シェーン婆さんは青々した草原の向うのほそい流れで馬鈴薯の皮むきに使う板を洗うとやがて自分の小舎に帰って来て泥炭の火の前に腰を下ろした。
 婆さんはもうひどく年をとっていた。それに、真夏の日のいちにち、陽はよく当っていたけれど、山風は肌さむかった。泥炭の火の前で休むのはうれしいことだった。
 婆さんの小舎は山の斜面にあって南に向いていた。北も南も東も西も、ほかの山々の傾斜が上に上にと伸びて風によって造られ風によって凍らせられた青い大きな波の姿に見えた、その波の頭は高い嶺ともなりそばだつ岩とも形を変えていた。小舎のあたりはいつも静かだった。ネイルの峯から落ちて泡だち流れる山川はしゃがれた声を立てどおしにしてほかのすべての音を静まらせていた。ある時どこかの山の峡を石ころが滑りおちてはげ山の斜面を滑りはりえにしだと杜松ねずの乱れた茂みに落ち込んだとしても、また或るとき、一羽の鷲が自分の巣のある山の絶項にほそい線を引いて行く風に向って戦いながら鳴きさけんだとしても、ある時、鷹が谿たにそこの兎の穴の上で鳴いたとしても、また、狐が田鳥しぎが鳴き、散りぢりになった羊が絶間ない悲しい声を立てたとしても、それらの凡てが静かさの使たちなのであった。
 その一軒の草屋のほかには谿のどこからも青いけむりの立つところはなかった。ネイルの峯の向うにかくれている谿には人のすむ村があって五六十人の人たちが住んでいた、しかしその村までは三哩以上あった。シェーン・マクラオドは、この寂しいところにわかアラスデルと呼ばれた息子とただ二人で住んでいた。五十年の灰いろの足跡が子の髪に白いしるしをつけたとしても、彼はまだわかアラスデルと呼ばれていた。父アラスデルが生きてる時、子はわかアラスデルだった。父アラスデルが世をえてシェーンが悲しみの寡婦となって後も二人のあいだの子アラスデルはやっぱりわかアラスデルであった。
 シェーン婆さんはその日ひどく疲れていた。しかし彼女が午後の陽の下に出たり入ったり泥炭の赤い火の前に腰かけたりして深く考えこんでいたのは、重い物を持ちはこんで疲れた為ではなかった。
 その後一時間も立ってからアラスデルが坂を昇って来て牝牛を牛舎にひき入れたが、婆さんはその音も聞いていなかった、息子の影が彼自身より先きに家のなかに揺らぎ入って床の上に長く映った時にも彼女は気がつかなかった。
「かわいそうなお婆さん」息子はひとりごとを言ってひどく背が高いので首を屈めながらはいって来た。彼は頑丈な強い男で黒いもじゃもじゃの髭を生やし、真黒く逆だつ眉毛の下の目が山国の男の狂わしい眼つきを持ってはいたが、心はやさしい男であった。
「かわいそうなお婆さん、ひどく弱っている。このごろ影がうすくなったようだ。死んだ人のことを考えているのだろう。きっと考えごとをくり返して考えこんで、向うの谷から山を越えて、山の向うの谷を越えて、山の洞だの野原までもまごつき歩いて考えているのだろう。むりもない、お母さんは愛のふかい人だったから。私の手が撫でて上げるあのしろい髪がなくなってしまったら、どんなに悲しいにがい事だろう。此処は静かだ、おそろしいほど静かだ、お恵みぶかい神さまはよく御存じだ、もしお婆さんが眠ってしまう日が来たら、それは私にはくるしい日だろう、羊が山の雨のなかに鳴いて鳴いて何時までも鳴いて、あの山川の声のほかに何の声もしない日が来たらば」
 彼女はかすかな彼の溜息をきいて、ちょっと動いたが、振りむいて見ようともしなかった。
「お母さん、くたびれたんですか、こんな好い時候だのに」
 急に身じろぎして母は子の方を見た。
「ああお前だったか? まず、お前で、よかった。わたしはちっと心配がある」
「どんな心配です」
 母は返事をしなかった。ただ疲れたようにまた火のひかりの方に顔をむけた。
 アラスデルは母の右側の大きな木の椅子に腰かけて、しばらく黙って、燃えさかる火の赤いしんを見つめていた。愛する年寄の心にかかっている曇りは何だろう、どんな心配だろう。
 やがて彼は立ち上がって鉄鍋にこな麦と水を入れて粥をかき廻しはじめた。粥はぶつぶつと音を立てて煮え立った。それから彼は茶器に湯を注ぎ入れ、二人のための食卓であるあら削りの松板の上に新しいパンと砂糖いりのやき菓子を載せた。
「さあお母さん、神さまに感謝を捧げましょう」子が言った。
「祝福と感謝と……」母は向きなおって言った。
 アラスデルは粥をつぎ分けて湯気の立つのをながめた。彼は片手にナイフを持ち片手にうすら白いパンの切れを持って腰かけた。
 彼は聖餐の時に御堂できくような低い声で言った。
「おお神さま、いまあなたの祝福をお授け下さい、そして私どもの感謝をおうけ下さい。どうぞ私どもに平和をおさずけ下さるように」
 母のかなしげな老の眼に、平和があった。二人は黙って食べた。寝床のそばの時計が音を立てていた。泥炭のくずれる音がかすかに聞えた。沈黙のなかにたくさんの影がうごいて、一つに合い、ささやき、深い温かい暗の中に沈んで行った。すべてに平和があった。
 母と子が再び炉の前に腰をおろした時、西の方の山々の上の空にはまだ赤い光が残っていた。
「お母さん、何を考えてるんです」アラスデルは大きな赤い手を母の膝にのせて、とうとう訊いて見た。
 母はしばらく彼を見ていたが、やがて眼をほかに向けて言い出した。
「狐は穴がある、空の鳥は巣がある、人の子は枕するところもない」
「それは、どういう事なんです、私の大事のその白い頭のなかでどんな深い意味を考えついたんです」
「それは意味があるのだとも。もう私も年をとって、いよいよの時が近くなって来たよ。ゆんべ窓のそとで声が聞えた。今まで、七十年のあいだにも聞いたことのない声だった。それは、それは優しい声だった」
 母は言い止めた、しばらく二人とも黙っていた。
 彼女はがっかりしたように、弱々しい低い声でまた言いつづけた「この前の月あたりから私は一日いちにちと弱って来たようだ。この前の前の日曜日のあさ目がさめた時、空に鐘の音がきこえていたが、それはアラスデル、お前だって知ってるだろう、この山あいにはむかしから一度だって教会の鐘の音が聞えたことはないのだから。それから金曜日だっけ、ちょうど月の十三日目にあたる日だった、私はうとうとして夢を見たが、夢で私の胸の上に土が載っていて私の眼の孔に白い雛菊の根がいっぱいになっていると思ったよ、お前を見なれたこの眼のあとの孔に」
 子は心配そうな眼つきで母を眺めたが、何も言わなかった。もう何も言うことのないところに何を言おう、神は雲の上に曇りをおつかわしになる、そのとき雨がふる、神は太陽に曇りをお与えなさる、その時、冬が来る。神が人のたましいに曇りをお与えなさる、死が来るのだ。燕は北から近よって来る影に向って羽をあげて飛ぶ季節を知っている、野鴨は日のうしろに雪のにおいがすれば、それを嗅ぎつける、山々のかげのくらい沢水に寂しく潜んでる鮭は深い海の音をききつけて、塩のこいしさに舌をあえがし、ひれをふるわし、時が来て海が呼んでるのを悟る、牝鹿はまだ仔鹿が体内に身うごきしない前から知っている、その時やさしい露ふかい眼はいつよりも紫のいろが深くなる、女は赤子が小さい手を動かさない前から知っている、その時いつよりも余計に頬のいろが赤み、暗がりに静かな手の上につつましい涙が落ちる。人間のたましいも終りがいよいよ近くなった時それを知らずにはいないだろう。黄金いろした樹のもみじが湖の水に映って、ヘザアのむらさきは空の色となりヘザアの葉があかくなる時、はかないあしもそれを見つける。人のたましいは蘆ではない、丘の上の牝鹿ではない、野鴨ではない、神の御子を兄弟とし、光のころもを着ることの出来る人間のたましいは、もっともっと勝れたものに違いない。神は暗い体内にはじめておともしなされた火を暗い墓のなかで消してはおしまいなさるまい。
 鳥が巣にあきた時、巣が風に倦きた時に、たましいはそれを知らないではいないだろう。あらゆる前兆がただ空想であると誰に言い切れよう、路上に飛んでゆくわらくずはただ飛ぶ藁くずである、それでも、その藁が見えなくなる前に、風が人の頬にあたる。
 ましろい老年の母はいま老のかしこい眼に物を見ている、その母の言葉に対してアラスデルは何も言うことがなかった。
 くちびるをもれたのはただ一つの溜息であった、あわれな祈りは心の底から出て来たただ一つの溜息であった。
 彼は、ようやくに、優しく言った「その意味をきかせて下さい、あなたの言ったその、かわいそうな狐たちも穴がある、鳥どもも巣がある、人の子は枕する所がないという、そのうらの意味は」
「アラスデル、わたしがむかし生んで、もうじきに別れてゆくお前に話しておきたい事があるよ、今晩わたしはふだん解らない事もよく解るから」
 シェーン婆さんは疲れたように頭を椅子にもたせかけて、白いながい手を掌を下にして膝にのせた。彼女のつぶった眼の下や口のまわりや頬の皺にひそむにぶい影に炉の火が映っていた。アラスデルは身を近くよせて彼女の右の手をとった、その手はくたびれ切った羊が二つの岩の割れ目に寝ているような姿でアラスデルの二つの手のあいだにあった。アラスデルはしずかにその手を撫でて、しなび切った小さな、この弱々しい人がどうして自分のような大きな真黒な男をそだて上げることが出来たろうと不思議に思った――五十になった彼は今もこの母のそばにあれば子供のような心になるのであった。
「アラスデルや、こういう話なのだ」低いやせ細った声で母が言いはじめた――風に吹きさらされた枯葉のようにやせ細った声だと子は思った。
「わたしは板を洗おうと思って流れに下りて行ったのだよ、そうするとあすこの羊歯しだのかげに怪我をした牝鹿がいた。大きな悲しそうな眼つきをして、わたしは亡くなったメジイの眼を思い出したよ、あの子が産をしてなくなる時の眼つきを。わたしは羊歯のなかを通りぬけて河に添って『やなぎの谷』に下りて行った。
 楊の谷で流れのところに立っていると、河ふちに人がいるのに気がついた。その人は背がたかくて、疲れたような瘠せた人だった、着ている着物もみすぼらしい古い物だった。何か悲しいことがあるらしく、ふいと顔をあげた時、涙が見えた。眼は黒くて、やさしいすばらしい眼だった。蒼い顔色をして、この土地の人とは見えなかった。色がしろくて、女のように白い手だった。
 わたしはイギリス語ではなしかけて見た、たぶんどこか南の方からの人と思ったから。そうするとその人はゲエルの言葉で返事をしたよ、まじりっけのない美しいゲエル語で。
 この谿たにを下りておいでなさるんですか? あすこの家へ寄っておいでなさいませんか、びんぼうな草屋ですが、ミルクを一杯あがって、もしくたびれておいでなさるなら、休んで行って下さいまし、わたしはそう言って見たのだよ。
 ありがとう、そう言って下さるだけで、休ませて頂いたりミルクを飲ましていただいたも同じことです。わたしはこの河の流れについて行くんです、その人がそう言うんだよ。
 魚をとりなさるんですか? わたしが訊くと、
 わたしは漁師です、その人が悲しそうな小声で言ったよ。
 帽子をかぶっていないので、ななかまどの樹のあいだから射していたお日さまの光が長い髪に光って、悲しそうな灰いろの眼がびんぼう人らしく心ぼそそうだった。
 それからわたしは又訊いて見た、もしあなたがよそから来た旅のお方で知ってる家がないのなら、わたしのとこに泊っておいでなさい、この辺であなたを見かけたことはないから、どうも遠くのお方らしく見える、わたしがそう言うと、
 わたしは旅のものです、自分の家といってはなく、父の家は遠くの方です、とその人が言う。
 お気のどくな、もし気に向かなければ、言わないでもいいのですが、あなたの名前をききたいものです、わたしは気の毒に思って、やさしく訊いて見た。
 わたしの名はマック・アン・テイルといいます、その人は落着いた眼つきでそう言って、わたしの方に首を下げて、それっきり考えごとをしながら行ってしまった。
 わたしは気が重くなって、羊歯しだの路を帰って来たけれど、気が重いといっても、どうしたのか、心がすっかり落着いて、すずしい平和の露でいっぱいになったような気もして来た。そうすると先刻の牝鹿がまだそこにいて、すっかり怪我が癒って、鳴きながら仔鹿をよんでいた、仔鹿は軽い足つきで岩の上に立って、あの漁師がいたやなぎの谷の方を見おろしているところだった。
 それからわたしが小川の洗い場にいると、女の人が丘を下りて来た。うつくしい人だったが、涙ぐんでいた。
 もし、あなたは男の人にゆき逢いませんでしたか、その女が訊くのだよ。
 逢いましたよ、だが、何という人です、わたしが訊くと、
 マック・アン・テイルというものです、というから、
 マック・アン・テイル――大工の子――というのはいくらもありましょう、名は何というのですか、わたしが言った。
 ヤソといいます、その女が言ったよ。
 わたしはじっとその女を見ると、女は路ばたの茨のしなやかな枝を手にいじりながら、すすり泣きをしていた、その茨はちょうど輪のようにも冠のようにも見えた。
 そして、あなたは何という方です、とわたしが訊くと、
 ああ、わたしの子は、わたしの子は、とその女が言って、前掛を頭にかぶって楊の谷に下りて行ったが、ひどく泣いていた。
 さて、アラスデル、わたしがいま聞かせた話をお前はどう思う? わたしは、あすこの丘で逢った女の人も漁師も誰だか、よく分っている。それで炉のとこに来て腰かけると、心が沈んでしまった。わたしにはよく分っている」
「お母さん、あなたはひどく草臥くたびれているのです。すこしお休みなさい。とにかく、マック・アン・テイルという人は世の中にいくらもいるでしょう」
「それはそうだが、ゲエルの人の中でそんな苗字をいう人は一人もいないだろうよ」
 アラスデルは黙っていた。彼は立って火に泥炭を入れた。入れてしまって、彼は声を立てた。
 母の髪に見えていた白さはいま母の顔にもあった。顔にも、ひきつれたくちびるにも、血の気がなく、老のよわよわしい眼のひかりは霜の解けたあとの水のようであった。
 アラスデルは母の手を取った。手は土のように冷たかった。手をはなすと、母の手はまっすぐに椅子から垂れ下がった、それは彼が羊の見張をする時に持つ棒のように真すぐだった。
「ああ神さま、どうしよう」アラスデルは畏れとにがい苦痛に青くなって囁いた。
 その時、たれか戸を叩いた。
「どなたです」アラスデルはしゃがれた声で訊いた。
「あけて、内に入れて下さい」優しい低い声であった、しかしその悲しみの時に人を迎えることは出来なかった。
「行って下さい、どなたか知りませんが、どうぞ機嫌よく行って下さい、ここでは死んだ人があるのです」
「あけて入れて下さい」
 アラスデルは風にふかれるあしのように震えながらかけ金をはずした。背の高い髪の黄ろい人が、きたない服装をして、疲れたように蒼じろい顔に夢みるような眼をしてはいって来た。
「神のおめぐみがこの家と皆さんの上にあるように」
「ありがとう」アラスデルは疲れた痛みある声で返事した「どなたですか、失礼ですが」
「マック・アン・テイルというもの、名はヤソといいます――大工の子ヤソ」
「今夜どんな用がおありなさるのです」
「わたしは漁師です」
「そうですか、それはそれとして、一つ頼まれて下さらないでしょうか、この山の向うの村に行って村の牧師のラックランさまに、アラスデル・ルアの家内だったシェーンが死にましたと伝言して下さらないでしょうか」
「わかアラスデル、わたしはその事も知っています」
「どうしてその話もわたしの名も知っておいでなさるんです」
「つい今しがたやなぎの谷を下りて行くシェーンのたましいに行きあいました。愉快そうな歌をうたって、若々しい眼つきをしていました。そして男の人が手をひいていました。それはアラスデル・ルアでした」
 それを聞くとアラスデルはひざまずいてしまった。顔をあげて見ると、もう誰もいなかった。戸のそとの闇の彼方に一つの星がましろく光って脈搏のようにうごいているのが見えた。
 そのかなしみの日から三日経ってシェーンは青い草の下におさめられた。
 その三日のあいだ、アラスデルは毎晩楊の谷を歩いて、谷間に遠くの方で漁をする人の姿を見た。その人は何時も身を屈めていた、ある時は影かとも見えた。とにかく、それはヤソ・マック・アン・テイルと呼ばれたあの人に相違なかった。
 埋葬の日の夕方アラスデルは漁する人をすぐ近くに見た。
「おお神さま」アラスデルは声をひそめて、おどろきの眼のなかに深いおそれを見せて言った。
 その人は振り返って見た。
「アラスデル・マック・アラスデル」漁する人は言った「日ごとに夜ごとにわたしは世界の水で漁をしている。その水は歎きと悲しみと失望の水だ。わたしは生きている人間のたましいの漁をする。これでもうあなたはわたしに会うことはあるまい、だから、別れに言う、平和におくらしなさい、善良なたましいよ、平和におくらしなさい、あなたは人間の漁をする漁師をまのあたり見たから」

底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
   1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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