宮城二重櫓の下から白骨や古銭が出たので、やれ人柱だの、墓地であったのだろうだの、工事の際の傷死人を埋めたのであろうだのと、いろいろの説がある様だ。自分は単に新聞の報道でそれを知ったばかりで、まだ実地を知らないから、無論これに対して自信ある判断を下す事は出来ぬ。或いは自分の見た新聞の報道なるものが、幾分潤飾されていたものかもしれぬ。或いは誇大されていたのかもしれぬ。しかしながら、少くも自分の新聞を見て感じた限りでは、やはり所謂「人柱」の意味で埋められたものと解する。よしやそれが生埋めにしたのであったにせよ、或いは自殺し、もしくは自殺して後に埋めたのであったにせよ、或いは仮りにたまたま傷死した人をそこに埋めたのであったにもせよ、これをその建築物の下に埋めたという事が、ただちにこれを神に捧げた意味をあらわしているのではなかろうかと思う。いわんや古銭が伴っていたという事実あるにおいてをやだ。
 建築物を建てるに際しては、まず以て地鎮祭を行うのが例である。地鎮祭はすなわち地の神を祭るの行事で、それには何らかの供物を捧げるのが例である。先年奈良の大仏殿修繕の際に、須弥壇の柱の下から黄金造りの刀剣二口、鏡鑑、珠玉、その他種々の貴重な物品が発見された。興福寺の須弥壇からも珠玉その他種々の物が出た。これらはいずれも地鎮に際して、地の神に捧げた供物であらねばならぬ。後世これを手軽にする場合に、これに代うるに銭貨を以てする習慣の起ったのは、神社に賽銭を供えると同じ意味である。賽銭はすなわち供物代で、もとは神に奉仕するものに銭貨を委托して、適当なる供物を調進して捧げてもらうの意味である。そしてそれが転じて、地鎮の場合にもただちに銭貨を埋める事になる。この場合普通に永楽通宝を選ぶ様であるが、それは「永楽」という文字を喜んだに過ぎないので、必ずしも永銭とは限らない筈だ。
 人柱ということは、やはり供物として生きた人間を神に捧げるという意味にほかならぬ。すなわち地鎮の際における人身御供ひとみごくうなのである。神が犠牲として人間を要求するという思想は、もと食人の風習から起ったのだという説もある。或いはそうかもしれぬ。延喜式にも毛の※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)あらもの、毛の和物にこものを供物とする事がその祝詞のりとに見えている。毛の荒い獣類、毛の和かい獣類だ。古代には日本人も普通に獣肉を食した。特に鹿や猪を常食としたので、これを呼ぶに「シシ」すなわち肉の称を以てする程にもなっている。したがって神もそれを要求し給うものとして、所謂毛の※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)あらもの毛の和物にこものを供物として捧げるのである。神が人身御供を要求するのもそれと同じ意味で、もと人間に食人の習慣があったからだとの説明は、或いは一面無理ならぬところであるかもしれぬ。古代の支那人の間には食人の風習があったと言われる。今も野蛮民族の間には、それが現に行われている所もある。したがって神もそれを要求し給うものとして、これを捧げたろうとの思想が起ったというにも一面の理由はある。しかしながら、いかに古代の支那人だとて、今の未開野蛮の民族だとて、まさかに人間を常食とし、もしくは鹿肉猪肉などと同じく、珍味嘉肴としてこれを賞玩したとは思われぬ。古代支那人が人を食ったというのも、怨敵を殺してその報い切れぬ恨みをかえすとか、或いは一種の迷信の為に囚われたとかいう場合に限ったもので、今の所謂食人々種だとて、豚や牛を屠って喰う様に、平素人間同士相殺してそれを食糧とするのではない。したがって食物の意味で人間を神に捧げるとの解釈には、なお一考の余地があろうと思う。鬼が人間を俎上に載せて、耳までさけた口を開いて、舌なめずりしつつ庖丁を振うの有様は、狼や虎などと連想した一つの空想に過ぎないものであろう。
 自分の解するところによれば、もともと人身御供とは人間を食物として神に供するの義ではなくて、神に仕えしむべくこれを贈呈するの義であろうと思われる。戦闘に際して捕獲した敵人を奴隷として使役することは、古代において一般に行われたところである。特に婦女の少い社会にありては、しばしば隣国を襲撃して婦女を掠奪する。これを掠奪して殺して喰うのではなくて、これを妻妾とし、もしくは侍女として使役せんが為である。我が国においても今なお往々僻地に存する所謂掠奪結婚の遺風の如きは、かつてかかる事の我が国に行われた証拠と解する。そして敗戦の際に敗者が媾和の条件として、もしくは兇暴なる敵人の襲撃から免れんが為に、合意的に人間を敵人に提供する事があったならば、これすなわち人身御供でなくて何であろう。勿論この場合敵に提供するものは、必ずしも人間とのみは限らぬ。敵の要求する物品またこれを辞する事は出来ない。漢の天子が匈奴の襲撃から免れんが為に歳幣を約し、婦女を送ったというのはすなわちこれである。かの有名な王昭君の故事の如きは、たまたまこれが犠牲となった可憐なる一つのローマンスにほかならぬのである。
 同じ人間同士であっても、その生活の風習を異にし、或いは民族を異にする場合において、これを人間以外の鬼神ででもあるかの如く語り伝えられる場合がある。山姥やまうば山男やまおとこ、或いは天狗というが如きは、それが伝説化されたものにほかならぬ。景行天皇のみことのりにも、山に邪神あり、郊に姦鬼あり、みちを遮り、径に塞がりて、多く人を苦しましむとも、またそれを具体的に述べて、東夷のうち蝦夷もっとも強く、党類をあつめて辺界を犯し、農桑を伺いて人民を略すともある。この姦鬼邪神とはすなわち伝説化した化外の民族で、当時の蝦夷はすなわちその現実の邪神姦鬼なのである。これを理解しやすき様に今日の実際に引き当てて見るならば、なおかの台湾の生蕃が、折々所謂「出草」をなして田園を荒らしたり、或いは首刈をしたりする様なものである。被害者の側からこれを云えばまことに迷惑千万の次第ではあるが、もしこれを彼らの側から言わしめたならば、彼らの祖先が自由に利用していた筈の土地を他の民族に占領せられて、僅かに山間の不自由な場所に逐い込められているのであるから、たまには里に出て来て、自己の生存権を主張してやろうというにも一面の理由はあろう。そんな理窟はぬきにしたところで、実際平素不自由極まる生活をしている彼らが、たまに生活上の物資の豊富な里人の間へ出て来て、里人から姦鬼邪神として恐れられるに至るもやむをえない事であったであろう。
 ことに日常の生活に困難な社会にあっては、必要上産児の制限が行われる。適切に云えば育児の制限が行われる。所謂「間引き」が行われるのである。そして多くの場合において、その間引きの犠牲となるのは女児であるから、自然にその社会には婦女の払底を生ずる。これは今も内地の生活に困難な漁村などにおいて、往々実見せられるところである。よし今日その風習はなくなっていても、古代にそれがあった所は少くない。そしてそんな所には必要上妻を隣人に求めて、往々掠奪結婚が行われたのであった。酒呑童子が都の婦女を掠奪したと言われるのも、実際はやはり山住まいに婦女が欠乏であった為である。彼はその掠奪した婦女を侍女とし、妻妾として栄華を極めた。そしてそれに倦きた場合にはこれを殺して喰ったと伝えられる。これは彼が伝説化して鬼となっているが為である。勿論彼らの必要とするものは婦女ばかりではない。生活上必要な物資もまた遠慮なくこれを掠奪するのである。凶暴なる山人や海人はその脅威されたる生活を緩和せんが為にしばしば出でて里人を襲撃する。それが伝説化すれば戸隠山や鈴鹿山の鬼神となり、鬼が島のお話ともなる。そして平素その襲撃に悩まされた隣接村落の人々が、その山人や海人の掠奪から免かれんが為めに、なお漢が匈奴に歳幣を約したが様に、毎年一定の物資や婦女を彼らに供給するという様な事も、村全体の平和の為には我慢せねばならぬ場合もあったであろう。かくて彼らが姦鬼邪神と呼ばれ、はてはそれが伝説化せらるるに至っては、幣物とともに妙齢の婦女を人身御供として白木の唐櫃に蔵め、暗夜に社殿に送るという俗話も起って来るのである。
 自分は今昔物語その他の古書に見ゆる人身御供の話を以て、事実そんな事があったとは信じえない。しかし神が時として人間を犠牲として要求するという思想が存在した事は、到底これを否定し難いのである。突然海上で風波の難にあい、舟とともにこれに乗ったすべての人々の生命が奪われるおそれの生じた場合には、それは海神が人間を希望している為だと解する。にわかに濃霧が山を閉じ籠めて、旅客が行くべき道を失ったり、或いは烈風砂礫を飛ばして、行人の生命を奪ったりする様な場合には、それは山神が人間を要求している為だと解する。築いても築いても堤防が崩れたり、橋が流れたりする場合においてもまた同様である。ここにおいてか橘媛は走水はしりみずの海に身を投じた。強頸こわくび衫子ころもこは、茨田まんだ断間たえまに身を投じた。※(「てへん+丙」、第4水準2-13-2)ながらの橋や経が島に人柱の伝説があるのもみなこれだ。つまりは神に犠牲として人間を捧げるのである。この場合必ずしもその犠牲[#「犠牲」は底本では「儀牲」]となるものは婦女とは限らない。別して人柱として選ばれたものは多く男子であった。人身御供の伝説にも時に男子がこれに当った場合もあるが、古くはかの奇稲田媛くしなだひめの伝説を始めとして、多く妙齢の婦女となっているという事は、一つはそれが妙齢の婦女であるところに一種劇的の感興が起るという意味もあるであろうが、一つは事実婦女に欠乏を感ずる社会人が、婦女掠奪をなした場合の多かった為であろうと解せられる。
 生きた人間に対して提供せられる犠牲は生きたままの人間で、或いはこれを奴婢とし、或いはこれを妻妾とするのであるが、既に伝説化して人間社会以外に脱出し、鬼神或いは妖怪変化の類となっているものに対しては、生きたままの人間では間にあわぬ。出没自在の妖怪変化或いは鬼神の類にあっては、地上にあってその行動に甚だしい束縛を免れざる人間を伴うことが出来ぬ為である。ここにおいてか人身御供となり、人柱となれるものは、必ず死して人間界の束縛から脱離することを条件とする。なお死者に対して殉死者があると同一思想に基づくものである。殉死者は決して死者の食物とならんが為ではない。なお生前においてこれに仕えたと同じ様に、死後なおその左右に侍して、これが使役に供せんが為である。我が国においても古代には殉死の風習があった。垂仁天皇これを禁じ給うたと伝えられてはいるけれども、後にもなおそれが事実上行われていた事は、大化の改新においてさらにこれを禁ぜられた事によって明らかである。殉死の場合には或いは自ら進んで身を供したものもあろうが、多くは嫌がるものを絞殺してこれにしたがわしめたものらしい。いずれにしてもこれは明らかに死者に対する人身御供である。
 ここにおいて自分はさらに飜って宮城二重櫓の白骨について考えてみたい。ここに一つの特殊の建築物の下から数体の白骨が古銭とともに発見されたというのは事実である。しからばこの事実をいかに解すべきかが当面したる問題である。墓地説もあるらしい。傷死者を埋めたという説もあるらしい。しかしその伴える古銭が寛永通宝鋳造以前の通貨であって、その埋葬がそう古いものであるとは考えられぬ事において、墳墓説は到底否定されざるをえぬ。何となれば、その時代に墓地に普通の屍体を埋葬するにおいて、単に通貨のみを副葬して、他に何物をも伴わぬという事実のあるべくも思われぬからである。勿論自分は親しくそれを調査したのではない。したがって古銭と白骨とがどんな関係で発見されたかを詳かにせぬ。或いは別々のものであったのかもしれぬ。しかし既に白骨が甚だしく腐蝕されずによく保存されたという事から考えると、もしそれが墳墓であったならば、必ず多少の木棺存在の形跡があるとか、甕棺が存在するとかいう事実がなければならぬのではあるまいか。またそれが墓地であり、しかもかく局限されたる場所から多数の白骨が発見される様であったならば、埋葬の深さは通例そう深いものではないのであるから、築城工事に際してそれに心付かぬという様な事もあるまじく、既にそれに心づいた以上、それをそのままにして上に厚く盛り土をなし、その上に神聖なるべき城櫓を建築したとも考えられないではないか。
 或いは傷死者の多かったという記録によって、それをそのままその場所に埋めたというならば、これはただちにその死者を人柱に応用したものと解せねばならぬ。何となれば、屍体は不浄として忌避されたものであった。したがってそれを単に埋葬の意味を以て神聖なるべき建築物の下に埋めらるべき筈はあるまじき事である。ただそれを地神に捧げ、或いはそれを城櫓の永き守りとなすと想像する場合においてのみ、その埋葬の理由が肯定せられるのである。しからばそれはただちに人柱でなくて何であろう。
 しかしそれが既に人柱である以上、たまたま生じたあり合せの屍体をそれに応用するという事は、神に対する誠意を披瀝する意味においていかがであろう。永代を期するこの大城郭の築造において、そんな所謂間に合せが行われたとは信ぜられない。昔の所謂人柱とか人身御供とかいうお話は、多くは伝説に過ぎないものであって、その伝うる如き事実が果して存在しなかったにしたところで、さらにこれを死を見る事帰するが如く、甚だしくこれを重大視しなかった武家時代の思想からこれを考えてみてはいかがであろう。殉死という事は大化に禁じられた以来において、そう引き続き行われたものとは思われない。しかしながら武士の間にはそれが再現された。戦場において主人が戦死した場合、それが到底免れないのであったと云えばそれまでだが、或いは自暴自棄に陥ったと解すればそれまでだが、ともかくその子弟従者がその父兄主人の死に殉ったものは少くなかった。そして平和の時代においてもこれが引き続き行われた。将軍が死すれば大名が殉死する。大名が殉死すればその家臣が殉死する。その殉死者にさらに殉死者がある。仙台に遊んで瑞鳳殿に参拝し、かの伊達政宗の殉死者の墓標の並樹の如く列をなせるを見るものは、何人もその当時の武士の死を軽んじたることについて、一種の感慨を催さぬものはないであろう。幕府はその弊に堪え兼ねてこれを禁じた。しかし大名の間にはなおそれが行われた。津軽家の如きは主家の子弟の死についてすら殉死があった。かくの如きの時代において、永世を期すべき城郭の建築において、ことにその工事困難にして、しばしば崩壊して多くの人命を損した様な場合において、地神に供せんが為に「伝説上の人柱」が実現されたと想像する事は、最も合理的なる解釈ではあるまいか。いわんやこれが通貨を伴い、明らかに地鎮の行事が行われた事を証するものあるにおいてをやだ。
 人身御供と人柱と、それは人を殺して神に仕えしめる意味のものである。なお死者に対する殉死と同じ意味のものである。神がそれを食物とするという思想は後の転訛であらねばならぬ。そしてその殉死が盛んに再現せられた時代において、人柱の実現さるるという事は当然の成り行きである。自分は問題の白骨についてこの以外に合理的の解釈を見出しえぬ故にあえてこれをいう。
(大正十四、七、十一、奥州岩谷堂の客舎において)

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「中央史壇 第一一巻第二号生類犠牲研究」
   1925(大正14)年8月
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年9月4日作成
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