほごして白砂糖と葡萄酒をかけて、前菜の代りに出された。甘くにがい味、葡萄酒と木の実の強い香りがさやかに食卓に流れてゐた。何時のことであつたらうか、ほのぼのと思ひ出す。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
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