自分は現代の画家中に岸田君ほど明らかな「成長」を示している人を知らない。誇張でなく岸田君は一作ごとにその美を深めて行く。ことにこの四、五年は我々を瞠目どうもくせしめるような突破を年ごとに見せている。そうしてこの成長、突破が年ごとに迫り行くところは、ただ偉大な古典的作品にのみ見られる無限の深さ、底知れぬ神秘感、崇高な気品、清朗な自由、荘重な落ちつきである。自分は正直に白状するが去年美術院の展覧会で初めてルノアルの原画を見たときにも、岸田君の不思議に美しい「毛糸肩掛かたかけせる麗子像」を見た時ほどは動かされなかった。
 が、自分はここで岸田君の画を批評しようとするのではない。ただ、君の近著の『芸術観』について一、二の感想を語ろうとするのである。この論文集において岸田君は、優れたる画家であるとともにまた優れたる「思索家」であることを示した。その思索は君の画と同じく深い洞察に充たされ、君の画と同じく不思議な生を捕えている。もとより自分はここに説かれた「思想」が岸田君の画の根柢であるというのではない。岸田君の画の根柢は、君の語をかりて言えば、君自身の「内なる美」である。「精神」である。その「内なる美」、「精神」が、線と色とをもってする表現手段によって現わされずに、――あるいはこの表現手段によって現わされ得ないものを持つゆえに、――概念と論理とをもってする他の表現手段によって現わされたとき、そこにこれらの思想が生まれたのである。だから我々はこれを、君の画と並んで存在する精神の表現と見なければならぬ。その意味でここには一人の画家の、画によって直接には現わされ得ないさまざまの優れた感情、信念、洞察などが伺われる。それは人としての岸田君の切実な内生を示すものである。が、同時にまた我々はこれを、製作家の書いた美学上の論文として、すなわち「製作の心理」を明らかにし得る可能の最も多い論文として、取り扱うこともできる。この意味でも自分はこれらの論文が深い暗示に富んだ価値の高いものであることを感ずる。それは美学者にとってよき反省の機会を与えるとともに、美術家にとっても力強い教示となるであろう。

 岸田君の暗示に富んだ無数の観察を一々紹介することは容易でない。が、美術家としての岸田君の理想・信念は、君の生活の根本の力であり、また美術家にとって最も重要な問題であるゆえに、まずそれを取り上げてみようと思う。
 画家としての岸田君の理想・信念には、「人として」の岸田君の本質的要求が投げ込まれている。我々はここに享楽的浮浪人としての画家、道義的価値に無関心な官能の使徒としての画家を見ずして、人類への奉仕・真善美の樹立を人間最高の目的とする人類の使徒としての画家を見る。もとより画家である限り、その奉仕は「美」への奉仕に限られている。しかしこの画家は「美」への奉仕が、「真」への奉仕、「善」への奉仕とともに、真実の人類への奉仕であることを、そうしてそれが自己の任務づけられた、自己の分担し得る人類への奉仕であることを、明白に自覚している。この自覚を岸田君は切実なる内生の告白として表現しているのである。
 美への奉仕はすなわち人類への奉仕である。言い換えれば、芸術のための芸術と人類のための芸術とは別物でない。この考えを深く裏づけるものは「人類メンシュハイト」の理念イデエであるが、しかし岸田君はこの理念について詳しく語ってはいない。時には人類を地球上の人間の総体と考える。すると、「少数の人にしか深い美は見えないのなら、美が何で人類の喜びかと思いたくなる」という懐疑が起こって来る。しかしこの懐疑は「人類」の意義が量から質に、物質から意味価値に移されるとき、たちまちに脱却せられる。で君は、一般の人にわかってもらえない淋しさが「美への奉仕」を理解することによって追い払われることを説く。「美術家は個人に奉仕するよりも、美に奉仕すればいいのだ。一般の人に通じると否とにかかわらず、ただ人類の美の事業に役に立つのか否かという事が大切なのだ」という。ここに「人類」は明らかに一つの理念として意味せられている。それはなお岸田君の「自然」の考え方によっても裏づけられる。自然はそれ自身には「心なき物質」である。価値なき存在である。ただ人間の「心」のみが「世界じゅうで盲目からさめた唯一の存在」であって、あらゆる価値はそこから生み出される。自然において人間が美を感ずるのは人間が自らの内にある美を自然物に投げかけるからである。すなわち自然の美とは、「無常無情の自然物と人間の心とが合致して生まれた暖かき子供」である。人は自然において美を感ずる瞬間に、すでに自ら「製作」しているのである。この考えを押し進めて行けば、同じ事が人間自身の肉体についても言えるであろう。肉体それ自身は自然物であって価値がない。その形、質量、などにおいて感ぜられる美しさは、人間の心の「製作」であって、肉体のものではない。さらに進んで美的価値以外の価値を問題とする時にも、同じ事は言えるであろう。しからば人間において感ぜられる一切の価値は、喜びも苦しみも悲しみも、すべて心の所産であって自然のものではない。この考えをもって「人類」を意味づける時、それは初めて明白な内容を得るのである。動物学的に類別せられた「人類」は自然物であって、価値とは関係がない。が、我々が奉仕すべき対象としての「人類」は、「心なき物質」ではなくして、真善美の樹立をその事業とする大いなる「心」でなくてはならぬ。
 自分は岸田君がこの事を感じて人類への奉仕を説いているように思う。理解なき徒輩とはいからしばしば空虚な言葉として受け取られている「人類」なるものは、理解ある人にとって切実なる現前の実在である。ただ人はこの実在を理解し得るために、空間的、物質的、数量的の考え方を捨てて、純粋な意味価値の世界を直視し得なくてはならぬ。そこには過去現在を通じて数限りのない人間がその生命を投入し、その精神をささげて実現に努力した大いなる「価値の体系」がある。それは我々の現前に輝き、我々が心をもって動く限り、我々を指導する。この価値の体系の創造者こそは「人類」である。それは真善美に分別せられ得るあらゆる価値を、欲し造り支持する。この人類の前にあっては、生物学的に意味せられた民族の別のごときは根本の問題ではない。我々がエジプトの彫刻に接して、その不思議な生きた感じに打たれるとき、我々は真実にエジプト人の血を受けるのである。我々が『イリアス』を読んでその雄渾清朗ゆうこんせいろうな美に打たれるとき、我々は真実にギリシア人の血を受けるのである。かくしてこそ我々は人類の内に生き人類の意志を意志とすることができるであろう。
「人類」がかくのごとき永遠にして現前せる創造者であるとすれば、我々が心をもってする一切の製作は、この人類の意志を現われしむることに帰しなくてはならない。人類への奉仕とは畢竟ひっきょうこの意志の実現を我々の生の最高の目的とすることである。しからば真善美の創造を欲する人類の使徒として、美の王国を、美のための美を、芸術のための芸術を、創造しようとする努力は、直ちに人類への奉仕でなくてはならない。
「芸術のための芸術」はかく解せられるときその最奥の意味を発揮する。もしこの言葉が芸術家の楽屋落ちを弁護するために、すなわち「芸術家のための芸術」の意味において用いられるとすれば、それはこの言葉を真実に生かしているとは言えない。
 自分は美の王国への情熱が岸田君の生活の中核となり、その製作に人類的事業としての覚悟がこめられていることを、愉快に思う。「人類」をくちにすることは近ごろの流行である。しかし真実に「人類」を感じているものが、我々の前にどれほどあるだろう。人類を自己の内に切実に感ずるとき、価値の階級は初めて如実に感得せられる。低劣なる価値に没頭して一切の高き価値に無関心なる雰囲気においては、価値は明らかに逆倒せられ人類の意志はいびつにせられている。岸田君のいわゆる「世界の美術の病気」とはこれであろう。ここに人類の意志を明らかにし、真実の価値の階級を樹立することは、大いなる価値の実現のために、従って人類のために、目下緊急の大事である。
 なお岸田君の著書に著しい「内なる美」、「装飾」、「写実」等の考え方についても、一言付加しておく必要を感ずる。岸田君が内なる美の直接に現わされたものを装飾とし、自然に触発せられて現わされたものを写実とする見方は、きわめて興味の深いものである。ことに写実の「実」について、自然の「事実」と「真実」とを区別したことは、君の作画の態度と照合して注目に価する。一般に意味せられている写実とは、「事実」を写すのである。しかし芸術の名に価する写実は「真実」を写したものでなくてはならない。そうしてこの「真実」は写す人の心の内にある。同じ自然を写してもこの真実の現われたものと現われないものとがあるのは、写す人の心の内に真実があるとないとに起因するのである。
 が、かく見るときには、君の区別した装飾と写実とは、さらに根本的な区別を受けなくてはならない。装飾は内なる美の直接の表現である。写実も畢竟ひっきょう内なる美の表現である。ここにおいて内なる美の真実と虚偽とが、深と浅とが、一切の美術の価値を規定する。建築は君によれば装飾美術である。が、この装飾美術にもまた真実虚偽は存在している。その関係は自然を写した美術にの存在すると異ならない。君は自然主義の作家の製作には「内なる美がない」という。もしこの考え方によって、内なる美の「真実」と「虚偽」との区別を、内なる美の「ある」と「ない」の区別に代えるとすれば、この「ある」と「ない」の区別は美術にとって最も根本的なものでなくてはならない。
 この「真実」と「虚偽」、あるいは「ある」と「ない」の区別が、我々に芸術の real と unreal の区別を感じさせるのである。我々があらゆる偉大な芸術は realism であるという時、この realism(これを写実主義と訳するのは十分でない。しかし我々は慣例に従ってしばしばこの言葉に realism の意味を含ませる)は、内なる美の真実であることを、あるいは内なる美が存在することを、意味するのである。しからざればドストイェフスキイが自己を realist と呼んだ意味は通じないであろう。内なる美が真実である時にのみ画家は自然において真実を見る。内なる美が真実である時にのみ、建築家は真実の構造を、真実の装飾を、作り得る。すなわち重大なのは内なる真実であって、写すと写さないの別ではない。写実リアリズムが「内なる真実の表現」であると言い得られるならば、装飾と写実とを問わず、一切の真芸術は写実リアリズムでなくてはならない。
 ここにおいて自分は「写実」なる語の多義に注意せざるを得ない。内なる真実の表現を意味する写実リアリズムと、自然物に触発せられて内なる真実を表現することを意味する写実と、ただ単に自然の外形をのみ写すことを意味する写実とは、同語にしてはなはだしく意味を異にするのである。岸田君が第二の意味を取ってこれを装飾と対せしめたことは、装飾の意義を明らかにする点において暗示するところが多い。しかし右のごとく「写実」の意義の多様を弁別しおくこともまた必要であろう。

 岸田君の論文集が自分に与えた感銘はこれだけにとどまらない。が、自分はただこの書を読者諸君に推薦し得たことに満足して筆をく。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央美術」
   1921(大正10)年4月号
※編集部による補足は省略しました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
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