私たちは補助椅子といったようなものをあてがわれて、隅の方に小さく控えていると、第二の一幕物がもう終るところでした。プログラムを観ると第三が松王で、それが今度の呼物であるということが判りました。この松王は欧洲でも上場されたことがあり、米国では紐育ではじめて上場されたのですが、その演出法が和洋折衷で面白くないというので不評であったそうです。今度はその当時とまったく違った俳優たちが純日本式のプロダクションを見せるという、それが観客の人気を呼んだらしいのです。登場者は活動写真の俳優として知られているヘンリー・ウォルサルやフランクリン・ホールの人たちで、それに大学の学生たちが加わっているのです。涎くりその他の寺子を呼出しにくる村の者は、すべて大学生であるということを後に聞きました。
幕があくと、御約束の寺子屋の舞台です。舞台が狭いのでよほど窮屈らしく見えましたが、ともかくも二重家体を飾って、うしろの出入口には障子が閉めてあります。菅秀才が上手の机にむかって手習いをしている。下手に涎くりとほかに三人の子供が机にむかっている。いずれも日本風の鬘をかぶって、日本の衣裳を着ています。その衣裳に多少の無理は見えながらも、別におかしいと思うほどのこともありませんでした。
台詞は寺子屋の浄瑠璃の本文を殆ど逐字訳といっても好いくらいに英訳したもので、紐育で作られた台本を用いているのだと聞きました。涎くりが戸浪に叱られて机の上に立たされて泣く。そこへ千代が小太郎をつれて来る。すべて本文とちっとも変えずに遣っていました。千代は型通りの黒紋付に前帯で、扇を持って出ます。戸浪はバルバラ・ガーネー、千代はヘレン・エデーという女優です。さすがに平舞台に坐るのは難儀とみえて、戸浪と千代との応対はすべて立身で遣っていました。戸浪は西洋風に手を動かす癖が眼立ちましたが、千代はおちついてしっとりと好く演じていました。千代が帰ろうとするのを小太郎が追ってゆく、千代はひき寄せて顔を見る。このしぐさが幾度も繰返されるので、ちと煩さいと思いましたが、外国の観客はこのくらいにして見せなければ満足しないかも知れません。あくる日の『タイムス』紙上を見ると、劇評家ウォーナック氏はこの一節を激賞して「この大悲劇中の見所は千代がわが子を残して去る一刹那にして、エデー嬢は悲劇俳優として大なる将来を有することを明かに示せり」といっていました。ウォーナック氏はこの一幕に対して、かなりに長い劇評を試みていましたが、肝腎の首実検の件に就てはあまり多くいっていませんでした。やはり忠義ということよりも親子の情という方面に重きを置いているのでしょう。フランクリン・ホールの源蔵は、努めて日本人の癖を学ぼうとして前屈みになり過ぎるのが眼障りでしたが、小太郎を見て「オオ、グード、ボーイ」とじっとその顔を眺めるあたりは大芝居でした。戸浪と差向いになって身代りの思案を話すあいだも巧いものでした。勿論どの人も首ということは一言もいいません、いかなる場合にも単にスレイン(殺す)といっていたのは、外国人として無理ならぬことです。しかしどの人も努めて西洋劇にならない用心をしているのか、ひどく台詞を伸ばして静にいっているのが、わたしどもにはかえって異様にきこえました。春藤玄蕃の出も、村の者の呼出しも、すべて型の通りで、涎くりが玄蕃に扇で打たれ、泣いて引込むと観客はどっと笑います。
私のおどろいたのは、主人公の松王を勤めたヘンリー・ウォルサルの立派なことです。病鉢巻をして出て来たところは訥子を大柄にしたようで、顔の作りなども好く出来ているので、ちょっと見ては、外国人とは思えないくらいでした。しかしこの人も台詞をひどく伸ばして、しかも抑揚の少い一本調子の英語で押通しているのが耳障りでした。例の「奥にはぱったり首打つ音」は、なんにも音を聞かせないで、単に松王がよろけるだけですが、それでも観客に得心させるように遣っていたのは巧いものです。首実検の時に手を顫わせながら、懐紙を口にくわえる仕種などをひどく細かく見せて、団十郎式に刀をぬきました。ここでも首は見せません。首桶を少し擡げるだけでしたが、観客はみな恐れるように眼を伏せていました。
松王も千代も二度目の出には、やはり引抜いて白の着附になりましたが、松王はを着ていませんでした。それでも柄が立派なのでちっとも見そぼらしいとは思えませんでした。松王が身がわりの秘密を打明ける件になると、婦人の観客のうちにはハンカチーフを眼にあてているのが沢山ありました。要するに観客は親子という方面にばかり注意していて、源蔵夫婦の苦心には重きを置かないらしく見えます。ウォーナック氏もこの夫婦に対しては殆ど何にもいっていませんでした。千代の口説は至極簡短になっていましたが、これは已むを得ますまい。いろは送りも無論ありません。松王が「我子にあらず、菅秀才のおんなきがら」の件で幕になりましたが、とにもかくにもこれだけのものを、わたしたちが観ていてちっともおかしい点がないほどに遣り負せたのは偉いものです。これと反対に、日本人が外国の劇を上演した場合、外国の人たちがそれを見物して、今夜の私たちのように感心するかどうか、わたしは少からず危みながら表へ出ると、今夜の雨はまだ音を立てて降っていました。
この成功に気乗りがして、来月の試演には『先代萩』を上場するとか聞きましたが、どうなったか知りません。
(大正八年四月、紐育にて)