一月一日

 曇――雨。
聖戦第三年、興亜新春、万歳万々歳。
安眠、朝寝、身心平静。
おめでたう、ありがたう。
――起きるなり、水を汲みあげて腹いつぱい飲んだ、それは若水であり、そして酔醒の水であつた。
朝湯、香を※(「火+主」、第3水準1-87-40)いて自戒自粛、――回顧五十年、疚しくない生活、悔のない生活、あたりまへの生活、すなほにつゝましく生活したい。
朝酒、かたじけなし、酒を楽しみ味ふ境涯であれ。
雑煮のうまさ、酒がうまいやうに。
十時、私も祈願祝祷。
雨、あるいは雪になるらしい、雨もよし、雪もよし、たうとう雨になつた、しめやかな雨である。
転一歩――新一歩。
戦地のS君Y君へ賀状を書く、まことに千里同風の感がある。
風邪をひいたらしい、宵から炬燵にもぐつて読書。
門外不出、黙然独坐の一日であつた。
不眠、酔つぱらひが通る、さすがにお正月らしく。
Nさんに――
……生きてゐることは時々つらいとは思ひますけれど、やつぱり生きられるだけは生きて、酒を飲んだり句を作つたりする外ありません、……それが私の宿業であります。……

一月二日

 快晴。
朝湯、おだやかなこゝろ、なごやかな日ざし。
※(「火+主」、第3水準1-87-40)の香を焚いて反省する。
子供は羽子つく、隣家から喧嘩の声。
飯のうまさも、そして餅のうまさも、そしてまた酒のうまさも。――
まことにしんじつ文なし正月[#「文なし正月!」は底本では「文なし正月!」](節季の文なしよりもつらいね!)煙草もなくなり、餅もなくなり、湯札もなくなり、醤油もなくなり……(銭なんか無いことはいふまでもない!)
――あるがまゝに――与へられるまゝに――生かされるまゝに。――
午後、N君来訪、私としては今年最初の会談をする。
招待されて徃訪、来客十人あまり、知つた顔、聞いてゐる顔ばかり、ほどよく飲食して帰宅、めでたし。
人にまじはることは愉快でもあり不愉快でもあり、私のやうな我儘者は長く続けて人間の中に居ることは堪へがたく感じる。……
N君の宅で、ことし初めての数の子を食べた、おいしい数の子であつた。
今日もまた、自分の卑しさ醜さを見せつけられた、やりきれない気持だつた。……
今夜も不眠、おちつけ/\。
・老来。
・かなしみもなく、また、よろこびもなく。
・微熱はわるくない。
  うと/\、ぼんやり、しつとり。……
・処女と話すことはよろしい。
  半処女ばかり!
・女房に惚れてゐれば家庭安楽だ。
無明実相即仏性
素心を失ふこと勿れ。

一月三日

 曇。
寒い、雪になりさうな空模様。
けさは新聞がない(定休だから仕方ないが物足りなさを感じる)、けさはまた湯にもはいれない(湯銭がないのである)。
湯町にゐて湯にはいれないとはみじめすぎる
そこらを歩いてHさんの店に寄る、不在、新年早々借金しないでかへつてよかつた、やれ/\。
窓のうちあたゝかに落ちついて読書、とにかく米があり炭がある。……
午後、和田君に誘はれて、宮野の阿川君を訪ねる、汽車賃も煙草銭も出して貰つて恐縮々々。
阿川邸は落ちついた旧家のよさがあつた、客としては和田君、藤井君、村田君、そして私、よく食べよく飲んだ、暮れるころから、同道して山口へ、矢島さんのところでまた御馳走になり、中原君兄弟もいつしよに繰り出してS軒で騒いだ、……たうとう方角を失ひ場所を失ひ、自分を失つてしまつたが、……什郎さんにタクシーで送つて貰つた。……
本年最初の愚劣だつた!
[#二重三角、103-1]水の流れるやうに、或は雲のゆくやうに、風の吹くやうにありたいと考へてゐた、このごろは太陽の心を考へてゐる(澄太君が逓友新年号の扉に太陽の使者を書いてゐる)、日光のやうにあまねく惜しみなくうらゝかでありたいと思ふ。
[#二重三角、103-4]自省自縛であるやうでは、ホンモノではない。
[#二重三角、103-5]他己迎合はあさましいが、自分に媚びることはヨリあさましい。
[#二重三角、103-6]友情に甘えるな、自分を甘やかすな。
[#二重三角、103-7]無理のない、ほがらかな姿、自然な、すなほな姿
 さういふ身心を持してゐたい。

一月四日

 曇――雨。
昨日の今日である、身心が重苦しい。
けさは湯にはいれた、ありがたかつた、どろ/\を洗ひ流した。
門外不出、自己に沈潜する。
銀柳一枝の春信。
夜、中原君、和田君来訪、いつしよに湯に入り、中原さんの宅に寄つて御馳走になる。
ほろ/\よう睡つた。
近衛内閣総辞職、大命、平沼男に降下するらしい。
「私」を超越した境地。
縁尽マヽて去る。
私は醜い、醜いが故に生きてゐる。
必然――当然――自然。
嘘の世界、ウソを考へるな
コースの意義。
┌人生はラツキヨのやうにも(私の場合は)。
剥ぐことそのことに意味がある。
└剥ぐものそのものには意味がないとしても。
しんじつ弱い。

一月五日

 曇――雪。
雪、雪、寒い、寒い。
雪を観る。――
身心整理。――
一時すぎ中原君来訪、同道して田辺さん方へ徃訪しようとしてゐるところへ、指月堂君来訪、二十五年ぶりの会見である、話しても話しても話し足りない(お土産の赤大根まことにありがたう)、そこへ敬君来訪、そしてまた藤井さんが自動車で迎へに来られた、――どれもこれも約束通りである、敬君だけ残つてゆつくり休んで貰ふことにして、みんないつしよに出かける。
雪ひんぷん、すつかりお正月気分になつて、飲んだり食べたり、しやべつたりふざけたり、……酔うてはゐるし、凍みてはゐるし、こけつまろびつ、戻ることは戻つた。……

一月六日

 曇――晴。
天地沈欝、私も沈欝!
――昨夜も飲みすぎた、いや、飲まれすぎた、最後の場面の一齣は不快だつた、けさ思ひだしても不快である、慎しむべし、酒を慎しむべし、自分自から慎しむべし。
きびしい冷たさである、一杯ひつかけて寝るより外ない。
門外不出、漁眠洞さんからうれしいたよりがあつた。

一月七日

 晴――曇――雨。
朝湯朝酒、うらゝかな。
ナマケモノであることをひし/\感じる。
一人であることのよろしさ。
隣り寺の隠居が惜気もなく、――といふよりも無慈悲に、銀柳を伐つてしまつた、ナマクサ坊主め!
今日も門外不出、しづかに読書をつゞける。
夜、矢島さんが一升さげて来訪、しんみり飲んでゐると、中原、和田、村田の三君が酔つぱらつて闖入、ま夜中まで騒いだ、……私は中原君と共に寝た、中原君よ、思ひ煩ふなかれ、君は詩人である前によきドクトルとなりたまへ、君のお母さんは良き母ですぞ、私の母は私の幼年時に自殺しましたよ。
とにかく、ともすれば上すべりする私を警戒する、真実は掘り下げなければ掴めるものではない
“地熱”
空像

一月八日

 曇、風雪。
寒風をぬけていつて、ことにうれしい朝湯だつた。
身心すこしく不調、飲みすぎ食べすぎのために。
Tさんが来た、好かない人物である、彼は誰にも嫌はれる(ケチ/\で、ズウ/\しいので)、だが、嫌はれ通して来た点に於て、彼は凡人ではないかも知れない。
節食、静養する。

一月九日

 曇。
風がないのが何よりだ。
酒なし句なし、もとより銭なし!
S君のお土産赤大根を賞味する、今更のやうに、一粒の米一滴の水のありがたさを考へる。

一月十日

 曇――晴。
沈欝。――
うどん玉二つ、酒一杯、どうやら私自身のお正月らしく。
天も地も人もあたゝかい、爪を切る、理髪もしたいのだが。……
Yさんへ手紙を書く、書きたくない手紙だつた、書かなければなマヽい手紙だつた、書かずにはゐられない手紙だつたのだ。
散歩、S君を訪ねる、仕事に精出してゐる彼に逢ふことはうれしい。
和田さん来訪、すまなかつた。
   菜根譚より
風来疎竹、風過而竹不留声。
雁度寒潭、雁去而潭不留影。
故君子事来而心始現、事去而心随空。

一月十一日

 曇、風。
――堪へがたいものがある、仕事でまぎらしたが。……
Hさん徃訪、不在、かへつてよかつたと思ふ。
お茶漬、砂糖湯。……

一月十二日

 雪、雪、雪。
今日は絶食、それは身心清掃の非常手段ともなる。
或は明るく或は暗く。
雪を踏んで、Hさんを訪ね少々借りる、ありがたう/\。
句集の扉を書いて送ることが出来たのはとてもうれしかつた。
おいしく夕飯を食べて、ゆつくり温泉に浸つた。

隣家の主人が、朝早くから、しきりに呶鳴つてゐる、これも市井風景のおもしろさだ。
原稿を書きあげて送る、安心と満足、ほつとした。
ケチ/\せずにクヨ/\せずに
Yさんから今日も返事が来ない、来なければ仕方がないが、それでよいのであるが、何となく気分が重苦しい。
敬君ひよつこり来訪、酒と下物、そして米代と炭代とを頂戴する、助かつた、助かつた、感謝、感謝。
アルコールのおかげで熟睡した。
・一人は寒い、心が寒い。
・無一物底、雪降りつもる。

早起、なか/\冷たい、今年は寒さがきびしい、老人マヽ私は閉口する。
朝湯で昨日の汚濁を洗ひ、朝酒に今日の安楽を味ふ、私にめぐまれた最大の幸福である。
喘息らしく咳き入つて弱つた、弱つたけれど、私は嘆かない
夜更けて、たうとう雨になつた。

また雪らしい、また寒波襲来か。
こだはるなこだはるなと私はこだはつてゐるどうにもならない私の性である
おとなりのお寺は報恩講、さみしいお講だな。
米がある、炭がある、ありがたい、ありがたい、何といつても米と炭と、この二つの菩薩をなくしては生きてゐられない。
午後、敬君来訪、サケサカナ例の如く、こゝろよく酔ふ、同道して山口の或る人を訪ねる、おとなしく用をすませて戻る、めでたし/\/\。
箒草(米大陸の孤萍ともいふべき)
   タンブルウエード?

うらゝかである、ほのかなよろこびを覚える。
土と兵隊を読んで感激した、麦と兵隊もよかつた。
花と兵隊もよい、火野葦平万々歳である。
昼食すましてから、運動がてら山口まで散歩する。
とある小路を歩いてゐたら、思ひがけなくY君に呼び入れられて、酒をよばれた、読物も貸して貰つた、ほんたうに予期しない幸福だつた。
ハガキのあるだけたよりを書いて出した。
まつたく雲のない晴天だつた。
夜はのんびり読書。
久しぶりで(いつでもだが)、餅がうまかつた。
恋猫が切ない声で鳴いてうろつく。
・黙つて死んで行く
・生死の中から
・自分を空しくする
・真実一路

酔境――
ほろ/\、ぼろ/\、
とろ/\、どろ/\。

早起入浴。
消え残る雪のきたなさ。
“鶏肉はありませんか”隣家と間違へた女の声。
双葉山がまた敗れた、敗け癖がついたのだらう。
めづらしくせきれいが来て啼く。
米一升麦一升だけ買ふことが出来た。
あすのいのちをたれがしろ――まつたくそのとほりである。
敬君が今日も寄つてくれたが、風邪気味なので、ちよんびり飲んで別れた。
近所に豆腐屋が開業した、これで何もかも揃うた、まことに至れり尽せりである!

ひとりを楽しむ、ほんにしめやかな雨ではある。
麦飯を詰めこんだので腹が張る、昼食はうどんですます。
机上の人形が笑うてゐる!
古い中央公論を借りたので、夜明け前の終篇を読む、読んでゐるうちに涙ぐましくなつた。……
門外不出、黙坐読書。
・夫婦喧嘩
  S君の場合
  Fさんの場合
・酒
  よい酒
  うまい酒

米、飯、酒

・嚢中自無銭だが、
 庵裡自在米でもある。
・日光と水と。

一月十九日

 晴――風――曇。
  ┌ミヅカラ
△自│
  └オノヅカラ

二月一日

 晴曇。
身心不調。――
私は近来あまりに放漫だつた、知らず識らず、若い連中の仲間にまじつて、年甲斐もなく浮れ騒いだ、省みて汗するばかりである、私は自戒自粛して、正しい私に立ちかへらなければならない。
ことに一昨夜の自分、昨日の自分を考へるとき、私は私に対して恥づかしいばかりでなく、Yさんに対して申訳ないではないか。
馬鹿、馬鹿、馬鹿。――
夜はやりきれなくなり、Sさんを訪ねて少しばかり飲んだ。
Yさんに置手紙して私の衷情を伝へた、よかつた。

こん/\として終日寝てゐた。
夜おそくFさん来訪、誘はれてそこらを散歩し、御馳走になつた。
――私は慰まない。

今日もやるせなかつた、しくしく身心がいたい。
門外不出、黙々として自己を省察した。

二月四日

 節分。
おなじく。
夜、HさんMさんIさんが訪ねて下さつたが、事情をほのめかして帰つて貰つた。
お土産として酒一升頂戴した、ありがたう、すみません。

二月五日

 曇――雨。
今日は立春だがなか/\寒い、寒さが老の骨身にこたえる。
今日から日本精神発揚週間
五日ぶりに寝床をあげ、三日ぶりに入浴した。
湯田にゐて、湯好きの私が入浴しないのはよくよくのことである、私はそれほど私をたたきつけてゐるのである。
Hさんから少々借りて、隣のFさんといつしよに飲んだ、私はあまり飲まないで彼に飲ませた、たいへん喜ばれた。

二月七日

 曇――雪――晴。
この冬は寒気も降雪も例年よりはげしい、私もいつもよりまじめになり、それだけ苦しい。
十日ぶりにどうやら自分の自分になつたやうだ。
米はあるが炭がなくなつた、酒もあるけれどあまり飲みたくない、それでもあるだけは飲んでしまつたが。
元君から涙ぐましいたよりがあつた。
みんな苦しいのだ、誰も悩んでゐる。――

二月八日

 半晴半曇、小雪。
寒いと思へば寒いけれど、春を感じないではゐられない。
春、春、春が来た、春が来た、雪はふつても風がふいても、日ざしのあたゝかさ、うらゝかさ、まさしく春だ、春だ。
うぬぼれるなむさぼるなこだはるな
また雪がふる、しん/\冷える、炭のないのがさびしい。
兵隊さんに餅をあげるといつておかみさんたちが集めてゐる、私のところへは幸か不幸か来なかつた、私には餅もない、銭もない、かなしみを感じつゝほつとした。
午後、のんびり湯に浸つて顔を剃つた、これが今日の幸福だつた。
こゝろしづかにからだゆたかに。――
終日黙照、私の場合では句作三昧。
まじめになると不眠になるとは。……

二月九日

 晴れたり曇つたり。
まいあさ思ふ、――朝湯のうれしさありがたさ。
――炭の粉もなくなつてしまつた(ありがたいことには米はまだ/\ある)、――貧乏には慣れてゐるけれど、貧乏はやつぱりつらい
焚火をして寒さをしのぐ、焚火はなつかしいものだ
人間のきたなさ! こんなことを考へる私はきたない
午後、ぢつとしてゐられなくなつて出かける、Yさんから文藝春秋を借りる、柳はいちはやく芽ぐんでゐる。……
なけなしの本をさがして二冊だけ金に代へる、うれしかつた、一杯十弐銭、三つ五銭!(これは何の事!)
人間はとにかくうるさいな! 人間のよさを味ふ前に、人間のきたなさを感じるのだからやりきれない!
夜、こらへられなくて一本飲んだ、うまかつた、貧乏して初めて解る味はひだ
おかげで快眠をめぐまれた。


関また関辛うじて当面の一関はつきぬけたが私はまだまだほんたうにしんからつきぬけてはゐない

三月一日

 曇。
門外不出、黙々黙照。

三月二日

 晴。
おなじく。

三月三日

 雨。
おなじく。

三月四日

 曇――晴。
五日ぶりに起床入浴、身心清掃。
澄太君、ほんたうにありがたう、助かりましたよ身も心も。
身辺整理。
六日ぶりの酒だのにさまでうまいと思へない、幸、不幸。
虫、虫、虫が、いろ/\の虫が出て来た。
老衰を自覚する。――
近在散歩。
買へるだけ食料品を買ふ。
雑魚のうまさ、おかげで酒のうまさ、極楽々々。
常に屑を捨てること
よい月夜であつた、満月らしかつた。

三月五日

 晴――曇――雨。
しみ/″\春。
Oさんからいろ/\おいしいものを頂戴した、ありがたう。
野分朝といつたやうな感じ。――
山口は痘魔が躍るのによい都市らしい!

三月六日

 雨、春雨らしく。
無坪さんから酒代拝受。
うまい晩酌だつた、酒二合三十銭、鰯一皿十銭也。
夜、再種痘、下駄をかへられて不愉快だつた。
人間のきたなさ!(自他共に)
――私の身心不調はなか/\回復しない。――

三月七日

 曇。
早起――久しぶりで朝酒のよろしさ。
なつかしや雲雀のうた。
身辺整理。
午後は近郊散策、理髪する、身も心も軽くなる。
春寒の草、水、雲。……
夕方、Yさん来訪、君は若いけれど苦労人である、近々快飲しようと約束した。
一杯ひつかけて、ぐう/\ぐう/\。

三月八日

 晴。
転一歩。――
母の四十八回忌。――
さくら餅を供へ、鉦をうち、読経しつゝ線香の立ちのぼるけむりを見詰めてゐると、四十八年の悪夢が渦巻くやうで、限りなき悔恨にうたれる、おなじ過失を繰り返し繰り返して来た私ではなかつたか。……
午後は散歩する、うらゝかな春景色である、S君といふ人に逢つた、私は見忘れてゐたけれど、先方はよく覚えてゐて、気易に話しかける、それも春らしい一添景だつた。
今日はじめて今年の蝶を見た、彼女は枯草の中をさよマヽうてゐた。
また不眠症になつたらしい。

三月九日

 晴、后曇。
春霜、春寒、身辺整理。
痘禍もどうやら峠を越したらしい、私の種痘もこんどはどうやらついたらしい。
戦地の記事を読み写真を見るたびに、自粛自戒しなければならないと痛感する、自粛自戒しなければ罰があたるだらう
京都のTさんからうれしいたよりをいたゞいた。
私は買ひかぶられてゐる、心苦しくて悩ましくさへある。
山口散策、何となくからだのぐあいがよくないので早く帰つた、むしろ病弱礼讃だ!
悪夢、私は――人間はあさましいと思つた。

三月十日

 曇、風が出て雨となる。
暁起、入浴、身心平静。
今日は陸軍記念日。
しづかに、しづかに一人の一日。
夜また一盞傾ける。
痴夢一場、人間のきたなさだ、近来、夢が多すぎる!
┌八百屋のおかみさん曰く、
│ お一人ですか、お一人はようございますね、私も一人になりたい、一人がようございますね。
└秋葉老人答へて曰く、
  一人だつて二人だつておなじことですよ、人間は否でも応でも一人になつて死にますよ。

三月十一日

 雨――曇――雨。
雨はうるさいけれど(かういふ佗住居では殊に)、同時にまた落ちつかせてくれる、人生によいことばかりはない、わるいことばかりがないやうに。
Yさんから句集代拝受、感謝々々。
山口へ出かける、今日はまさに買物デーだつた、おとなしく帰宅、めでたし/\。
酒のうまさ、餅のうまさ、若布のうまさ、飯のうまさ、あゝおいしい/\。
前の家で、主人公も客人も酔つぱらつて呶鳴り合つてゐる、まことにこのあたりは酔つぱらひ部落だ!(私にもたしかにその一員たる資格がある!)
澄太君から句集到来、友情が身心にマヽみ入つて涙がこぼれる。……
身辺整理、アメリカへ、東京へ、その他へ、送るべきものを送つて安心する。
――やつとスランプからぬけだすことが出来た。
不眠(私はまじめに考へだすと眠れなくなる、癖の一つだ)。
  ・今日の買物
十銭   塩マヽ布四十匁
二十銭  ハガキマヽ
四銭   豆腐一丁
二十四銭 酒二合
五十銭  外郎一包(贈物として)
二十四銭 餅二百匁
二十銭  番茶四半斤
十五銭  若布二十匁
十銭   醤油二合
三銭   酢一合

三月十二日

 曇、時々雨。
朝湯、銭が切れたといつたら番台老人――顔馴染の――が湯札を数枚下さつた、ありがたう。
隣の子供はよう泣く子供だ!
古新聞を売つて四十銭、さつそく一杯ひつかける、ほんに酒飲みはつらいね!
午後は山口散策、途中で句集代を貰つて、飲むほどに歩くほどに酔つぱらつてしまつたが、ちやんと戻つて寝床に横つてゐた、……夜明け前に眼が覚めて火をおこしお茶漬を食べる、火燵をまたこしらへた。
今夜はぐつすり睡れた、南無アルコール菩薩様々!
山頭火よ老いぼれたぞ、先日、酔中どこかに置き忘れた風呂敷包がどうしても見つからない。

三月十三日

 曇、春寒。
身心平静。
迎へ酒がほしいな!
裏の空家へ若夫婦が引越して来たらしい、長くは人のゐつかない家だが。
一銭足りなくて、大山君へ〆切をすぎた選稿が送れないので、わざ/\S君のところまで出かけて行つた、一銭のねうちを考へさせられたのはこれが二度目、いつぞやは汽車賃が一銭足りなくて、次の駅まで二里あまり歩いたことがある、夜中空腹をかゝへて!
――つゝましい一日であつた。

なか/\寒い、冷える、けさは氷が張つてゐた。
温泉のありがたさ。
落ちついて読書、句作、思索。
Iさん、ありがたう、おかげで一杯やれました。
山口の街まで、酒を飲み餅を買ふことは忘れなかつた、忘れられないのだ。
たか菜四把八銭也、半分煮て半分漬ける。
身辺整理、K君に小包を送ることが出来た、重荷一つおろしたやうな気がする。
裏の家の妻君が引越の挨拶に来た、ハガキ三枚貰ふ。
近郊散策、春寒い風が吹く。
ゆつくり晩酌をやつたところへ、NさんがSさんと同道して来訪、同道してF屋で飲む、愉快だつた、おとなしく十時ごろ帰つて熟睡した。
――私は近来、人間に食傷したやうだ、私はまだ人間を全的に掴んでゐないのだ、これでは旅に出るより外ない。

三月十五日

 晴、風。――
霜、どうやらお天気もきまつたらしい、私も落ちついた。
少々二日酔気分、迎酒をやらざなるまい。
一杯機嫌で半切十数枚書きなぐつた、魚眠洞君へ、指月堂君へ送つて、ほつとする、重荷をいくつもおろしたやうに。
――近所の妻君群がおしやべりしてゐる、おきまりの人の噂だ、人には人の事が何よりも興味があるらしい。
午後しばらく近在散歩、S君を訪ねたりして。
夕方、Tさん来訪、どうも好きになれない人だ(私ばかりではない、誰もがさういふ)。
木炭がなくなつたので火を焚いてすます、もう暖かいから寒中のやうには苦しくない。

三月十六日

 半晴半曇、風つめたし。
うらゝかに天地人。――
悪筆の乱筆を揮ふ。
大法輪を読む、道元禅師は讃ふべきかな。
午後は例の如く散歩。
誰か来てくれないかな。――

まことに好季節、朝のよろしさ。
Iさん、ありがたう、さつそく一杯やりましたよ。
机上の沈丁花がほのかに匂ふ。
やゝ沈欝、しばらく散歩。
風、風、風、とびだしてD屋で飲む、また一苦労こしらへた! 酔心地はよかつたが。
夜中に雪がふつてゐた。
――チヤンポンはいけません、それだけはやめてくれ!

雪、白一色のうつくしさ。
つむよりとける春の淡雪だつた。
身心和平。
炭がなくなると雪がふると――皮肉だな。
入浴、髯を剃り爪を切る、うらゝか/\。
近郊散策、糸米を歩いて、やうやく藪椿を見つけた、香山園では久しぶりにうまい水を腹いつぱいいたゞいた、もう桜が蕾み、柳が芽吹いてゐる、ぶら/\歩いてゐるうちに、七句拾うた。
アメリカのKさんから、ほんたうにうれしいたよりをもらつた、うれしい/\。
気象異変で、寒いことは寒いけれど、空がどことなく霞んでゐる、山のいろもあたゝかくなつた。
きちんとして、しづかにおちついた今日であつた。
夜は雨になつた、何だか霙になりさうである。
不眠、うつら/\考へてゐるうちに夜が明けた。

三月十九日

 晴曇、小雪。
――薄雪が積んでゐる、冬が逆戻りしたやうに。
炭がほしいな、ガラクタを焚いて凌ぐ。
湯に行けば、湯がぬるくて浅い、風邪を引きに行つたやうなものだつた。
待つものが来ない。
寒い/\、冷たい/\。
だが、私はおちついてしづかにしてゐた。
午後、Yさん来訪、しばらく閑談、そこへD屋の主人がやつて来た、一昨夜のたたりだ!
風、風、風、ちよつと寝る、うと/\した。
夜は約束の通りにYさんといつしよにO屋で飲む、感じたやうに感じのよい家だつた、ほどよく飲んで別れた、めでたし/\。
まつたく快飲快食快談、そして快眠だつた。

朝湯にははいれないけれど(湯銭もないので)、身心平静、落ちついて読書する。
Yさんの悲しい顔があらはれた、私の心配があたつたのである、いつしよにH屋に出かけて、湯に入り酒を飲む。
何となく、すまないやうな酒だつた、SちやんMちやんを相手に飲んでゐるうちに、Yさんがどこかへ逃げてしまつた、私もとびだしてS屋に泊めて貰つた。

三月廿一日

 晴――曇、また雨らしい。
お彼岸日和らしく。――
S屋で朝飯をよばれて帰宅。
Yさんはどこかにしけこんで、まだ帰らないらしいが、早く帰りたまへ、仕事に精出したまへと祈る。
午後は散歩、うらうら春を歩いた、御堀まで歩いて、W家を見出して、中学時代の回想に耽つた、あれから四十年、その部屋は昔のまゝに残つてゐた。
水にそうて歩く、――春をしみ/″\感じる。
古雑誌を燃やして飯を炊き茶を沸かす、わびしいと思はないでもないが、不平ではない。
このごろ私はよく食べよく睡る、極楽々々。
湯田にゐて湯にはいれないことはさびしいと思ふ。
近来、私は人間に接触しすぎたやうである、何だか嫌なものがこびりついたやうである、早く旅に出て、その嫌なものを払ひ落したい。
待ちうけてゐる手紙が来ない。……

底本:「山頭火全集 第九巻」春陽堂書店
   1987(昭和62)年9月25日第1刷発行
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2010年7月11日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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