人物

須永
舟木(医師)
織子(その妻)
省三(学生・舟木の弟)
若宮(株屋)
房代(その娘)
柳子
浮山
モモちゃん

        1

 そうだ。もう芝居は、たくさんだ。いつまでやって見ても果てしの無い話だ。私たちの後ろにかくれて、私たちを踊らせている者がある。私たちはそれに気が附かずに、自分は自分の意志で自分のイノチを生きていると思って居る。そして自分を取りかこんだ観客から見られ、見られることで得意になり、セッセと演技をつづける。後ろにいるやつは、そこまで知っている。そこまで計算している。
 私たちの腹の底の底まで見抜いている。私たちがどう考えてどっちに転んでも、自分の演出の外へ抜けだすことは出来ないことを知っている。だからそいつはニヤニヤと声を立てないで笑っている。
 しかしもう飽きた。もうたくさんだ。なるほど、そいつの演出の外へ抜け出すことは出来ないかも知れないが、こうして、フフ、後ろを振向いて――見ろ――チラッと、こうして、そいつの顔をチラッと見てやる事は出来るのだ。そいつは、きまりを悪がって、顔をふせて、サッと居なくなる。又すぐ戻って来るが、いっとき居なくなる。その時間だけは私のものだ。この時間だけが私の自由だ。誰も私を演出していない。誰も私を見物していない。だから私は演じなくともよい。人のために自分の表情をゆがめる事なく、自分自身のためだけに僅かばかり生きるのだ。
 そうなのだ。私に入用なものは、生まのままの人生の荒々しい現実のひとかけらだ。ありのままの事実だけが必要だ。誰もが、それをああ眺めたり、こういじくったり、明るい光を当てたり暗いカゲを投げかけたりして色々の意味を附けない前の、全く意味のわからない、しかしたしかに現実そのものにはある――土の中から掘り出したばかりの、ひとかたまりの岩のように、荒れよごれて何の岩だかわからないが、岩であることだけはまちがいない、それだけが必要だ。犬は生の意味を悟らない。しかし生きている。犬のように私は生きねばならない。どうせその意味を悟って見たところで、ライフにはたくさんのひどい苦しみと、たくさんの中位の苦しみと、ごく僅かばかりの楽しみがあるきりだ。なぜそうなのだろうと考え迷った末に私はこれまで二度ばかり自殺しかけたことがある。
 今でも私は迷っている。わかった事は一つも無い。だのに私は自殺はしないだろう。……お前は死んだ。妻よ。私の中から何か大きなものを根こそぎ持ち去ってどこかへ行ってしまった。私は自分がどう言うわけでここにこうして生きているのか、生きておれるのか、まるでわからない。なるほど、お前はそこに居る。そこに私と並んで坐って私を見つめ、こうして私が原稿紙に書いている文章を読み、私の頭の中の考えの流れを見ている。お前はどこへも行きはしない。だのにお前はもうどうしようも無い遠方に行ってしまった。私は悲しんではいない。私の目に涙の影は無い。しかし前向きに進んで生きようとする気分も無い。喜びの明るい色のひとかけらもない。明るくはないが暗くも無い。そうなのだ。ほんとうに、生きて行きたいとは、まるで思わない。だのに私は自殺しようとは思わないし、自殺しないだろう。
 私の瞳孔は散大してしまったのだ。既に何一つ見ない。しかしすべてを見ている。そして、ただ見ているだけだ。阿呆のように、ただ見ているだけだ。見えているものの意味をわかろうとはしない。この眼は既に「意味」に疲れてしまったのだ。この眼には、生まの荒くれた現実のひとにぎりが映るだけなのだ。だからもう私は芝居は書きたくないと同時に実は書けもしないのだ。意味のハッキリしない現実のコマギレだけを並べても芝居にはならぬからだ。そして芝居を書かねば金も入らぬ。金が入らねば追々には食う物もなくなり身体は弱って倒れるだろう。それもよかろうと思っている。そう思っても人ごとのように枯れくちて倒れた自分の死骸を冷たく眺めている私がいる。
 ところで、なぜ私はこんな所に一日坐ったきりで、こんな事を考えているのだろう? もう暗くなって来た。ペンの先がほとんど見えない。スタンドのスイッチを押せば明るくなるが、明るくしても、しかたが無い。妙に息苦しいのだ。昨日や今日の事ではない。ズーッと息苦しく、段々それがひどくなる。どこか身体が悪いのかと四五日前に舟木さんに診察してもらったら、気管が少し痛んでいるが息苦しくなるほどのものではないと言う。その他にも原因は見出せないそうだ。だのに、やっぱり息苦しい。空気の密度が次第に濃くなって来て、しばらく前までネバネバとしていたのが段々にそれは石か木のような固体にでもなったように、はじから齧りでもしなければ呼吸できないようだ。やがて次第に呼吸は短かく浅くなり、頭はモウロウと目はかすんで手も足も動かなくなるのだろう。戦争からはこうして生き残ったけれど、あれだけの大戦争であれだけたくさんの人々が死んだのだ。いずれはわれわれもこのままではすむまい。爆弾では死ななかったが、いずれは何かで殺されるのだろう。覚悟だけはしていよう。そう言ってお前といっしょに笑ったね。今も私は笑っている。浅い短かい呼吸の中でも笑えるのだ。
 そうだ、もしかすると息苦しいのは、幾分はこの室のせいかも知れない。この家のせいかも知れない。
 この家は、お前の最後の三月間を診てくれた舟木さんが、お前が死んで私一人あの海ぞいの家に取り残され家主から立退きを命じられ、行く先が無いのに困っているのを見るに見かねて、管理人に頼んでやるからと、連れて来てくれた家だ。今はもう亡くなった元満洲国の大官をつとめていた人の邸宅で、その未亡人はもう九十歳に近く、戦争中に広島県の田舎に疎開したきり中風で倒れて口もきけず、寝たきりでいるそうで、三階建ての室数二十四五もある家が三カ所ばかり焼夷弾を食ったり自然の荒廃のためくずれこわれて、現在使える部屋は七つ八つになり、それでも外がまえだけは傲然とした姿で、東京郊外の高い台地の、後ろはかなりの崖になった広い庭園の、その一番奥に立っている。他に戦争中防空室に使っていた地下室と、それから、これは、元の主人の大官がなんの好みかわざわざ建てさせた塔が、三階の上に又二階位の高さにそびえていて、そのこわれかけた塔の上に昇って真下に見える後ろの崖の底でも見ると眼がまわりそうで、そこまでだと六階ぐらいの高さがあろう。まわりの庭園は荒れ果てている。
 この家に、家族にして四家族、と言うか五家族と言うか、九人の人が住んでいる。みんな良い人たちだ。三階で使えるのはこの部屋だけで、ここに私が一人だ。元の主人の書斎兼寝室で、英国製の、おかしいほどクッションの良いダブルベッドが作りつけになっている。二階には医師舟木さん一家と株屋の若宮さんの一家とそれから柳子さんが住んでいる。
 舟木さんは大きな公立の病院につとめている内科の医者で、奥さんの織子さんと弟の省三君との三人暮しで子供は無い。織子さんは女子大出の理智的な美しい人で、省三君は大学の法科に行っている。
 株屋の若宮さんは娘の房代さんとの二人暮しで柳子さんが以前株を大きくやっていた時の相談役だった人だ。娘の房代さんは英語が出来るので進駐軍の施設につとめている。
 柳子さんは、元のこの家の主人の大官が、赤坂の一流の芸者に生ました子で、少女時代は非常にぜいたくに育ち、女学校を終ってから音楽学校の邦楽科を途中まで行き、終戦後、一時芸者に出ていたこともある。長唄の名取りで、ことに三味線は家元にも重んじられる程の名手だと言う。現在は一人暮しで、家中で一番立派な二階中央の広間とその次ぎの間の二室を占領している。サッパリとした、いつも機嫌の良い人柄だ。ただ時折、夢中になって三味線を弾くが、そういう時に声をかけてはならない。先程から微かに聞こえて来ているのがそれだ。……
 一階には使える部屋が、食堂とそれに続く居間の二つしか無く、浮山さん一家が住んでいるきりだ。一家と言っても浮山さんは独身だし、引き取って養っている遠縁のモモちゃんと言う少女との二人暮しだ。もと絵を描いていたが、いつ頃からかそれをフッツリとやめてしまった。今はオモトやランの栽培にこっている。近頃では地下室でマッシュルームの養殖もしている。若い時はさんざん道楽をしたと言うが、今はもう枯れ切ったと言うか、物わかりの良い、ひょうひょうとした人だ。広島で寝ている未亡人の、またいとこに当る縁のため、早くから此処に住んで管理人になっているが、この家屋敷は何か複雑な関係で二重の抵当に入っていて、どこをどうにも動かせないため、仕事と言ってはほとんど無いらしい。モモちゃんと言うのは広島で原爆を受け、親兄弟全部を取られ、自分だけは助かったが、眼が見えなくなった。十六か七になったろうが、原子病の跡が残っているためか、まだ実が入らない花のクキのように見える。いつもニコニコと快活な子だ。四階の塔に登るのが好きで、そこで笛を吹く。もと浮山さんが吹いたと言う、銀製の横笛で、昔たしかミン笛とか言った奴をもう少し複雑にしたもので、あれでやっぱりフルートか。
 以上八人、私をこめて九人の人間が、この家に暮している。みんな良い人たちで、お互いの間にゴタゴタや不愉快なことは起きない。一同互いにむつみ合い、親しみ合いながら、お互いの中へ深くは踏み込んで行く人は無いので、平凡ながら、おだやか過ぎる程におだやかな暮しだ。ギラギラする幸福を持った人は一人も居ないが、落ちついた平和な空気がここには有る。今の世の中では幸福な人たちだと言えるかも知れない。そうだ、たしかに今となっては、これは幸福なのだ。毎日の夕食だけは、一階の食堂で、女の人たちの作ったものを、一同寄り集まって食べることになっている。今日も間も無く、それの知らせの鈴が鳴るだろう。
 すっかりもう暗くなってしまった。窓の向うの空だけが明るい。三味線の音も、やんだ。

     2 食堂

房代 さあ出来た。
織子 ひい、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここのつ。
房代 みんな居るかな?
織子 内の省三がまだだけど、間もなく帰って来ます。
房代 アルバイト?
織子 そう。大学生があなた、講義に出るのが一週二日で、あと四日はアルバイトで稼いでんだから、変なもんね。はい、お箸。
房代 モモちゃん、どこかしら? また塔に登ってるかな。
織子 連れに行って来ましょうか?
房代 でも、下手にあの子の世話を焼くと柳子さんに睨まれちゃう。
織子 そう言えば、三味線やんだから、柳子さん、塔の方へ迎えに行ってらっしゃるかも知れない。房代さんのお父さん、お帰りんなった?
房代 ええ。上で帳簿をしている。セロリ、もう少し切るかな?
織子 こいでたくさんじゃない? 食べるのは内の舟木と三階の先生だけなんだから。
房代 ……先生の所には、今日もお客さん見えたんですの?
織子 さあ、一人二人、声はしていたようだったわ。
房代 どうしてあんなに若いそれも女の人たちまでチョイチョイ来るんでしょ?
織子 いろんな事を聞きにくるんじゃないかしら。それとも、フフ、奥さん亡くなった後なんで、その後釜をねらって押しかけて来るのかな?
房代 あら、あんな人――あんな、怖いみたいな?
織子 怖いは、よかったわね。
房代 でもさ、あの方が、黙っている時の眼をヒョイと見て、この人すこし気が変じゃないかしらと思う事があるわ、私。
織子 そう言えばそうね。普通の人とは、どっかちがっている。……でも良い人よ。
房代 御飯よそっときましょうか?
織子 みなさんおいでんなってからの方がよくはない? ええと……これで、なにね、こうして仕度をしてしまって見渡して見ると、たった二品か三品の御馳走だけど、戦争の直ぐあとは勿論だけど、これで去年あたりと較べても、まるで夢のようね。
房代 それはそうですわね。材料だけから言っても、三四年前には手も出なかった物ばかり。
織子 それを思うと、あたしなぞいろんな事思い出して泣きたくなる。なんだかだと言っていても、すべてが良くなって来ているのねえ。
浮山 (シャツ姿で入って来る。手に三四枚の夕刊新聞)良くなって来た? なにがです? ……や、こりゃ御馳走が出来たな。
織子 いえ、その御馳走がですの。たかが手作りの惣菜料理なんですけどさ、二三年前の思いで見ると、まるで豪華と言ってよいか。
浮山 そら、そうだ。戦争中から終戦直後など、大豆しか無かったんだから。金も無いにゃ無かったが、たとえ有っても肉も魚も手には入らなかったんですからね。思い出すとゾッとする。
織子 うなされていたような気がしますわね、あの時分のこと考えると。それがしかし、又ぞろ再軍備だとか徴兵だとか、あっちでもこっちでも又々おかしな調子になって来てるんですからね、人間なんてホントにまあ……。
浮山 死んで亡びるまで、又しても又しても、うなされるのが人間かも知れませんね。仕方が無い。
織子 仕方が無いで諦めていられれば、なんですけどさ――
房代 鈴を鳴らすわよ。せっかくの御馳走が冷めちまう。
浮山 よしよし私が――(棚の上の大きい鈴を取って振り鳴らす。古雅な音が家中に反響して、遠くへ消える。……その反響の先きから笛の音が起きる。笛は単調な二節ほどを長く引いて近づく)
房代 ああ、モモちゃん、来た。(その方角に附いているドアを開けてやる)
織子 さあてと。(電燈のスイッチを入れる。そこらが目がさめたように明るくなり、大テーブルにすっかりととのえられて並べられた食物や食器が華やいで光る)今ごろになると、もうスッカリ暗くなる。外はあんなに明るいのに。
浮山 いや、外も、もう明るいのは空だけだ。
若宮 よう。……(言いながら、房代の開けたドアからセカセカと入って来る。手に小さいソロバンと手帳)いつもより遅いなあ今夜は。(言いながら正面の一番良い席の椅子にかける。浮山は夕刊を開く)
房代 お父さん、自分がいつもより早く帰って来たもんだから、あんなこと言って。
若宮 そうかな。……(卓上をジロジロ見まわして)よう、フライか。一杯いかざるを得ずと言うとこだな。
房代 揚げてあると、なんでもフライだって言うの。織子さんのフランス料理の腕が泣いてよ。
若宮 でもフライなんだろ。ハハ! (セトモノのカケラを打ち合せるような、短い断ち切るように笑う癖。織子に)フランス語では、じゃフライは何と言うんですかね?
織子 ホホ、ようござんすよ、フランス料理ってほどのものではございません。
若宮 ございませんか。(と既に上の空で相手の言葉は聞かないで、皿のわきに開いて置いた手帳に向ってソロバンをパチパチはじいている)ううむ、と……。
(その様子を房代は舌打ちするような軽蔑の顔で見るが、織子も浮山も馴れているため、格別の反応は示さぬ。……柳子と桃子が同じドアから入って来る。柳子はわざと黒っぽい絹の和服にくし巻の髪。ひどく若く三十三が二十五六にしか見えない。桃子は黒のスェータアにネーヴィ・ブルーのダブダブのズボンで、ポカンと開いたままで見えない両眼だが、盲人らしいオドオドした所は無い。ピンとした身体つきが少年のようだ。片手に銀の笛)
織子 どうぞこちらへ柳子さん。
柳子 はばかりさま、すみませんわね。そらモモちゃん、こっち。(桃子の背を抱き、椅子を引いてやってかけさせ、自分もその隣りの席につく)
浮山 モモコ、また柳子小母さんとこにおじゃましてたのか?
モモ ううん、小母さん迎えに来て下さったの。
浮山 なんだ、すると又塔に登っていたのかい? いかんなあ、こんなに言っているのに。
柳子 でもね、モモちゃんは平気よ。危いのは私たちの方ね。なまじ眼が見えるもんだから、足がブルブルしたり。
浮山 ですから、ですよ。人さまに、この――
柳子 それよ、あすこに登ると良い景色。遠くの空の色が、今時分になると、あれは何と言えばいいのかしら、広重のなんとか――あら、ごめんなさい、モモちゃんには見えないわね。
モモ ううん、見えるよ。
房代 あら、じゃ、だんだん見えるようになって来たの?
モモ ううん、そうじゃない。けど見える。
浮山 とにかく、黙って登るんだけはもうよしてくれないと。
舟木 皆さん、今晩は。(言いながら別の出入口から入って来る。キチンと背広を着て、医者と言うよりも学究と言った人柄)
織子 あなた、ここへ。
舟木 うん。やあ、御馳走だな。
私 ……(ドア口から入って来て一同にえしゃく)
舟木 (それに向って)こっちへ来ませんか。どうです工合は?
私 ありがとう。ええ、まあ。……(微笑しながら、舟木のそばに掛ける)モモちゃん、今晩は。
モモ ああ先生、今晩は。
舟木 (浮山のまわした夕刊を開きながら)織子、省三はまだ帰らないのかね?
織子 ええ、今日はアルバイトの日だから。でも、もう間も無く帰って来るんでしょ。
舟木 アルバイトならいいがねえ。こんなふうな事に又参加してるんじゃないか?
織子 なんですの?
舟木 大学生と警官の衝突さ。
織子 (夕刊をのぞき込みながら)でも近頃ではオマワリの方でも随分横暴なことをするようよ。
房代 近頃じゃ共産党の乱暴と人殺しの記事ばかりじゃないの。そら、ここにも、弟殺し、そいからここにも、三人殺し。イヤだ! どういうんでしょ?
浮山 そういう時代なんだな。
私 モモちゃん、フルートは上手になったの?
モモ ちっとも。息が私、つづかないから。
私 でも、ホントに好きなんだね。いっときも離さない。
柳子 そうなんですよ。だからこれでいいんですよ。芸ごとと言うのは、そのお道具を自分の身体に年中ひきつけていて離さないようにしてりゃ、いいの。あたしがその内、立派な先生をめっけてあげる。
モモ うん。……(ニコニコしている)
若宮 (それまで他の一同に関係無くソロバンを入れては手帳に数字を書きこんでいたのが、計算がすむと、それをサッサとポケットにしまいこんで)さあて、いただくか。(と箸を取って、一同を見まわしてキョトリとして)どうしました?
織子 どうぞ、召上って。
若宮 そうだ、房代、ウィスキイがまだ有ったっけ。出しておくれ。
房代 でも、後になすったら。皆さんに悪いわ。
若宮 なにが? だってホンの一杯飲むだけの――なにもお前、ここは自由主義なんだから、(私に)ねえ先生。
房代 それに、織子さんに悪いわ。
若宮 どうしてさ? お祈りは、なすったらいいじゃないか。(ノコノコ立って棚の上をキョロキョロさがして、ウィスキイのびんとコップを二つ三つ持って元の席へ)……ねえ奥さん。
織子 ええ、ええ、どうぞ御遠慮なく。
若宮 ハハ、そうれ見ろ。一つ、いかがです。(自分と私と浮山の前にコップを置いて注ぐ)カナダの何とかって、そんなに悪くはありませんよ。
私、ありがとう。
(その間に、織子は食卓の隅で、眼をとじて短かい食前の黙祷をする。他の者は静かにして祷りの終るのを待ってやる)
織子 (祷り終って)あら、困るわ、どうぞ皆さん、おはじめんなって。
若宮 ハハハ、こりゃ、うまい、このフライは。(もう食べている)
柳子 いただきます。(桃子にも箸を持たしてやる)
モモ ……いただきます。
柳子 あら、おいしいわ。モモちゃん、こっちのこれ、食べてごらんなさい。
浮山 (ウィスキイを飲み、料理を食う)うん、こりゃうまい。
柳子 こんなうまい物いただいて、今週はありがたいけど、来週は私と房代さんの当番なんだから、怖いな。ねえ、房代さん。
織子 あら、そんな事ありませんわ。柳子さんのお吸物なんか、あんた、今じゃ一流の店へ行ってもいただけない。
若宮 そりゃそうだ。きたえ込んだ、あんた、これで舌だもん。ハハ、そちらさまはお困りだろうが、われわれの方は、これで、今週はフランス料理、来週は日本料理と言うわけで、ありがたいわけ。ねえ舟木さん。
舟木 だけど、若宮さん、ウィスキイはそれ位にしとかないかな、さわるといけない。
若宮 だって、日本酒じゃいけないが、ウィスキイなら良いんでしょ?
舟木 いや、そりゃ、極く少量なら日本酒ほど障りにならんと言うだけで積極的に良いと言うわけじゃない。
若宮 先生はけんのん性なんだなあ。そりゃお医者としては用心第一にこしたことは無いんだろうけんど、連盟の方に来ている香月博士なんぞあたしの腎臓なんぞ簡単な物理療法で治せる程度の、なあんでもないと言いますよ。
舟木 そりゃ、そうかも知れんけど、でも、たしかその香月さんと言う方は外科かなんかで、専門ちがいの……いや、とにかく、一度なんだな、チャンとした医者で本式に診てもらった方がいいと思いますがねえ。
房代 あたしも始終そう言うんですけど、昔っからお父さんはお医者には絶対にかからないんですの。そのくせ拝み屋さんなどの言う事は聞くんです。連盟のその香月さんと言うのも結局指圧療法の先生みたいな。
若宮 ハハ、お前などに何がわかるものか。医者にかかろうとかかるまいと人間は死ぬ時は死ぬし、死なない時はぶっ殺しても死ぬもんじゃ無いさ。第一、株屋と言った、つまり勝負師がですな、イザと言うセトに、たかが腎臓だのションベン袋だのを気にしていたら――
房代 まあ、お父さん!
若宮 う? あ、こりゃ失礼。ハッハ、ハハ。(他の三四人も笑う。一同食事をしながらの会話である)
浮山 すると若宮さんは、その後もズッと再生連盟の方へ行っているんですかね?
若宮 やあ、いや私は再生連盟よりも後藤先生が追放解除になって、この、又会議所の元の連中と動き出そうと言うんで、そういう引っかかりで、いろいろと頼まれる事が多くて、そいでまあ連盟の方へも行ってます。ハハ、だんだん面白くなって来ていてね。
浮山 だが、どういうもんだろうなあ、そういう連中が又々頭をもたげて来て、あれこれと引っかき廻すようになるのが、どういうもんかなあ、ねえ? (私に)
私 そう。……ありがたくはありませんね。大体まあ現在の四十代五十代以上の人たちは、ホントは何をする資格も無いわけだし、事実、もう駄目でしょう。だけど戦争後に頭をもたげて来た連中は、みんないずれも粒が小さいのだから、やっぱり元の連中が又押し出して来るのも、或る程度まで、やむを得んかも知れんなあ。
若宮 それでさ! 粒が小さいだけなら、まだ良いんだ。たいこもちみたいなグナグナな、あんた、バックボンとか言ったな、あちらさんの前でもこちらさんの前でも、ただもうペコペコこいてるだけで、へえ、ひっこしのねえ段ではないんだから。ちいっとシャンとした奴あ、シャクにさわるが、みんな赤です。こいつが又、ほかの事ではシャンとしているが、こんだ向う側一辺倒と言う奴で、そっちい向いたとなるとペコペコもグナグナも無い、ナメクジが塩うかぶったと同じだからねえ。やっぱし結局はドシンとした元の人たちが出て来てくれないじゃ、政治にしたって経済にしたって立ち直りゃしないと私は見るね。
柳子 そんな事言うけど、株屋が政党などにおちょっかいを出しはじめたら、もうおしまいじゃないかしらね、あんたの前だけど。
若宮 と、とんでも無い! 政党におちょっかいを出すなんと、そんな柳子さん、若宮猛なんて株屋、株屋と言ったって、あんた、買うたか買わんかの、ノミ屋に毛の生えたような小者だのに、政党に手を出すなんて、あんた、先さまが笑わあ。ただ私あ、会長の後藤先生とは旧い縁で、だから、あちこち使い走りをしているまでで――
柳子 そんな事より先日お願いした炭坑株の山左の方への保証金、ちゃんとナニして下すっといた?
若宮 あ、ありゃ、ちゃんとしときました。まだ報告しなかったかいな? 鉄の方の、そら、保証金で山左にあずけといたのが三百ばかり有りましたろう? あれの利喰いをあきらめて、そっちい廻しときました。数字は後でお部屋に行って申しますよ。
柳子 そう、そりゃ、ありがたかった。……モモちゃん、もっと食べなさい。
モモ うん、もうたくさん。
省三 ただ今。(言いながらスタスタ入って来る。二十六七の、大学生にしては少しふけて見える、眼の鋭い青年。黒い制服)
織子 ああ、お帰んなさい。ほらね、デモに行ったんじゃなかった。
省三 なんです?
舟木 夕刊に警官と大学生が又衝突してるからさ。
省三 冗談じゃない、年中そんな事やっていると思ってる。(食卓に坐る。その時、省三の入って来たドア口から須永がユックリ入って来る。青い背広の、省三と同年位で、柔和な青白い顔。入口の所に立ってユックリその辺を見まわした眼を桃子の上に停める)
私 ……須永君じゃないか。
須永 はあ、今晩は。
私 いつ来たの?
須永 ええ、あのう――
省三 (飯を食いはじめながら)表まで戻って来たら、門の所でボンヤリ立っている人がいるんで、見たら須永君なんで。
私 そう。掛けたまい。しばらく見えなかったね。
須永 ええ。(言いながら、まだ眼が桃子の方にしばり附けられている)
房代 どうぞ、こちらへ。
モモ 須永さん、こっちへいらっしゃい。
須永 ありがとう。(空いている椅子にかける)
モモ どうかしたの? (顔を突き出している)
私 夕飯はすました?
須永 いえ。
私 まだかね?
須永 いえ、いいんです。
私 どっち? まだならなんか――
織子 有りましてよ。どうぞ、あの――
須永 いいんですよ。
私 遠慮したって、はじまらん。
須永 あの、ちっとも、おなか空いていませんから。
私 そうかね。……(織子に)いいですよ。
モモ どうしたの須永さん?
須永 え?
モモ 声が変よ。穴の中から聞えてくるみたい。
柳子 失礼なこと言うもんじゃないわ、モモちゃん。
モモ うん。……(片手を伸して、わきに掛けた須永の肩にさわっている)
須永 フルートはやっていますか?
モモ 聞かせたげましょうか?
須永 ええ、どうぞ、是非。
私 なんか用が有るんじゃない? 僕の部屋へ行こうか?
須永 はあ、いえ、しばらくお目にかからないもんで、ちょっと。
私 つとめの方は行ってる?
須永 ええ。
私 何とか言った、劇団、ズーッとやってるの?
須永 あれは、こないだ、もうよしました。
私 そう? しかし、たしか君などが中心になってやってたんじゃない、その君がよしたとなると――?
須永 ですから解散と言う事になりました。
私 でも、あれだけ熱心にやっていたものを、どう言う――?
須永 ええ。……
若宮 さあてと、ごっつおさん。(ガタガタと立つ。ウィスキイのびんだけは離さぬ)柳子さん、あたしんとこに来て、ちっと飲みませんかね?
柳子 ありがとう。でもそれよりも、私の部屋で久しぶりに二、三年いかが?
若宮 いやあ、差しではあなたにむかれるに決っとるんだから。勝目の無い勝負は勝負とは言えん。
柳子 御冗談。先生や浮山さんも、いかが?
私 あとで伺いますかな。(立ってユックリと歩いてドアの方へ。須永も自然にそれに従うような形で歩き出している)
浮山 御馳走さん。(と箸を置いて)あたしは手入れが残っていて、地下室にもぐりです。(立つ)
房代 私も入れて。
若宮 (室を出て行きかけドアの所で聞きとがめて)へえ、お前も引けるのか?
柳子 どうしてあなた、今どきのお嬢さん、早いのなんのって。
若宮 そうですかねえ。(房代に)お前はトランプやサイコロ――何とか言った、そう、ダイスか。あの方じゃなかったのか?
房代 なあによ、そんな――?
若宮 ハハ、いやなに、ハハ――(笑いながら去る)
省三 (それまで黙々として飯をかき込んでいたのが、ジロリと房代を見て)ヘッヘ、ヘ!
房代 なんですの?
省三 ふっ! (モグモグと食っている。それを睨んでいる房代)
舟木 (立って出て行きかけながら)省三、あとでちょっと話したい事がある。(出て行く)
省三 うん。

     3 私の室

私 ……(暗い廊下を、須永を従えてユックリと歩き、それから三階への階段を休み休み昇って行きながら)なんの変ったことも無い、昨日も一昨日も一カ月前も同じ平凡な夕食の風景だ。この須永のような青年が訪ねて来るのも、ほとんど毎日のことで、若い人たちは好きな事をしゃべり、好きな事をして帰って行くので、私は相手になったりならなかったり、眠くなると捨てて置いて自分だけ眠ってしまう事もある。私はもう人を愛さない。憎まないと同じように愛さない。人は勝手に私の所に来るがよいし、又勝手に私から去って行くがよい。私はただおだやかな眼で、それを見送るだけだ。既に私は生から何も期待しない。以前はこうではなかった。若い人たちが詰めかけて来ると私はカッカと燃えて相手になった。あまり私が熱中するので、お前はそれを嫉妬したことがある。その火も消えた。だのに若い人たちは、まだやって来る。この須永もそのような青年の一人だ。
 二三年前に頼まれて、或る演劇研究の講座に一度話しをしに行った、その研究生の一人でごくおとなしい男だが、私がその時「演劇なんかどうでもよい。いかに生き甲斐あるように生きるかが問題だ。そのプログラムの一つとして、われわれの生を充たすプログラムの一つとしての演劇が大事なだけだ」と言うような事をしゃべった、その事に強く共鳴したと言って、それ以来時々訪ねて来ては、いろんな事を聞く。口数の少い男で自分の事はあまり言わぬから身辺の事はよく知らぬが、たしか近県に母と弟があり、自分は東京で下宿して、或る土建会社の事務につとめ、夜芝居の勉強をしている。戯曲も書くと言うが一度も読んだことは無い。頭も良いし、素直で重厚な人がら故、相当の物を書いていると思う。ただ、どこか女のようにはにかみ屋なので、読んでくれと言って持って来れないらしい。そうだ、人と言えば、その最近解散したと言う研究劇団の女優で、三四度私の所へもいっしょに連れて来たことのある、夢を見るような眼つきをした園山というのと、たしか恋仲だ。この男の口から聞かされた事は無いが、多分私のカンは、はずれていない。……(二人とも三階の私の室に入っている。私、電燈のスイッチを入れ、明るくなる)おかけなさい。
須永 はあ。(椅子にかける)
私 ホントに何も食べないの? ビスケットぐらいなら、ここにもある。
須永 いいんです。
私 ……そいじゃ、ブランディが少しある。(テーブルの袖からビンとコップを出して注ぐ)……はい。
須永 すみません。……(素直に飲む)
私 (これも一口飲んで)だけど、解散したと言うのは、どう言うの? せっかく、あれだけ熱心にやっていたのに? 二年ぐらい続けて来たんじゃないかな?
須永 僕に責任があるんです。みんなに悪いと思ったんですが。
私 だからさ、君のどう言う気持から――?
須永 いえ、別に――
私 話したくなければ、聞かしてくれなくてもいいけどね――仲間割れでもしたと言った――?
須永 いえ、それも多少あるにはあったんですが――なんだか芝居をするのがイヤになりまして。……どうやっても追いつけないんで。
私 ……先輩の、もっと上手な役者に追いつけない?
須永 いえ、僕が、僕に追いつけないんです。いくら追いかけても、追いつく事はあり得ない。……ホントの、この、真実と言いますか、つかまらないんです。
私 よくわからない。……けど、そいだから、芝居の勉強してたんじゃないの? それをつかまえる、そいで、つかまえ得る手がかりとして演劇と言うものを――
須永 そう思っていました。そいで今までの演劇、つまり日本の新劇やなんかの、先生がいつかおっしゃった人生ミミック、物真似芝居の間違いを、自分たちなりに改革して、つまり創造としての芝居を生きて見よう――そう思って、又、そう出来ると思って、やって来たんですが、そいで勉強して来て公演を五六回やって来て、ヒョッと気が附いたら、僕らのしている事は先輩たちの、その物真似芝居の、その又物真似だったんです。……じゃ、ほかに、どんなやりようが有るかと考えたんですが、無いんです。僕らには、その他に方法が無いんです。……そいで、もう、ガッカリしちゃって。……そうかって、僕らの今までの生活、と言いますか、――そん中には戦争というものが有ったきりで、あと何も無い。僕らの持っている現実と言ったようなものは、空っぽで、まるで影ぼうしです。……そいで、やめちまいました。
私 ……わかるような気もするが、しかし――
須永 あなたには、わからないんです。だろうと思います。
私 ……うむ。……そいで、ほかのみんなは――ここにも来た園山君だったか、あの人など、どうしてる?
須永 あれは、死にました。
私 え、死んだ? ……それは、どう――?
須永 はあ。
私 ……そうかね、それは――
(間。……どこかで笛の音がしている)
須永 モモコさんは、眼が見える望みは、もう無いんですか?
私 うむ?
須永 いえ、モモコさんですねえ――
私 ……だが、あの園山君という人と君とは、この、たしか――?
須永 ……(笛の音に耳をすましている)
私 どうして君は笑えるの?
須永 え? ……笑っちゃいません。
私 ……そうかねえ。ハッキリとはおぼえていないが、綺麗な人だった。なくなられたのは、いつ?
須永 おとついの――
私 おとつい?
須永 いや、先月の、おとついに当る――いえ、十五日ばかり前かな。
私 ……どうしたのだ此の男は? 恋人が死んだ事を語るのに微笑んでいる。その日もハッキリおぼえていないらしい。落ちついていて、錯乱した形跡など少しも無い。……すると、この男とあの女は恋人同志ではなかったのか? そう思ったのは私の錯覚だったのか?
須永 ……(それに答えるようにスッと立って一二歩窓の方へ歩く)
私 なにかね?
須永 フルートです、あの。
私 うん。モモちゃんが二階で吹いている。
須永 ……(ジッと聞いている)
(暗くなり、別の所が直ぐ明るくなり、そこは二階の洋室。以下、転換はすべてフラッシュ風に早く、なめらかに)

     4 洋室

(こわれて使えないマントルピースの前の、これも古びているがそれでもまだ血をぶちまけたような鮮紅色のじゅうたんの上に、桃子が真白な素足でサギのように片足で立ち、もう一方の足は立っている方の足の甲の上にのせ、直立してフルートを吹いている。曲では無く、たんじゅんな二小節を、ただ息の続く限り、くり返しくり返し吹くだけ。細くたえだえな、それでいてどこか野性の、たけだけしい音色。
………………
はてしの無い繰り返しをフッとやめる。そしてまたたきをしない眼を一方にやっている。その視線の先きの、暗い所に、いつの間に来たのか須永が音をさせないで立っている。
桃子の見えない眼が須永を見ている。須永も桃子を見守っている。……
桃子が何か言いそうに口を少し動かす。しかし声は出ない。
須永は、しかし、桃子から話しかけられたように、足音をさせないで、二三歩寄って行き、じゅうたんの上にのる)

     5 地下室

(真暗な中に、天井にわたされたケタから下っている円筒形の笠から落ちる電燈の光の中で、台の上にのせた平たい木箱を左右から覗きこんでいる浮山と柳子)
柳子 へえ、こんなものがお金になるんですかねえ?
浮山 金になるかならんか、まだわかりませんよ。なんしろ、養殖法の手引書一冊きりで、やりかけたばかりなんだから、しかし、うまく行くと、まあ、将来性は有る。
柳子 でも、こんな地下室の暗い、しけた所でなく、上の温室かなんかでは出来ないの?
浮山 駄目らしいんだ。方々でやっているのも、戦争中、山ん中などに掘った横穴壕を利用している。爆弾をよけるために掘った横穴だとか、そうだ、此処も戦争時分は防空室に使っていたっけ、そういう所で人工キノコを作っている。考えて見ると皮肉なものだ。
柳子 そう言えば、原子爆弾が爆発した時は、キノコそっくり。先日ニュース映画で見たわ。
浮山 こんなものは、暗いジメジメした所でなきゃ育たないんだな。それに、ちょうど酒を醸造する室の中に独特のバクテリヤが居て、そのために一定の味を持った良い酒が出来ると言ったね。
柳子 すると此処にもバクテリヤが、およおよ居ると言うわけ? (暗い周囲を見まわす)なんだか気味が悪いわねえ。
浮山 フフ、なあに、そんな、そういうタチのもんじゃ無いんだ、バクテリヤなんて。お柳さんみたいな度胸の良い人が、変なことで気が小さい。
柳子 あら、光っている。ごらんなさい、よく見ると薄白くポーと光ってるんじゃない? ほら、ここんとこ。(箱の中に手を入れる)
浮山 そこらが一番うまく行ってるとこらしいんだ。
柳子 ひっ! (不意に叫んで、四五歩飛びさがって、一度ころびそうになりながら、地下室への階段を三四段かけあがる)
浮山 (こちらもびっくりして)ど、どうしたの? (懐中電燈を取ってそっちを照らすと、びっくりしてかけあがった拍子に柳子の着物のすそが乱れて踏みはだけた下半身)どうしたんだよ?
柳子 (すそをつくろいながら、既におかしくなって笑っている)おおびっくりした!
浮山 こっちがびっくりしますよ。どうしたの全体?
柳子 ヌルヌルッとするじゃありませんか! なんの気なしにヒョッと触ったらヌルッとして。おお気味が悪い!(指の先を嗅いでいる)
浮山 なあんだ、大げさだなあ。
柳子 清彦さん、だまあってるんだもの。ちょっと言ってくれれば、触ったりしないのに。おお、イヤだ! 何が嫌いだと言って、ヌラヌラするものほど嫌なものは無い!
浮山 ハハ、そう言えばお柳さん、小さい時からヌタだとかワカメのお汁など出されると、プイと立ってしまったっけ。
柳子 知ってらっしゃる癖に、しどいわ。
浮山 ハハ、ごめんごめん。しかしね、なんだよお柳さん、どうもなんだなあ、もしかすると、あんたの男嫌いと言うやつも、そいつから来ているのかな。
柳子 ホホ、男は嫌いじゃありませんさ。
浮山 すると、そこらにゴロチャラしている男だけが嫌い? 耳が痛いな。
柳子 清彦さんだって、さんざ遊んだ人でしょ? わからない筈は無いと思うわ。ちかごろ、男と女の好いたの惚れたのと言う事、もう、あたしにはどうでも、いいの。不感症と言うのかな。でも自分ではなんの不足も感じてないのよ。案外これで平々凡々な一生を送るんでしょ。あたし、早く年を取りたい。一日も早くお婆さんになりたいな。
浮山 もったいない事を言う。
柳子 どうもありがと、でもホントの気持なの。
浮山 冗談は冗談としてさ、どうだろう、ホントに柳子さん、資金を少し廻してくれないだろうかな?
柳子 ええ、でもさ、お婆さんと言えば、広島の此処のおばさん、近頃どんな工合なの?
浮山 うん、眼だけ開いているが、口は一切きけないし手足は利かず、耳も近頃ほとんど聞えないらしい。食べる物だけは普通よりもよけいに食う。まあ去年僕が行った時と同じらしい。いつまで生きているか――そう言っちゃ悪いが、早く死んでくれた方がいいがね。
柳子 ざんこくな事言うわね。
浮山 いや、ざんこくな気持からでなくさ。むしろ、その逆だ。あれで生きていても、しょうが無いだろうと思うんだ。僕はまだこれで多少は血のつながりの有る、つまり伯母さんのイトコの子だから、まあ同情はするけどさ、その僕でさえ、そう思うんだもの。柳子さんにして見れば、何のつながりは無し、おっ母さんが生きていた頃は、あの伯母さんからイジメられこそすれ、良くしてもらった事など、こっから先きも無いんだから、ああしてまるで死ぬのを忘れてしまったようにネバられてると、さぞ憎いだろう?
柳子 とんでもない! そんな事ありません。あたしは、どうせメカケの子で、はじめっから馴れてるし、いっそあなた、格式だあ教育だあで、縛られないで、こうして自由気ままに過して来られたのも、そのおかげなんだから、うらんでなんか、微塵もいないよ。ホント! たださ、ここの家屋敷のこと、おばさんがそんな風だと、いつになったらカタが附くんだろうと思ってさ。
浮山 それさ。うっかりすると、その二番の方の債権――銀行の方はツブれているから、どうと言う事は無いかもしれんが、しかし銀行の方のも最近、整理委員が動きだして、権利を松山組に譲ったとか売るとか言う噂もあるしね。
柳子 そりゃ、しかしデマだわよ。あたしがチャント若宮の手で調べてあるの。いよいよとなって、債権をひとまとめにして、こっちを安く買いはたこうと言うコンタンらしいの。それよりも舟木さんの方ねえ、いよいよとなって、どんな風に出て来るんだろう? それが私、気になる。
浮山 あれはしかし、せいぜい死んだ伯父さんとの関係を言い立てて土地の少しも分けてもらって、それで病院でも立てようと言うだけのなんだろうから――
柳子 そうかしら? だって、あんな妙な、先生なんて人まで引きずり込んで来たりして、何かと自分の味方をふやしといて――
浮山 そりゃ、違うだろ。あの先生は奥さんを取られた後ボンヤリして、そいで行く所が無いから、あれはあれだけの人だと思うなあ。
柳子 そうかしら。……どっちせ、広島のおばさんが今のようじゃ、あれもこれも、さしあたりどうにもならないわね。
浮山 そう、所有権は伯母が握ってんだからな、あいでも、変なもんだな、こんだけの家屋敷が、もう死んだも同然の、ただ息をしているだけの伯母に握られて、どうにも出来ないんだからなあ。……しかし、そんな事よりお柳さん、今言った、なんとか一つ、資金をさ、お願い出来ないかなあ。年二割位の利息は払えると思う。それも一度に貸してくれなくても、最初は五万ぐらいで結構だけどね。
柳子 出してあげてもいいけど、でも近頃少しひっぱくしてるのよ。こないだ、少し大口の糸へんで、ちょっとガッちゃったし、それに、あたしにゃ、年二割なんて気の永い話はダメ。いえ、金が寝るのが惜しいなんて言うよりも、スリルが無いので、つまんない。
浮山 だって一つ位、気永に構えた仕事を持っていても悪くはないだろう。これでもうまく行って少し大きくやれば立派に一つの事業なんだから。
柳子 でも、その今の、私のだいっ嫌いなヌルヌルを拵える仕事に金を廻すなんて、フフ、いやだなあ。
浮山 ハハ、そりゃ、しかし、これだけじゃないもの。温室の方のランの方も、もう少し手広くして、新種をもっと入れたいし、そのほか、いろいろあるし――
柳子 ランね? ランは綺麗でいいけど、でもあたしなぞとは益々縁は無い。
浮山 頼みますよ。ね! その方が、若宮君などを、大きに手足のように使っているつもりでいて、時々ノマれたりしているよりゃ、いいんじゃないですか。
柳子 若宮がノム? 冗談でしょ。そりゃ、ほかのお客のはノンだりしているかも知れないけど、あたしの分を、へ、そんなアコギな事、させやしない。誰だと思ってるの、ハハ。こいでも、あんた――

     6 若宮の室

若宮 (大あぐらでウィスキイのコップ片手に、幾種類もの夕刊に目をさらしながら) ハッハ、いやならいやで、それでいいんだ。腐っても、こいで若宮猛だよ。けちっくせえ、娘に金策を頼んだりはしたくねえ。だから貸してくれと言ってんじゃないんだ。見かけた山があるから、それに投資しないかと言ってる。この際三万ばかり投資してくれれば、三月すれば十万にして返そうじゃないか。
房代 そんなうまい話なら柳子さんにしたらどう? 良いカモがつかまらなくなったもんだから、自分の娘までくわえこもうと言うの?
若宮 ちがうよ! この話は株の方の話じゃないんだ。後藤先生の方の手で、川崎の方の小さい工場で、爆弾くらってぶっこわれたままで手を附けずにあった鉄工所だよ、そいつをタダみたいに安い値段でソックリ買い取ってな、いや私も調査に行って来たが、ぶっこわれているようでも此の際三十万ばかりかけて手を入れれば、チャンと使えるんだ。朝鮮があの有様だからね、仕事はじめさえすれば、註文はいくらでも有る。連盟の連中で以前そう言った仕事には年季を入れた者が二三人、いっしょにやろうと言ってくれている。
房代 あぶないもんだわ。お父さんなぞ、やっぱりカキガラ町へんで網を張っていた方が率は良くってよ。そんな、元の軍人だとか特高警察だとか追放された実業家などが寄り合って、又なんとかして、お釜を起そうとウの目タカの目でなにしているのなんか当てになるもんですか。よした方がいいと思うな。第一、その後藤先生にしたって、結局は追放解除になって、政治の方へカムバックしたいんで、それの足がかりに連盟なんかやっているんでしょう? カムバックができたとなると、あとはどんな事するか知れたもんじゃないわ。
若宮 じょうだん言っちゃいけない。ほかは知らんが後藤先生は唯の政治家じゃないぜ。つまり思想家、と言うか、信念を持っとる、人格者――つまり国士だ。
房代 は、まだ居たの、国士なんて言うもん? お茶をわかすわ、オヘソが! 国士が、それこそオヨオヨとあんまりたくさん居たからこそ日本はこんな事になっちゃったんじゃないの? おお、ダミット!
若宮 ダメじゃないよ。お前たちアプレにとっちゃ、そうしか思えねえかも知れんが、そいつは早のみこみの量見ちげえだ。こんだの戦争にしたってそうだ、今いろいろ言ってるが、あと五年十年たっても見な、どっちが良くってどっちが悪かったか、今言われているようなもんじゃなくなる。喧嘩は両方でしたんじゃないか。誰か烏の雌雄を知らんやと言ってな。片っ方が、その、百パーセント正しくって片っ方が百パーセントまちがっていたなんて喧嘩があるかね? 歴史の審判は公平ですよ。東京裁判はまちがう事あ有ったとしても神の審判はまちがいません。
房代 ほら、よっぱらっちゃった。
若宮 酔やあしない、たかがこれっぱっちの酒でお前。だから、どうだ、投資しないか?
房代 おことわり。
若宮 もうけさせてやるんだよ?
房代 信用しないの。いえ、お父さんだけでない、もう世の中の誰も信用しないの。
若宮 すると、何をお前は信用する?
房代 そうね、ドルは信用する。
若宮 え、ドル?
房代 ドル。
若宮 ああドルか。……どうりで、ドルを持った恋人を次ぎ次ぎとこさえるんだね?
房代 悪いの?
若宮 悪いとは言わない。いっそ、お前のやり方もハッキリして良いと思ってる。ただねえ、こんな風になったお前を、お豊が生きていて見たら、ぶったまげるだろうと思ってな。
房代 お母さんの事は言わないでよ。
若宮 なんしろお前、毎朝房ようじに塩を附けて歯あ磨かないでは磨いたような気がしない、俺が場立ちに出かける時あ、かかさず、うしろから切り火を打ってくれると言った女だ。自分の生んだ娘が、そう言った、ナイロンの脚を投げ出して、爪を真紅に染めながら、親父に向って、ドルと恋愛なんて言ってるのを見れば、こりゃ、気絶するね。
房代 ふん。……(向うのジャズソングを低く鼻歌で)
若宮 ハハハ、わしは違う。わしは、これも良いと思ってる。ここんとこ、十年二十年、日本はまあ、何とか国日本県と言うとこで、先ず殖民地となった。わしはそう見る。今さら泣いても笑っても、できた事で致し方なしだ。して見れば、若い娘が、これまた、そんな風になるのも、これ、あたりまえ。とにかく、生きては行かなきゃならんからな。
房代 もういいかげんにウィスキイ、よしたらどう? 今に腎臓が破裂するわよ。そうよ、生きてだきゃ行かな[#「生きてだきゃ行かな」はママ]、ならんだわ。お父さんの腎臓はお父さんが思っているより悪くなっているのよ。舟木さんが言ってたわ。
若宮 ふふ。……しかしなあ房代。恋愛は自由だがね、この、なんだよ、眼色や毛色の変った子を生むのだけは、まあ、よしにしといた方がよかろうぜ。そういう、わしから言えば孫だな、そいのお守りをこのおじいさんがするのは、ちっと、つらい。
房代 ……そうよ、おっしゃいよハッキリ。あたしは恥かしいなんて思ってやしない。そんな事より、自分の娘からまで、つまり、そんな娘のそんな金まで、お父さんはかすめ取ろうとしているんじゃないか?
若宮 わからないなあ! かすめ取る? チョッ! だからよ、だからさ、投資しないかとすすめているだけじゃないか! つまり、この、ビジネスとして、この、合理的に儲けようと――
舟木の声 (どなり声だけが、はいりこんで来る)合理的に、もっと考えて見たらどうだ! お前だって近代人だろう? 中世紀の狂信者やなんかじゃないだろう?
省三の声 (これも、どなっている)兄さんこそ狂信者じゃないか! 科学と言うものを狂信している。いや、ちがう、科学だって兄さんの言っているような科学はホントは科学でも何でもないんだ! 合理的合理的と兄さんは言うが――
房代 (その二つの声は耳に入らないので、すこしも影響されないで)ですから、おことわりよ。投資するなら、ほかにする。
若宮 そうかね。みすみす、もうけさせてやろうと言うのに、お前と言う人も慾が無い。金がほしいかと思うと、イザとなるとほしがらない。アプレの若いもんの量見なんて、わしらにゃわからん。そら、ここにのっている(夕刊を指して)人殺しにしたって、三人も殺したのに理由がよくわからんとある。何が全体どうなるか――
舟木の声 馬鹿! わたしがこれだけ言っても、わからないのか!
省三の声 わからないのは、兄さんの方じゃないか。僕だってこれでそんな軽率な気持からやってんじゃないんだ。血を売ってまで、自分の血を売ってまで生活してだな――
織子の声 もうよして! いいじゃありませんの、もう――


     7 舟木の室

(6がスッと暗くなると同時に、この室が明るくなってテーブルをはさんで舟木と省三が睨み合っており、その間に織子の言葉が割って入っている。織子の言葉は続く)
織子 もうよして下さい! お願いだからもうよして! (舟木に)省三さんはもう子供ではありません。シッカリ考えてなすっている事なんですから、それでいいじゃありませんの。(省三に)兄さんはただあなたの身の上を心配して言ってるだけなんですから。
省三 わかってますそれは。でも兄さんの心配自体が僕には不愉快なんですよ。
舟木 お前が不愉快なら私は不愉快以上だよ。まるで小児病だ。俺はね、いつも言う通り、お前たちの考え方そのものを間違ってるとは必ずしも思っていない。しかしそれをただ宗教的に信じてだな、自分の力や条件を無視して、その渦中に飛びこんで行くのは愚かだと言っているんだ。もしお前たちの考え方が科学ならばだな――始終お前たちが言っているようにだよ、だな、一定の時期が来れば必然的にすべてがそうなるんだろう? なら、お前などが飛びこんで行って、いろいろする必要は無いじゃないか。
省三 必然的にすべてがと言ったって、その必然やすべての一部分ですよ自分は。ですから必然やすべてを動かしたり作り出して行くユニットは自分なんですよ。僕なんですよ。僕が今いかに在るかと言う事が、必然やすべてが如何に動くかを決定するんだ。右へ行くか左へ行くか、僕が決定した事が全体が右へ行くか左へ行くかを――
舟木 決定はできんよ。そうじゃないか、君たちの考えによれば、君には自由意志は無いのだ。他から、つまり客観的な諸条件から決定されている。従って君たちには決定は出来ない。
省三 ちがいます! それこそ、まるっきり反動的な、科学と言うものを、ただ試験管の中でバクテリヤを培養することだと、それだけが科学だと思っているものの固定観念ですよ。主体は動き得るんですよ。生きてるんですよ。
舟木 試験管の中のバクテリヤも動くし、生きているよ。
省三 よした、もう! 兄さんと、いくら議論しても同じ事だ。ただねえ、なるほどバクテリヤと同じかも知れんけど、このバクテリヤはジッとして居られないんだ。そうじゃないですか、又戦争が起きるかも知れないんですよ。このままで進めば。すると又、バタバタ虐殺が始まる。真先に引っぱり出されるのは僕らだ。ジッとしてはおれない。なんとか、これを喰いとめるために、なんとかしないじゃ――
織子 それは、わかるわ私にも。
省三 それをしているまでもないんですよ。主義がどうの政治がどうのと、いや、それもありますけどね。結局は、根本的には今言った気持のために、動かざるを得ないんですよ。そして動くとなると、今の世の中を見わたして足がかりになる思想は、これしか無いんです。そうなんですよ!
舟木 フ! そうなんだよ。又戦争が起りそうだから、それを喰いとめなきゃならんと思って、お前たちが運動しているのは、いいとしよう。ところが、そういう運動そのものが、既に次ぎに起り得る戦争の原因を拵えあげているじゃないか、戦争を喰いとめようとする努力そのものが戦争の原因になりつつある。そういう矛盾をお前たちは犯しつつある。もちろん、お前たちの反対の側の自由主義国の連中も、同じ矛盾を犯してるがね。
省三 違いますよ。自由主義諸国には積極的に戦争をしかけなければ自分たちの政治体系を維持して行けない内部的矛盾があるんです。一方の側は、それを受けて、つまり、やむを得ない防衛として戦争を考えているだけだ。
舟木 いや、仮りにそうだとしてもよろしい。そうだとしても、そう言う考えをも含めて、それがもう既に、そのもう一方の側の戦力の一部分に組み込まれている。それを俺は言っているんだ。
省三 じゃ僕らはどうすればいいんです?
舟木 ジッとしているんだね。
省三 ふ、なにもしないんですか?
舟木 僕は医者だ。或る種の病人には絶対安静を命ずる。
省三 すると僕は病人ですか?
舟木 奔馬性結核と言うのがある。初感染の患者に多いよ。お前は精神的にそれだ。出征するまで、まるでそう言う事は考えないで、戦争して、帰って来るや、いきなり、やられた。
省三 ハハ、ハハ!
舟木 それに、或る程度の分裂がある。
省三 得意のフロイディズムですか。アッハハ!
舟木 笑おうと笑うまいと同じ事だ。分裂者は分裂に気が附かない。気が附けば、附いた瞬間から、それは治る。お前が政治的な又は思想的な運動の中で犯している矛盾も、お前が実生活の上で犯している矛盾も、同じさ。たとえば学資だ。僕は、お前がおとなしく勉強してくれて、とにかく大学を卒業して、左翼をやろうと思ったら、それからなら好きにやったらいい、それまではそんな事しないで勉強してくれれば、僕は病院での仕事をもう少しふやして金を余分に取って、それをお前の学資にまわしてよいと言ってる。だのにお前は運動をよさない。僕が余分に稼いでお前に廻せば、僕は間接にお前たちの政治活動を助けることになる。それは僕はイヤだ。だから金はやれない。するとお前はアルバイトしたり、血を売って、その金で食って、勉強そっちのけに、政治運動に駆けまわってる。その、輸血協会に血を売る、それがそうじゃないか。血を売った金で食って、食って出来た血を売る。食うために売るのか、売るために食うのか。メシを食っている時など、妙な気持になる事は無いのか?
省三 ハハ、アッハハ、ヘヘ!
舟木 その矛盾に気が附いていればいいんだ、自分が、気が附いていれば、分裂じゃない。病気じゃない。
省三 ヘヘ!
舟木 気ちがいは笑うよ。
省三 ハハ、ヒヒ、アッハハ……(その笑い声の尾の所でヒー、ウーと泣き出している)
織子 省三さん、もうあなた――(省三の肩に手をかける)
舟木 (その弟の姿をジッと見ていてから)……お前の苦しいのは、多少わかる。……だから俺あ言ってるんだ。もっと落ちついてくれ。三階の先生も、こないだ言ってたろう、第三の道が無いわけではない。俺は医者で深いことはわからんが、第一の道でも第二の道でもない、だな。それを見つけるには先ず落ちつく事だ。お前はちっとあの先生とでも話して見ることだ。
省三 (織子の手を不愉快そうに振り切って立ちあがる。涙の流れた顔をゆがめて再び笑う)ヘヘ! おかしいですよ! 矛盾は知ってるんだ。血を売ったって、しかし、心臓を売ったって、しかし、おれたちは叩き倒さなければならん奴らを叩き倒して見せる! 見ていろ! どうせ戦争で捨てた命だ。理屈じゃ無い、憎くて憎くて、俺あ憎くてたまらないんだ! ヘッ、兄さんみたいなニヒリストに何がわかるか!
舟木 ニヒリストじゃないよ俺は。俺はこれでも医学という科学を信じている。……お前はもっと自分に素直にならなきゃ、いかんよ。無理が多過ぎる。たとえば――そうだ、お前は若宮の房代さんを、まるでダカツのように嫌ってるが、なぜそんなに嫌うんだ?
省三 嫌いだから嫌いなんですよ! 腐れパンパン! ペッ! ゲェ!
舟木 ホントにそうかね?
省三 ホントですよ。なぜそんな事言うんです? あんな女は戦争が生んだ悪の中でも一番下劣なウジのようなもので、あれにくらべると食って行くだけのために有楽町などに立っている連中は、まだ清けつだ!
舟木 いや、それならそれでいいが、僕には必らずしもそう思えないからだ。青年は青年らしい恋愛の一つもする事だ。そうなったら、そうなった自分をアッサリ認める事だ。房代さんの事には限らない。一事が万事で、自分に対して嘘ばかりついていると――
省三 ヘッ! 兄さんだって、じゃ自分に嘘をついていないと言えるんですかね? なんじゃないですか、兄さんはどうしてこんな家にいつまでもトグロ巻いている? 病院にゃチャント宿舎があるのに、わざわざこんな郊外の不自由な家に? 広島のお姿さんが死ぬのを待っているんじゃないんですか?
舟木 なにい? (立ちかける)
織子 あなた!
省三 ヘヘ! (笑いながらスタスタと室を出て行く)

     8 私の室

私 いや、そう問いつめられても、正直、僕にはわからない。そりゃ、第三の道と言うのは在るような気はする。少くとも在り得るとは思う。しかし、現在、僕が駄目になっているんだ。積極的に、この、生きると言う事が、どうにも考えられなくなっている。そんな人間がただ観念だけの問題として、つまり自分が生きると言う場から離れた思想として第三の道などを言って見たって、しょうがない。つまり今の僕には実はそんな事興味が無いんだ。わからんとしか言えない。
省三 しかしですねえ、こないだ朝鮮問題を此処で話していた時――たしか須永君なども一緒にいた時ですよ。ええと、須永君どうしました? もう帰ったんですか?
私 いや、二階で花引いてるようだった。
省三 ……つまり二十五時の問題と言いますかね、あれを話した時に、あなた言ったじゃありませんか。朝鮮で起きている事は本質的には日本でも既に起きている。目には見えないが三十八度線は日本内地にも引かれている。それを境目にして、その向う側の第一の勢力と此方側の第二の勢力の対立の中間には実際的にはどんな立場も存在し得ない。そこまでは、あなた認めましたね?
私 三十八度線は線だからね。線には幅は無い。その上に人は立てない。そこに立とうとした、立って南北朝鮮を妥協させ統一に導びこうとした金九などは、その瞬間に殺された。生きておれないんだな。……そう認めたよ。
省三 認めといて、そいで第三の道、つまり、線の上に立てと言うんですか? すると、死ねという事を言ってるんですね?
私 いや、死ねだなんて、そんな――だから私には答えられないと言ってるじゃないか。ただね、どういうわけだか、自分でもハッキリ言えんが、僕が一番注目し、大事に思い、尊敬するのは、金日成でもなければ李承晩でもない。殺された金九だ、日本の国内を眺めても同じ事が言える。徳田球一も吉田茂も、私には、もう何かの影ぼうしのように見える。両方とも私には退屈だよ。そいで、いつかほら、両方の側から痛めつけられて自殺した菅季治、あの人の事は忘れられない。時々、夢に見るよ。尊敬すると言っては当らないんだなあ。大切な人なんだ僕にとって。
省三 あんな、しかし病的な神経過敏と言うか――あんな人は唯単に両勢力の摩擦の間にとびこんだ虫みたいなもんで、摩擦に耐えきれなかったと言うだけだ。この現実中で生きて行く資格は無いですよ、気の毒じゃあるけど、ハッキリ言うと軽蔑するな。
私 君たちにあの人を軽蔑する事はできんよ。あの人が一番美しいさ。……僕は今になっても菅季治の姿をズーッと見つづけている。その中に、大事なことが全部ふくまれているような気がする。
省三 だからですよ、だから、それは何ですと聞いているんですよ。その大事な事と言うのは、何なんです?
私 わからない。……いや、説明すれば或る程度まで理論的には説明できない事はない。しかしそんな事をしても仕方がない。特に今の僕には、それは出来ない。
省三 やっぱり、すると、はじめから立てないとわかっている線の上に立って、トタンに死ねと先生は言ってるだけなんだ。
私 そういう事になるかな。……しかし、それで何が悪いかね? ……ただ、生きていると言う事が、それだけが、どうしてそれほど重大なんだろう?
省三 それが重大だからこそ、自分に取っても全体にとっても、生きよう、より良く生き抜こうと思えばこそ、こうやって自分の血液まで売ったりして闘っているんじゃないですか!
私 そうなんだ。君のその言葉の中にだって、生きようと思えばこそ死にもの狂いに――なんと、生きようと死にもの――死だ。……おかしなもんだなあ、人間なんて。
省三 ……(ニヤリとして)奥さんに死なれた事が、そんなに、あなたにこたえたんですかね?
私 え? ……(びっくりして相手をしげしげと見ていた末に、乾いた、ほとんど明るいと言える笑声をだす)ハハ、そうさ、そうかも知れんね、フフ。……とにかく、どうも僕など、もう、個々人の生死の問題、つまり自分がどう生きてどう死ぬかと言う、つまり言えば生命観と言うか――そんなものと切り離すことの出来るような形では、社会革命の事にしろ戦争の事にしろ、もう考える事が出来なくなって来た事は事実のようだね。
省三 そりゃ、そうですよ。そうなんですもの。第一、あなたの奥さんが亡くなられたのは――その病気になられたのは身体の弱いのを無理して組合運動や方々のストライキの応援に歩かれたと言うのが直接の原因だそうじゃないですか? 兄が言ってましたよ。
私 うん、そう。
省三 だからですよ、それもつまりあなたの言う、個人の生死が社会改造の仕事の中にチャンと組みこまれた形としてですね、奥さんの死は無意義ではなかったと言う事だから――
私 いや、私の言ってるのは、そんな事じゃないんだ。そんな、つまり、公式のようなものを、いくら持って来られてもだな――いや、これは君にはわからん。
(短い間)
省三 ……あなたには、それはわかっているんです。僕はそう見ます。それが良いか悪いかは別問題として、あなたにはわかっているんだ。それをしかし、言いもしなければ実践もしないで、そうやっているのは、何かズルイ、世間の動いて行く様子を見送れるだけ見送って、そのうち調子の良い方へナニしようと言うふうな――いえ、オッポチュニストであなたがあるなどとは思っていませんけどさ、すべての事を一寸のばしにのばしといて、今現にこんなふうに又反動しかけてる、なんかエンショウ臭くなって来ている、情勢の中でですよ、二つの勢力のどっちにも附くまいと言う――一種のサボタージュと言うか――つまり第三の道などを言い立てて、なにもしないでいるのは、結局は、左右いずれの勢力に対しても裏切りではないですか? せいぜい言っても、一種の保守的反動的な――
私 (微笑して)そう思うかね?
省三 そう思いたくないからこんな事言うんです。うちの兄などは、もう駄目です。しかしあなたは――あなたを僕らの敵だとは僕は思いたく無いんです。だから――
私 敵ね?
省三 だから言うんです。
私 ……敵だと思ってくれて、いいのかも知れんよ。
(そこへドカドカと階段に足音がして、夕刊を掴んだ若宮猛が入って来る。後から、真青な顔をした織子。……若宮は入って来るやキョロキョロと室内を見まわしてから私に向って夕刊を突き出す)
省三 (その若宮から織子へ眼を移して)どうしたんです姉さん?
織子 あの……(ふるえている)
私 (夕刊を受取るが、眼は若宮を見て)なんです?
若宮 こ、これ! ……(と夕刊の紙面の一個所を指す)
私 ええと……(それを見る。省三も寄って来て覗きこむ。はじめ二人とも、何だろうといぶかりながら読んでいたが、次第に妙な顔になって来て、或る所まで来ると、ギクリとなる……間)
若宮 ……(しゃがれた低い声で)夕方から、何度も読んだ夕刊だ。それが、あんた、今さっき気が附いたんだから、なんとも早や。……眼に入っちまったと言うか。舟木さんの奥さんも、そうだそうだ。ねえ? (織子を見る。織子声が出ないでコックリをする)……どう言うもんか、この――(私に)そうなんでしょう。これ?
私 ……(新聞に吸いつけられている。省三はキョトキョトその辺を見まわしはじめる……間)
若宮 まったく、どうも、この――
私 ……(ユックリ顔を上げて)そいで――?
若宮 え? ……いや、柳子さんとこの広間で、もうズーッと花で。うちの房代も行ってる。
省三 兄さんは――?
織子 た、たばこ買いに。すこし歩いて来ると言って出かけて。……
(四人が黙ってしまう。私だけが遠い所を見つめているだけで、他の三人は互いが互いに何か珍らしいものででもあるように見くらべ合っている)

     9 柳子の室

(緋のじゅうたんの中央に座ぶとんを一枚置き、それを取りかこんで浮山、柳子、房代、須永の順に坐り花札を戦わしている。浮山はおりて見ている。わきの椅子に桃子が掛け、フルートを時々撫でている。花札の勝負は既にかなり長時間つづけられたもので、その何年目かの最後の回が終りかけたところ。四人とも殺気立つ位に熱中している。中でも柳子は、ほとんど眼を釣り上げんばかりになっていて、紅いもののチラホラ見える立膝の、足の指などマムシになるほど力をこめて札を打つ。須永一人が、花札にあまり馴れないのでモジモジと、自信の無い態度。見たところ勝っているのは柳子で一番負けているのが須永のようだが、もう少しよく見るとそれが反対で碁石などを使わずジカに紙幣でやりとりするらしく、その紙幣が須永の手元にうず高く積まれており、他の三人の手元には何も無い)
浮山 (須永のめくった札を見て)ほい、今ごろになって豚かよ! そりゃ聞えません!
柳子 ううと!(唸り乍ら、手札と須永の眼の中を火のように覗きこむ)……ビケだわね、あんた須永さん? でしょ?
須永 え? (相手の視線をまぶしがって)……ええ。
柳子 いやに落ちついてるわね? 青が、あんた、飛び込みね?
須永 ええと? (手札を覗いている)
柳子 よしと!(ピシリと打ち)そうさしてなるものか!
房代 どっこい! (打って取る)
柳子 あらま、この子は!
房代 だってえ、桜あ、あたし待ってたのよ!
須永 …………(これは黙って捨てて、めくって、ウロウロ見まわし、合ってる札に重ねて取る)
柳子 た! この人、ほんとにどうしたの?
須永 いや……(テレて微笑)
浮山 さて、追込みだ!
(あとは全員無言で、恐ろしく早い速度で三巡りばかり廻って、須永が最後にソッと札をおろして勝負は終る。須永の大勝、他の三人はほとんど呆れて須永を見る)
房代 おどろいた!
浮山 やれやれ、テンからこれじゃ話にならん! はじめからしまいまで、附きようがひど過ぎる。タッ!(計算して、ポケットから紙幣を出して、三枚ばかりをほうり出して、あおむけにひっくり返る)
須永 いいですよ。いいんですよ。(頭をかきながら)……僕あどうも、あまりよく知らんもんだから。
モモ 勝ったの須永さん?
房代 勝ったなんて言うんじゃないわ。
モモ わあ! (手を叩いて喜こぶ)だから私が言ったでしょ? きっと勝つからって。
浮山 どうしてだよモモコ?
モモ ううん、そんな気がしたのよ。須永さん、塔へ行きましょう。
須永 ええ。(うれしそうに、立ちかける)
柳子 ……じょ、じょ、冗談、あんた! よく知らんは無いでしょう! モモちゃん、もうちょっと待っててよ。ようし!(パッと立ってマントルピースの上にのせてあったダイスの壺を持って来て、須永の前にドンと坐り)こんだ、これでいっちょう!
浮山 よした方がいい。とても駄目だ。なんか附いている須永君には。
柳子 いいわよ、ね! (カラカラと壺の中でダイスを振る。昂奮し切っている)
浮山 だってお柳さん、すっかりはたいて、なんにも無いんだろ?
柳子 なあに、ええと……(自分の身辺をさがす)
(そこへ、若宮が足音を立てないでキョトキョトしながら入って来て、突っ立ったまま、須永の顔に眼を据えて見ている……)
柳子 ようし、これ! (左の薬指から指輪を抜いてトンと置く)これを張ります。こんでも、小さいけどダイヤが入ってる。その代り須永さん、あんたも、それそっくり賭けるのよ。
須永 弱ったなあ。
(そこへ、若宮の後から、私と省三と織子も入って来る。私の顔も省三の顔も織子の顔も青い。……)
柳子 (熱中して、そのような人たちには目もくれない)弱ったてえセリフは無いでしょ。さ、行くわよ、あたしが振るから、あなたが指すのよ。ダイスじゃメンドくさいから……(言って壺の中のダイスの一つを残し、他をビュツと投げる。それが室のどこかの壁に当ってカチッカチッと音)丁半で行くわね! よくって!
須永 困りますよ。(助けを求めるように周囲の人たちを見まわす。しかし誰も何とも言わない)
柳子 ハハ! (ヒステリックに笑って、壺を振る。カラカラとサイコロの音)行きます、そら、はい! (壺をパッと伏せる)……丁か、半か? あんたよ須永さん!
須永 こ、困るんです。
柳子 困るたあ、なんて言いぐさ? ここまで来て卑怯だわよ。さ、言いなさい!
浮山 仕方がないじゃないか、言いたまえよ。
須永 どうも……(柳子の眼をちょっと見ていてから)じゃ、丁です。
柳子 よし、勝負っ! ……(パッと壺を取る。一同の視線がそのサイコロに集中する。柳子が、いっぺんにガクッと膝を倒す)
浮山 ……だから、よしゃいいんだ。
柳子 ……(無言で、指輪を須永の膝の所へ押しやる)
私 ……(三四歩前に出て)須永君。
須永 え? ……(私が顔を見ているだけで何も言わないので、柳子の指輪を拾って返す)いいんですよ、これ。
柳子 なに?
須永 いいんです、もらわなくても。
柳子 あんた、私を軽蔑するの? 賭けの勝負は親子の間だって待ったなしだわよ。ヘ! ……(血走った眼で、その辺を見まわしている)
(そこへ、別の入口から、散歩から帰って来た舟木が、ステッキをさげ、外の廊下を自室の方へ通りかかったのが、この室の気配に気が附いて、のぞいて見たと言う様子で半身を見せる)
織子 (それを認めて寄って行く)あなた!
舟木 ああ。どうしたの? (室内の一同を見まわし、それから妻に眼を返す)……どうしたんだよ、顔色が悪いなあ?
柳子 ……ええい、ちきしょ! こんだ、じゃ、あたし全部を賭ける! さ!
房代 柳子さん、もうよして! お願いですから!
浮山 ホントだ。よした方がいい。全部を賭けると言ったって、まさか取って喰われるわけじゃない。
柳子 ですから、勝ったら、取って喰おうと、煮て喰おうと、叩き売ろうと――
舟木 なんだ……(またかと言った調子で室の中に入って来て、眺めていたが)織子、お前ふるえているんじゃないのか?
織子 いえ、あの……
舟木 馬鹿だな! (妻のふるえているのを賭博のスリルのためだと思っているので、その織子に対してと、賭博をしている柳子たちに対して両方に)
柳子 (そちらを振向きもしないで)馬鹿は、はなっから承知ですよ! さ、行くわよ! こんだ、あんた振る?
須永 いや、僕あ――(弱りきって、モジモジ尻ごみしている)
柳子 そいっじゃ、あたしが振る。あんたが勝ったら、私を丸ごと。私が勝ったらその金と指輪もみんなもらいます。
房代 よして! もう、よしてよ! 怖いわ!
須永 ……困るんです僕。
柳子 なにが困るの。あんたが取ったら、煮て喰おうと焼いて喰おうと、あたしのこと、自由にして踏んづけたっていいし、殺したっていいのよ。
須永 え、殺す!
柳子 そうよ!
須永 …………(柳子を見ていた眼を周囲の一同にまわしてシラリシラリと見ている)
浮山 ハハ、ハハ、だから、いいじゃないか、冗談なんだよ。自由にしていいんだから、なんにもしないで置いといてもいいんですよ。そうだろ? ハハ!
須永 はあ。……(その浮山を見て、弱々しく微笑する)
柳子 そいつは、そちらさまの御自由ですよ。じゃ、いいわね? 行きますよ。(壺をカラカラと振って、パッと伏せる)……さ!
須永 どうも、しかし僕あ――
柳子 ……どうだ?
須永 どっちでもいいんですけど――
柳子 ……ば、馬鹿にするの、あんた?
須永 ……そいじゃ、丁です。
柳子 丁! ……(壺にかけた右手がブルブルふるえている。それをグッと睨んでいてから)……はい、勝負! ……(ソッと言ってから、スッと壺をあげる。チラッとサイコロを見るや、ガクンと提灯がしぼむように後ろに坐りこんでしまう)
房代 あーあ!
須永 どうも……すみません。
舟木 ふん。さ、部屋へ行こう。
織子 いえ、あの――
若宮 あのう……(先程この室に入ってきてから、この男にしては例の無い一言も口をきかないで須永の顔ばかり穴のあくように見ていたのが、この時はじめて、それもこの男には珍しい意味の無い言葉を吐く)
(室内は水を打ったように静かになってしまう。柳子は虚脱して、須永の方をボンヤリ見ている。間。……ゆるやかな笛の音がはじまる。桃子が吹いているのである……)
浮山 ……モモコ、寒くはないか?
モモ …………(フルートを吹きながら、頭を横に振る。……そのフルートの音と浮山の声で室内の空気が溶けて、やわらかになる)
省三 須永君!
須永 え?
省三 この……(後が言えないでいる)
モモ 須永さん、いっしょに塔に行かない? あすこの方がよく鳴る。(立って須永の方へ)
須永 ええ。(救われたように立ちあがる。足がしびれて少しヨロヨロする)
浮山 でも、あぶないから、もうよしなさいよ。
モモ だって須永さんと一緒だもの。
浮山 でも、こんな暗いからさ。
モモ ホホ、暗いのは平気よ。(須永の手を取って、スタスタ出て行く)
浮山 気を附けるんだよ。……(一同をなんとなく見渡して、立ちあがる)やれやれ。
房代 どう言うんでしょう、ホントに。(須永の残して行った紙幣の山と、その上にのっている指輪を見て)これ、どうするの?
浮山 さあ、やっぱり、そりゃ須永君のもんだろう。
房代 そうね。……(柳子の方を流し目で見ると、柳子はまだボーッとして、立つのを忘れているので、その紙幣たばと指輪を持ちあげて、わきの丸テーブルの上にのせる)
舟木 (織子に)さ、帰ろう。もう遅い。
私 舟木さん、ちょっと。……(舟木の後に従って一緒に行きそうにするが、又立ち停って)あのう――
舟木 なに?
私 そうさな、ここでいいか。……あのねえ、ちょっと変な、この――
若宮 ど、どうもなんだ、全体こんな、いえ――(たたんで、ふところに入れてあった夕刊を出して、舟木に渡す)これ、これです。
舟木 なんです? ……いや、こりゃ僕も先刻読みましたよ。
房代 (夕刊をのぞき込む)なんなの?
若宮 さっき、ちょっとお前にも言ってたろう、アプレゲールのさ。(舟木に)もう一度よく読んで下さいよ。
舟木 だから、これはその三人殺しの――
省三 それが、須永君らしいと言うんですよ。
若宮 らしいじゃ無い、年も合ってるし(私に)名は孝と言うんでしょ?
私 そう。……
舟木 え? すると、この、これが今の、須永――?
房代 へっ? ……すると、なんなの、あの須永さんが、ひ、ひ、人を、あの――?
若宮 今朝だと書いてある。恋人の――もう死んだそうだが、その死んだ恋人の義父、と言うから義理の父親だな。それを絞殺、しめ殺し、そこへ出て来た母親、これは実母、恋人のホントの母親をピストルで射殺、そいで、外へ出ようとした所へ来合わせた米屋の配達人を射殺して逃走し、目下捜査中とある。調べによると、死んだ娘の恋人だった須永孝が犯人に十が十、まちがいないと、チャンと書いてある。どうも――。
舟木 ふむ。……(私に)ほんとですかねえ?
私 多分、どうも……。
(一同シーンとなってしまい、顔見合せている。……間)
柳子 ……(フッと夢からさめた様になって)え? なんですって? (立ちあがる)
房代 あたし、怖い!
浮山 すると、ピストルを持っている。
若宮 持っているわけだ。
柳子 (フラフラ歩いて来て)あの、その、須永さん、人を殺した――?
若宮 そうらしい。
柳子 あの、すると、ここに居た須永さん? ……(舟木や私の顔を見まわしているうちに、眼つきが妙になり、歯を喰いしばってシュウと言うような声を出し、それがヒイと聞こえるようになって身体をあお向けにそらしてストンと倒れる)
織子 どうなすって? 柳子さん! 柳子さん!
房代 柳子さん! しっかりなすって!
浮山 いけない! あんまり昂奮するもんだから。
舟木 (これは医者で、落ちついて、そばに寄って行き)織子、洗面器に水を。(片膝を突いて、手首を握る。織子小走りに階下へ去る)……
若宮 テンカンでしょう?
浮山 注射かなんか、あの――?
舟木 ……(柳子の目ぶたを開いて覗いていたが)いや、それには及ばんでしょう。テンカンと言うより、あんまり昂奮しすぎてる所へ、今の事で――(浮山に)それに、コカイン相当にやってるんでしょう?
浮山 ええまあ。近頃では、その上に、睡眠剤をのんだり、いろいろで――
舟木 いかんなあ。……そこのソファの上に寝せとくか。(言われて房代、省三、浮山の三人が柳子を抱えあげて、ソファに寝せる……)こういうタチの人は、下手をすると、おかしくなる。
若宮 気が狂うんですか?
舟木 いや、そういうわけでもありませんがね。
若宮 そう言えば、此処の亡くなった大旦那も、ひと頃、少し変だったとかってね。あの高い塔をおっ立てたりしたのなんかも、まあ、普通じゃない。
(そこへ織子が急いで水の入った洗面器をかかえて入って来る。それをソファの下に置き、浮かしたタオルをしぼって、柳子の額にソッとのせる。……柳子、意識を失ったまま身体をビクッとさせるが、直ぐに静まる)
舟木 ……(それをジッと見おろしていたが)いいだろう、大した事はないようだ。……(私に)どうします?
私 ええ。……
舟木 見たところ、そんな兇暴な所など、まるで無いけどねえ?
私 うん。……極くおとなしい――私にも腑に落ちない。あの男がそんな――
若宮 でも、あの人に相違は無いんでしょう?
房代 あたしは、なんだか違うような気がする。同名異人の――。だって、あんな、まるで女のような人が、そんな。
織子 (柳子の額の手ぬぐいを取りかえながら)私もそんな気がするわ。とてもやさしい、あんな――
私 だったら、ありがたいんですがね。……でも、須永は最近恋人を亡くしています。
若宮 すると、やっぱりそうなんだ。……どうすればいいんですかね? 警察に電話かけますか?
浮山 いや、そりゃ、もう少し待った方がいい。まだハッキリそうと決ったわけじゃないんだから。
若宮 だって、浮山さん、そうだとすれば、何をしでかすかわかりませんよ。ピストル持っているし、あぶない。
舟木 だから尚のこと――いや、仮りにそうだとしてもだな。
省三 でも、なんでしょう、仮りにそうだとすれば、先生、あなたの所に須永君がチョイチョイ来ていたと言う事は、須永君のうちでも知っているんでしょう? それなら直ぐ調べが附いて、もう今ごろは此処へ警察から人が来ている筈だ。
私 ……だが、須永は自分の家じゃなく、たしか下宿しているから、そう早くは調べが附かんかも知れない。もっとも下宿にしたって、もしそうなら、調べれば私の出したハガキなども有る筈だから、それに依って問い合せぐらいは、もう来てるとも言える。
省三 やっぱり、じゃ、ちがいますよ。あんなおとなしい須永君が、そんな筈はない!
舟木 しかし、それはわからない。そういう事は、言って見れば突発的なアクシデントとして起る場合もあるから、その当人の性質如何には、割にかかわらない。
私 ……どうすればいいだろう?
若宮 一刻も早く此のうちを出て行ってもらうとか、なんとか――
房代 ホントにそうだかどうだか、わからないままで? それは、ひどいわ!
若宮 すると、当人に、あんたがそうなんですかと言って聞くのか?
私 待って下さい。私にも、なんか、責任みたいなものが有るから、いっとき私にまかしてほしいんだ。私が逢って見る。すべて、それからにしてほしい。
舟木 どこへ行ったんだ?
房代 モモちゃんと一緒に塔へ行くんだって、そう言ってたから――
省三 塔なら、ここから見える。(奥の窓の所へ行き、ガラリと開ける。暗い夜空)
房代 暗くって、よく見えないわ。
舟木 いや、見える。(すかして見る)
若宮 ……なんだろう、ありゃ?
浮山 てっぺんに立っているのはモモコですよ。おや、あれが須永君かな?
私 ああ!
舟木 どうしたんだ、あれは?
房代 あらあら!
省三 ああ、モモちゃんがフルート吹いてる! (そのフルートの音が、微かに流れて来る)
(同時にソファの上の柳子が夢でうなされているような声で泣きはじめる)
織子 柳子さん! 柳子さん!
(他の五人は窓から塔の方をすかして見ている)

     10 塔

(一坪ばかりの広さの、手すりだけ附いた、こわれかけた塔の上。桃子が立ってフルートを吹いている。その反対がわの手すりの棒に両膝の関節で、こちらを向いて、逆さにぶらさがっている須永)
モモ ……(吹きやめて)須永さん。
須永 うん。
モモ どこに居るの?
須永 ここだよ。
モモ お星さま見える?
須永 うん、見える。(しかし実際はベットリと暗い空で星は一つも見えぬ)
モモ どっさり? (寄って来る)
須永 うん、だんだん多くなる。眼の中がチカチカ、チカチカして、とてもきれいだ。
モモ なぜそんな変な声だすの? (須永の素足にさわって)あら、あなたの顔、これ?
須永 ふ、ふ! (言いながら、身体を曲げて持ち上げ、手すりの内側に降り立ち、眼がまわるので少しフラフラしながら)おお、くすぐったいや!
モモ どうしたの?
須永 とても綺麗に見える、ああしていると。それからモモコさんのフルートが、遠くの方で大波が打つように、パイプオルガンが鳴っているように聞える。
モモ そう? ……(ニコニコして)あたしね、その時、公園に一人で遊んでいたの。もうおひるだから、ごはんに帰ろうかなと思っていたの。そしたらパッとなにか光って、なんにも見えなくなったの。そいから、なにかわからなくなって、そいで、こんだ何か見えるようになって、見たら、黒い木の枝に、人がやっぱし逆さまにブランと三人も四人もさがっていて、その中の一人の人は、着物を全部ダランとぬいで垂れてる。よく見たら、みんなそれがその人の皮なの。皮をスッカリ脱いじゃって、それを、やっぱし自分の手でつかんでぶらさがってるの。……おかしくなっちゃった。……(童話でも語るように言う)
須永 ……そいでモモコさんの眼、見えなくなったの?
モモ ううん、そいから病気になったの。白血球と言うのがドンドンふえるんだって。そいから、おなかが、こんなにふくらんで、そして砂糖をウンとなめさされて、そして、しまいに眼が見えなくなっちゃった。
須永 ……又見えるようになりたくない?
モモ そうね、大して。
須永 でも、いろんなもの見たいだろう?
モモ いろんなものって、どんな?
須永 そりゃ、お星さんだとか人間だとか鳥だとか木だとか、そんなような――
モモ そうね、お星さんや木なんぞは見たいけど、人間は見たくない。
須永 なぜ?
モモ なぜだか。
須永 僕も人間は見たくない。
モモ なぜ?
須永 なぜだか。
モモ 人まね!
須永 ハハハ。
モモ お月さん、まだ出ない?
須永 出てないよ。出るの?
モモ ゆんべも出たから、今夜ももうちょっとすると出るわ。
須永 お月さんの出たのが、しかしどうしてわかるモモちゃんに?
モモ わかるわ。(額のわきの方を指でおさえて)このへんがボーッと明るくなる。
須永 ……モモコさん、裸になって僕に見せてくんないかな?
モモ 裸? あたしが?
須永 うん。着物をすっかりぬいで。
モモ (笑って)それをベロンと手の先にぶらさげて?
須永 そんな――ホントに見たいんだ。
モモ どうして?
須永 どうしてだか。とっても見たい。
モモ カマキリみたいよ、あたしの身体なんか。
須永 見せてくんないかなあ。
モモ はずかしわ。
須永 ねえ、お願い!
モモ どうしてそんなこと言うの? 須永さん、今日は変よ。いつもと、まるでちがう。
須永 どんなふうにちがうの?
モモ ユウレイみたい。
須永 ……馬鹿言ってらあ。
モモ 須永さん、三階の先生んとこに、何を教わりに来るの?
須永 うん、芝居のことやなんか――いや、もっと大事な、いろんな。
モモ えらいの、あの先生?
須永 えらい。そいで、こわい。……いや、かった。今日来て見たら、えらくも、こわくもない。なんだか、かわいそうになった。
モモ そうよ。かわいそうよ先生。……亡くなった先生の奥さん、キレイな人?
須永 うん、キレイだった。
モモ 柳子おばさん、キレイ?
須永 キレイだ。
モモ どっちがよけいキレイ?
須永 ……どうしてそんな事言うの?
モモ どうしてって?
須永 先生の奥さんは死んじゃって、柳子さんは生きてる。
モモ ハハ、ほんとうだ、ホホ!
須永 ……(桃子の顔を穴のあくほど見つめている。その末に自分も微笑して)モモちゃんは、死ぬことなど考えたことある?
モモ 死ぬこと? ううん、考えたこと無い。
須永 そいじゃ、死にたくないと思う?
モモ ううん。たくないとは思わないわ。
須永 死にたいとは?
モモ ううん、思わない。
須永 じゃ、生きていたいのね?
モモ ううん、別に。そんなこと考えたこと無い。おんなしだもの。
須永 おんなし?
モモ わからないの、あたしには。……あら、誰か昇って来る。(耳をすます)
須永 ……(これも耳をすましていてから)誰も来やあしないさ。
モモ もう下へ降りましょうか?
須永 もういっときいよう。
モモ だって須永さん、先生とお話なさるんじゃないの?
須永 うん。……でも今日は僕あモモコさんと遊びに来たんだから。
モモ 遊ぶって?
須永 ……だから、裸になって、見せてくんないかなあ。
モモ フフ。
須永 なにもかも、僕には嘘のような気がするんだ。小さい時から、そうなんだ。そこらの物も、人も、まわりのものが、なんかしらん、ホントでない、ホントの事は、もっと別の所にチャンとして在るような気がする。僕がホントに居なきゃならんのは、その、別の所で、そいで、だから、此処に自分がこんなふうにして居るのは、まちがっているような。そう言う気が年中するの。
モモ わからないわ。
須永 モモコさんと一緒にいると。そんな気がしなくなるんだ。
モモ そう? どうしてかしら?
須永 そいから又、いや、そうだからだと思うけど、今自分が見たり聞いたりしてる事は、同じ事を、それとソックリ同じことを、いつか何度も何度も見たり聞いたりした事なんだ。そういう気がしょっちゅうする。
モモ うん、そう! それは、あたしも、そういう気がする事あるわ。ピカドンだって、広島でじゃなくって、もっとズーッと以前に何度も何度も私、見たことがある。いえ、あのピカッとした中で、ああそうだっけ、なんかこんな事が、これまでに何度も何度もあったっけ、そう私、思ったような気がするわ。
須永 だろう? だからさ……だから、見せてくれないかなあ、裸になって。
モモ 見せたげようか、んじゃ?
須永 お願い!
モモ じゃ、これ持ってって。(フルートを須永に渡し、ズボンのバンドに手をかける)
柳子の声 (下から)モモちゃん! モモちゃん! 降りていらっしゃい! モモちゃん!
モモ (手をとめて)ほら、やっぱし、柳子おばさんが来た。
須永 いいからさ。
モモ だって……しかられちゃう。また、こんだ。
柳子の声 (すこしあがって来て)モモちゃん! さあ、もう、降りていらっしゃい! モモちゃん!
モモ はあい!

     11 私の室と次ぎの室

(私の室では、私と須永が椅子にかけて話している。その次の室――と言っても、以前は物置に使っていた室が焼夷弾を食って屋根も壁も飛んでしまって床板にも大穴のあいたままの場所の、私の室とのしきりの板戸の隙間からもれてくるひとはばの光の中に、桃子をしっかり抱いた柳子、それから房代、織子、舟木、浮山、若宮、省三が、群像のように動かず、私の室からの話声に聞き入っている)
私 (もうかなり話して来たあと)……いや、私の言っているのは、そんな事じゃ無いんだ。
須永 (静かで、昂奮のあとはない)……ですから、あい子は、もしかすると自分でも気が附いていないと思うんです。
私 あい子?
須永 ああ、まだ言ってませんでした。あい子と言うのが本名なんです。本名で芝居などしてはいけないと家で言われて、ミハルと言うのは、劇団はじめる時、僕が附けてやった芸名です。ホントは魚のアユの鮎子です。
私 いやいや、私の聞いているのは、そんなことじゃない。
須永 ですから……その、あい子はまだ自分が死んだんだという事を自分で気が附かないでいるんじゃないかと思うんですよ。僕にはそんな気がするんです。
私 君の言っている事は僕にはわからない。
須永 そうですか? でもあなたは、奥さん亡くされて、そうは思わないんですか? 奥さんはご自分が死んだという事をまだ知らないでいられるんじゃないか? そう言った、つまり……いや、そうですねえ、あい子や奥さんだけでなくです。死んだ人はみんな――いや、こうして生きている僕らも、実はもう死んじまっているのに、それに気が附かないで、平気でノコノコ歩いたり物を食ったりしている。そうなんです。そうじゃないかと思うんです。
私 …………
須永 人間は原子爆弾を発明しちゃったんです。人間が築きあげて来た科学が自然にそういう所まで来てしまって、そいで原子力が人間の自由になってしまったんです。もう後がえりする事は出来ないんです。見てはいけないものを見てしまったんです。物質の一番奥の秘密のようなものを――神さまだけしか知ってはならないものを、人間は知ってしまったんです。そいで、ですから、広島に最初に原子爆弾をおっことした人は――又は、おっことす事を決定した人は、その人は、人間がしてはならない事をしてしまったんですよ。神さまでなければしてはならない事を、やっちゃった、つまり、踏み越えてはならない線を向うへ一歩、犯してしまったんです。……いえ、僕はその人をとがめようとしているんじゃありません。僕にはとがめる資格はありません。それに、どうせ人間は原子力の秘密を握ってしまったんですから、おそかれ早かれ誰かが武器にそれを使ったでしょう。ですから、人間全体に、それに就いては責任があるわけで――ですから善い悪いの事を言ってるんじゃありません。ただ人間は原子力で人を殺したと言う事で、犯してはならない所を犯してしまったと思うんです。以前、刀で人を殺していた、その刀が鉄砲になり、大砲になり、機関銃になり、というような事とは、実はまるで違う事が起きてしまった。……原子爆弾を作って、それを使ったという事で、人間は実は自分の今までの歴史を根こそぎスッカリ変えてしまったのです。神が生きものを創造したことが世の中のはじまりだとするならば、その時から今までの事をすべて台無しに叩きこわしたのが原子爆弾で、ですからすべてがまたゼロから、始まるものなら始まるわけで、つまり創世紀――そういう所に僕らは立たされている。立たされてしまったんです。そうじゃないでしょうか?……僕が言うのは、そんなトテツもない、自分たちに取って根本的に決定的なことが起きてしまってるのに、しかもそれを自分の手で引き起してしまったのに――つまり犯しちまっているのに、人間はその事に気が附いていないんじゃないかと言うことを、それを僕あ――。
私 ああそうか。それなら私にも少しわかる。蒸気機関が発明されて、それで産業革命が起きた。それと似たような、それの続きとしての進歩が起きたというような事ではないかも知れんね。早くなんとかしてコントロールしないと、こいつから逆に人間は――下手をすると地球そのものまで、吹きとばされてしまうかも知れん。なんか恐ろしく妙な――
須永 妙なことは起きてしまったんです。人間はもう死んでいるのに、死んでいる事に気が附かないで、気が附かないままで生と死の境目の敷居を踏み越えてノコノコ歩いて行ってる。……
(二人とも、いっとき黙りこむ)
私 ……だが、須永君――君が私に話したい事は、そんな事じゃないんじゃないかね?
須永 え? どうしてなんです?
私 どうしてと言う事はないが――
須永 なんでしょう――
私 いやさ……どうして君は私んとこに来たの? いや、来たってかまわんけど、特に私んとこに来たと言うのは、どういう――?
須永 そりゃ、尊敬してるもんで――あなただけを僕は、信用すると言ってはなんですけど……そうですねえ、尊敬してると言うんじゃないかも知れません。友だちに逢っても、先輩も親兄弟もそのほかの世間の人も僕には、つまらんのです。直ぐ嘘をつきますから。あなたは、嘘だけはつかれないから、そいで、なんとなくツイお目にかかりに来るんです。
私 そう、そりゃなんだけど――私の言ってるのは今日のことさ。特に今夜はどうして此処に来る気になったかって言う――?
須永 いけなかったでしょうか?
私 いや、いけなかないけど――
須永 それにモモコさんを見たくなって。
私 モモコ? どうして?
須永 好きなんです。
私 うむ。……君、ピストル、持ってるの?
須永 え?
私 持っているんだろう?
須永 ……(私の顔を見ていたが、普通の調子で)ええ持っています。(手紙でも出すような素直さで、右手を内ポケットに入れる)
私 (それをとめて)いや、いいよ出さないでも。……だからさ、その事を――?
須永 え?
私 ……夕刊に出ている、君のことが。
須永 そうですか?
私 知らないのか?
須永 ええ。
私 ……どうして特に此処に来たのかと言うのは、それさ。私は君を好きだから別に迷惑だとは思わない。しかし、君の方としては、それを考えるのが自然だったと思うんだがね。私や、そいからこの家に住んでいる人たちに迷惑がかかると思わなかったの?
須永 (単純ないぶかしそうな顔で)……迷惑と言いますと?
私 だって君は、三人も人を……なにしたんだぜ?
須永 え?
私 つまり……殺した。
須永 三人じゃありません。僕が殺したのは一人です。
私 ……だって、その、あい子さんの父親と母と米屋の青年と。
須永 ……すると米屋なんですか、あれは?
私 ……[#「 ……」は底本では「……」]やっぱりそうだろ?
須永 ……(考えていたが)それなら四人です。いや……やっぱり一人です。
私 三人とハッキリ書いてある。
須永 いえ、一人です。でなければ四人です。
私 すると……ほかに……その一人と言うのは?
須永 あい子です。
私 だって、あい子さんは病気で亡くなったんだろう?
須永 いや、僕が殺しました。……殺したのは僕です。
私 ……よくわかるように話してくれるわけには行かないかな?
須永 ……あい子と僕は山中湖へ行って一緒に死ぬことになっていたんです。そう約束して、薬も手に入れ、金も作り、汽車の切符も買ってその次ぎの日の朝出かけることになっていたんです。その晩おそく別れて、朝になったら、あい子は一人で薬をのんで自殺してたんです。
私 そうか。……でも、しかし、どう言う?
須永 僕にもわかりませんでした。次ぎの日には山で一緒になにする事になっているのに、どうして自分だけ、僕を残して……それ、いろいろ考えました。……やっぱり、僕が殺したんです。
私 ふうむ。……
須永 聞いてくれますか?
私 聞かしてくれ。
須永 僕とあい子は去年から仲良くなっていました。あい子は僕以外の男性はもう全く考えられないと言います。僕もそうでした。しかし肉体関係は無かったんです。接吻だけは、六度ばかりしました。しかしそれ以上のなにはイヤダと、あい子は言うんです。僕はあい子の身体も欲しいので、要求すると、泣いて、そうしないでくれと頼むのです。そいで、そのままでズーッと来て、そして一緒に死のうと言うことにして、ですから、僕あ、二人で死ぬ前に一晩だけ過して、ホントの夫婦になって、そいで死のうと言ったんです。あい子もそれを承知して、行くことになって、そいでその前の晩に一人で死んじゃったんです。……その、ホントの夫婦になると言う事、つまり肉体関係が、あい子にはイヤだったらしいんです。
私 しかし、そのために死ぬというほどの――?
須永 僕もそう思ったんです。今でも、そんな事があるだろうかと、よくわかりません。……しかし、あい子にはどこか、そういう性質がありました。こいつは、気ちがいじゃないだろうかと思った事が、一二度あります。そういう意味では僕には、どこか、わかるんです。じかにあい子を、よく知らないあなたには、わからんと思います。
私 ……。しかし、あい子さんのお父さんやお母さんや米屋をなにしたのは、どう言う――?
須永 それは僕にもよくわかりません。……あい子を殺してから、僕も生きてはおれないもんですから、薬をのんだんですけど、たくさん飲みすぎて吐いたりしてグズグズしてたんです。……そいでその間、毎日あい子の内へ行ってたんです。なんか、そこにまだ、あい子が居るような気がして。……それに、あい子のお母さんが、あい子にとても似てるもんで、なつかしいような気がして。そいで、そのお母さんも僕の顔を見るのが、うれしいようなもんで……もっとも、時々、あい子だけ一人で死なしといて、あんたが殺したくせに、いつまでもどうして生きている、どうして後を追って死んで、つまり心中してくれないんだ、と言ったような――いえ、口に出して言やあしないんですけど、そんなような眼をして僕を見ました。……それが辛いんです僕には。辛いんですけど、その辛いのが、何か良い気持なんです。そいで毎日、社の帰りに寄って、あい子の仏前にボンヤリ坐っていました。……今日は社が公休なんで朝行く気になって行きますと、あい子のお父さんが内に居て、応接室に通されました。実はあい子の実の父ではなくて、あい子が七つの時にお母さんの連れ子でかたづいて来たそうです。あい子のお父さんは以前、参謀本部詰めで、特務機関の関係で上海などによく出かけていた中佐です。終戦後、陸軍の用地だった方々の土地の払い下げ問題の世話焼きと言うか、そう言う事の委員やなんかやって、相当金ももうかるようで、その金を土台にして、もとの軍人などを集めて一種の国民運動組織のようなものを拵えているようでした。……その時も、そんなような客が二人ばかり来て、十個師団ぐらいではどうしようも無いとか、飛行機はどうするんだとか、再軍備の話をしてました。僕は黙って聞いていたんですが、話の内容はよくわからないし、興味もありませんでした。……そのうち、その客が帰って僕と二人っきりになると、お父さんがいきなり、どう言う量見で君はいつまでも此の家に来るのかと言うんです。僕、答えられないで黙っていますと、実に女々しい不愉快きわまる、今後来るのはことわる、そう言ってニヤニヤして、テーブルの引出しからピストル取り出して、又来たら、これで射殺すると、僕にねらいを附けるような恰好をして、又笑いました。……それ見ていて僕は、とても悲しくなりました。寂しい……とても、悲しくて、泣きたくなったんです。そいで、もう帰りたまいと言って向うを向いてしまったんです。その後姿を見ていて僕は、この人と自分とは、いっしょに生きてはおれないと言う気がヒョッとしたんです。一瞬間もいっしょの空気を呼吸して……いや、気がしたんじゃなくて、その時、一刻もいっしょに生きてはおれなかったんです。そいで……僕は自分のバンドをはずし、後から行って、首をしめた、ようです、ハッキリおぼえていません。(自分の上衣のすそをめくって、ズボンのバンドの所を覗く。バンドは無い)……非常に簡単に、あの、身体がやわらかになって――死んだんですか、じゃ?
私 …………(答え得ない。ただ微かにうなずく)
須永 ……そいから外へ出て来たんです。出る時にお母さんが変な顔をして出て来たので、なんか僕は言おうとしたら、ピストルが鳴りました。お父さんのピストルを――そんとき僕をおどかしたそのピストルを僕は掴んじゃっていたんです。自分で気が附かないでいました。バンと鳴って、お母さんが何か言って倒れたので、これはいかんと思って、あわを喰って、台所の方から出ようとすると、そこに兵隊が立って僕を睨んでいるんで、カッとなって、撃ちました。……ありゃ米屋なんですか?
私 ……(うなずいて)……スッカリ復員の時の兵隊服着てたって書いてある。
須永 そうですか。……
(間……)
私 そいで、君はどうするの?
須永 どうすると言いますと?
私 その――これからさ?
須永 これからと言いますと? 別に僕あ――(虚脱したように弱々しい眼で、その辺を見まわす)
私 そいで、その、あい子さんの家を出てから、此処に来るまでどこに行ってた?
須永 あちこち、別にどこと言って……そうです、上野の美術館に寄りました。興福寺の阿修羅が出ています――あなたがいつかいっていられた――あれを見たり。
私 ……警察に行くことは考えなかったかね?
須永 考えないわけではありませんけど――
私 君は人を殺した。……人を殺すのは、いけない事じゃないかね?
須永 それは知っています。……でも、しかたがなかったんです。
私 しかたが無い? そう、しかたがないと言えば、なかったかもしれん。でも、悪いことは、やっぱり悪い。
須永 ええ、悪いです。……でも、善いことと言うのは、なんですか?
私 そりゃ君……(言葉につまる)
須永 戦争の時は、敵を殺すのは善い事なんでしょう?
私 …………(答え得ない)
須永 いえ、僕は自分のした事が善い事だなんて言う気はまるでありませんから、屁理屈を言おうとしてるんじゃありません。いけないのは僕です。でもホント言うと、何が善くて何が悪いか、僕にはまるっきり、わからないもんですから。――
私 ……(額に油汗が光っている)しかし、しかしだね……(あえぐ)その、逆にだな、君が人から、いきなり殺されたら、君、イヤだろう?
須永 そんな事はありません。いつ殺されてもいいです。……僕はもう、とうに死んでいるかも知れないんですから。
私 (歯をガリガリと鳴らして)僕は冗談を言ってるんじゃない。
須永 僕も冗談言ってるんじゃありません。弱ったなあ。(私が怒っているらしいのに、ホントに弱っている)……いつ死んでもいいんです、これで。(とポケットに触ってみせる)あなたに撃ってもらってもいいんです。
私 須永君。……(ガタガタと手がふるえている)
須永 弱ったなあ。……あのう、御迷惑なら僕あ出て行きます。ですから……いえ、あなたとモモコさんに逢いたかったもんですから。……あなたの事を僕はズーッと尊敬していました。たった一人、あなただけを尊敬してたんです。それが、今夜来てあなたを見たら、なんですか、まるきり、尊敬しなくなっちゃってる自分に気が附きました。どう言うのか、僕にもわかりません。尊敬じゃない、もう。……軽蔑しちまってるんです。いえ、軽蔑と言っちゃ、なんですけど、その、あわれなような気がします。あなたが、なんか可哀そうなような――そうです。そいで、やっぱしあなたが好きです。(女のような微笑)……あなたには、わかっているんだ。あなたは、わからないと自分で思ってるけど、そう言っているけど、ホントは、あなたは、僕のことは、わかってるんですよ。……あなたも死にかけているんだ。だから、ホントにあなたは生きているんです。あなたは奥さんを亡くしてるんです。僕はあい子を亡くしたんです。殺した。……そうなんだ、あなたも奥さんを殺したんだ。……そいで生きているんです。同じです。……(全く熱のこもらないウワゴトのような調子になって行く。私は冷たい汗を垂らし、手はほとんど虚空をつかまんばかりに握りしめられている)
(そこへヒョイとフルートの音が起る。
次ぎの室の人々の中に立った桃子が、フルートの吹き口を唇に持って行っている姿。その細い腰をしっかりと抱いた柳子の白い手が、ハッキリ遠くから見えるほどブルブルふるえている。……
須永がフルートの音を耳にとめ、椅子を立ってユックリそちらへ行き、板戸の前にチョッと立ってから、板戸をスッと開けて、そこの八人を認め、それから私の方を振返って見てから、ユックリと次ぎの室へ入って行く。眼は桃子を見ている。私の室は暗くなる)

     12 次ぎの室

(そこに居る八人の人たちは、それまで板戸の隙間から洩れる光に沿って立っていたので、知らぬ間に、やや半円を描いた一列に並んでいる。それが一種の恐怖のようなもので動けなくなって、墓場から起き出して来た者を迎えるように須永を見迎える。ふだんのままであるのは桃子だけ。
須永は桃子に視線を向けて入って来るが、一同がだまりこんで並んでいるので少し気押され、いぶかるような、はにかむような態度で、ソロソロ歩き、並んだ順にユックリと眼を移して行く。
舟木、織子、省三、浮山、桃子、柳子、若宮、房代のそれぞれが、須永から見られて次々と各人各様の表情と態度を示す)
舟木 …………(眼をすえてジッと須永を見る。それはハッキリと医者の眼である)
須永 ……(舟木の眼から引きとめられてしばらくそれを見ていてから、薄く微笑して)ええ。すこし頭が痛いんです。
舟木 ……須永君。
須永 舟木さん、あなたはお医者です。あなたの考えていらっしゃる事はわかります。……たしかに僕は病気かもしれません。
(そう言って、一歩進んで織子を見る)
織子 …………(ああと口の中で言い、同時に膝まずき、須永に向って頭を垂れ、握りしめた両手をアゴの所に持って来て、唇をふるわせつつ何かささやきはじめる)
須永 …………(ポカンと見ていたが、相手が祈っていることを理解した瞬間にギクンとして、二三歩とびさがり、恐ろしいものを見るように織子の姿を見ていたが、やがて顔をふせて深々とお辞儀をして、織子の前を遠まわりをするような足どりで、わきに寄る)
省三 ……(さきほどから噛みつくような眼を光らして須永を睨んでいたのが、だしぬけに)そうだよ! 何が善で何が悪なんだ! 須永君、君がその男といっしょに生きておれなかったの、わかるよ! おれたちは、おれたちを押しつぶそうとしている奴等を、しめ殺さないでは、生きて行けないんだ!
須永 いや、そんな……(省三の激しい視線を受けかね、助けを乞うように次の浮山を見る)
浮山 ……だけど、田舎にお母さんや弟さんも有ると言うんだから、この――
須永 …………(恥じて頭を垂れる)
省三 だけど、それをそういう形で解決しようとするのは間違いだ! それはホントの解決にはならん! 僕の部屋へ来てくれ須永君! 話し合って見よう! (進み出して須永の腕を取りそうにする)
須永 ……(その手をソッとよけて、桃子の前に行き、低い声で)モモコさん。
モモ ……(ユックリした視線で、須永の方を見て)須永さん、又、塔に登らない? (そしてフルートを口へ持って行き、吹く真似をする。しかし音は出ない)
須永 ええ。……
柳子 須永さん! (かすれた、押し殺した声で言い、いきなり、ふるえる片手で須永のひじを掴み)……逃げて下さい! 早く、どっか、早く逃げて下さい! 逃げて下さい、つかまる! 早く逃げないと!
須永 え? ……(びっくりして柳子を見る)
柳子 な、なんでもいいから、早く、あの、逃げて下さい!
須永 …………(困って、柳子の手をソッと振りほどいてとなりの若宮に眼を移す)
若宮 わあっ! (それまでもワナワナとふるえていたのが、須永からチラリと見られると、我慢できなくなり、叫び声をあげるや飛びあがって、いきなりガタガタと床板を踏み鳴らして駆けだし、板戸の間から今はまっ暗な私の室を通り抜け階段を駆けおりる音がドドドドと下に消える)
舟木 どうしたんだ?
省三 警察に電話でもするんじゃないか?
浮山 そりゃ、まずい。……(小走りに若宮の後を追って私の室の方へ消える)
須永 ……(その間に房代を見ている。と言うよりも、房代の方がルージュの濃い口を開け放って、顔色を蒼白にし、眼をすえた、ほとんど発狂せんばかりの恐怖の表情で、及び腰になって後すざりしながら自分を見ているので、その姿に逆にびっくりして見ていると言うのが当っている)……あの、どう……どうしたんです?
房代 …………(両腕を突き出して須永が近寄って来るのを防ぐようにしながら、ジリジリと後しざる)
織子 あ、危ないっ!
(叫び声と同時に、奥の床板に開いている焼夷弾の穴に、房代の身体がスポッと落ちこみ、ガラガラと音がして、二階の真下の部屋からアッ! という房代の悲鳴がひびいて来る)
須永 ああ! (その穴のそばへ行って下を覗く)
省三 おっ! (これも穴へ駆け寄る)房代さんっ! 房代さんっ! 房代さんっ! (これは下を覗くひまも無く、いきなりその穴から下へパッと飛びおりて消える。ガタガタ、ベリッ、ドサンという音)
舟木 馬鹿! ここから飛ぶ奴があるか! ケガしやしないか? 織子、二階だ! (身をひるがえして、私の室へ消える。織子も走ってその後を追う。二人が階段を駆け降りる音。やがてシーンとなる)
(一瞬のうちに、穴のふちに須永と桃子と柳子の三人が取り残される。ボンヤリしている須永、遠い方へ耳をすますようにしている桃子。ほとんど恍惚として我を忘れて須永を仰ぎ見ている柳子。――静かだ)

     13 食堂

(私が一人で立っている)
私 ……待てよ。ぜんたい何が起きたのだ? 何が此処で起きたのだろう? 起きつつあるのだろう? 私たちの生活は、それほど愉快な明るいものではなかった。しかし、おだやかな、気持の良いものだった。そこへ須永がとびこんで来た。はじめ何がとび込んで来たのか、誰も気が附かなかった。そのうち、ヒョイと気が附いた。これは殺人者だ。そしてもう既に死んでいる人間だ。そいつが私たちの間をウロウロしはじめた。すると私たち全部の調子が不意に変になってしまった。死んだ人間が歩きまわっているのを見ているうちに、おれたちの一人一人が急に、自分が生きていることに気が附いたのか? ……いや、そうではない、須永は死んだのではない。須永だけが、おれたちの中で須永だけが今生きているのではないのか? 須永は、今こそホントに生きはじめたのではあるまいか? それを見ておれたちの一人々々までが、日常生活のものうい夢から叩き起され、眼をさましたのではないのか? ……そうだ、現に私だ。私は半分死んでいるのだと須永は言った。そうかもしれない。お前はここに私のそばに立っている。もう既に死んでしまったお前が私のそばに立っている。それを私は実感で知っている。それが私に少しも変だとは思われない。ならば、私も半分死んでいるのだろう。そうかもしれない。それが須永に叩き起されて、こうなって、さて、私の眼が急にハッキリ見えはじめた。夜の空気が、ヒンヤリと、これまでとはまるで違った肌ざわりで私の顔を撫でる。おかしいぞ。夜の闇が不意にベットリと黒いものとして私を取り巻いて見えて来る。闇はズッと前から有ったのだ。見えていたのだ。それが今急にベットリと、まるで液体のように私を取り巻いて、ここに在る。どうしたのだ? これは、なんだ? やっぱり私は死につつあるのか? それとも、ホントに生きはじめたのか? ぜんたい何が起きたのだ? 何が起きようとしているのか? 須永は、どこへ行ったのだろう? 須永!
(舟木が腕まくりをおろしながら入って来る)
舟木 ……須永君は柳子さんたちと三階じゃないかな。
私 房代さんのケガは?
舟木 あの人は足くびをチョットくじいただけだが、省三が釘で額を切った。馬鹿な、いっしょに飛び降りることはない!
私 若宮さんと浮山君が喧嘩をした?
舟木 若宮が電話をかけようとするのを、浮山君がいきなリなぐり倒した。あんな男じゃないと思っていた。取組み合いになって、若宮は鼻から血を出している。
私 ……狂人だろうか? 須永は?
舟木 ノイローゼ。病識が有る。しかし、それがわれわれの方で言う病識か、ただ一般的に、つまり思想的な言い方での、自分は病気だと言うのか、そのいずれか、この程度ではハッキリしない。変質者であることは確かなようだ。しかしそれも遺伝関係のデータを調べなければハッキリしない。むしろ、その相手の、先に一人で自殺したと言う娘さんの方に一種のパラノイヤのような――つまりセックス・フォビヤがあったのではないかな。
私 聞いたのか?
舟木 戦争からの影響――つまりアプレゲール現象だで、世間はこういう事を片づけたがる。しかし因って来る所はもっと深い。断絶だ。これは断絶。崖を踏み切った。足はもう地面を踏んでいない。
私 断絶? うむ。
舟木 無数の断絶者が生れつつある。この世の、崖っぷちのこっち側の考えで、死んでるとか生きてるとか言って見ても無駄。どうするかだ、これを?
私 どうするか?
舟木 殺しても死なない、だから。だから処理するだけだ。警察に渡すか、精神病院に渡すかだ。
私 あぶない。ピストルを持っている。
舟木 ピストルには弾はいくつ入っている?
私 六連発と見ても、まだ四つ入っている可能性。
舟木 良い青年だがな。
私 良い奴だ。しかし犯罪者。
舟木 犯罪者? 犯罪の意識は無い。
私 狂人か――
舟木 われわれにとって狂人と言うものは居ない。時代時代の平均ノルムが有るだけ。それを踏みはずしたのを仮りに狂と名づける。セーンもインセーンも無い。どの試験管もガラスで出来てる。
私 だが、須永は犯した。これからも犯し得る。これは、怖い。
舟木 怖いのは、しかしホントに怖いのは、実はモモコだ。あの子は笑いながら一万人だって殺すことが出来る。
私 うむ。しかしモモコは殺してない。須永は殺した。
舟木 薬をあげようか?
私 自分でも持っているのではないか。それよりピストル持ってる。自殺など胴忘れしてああしてウロウロしている。どうすればよいか?
舟木 そう、どうすれば――?
(二人、顔を見合せている。そこへ出しぬけに二階の一角で、ドシン、ガタガタと音がして、女の叫び声がして来る。舟木と私はその方を見あげて聞き耳を立てている。……)

     14 省三の室

(天井裏の見える、まるで物置のように殺風景な、板のベッドと粗末なテーブルの他に何も無い部屋。ただ一つ壁に真赤な三角の旗がピンでとめてある。額から片眼へかけてホウタイ※(始め二重括弧、1-2-54)それに血がにじみ出している※(終わり二重括弧、1-2-55)を巻き立てた省三が、ベッドに片足かけて仁王立ちになり、革のバンドを右手にふりかぶって、憎悪にとび出しそうな眼で離れて立った房代を睨んでいる。
房代は右手に濡れたタオルを持ち、左手で、たった今なぐられた頬から首すじをおさえて、ギラギラ光る目で省三を見つめている。これも左の足首をホウタイで巻いている)
房代 なにするのよ、キチガイ!
省三 バ、バ、バイタ! (房代に向ってビュウッとバンドを振る)
房代 あっ! (辛うじて打撃をかわし、テーブルを小だてに取って、室の隅に飛びさがる)
省三 出て行け! 出て行かないと殺すぞ!
房代 殺せるものなら殺してごらん! しと、痛いだろうと思って、わざわざやって来てタオルで冷してやろうとすると、だしぬけに、なに乱暴するのよッ!
省三 なぜ触るんだ俺に! 放っといてくれ、お前みたいなバイタが――出て行け!
房代 出て行くとも! あたしのためにケガをさして悪かったと思うから、こうしてなにしてんのに――動物!
省三 あたしの為にケガをした? ヘッ、あん時、お前のあとから飛び降りた自分が、腹が立つんだ! ざまあ見ろ、だからこんなケガあしたんだ! 俺が俺に罰を喰わしてやったんだ。お前なんか死のうが生きようが腐ろうが、知った事か! のぼせるなよ、お前なんかのために誰が飛びおりたりするもんか!
房代 ヘッ、のぼせているのは誰だ? 戦争が始まったのが、あたしのセイなの? あんたが出征したのが、あたしのセイなの? 復員して見たら、あんたの恋人が空襲にやられて死んでいたのが、あたしのセイなの?
省三 ちきしょう、だまれ! だまれ、ちきしょう!
房代 その恋人にどっかあたしが似ていたと言うのが、あたしのセイなの? そのあたしが食べられないから、進駐軍につとめているのが、あたしのセイなの?
省三 食いものをもらうと、犬はシッポを振る。しかしシッポの先きに心臓をぶらさげて振りはしないんだ!
房代 あんただって血を売ってるじゃないか!
省三 血は俺のものだから売るんだ! 俺の自由意思で売ってるんだ!
房代 あたしは、あたしのものだから、あたしの自由にするのよ! 恋人を持つのは、あたしの自由だ!
省三 三月に一人ずつの恋人を持って、オンリイ、オンリイで次ぎから次ぎと、三年もたつと一中隊ぐらい兄弟になっちゃって、子供でも生れるとなったら、白いのかい黒いのかい、わからなくなったらフイシュ・スキンに聞いてみろい!
房代 ヘッ、ゼラシ!
省三 なにようッ! ちき――(バンドを振りかぶって迫って行く)
房代 ヘッ――(それに向って、犬に追いつめられた猫のように、シューと響く唸り声を立て、歯をむき出して対する。――それがヒョイと戸口の方を見るや、声も立てずにゴム風船から空気が抜けるように、不意にしぼんだように怒りの形相が完全に消えてしまう。その代りに、恐怖から今にも泣き出しそうな顔になっている。目まいが起きるほどの急変である)
省三 うッ? (びっくりして、なぐりかかるのを忘れて、それを見ていたが、やがて振返って戸口を見る。――戸口の奥の闇を背に、須永がションボリ立っている。バツの悪そうなモジモジした態度。それを見ているうちに、省三からも兇暴な調子が消えている)
須永 やあ。
省三 君か? ……はいりたまい。
須永 話したいと君が言ってたもんで――(言いながら遠慮っぽく入って来る。その間に、猫が逃げ出すようにす早く房代が、須永のわきを大きく円を描いて足早やに戸口の方へ出て行き、消える)……あのう、キズはどう?
省三 ……なに、大した事は無い。(キョトリとして、まるでキツネでも落ちたようだ。そして見失った自分の思考のつながりの絲を相手の顔の中から捜し出すように須永の顔ばかり見ている)……それで?
須永 モモコさんは、どこへ行ったのだろう?
省三 ……(不意に絲をつかんで)そうだ、君がその男をやらなければならなかったのは、わかる。しかし君の、その恋人はなぜ自分だけ自殺したんだ? 全体、その人と君とは、なぜに一緒に死のう、心中しようと決めたんだ?
須永 生きていられなかったから。
省三 なぜ生きていられなかった?
須永 呼吸がつまりそうで窒息しそうだった。
省三 なぜだ? どんなわけでだよ?
須永 なぜだかわからない。
省三 ……君は馬鹿だ!
須永 馬鹿だ。(ゲッソリとしょげている)
省三 (相手のまるで無抵抗な姿を見て同情する気になり、同時に自分をとりもどして来る)だけど、その人が一人で自殺したのを、なぜ君は自分が殺したと言うんだ?
須永 でも、殺したのは僕だから。
省三 ちがうよ、君が殺したのは、ほかの三人だ。
須永 ううん、ちがう。僕が殺したのはあい子だ。
省三 君じゃないよ、殺したのは。
須永 殺したのは俺だ。
省三 逃げないのか君は?
須永 逃げる? どこへ?
省三 どこへ? ああっ! (反問しているうちに、出しぬけに、とび上って、キョロキョロあたりを見まわし、それから室内をキリキリ舞いをして、窓の所へ駆け寄ったり、テーブルの下にかくれようとしたりする)そうだ、殺したのは俺だ!
須永 …………(びっくりし、あきれて見ている)
省三 殺したのは俺だ!
須永 何を殺したの?
省三 島田と言う兵長だ。部隊本部の参謀に可愛がられていやあがって、いつでも俺たちの事を言いつけやがる。スパイだ。島田の口のひとつで昇級したり、あぶない所へ転属されたりするんだ。そいつが、俺の事を目のかたきにして、インテリなんぞに戦さあ出来るもんか。人が殺せるもんか。年中俺をなぶり者にするんだ。そこい、便衣隊が三人つかまった。共産軍の、まだ十七八の青年だ。おめえにくれてやるから、やって見ろ。やれめえインテリ。分隊全員の前で歯をむいて笑うんだ。カーッとなった。ホントはやりたくなかった。ホントは笑ってる島田をやりたかった。しかしカーッとのぼせて、俺は銃剣を振りかぶっていた。ズブッと言って、小さな声でキイと言った。十七八の共産兵だ。俺は目の前が真暗になった。夢中で突きまくった。三人終って、銃剣を手から離そうとすると、ネバリ附いてて取れないんだ。ボヤッとした月が出ていた。……殺したのは俺だ!
須永 君が殺したんじゃないよ。
省三 殺したのは俺だ!
須永 殺したのは戦争だ。
省三 う? ……そうだ。だから俺はあの三人の仇を打ってやる!
須永 三人を殺した君がかね?
省三 そうだよ、仇を取ってやる。
須永 すると又戦争がはじまる。
省三 今度の戦争は最後の戦争だ。戦争を無くしてしまうための戦争だ。
須永 そう言っては、何度でも戦争をする。
省三 俺たちのする戦争だけが正しいんだ。
須永 両方で、いつでもそう言うよ。
省三 君はニヒリストだ。反動の二人や三人殺してなんになる? センチメンタリズムだ!
須永 (はにかんで)じゃ、幾人殺せばいいの?
省三 幾人?
須永 誰と誰とを殺せばいいの?
省三 誰と誰?
須永 言って見たまい。僕が行って、みんな殺して来てやるよ。
省三 う? ……(びっくりして須永を改めてマジマジ見る。その末に、キョロキョロあたりを見る。自分の手を見る。それを開いたり握ったりして見る。再びあたりを見まわし、暗いのをすかして客席の方を覗くようにする。微笑を消さない須永の視線も、省三の視線を追って客席の方を、すかして見ている)
(しばらく前から、バリリン、バリリンと聞えて来ていた三味線※(始め二重括弧、1-2-54)大ざつま※(終わり二重括弧、1-2-55)の音が急調になり、狂ったように激しくなる)

     15 若宮の室

(血まなこになった若宮がフーフーあえぎながら、畳を二枚はがして、その下に敷いてあった書類や株券をカバンにさらいこんでいる。そばには開け放した中型の金庫のわきに、テープをかけた紙幣束が、うず高く積んである。……)
私 (ふすまの外の廊下から)若宮さん。若宮さん!
若宮 (ビクンとして)……だ、だれだ?
私 いや、私だ。
若宮 開けてはいけない! 入って来ちゃ、いけない!
私 私ですよ。(言いながら、ふすまを開ける)どうしたんです?
若宮 あ!(と紙幣束を身体でかくして)困りますよ。どうして、あなた――
私 (相手のけんまくにおどろいて)……どうしました?
若宮 な、なんです?
私 いや……須永、さっきの須永、どこに居るか知りませんか?
若宮 知らない。どうかしましたか?
私 そうですか。いや別に。
若宮 早くなんとか警察に引き渡すとか、なんとか、してくれないかな。あんな物騒な、あなた、何をしでかすか、わかったもんじゃない。わしは、もう――
私 (その辺を見まわして)逃げ出すんですか?
若宮 いいや、わしが逃げ出す筋は無い。しかしこの、とにかく人を殺して来た男だ、又、この――
私 大丈夫ですよ。おとなしい男です。
若宮 おとなしい男が、仮りにも自分の女の父親をしめて、次ぎ次ぎと、あんた――
私 いや、須永は大丈夫です。それよりも省三君に気をつけた方がよい。ひどく気を立てている。
若宮 省三? 省三君がどうしたんです?
私 須永がなにしたのは、自分の好きな女の義理の父だった。あんたは房代さんの父親だ。
若宮 ヘ! そ、そんな、木に竹をついだような。房代はわしの娘だけど、あれは自由に勝手にやっている奴だ。わしとは縁もゆかりも有りゃしない。わしの知ったこっちゃありませんよ。
私 須永の女の父は元軍人で今ブローカアで、国民運動やってた。あなたは株屋で、追放政治家と組んで何かしようとしている。いろいろと、なんか似てる。それに省三君は、ああいう一本気の激しい――
若宮 じょ、冗談! ヘヘ、それよりも、あの須永と言うのを一刻も早く、なんとかして。あんたの責任だ。
私 だから、捜しているんだが――?
若宮 モモコの所か柳子の所だ。あいつはモモコの後をくっつき歩いているし、柳子は眼を釣り上げて、あいつの尻を追いまわしている。へっ!
私 柳子さんは全体どうしたと言うんだ?
若宮 わしの知ってる間だってもう五六年も男っきれを寄せつけなかった女だ。バクチに血道をあげちまって、色気の方はフタをしちまった。フタをしたって、無くなったんじゃない。内にゃ、あんた、クツクツ煮えて溜ってまさあ。そいつが時々ワザをするんだな。須永を見て――ただの須永てえ男だけなら、そんな事あ無いさ。現に夕刊のあれを知るまで何の事あ無かったもの。ヘヘ! 柳子は金をこさえて須永といっしょに逃げる気らしい。
私 嘘だ。
若宮 嘘じゃ無い。現に先程ここへ来て、手持の株から此の家の書類まで全部投げ出して、金を貸してくれと私に――あの権高な女が、この私に頭あ下げましたよ。本気だ。狂ったね女あ。
私 しかし、ああして三味線ひいている。
若宮 あれは、それでも、自分で気を落ちつけようとして弾いてるんだ。気が立ってくると、あの女あ、いつでもああです。(その三味線の音に二人が耳をやったトタンに、それまでズッと聞こえていたその音が大きくなり、ベリベリ、バリンと叩きつけるように響いて、ピタリと止む)
私 …………(そっちに気をとられている)
若宮 ……(ニヤリとして)昔、聞いた事がある。人殺しの兇状持ちの男が洲崎の遊廓に逃げこんだ。

     16 柳子の室

(その深紅のじゅうたんの所が明るくなる。
そこに椅子の上にキチンと坐って、たった今まで弾いていた三味線の、三本の糸がバラリと掻き切れたのを左手に、右手に象牙のバチを振りかぶる様に持った柳子が、何かに魅入られたように一方の方を見守っている。その視線の先のじゅうたんの端の所に須永がボンヤリ立っている。……※(始め二重括弧、1-2-54)この場合の柳子と須永はパントマイム。そして前の場の若宮の室は暗くならず、若宮が私に語る話も、そのまま続けられるので、同時に二カ所で事が進行する※(終わり二重括弧、1-2-55)
若宮 その時もそいつは追いかけて来た人間を三四人も斬っていたそうで、返り血でもって全身血だらけだったそうだ。そのナリで何とか言う大きな女部屋の構え内へ飛び込んだ。騒ぎになった。
須永 モモコさんは――モモコさんは、どこでしょう? ……(柳子は無言で、眼は須永の顔の上に据えたまま、三味線とバチをわきのテーブルの上に置き、片脚を先きにソロソロとじゅうたんの上に降り立つ。それが、エモノを見附けたヒョウが、エモノへ向って音を立てないでしのび寄るようだ。困ってモジモジしはじめる須永)
若宮 (その間もつづけて)女たちはみんなおびえてしまった、ひとかたまりになってちぢみあがっていたが、その中で海千山千の、枕だこの出来たシタタカ者が二人ばかり、どういうわけか、眼の色を変えて、人殺しを追いかけまわしはじめた。(柳子の室では、須永に飛びかかりそうにしていた柳子が、その時、飛びかかるのとは反対に不意にグナリとなったかと思うと、ひっかけ結びにしていた博多の中はばの帯に指をかけて、キュウと音をさせて、バラリとほどく。次ぎに腰紐を。眼はまたたきもせず須永から離さない)血の匂いが良いのかねえ? 商売女の中にゃ、ほかの事じゃツンともカンとも感じねえ奴が、ロウソクのロウの焼ける匂いをかぐとトタンに、うわずっちまうのが居たりするからね。ヘヘ。しまいに両方から引っぱりっこで、兇状持ちも、めんくらったろうて。自分々々の部屋につれ込んで、酒を飲ましたり、かじり附いたり。一方が、一緒に心中してくれとくどくかと思うと、一方は金を拵えるから、それ持って逃げてくれと泣き出したり、いやはや! 狂ったのは男だか、女だか。(柳子の部屋では、その姿でソロソロとじゅうたんを踏んで須永に近づいて行く。須永はびっくりしていたのが、次第に恐怖の色を浮べ、後ろさがりにジリジリと入口の方へ)しまいに、男の方が、怖くなったのか浅ましくなったのか知らないが、二人の女を締め殺してしまったそうだがね。
柳子 (低いしゃがれた声で)あんた! 早く! 早く、あの!(むき出しの白い手を、須永の方へあげる。須永は後しざりをしていたが、ビクッとしてロを開けて声の無い叫び声をあげ、クルリと身をひるがえして、廊下の闇に消える。それを追いかけて行くような姿勢で廊下の奥を見こんでいる柳子。……そこでフッと真暗になって、場面は若宮の室だけになる。若宮の声は続いている)

     17 若宮の室

若宮 ヘッヘヘ。ねえ、馬鹿な話ですよ。気ちがいじみた量見などサラリと捨てて、浮山君がああして首い長くして木の実の落ちてくるのを待っているんだからさ、いい加減にウンといってさ。
私 柳子さんと浮山君は、はじめ夫婦になる筈だったって?
若宮 ここの先代にゃ正妻に子が無いからね、今広島で死にかけてる大奥様の遠縁の浮山君と、大旦那の妾の子の柳子さんをめあわして、後をつがせる話になっていましたさ。途中、嫌って逃げたのは柳子さんでね、浮山はさんざんジレて、ジタバタして、あげくが自棄になって遊び出した。絵かきの仕事も放り出してね。さんざん女狂いをして、そこで立派な一かどの道楽もんが出来あがったと思った時には、まるであんた、当人腑抜けになっちゃってた。ヘヘ、相手が不感症で、片やが腑抜けだもの、商談なり申さず。
私 舟木さんは、すると、この家とどんな関係になっているの? たしか、元の此処の主人側のつながりが有ったし――?
若宮 またいとこか何かの子供ですよ。あれでやっぱり柳子さんにゃ気があるんだ。もっとも、柳子さんにゃ、広島の婆さんが死ぬと、此処の家の相続権が舞いこむからね、この家と柳子と、ソックリまるごと取り込みたいか。
私 まさか、君、そんな――
若宮 ヘヘヘ、此の家なんぞ、ただ見れば唯の家だが、こいでお化け屋敷ですよ。みんなお化けだ。あなたなんぞも、お化けの一人じゃありませんかね? どうです、あなたも、柳子と言う女に野心があるのと、違いまっか? ……(ジロリジロリと、立っている私の足の方から頭の方へ眼で撫でまわして)ならば、いっちょう、手を振って見ますかね? やって見ろ、やって見ろ、落ちると思ったら、どいつも此奴も振って見ろ。おさえる手筋はチャーンとおさえてあるんだ、ヘヘヘ、当ての無え先きものは買わねえんだ、はばかんながら此の若宮は! 五年前に芸者時分にチャーンと柳子の身体にゃ、わしが手をかけてある。ヘッ! こんだ落ちるとなったら、ひとり手に、狂って騒いで、あちこちといくらジタバタしたって、とどのつまりが私の手の中へ落ちないで、どこへ落ちるもんかね! 細工はりゅうりゅう! ハッパあチャーンとしかけてある、アッハ、アッハ!
私 ……(つかれたように喋りまくる相手を、自分に理解できない物を眺めるように眺めているうちに、次第に嫌悪と、次ぎに憎悪で睨みつけていたが、やがてプイと何も言わずに廊下へ立ち去って行く)
若宮 ……(チョイとそれを見送ってから、再びキョロキョロとあたりを見まわし)なにが、くそ! (ガサガサと又、紙幣や書類をカバンに詰めはじめる)
(そこへ、私の去ったのとは反対の廊下から、浮山がヌッと入って来る。これまでの淡々として枯れ切ったような人柄が一変していて、ほとんど面変りしたように眼がギラギラと殺気立っている。入って来るなり、その辺の様子をチラチラッと目に入れ、四角にスッと坐る)
若宮 あ、浮山君。
浮山 若宮さん、あんた、直ぐに――今夜にでも、此の家から出て行ってくれ。
若宮 出て? ……だしぬけに、君、何を言うんだ? どう言うそれは?
浮山 どう言うもヘチマも無い。速刻出て行ってほしい。私は此の家屋敷一切の管理を所有者から委任されている人間だ。それがあんたに命令する。
若宮 へえ、命令するかね? 命令は結構だが、理由は何だね? どう言うわけで私がここを立ち退かなきゃならんのかね?
浮山 あんた自身、胸に手を当てて考えて見りゃ、わかる筈だ!
若宮 さあて、わからんなあ。ここの家の相続権の事かね? ヘ、そんならチャンと婆ちゃんが死ねば柳子さんに来る事になっているし、一部分が舟木さんの権利になることもハッキリしている。そうさ、その柳子さんの法定後見人はわしだ。しかしそいつは前から決っていた事だ。今夜急にどうこうと言う事じゃない。どう言うんだね?
浮山 どうもこうもない。だまって出て行ってくれりゃいいんだ。あんたのような毒虫をいつまでも此処に置いとくとロクな事はない。
若宮 毒虫と? ははん、さては君、舟木にたきつけられたね? わかった! しかし気を附けた方がいいぜ。舟木って奴あ、腹の底の知れない奴だ。君なんぞにゃ、うまい事言ってるだろうさ。どうせ君は、広島の婆さんの遠縁と言う事で管理こそ委されてはいても、いざ婆さんがくたばれば、柳子はもちろんの事、死んだ大旦那の縁者の舟木よりも発言権は薄くなるんだからな。舟木にとって目ざす敵は柳子とその後見してる私だ。私さえ追い出せば柳子はたかが女だてんで、ヘヘ、君あ舟木から抱き込まれたね?
浮山 舟木君の事なんかどうでもいいんだ。柳子さんは、さっき、書類一切と実印まであんたに預けたそうだな? 柳子が言ったから否やは言わせない。
若宮 ははん、そうか? 預かりましたよ。悪いかね? 金を三十万ばかり今夜中に拵えてくれと言うんだ。そいつは困ると言うと、そのカタに此処の家屋敷の公式の証書類一切と実印をあずける。後はなりゆきで、どう処理してくれてもよいと言う。ヘヘ、つまり事と次第でわしに権利一切を譲るって事だなあ。
浮山 金は、それで、渡したのか?
若宮 渡そうかと思って、掻き集めて見ているとこさ、こうして。三十万にゃ、すこし足りない。
浮山 柳子はその金でどうする気だ?
若宮 そいつは、わしの知った事じゃない。なんでも、此処を飛び出して、どっかへ逃げる気らしいね。
浮山 え、逃げる?
若宮 ヘヘ、あんたもボヤボヤしていると、とんだトンビに油あげさらわれる。気をつけた方がいいね。ヘヘ、ああ出て行きますとも。誰がお前さん、こんな化物屋敷にいつまでも居たい事があるもんか。出て行くよ。しかしねえ、あたしが此処から出て行くと、あと、どんな事になるか御承知でしょうね? ヘヘ……(ヘラヘラ笑っているのが、なんの気もなく廊下の方を見て、ギョッとして、口を開いたまま、言葉が出なくなる。あまりの変化に浮山もびっくりして、廊下の方を見ると、そこに須永が立っている。……間。凍りついたような一瞬。……須永は、遠慮っぽい態度で若宮と浮山を見ている)
若宮 わあッ! (と、いきなり飛びあがるや、腰を抜かしたように、両手をうしろに突いて、床の間の方へ、ワクワクとにじりさがりながら)……た、助けてくれ! 助けてくれ! こ、こ殺さないでくれッ!
須永 いえ、僕は、あの……(言いながら、無意識にあわてて、不当に自分を怖れる若宮の狼狽をとめにでも来るように入って来る)
浮山 須永君!
須永 どうか、あの、許して下さい。僕は、ただ――
若宮 助けてくれッ! 助けてくれッ! 殺さないで、殺さないで下さいッ! (さがって行った床の間の袋戸に手を突っこんで、もがいている)
須永 ……(その若宮の奇怪な姿を見ているうちに、微笑する。その微笑の中に、はじめて、何か残忍な憎悪の影が差す)……殺す?
若宮 殺さないで下さいッ! 殺さないで――(叫んでいるうちに、手にふれた袋戸の中の物を引き出して、スラリと抜いて突き出している。道中差しの日本刀。黒いサヤから引き出された刀身がテラリと光ってブルブルふるえている)
須永 ……あぶないですよ、あの――
若宮 あぶ、あぶ、あぶ……(歯の根が合わない。刀を須永に向って突き出したまま、眼は裂けんばかりに見開いている)
浮山 若宮さん! 須永君!
須永 ……(フッと我れに返って。浮山を見て)あの、モモコさんどこでしょう?
浮山 モモコ? モモコは、さあ、……、塔の上じゃないかな?
須永 そうですか。……(まだ何か言いたそうにするが、言わず、チラリと若宮に目をやってから、スタスタと部屋を出て行く)
(間。……そのままジッとしている若宮と浮山。若宮は胸が苦しいと見え、左手で胸をおさえて、刀は握ったまま石のようになっていたのが、力を出し切ったと見えて、ゴロンと横に倒れる)
浮山 ……若宮さん、どうした?
若宮 なあに。……ちきしょう、気ちがいめ! だから、一刻も早く警察に引き渡しゃいいんだ。ふう! ふう!
浮山 ……(それを見ているうちに、はじめてフテブテしくニヤリとして)あんたも、しかし、いいかげんにするがいいなあ。変な、あんた、慾をかいて、なにしていると、間も無くあんた死にますよ。
若宮 ふう! ヘッ! 嫌がらせかね? ヘヘ、(と息も絶え絶えだが、口はへらない)死ぬのは広島の婆さんで、わしじゃないよ。わしは、まだ百まで生きてるつもりだ。ヘ、婆さんが死んだとなると、この家屋敷あ、柳子とわしの手に転げ込んで、君なんざ、往来なかへ、おっぽり出されるからね。気がもめるわけさ!
浮山 知らないんだなあ。あんたはね、自分では腎臓が悪いと思ってるが、その腎臓よりも、しかしホントは心臓だと言うじゃないですか。ヘヘ、舟木さんが、この前診察した後で言っていた、心筋変性症とかのひどいので、梅毒から来た心臓の筋肉がどうにかなっちゃってるから、今度、発作が来れば、明日にでもゴットリだそうじゃないかね。
若宮 ヘ、なあにを言う! 香月先生なんざ、そんな事あ絶対に無いと言ってるぞ。博士だよ香月先生は。博士が、腎臓がチョット悪いだけで心臓のシンも言やあしない。その証拠に薬一服くれやしないんだ。ヘ、何を!
浮山 薬をのんでも無駄だから、くれないんだよ。舟木さんがそう言ってますがね。
若宮 その手を食うかい! とんだ道具はずれを叩いといて、その隙に場をさらおうと言う量見だろうが、ヘッ、三十年から株できたえた若宮を見そこなってもらうめえ!
浮山 その証拠に、たったあれだけ動いただけで、そうやって伸びちまっているじゃないかね。胸が苦しいんだろう? 悪い事は言わない、柳子の書類や実印は柳子に返してだな、ここを出て、どっかアパートにでも行ってくれる事だなあ。なんなら、私がアパートぐらい捜してやってもよい。あんたにゃ、房代と言う立派な娘さんも居るしさ。フフ、立派……とまあ、パンパンだって、これで、高級になれば今どきでは立派なもんだからね。娘を稼がせて、あんたあ左うちわじゃないかね。
若宮 大きなお世帯だ! この――(と、やっと起きあがって)そいで、浮山君、君はどうしようと言うんだ?
浮山 わたしは柳子を女房にして、ここで暮す。
若宮 ヘ! お前さんが柳子を女房に、どうして出来るね? 笑わしちゃいけません。知らねえと思っているのかね?
浮山 なにい! (立ちあがる。真青に怒っている)
若宮 ヘッヘヘ、ヘッヘ! なあんだ、来るのか? 柳子から、わしあ、なんでもかんでも聞いているんだ! ヘヘ、君がコーガン炎の手術の手ちがいで、そん時以来、男じゃなくなっている事まで知っていますよ。
浮山 ちきしょうッ! (若宮の方へ突進して行く)
若宮 (フラフラと立ちあがり、刀を振りまわす)来て見ろ、腎虚め!
浮山 野郎! (と、ポケットから掴み出した。センテイ用のスプリング・ナイフの、スプリングをパンと押して、ギラリとした刄を出す)
(雙方で刄物を構えて立ちはだかる。……)
モモ 叔父さん。……(いつの間にか、廊下の所に来て立って、細い首をさしのべるようにして、室内の様子をうかがっている)
(浮山も若宮も睨み合ったまま、それに答え得ないでいる)
モモ どうしたの、叔父さん?……

     18 食堂

(椅子にかけた私に向って織子が懸命に、ほとんど祈らんばかりに訴えている)
織子 お願いです! あなたから、おっしゃって下さい。あなたから言われれば舟木は聞くかもしれません。いえ、聞かなくても、自分のしようとしている事を多少は控えるかもしれないのです。私は恐ろしくてもうジッとしていられないのです。
私 すると……しかし、あなたはこれまでズーッと舟木さんがそう言うつもりでいるらしいと思っていられたわけなのに、それでも今まで黙っていられたのに、今夜急に、そのジッとしてはいられない――で僕に言われると言うのは、どうして――?
織子 どうしてだか、私にもわかりませんの。不意に我慢が出来なくなったんです……あの須永さんて方を見たせいかも知れません。
私 須永を? だって、あれは、ただ――
織子 あの方を見ていると、なにか、地獄へひきずりこまれるような気がします。……いえ、反対に、あの、地獄の中へ降りて来た天使を見ているような気もします。
私 それは、だけど、あなたはクリスチャンだから、そんな風に思われるかも知れませんが、あれは、つまりが犯罪者で――
織子 いえ、それだけではありません。舟木もそうなんです。舟木は、どういうんですか、さっきからしきりと薬品棚の劇毒剤の整理をはじめています。今まで夜中にあんな事したことは無いのです。……恐ろしいのです私。
私 ……ふむ。
織子 ですから私、さっき、もうこんな家など、どうでもいいから打っちゃっといて、明日からでも、どっか引越してしまいましょうと言いますと、舟木は何も言わないで私を睨みつけたまま、手を休めようとはしません。このままで居ると、今夜何がはじまるか、わからないような気がします。
私 しかし私には、知り合ってからまだ日は浅いが、舟木君がそんな事を考えている人だとは思えません。
織子 私も永いこと疑いながら、そうは思いきれませんでした。しかし近頃では、そうとしか思えなくなったのです。それに舟木には舟木としての信念、と言いますか、医者としての、舟木の側から言わせると正しい考えから出発している事らしいのです。この家屋敷が自分の自由になったら、此処に大きな新式のサナトリアムを建てると言うのです。そして貧乏な人達を相手に実費診療の事業を始めると言うのです。大学の助教授をよした時から舟木の持っている理想なのです。つまりあの人の夢です。実は、その舟木の夢の美しさに引かれて、私は、あの人と結婚したようなものです。……そいで、舟木は、その話を此処の伯父さん――つまり、亡くなった此の家の御主人――その人の、またいとこだかの子供が舟木ですから、ホントの続きがらは、どう言えばいいんでしょうか、とにかくほんの少しばかり血のつながりがあります――伯父さんに話したらしいのです。その伯父さん言うのが又、えらい役人でいながら、どこか神がかりみたいな、理想肌の方だったそうで、舟木のそう言う話にひどく共鳴して、むしろ焚きつけたらしいのです。いよいよサナトリアムを始める時には、此の邸宅全部を提供すると言ったらしいのです。その事を書いた伯父さんからの手紙も舟木持っています。舟木には、それだけの理由があるのです。舟木はそして恐ろしい程意志の強い人間です。自分の夢、自分の理想を実現するためには、どんな事でもやりかねないのです。しかも自分のやろうとする事は、社会的に絶対に正しいと思いこんでいます。その正しい事を妨げる者は、みんな悪い。そうでなくても、広島で寝ている伯母さんや、柳子さんや若宮さんや浮山さんなど、世の中にとって、まるで有害無益の人たちだと言うのです。虫けら同然だと言うのです。犯罪にさえならなければ、みんな殺してしまっても差しつかえないんだと言ってた事があります。……自分の夢を実現するためには、そこまで思いこんでしまう人です。そういう点、ああして弟の省三さんとは始終議論して真反対のようですけど、それは現われ方が違うだけで、省三さんはああして政治的なことで、まるで気ちがいのように夢中になっている、舟木はそのサナトリアムの夢にとりつかれている――やっぱり兄弟なんです。
私 それは、しかし――夢は誰にも有ることで、そのために人を殺しでもしたいと思うことは有っても、実際に於て殺しはしないのですから――
織子 それがホントに殺すんじゃないかしらんと、今夜チラッと、そんな気がしたんです、舟木を見ていましたら。いえ、須永さんを見ていたら、と言った方がいいかしら。とにかく、そんな気が私、したんです。
私 誰をです? 誰を殺す――?
織子 誰かわかりません。今夜の舟木の眼を見て下さい。須永さんは、やさしい眼をなすっていますのに、舟木は恐ろしい眼をしています。
私 ……それは、しかし、あなたの敏感な、クリスチャンらしい一種の――幻想というか、いや、今夜のここの空気がいけない。須永が、来たのが、いけない。なんとかしますよ直ぐ。――とにかく、そんな事におびやかされたあなたの神経、つまり一時的なヒステリイが描き出した幻想ですよ。舟木君のような冷静な科学者が、そんな――
織子 いえ、まるで冷静に落ちついて、どんな事でも出来る人なんですの、舟木は。しなければならないとなったら、落ちつきはらって、私たち全部でも、夕飯の中にストリキニーネを入れて毒殺してしまえる人です。
私 僕は人格的に言っても舟木君がそんな人だとは信じられません。仮りにもそんな人が、ロクにお礼もあげない、あげられない事のわかっている僕んとこの、死んだ家内の治療に、あんなにけんしん的に、あんな遠い所へ通って来てくれる筈がありません。
織子 逆です、それは。あなたが、お礼も出せないほど貧乏だったから、舟木は奥さんの手当てに夢中になったんです。小さい時分から青年時代へかけて非常に貧乏な家に育ったために、貧乏な人には病的な位に同情するんです。サナトリアムのこともそこから来ていますし、或る意味で省三さんより激しい貧乏人の味方かもしれません。現われ方がちがうだけです。そういう人なんです。もちろん、あなたや亡くなった奥さんが好きで、好意持っていたからではあるんですけど、もしお宅がお金持だったら舟木はあれほど熱心にはならなかったでしょう。そう言う人間です。私は十年近く舟木に連れ添っています。腹の底から舟木を知っています。
私 …………しかし――(次第に恐怖が全身を占めて来て、手に持ったシガレットを吸うのを忘れて、遠くの闇を見つめている額に冷たい汗がにじみ出て来ている)
織子 どうにかして下さい! 舟木にあなたから、そうおっしゃって、此処から、どこかへ――今夜にでも、舟木を御一緒にどこかへ連れ出しでもして下さるか――私、ズーッと自分の部屋で今まで祈っていましたけれど、今夜は、どうしても私、神さまが見えて来ないのです。見失ってしまいました。気が変になりそうですの。……ほかに仕方が無いので、こうしてお願いするんです。おすがり出来るのは、もう、あなたしか有りません。
私 そう言われても、私にも、どうしてよいか、まるでわからない……。
(そこへ、ワンピースの胸の所をビリビリに裂かれて、ミゾオチの辺まで見える取り乱した姿の房代が、おびえ切ってソワソワと、背後の闇を振り返りながら入って来る。そこにある椅子にドシンと突き当る)
房代 あっ! (自分でおびえて叫ぶ)
私 どうしたんです?
房代 あたし、怖い!
織子 ど、どうなすったの? どうなすって、その服?
房代 ああ、織子さん! (と抱き附くようにすり寄って)どうにかしてちょうだい。怖いの! (ふるえている)
私 ……須永が、じゃ、あんたに、何か――?
房代 もっと殺さなきゃならないと言うんです。私の父も殺してやるとそう言って――
私 ……え? 若宮さんを? どうして?
房代 どうしてだか、わからない。毒虫だと言うんです。この世の中の毒虫は全部殺してしまえ、俺が殺してやる。……かと思うと、たしかに殺したのは自分だと言うの。ズーッと殺そうと思っていたのだから、確かに自分が殺したのだ。おれたちを圧迫し、植民地化しようとする奴等を全部殺せ。殺さなければ奴等がおれたちを、しめ殺す。全体、どんなわけが有って、お前たちは原子爆弾を最初に日本に落したのだ? そんな事をしなくても、あの頃すでに日本は戦争を続ける力を失ってしまっていて、捨てて置いても間もなく降伏するばかりになっていた、のに、どうして、どんな理由であんな悪魔の爆弾を広島・長崎に落したのだ! そう言ってわめいて、そして、その、そいつらと一緒に寝ているのが貴様だ! その恥知らずがお前だ! そう言って私の首をしめにかかるの!
私 ……須永が、あなたを?
房代 え、須永さん――?
私 ですから――
房代 いえ、省三さんです。
私 ……ああ。
織子 でも、省三があなたに対して、そんな失礼な――どうしたんでしょう?
房代 まるでもう、いつもと違うんです。気が変になったんじゃないかしら?
私 須永を見ているうちに、自分の内に眠っていたものが、省三君の中で眼をさました。……省三君だけではない、みんながそうだ。
房代 どうしたんでしょうホントに? なんか、とんでもない、恐ろしい事が起きるのじゃないかしら? 怖いわ私! (織子に抱きつく)モモちゃん、どこかしら? あの子だけだわ、いつもと変らないのは。
織子 (私に)どうすればいいんですの、私たち? 言って下さい。どうすれば――
(そこへ舟木がノッソリ入って来る。手に注射器の入ったケースと幾種類もの注射薬の入った小箱をわしづかみにして持っている。態度は落着いているが眼だけは異様に光っている)
私 ああ、舟木さん。
舟木 ……(ジロリと三人を見まわして)須永をどうします?
私 ……しかたがない、警察にそう言ってやらなくちゃなるまいと――
舟木 そう。今頃はもうあんたの事がわかって、この家に対して手配が附いているかも知れない。とにかく、早くなんとか処置しなければ、この家の中でロクな事は起きない。柳子さんの様子など、少しおかしい。
私 おかしいと言うと?
舟木 あんたも気が附いているだろう、かねてあの人にはプシコパチヤ・セクシュリアスが有る。大きなショックがあると、変な分裂が起きて、それが元へ戻らなくなる事があり得る。少し鎮静させてやろうと思って、これを――(と注射器を示す。その銀色のケースが、何かの凶器のように光る)
織子 あなた! でも、あの、あなたも、もっと落着いてから、あの――
舟木 私は落着いているよ。
織子 でも、あの柳子さんの事は――いえ、もうあの、もう、あなた、お願いですから、およしになって下さい! 私たち今夜にでも此処から出て行きましょう!
舟木 なんだ? 何を言っているんだ? ハハ、お前こそ落着きなさい。真青な顔をして眼が充血している。(寄って行き、手のひらを妻の額に当てる。当てられて、織子、ふるえあがる)……熱も少しある。どうした、寒気がするのか? ……昂奮しすぎる。お前にも一本さしてあげようか?
織子 い、いいんですの、いいんです! お願いですから、あなた、もうサナトリアムなど、私たち、どうでもいいじゃありませんの? 私たちはこのままで、今のままで幸福なんですから、あの、そんな事はお考えにならないで此の家を出て、あの――
舟木 サナトリアムがどうしたんだよ?
私 舟木さん、あんたサナトリアムを立てるというのは、本当ですか?
舟木 う? そう、事情が許すようになれば是非やって見たいと思っていますよ。まあ、それだけのために、今の変な病院なんかにも、がまんしてつとめているわけでね。現在の日本のそう言った施設など、ちょっと来て見ればわかる。実にもう成っていないんだ。たとえばサナトリアムだけを取って見ても、大体、テーベーに対する局所的な、しかも主として対症療法を、主として、結局一言に言うと、クランケを唯寝せとくと言うのが大部分ですよ。ホントは、ホントのサナトリアムと言うものは、人間の生命全体、と言うよりも人間が生きるという事全体の意味と方法を掴むための実際的指導をする所でなければならんのだ。病気が治っても、人間として廃人が出来あがっても無意味なんだから。それを今の大概の医者は忘れている。テーベーのホントの処理は、テーベーだけの範囲のことを、いくらいじって見ても、結局は何の答えにもならない。私はそう思う。私は自分のサナトリアムで、全く新らしい、つまり、人間が生きると言う事全体の中での一プログラムとしての病気と言うものを――だからテーベーとは限らないんだ――そいつを考え、解決して見たい。そこから――(いつの間にか熱中して話しつづける。調子がいつもの舟木と少しちがう)
織子 もうよして! お願いですから、もうよして下さい!
舟木 なんだ?
私 しかし、どんな冷静な科学者にもパラノイアは有り得る。
舟木 うん? ……(ジロジロ私を見て)それは有り得る。
私 狂人を診察している医者が、その狂人よりも深く狂っていると言う事だって、あり得ない事ではない。
舟木 うん、そりゃ……あんた、何を言う気だ?
私 此の家の相続権は、広島の老人が死ねば柳子さんに来るそうですね?
舟木 そうのようだな。
私 ……そして、あなたにも、多少権利が有る。
舟木 いや私のは権利と言うよりも、非公式な、ここの元の主人の手紙だとか何とか、遺言書ではないから、表面上の効力は無いだろう。しかし実質的には、一番強い権利があるとも言えない事はない、私が主張する気になれば、全部譲渡すると言う伯父自身の自筆の文書なんだから、さて、しかし、どんなもんだか――とにかく、いずれにせよ、広島の伯母はまだ生きているし、柳子さんと言う人もいるし、まだまだ先のことで、現在問題にはならんだろう。ハハ、しかし、なぜあんた、そんな事を言うんだ?
私 いや僕は別に。ただ、奥さんが、心配なすっているもんだから――
織子 お願いですから、あなた! もう私たち、ここを出ましょう! いいじゃありませんの、そんなサトナリアムだとか何とか、どうでも――私は、怖いんです!
舟木 ああ、(私に)これはクリスチャンです。クリスチャンには、大概、一種の被害妄想――ではない、自分も他人も年中悪を犯しているような、罪を犯してるような気がしている。そのコンプレックスのちく積を裏返しにしたものが神だ。だから逆に神の存在そのものが、そんなコンプレックスを生み出す第一の固定観念なんだな。ハハ!
織子 笑うのはよして下さい! お願いですから――
(そこへ、着くずれた着物のままで、若宮がヨロヨロしながら入って来る)
房代 あ、お父さん、ど、どうしたの?
若宮 ……(眼をキョトキョトさせて)うむ。舟木さん、どこだ?
舟木 私はここに居る。どうしました?
若宮 やあ。あんたに私あ――私あチョイと聞きたい事がある。チャンと返事をしてほしいと思う。本当の事を聞かしてほしいんだ。
舟木 ……なんだろうか?
若宮 あんた、私のからだの事で浮山に言ったそうだな? ホントは心臓も悪い。心臓の方が悪い。もう永いことはない。……そう言ったそうだな? ホントかね、それは? 聞かしてほしいんだ。
舟木 たしかに言った。しかし、それは、医者としての所見で――それにあんたは私の診断など信用しないのじゃなかったかな?
若宮 わしも若宮だ。そうと決まればジタバタはしない。そうと決まれば、これでチャンと整理しとかなきゃならん事がある。
舟木 医者の診断も誤る事があるよ。仮りに誤りが無かったとしても、医学と寿命とは別だ。しかし医者はやっぱり医学を信ずる以外にないもんだから、言えと言われれば医学の命ずる所に従って言う。あんたが――
若宮 チョイ待った。いいかね。舟木君よ、あんたと私とは敵同志だ。いやいや、ハッキリ言った方がいい。柳子というものを間に置いて、お互いスキがあったらぶっ倒して此処の家を乗り取ろうと、腹ん中で爪をとぎ合っている同志だ。ヘヘ、実際そうなんだから、そう言ったっていいじゃないですかい? それが人間だもん。ヘヘ、その君に、その敵の君に、敵の俺が、ホントの事を聞かしてくれと言っているんだ。わかるかね? つまりだな、君は自分の診断の言い方ひとつで、この俺をいっぺんにぶっ倒すことだって出来るんだ。わかるかね? ひとつ、ぶっ倒して見るか? ヘヘヘ、そいつを俺がチャンと知っているって事を言っといてから、聞こうじゃないか。九寸五分はチャンと君に預けて置くってことさ。君も悪党だ。そうだろ? わしもそうだ。相手にとって不足はねえと思っとる。悪党なら悪党らしい勝負をするね? そう思ったから、わしあ、わざとこうして君の診断を聞こうてんだ。悪党同志と言うものは、これ、可愛いもんでね。お互い、卑怯な事は出来ねえんだ。道具はずれを叩いたり、小股をすくったりはしねえ。勝負は勝負、附き合いは附き合いで、ハッキリ別々にする。わかるかね、俺の言うこと? 君の診断をわざわざ聞きたいと言うのは、そういう次第だ。今こそ俺あ、ほかの医者の言う事より、君の言う事を信用する!
舟木 なんの事だか、あんたの言う事は、よくわからんが、医者は医学に忠実である以外になんにも考えないものなんだから――
若宮 ホントの事をピタッと言ってくれ。へたに俺を憐れがったりして、嘘を言ったりしたら、お前さんをわしは軽蔑するぜ。
舟木 しかしどうしようと言うんだ? 結局同じ事なんだがなあ、知っても知らなくても。知らないでいる方が幸福なら知らない方がいいんだがな。どんな強い人間だって、むき出しの真実には耐えきれるもんじゃない。
若宮 ヘヘ、四十年、勝負一本に身体を張り通して来た若宮だ。丁と出ても半と出てもビクともするこっちゃねえ!
舟木 よした方がいい。悪い事あ言わない。
若宮 さあさ、ズバッと言ってくれ!
舟木 むきだしの真実をどんな人間でも真正面から見てはいけない。
若宮 言えッ! 君も悪党じゃねえか! (つかれたように舟木の眼を睨みつけている)
舟木 いや私は医者だ。……(言いながら、若宮の眼を冷然と見返していたが、フッと薄く笑う)
若宮 ケイベツするぞっ!
舟木 聞かない方がいいんだがなあ。……(又ニヤリと笑う)
若宮 そ、そ、それじゃ、やっぱり、もう、いけないのか?
織子 ……(それまで二人を見守りながら、ふるえていたのが、不意に舟木にかじり附いて)な、なんにも言わないで下さい! あなた、そんな、怖い! 言わないで!
若宮 ホントの事を言えいッ!
舟木 ふ! 私の診察に依ると――
織子 言わないで下さいッ!
若宮 すると、すると、どう手当をしたらいいんだ?
舟木 病気は永い。それに、君は気ばかり強くて、これまでチャンとした医者の診察を受けないで来ている。今さら手当てをすると言っても。……大事にしていれば、まだ半年、いや三月ぐらいは――
若宮 み? ……
舟木 アッタッケが来れば、今すぐにでも、転機を取る。……昂奮を避けることだ。……言えと、無理に言えと言うから言うまでだ。それ以上は私にはわからない。医学が私にわからせてくれただけを言うまでだ。あんたには、もう久しく手足にムクミが来ている。それをこれまで君が相手にした変な医者は腎臓のためで片づけて来た。いや、医者なら、いくら変な医者でもそれ位わからない筈はないから、心臓のことは言っても無駄と知って言わなかったか。それから、手の爪を見たまい。ほとんど黒い位のチヤノーゼが来ている。強度のアリトミイ。
若宮 …………(呆然と、言われるままに両手の指先を眼の前に持って来て爪を見る)
舟木 来れば狭心症で来るから、その時にはベクレムング――胸が苦しくなって、油汗が出て来る。
若宮 …………(立ったまま胸をかきむしりはじめる)
舟木 いやいや、今そうなると言うんじゃない。ただ医者として――いや、僕の診断も絶対に正しいかどうかはわからない。ただ、とにかく、言えと言うから、正直に自分の診た所を言っているだけで、直ぐに明日でも、出来たら今夜にでも、他の医者の診察を受けるように忠告するね。もし私の診断が誤っていたら、こんなめでたい事はないわけで、私もうれしい。ただ私は医学を曲げるわけに行かないだけだ。
若宮 …………(フラフラ身体がゆれはじめ、視線が全く空虚になり、顔中に油汗を流し、それでも舟木を見守ったまま、しばらく立っていたが、やがて、クタッとなり、床の上にくずれ落ちる)
房代 お父さんっ! お父さんっ! しっかりして下さい! お父さん、しっかりして!
織子 (舟木のそばからジリジリと身を離して)あ、あなたは、恐ろしい人です! あなたは恐ろしい人です!
舟木 だから私は何度も言った。それを、どうしてもホントの事を言えと言うから、言ったまでだ。
房代 お父さんっ! お父さんっ! 房代です! わかりますか! すみません、お父さん! 私はあなたの娘です! しっかりして下さい! お父さん! お父さん!
織子 (舟木に、遠くから)あなたは、気ちがいになったのです! あなたは恐ろしい人!
舟木 (冷笑)恐ろしいのは科学だよ。真実だよ。ふふ。……(ヒョイとわきを見ると、先程から一言も言わないで、眼をランランと光らせてこちらを見守っている私に気づく。これに向って微笑して)ねえ、真実を冒してはならない。弱い人間が真実のヴェールをどけて、冒してはならないんだ。そうだろう? ふふ。
私 …………(相手の笑いに乗って行こうとはせず、強い眼の力で、いつまでも舟木を見つめている)
(恐怖と憎悪で、室の隅から夫を見守ったまま石になっている織子。房代は、この女から予期することの出来なかった愛情のあるこまごまとした動作で、失神している父親の胸を開いてやったり、手をこすってやったりする)
房代 あの、舟木先生! なんとか手当てをして下さって! あの、注射でも、どうか! お父さん! お父さん!
若宮 うーむ。うう。
(そこへ、激しいピストル発射の音がバンと響いて来る)
私 う? ……(その方へ耳をやる。他の三人もハッとしてその方を見る。しばらくシーンとしていてから、もう一発、今度は明らかに下の方からの発射音。同時に暗くなる)

     19 地下室

(十文字にぶっちがいになっている支柱と横ゲタの所が、天井にとりつけられた円筒のシェードを持った電燈の光で、円錐形に照し出される。その光の中に、須永と柳子とモモコ。
須永は白いシャツの胸や袖がズタズタに破れ、ズボンの片方も腿の所が大きく裂けた姿で、疲れ切って、それでもまだ逃げ出そうとするような姿勢で、中央の支柱にかじりついて立ち、ハアハア喘いでいる。それがチョット十字架にかけられた姿のように見える。柳子は、細帯一本のしどけない姿の、首から背筋のあたりまで、こちらに見せて、下半身は後ろに投げ出し、両腕をひろげて須永の両膝を支柱ぐるみ、ヒシと抱き、顔は須永の膝の間に埋めたまま動かない。一瞬前まで息せききって柳子が須永を追いかけまわしていた事が一目でわかる姿で、フットボールの試合でボールを追って横っ飛びしかけた選手を敵の選手がタックルした瞬間に、画面がピタリと停ったのに似ている。円錐形の光の輪の端の所に、モモコが両手で握ったピストルをこちらに向けて立っている。しばらくシーンとする)
モモ (ピストルを発射したのが嬉しくてたまらぬように、軽い明るい笑声を立てる)ハハ、ハハ、ハハハ!
須永 (あえぎながら)もう、かんべんして下さい! もう、かんべんして下さい! (明らかに柳子に向って言っているのだが、柳子はそのままの姿で動かず、死んだように返事もしない)
モモ ……(耳をその方にやって)どうしたの須永さん? タマが当った?
須永 許して下さい。
モモ 許す? どうして、須永さん? なんで柳子おばさん、あなたを追っかけるの? ……おばさん、どこに居るの? (左手をピストルから離し、それで手さぐりにソロソロと前に進みかける)
(そこへ階段をガタガタと駆け降りて、浮山を先頭に、舟木、私、織子、それから省三が入って来る。一同この場の異様な様子を目に入れるや、アと声の無い叫びを出し、光の輸の[#「輸の」はママ]りんかくの所で一瞬立ちどまってしまう。……短い間)
浮山 モモコ、なにをする! (モモコを突きとばして置いて、倒れている柳子の方へ駆け寄る)どうした柳子っ?
モモ なんなの、伯父さん?
私 モモちゃん、それ、およこし。(ユックリとピストルをモモコの手から取る)
浮山 柳子、どうしたっ? おいっ!(須永の膝を抱きしめている柳子の腕をこじ開けるようにしてはずして、グタッと前のめりに伏してしまいそうになる柳子の身体を、肩をつかんであおのけにする。気を失った柳子の青白い顔、口のはたに白いアワを附けている)
織子 (寄って行き)柳子さん! 柳子さん!
浮山 どこだ? どこを――(と、胸と腹に弾きずを捜す。無い)
舟木 ……(無言で寄って行き、これも胸や横腹に手をかける)
浮山 よせっ! (いきなり歯をむいて、舟木の手を払いのける)手をふれるな! こいつは、俺の女房だ! さわるのは、よせっ!
舟木 う? (失神した柳子の、はだけた胸の上で、二人の男の、全く動物的な眼が切りむすぶ。……舟木の顔に残忍な冷笑が浮んで)俺は医者だよ。
浮山 ち!
私 (その舟木につかみかかりそうな浮山の肩を掴んでとめる)浮山君、よしたまい!
舟木 ……(ジロリと浮山を見て、かかって来ない事を見て取って、眼を柳子に移し、膝を突き、手の脈を取り、右手で柳子のつぶった眼ぶたを開いて、覗きこみ、それから、腕の関節を垂直に立てて置いてから、手を離して、腕がストンと床に倒れるのを見て)……ピストルではない。エピレプシイ型の発作だ。(身を立てて私を見る)遺伝的に、それが有るんだ、此の人には。しかし本式のテンカンじゃないだろう、今のこれは。一種のオルガスムが来ている。(ニヤリとして須永を振りかえる)何をしたの、君は?
須永 ……(柱にもたれてグッタリしていたのが、恥かしそうな弱々しい声で)僕は何もしやあしません。ただ柳子さんが、なんだか、僕に飛びかかって、むしり附いて来て、一緒に逃げようと――
舟木 逃げる? じゃ逃げるんだね、君は? (言いながら、ポケットから注射器のケースと注射薬の小箱類を取り出して、手早く注射の用意をしている)
須永 いや僕あ別に――柳子さんがそう言って――
省三 逃げるなら、早くしなきゃ。
私 逃げてどこへ行くんだ?
須永 行くところはありません。
私 それで、何をするんだ?
須永 する事は、なにもありません。
浮山 君は人を殺した。犯罪者だ。
須永 殺しました。犯罪者です。
モモ 須永さんは人なぞ殺さないわ。
織子 ああ、よして下さい! あなた、それはよして!
(これは柳子の腕に注射をしようとしている舟木に言ったのである)
舟木 どうしたんだ。
織子 よして下さい! そんな、あなた、よして!
浮山 よしてくれ! よしてくれ! 君と言う人間は何をするかわかない!
舟木 一本注射を打って人間を永久に狂人にする薬はまだ発明されていないよ。又この場でこの人が死ねば、君たちが証人で、俺はしばられる。ハハ、強心剤と鎮静剤を打っとくだけだ。(ニヤリと一同を見まわしてから、注射する)
織子 あっ! (自分が注射されたように全身をビクンとさせる)
省三 上にかついでいこう。
舟木 いや、いっとき、このままにしとく方が良い。……(注射器をしまいながら)織子、お前はそれほど俺が信用できないのか?
織子 わかりません。ただ、私は怖いの。
舟木 俺がかね? ……それなら離婚してもいいよ、お前は以前から、神さま以外は誰も信用しないし、誰も愛さない。人間は誰も彼もお前にとっては、いかがわしい、疑わしいものなんだ。俺もいかがわしい人間だ。しかし、ほかの人と、それほど変っちゃいないよ。大概こうだよ人間は、慾と野心のかたまりだ。それを許さないのは、お前の神さまだけだ。お前が俺を怖いならば、俺はお前の神さまが怖い、つまりお前が怖いとも言える。遠慮はいらないから、出て行ってくれ。
私 つまらない事言うのはよそう、舟木君。気が狂ったのではなかろう?
舟木 存在しているのは時代々々のノルムだけだと言っただろう? 俺が狂人でないと言う証拠は、どこにも無い。二十世紀の人間は一人残らず、十六世紀の人々の前へ連れて行けば、狂人さ。
省三 兄さんの愚劣な、猿のニヒリズムだ!
舟木 俺が猿なら、お前は豚のだろう。マルキシズムなどを、ギリシャへ持って行って見ろ、いっぺんに狂人の思想だと言われる。
省三 又言うか、猿! (兄に迫って行く)
須永 ……(さき程から一同のまんなかに立たされて、皆の話をオロオロしながら聞いていたが、この時、しゃがんで、膝を突いてしまって)どうか、あの、許してください。僕が悪いんです。僕がここへやって来たもんだから、――僕がいけないんだ。許して下さい。僕はもう出て行きますから。
モモ ちがってよ! 須永さんが来たからって、誰も――いえ、みんなふだんより正直になっただけだわ。
浮山 モモコ、お前はだまっていなさい! 須永君は殺人を犯している。
モモ ほかの人だって何十万人と言う人を殺したのよ。
浮山 それは戦争だ。戦争は互いに武器を持ってする事だから――
モモ だって広島では、だあれも武器なんて持ってはいなかったわ。あたしは公園の砂場で泥でオダンゴこさえていたのよ。そこい、ピカドンおっことした人が悪くない?
省三 モモちゃんの言う通りだ! 審判を下し、悪をきゅうだんし得るのは誰かと言う事だ! 千人殺した人間が三人殺した人間を審判する事が出来るのか? モモちゃんに答えて見ろ! チャンとモモちゃんに答えてから、その後で須永君を罰するがいいんだ!
須永 (弱りきって、膝を突いたまま、何度も頭を下げる)いいんだ省三君! 頼むから。モモコさんも、そんな風に言わないで下さい。お願いだ。僕はもう死んだ人間です。それが、ヒョッと此処へ来て、そして、僕は急に、自分が急に、なんだか、はじめて生きはじめたような気がして来たんです。そして、あなた方の方が、みんな死んでいる人たちのように見えて来たんです。モモコさんは別ですけど。そいで僕は、はじめて世の中に生れて来たような、とても自由な気がして、うれしかったです。お礼を言います、皆さんに。ありがとうございました。でも僕はもう行きます。これ以上迷惑かけちゃ悪いですから。……だから言うんだけど、省三君、君は革命をやって下さい。それは良い事だと思う。そのために人が死んでも、それから君自身が死んだとしても、とにかく人間は今のままでは、やって行けないんだから、どっか何かを変えなければ、もうやって行けないのは事実だから、多少は痛い思いをしても革命でもなんでも、やって見ないよりはやって見た方がよいと思います。そのため人間が半分ぐらい死んでも、後の半分が残ってれば、なんとか、やって行けるんじゃないかな。やって見るのがよいと思う。しかしね、それには、自分自身の事は全部棚の上にのせて置いたままでは、いけないんじゃないかしらん? でないと、物事をひっくり返す前に自分がひっくり返るんじゃないかな? たとえば、君怒っちゃ困るけど、君は房代さんに、あの、惚れてるんじゃないのかな?
省三 なんだって?
須永 怒っちゃ困るよ。ただ僕にはそう見えるもんだから。そうだろ?
(省三は黙って須永を見守っているだけ)
モモ そうよ! そうよ! 省三さんは房代さんが好きなのよ!
須永 そんならだなあ。それを自分で認めて、して、房代さんにもそう言って、一緒になるなり、なんなりして、そいで、そこから君のする事すべてをやって行ったら――そうしないと、僕みたいになっちゃうよ。――いや結婚して身を固めてからほかの事をすると言ったような、そんな意味でなくだよ、そうでなく、自分の事とそれからほかの事との持って行き方の事なんだけど――
舟木 たしかに、それはそうだ。たしかに、愛情の問題に限らず、自分自身のもっと自然なあり方と矛盾しない形で、つまり自身から自然に押し出された形で、省三が事をするならば、政治運動だろうと何であろうと、私にもわかる。それなら私も反対しない。
(そうして、シャツもズボンもズタズタの姿で膝を突いている須永を中心に、まだ死んだように寝ている柳子の姿をわきに、一同が半円形に立って語り合っている有様は、ちょうど殺人犯人が審問にかけられているように見える。しかし又それは、一同が犯人から審問されている光景とも見えないことはない)
(そこへ、階段に音がして、フラフラの若宮が、ほとんど土気色の顔をして、房代に助けられながら降りて来る。一同ふり返ってそれを見る。省三は思わず一二歩進み出して、これは房代ばかりを見ている)
舟木 ああ、ジッとしている方がいいがなあ。
房代 (父のわきの下へ手を廻して、かかえるようにして光の輪の所へ来る)あたしもそう言うんですけど、どうしても来ると言って――
若宮 ……(唇がほとんど黒紫色になり、まるで面変りしてしまっている。激しく喘ぎながら)す、須永君は、どこだ? (見ているのにわからない)
須永 ……(相手の様子が変ってしまったのにびっくりして)あの、どうしたんです?
房代 (須永、舟木、私と次々と眼を移しつつ)脈のけったいが、ひどいんですの。今夜中に、あの、死ぬんだと、自分で言うんです。……(舟木は寄って行き若宮の脈をはかる)
若宮 (キョトリとした眼を私に移して)わかったんですよ。もう間も無く死ぬ。
私 いや、そんな。――しっかりしなさい。
若宮 ……(須永の顔をやっと見つけ出して)須永君、聞かしてくれ。全体こりゃ何だ? え? 全体こりゃ、どう言うわけなんだ? え? 君にゃ、わかっているんだろ?
須永 僕にはわかりません。
若宮 だって、君はもうとうに死んでるんだと、さっき言ったろう? わしは、もう直ぐ死ぬんだ。恐ろしい。……わしはどうすればいいんだ? 全体この、株式の極意はだな――いや、いや、いや、金なら、いくらでもあげる。もう金はいらん。金なら全部あげる。その代りに、聞かせてくれ。どう言う事なんだ? いえさ、そう出しぬけに君、殺生じゃないか! なんだい全体、え?
須永 ……(言葉はよくわからないが、そう言いながら迫って来る若宮の、全身をワナワナとふるわせながら追求して来る鬼気のようなものに押されて、ジリジリとさがる)許して下さい。僕はなんにも知らないんです。
房代 お父さんっ!
若宮 あ? お豊か? お前どうしたんだ?
房代 私、房代よ、お父さん! しっかりして!
若宮 ……げんきゅう寺の坊主が言ったぞ。一に非ず二に非ず、一にして二なり。是に非ず彼に非ず、是にして彼なり。無。……無たあ何だと言ったら、売った! と手を振った一瞬間だと言ったな。戦争まえ山桝の親父が、株屋は禅をやらなきゃいかんと、引っぱって行かれた。なに、なまぐさ坊主だ。説教の後は、いっしょに芸者買いに行きやがる。……無だと? 冗談言っちゃいけねえ。死ぬんだぞ私あ! どうしてくれる? え? なら、なぜ生れて来たんだ?
須永 ……(困り果てて)そんな、そんな事言ったって僕あ――だけど、死ぬのは、そんなに怖くないですよ。あの、なんでもないんですよ。夢みたいに、あの、夢がヒョッとさめる時みたいです。……大して、苦しくもないですよ。あい子のお父さんだって直ぐ、なんでもなくスット死んで――僕がこんなふうにして、バンドを廻してですね。(言いながら、バンドでではなく、腕で若宮の襟の奥を掴む)こうして、チョットあの――(腕に力を入れかける)
私 ……(寄って行き、その腕を離させる)須永!
若宮 (叫ぶ)しめてくれ! 頼むから、ひと思いに、しめてくれっ! 助けてくれ! 殺してくれ! たまらない! たたた、たまらないっ! わーっ! ヒーッ!(ノドも叫けんばかりに絶叫して、房代の肩の上にくずれ落ちて、倒れる)
房代 お父さんっ!
舟木 そっとして置くんだ。鎮まれば、いい。
織子 あなたが、こんなふうになすったんだわ!
舟木 まだ言うかね? 仮りに、そうだとしても、それが何だ? こんなふうに人間は出来ているんだ。お前の神さまは人間をこんなふうに作ってしまったんだよ!
私 もう、よい! よしたまい! (はじめて叫ぶ。しかし昂奮したためと言うよりも頭がハッキリしたためである。乾いた、冷たい声)ソロソロもう夜が明ける。つまらない騒ぎはよそう。(須永を強い眼ざしで見て)須永君。君はもう出て行つてくれ。君を私は好きだ。しんから好きだ。しかし、どうしてだか、君がまじっていると、われわれは、こわれてしまうようだ。君はもう、われわれの間にとどまっておれないような事を、してしまった。すまないが、出て行ってくれ。
須永 よくわかります。出て行きます。
私 その前に聞かせてくれないかね? 君は、なぜそんな事をしたの? 君はそれを聞かせてくれたが、私にはまだよくわからない。
須永 僕にもよくわからないんです。
私 しかし君は狂人ではない。
須永 そうでしょうか?
舟木 その恋人のあい子と言う人は、実の母親と義理の父親との間の性生活を長く見さされて病的にセックスを嫌った。義理の父と言うのが動物的に荒淫の男であったかもしれない事が考えられる。更に、もしかすると、その父は義理の娘を犯したのだと言う所まで考え得る。が、しかし、そこまで考える必要も、証拠も無い。セックスに対する恐迫観念が固定してフォビヤになるには、それだけでも充分だ。それが君、須永と言う恋人を得た。君は女の身体を要求する。少くとも近い将来に要求することがわかっている。それが怖い。それに近寄らずに、そして君を失うまいとすれば、心中する以外に無い。それでその約束をしたが、心中する前に肉体的にもつながると言う事を君から言われた。フォビヤが彼女をなぎ倒した。張りきった弦が切れた。それで明日君と一緒になるのを待たずに一人で死んだ。
須永 そうでしょうか?
舟木 そうだよ。そいで君は、あと、一人で生きて行く拠り所を全くなくした。直ぐに、だから、死ねばよかったのだ。
須永 直ぐに死ねばよかったのです。
舟木 だのにウロウロ生きていた。死んだ恋人をフォビヤに追いこんだ実体、その父と母が前に立ちふさがっている。特に父親は転位された君自身だ。君には恋人を殺したという意識がある。同時に彼女を殺したのは父だと言う二重意識。それがダブッて決定的な焦点を結んだ。米屋は反射的にやっただけだろう。
省三 ちがうんだ! 米屋が兵隊服を着ていたからだ。兄さんにゃわからない。俺たちの世代が兵隊服に対してどんな実感を持っているか。俺たちをおびやかし駆り立てる亡霊だ。その父親をやったのだって兄さんにはわからない。兄さんにわかるのは、せいぜい一人よがりのフロイディズムで切り込んで行ける所までだ。ホントは須永君は復讐したんだ。おれたちの前に立ちふさがって、俺たちを押しふせようとするものを、わきにどけただけなんだ。そうだね。須永君?
須永 君の言うことも、(舟木に)あなたの言う事も、どっちもわかりますけど、自分がどうだったのか、僕にはハッキリしない。頭が痛い。もうかんべんして下さい。
私 私の知りたいのは、そんな事よりも、須永、君は、その最初にどうしてその、あい子さんと一緒に死ぬ気になったの? 互いに好きなら結婚するなり、又、あい子さんが結婚はいやがっているなら、それはしなくても、なぜ死ぬ気になったの? そこの所が私には一番わからない。
須永 ああ、それなら僕にはハッキリ言えます。息がつけなくなったからです。呼吸が苦しくて、窒息しそうになったんです。ピストンは段々、段々に押されて来る。空気は狭くなり圧力を増し、熱して来る。二度と鉄砲を持たされるのはイヤだ。右の足も左の足も、足の裏からジリジリと焼けて来る。どこにも立っておれる所が無い。宙にぶらさがる事は出来ない。逃げ出さなければならない! 脱出! 脱出しないと、歯車はギリギリと、もう既に廻っている。煙硝の匂いがまだ消えないのに、原子爆弾は二千個に達した。イエスと言ってもノウと言っても、どちら側かに組み込まれている。第三の場所は無い。殺すまいとする事が、殺さざるを得ない原因になる。平和に近づこうとすると戦争に近づいてしまう。生きようとすると、死ななければならん。生きているものは、生きたままで死骸の臭いを立てはじめた。ハハ、矛盾の大きさは、悲劇ではなくて喜劇になってしまった! こっけいになったのです。笑いながら、僕は崖を飛び降りただけです。窒息しそうになったので、壁を僕は押しただけだ。
省三 わかる! そうなんだ! 窒息だ! 戦争が又はじまろうとしている! このままで行けば俺たちは、みんな窒息する! (言って、スーッと房代のわきへ進んで行き、いきなりしっかりと抱いてキッスをする。そのままで、いつまでも離れない)
私 それで、今は君は自由に呼吸が出来るのか?
須永 僕はもう呼吸をしません。だから自由ですよ。あなた方も、殺して見ればいいんだ! ハハ! ハハ! (さわやかに、少しも皮肉の味無しに笑う)
私 よろしい! 君は、もう出て行きたまい。
須永 出て行きます。ピストルをください。(私からピストルを受取る)モモコさん、行かない? (モモコの手を取って階段の方へ)
モモ うん。
須永 (階段の上に立ちどまって)生きると言う事は、殺すという事ですよ。あなた方は、みんな死んでいるんです。
(モモコの手を取って上へ消える。残った一同は、須永の最後の言葉と共に、実際に死んでしまったように、全く動かなくなる。それは、ちょうど一撃のもとに全員が蝋人形になってしまったかのようである。……そのままで時間がたつ。次第に暗くなって来て、しまいに私だけを光の中に残して、他は全部見えなくなってしまう)
私 (冷たい、しっかりした、低い声)しかし、私は生きて行くだろう。いや、今こそ、生きて行く。これまでは生きてもよければ死んでもよかった。しかしこれからは生きて行く。私も窒息しかけている。私の身体は足の方から膝、腰、腹、それから手、肱、肩と、だんだんに冷えこみ、しびれて来ている。われわれは死にかけている。だから、生きるのだ。だから生きて行けるのだ。ホントは生とは、かくのごときものだ。足元を死にひたされている故に、生は生なのだ。散って落ちれば花びらは泥になる故に、花は花なのだ。その先っぽが死につながっていなければ生は生ではない。……窒息は近づいている。それは必ず来る。望みはない。だから生き得るのだよ。だから生は在り得る。須永は窒息の不安に押し倒されたのだよ。私も不安だ。しかし押し倒されはしない。感情無しに、冷たく、それを眺め、迎える。窒息が最後に私のノドモトを掴みとるまで、私は私の歌を歌う。須永は恋愛をして、生の中の一番の生に触って見て、もう生きていられないことを悟った。私はお前の死と、そして今須永の死とに触って見て、生きて行くことを知った。私は冷たい鋼鉄のように生きるであろう。お前は私から立ち去って行きなさい。安心して私のそばから離れて行きなさい。私には私の闘いがある。私が私の闘いを残りなく闘い抜いた道の果てに立って私を待っていなさい。そこで私はお前に逢おう。……もう間もなく夜が明けるだろう。今日の夜明けから私は昨日までの私ではないだろう。生きて行くことを知ったからには、そして生きて行かなければならぬものなら、進んで生きよう。私は身体をもっと大事にしよう。仕事も始めようと思う。ピストンのチューブの中にも自由はある。ピストンに加えられる圧力が極限に達しても、空気が他の通路へ放出されないならば、チューブは爆発するだろう。そんなピストンは初めからピストンではない。ピストンならば通路は有る。通路は圧力が極点に近くなった個所、窒息の間ぎわの瞬間に有る。……二十五時の所に一人の人間が立ち得るならば、百人の人間が立ち得ない筈はない。百人の人間がそこに立ったのならば、それは二十五時ではなくて、午前一時だ。三十八度線は線だから幅は無い。幅の無い所に人は立てない。しかし人は三十八度線を頭で考えることが出来るならば、どうしてそこに立てない事があろうか。そこに立った次ぎの瞬間に死んだとしても、五秒そこに立ったと言う事は五十年でも立てるという事だ。……そうだ。イエスかノウかを決定することは、いつでも出来る。第一の道を歩もうと第二の道を歩もうと、たやすく出来る。われわれは既に力の前では奴れいだ。その力がいずれの側の力であろうと、大した変わりはない。決定はやさしい。大事なことは、そして困難なのは、決定を最後の時まで、圧力が極限に近くなる時まで、窒息の間ぎわの、そのトコトンの所まで引きのばし、持ちこたえることだ。引きのばし持ちこたえ乍ら、その中で衰弱せず、最後の時に、追いつめて来たものを振り返り、面と向ってそれを審判し、ノウと言うことだ。それだけの力を保って行くことだ。それが出来るか? 出来る! いや、できないかな? いや、いや、出来る。出来ようと出来まいと誰かが、誰でもが、しなければならぬ。……聞いているかね、お前、私はそれをしようと思う。そういう闘いを明日から闘おう。私の生き甲斐は、もうそこにしか無い。どうだね? 私は人から笑われるね? 刻々に、絶望だけが私を見舞うだろう。それを知りつつ、私は頬に微笑を絶やさないで、窒息に近づいて行く。しかし最後まで窒息はしないよ。お前は、わかってくれるか? ……右側の人たちと左側の人たちが、その時その時で、代る代る私をあざ笑ったり、おだてたりするだろう。そしてどちらからもホントの味方だと思われることは絶えて無いだろう。嘲笑されない時には利用されるだろう。利用されない時には嘲笑されるだろう。それ以外には全く扱われないだろう。そして、しまいには捨てられるだろう。捨てられて腐ってしまった時分に、どこからか「人間」が近づいて来てくれるかも知れない。来てくれないかも知れない。ハハ! ハハ! ……ハハハ! だって、こっけいじゃないか! 原子爆弾で人間はみんな殺され、死んでしまうかもわからないのだよ。それを、ほかならぬ人間自身が作り出して、使った! ハッハ! 神だけがする資格のある事を、人間が冒したんだよ! 冒した! もう取りかえしは附かない。それを使う事を決定し、ボタンを押した人の手は、その人たちの手は、まだ腐らないで腕に附いているのだろうか? お前は知っている! その人は誰だえ? …………(微笑を浮べた顔で、客席の方を、いつまでもいつまでも覗きこんでいる)
(間)
(出しぬけに奥で、激しくガン、ガンガンとノックの音。死んだようになっていた浮山が飛び上って階段をあがり、外へ出る。……私はユックリそちらへ頭をめぐらす)
浮山 ……(階段口から半身を見せて、低い声で)警察の人たちだ。
私 う? ……(そちらへ行きかけ、再びユックリと上半身をめぐらして、いぶかしそうに客席の方を覗きこんでいる)

     20 塔の上

(暗い夜空の、どこかに月が昇りかけたと見え、下の方から濃紺色にほのめいている中に、塔はポカリと浮いている。その上に、夜空に向って半ばシルエットになって、相対して立っている須永とモモコ。須永は先程のままの姿で、右手にダラリとピストルをさげて、しげしげとモモコを見守っている。モモコはスベリと一糸もまとわぬ裸体で、左手にフルートを掴んだまま、エジプトあたりの彫刻でも見るように、なんの恥かしげも無くピンと直立している。足元に脱ぎ捨てた着物)
須永 ……寒くはない、モモコさん?
モモ ううん、なんともない。
須永 きれいだ。
モモ お月さん?
須永 ううん、モモコさんが。
モモ フフ。その、あい子さんて言うの、きれいだった?
須永 うん、きれいだった。でも、身体は見たことなかった。
モモ そう? どうして?
須永 どうしてだか。フルート聞かしてくんないかなあ。
モモ お月さんが、もっと、ここんとこまで昇ったら。
須永 お月さんは、もう昇ってるよ。ほら! (と、こっちを振り向いた顔が急に白く光る)ズンズン昇る。
モモ 今あたしの肩んとこまで来た。胸んとこまで来たら。
須永 モモコさんは、自分が生れて来て、よかったと思う?
モモ なあに?
須永 こうして生れて来て、よかったと思うの?
モモ そんな事、あたし考えた事ないわ。
須永 今、じゃ、考えてくんないかな。
モモ そうね。……うん、生れて来てよかったわ。須永さんは?
須永 そうさな。……(昇って来る月を見ている)うん、僕も生まれて来て、よかった。
モモ フフ。……ほら、お月さん、こんなに昇って来た。
須永 だって、見えはしないんだろう?
モモ 見えはしないけど、ほら、胸んとこが、こんなに明るくなるから。
須永 ……(そのヌーッと昇って来た月に向って、ピストルの残っている二発の弾をダンダンと無造作に射つ)
モモ あら、どうして? びっくりするじゃないの。
須永 ……(微笑して、手の中のピストルを見てから、それを空へ向ってビュッと投げる。それがズッと下へ飛んで行き、気が遠くなるような間を置いて、カチンと地面に落ちて鳴った音がする)
モモ 何を投げたの? ピストル?
須永 生きているのが、なんかウソのような気がすると僕言ったろう? ここに、こうしているのは、なんか嘘で、ホントの自分は別の所で生きているような気がして、しかたがない。これは夢で、夢でない世の中は、ほかにチャンと在る。そう言う気がすると言ったね? それが、そんな気がしなくなった。ここから地面までは、たしかに何百尺かの距離がある。チャンと僕はここに生きている。これは嘘でも夢でもない。僕は生きている。それがわかった。ありがとう。なんだか、うれしくって、しょうがない。……(スッと塔の手すりの上にあがって立つ)モモコさん、お月さんが昇った。吹いてくんないかな。
モモ うん。……(フルートを構えながら)また須永さん、ぶら下がるの?
須永 そら、あんなに昇って来た。
モモ あら、何か呼んでる。(耳をすます。ズーッと下方から、はるかな人の声がオーイとヨオーの間で、長く尾を引いて呼んでいる)……あれは三階の先生だわ。
須永 ……(これも耳をすましていた後)きれいだな。
モモ ……(フルートを吹く。例のメロディだけを、静かに尾を引いて三度ばかり吹きすます)
須永 ……(その間に、ズボンのポケットから、ハンカチにくるんだ小さいビンを出し、一息にクッと飲み、ビンを塔の外に捨てる。それが月光にチカッと光って消える。……そのまま、手すりに立ってフルートを聞いている。メロディの切れ目の所で、静かな声で)あい子、そんなに急がないで。待ってくれ。……(月の方を向いてスッと身体が傾いたかと思うと、足が手すりを離れ、あまり重さの無い棒が落ちて行くように横になったままスーッと下へ落ちて行き、今度は、いつまでたっても音はしない)
モモ ……(しばらく吹きつづけてから、フッと吹きやんで)え、なあに? (須永が居なくなった事に気づかぬ。返事を待つ気も別に無く、軽い明るい声が須永に話しかける)ほらね、お月さんが胸んとこまで来たでしょう? グングン昇る。須永さん、そっちい向いてごらんなさいよ。ね! お月さんは冷たい、もう死んでると言うけど、でも、お月さんの光が、おちちの下のへんまで来ると、なんだか、あたし、くすぐったくなるのよ。……(フルートを再び唇へ持って行く)
(昇る月のドンヨリした光に、白くかすんで立っている彫像)

底本:「三好十郎の仕事 第三巻」學藝書林
   1968(昭和43)年9月30日第1刷発行
初出:「群像」
   1952(昭和27)年8、9月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2009年4月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。