ある日、ある女人と、こんな話をした。
「先生、料理をするときの心がけについて話していただけませんでしょうか」
「なるほど、君はなかなかいいことを聞くね。方法を聞かずに、心がけを聞くところに見どころがあるね。それはね、まず、親切ということだ。親切を欠くなということだ」
「ハイ、親切を欠くな……でございますか」
「そうだ、真心だね。こんな話がある。あるひとが別荘にいた。別荘にも、いろいろあるが、あまり、ありがたくない別荘だよ」
「まあ申せば小菅こすげのようなところですの」
「うむ、君はなかなかもの分りがいいな。つまり、そうした別荘だよ。そこでだ、その別荘に、毎日差し入れがくる。弁当がとどけられるのだな。日々いろいろのひとから、差し入れ弁当がとどくのだよ。友人からとどくもの、知人からとどくもの、そのひとが世話してやったひとからとどくもの、また、そのひとが別荘から出た時に、そのひとを利用してやろうと思う奴からとどくもの、いろいろだからね。そのなかで、そのひとが差し入れ人の名を聞かずとも、すぐに分る差し入れ弁当があった。それは、そのひとの、おっかさんからとどけられるものだった。そのひとはすぐに、それが母親からのものだと、分ったそうだよ」
「先生、やはり、その母親からとどけられる弁当には親切があるからですね」
「そうだ、そうだ、誰の弁当にもまさる真心がそのひとに通じたのだな」
「分りました。先生、ではいちばん親切な料理は、母親や女房の作ったものということになりますわね」
「そうだとも、そうだとも」
「では、先生、伺いますが、恋女房がそれこそ真心をつくしてこしらえてくれた料理がぜったい世の中でいちばんおいしいはずなのに、よそで食べる料理のほうが、はるかにおいしい場合があると思いますが、いえ、たいていの場合、家庭料理より、料理屋の料理のほうがおいしいことが多いのですが、これはどうしてでしょうか、先生」
「うむ、君はいいところを突いてくるね。わたしは、親切心、真心がいちばん大事だといったが、それがいちばんおいしいとはいわなかったはずだ」
「うまくお逃げになりましたね、先生」
「逃げはせんよ、なにも君と鬼ごっこをしているわけじゃない……」
「じゃ、先生、説明をしてくださいますわね」
「いいとも……真心が第一だが、真心だけではいかん。真心はたいせつだが、真心さえあれば、なんでもとおるというのなら、世の中は甘いもんだ。新婚早々の夫婦なら、恋女房の炊いたごはんが、シンだらけでもうれしいだろう。恋女房のつくったビフテキが、たとえわらじのようでも、ありがたいだろう。
 だが、新婚夫婦はいささかのぼせあがっている。真心とか、親切とかいうものは、のぼせあがったものではない。もっと冷静でなくてはいかん。ほんとうの真心があって、しかもその真心が形にあらわれたとき、はじめて真心は見えるのだ、思っているだけではダメだ。思っていても見えぬ。それをあらわさねばならぬ。見せねばならぬ。筆にも、口にも、つくされ申さず候――というのは逃げ口上だ。筆にも、口にも、つくさねばならぬ。いくら思っていても、腹はふくれぬ。思っていることを、どんどん表現することができねばならぬ。真心があればできるはずだ。いや、やらねばいられなくなるはずだ。それは方法だ、工夫だ」
「分りました。たとえば、どんなことでしょうか」
「いよいよ、君の聞きたいところへ追い込んできたね、ハハハ」
「早く聞きたいものですわ」
「では、話そう。日本には今から少し前にお女郎というものがいた」
「先生、お女郎の話じゃありません。料理の話です」
「待て、待て、ここからいわねば分らん。お女郎はたいへん上手だ、なにが上手か分るか」
「分ります。それが料理とどんな関係があるでしょうか」
「たとえば……だ。そう、いやな顔をせずに聞きなさい。女房は下手だが、お女郎は上手だ。客の喜ぶところを知っておる、だが、これは形だけのものである場合が多い。つまり、商売人だ。料理屋の料理もそうだ、客の好むところを知っておる。そのかわりあとで、金をとられる。女房に枕代や料理代を払うやつはない。だからといって女房たるもの、ゆるんではならぬ。長年の間に、たいせつな真心さえも忘れてしまうものがある。だから、主人は料理屋にばかり行き、よそに女をこしらえる。
 真心があれば、そこにテクニックというものが必要だ。テクニックを重要視してはならぬ。さりとて、これを軽蔑けいべつすることはいかぬ。別にお女郎のマネをしろとはいわぬが、真心があれば、部屋に花を生けるのも一つのあらわれだ。媚態びたいをせよとはいわぬが、好きなひとの前では、おのずから媚態をなし、声もやさしくなるものだ。料理においても、吸いもの一つ作っても、真心さえあれば水くさくともいいというものではない。味をよく、そこにひとさじの調味料を使うということは、よりおいしく食べさせようという真心のあらわれだ」
「先生、よく分りました。もう失礼いたしますわ」
「おい、おい、そうあわてなくともいいだろう。話はこれからだよ。つまり、いかにして経済的に、安くおいしいものをつくるか、材料の選択はどうか、とか。たいせつなことはこれからだよ」
「いえ、伺いたいのですが……もう早く帰らないと、会社から主人が帰ってくる時間でございますもの。帰って、一輪の花も生けたいし、ちょっとお化粧もいたします。
 なんだかこころがいそいそとしてまいりました。この頃は、主人が帰るときでも、髪もときつけずに平気になってしまいました。こんなことではいけませんわ。主人に浮気されるとたいへんでございます」
「おやおや、あんたは料理のことを聞きにきて、女房の心得を聞いて帰るようなもんだ」
「ありがとうございました。それでは……」

底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「独歩」
   1953(昭和28)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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