本編は去る七月十一、十二の両日にわたって、仙台放送局のもとめに応じて放送したところであります。本州における蝦夷の末路は、実は私が創刊号以来、引続き本誌上で継続研究したい積りの東北民族研究中の主要なる部分であります。爾今なお数回にわたり、その研究を積み重ねた最後の結論としてあらわるべきものの、おもなる部分を占めているのであります。私の研究は実はまだ途中におりまして、これからさらに資料を捜索し、同好者各位の御注意を仰いで、研究を進めて参りますうちにはまた考えがどう変って参りますかもわかりませんが、大体の結論においてはあまり動かぬ積りでございます。それ故に、発表の順序に違って参りますが、初心の読者諸賢の為には、まず以てその研究の道筋なり、結果の大要なりを、あらかじめ知っておいていただく方が、かえって便宜の多い事もあろうかと存じますし、また読者諸君からの切なる勧告もありますので、それに応じてその梗概紹介の意味で、放送の草案をここに発表する事に致しました。放送の際には時間の都合で省略したところも多く、また掲載に際し、多少修正を加えまして、放送のままのものとは幾らか精しくなっておりますことは、あらかじめ御承知おきを願います。
 また本編述べるところが、すでに本誌に掲げたところ、また将来掲げるところと、多少重複する点のあるのも、これまた御承知を願います。もとよりラジオ放送の事でありますから、極めて通俗に、研究の道筋と結果とのみを引っくるめて述べたに過ぎません。その考証的論証は、これからも引続き発表する「東北民族研究」について観ていただきたい。

 私は本来日本古代史をおもに研究致しているものであります。その関係から、特に東北文化の研究の必要を感じまして、去る大正十三年以来、当仙台の大学へお手伝いに参り、年中の大部を東北地方に暮らしまして、主としてこの方面の研究に没頭致しているのでございます。それで本日はその研究の一部、及びこれに関する感想の一端を申し述べたいと存じます。
 申す迄もなく我が大日本帝国は、世界に一つも類の無い程の古い建国の歴史を有しているのであります。そして上に万世一系の皇室を戴き、歴代天皇の御稜威みいつはいやが上にも輝いて、以て今日の隆昌なる国運を成すに至ったのでありますが、またそれと同じ様に私ども日本民族も、この国運の進展に伴って、終始一貫した成立発展の歴史を続けているのであります。
 しかしながら、何分にもその時代が甚だ悠遠なる大昔の事でありますから、例えば遠方の景色を眺めると同様で、大体においてその立派なことはわかりましても、細かい事情にはわかりにくいところが多いといううらみがあります。しかるに我が東北地方は、同じ日本の中でありましても、その拓殖の時代が新しく、その歴史が若い。したがって例えば近い所から景色を眺める様なもので、比較的細かい事情までも、わかりやすいという場合が多いのであります。したがってその研究の結果をさらに古い時代に移し、これを東北以外の他の地方の事にも引きあてて考えますと、自然普通の史料からはわかりにくいところのことも、容易にわかって来ようという道理であります。これ私が、日本古代史研究の為に、特に東北文化の研究の必要を認めた所以であります。その一例として本日は、「本州における蝦夷の末路」を観察致します。

 東北地方に昔蝦夷と呼ばれた異民族のいたことは、我が古代史上の最も著しい事実であります。しかしそれはどうなってしまいましたか、今日奥羽地方の何処を尋ねてみましても、そんな民族に属すと自認するものは一人も住んでおりません。彼らはいつの間にか、奥羽地方から消えてしまったのであります。
 普通に歴史の示すところによりますと、むかし景行天皇の御代に当って、武内宿禰が勅を奉じて東国を巡察致しまして、蝦夷という変った民族の住んでいたことを復命致しております。その蝦夷の国を日高見の国と申し、今の北上川流域地方に当るものの如く考えられておりました。北上川という川の名も、昔は「日上」と書いて「ひなかみ川」とも申し、それがすなわち日高見川であったと考えられます。
 かくて後日本武尊は、その日高見国を平らげて、蝦夷をお従えになりました。これが我が古代史の上に、蝦夷の事の見えている初めであります。
 その後蝦夷の征討、蝦夷の服従の事実は、たびたび歴史の上に見えておりまして、斉明天皇の御代には、阿倍比羅夫が大いに日本海方面の経営に成功して、今の北海道にまでも、遠征の手を延ばしました。しかしこれはそのあとが続かず、今の秋田県の北部地方以北は再び蝦夷の手に放任することに成った様ではありますが、奈良朝のはじめには出羽国が設置せられ、引続き陸奥(今の陸前)に多賀城を置き、秋田城との連絡を保って奥羽地方の蝦夷の経営は、着々進捗して参りました。
 蝦夷に対する経営の大方針としましては、勿論国家として威を以てこれに臨む場合のあるのはやむをえませんが、もともと懐柔政策を主としたもので、恩を以て誘い、徳を以て導き、彼らを日本民族に同化せしめるにありました。さればその服従しましたものは、或いはこれを内地諸国に移住せしめ、二代間糧食を給与する程の優待をまで与えました。またその特に勲功のあったものには、或いは位を授けたり、或いは郡司に任用したりなどしまして、大そう調子よく進んでいたのでありました。
 しかるに奈良朝の末に至り、もと蝦夷の出身で、勲功によって外従五位下勲六等という位階勲等を賜わり、今の宮城県栗原郡地方にあった上治郡の大領に任ぜられていた伊治公呰麿これはりのきみあざまろというものが、これも家柄はもと蝦夷の流れであったと思われますが、早くから日本民族の仲間になっていた牡鹿郡の大領道島大楯みちしまのおおたてという者から、相変らず蝦夷待遇を与えられるのを憤慨しまして、宝亀十一年に暴動を起し、按察使あぜち紀広純を殺すという大騒ぎになりました。その勢強く、官軍容易にこれを鎮定する事が出来ません。征東将軍紀古佐美が、今の江刺郡あたりの蝦夷と戦った際の如き、大軍を以て北上川を渡り、僅か八百ばかりの蝦夷の襲撃を受けて大敗し、戦死者二十五人、矢にあたって負傷したもの二百四十五人に対して、溺死者千三十六人、裸になってやっと泳いで帰ったもの千二百五十七人という様な、大醜態を演じた程でありました。かくて桓武天皇の延暦年間に、有名な坂上田村麿が出て参りますまで、二十数年間にわたった奥州の大乱となりました。
 坂上田村麿の遠征は大成功でありまして、後世征夷の神として崇められるくらい、今の岩手県中部地方に頑張っておった蝦夷もこれには恐れ入ってしまいました。そこで彼は胆沢いざわ城に鎮守府を設けて蝦夷地経営東北守備の根拠地となし、さらにその北の紫波郡の地に志波城を築きました。おそらく今の盛岡市のあたりまでは、田村麿遠征の結果として、すべて服従した事であったでありましょう。俗説では今の青森県七戸町の北方、つぼ村のあたりまで征服して、ここに「日本中央」と刻した石碑を立てたなどと云いまして、すでに平安朝頃からその説はあり、土地の人はその碑が埋まっている筈だというので、たびたび発掘を試みたりしましたが、そんな事はあるべき筈がありません。
 その後十余年嵯峨天皇の弘仁の頃に、さらに文室綿麿ぶんやのわたまろが遠征しましたが、この時にはさきに田村麿が行かなかった奥の方までも参りまして、確かに今の岩手県の東北部二戸郡福岡町附近の、爾薩体にさたい都母つぼあたりまでは従えました。この都母を、普通には今の青森県の坪村だと解しておりますが、これはやはり爾薩体附近の地名です。
 この遠征の結果として、今の岩手県の中部地方、和賀、稗貫ひえぬき紫波しわの三郡を設置しました。けだしこの辺までは、完全に帝国の版図に加わったのであります。
 しかしこの頃から、だんだんと中央政府における貴族政治の弊害が甚だしくなり、地方の政治はみだれて、蝦夷に対する睨みが利かなくなりました。のみならず、上にならう下で、地方官はかえって蝦夷人を虐待して、私利をのみ図るという有様でありましたから、一旦従っていたものもだんだん背いて参ります。綿麻呂の頃から五六十年後の陽成天皇の元慶年間には、出羽方面において、今の秋田県地方の蝦夷が国司の悪政を恨んで暴動を起し、国司も如何ともする事の出来ない程の大騒動となりました。この時の蝦夷側の要求に、秋田川すなわち今の御物川から北の地方を以て、蝦夷の国として認めてもらいたいと云っているのを見ますと、ほぼその頃の日本領と、蝦夷の国との勢力範囲がわかりましょう。もっともこの暴動は、国司の悪政の結果でありますから、藤原保則という善良なる地方官が赴任しまして、善政を施しますと、蝦夷もたちまち従順になりまして、さしもの大乱も無事に鎮定してしまいました。
 この元慶の出羽の乱を最後として、直接蝦夷に関する事蹟は、中央の記録にはあまり多く見えてはおりません。しかしこれは蝦夷の勢力がなくなって従順になったとか、蝦夷が消えてしまったとかいう訳ではありません。国家の威力が衰えて、蝦夷に対してもそう圧迫を加えることも出来ず、彼らの為すままに放任して、その我儘をも黙認していたが為に、わざわざ記録に上ぼす程の事が起らなんだのでありましょう。実際は、国司の政治が紊れるに従って、蝦夷の方はかえって勢力を恢復し、これまで立派に日本の国家に属し、郡役所を置いてあった地方までが、蝦夷に取り返されて郡を廃止するところがあった程であります。それと今一つは、中央政府の政治が紊れて、国家で国史を編纂することも無くなったが為に、少々くらいの事柄は伝わらなくなってしまったということもありましょう。この元慶の乱から二三十年後、延喜の頃に藤原利仁、すなわち有名なる利仁将軍が、大いに蝦夷を征伐して、昔の坂上田村麻呂、すなわち田村将軍と相比すべき程の、征夷の勇将として伝えられているのでありますけれども、その征夷の事蹟は一向にわからないのであります。
 その後大いに飛んで、六百余年を経過しました鎌倉時代の末頃に、津軽に蝦夷の乱が起ったという事実があります。これは鎌倉幕府の威力を以てしても、容易に鎮定することが出来なかった程の、盛んなものであったらしいのですが、その詳細なことはわかりません。またそれまで六百余年間、本州の蝦夷はどうなっておったか、またその後どうなったものか、普通の歴史では一向問題になっていないのであります。

 しかしながら、この問題になっていない間の事柄が、実は日本国家の発展、日本民族の繁延の顛末を知る上に、最も必要なのであります。問題になる程の大事件と申しますと、大抵は戦争でありますが、前にも申した通り、国家の蝦夷に対する経営の大方針は、武力によってこれを圧迫するというのではなくして、懐柔政策によってこれを日本民族の仲間に入れようというのでありますから、戦争は畢竟平和手段の破綻から起った、一時の変態的現象でありまして、戦争のない、平和な時代、すなわち歴史上の問題となっていない間において、彼らはたえず日本民族に同化融合しつつあったのであります。そしてついに本州には、一人の蝦夷も存在しなくなってしまったのであります。今この経過を観察しまするについて、暫く眼を転じて、他の方面の事情を観察する必要があります。
 今日奥羽地方には、無論一人の蝦夷と言わるる異民族は遺っておりません。中にはあれは蝦夷の子孫だなどと、他のものから指さされるものが無いではありませんが、実際上その人々といえども、皆立派な日本民族でありまして、他の人々と少しも区別するところがないのであります。しかしながら奥羽地方には、遠い遠い大昔に、歴史時代の蝦夷の先祖が遺したと思われる遺物遺蹟が、沢山に存在しているのであります。チャシすなわち彼らの拠って敵を防いだ所とか、竪穴すなわち彼らの穴住居していた穴の址とかいうものもそうでありますが、一番目につくのは石器時代の遺物遺蹟であります。石器時代とは、人間が未だ金属の刃物を使うことを知らず、石を打ち欠いたり、磨いたりして刃物を造った時代の事でありまして、世界のどの人種、どの民族でも、早いか、おそいか、必ず一度は経由したものですが、その時代の遺物遺蹟が、奥羽地方にはことに多いのであります。すなわち奥羽地方では、石器時代に比較的人間が多かったということになるのであります。
 石器時代の遺物としては、石器土器骨角器が一番多く、ことに奥羽地方から出るものには非常に精好なものが多いのであります。中にも土器の如きは、今日の陶器製作者でも容易に真似の出来ぬ様な、意匠の豊富な、技術の優秀なものが多く、ひとり実用品のみでなく、立派な美術品ともいうべき程のものが少くありません。実際奥羽地方の石器時代の土器は、世界のあらゆる石器時代の土器に比較して最も勝れたものと申してもよいのであります。この時代の奥羽地方の住民は、実に石器時代文化の頂点に達し、観賞品愛玩品を製作して、これを楽しむという程度に達していたものであった事がわかります。
 しかしながら、かくの如き品物が出ますのは、実はひとり奥羽地方のみには限りません、関東の地方においても、技術の点ではやや劣りますが、数においては奥羽地方に劣らぬ程の、多くの遺物遺蹟があるのであります。そしてこれと同じ系統に属すと認められるものが、数においては少いけれども、さらに本州中部から、近畿地方、中国、四国、九州にまで及び、遠く琉球にまで存在しているのでありまして、ことに九州南部には、それが比較的多数に発見せられているのであります。
 この事実は何を語っているのでありましょう。関東ことに常陸の地方に、大昔に蝦夷が居たということは、千二百年の人がすでに古老の伝説として語っております。しかしその他の地方においても、たとい歴史が何らこれを語らず、古伝説にも少しも伝える所が無いとしましても、この遺物の存在から見まして、かつては同じ系統に属する民族が、早いか、おそいか、多いか、少いか、ともかく日本全体にわたって、住んでいた事実が証明せられるのであります。
 そしてその末路はどうなったのでありましょう。これはもっぱら東北地方における、同じ系統の民族たる蝦夷人の顛末から推測すべきものであります。

 さらに眼を転じて、今の北海道について観察しますると、この島はむかし蝦夷が島と呼ばれた程で、主として蝦夷人が住んでいるところでありました。そこへ内地から続々移住者があります。初めは渡り党と申して、もとは同じ蝦夷の仲間ではありますが、早く奥羽地方において日本民族と接触し、日本の風俗をなし、不充分ながらも日本語を話す様になっていた人々が、その西南端渡島の海岸地方に移住しました。そのほかにも、商業漁業の利を求めて、内地から出かけたもの、仏教を拡める為に、内地から渡海した僧侶、或いは罪を犯して流されたものなども、無論ありました。これは主として鎌倉時代以来のことでありますが、明治以来ことに移住者が多くなり、ついに今日の状態を呈する様になったのであります。今日では北海道住民の大多数は、明治以来の内地からの移住民で、その間に交って僅か一万五千人ばかりの蝦夷人の子孫が、アイヌの名によって遺っているに過ぎないこととなっています。しかもそのアイヌ等も、今ではだんだん日本民族に同化しまして、日常の生活も、ほぼ普通の日本人同様になり、ことに青少年の如きは言語も全然立派な普通語になってしまって、奥羽の田舎の人々と話をするよりも余程わかりやすくなっております。勿論古くから日本人との間に結婚もありましたし、日本人の子で、アイヌの養子となるのもありましたから、血の方も次第に混りまして、今では普通の日本人と、容貌の上からも区別し難いものが、だんだん多くなっております。この様子から見ますと、今の老人等が無くなって、青少年の時代となりましたなら、彼らはもはやアイヌとして区別する必要が無くなってしまうだろうと思われます。そして本州において蝦夷が全く無くなったと同様に、北海道においてもアイヌは消えてしまうべき運命を持つものだと信ぜられます。
 しかしながらアイヌが消えると申しましても、アイヌ人そのものが滅亡し、世の中から失われてしまうのではありません。次第に日本民族の仲間になってしまって、もはやアイヌとしての民族的存在が無くなってしまうのであります。そしてその事は、移して以て東北地方の蝦夷の末路がどうなったか、さらに東北地方以外、歴史にも、伝説にも、何ら伝うるところがなく、ただ石器時代の遺物によってのみ、その過去の存在が知られるに過ぎない地方の同じ系統の民族が、どうなってしまったかを推測せしめる材料となるのであります。

 しかるに普通に歴史の説いているところでは、蝦夷人の存在は殆ど奥羽地方にのみ限られ、時代も平安朝頃まで、それも主として田村麻呂や綿麻呂の征伐が最後になっているのであります。私ども四国の様な遠方に生れ、上方で教育を受けましたものは、蝦夷と云えば千年も前の過去の存在で、その後全く本州では蹟を絶ってしまい、今日の北海道のアイヌとは、殆ど関係の無いものの如く、ただ漠然と考えていたのでありました。後に少しく詳しく歴史を研究する様になりまして、鎌倉時代の末に津軽で蝦夷の乱が起り、鎌倉幕府の兵も容易にこれを鎮定することが出来なかったという事実の存在を知りました時には、殆ど意外の感に打たれたのでありました。
 そんな次第でありますから、歴史時代の蝦夷と今の北海道のアイヌとの間に連絡がつかないのも無理はなく、いわんや石器時代の住民と、蝦夷やアイヌとの間の関係の明らかならぬのも、実際やむをえぬ次第でありました。
 我が国で人類学、考古学の、やや具体的に研究される様になりましたのは、何と申しても故坪井正五郎先生を以て初めとしなければなりませんが、先生の時代には、石器時代の住民はアイヌとは違い、それよりも前にいたコロボックルという人類であったとの説が、最も有力に行われていました。その後我が学界における考古学人類学方面の研究は大そう進歩しては参りましたが、今以てその方面の学者達の間には、石器時代人は蝦夷とは違うとか、アイヌとも違うとか、蝦夷とアイヌとは違ったものだとか、いろいろの学説が行われているのであります。もっともこの違うということは、もともと程度の問題でありまして、学問の立場からそれぞれ解釈を異にするのもやむをえない事ではありますが、これにつきましては、少くも歴史家に少からぬ責任があるのであります。
 私が先年来東北地方に参りまして、その実地を調査し、その地方的史料を調べてみますると、案外にも後の時代にまで、奥羽北部地方にはなお蝦夷が遺っていたことがわかりました。もっともその実地につかずとも、徳川時代までも津軽の北方海岸に蝦夷がいたということは、いろいろの人の旅行記その他のものに書いてありまして、或る程度まではわかっていたのでありましたけれども、さらに実地について、その土地の人の話を聞きますと、近い頃までこの地方には蝦夷がいただの、あの部落は蝦夷の子孫じゃそうなだのという話を伝えているもの、或いは具体的にあの家は蝦夷の子孫じゃなど言わるるものの、実際少からぬには驚かされました。しかしそれはただお話であって、確かな証拠はありませんが、津軽藩の記録によりますと、今から約二百六十年前の、寛文頃に、まだ領分内に蝦夷として認められたものの居た村が、外が浜に十六ヶ村、その蝦夷の戸数が四十二軒、その名前までが一々わかっているのであります。その後八十六年を経た宝暦六年に至って、彼らもだんだん日本化して参りまして、もはやいつまでも蝦夷として区別する必要が無いと認めたものとみえまして、これを平民の戸籍に編入し、普通の日本人と同一の待遇を与えることになりました。それを当時の記録には、「この年外が浜のえびすシャモとなる」とも、「外が浜の狄をシャモに仕る」とも書いてあります。シャモとは今も北海道のアイヌ等が、日本人を呼ぶ名称で、すなわち狄が日本人になったのです。戸籍の上でそれを区別し、蝦夷として待遇しますればこそ彼らは蝦夷でありますが、その差別待遇を改めさえすれば、直ちにシャモすなわち日本人になるのであります。すなわち外が浜に取り遺されていた蝦夷人等は、滅びたのではなくて、日本人になってしまったのでありました。それまでにも彼らは、余程日本人風になっていたと見えまして、寛文頃においてすでに彼らは、名前なども大抵は日本人と同じ名をつけていました。藩の記録ではそれを区別する為に、時としてその名の下に犬という字をつける。万五郎ならば「万五郎犬」、林蔵ならば「林蔵犬」というのです。「犬」はすなわち「アイヌ」の略で、万五郎が二人ありますと、一人は「万五郎犬」、一人は「万五郎逢犬」という風に、呼びわけておりました。その「犬」や「逢犬」の文字を戸籍の上から取ってしまいさえすれば、彼らは直ちにただの万五郎、ただの林蔵になって、シャモになってしまうのであります。
 しかるにどうした訳か最北の六箇村のものは、この時日本人になるのを嫌って逃げ出してしまいました。それで他の解放されたものが、はやく立派に日本人になって、肩身広く暮らしているにかかわらず、彼らのみはいつ迄も、蝦夷だ、アイヌだと云って、差別されます。彼らも後にそれを悔いまして、普通の民籍に編入されんことを願いましたけれども、一旦命を拒んだというので、容易に許してくれませず、それから五十年たった文化三年になって、始めて最後の解放を受けました。ここに至って本州には、もはや全く蝦夷として差別されるものが、一人もいなくなったのであります。
 この最北の六ヶ村のものが、解放の命を拒んだということは、いかにも妙なことではありますが、シャモになれば領主に対する義務が多くなるとか、アイヌの神の祭が絶えるとかいう様なことを考えて、ついその好機会を取り逃したものであったでありましょう。
 この文化三年という年は、今から僅か百二十二年前でありまして、私どもの祖父母の生れた頃であります。そんな近い時代にまで、本州に蝦夷がいたという様なことは、親しくそれを研究します迄は、少くも私にとっては、全く夢にも考えないことでありました。しかしそれはその地が一番北の端にあるが為でありまして、それよりも五十年前の宝暦六年には、それよりも南の蝦夷村が解放されたのでありました。この事実をさらに古えに及ぼし、南の方に引きあてて考えましたならば、順々に中央に近い地方から、蝦夷がシャモに変って行った事情がわかるでありましょう。
 この本州における最後の解放の行われた文化三年から、五十余年を経た嘉永五年に、有名なる吉田松陰がその地を視察しまして、その感想を東北遊日記にこう書いてあります。

龍飛崎の近地に五村あり、戸数共に六十許、其の人種もと蝦夷人種に係る。今は則ち平民と異なるなし、夫れ夷も亦人のみ。教へて之を化すれば、千島唐太亦以て五村たるべきなり。而も奸商の夷人を待つや、蓋し人禽の間を以てすといふ。あゝ惜むべきかな。

 というのです。ここに五村とあるのは、最北の龍飛村が無くなった為ですが、千島唐太からふとの住民も、これを教化しさえすれば、この五村と同様、普通人と少しも差別のないものに成るとの事を、さすがに松陰程の経世家として、早速に感じた事でありました。そしてその松陰の云った事が、明治以来事実にあらわれて、今では千島樺太の土人までも、この五村と同様、漸次普通人と異なるなくなりつつあるのであります。
 実際北海道のアイヌが甚だしく堕落して、世間の文化の進歩におくれたということは、松前藩の政策として、商人を使用して、どこまでもアイヌを未開の状態に保存し、所謂人禽の間、すなわち人類と禽獣との中間物位の待遇を与えていた為でありました。松陰がそれを憤慨したのも無理はありません。「蝦夷も亦人のみ」であります。教えてこれを化すれば、皆立派な日本人になってしまうのであります。そして現に北海道や樺太において、それが実現されつつあるのであります。

 この津軽外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。
 その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。
 安倍貞任、清原武則、藤原清衡、これらの人々の事を後世誰が蝦夷だと思うものがありましょう。系図の上から申しても、安倍氏は崇神天皇朝四道将軍の一人なる大彦命の後裔、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔、藤原氏は申すまでもなく大織冠鎌足の子孫田原藤太秀郷の後裔ということになっているのです。彼らは日本語を使い、日本風の生活をなす。その生活の上から云っても、無論当時の上流日本人に劣らぬものであったでありましょう。さらに血の上から申しても、たびたび日本人の血を交えて、おそらく普通の日本民族とそう変ったものではなかったかもしれません。しかし当時の人々は、これを俘囚の長と云い、前九後三の役を征夷の軍と云い、源頼朝が征夷大将軍の官を頻りに希望致したのも、この征夷の官職を以て、夷狄藤原氏を討伐せん為であったと解せられます。ことに藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落ばんすういらく」、「虜陣戎庭」などと称し、京都の公家衆は清衡の子基衡を呼ぶに、「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに、「奥州の夷狄」の語を以てしております。俘囚とはこれをエビスと読みまして、蝦夷の日本風に化したものを呼ぶ称でありました。彼らが系図の上でいかに言われておりましても、その当時の人々がこれを蝦夷の種と認め、自分らもまたこれを認めていたことは、他にもいろいろの証拠があって、到底疑いを容れるの余地は無いのであります。しかるに後世の人々が、どうしてもこれを蝦夷の種だと認めえない程にまで、彼らはすでに日本風になっておりました。否、すでに日本民族になってしまっていたと申してよいのでありましょう。されば立派な歴史家と言われる人々の中にも、俘囚は本来日本人であったなどと、史料の誤解から起った窮説を主張してまでも、彼らの蝦夷の種たることを否認せんとしたものが、近頃までもまだ少くありませんでした。歴史の研究が進歩し、その知識の普及した今日では、もはやこれを疑わんとする人もそうありは致しますまいが、二十数年前に私がその説を「歴史地理」の誌上に発表しました時には、これを以て古英雄を侮辱するものだとして、脅喝的の書面を寄せたものすらありました。これと申すもこれらの人々が、後人をしてそれ程の感じを起させる程までに、すでに日本民族に同化していたからであります。
 しかしながら、彼らが蝦夷の流れであったという説を聞いて、しいてそれを信ぜざらんとし、またはこれに対して一種の反感を催おすものすらあるということは、一面には世の人々が、日本民族なり、蝦夷なりについて、十分の知識を有しないが為であります。日本民族とは、前々からこの島国に居た先住の土人なり、後に海外から多数に移住して来た帰化人なりが、ことごとく天孫民族の暖い懐に抱擁せられて、完全に同化融合し、同一の国語を話し、同一の生活をなし、同一の思想を有して、ともに同一の国家を組織するところの、一つの新らしい人種であると私は解釈しております。多くの民族が融合して、その短処を遺伝したものは、自然淘汰の原則から漸次絶滅し、お互いの長所を採ったものが次第に繁延して、今日の日本民族を為しているものでありますから、この点において私は、日本民族の誇りがあるのだと信じているのであります。したがって仮りに先祖が蝦夷の流れを承けていたとしても、決して卑下してみたり、屈辱を感じたりする必要はありません。

 この点については、さすがに日の本将軍とも言われた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、皆それぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれを致しません。彼は自ら土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦ながすねひこの兄安日あびというもので、神武天皇御東征以前の、大和の領主であったと云っております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったと云っております。その後裔なる秋田実季の如きは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということを以て、家の誇りと致しているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査を重ねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の永禄日記十年の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていた趣きに見えております。しかも一方に同じ安倍氏の流れでも、北海道松前の下国氏の伝うるところでは、先祖は安日長髄だとあって、そのアベという姓は、先祖長髄彦以来のものだという風になっております。その結果として、秋田家の方では、長髄彦の兄の子孫だと云い、松前下国しものくに家の方では、長髄彦その人が先祖だと云うことになり、その指すところが違って参りますが、いずれにしても長髄彦家に関係をつけ、日本最古の名家だとすることは同一であります。この系図が果して信ずべきものか否かは別問題として、奥州のこの一大豪族が、しいて名家の家柄に附会することなく、どこまでも土人の後裔を以て任じておりますことは、見上げた態度だと申さねばなりません。
 しかしながら、仮りに安東氏が土人の後裔であるとしましても、それは男系による系図の上だけの事で、血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、勿論日本民族になってしまっているのであります。何人なんぴとかかの室町時代の大豪族たる日の本将軍安東氏を以て、仮りにも蝦夷というものがありましょう。徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏を以て、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、極めてなだらかに推移して参りましたことは、この一例を以てしても思い半ばに過ぎるでありましょう。

 世間の人は蝦夷とだに云えば、ただちに今の北海道のアイヌを連想して、何だか開けないものの様に感ずるでありましょうが、今のアイヌは松前時代多年の圧迫の為に、堕落のドン底に落ちこんで、甚だしく世間の文化の進歩に後れた為に、双方の間に著しい差違がある様にみえるのです。アイヌは多くの長所と美点とを持っております。昔の蝦夷と当時の日本民族との間には、文化の上においてもそう著しい差違がなかったでありましょう。その長所その美点は、十分に保有しておりました。そしてそれが皆日本民族に混じってしまって、日本民族本来の長所美点の上に、さらに蝦夷の長所、蝦夷の美点を加えたものでありました。
 前に申した通り、国家の懐柔政策は、なるべく蝦夷を内地諸国に移して、日本民族に同化融合せしめるにありました。したがって日本国中到る所、蝦夷の血の行き渡っておらぬ地方はありません。日本各地の住民は、石器時代以来の先住土人の血を保存しているばかりでなく、歴史時代において奥羽から移住した蝦夷の血を、多量に交えているのであります。したがって日本人には毛深いものが多い。東洋のあらゆる諸民族、また南洋のマライ族にしましても、頬鬚の生えているものは殆どありません。ただ蝦夷やアイヌのみは、毛人と言われた程に毛深いのを以て特徴としておりますが、日本人に相当鬚の濃いものの多いのは、この蝦夷の血を交えている一つの証拠となりましょう。私の如き四国に生れましたものでも、相当頬鬚が生えております。私のこの放送を聞いておって下さる方々の中にも、定めてお鬚の多いお方が少からぬ事と存じます。そして私は、これを以て、私ども日本民族の誇りと致したいのであります。
 前申す通り蝦夷やアイヌは多くの長所と美点とを持っておりますが、中についても著しいのは、彼らが勇悍にして死を恐れず、至って義理堅いという点であります。これは所謂武士道的の性格であります。昔の蝦夷はこの尊むべき性格を持っておりましたから、国家の干城たる兵士となり、或いは貴顕紳士の従者となって、天皇の御為に、またはその主人の為に、最も忠勇なる働きを為すに適当なる民族でありました。
 歴史を見まするといつも蝦夷征伐ということが著しくあらわれておりまして、日本人は常に蝦夷に圧迫を加えて、これを従えたかの如く思われますが、蝦夷征伐と申しても、決して官軍と蝦夷とが相対して戦争したのみではありません。蝦夷の中にもつとに大義名分をわきまえ、官軍に属しているのが多かったのであります。しかし彼らの中には未だ朝廷の尊きを知らず、日本民族の仲間となることの幸福を解せずして、頑強に反抗を試みたり、或いは意志の疎通を欠いたが為に、暴動を起して害を良民に加えたりする様な事もありますから、ここに所謂蝦夷征伐の必要もあるのでありますが、この場合にも日本民族たる官軍が、蝦夷との間に民族的闘争を為したのではなくして、官軍の中の勇士には、蝦夷民族がいつも多かったのであります。所謂夷を以て夷を征するもので、かの伊治公呰麻呂の如きも、やはりその著しい例でありました。
 蝦夷を古語に佐伯さえきと申しました。その佐伯を徴発して、宮門護衛の兵士に採用しましたものを佐伯部と申し、大伴氏の一族佐伯宿禰に率いられて、大伴部の兵士とともに天皇をお護り申すお役をつとめておりました。その大伴佐伯の祖先以来の家訓に、

海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、のどには死なじ。

 とあります。大君の御為には、屍を海の水に漬し、また山で草が屍に生えようとも、決して辞するところではない。ただ大君のほとりにのみ生命を捨てるので、むだな犬死はせぬと申すのであります。佐伯は国家の干城として、ひとり大君にのみ忠誠であるばかりでなく、貴紳豪族の従者として、その主人と頼んだ人の為には、また甚だ忠実な家来でありました。むかし顕宗仁賢両天皇の御生父たる市辺押磐皇子の従者に、佐伯部売輪さえきべのうるわというものがありました、御父皇子が雄略天皇の為にお殺されになりました時に、売輪は皇子の屍を抱いて離れず、遂に天皇の為に殺されました。後に顕宗天皇御即位に及んで、御父皇子の御遺骨を改葬遊ばそうとなされたところが、売輪の骨と交って区別が出来ません。やむをえず同じ陵を二つ作って、同一の葬儀を以て、皇子の御遺骨と、売輪の遺骨とを収めたと申すことであります。その後売輪の子孫をお尋ね出しになり、諸国に散らばっている蝦夷すなわち佐伯部を集めて、彼を佐伯造となし、以て売輪の忠誠にお報いになりました。

 かく天皇に対し奉りても、また主人と頼んだ人に対しても、至って忠義でありましたこの佐伯部も、実際上異民族たる蝦夷として徴発されましたのは、極めて古い時代の事で、時代が下るとともにだんだんと彼らは日本民族に同化融合してしまいます。またその郷里においても、異民族として固有の生活を為している蝦夷はだんだん減少して、大抵は日本民族に同化融合してしまい、遠く奥羽地方の、それも余程奥まで行かねば、もはや異民族としての蝦夷はいなくなりました。それ故に、佐伯部として蝦夷を徴発することは、いつとなく無くなりまして、その代りに東国人が徴発されます。これを東人あずまびとと申しました。彼らは佐伯部と同じく忠勇なる兵士でありまして、ただに皇室の近き護りとして使役されましたばかりでなく、遠く九州の海岸防禦の任務を帯ぶる防人として送られます。また貴紳豪族に仕えて、忠誠なる従者ともなります。東人は勿論蝦夷ではありませんが、もと蝦夷人の国であった東国の住民であります。彼らの中には内地の移住民の子孫も多いではありましょうが、わざわざ蝦夷の地へ出かける程のものですから、いずれ択ばれた勇者が多かった筈で、また無論もとから居た蝦夷の血も多く交り、同じ日本民族と申しましても、比較的蝦夷の影響を被ることの多かった質樸な田舎人でありました。すなわちこの東人は、要するに佐伯部の延長と申してよろしいのであります。
 さればこの東人の忠勇は、決して昔の佐伯部に劣らぬものでありました。聖武天皇は東人を以て中衛府を組織されました、宮中を衛るの義で、後の近衛府の起原を為したものでありますが、それを孝謙天皇にお譲りになります時に、

此の東人は常に云はく、額には立つとも、背に矢は立たじと云ひて、君を一つ心を以て護るものぞ。

 と仰せになりました。大君の御護りとして、敵に向って額に矢を受けることは少しも厭わぬが、敵に後を見せる様な卑怯な振舞いは決してしないと申すことで、これ実に所謂武士道のあらわれであります。
 中世には武士が各地に起りましたが、同じ武士と言われる中にも、上方武士と、東国武士との間には、余程武勇の点において相違がありました。源平合戦の時に、斎藤別当実盛が、両者を比較しまして、

坂東武者のならひとて、父が死せばとて子も引かず、子が討たるればとて、親も退かず、死ぬるが上を乗り越え乗り越え、死生知らずに戦ふ。御方の兵と申すは、畿内近国の武者なれば、親手負はばそれに事づけて、一門引き連れて子は退く。主討たるれば郎等はよきついでとし、兄弟相具して落ち失せぬ。

と云っております。また東国人の義理堅いことについては、兼好法師の徒然草に、

東人こそ言ひつる事は頼まるれ、都の人は言承けのみよくて実なし。

ともありまして、東国人の真に信頼すべきものなることを云っております。かくの如き東国人すなわち所謂東人は、昔の佐伯部の延長として、後の世までも武士道的異彩を放ったものでありました。
 この武士の事を、中世ではエビスと云っておりました。夷すなわち蝦夷という程の厳格な意味でもありますまいが、もともと武士になったものには蝦夷の流れの人々が多かったということと、今一つは、蝦夷は本来武士道的な、質樸な、田舎者でありましたから、田舎に発達した所謂武士は、あのエビスの様な人々だということで、そう呼んだのかもしれません。

 今さら武士の起原をここで申し述べる必要もなく、またその暇もありませんけれども、もともと国家の軍隊や警察とは関係なく、別に武士という私設の軍人が出来たということは、まことに妙な次第であります。これと申すも貴族の多年の我儘の結果として、国家の統治機関が紊れてしまい、国家の軍隊も、警察も、殆どその用をなさなくなる。地方官は私慾をのみ考えて、人民の福利などは一向眼中に無い。この様な場合に虐げられた民衆は、郷里にいたたまらずして他国に流浪する。所謂浮浪民になるものが多かったのであります。しかもこれに対する国家の取締りは行き届かない。夜討、強盗、山賊、海賊の徒が、到る処に横行して、良民の生命財産を脅かしましても、これに対して国家は保護を与えてくれない。やむをえず私設の軍人の保護が必要となるのであります。有力なるものは多数の勇悍なる従者を有して、ますます有力になる。微力なものはこれに従ってその保護を受ける。ここに私的主従関係が生じて参ります。勿論物騒な世の中の事とて、武芸の練習を第一と致しまして、ここに私設の軍人が出来たのであります。
 そこでその従者となったものの事ですが、この問題に関連して、武士すなわち夷という事実が起って来るのであります。
 前に繰り返し述べた通り、国家の蝦夷に対する政策は、なるべく懐柔の手段を取りまして、これを日本民族の仲間にしてしまおうというのでありますから、服従しました奥羽の蝦夷は続々これを内地諸国に移住させます。本来の目的は、これを農民と為すにありまして、中には成功して富有なものになり、飢饉の際に多くの穀物を義捐して窮民を救い、位階を授けられたという様な気の利いたものもありますが、多数は祖先以来狩猟漁業に活きた浮浪的の慣習が、一朝にして改め難く、かえって地方人の厄介者になるという場合も少くありませんでした。ところでそこは所謂御方便なものでありまして、この社会の混乱時代に際しては、所謂適材を適所に用い、彼らを軍隊なり、警察なりの補助に用うるということになりました。もともと勇猛にして死を恐れず、武士的な特質を持っているものでありますから、これは全くはまり役です。今から千六十年ばかり前、貞観十一年に、新羅の海賊船が二艘やって来て九州博多の海岸を掠めた時の如き、太宰府の軍人は臆病で誰もよう出かけない。やむをえずその頃附近に移住していた蝦夷人をさしむけましたところが、彼らは一以て千に当るという勢いで、容易にこれを撃退することが出来ました。これから太宰府海岸の防禦には、蝦夷人をして当らしめるということになりました。海賊が起る。蝦夷をさしむける。山賊が手に合わぬ、蝦夷をさしむける。貨幣偽造者を捕えるにも、蝦夷に命ずるという様な有様で、国家の治安は内地移住の蝦夷によって保たれる場合が少くなかったのであります。
 かくの如き有様でありますから、昔の佐伯部が貴紳の忠実なる従者であった様に、内地に移された蝦夷の子孫らが有力者の家来となり、得意の武芸を練磨して、その主の為に護衛の任に当るということは、彼らにとって最も適当なる職業であった事は申すまでもない。その主人たるものから申しましても、臆病で間に合わない内地の百姓どもよりも、内地人に交っては、むしろ厄介者であるところのこの忠実なる勇者を使役する方が、どんなに好ましかったか知れませぬ。勿論かかる混乱の際の事とて、純粋の内地人でも元気の盛んな人々は、好んで武士に走ったではありましょうが、内地移住の蝦夷の流れを受けた人々が、初期時代の武士になったことのことに多かったのは疑いを容れませぬ。平安朝頃の武士の理想的風采としましては、鬚が濃く、眼が鋭どいという、アイヌ的容貌の持主でありまして、ただ見ただけでも、いかにも強そうな感じが起ったのであります。
 こう観察致しますと、武士と蝦夷との間に切っても切れぬ関係のあることがわかりましょう。勿論純粋の内地人で武士になったものも多かったには相違ありませんが、どうで田舎者を馬鹿にしている都人の目から見れば、彼らもやはり夷の仲間として、一般的に武士を夷と呼ぶことになったに無理はありません。かくてだんだんその武士が勢力を得て参りまして、遂には多年専横を極めた貴族に代って、武家政治を起すに至ったと申すことも、見方によっては蝦夷が日本民族と形をかえて、多年腐敗の極みに達していた貴族政治を滅して、我が国の政権を掌握することになったのだと申しても、甚だしい過言で無いかもしれません。

 本州における蝦夷の末路、これは種々の方面から観察が出来ましょうが、彼らは滅亡したのではなく、日本民族の中に混入してしまって、その蹟を絶ったのであります。特に彼らが武士となって、我が日本民族中堅の階級を形作り、従来腐敗堕落の極みに陥入っていた我が国家、我が社会に対し、回生の良剤を注射してその立て直しをなすに至ったということは、我々の大いに注意すべき点であると信じます。
 ともかくも本州における蝦夷は、ことごとく日本民族の中に混入して、その民族的存在を失ったのであります。そしてその形を日本民族に変じて、国家の為に、社会の為に、重大なる働きをなしたのであります。私どもは私ども日本民族の中に、少からぬ蝦夷の血の流れていることを以て光栄に存じているのであります。

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 以上記述しましたところは、蝦夷と日本民族との関係について、私のこれまで研究しました結果の大要を、最も通俗に放送したものであります。したがってその説の拠りどころをも示さず、専門的研究者諸君にとっては、極めて物足らぬものであり、また本誌上に続々掲載する私の東北民族に関する研究論文、その他諸篇記するところと、往々重複するところがあって、すこぶる不統一に感ぜられることとは存じますが、もともと本誌発行の目的の一つが、一般の同好者各位から、研究資料の報告を得たいというにありますので、まず以て私の研究方針なり、その経過なりを知っておいていただくことが、最も必要であると信ずるのであります。現に私の放送に対して、遠く鹿児島のはてまでから、甚だ有益なる参考資料を寄せて下さったお方もあり、その外にも、内地における蝦夷関係の口碑伝説を寄せられて、研究上有益なる援助を賜わった方々が少からぬのであります。中にも盛岡の橘正一君、八戸の小井川潤次郎君、黒石の佐藤耕次郎君などの通信は、最も有益に拝見しました。これらは折を見てさらに研究調査を重ね、本誌上に紹介して、一般同好者諸君とともにその喜びを分ちたいと存じます。願わくば一般読者諸君、事のいやしくも蝦夷に関するものは、遺物、遺蹟、口碑、伝説等、細大真偽の如何を問わず、続々報告を賜わらんことを。特に蝦夷の子孫に関するものは、最も歓迎するところであります。
(追記)

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「東北文化研究 第一巻第四号」
   1928(昭和3)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年10月4日作成
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