(大正十一年十一月)
 ロダンの「接吻」が公開を禁止されたとき、大分いろいろな議論が起こった。がその議論の多くは、検閲官を芸術の評価者ででもあるように考えている点で、根本に見当違いがあったと思う。
 検閲官は芸術の解らない人であっても差支えない。彼の職務は或る作品がいかなる芸術的価値を持つかを定めることではなく、ただそれが公開される場合に公衆に対していかなる影響を及ぼすかを精確に判定し、その影響が社会の秩序を紊乱びんらんし善良な風俗を壊乱するようなものであった場合に、その公開を禁止することである。いかにすぐれた作品でも、もし実際に右のような影響を公衆に及ぼすとすれば、彼は当然その作品の公開を禁止してよい。彼に対してその作品の芸術的価値を説いて聞かせることはなんの意味をもなさない。たとい彼がその作品の芸術的価値を充分理解し得るようになったところで、公衆に対する作品の影響が依然として同一である限りは、彼はその禁止を解くことができない。
 そこで中心の問題は、公衆に対する作品の影響が、果たして精確に判定せられているか否かの問題である。
 芸術品は、もしそれが真に芸術品であり、また正当に芸術品として鑑賞されれば、いかなる場合にも社会の秩序を乱し風俗を壊乱するというような影響を与えるものでない。むしろ鑑賞者の生活を高め豊富にするということによって、間接に社会の秩序を高め風俗を善良にする。裸体の男女が相抱いている姿を描写した彫刻絵画も、それが芸術品でありまた芸術品として鑑賞される以上は、決して風俗を壊乱しない。しかし芸術品は必ずしもすべての人々から一様に芸術的な鑑賞を受けるものでない。たとえば、優れた作品ほど正当な鑑賞を受けにくいということは、古来の偉大な作品が明らかに実証している。だから作品を公開する場合には、公衆の中の何割かが正当な芸術的鑑賞に堪えないものであることを許してかからねばならない。そこで、正当に鑑賞されない場合に、作品がいかなる影響を及ぼすかということが問題になる。作品の美しさ或いは意味が感じられず、そうしてそれが感じられない場合に他になんの魅力もないとすれば、公衆はその作品からなんの影響もうけず、またただちにそれを捨て去るであろう。がしかしその作品の本来の美しさを感じないでも、なおそこに或る魅力を感ずる場合、例えば題材に対して興味を覚える場合には、公衆はその作品から或る影響をうける。マダム・ボヴァリーを読んで姦通を煽動されるとか、ロダンの「接吻」を見て肉欲を刺戟されるとか、そういう場合はあるに相違ない。題材が恋愛、性欲等であり、その題材自身が不倫な恋や肉欲の興味をそそり得る場合には、確かに風俗壊乱という影響を公衆の或る者に及ぼし得る。だからこの種の影響をうける人間が多数に存在する以上、検閲官がその作品を禁止するのは当然である。がしかしそれは、題材が恋愛、性欲等であり、その描写が際どいということだけで、判定するわけに行かない。題材が何であっても、公衆がそれを芸術的に鑑賞し得る以上は、禁止の根拠は存在しない。検閲官に禁止の権利を与えるものは、その作品を芸術的に鑑賞し得ずただその作品から肉感的な煽動を受けるのみであるところの公衆が存在するという事実である。この事実を検閲官はいかにして捕えているか。
 ロダンの「接吻」は裸体の男女が抱き合っている像である。しかし裸体の男女が抱き合っているということだけでは、禁止の理由にならない。この像の美しさを公衆が理解し得ず、ただ肉感的な刺戟のみを受けるという事実があって初めて禁止の理由が成立する。この事実はいかにして捕えられたか。検閲官がみずからそういう刺戟のみを受けたという事実によって、公衆がすべてそうであると認定することはできない。もしそういう認定が許されるならば、美術家がそういう刺戟を決して受けないという自分の経験を基礎として、公衆もまたすべてこれを芸術的に鑑賞し得ると認定する場合に、それをしりぞける権利がない。公衆の内にただ一人(すなわち検閲官)でも肉感的刺戟のみを受ける人があれば、その公開を禁止してよいとは言えないであろう。検閲官のごとき位置にある少数の人のみが、そういう影響をうけても、それは社会の善良な風俗を乱すことにはならないからである。しょせん検閲官の認定は、自己の経験からの類推に過ぎない。

(大正十三年二月)
歳暮余日も無之御多忙の程察上候。貴家御一同御無事に候哉御尋申候。却説去廿七日の出来事(註、難波大助事件のこと)は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、何れ上京致し候はば街頭にて宣伝等も可致候間、早速返報有之度候。
新年言志
みことのりあやにかしこみかしこみてただしき心おこせ世の人
廿七日の怪事件を聞きて
いざさらば都にのぼり九重の宮居守らん老が身なれど
野老
 こういう手紙が大晦日おおみそかの晩についた。野老は小生の老父で、安政三年すなわち一八五六年生まれ、取って六十九になる。小生は子供の時分この父を尊敬した。年頃になるとしばしば叱られた関係もあって小生の方で反抗心を抱いていたが二十五、六を過ぎてから再び尊敬することを覚えた。思想が古いとか古くないとかいうことはそもそも末であって、正しいか正しくないか、またその思想がどれほど人格的な力となっているか、その方が大切だ、とこう気づき始めると、儒教じゅきょうで育てられた父の思想が時勢の変遷といっこうに合っていないにかかわらず、根本において極めて正しい、またその思想に従って行為する上に頑固な固意地な確かさがある、ということがだんだん見えて来たのである。父は医者であるが、医者は病気というものをこの人生から駆逐する任務を持っているという確信で動いていた。父の日常の動作に「報酬のため」或いは「生活費のため」という影のさしたことをかつて見たことがない。報酬はもちろん受ける、しかし自分の任務を果たすことが第一であるから、もし患者が報酬を払わなくともそれを取り立てようとはせぬ。そうして報酬とまるで釣合わないような苦しい労働である場合でも、病気とあれば、黙々として自分の任務を果たした。父が患者に対して愛嬌をふりまくとか、患者を心服せしめるためにホラを吹くとか、そういう類の外交術をやっている場面はかつて見たことがないが、病気と聞いて即座に飛び出して行かない場合もかつてなかったと思う。田舎いなかのことであるから、こういう生活はかなり烈しい肉体的労働をも意味した。父の一生はいわば任務を果たすための苦行くぎょうの連続であった。かくのごとき苦行を続け得た父の性格を小生は尊敬せざるを得ない。そうしてこの尊敬する父から上記のごとき手紙を受け取ったのである。
 父はその青春時代の情操を頼山陽らいさんようなどの文章によって養われた。すなわち維新の原動力となった尊皇の情熱を、維新の当時に吹き込まれた。言いかえれば、政治の実権を武士階級の手に奪われてただ名目上の主権者に過ぎなかった皇室、その皇室に対する情熱を吹き込まれた。かくて父は、ちょうど頼山陽がそうであったように、足利氏の圧迫に対してただひとり皇室を守る楠公の情熱を自分の情熱としたのであった。この心持ちが、憲法発布以後に生まれた我々に、そっくりそのまま伝わって来ないのは当然である。我々は物を覚え始める最初から皇室を日本の絶対的主権者として仰いでいる。この皇室を守るために、国内の他の勢力(例えば足利氏、徳川氏)に対して反抗するというような情熱は、切実に起こりようがない。それよりも我々が切実に感じたのは、外国の圧迫に対して日本帝国を守る情熱である。三国干渉はおぼろながらも子供心を刺戟した。露国の圧迫に対しては、おそらく楠公が足利氏に対して持ったであろうような、また父が徳川氏に対して持ったであろうような、そういう心持ちを持つことができた。(自分が日露戦争を経験したのと、父が維新を経験したのとは、ほぼ同年配である)すなわち我々にとっては皇室は日本帝国と同義であった。皇室に対して忠であることは、「一旦緩急あれば義勇公に奉ずる」ことであった。対内的でなくして対外的であった。徳川時代の主従関係のように個人的なものではなく、対国家の関係であった。これだけの相違が我々父子の間に存している。その事をまず小生は前記の手紙によって感じさせられたのである。
 正直に言えば自分は、二十七日の事件を聞いたとき、自ら皇室を警衛しに行こうという心持ちは起こさなかった。皇室警衛のために東京には近衛このえ師団がある。巡査や憲兵も沢山いる。警手もいる。我々の出る幕ではない。――しかし父が自ら警衛したいという心持ちにも当然の理由を認めざるを得なかった。父の皇室に対する情熱は、乃木大将のそれのように、個人的なものである。徳川時代の主従関係に基礎を置いた忠義の心持ちである。そうしてまた対内的である。だから自ら、身をもって、警衛したくなるのは当然である。がそう考えて来ると共に、現在の組織制度がもはや父のごとき志を実行不可能なものにしていることにもおのずから気づかざるを得なくなった。
 自ら直接に皇室に接することのできる人々は別である。一平民として今自ら皇室を警衛しようと欲するものは、一体どういう手段を取ればいいのか。それには、正規の手続きを経て、軍人、巡査、警手などになればよい。しかし父はもう老年でこの内のどれにもなれない。しからばあとに残されたのは、皇居離宮などのまわりをうろつくか、または行幸啓ぎょうこうけいのときに路傍に立つことのみである。それは平時二重橋前に集まり、また行幸啓のとき路傍に立っている人々の行為と、なんら異なったものでない。それは我々の経験によれば、警衛であるよりもむしろ「取り締まられる」立場である。刑事のごとき特殊の技能を持ったものでなければ、警衛としてはなんの役にも立たぬ。こういう方法を取るために田舎から出て来て東京をうろつくのが臣民として忠であるか、それとも落ち着いて自分の任務をつくすのが忠であるか、――もちろん後者であるに相違ない。
 父のごとき志は、今の社会ではもはやそれを有効に充たす方法がないのである。ただなんらかの方法でその心持ちを表現するとどめなくてはならぬのである。だから数万の人々はこの正月に明治神宮を参拝して、摂政宮殿下の万歳を叫び、或いは安泰を祈り、それでもって右のような心持ちを表現した。
 警衛ということはそういうわけで実現ができない。それでは街頭の宣伝はどうであろうか。これまで人前で演説などをしたことのない父が、街頭で宣伝をやると言いだしたのはよほど気持ちが緊張していることを思わせる。ところで父が宣伝しようとするのは何であろうか。これは小生にはすぐに解った。父はただいわゆる過激思想だけを恐れているのではない。総じて人心の腐敗に対して公憤を抱いているのである。過激思想ももちろんその中に含まれているであろうが、過激思想を退治しようとしている為政者の言行といえどもまたその中に含まれていないのではない。利のために働かず、任務自身のための任務をつくして来た父から見ると、現在の政治家のように利のために動いて国家のための任務をその方便としている人間は、腐敗したものの骨頂である。例えば原敬のごときに対しては奸獰かんねい邪智の梟雄きょうゆうとして心から憎悪を抱いていた。原敬の眼中にはただ自党の利益のみがあって国家がない。ところで彼の政党は私利をのみ目ざす人間の集団であって、自党の利益とは結局党員各自の私利である。彼らはこの集団の力によって政権を握り、その権力によって各自の私利をはかろうとする。しかし政治はかくのごときものであってはならない。明治大帝のみことのりにいう、「官武一途庶民に至るまで、各々そのこころざしを遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」と。私利を先にして、天下万民に各々そのこころざしを遂げしむる努力を閑却するごときものは、大詔に違背せる非国民である。しかもこの徒が政治を行なうとすれば、「君側に奸あり」と言わざるを得ぬ。こういうのが父の考えであった。だから原敬を暗殺した中岡良一が死刑に処せられないときまったとき、父は驚喜して当時の裁判長を名判官とたたえた。かくのごとく父は、私利をはかって超個人的道義的任務を忘れたものをすべて腐敗せるものとして憎悪する。自己の身命を超個人的道義的任務に捧げるもののみが、正しいと見られるのである。儒教は自己の身命を「人倫の道」に捧げよと命ずる。すべての詔勅もまたこの精神によって人々の範とすべき道を説いている。皇室はこの「道」の代表者である。父が宣伝しようとするのはこの事の他にない。
 そこで小生は父が上京してこの宣伝を始めた場合のことを想像して見た。かりに父が日比谷公園の側に立つとする。目に映る民衆の大部分は、営々として、また黙々として、僅少の労銀のために汗を流している人々である。彼らはその労働を怠ることなくしてはこの老人の饒舌じょうぜつに耳を傾けることができない。そうして父が痛撃しようと欲する過激運動者のごときは一人も目に入らないのである。そういう人間がどこにいるかは、彼の同志になるか、または専門の刑事にでもならなければ解るものでない。反対に人間の数は少なくとも、著しく目につくものがある。自動車を飛ばせて行く官吏、政治家、富豪の類である。帝国ホテルが近いから夕方にでもなれば華やかに装った富豪の妻や娘もそれに混じるであろう。公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、自動車を駆るものに対しては、父は何を感ずるであろう。天下万民が「おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とは、明治大帝の聖勅である。おのれのみが志を遂げんために利を逐うて狂奔する虚業家、或いは政治家、おのれの心のみを倦まざらしめんためにホテルへ踊りに行く貴族富豪、それらを見て父の心には勃然として怒りの情が動きはしまいか。今や、皇室をねらう不埒漢さえも出た非常の時である。しかるになんぞや、私利私楽を追うて狂奔するとは! しかしこれらの徒に対して道を宣伝しようにも、自動車はこの老人などを寄せつけない。老人はどこかへこの怒りの情を表現せずにはいられぬ。偶々たまたまそばにふらふらと歩いている失業者、学生、或いはその他の通行人が来る。老人は彼らに向かって演説を始める。物見高い都会のことであるから、いそがしい用事を控えた人までが何事かと好奇心を起こしてのぞきにくる。老人は怒りの情にまかせて過激な言を発せぬとも限らぬ。例えば中岡良一を賞讃して、彼はまことに国士であった、志士であった、というようなことを言い出さぬとも限らぬ。それは暗殺の煽動である。巡査が来て彼を過激思想宣伝者、直接行動煽動者として警視庁へひっぱって行く。
 どうもこれでは困る。それよりも、初めから落ち着いて宣伝のできるように、どこかに会場を借り聴衆を集めて演説するとする。父の情熱は純粋であり、考えも正しいが、しかし残念ながら極めて単純である。情熱、確信という点においては聴衆以上であるとしても、話すことの内容はかえって聴衆の知識よりも貧しいであろう。それでも演説者のまわりに何か迷信のもやがかかっていれば、多くの宗教家や政治演説家がそうであるように、内容の貧弱な言葉をもってしても何かの印象を与え得るであろうが、父にはそういう迷信を刺戟すべきなんらの虚名もない。そこでただ新聞から得た知識で政治家を攻撃したり、勅語を捧読したりするだけのことになる。宣伝としては効果はあるまい。
 そこで警衛、宣伝ともに有効な効果を挙げ得ぬことになる。それをやって見たところで、ただ父が主観的に満足するだけのことに過ぎぬ。いや、その満足も疑わしい。直接行動煽動者として拘引でもされようものなら、官憲に対する烈しい反抗心が起こるであろう。聴衆に冷笑されたりしようものなら、日本人が皆非国民になってしまったような心細い感じが起こるであろう。そうすれば今よりもいっそう不安な、不愉快な気持ちになるに相違ない。そういう結果を導き出すためにわざわざ警衛や宣伝に出てくる必要は果たしてあるだろうか。のみならず東京に慣れない目の悪い老人を今の東京の電車にひとりで乗せるわけには行かぬ。ただ道を歩くだけでも、ひとりでは危険である。勢い小生がついて歩かなくてはならぬ。それでは小生が自分の任務を怠らなくてはならぬ。
 こういうことを考えて小生は一月一日に父の計画を阻止する手紙を書いた。志は結構であるが、それを有効に実現することができない。臣民として「なんの役にも立たぬ」ことを実行するよりは、「何か役に立つ」ことを実行する方が忠である。現下の険悪な世情は、政治家が聖勅に違背したことに基づく。というのは、天下万民をして「各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」との聖旨を奉戴しなかったことに基づく。国民の大部分がその志を遂げようとすることを、なんらか危険なことのように考えたのに基づく。だから「人心が倦んで」、その中から自暴自棄的な行動をとるものも出て来たのである。しかし聖勅に違背するような不忠な政治家を誰が作ったであろうか。たといそういう政治家が官僚の中から出たとしても、すでに議会が開けた以上は、代議士さえ聖旨にかなうような人であれば、そういう違勅の政治家を駆逐することができたはずである。しかるに同じく聖勅に違背するような不忠な代議士が選出された。明治大帝は「万民の志を遂げしむる」ために代議制を立てられたのであるが、選挙権を有する人々は、万民の志を阻止して党利をのみはかるような代議士を選出した。そうすると選挙権者もまた全体として聖勅に違背したことになる。皆不忠である。父はこれまで選挙について奔走したことがない。万民の志を遂げしむる政治のために身命をして努力するような志士を選挙しようと骨折ったこともない。そうすると父も不忠であった。役に立つことを実行しようとするならば、まず第一にこの点において忠義をつくそうとしなくてはならぬ。自ら忠良な臣民になるばかりでなく、また不忠な選挙権者を化して忠良な臣民にしなくてはならぬ。「万民の志を遂げしむる」という理想をはばんでいるものは、政治においても経済においても、自己の利益または特権に執着する心である。「万民の志を遂げしむる」ことによって自己の利益または特権を失わんことを恐るる心である。それが聖勅に違背する心である。またもし工業労働者のみの利益を主張して他の国民の志を阻止しようとするならば、もちろんそれも違勅である。万民志を遂ぐるという理想的な境地に達するためには、どの階級も多少ずつは犠牲を払わなくてならぬ。しかし公平に言って、特権階級が特に多くの犠牲を払わなくては、万民志を遂ぐる境に達しがたいことも事実である。そうしてその犠牲を払うことが聖旨を奉戴し忠良な臣民となるゆえんである。階級争闘が必然であるように見えるのは不忠な政治家や不忠な資本家などがいるからであって、すべての人が万民志を遂ぐることを理想とする忠良な臣民になりさえすれば、階級争闘などの必要はない。過激運動なども起こらなくなる。従って真に皇室を護衛することになる。この意味で忠義を鼓吹して頂きたい。
 小生の手紙の大意は右のごときものであった。ところでこの手紙を書いているうちに、小生が少年時以来養成されて来たと思っていた皇室への情熱が、いつの間にか内容を異にしている――というよりも内容を深めているのに気づかざるを得なかった。小学中学で教え込まれた忠君愛国は、忠君即愛国、君即国であったが、なぜそれが同一になるかについて理解し得なかった。それは皇室や国家をただ現実的にのみ見ていたからである。しかし皇室の権威はただ現実的な根拠からのみ出るのではない。神話時代には天皇は、宇宙の主宰者たる天照大神の代表者であった。天照大神は信仰の対象であって現実的に経験のできるものでない。それは理論的に言えば一切のものの根源たる一つの理念である。この理念の代表者或いは象徴であるがゆえに神聖な権威があったのである。この重大な契機は、思想が急激に発達した飛鳥あすか寧楽なら時代においても失われなかった。天皇は、宇宙を支配せる「道」の代表者或いは象徴である。天平時代の詔勅にしばしば現われているごとく、天皇の位を充たされる個人としては、謙遜して「薄徳」と称せられたが、天皇としては道そのものの代表者でなくてはならなかった。その道を論じまた教えうるには、大宝令たいほうりょうに規定しているように、それぞれ人がある。政治はこの道を実現せんとする努力である。国家はこの道或いは理念の実現でなくてはならない。我々の国家が或る権力の代表者を主権者とせずして、道の代表者を主権者とすることは、確かに我々の国体の精華である。がもとよりこの道は、理念として人類を引き行くものであって、或る時代或る階級の特殊な思想を意味するのでない。いかなる思想も、それが根本の理念の展開として意義を有する限り、すべてこの道に属する。もし或る特殊な思想をもって皇室を独占せんとするものがあれば、それは皇室の神聖を汚すものである。ひいては皇室の安泰を脅かすものである。なぜなら道の代表者を特殊思想の代表者と混同するような馬鹿者が出てくるからである。
 小生はこの考えが老父の了解を得ることを信じて右の手紙を発送した。
 これが一つの私事の顛末てんまつである。
(思想)

底本:「黄道」角川書店
   1965(昭和40)年9月15日初版発行
入力:橋本泰平
校正:小林繁雄
2010年12月4日作成
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