和染わぞめの大家である木村和一氏が大森新井宿の家を引払つて井の頭線浜田山に移られた後、その改築された殆ど新築のやうな意気なおうちを私は娘につれられてお訪ねした。大森からはたいへんな田舎のやうに思はれる浜田山で、青々した畑がひろがつてる中に山のやうに樹々のかたまり繁つたところもあり、竹籔もあり、農家が樹のかげにすこし見えたりしてまことに閑静な土地と思つた。空気の新鮮さは信濃の追分あたりを歩いてゐる時のやうで、しみじみ胸に浸み入る感じだつた。この村に自分が越して来ようとはその時少しも考へなかつたが、さて一年ばかりのうちに時勢がひどく悪化して空模様は不安になり、警報が朝から夜まで幾たびも鳴りひびいて、のんきな私も落ちついてゐられなくなつた。ちやうどその時分に娘がまた木村さんをお訪ねして、ぢき近いところに小さな売家があると伺つて来たので、私たちは相談の結果その家を見に行つた。
「この家を買ひませう」と私が即座に言つたのは、気のながい私にしては不思議な事であつたが、さうした廻り合せで私は二十余年住みなれた大森を出て来たのである。殆ど硝子張りといつたやうなアトリエ風の小家で、雨戸や畳もなく壁はテツクスだから、雨かぜの夜は武蔵野のまん中で野宿して濡れしほたれてゐるやうな感じもしたが、私はわりに気らくで、一二年もすればまた大森の家に帰れる、これは疎開の家だといふ風に考へてゐた。浜田山といつても別にどこにも山があるのではなく、ところどころに椎や樫の大樹がしげつて、それが空を被うて山のやうであつた。この土地は開けるのがわりに遅かつたから古い樹々も竹籔も伐られずにゐたのだと思はれる。駅から西にあたつて三井グラウンドのひろびろと青い芝生があり、白ペンキの低い木の柵がめぐらされて何時も明るい清潔な感じを見せてゐる。駅の東の方にやや遠く、広い草原があり、松の大樹が無数にそびえ立つて、松の根もとをうねる細みちにはひる顔の花が咲いたりして、美しい松山があつた。
 いつ聞くともなく聞いたのは、この松山がむかし浜田弥兵衛の家のあつた土地で、浜田弥兵衛は長崎や台湾であれだけの働きをした人だから、その名を記念してこの土地を浜田山といふやうになつたといふ話であつた。浜田家はそれほど大へんな豪家ではなく、浜田山だけでは八町八反の地主であつたが、ほかが小さい農家ばかりであつたから、この辺の庄屋の家であつたのだらう。
 浜田家のお稲荷さんはこの辺全部の鎮守様みたいなもので、そのお稲荷さんに遠慮して浜田山には一つのお寺もなく神様もないのだと聞いてゐるが、本当かどうか知らない。しかしいちばん近い寺は西永福と永福町とにある。昭和二十年この浜田家の屋敷跡の松山を軍の方で買ひ上げて油の貯蔵所を造り、南と北の入口に番兵が立つやうになつてから、私たちはもう自由にこの松山の草みちを通行ができなくなつた。永福町が焼けたその同じ夜にこの松山にも火が堕ちて油の倉庫が焼けた。黒い煙がまる二日立ちつづけてゐた。その黒けむりを見て「まだ焼けてゐる、まだ焼けてゐる。ずゐぶんたくさん油があつたのだ!」と私たちは感歎したり驚いたりしてゐると、三日経つて煙が消えた。松の大樹が何十本か焼けてしまつた。
 その時から五六年も経つて、世の中はとにかく平和になつてゐるが、生活は苦しく忙しく浜田山のいはれなぞ考へることもなく暮してゐた。昨年のこと、ある友人から浜田弥兵衛の話は何かのまちがひではないかと言はれた。武蔵の国の住人が長崎の町人になつて御朱印船を乗り廻したり、台湾であばれたり、あれだけすばらしい働きをしてもう一度うまれ故郷(?)に帰つて隠居をして死んだとも思はれない。あるひはずつと若い少年時代にこの土地を出て行つたのだとも思はれない、長崎の町には浜田家の子孫が今も栄えてゐるといふ話で、何かぴつたりゆかないやうだと言はれた。さういふ事をくはしく訊いて見ようにも浜田山の人はみんな年がわかいのである。私たちの隣家の主人の祖父の時代に浜田弥兵衛の何百年祭とかをしたといふ話で、この土地の事を細かく知つてゐる八十以上の老人がまだ一人この村に生き残つてゐるから、或はその人が何か知つてゐるだらうと言はれたが、私はその家まで訪ねて行く熱心さを持つてゐない。同じ浜田でもちがつた浜田でも少しも差支ないとさへ思ふのだが、それでもお墓参りに行つてみた。軍が浜田家の松山を買つた時、土地の人たちが墓碑を西永福の理性寺に移したといふので、そこへ行つた。古い石でなく新しい墓が立つてゐた。理性寺の住職は折あしく不在で何も話をきかれなかつたが、彼も若い人であるし浜田家の昔からの菩提所ではないのだから、古い事は知つてゐないかもしれなかつた。本堂のうらにこの寺の広い墓地があるけれど、浜田家の墓はそことは別に、門を入つて本堂に向つた右手の樹木のしげみに二つの石碑が立つてゐた。新しい石であつても、雨かぜに曝されて墓の表の字は読みにくかつた。右の方の墓には何々院何々居士と並んで何々院何々大姉と彫られてあるから浜田夫妻の墓である。石の裏面には「武州豊島郡内藤宕上町 俗名浜田五良八事 浜田弥兵衛生年三十九歳」とあつて、石の側面に「宝暦五年乙亥六月初七日」とある。つまり浜田五良八なる通称浜田弥兵衛がその宝暦五年に三十九で死んだのである。並んで立つてゐる左手の石は表の字がまるきり読めない、裏面には、生国 伊勢三重郡浜田住 俗名浜田弥兵衛とあつて死亡の年月は彫られてゐない。たぶんこの伊勢国三重郡浜田(今の三重県四日市)にゐた浜田屋弥兵衛が浜田家の先祖であつたのだらう。この浜田屋から長崎に渡つて長崎商人となつた人の家に浜田弥兵衛が生れ出たのか、伊勢の浜田屋から江戸方面に出て来て、豊島郡内藤町に住みついた家から長崎に浜田弥兵衛が出て行つたか、伊勢の浜田屋弥兵衛の死亡の年月が不明のため、その辺の事は分らない。ただ長崎も江戸もみんな伊勢の浜田氏から出た一族であらうと思はれる。
 武蔵の住人でこの辺一たいの庄屋であつた浜田五良八は自分の一族に有名な浜田弥兵衛がゐたからといふ訳でなく、先祖からの家の通称浜田弥兵衛を自分も名のつただけの事と思はれる。長崎の浜田弥兵衛が貿易のために九州から呂宋や台湾まで渡つたのは家光の寛永時代で、武蔵の国の彼が死んだ宝暦五年までには百年位の時間が経過してゐる。長崎に今も残る浜田弥兵衛の子孫の家をたづねてみれば、伊勢と武蔵と長崎とのつながりを説明してもらへるかもしれない。戦争前に、東京四谷方面に浜田家の親戚がゐて、浜田山で浜田弥兵衛の祭をした時に立派な自動車に乗つて招ばれて来たといふ話をきいた。昔の豊島郡内藤町に現代まで残つてゐた浜田家の人であらう。その人が今も生きてゐれば、長崎と武蔵豊島の関係も教へてもらへる事とおもふ。
 同族の二人の浜田弥兵衛が西と東にゐて、彼等各自の世界に彼等の力いつぱいの仕事をしてゐたと考へるのは愉快なことである。さういふ事を私が言ひ出して浜田山の土地の人たちの夢を破るのは済まないと思ふけれど、武蔵野のひろい松山の中の家にむかし生きてゐた人に私は深い親しみを感じて、私たちが往来する浜田山の土を踏んで三十九年間生きて働いてゐたその人の霊を祝福したいやうに思ふのである。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:富田倫生
2008年10月14日作成
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