明治の末頃、田辺和気わけ子といふ有名なお茶の先生があつた。その田辺先生に私は二年ぐらゐお茶を教へていただいた。先生はお花も教へてをられ、金曜日には先生のあまり広くないお宅は花屋から持ちこむお花で、お座敷も椽側もいつぱいになつた。お流儀花の池の坊であつたが、ほんとうはお茶のついでに教へられたので、まづお嫁入り前のお稽古花のやうであつた。
 先生のお家は麹町の屋敷町の中に置き忘れられたやうな古いちひさい家で、八畳二間と玄関の三畳、それに二畳の板の間がお座敷の西側にあつて水屋に使はれてゐた。お弟子の私たちはお玄関にゆかず、しをり戸からお庭にはいり、お庭の飛石を渡つてすぐ椽側に上がるのだつた。三十坪ぐらゐの狭いお庭は草がとても風流に繁つて、たけの長い草は抜かれるらしく、曲りくねつた小径には苔やつる草の中にちらちら飛石が見え、その先きの方に三四本の短かい木や灌木が植込みになつて、その先きの青い世界が約束されてゐた。
 先生は未婚のまま学問や和歌で加賀百万石の前田家に仕へて御老女をつとめられ、和気乃わけのと呼ばれた方だつた。その後前田家におひまを願ひ、京都の高等女学校の教授となつてをられたが、ついに東京に出て来られて民間の娘たちを教へられるうち、先生の名はだんだん拡まつて雑誌や講議録にお茶や、お花、礼法のことを書かれるやうになり、あちこちの宮家からお姫様方のおけいこに召され、学校も二つ三つ教へに行かれて、非常にお忙しくなつたが、それでも一週のうち水曜と金曜はお宅のお稽古日とされてゐた。先生は切下げ髪で黒いお羽織を着て、いかにも御老女様といふやうにぴたりと坐つて人と応待されたが、やはり明治人であつて西洋風のお料理が大好きで、いつでも土曜日の晩には本式の濃厚なスチユーを充分たくさん作つて、翌日もそれを温めてたべるのだと言つてをられた。お弁当のおかずにも牛肉の佃煮やローストビーフなぞ、お茶人の先生とはおよそ千里も遠いやうな物を持つて行かれて、これは一度作つて置けば一週間ぐらゐ使へるからと説明らしい事をいはれたが、ほんとうはさういふ料理がお好きだつたと思はれる。たべ物に限らず先生はすべてに保守主義ではなく、私のやうに親も家も何の取得もないやうな娘でさへ西洋人の学校を卒業したといふので、それを一つの手柄のやうに思はれて、(この時分は大方の上流令嬢たちは女子学習院か虎の門女学館に入学、中流の家では少数の頭の良いチヤキチヤキの娘だけがお茶の水といふやうな傾向であつた。)私の母に、あなたのお嬢さんは英語を習ひなすつてお仕合せだと思ひます。これからの世間はどんどん進んで行くのですから、外国語も一つ位はどうしても必要でせう。今はすべてが西洋風に反対してゐますけれど、やがて今と違つた時節もまゐりませう。私なぞももうすこし時間があればキヤット、ラツトからでも始めたいのですが。Hさんも英語を一生お役に立てなさるやうに、もつと勉強おさせになるのがよろしいと思ひますと言はれて、母はすつかり驚いて、あなたが西洋人の学校にはいつたのをほめて下さるのは田辺先生ぐらゐなものだねと笑つてゐた。
 その後先生は外出される日が多いので、留守居を置かれた。わかい後家さんで七八つの女の子をつれてゐる人だつた。八畳のお座敷の次の間も八畳で、茶の間兼寝室であつたが、留守居の人たちは食事する時と寝る時はこの部屋で、ひるまは玄関の三畳で針仕事をしてゐた。このお留守居はどこか地方の町方の人らしく意気な下町らしいところと田舎らしい質素な様子もあつて、好い人と思はれた。彼女が来てから半年とも経たないうちに、先生は不意に脳溢血で倒れて昏睡状体のまま十日ほど寝てをられたが、この人が細かに面倒を見て上げたのである。
 早くから他家に縁づかれたお妹さんも電報の知らせですぐ上京したけれど、久しいあひだ遠遠しくなつてゐたお姉さんの家の事は何も分らず、ただ枕もとに坐つてゐるだけのことで、私たちお弟子も毎日のやうに顔を出して二時間ぐらゐづつは先生の看病をして上げた。内親王がたをお教へしてゐた小川女史が唯一の親友であつたから、夜になるとたびたび顔を出され色々と相談して下すつた。お留守居の人から聞いたことだが、お妹さんが上京されてすぐに箪笥の抽斗や行李の中も立合ひの上で開けて見たけれど、小だんすの抽斗に郵便局の貯金帳があつて、三千なにがしのお金があるだけで、ほかにどこにも先生のお金が見えない、お妹さんが困つていらつしやると彼女が言つてゐた。先生のやうな聡明な方が、何十年も働らいて質素な暮しをつづけて、何処かに老後のための貯へをして置かれたに違ひないが、それを先生のほかに誰が知つてゐるか、これは身寄りの方たちがずゐぶん困ることだらうと思はれた。
 宮様方からは立派なお見舞のお菓子や果物の籠が届いて床の間がせまくなつてしまつた。十日目になつて先生はふいと目をあけてそこらを見廻された。妹さんやお留守居の人は喜んで声を出して呼びかけたが、口はきかれず何か探すやうな様子で、しまひには右手を出して何か持つやうな手の格好であつたので、試しに鉛筆を持たせて上げると、それを器用に持たれた、それでは紙をと、小さい手帖を出して、字が書けるやうな位置にだれかが手で押へて上げると、先生は暫らく考へる姿でやがて鉛筆をうごかして何か書かれた。そばの人たちは息をひそめて待つてゐたが、鉛筆をぱたんと落して疲れたやうに眼をつぶられた。遺言と、みんなが思つた。その手帖をとり上げて妹さんが読み、つぎつぎにそばの人も読んで、みんな首をかしげた。手帖には字もはつきりと、「子猫ノハナシ」と書いてあつた。
 先生はそれきり眼をあかず眠りつづけて翌朝亡くなられた。妹さんはがつかりし、お留守居の人は興味を持つてこの話を私たちお弟子に話してくれた。新聞記者も二人ばかり訪ねて来て「子猫ノハナシ」を不思議がつたが、それはただ先生の夢の中の話なので、それきり後日談もなかつた。お葬式はすばらしく立派で賑やかで、私たちお弟子はみんな人力を連ねてお寺に送つて行つた。
 ながい年月が過ぎた今でも私は時々先生をおもひ出す、先生がぴたりと坐つてをられる静かな姿と、そして最後のあの「子猫ノハナシ」と。さめない眠りの中で私も童話のやうな子猫の世界に遊びにゆけたら幸福であらうと思つたりする。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
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