(大正十二年九月)
 大正十二年ごろ関東地方に大地震がある、ということをある権威ある地震学者が予言したと仮定する。その場合今度のような大災害は避けられたであろうか。大本教おおもときょうは二、三年前大地震を予言して幾分我々を不安におとしいれたが、地震に対する防備に着手させるだけの力はなかった。しかしそれは大本教が我々を承服せしめるだけの根拠を示さなかったからである。もし学者が在来の大地震の統計や地震帯の研究によって大地震の近いことを説いたならば、人々はあらかじめあの震害と火災とに備えはしなかったであろうか。
 自分は思う、人々は恐らくこの予言にも動かされなかったろうと。なぜなら人間は自分の欲せぬことを信じたがらぬものだからである。死は人間の避くべからざる運命だと承知しながらも我々の多くは死が自分に縁遠いものであるかのような気持ちで日々の生を送り、ある日死に面して愕然がくぜんと驚くまでは死に備えるということをしない。それと同じように、百年に一度というふうな異変に対しては、人々はできるだけそれを考えまいとする態度をとる。在来の地震から帰納せられた学説は、この種の信じたがらぬものを信じさせるほどの力は持たない。結局学者の予言も大本教の予言と同様に取り扱われたであろう。
 もし人間が学者の予言をきいてただちに耐震耐火建築への改築や防火帯の設置に、――あるいは少なくとも火急の際即座に動員し得る義勇消防隊の組織に、取りかかるほど先見の明のあるものならば、そもそもすでに初めからこの種の予言や応急的な設備を必要としなかったはずである。安政の大地震は今なお古老の口から、あるいは当時の錦絵から、あるいはその他の記録から、我々の耳に新しい。東京が地震地帯にある危険な土地だということはすでに古くより知られたことである。水道を建設するとき、すでにこの水道が地震による大火に対して効力なきものであることは反省されていなければならなかった。日清戦争後、特に日露戦争後、急激に東京が膨脹ぼうちょうし始めたとき、この木造建築の無制限な増加が大火に対していかに危険であるかはすでに顧慮さるべきはずであった。一言にして言えば、地震の予言に耳を傾けるほど人間が聡明であったならば、大火に対してなんの防備もない厖大な都市を恬然てんぜんとして築造して行くほどの愚は、決してしなかったであろう。
 いよいよ事が起こった後に顧みてみれば、要するに人間は愚かなものである。そうしてその愚かさは単に防火設備をしなかったという一事に留まるのでない。いっさいの合理的設備が間に合わないほど迅速に、また合理的設備を忘れるほど性急に、大都会が膨脹して行ったことそれ自身が、なのである。我々は大都会が文明社会の腫物はれものだという言葉を想起せざるを得ない。最近の東京は確かに日本人の弱所欠点がって一団となったものであった。そこからいっさいの悪臭ある流風が素朴質実なる地方に伝染した。大火の惨害の原因を辿たどれば、結局はかくのごとく一か所に蝟集いしゅうしてかくのごとき都会を築造した人間の愚に突き当たるであろう。
 が自分はその愚をわらう権利を持たない。自分自身もまたその愚人の一人である。愚を知りつつそれを改め得なかったもの、危険を知りつつそれに備えることをしなかったものの一人なのである。
 関東の地震はほぼ周期的に起こるものであって、追々おいおいその時期が近づきつつあるとの学説を伝え聞いたのは、もう十年ほども前であった。その後自分は近き将来に起こるべき関東大地震の可能性については疑いを抱かなかった。大本教が大地震を予言したときにも、その予言の根拠に対しては信頼を置かなかったが、しかし近き将来に大地震が起こり得るという点だけには同ずることができた。ことにこの二、三年来、頻々ひんぴんとして強震があったことは、自分に不安の念をいだかせるに充分であった。自分の一家についていえば、自分はまず住む家の地盤を気にした。そこは千駄が谷の丘と丘との間の小さい川に沿うた細長い低地で、この低地の大部分が水田であったころには、自分の家のあたりは大きい池のある低湿な庭園であった。埋立地が地震にいけないと聞いていた自分は、この家が大地震に一たまりもなく倒壊するだろうことを思った。それにつけても自分は二階の書斎に蔵書の全部をあげていることが不安になった。二階が重ければ倒壊がいっそう容易になると思えたからである。で自分は建築の専門家に逢うごとに二階の重量がどれほどまでは危険でないかということをただした。しかし自分は、これほど不安に思いつつも、引越しをしようとはしなかった。また蔵書を階下におろすこともしなかった。近き将来に大地震のあり得ることを信じてはいたが、なんとなくそういう異変が自分に縁遠いものとして感ぜられたからである。そうしてそういう漠とした杞憂きゆうのために、面倒な引越しや書物の置き換えなどをすることが、なんとなく滑稽こっけいに思えたからである。
 幸いにして自分の杞憂は当たらなかった。丘と丘との間の低地も比較的に倒壊家屋は少なかった。がもしこの杞憂が当たった場合には、自分は大地震を予想しつつもそれに対してなんの手段も取らず、倒れた家の下になって死んだかも知れぬのである。
 自分一己としては地震を怖れても火事を怖れてはいなかった。それは自分が家のまばらな郊外に住んでいるからであった。がもし自分が家の立て込んだ下町に住んでいたならば、地震以上に地震による火事を怖れたであろう。そうして怖れつつも引越しをあえてせずに、今度の火事で焼かれたであろう。自分が繁華な下町に住み得ずできるだけ自然に近い所に住家を求めたということは、結局自分の性格に起因するとは思うが、ただ地震や火災に対する態度のみについて言えば、自分は焼かれた人と同様に愚かである。自分は地震や火災に対して先見の明があったゆえに今度の天災を免れ得たのでは決してない。
 自分の意志によって容易に始末することのできる自分一家について、自分はまさに右のとおりであった。だから自分は、度を知らず蝟集いしゅうきたり、大火に対してなんの防備もないあの厖大な都市を築いていった人々の愚をわらうことはできぬ。しかし今はその愚をわらう嗤わぬが重大なのではない。あれほど悲惨な姿によって見せつけられた我々自身の愚を充分にかみしめるか否かが重大なのである。
 思えば昨春の強震は、我々に対する暗示多き警告であった。当時の被害は水道貯水池への導水路の破壊のみであったが、ただその一つの被害が二百万の市民から飲料水を奪うのを見て我々は驚いたのである。このとき我々はより強い地震の場合の惨害を想像しないわけにいかなかった。地震によって一時に数十か所から発火した場合、水なき消防は果たしてこれを食いとめることができるであろうか。またたとい大火が起こらないとしても、ガスを絶たれ、鉄道を破壊された場合に、市民は水と火と食とをいかにして得ることができるであろうか。急を救うべき相互扶助的な組織が市民自身の間に作られていればとにかく、現在のごとき利己主義的な状態にあっては市民は混乱に陥る外ないであろう。――そういうことを自分も多くの人々と共に感じた。今にして思えばあのときに政治家が断然として防火帯の設置や、大火に対する消防計画や、地震の際の火の用心の訓練や、また急に応ずるための小さい自治的団体の組織などに着手すればよかったのである。我々のごとき専門的知識のないものも、これらのことの必要を痛切に感じた。まして都市の経営に責任を有する人々は、もっと力強くそれを感じまた考えたはずである。しかもこのときそれを口にしたのは、実際の経営と関係なき少数の学者であって、政治家のうちには誰一人これを真面目まじめな問題とするものがなかった。おそらく彼らはこの種の防備を力説することがあまりに神経過敏にしてまた非実際的である、すなわち理想論あるいは書生論であると考えたのであろう。けれども事実はそれが非実際的でなかったことを証した。ここに我々の受くべき――特に政治家の受くべき――大きい教訓がある。もし社会の欠陥が意識されたならば、たとえ目前の社会が安全に見えていても、できるだけ早くその欠陥を取り除くことに努力せねばならぬ。たとい非実際的に見える理想的設備であろうとも、それが必要であるとわかった以上はその実現に取り掛かるべきである。理想論あるいは書生論をしりぞける政治家気質かたぎは捨てなくてはならない。昨春の地震の警告をきかなかった愚かさは我々の前にあまりにも悲惨に示された。社会的地震に対するさまざまの警告に対しては、もはやこの愚を繰り返してはならぬ。

 我々に先見の明がなかったのは、ただに地震以前においてのみではなかった。すでに地震があった後にも我々は、あのような大異変が起こり始めたのだということを理解することができなかった。大地震には大火が伴うということを我々は知っていたが、しかしそれがこの場合のことであるとは考えなかった。ちょうど不治の病にかかった人が、それを死ぬる病だとは気づかないように、我々もこれがあの恐れていた事変なのだとは気づかなかった。
 最初揺り始めたとき、自分は家族と共に昼食を終わろうとしていた。ちょうど二科会と美術院の招待日で、自分は長女をつれてそれに出かけるために、少しく早めに昼食をとっていたのであった。揺り始めると自分は立って縁側に出た。そのとき自分は昨春の強震を思い出して、またあれくらいのが来たなと思った。そうしてあのときは嬰児を抱いて庭に飛び出したが、今日は飛び出すのをよそうなどと考えた。その瞬間に家が予想外に猛烈な震動を始めた。自分は「外へ出ろ」と怒鳴って反射的に庭へ飛び下りた。この最初の瞬間の心理状態が自分には今度の事変の経験を図式的に示しているように思われる。最初にはある近い経験にあてはめて考え、その見当がはずれたとき度を失ってある反射的な行動に出るのである。
 自分は庭に降り立つと、すぐ下の子がどこにいるかを後から降りてくる家族にきいた。子供は女中と共に二階にいるとのことであった。二階を見上げたが姿が見えない。その二階は見たところ三尺も動くかと思われるほどに横に振れている。自分はすぐさま二階へかけのぼらなかったことを何か大きい失敗のように感じて、あわてて秋草の植込みを廻り始めた。というのは、階段の方へ通ずる縁側と自分の立っている所との間に、縁側に沿うて細長い秋草の植込みがあり、それを突っ切ればすぐ縁側に達するのであるが、自分は秋草をふみにじることをしないでその植込みの外を迂回うかいして縁側に達しようとしたのである。これは自分が裸足はだしであったために無意識に植込みへ踏み込むのを恐れたためかも知れぬが、いずれにしても狼狽ろうばいの結果であった。がそのときはもう普通に歩くことができなかった。よろよろとよろけながらやっと二間ほど歩いて植込みの角まで行くと、朝の雨でぬらついている地面に足をすべらせて危うく転げそうになり、夢中で紫苑しおんの茎に捕まった。ところでその茎がヘナヘナしているのと、足がすべるのと、体がゆられるのとで、体を立て直すことがすぐにはできなかった。(あとで気がついたのであるが、自分の足元から一尺と離れないところに幅二寸ほどの亀裂きれつができて、その口から代赭色たいしゃいろの泥水を吐き出していた)こうして立ち直ろうとしていた瞬間に縁側のガラス戸が一枚残らずバタバタと外へ倒れた。この間が何秒ぐらいであったかは覚えない。体がきかないのと気がせくのとで心理的にはずいぶん長く感じたが、実際はさほどでなく、もし植込みを突っ切って行けばちょうどガラス戸と鉢合わせをするわけだったと思う。そのときにはこれが家の倒壊するほどの地震とは思わなかった。しかしもし自分の家が倒壊したとすればあの瞬間であったかも知れない。その間妻は庭にすわりながら二階に向かって、降りて来るなとしきりに叫んでいたが、あとで考えるとそのすわっている場所は、かわらが落ちてくればちょうどそれに打たれる場所、家が庭の方にゆがんで倒れればちょうどその軒に打たれる場所であった。
 ガラス戸の倒れた瞬間、台所にいたはずのもう一人の女中が二階の段梯子の下にいるのに気づいた。ああ危いと思って、外へ出ろと声をかけたが、そのときには自分の体が立ち直っていた。自分は座敷へ飛び上がり、階段をかけのぼった。女中は階段の上の柱につかまって子供を抱いていた。あとで聞くとそれまで女中は声限り自分たちを呼んでいたのだそうであるが、自分たちにはその声が少しも聞こえなかった。自分は子供を受け取って女中を大急ぎで下へ降りさせた。そのとき自分は子供を抱いて階段の上の窓から屋根へ出るつもりであったが、窓につかまりながら見ていると震動がおいおい弱くなるらしいので、やはり階段を下りて表へ飛び出した。そうして皆を庭の向こうの空地へ連れ出した。
 家が倒れなかったからよかったようなものの、もし倒れたとしたら、その時家の中にいたのは二人の女中と下の子とで、自分たち夫婦と上の子とは外に逃げ出していたのである。もっともその際誰がつぶされたかは解らない。あるいは外にいたものの方がひどい怪我けがをしたかも知れぬ。けれどもとにかく自分たちが外に出て女中たちが内にいたということは、最初の震動の最中に自分の心を苦しめた。その時自分の体が震動のため思うように動かせなかったことが、いっそうその苦しみをひどくした。最初判断力が働かず反射的に外に飛び出したことがいわばフェータルなので、次の瞬間にそれを取り返そうとしてももう間に合わぬのである。自分はすぐあとで藤田東湖の圧死を思い出した。東湖は母を救うために飛び込んで行ってはりに打たれたのだという。おそらく彼もまた最初は反射的に外へ飛び出し、母のことに気づいて再び家の中へ飛び込んで行ったのであろう。もし揺れ始めの時ただちに母の居室にかけつけて行ったならば、救い出すひまがあったのであろう。が自分はこの「間に合わなかった」ことに、この際、強い同情を持つことができた。ただほんの一瞬間、本能的な恐怖のために判断が麻痺まひする。次の瞬間には命を賭する気持ちになれるにしても、最初は思わずわれを忘れて逃げる。そうしてその「我を忘れたこと」のためただちにその我が罰せられる。自分は今度の天災においてこの種の経験をした人が決して少なくないと思う。人間の本性が利己的であると見る人は、本能的な恐怖にとらわれる最初の瞬間を指示して、自説の証左とするであろう。しかし判断の麻痺した瞬間は、人間がその本性を失った瞬間である。次の瞬間にその本性を取り返したときには、もはや初めに恐れたものをも恐れなくなる。そうして利己的な欲望の代わりに、相互扶助の本能が猛然として働き始める。それは今度の天災で個人個人の間にも、あるいは一般に民衆的にも、また大阪神戸をはじめ全国の諸都市諸地方の団体的な救護活動にも、人を涙させるような同情の行為として一時に現われた現象だったと思う。ここで問題になるのはむしろたとい一瞬間でも本性を失うような狼狽に陥るという弱点である。そのような弱点のない、本当の意味で胆のすわった人も、もちろんあったと思うが、しかし多数の人間にはこの弱点が共通であった。そのため災禍をはなはだしくした場合も決して少なくないと思う。
 空地へ出たとき、注意されて見ると、空地の向こうの家が二軒倒壊していた。救いを呼ぶ声が聞こえるかと思ったが、シーンとしてなんの物音もしなかった。それを見て自分は初めて大地震なのだなと気づいたのである。間もなく気味悪い地鳴りがしてひどく揺れ出した。女たちは立っていることができないで、草の上へすわった。見ると側の茄子なす畑が著しく波打って横に揺れている。自分の体も船にのっているように揺れる。このときまれるように揺れている家を見て、これは本当に倒れるかも知れないぞと初めて思った。火は大丈夫かときくと台所に火はないと言う。がこのときにはまだ大火が起こるだろうということは頭になかった。まず思い出したのは桜島の爆発当時宮崎県にいた人からきいた話である。あのときは一月ほども野宿したという、今度もこの工合ぐあいでは一月ぐらいは野宿しなくてはなるまい、大変なことになった、と思った。
 大砲のような大きい爆音が三度ほど最初に南の方で聞こえたのは、たしかこの時分であったと思う。自分にはそれが何かの合図のように思えた。あとで考え合わせるとそれはどこかの薬品の爆発であったらしいが、そのときには薬品の爆発というようなことは我々の頭になかった。
 二度目の揺れがややしずまってから、自分はこわごわ家に近づいて、下駄げたかさを取り出した。この日は朝の内は風雨であったが、ひる前から雨があがって、このころには空が晴れわたり日光が激しく照りつけた。その焼けつくような暑さが、最初の驚きの鎮まると共にようやく感ぜられて来たのである。三度目にひどく揺れたときには、動いている茄子畑の波動のしかたを興味深く観察するほどの心の余裕が出て来た。家はもう倒れそうにない。当分の野宿も覚悟がついた。あとは子供を病気させぬように注意しなくてはならぬ。そういう落ち着いた気持ちになっていった。
 その内北の方に火事のけむりが上がった。それを見たとき、なるほど地震には火事が伴うはずだったというふうな、当然のことを見ている気持ちになった。がそのとき自分の考えていた火事なるものは、これまで自分の経験した火事――すなわち数十分あるいは数時間燃えてやがて消される火事であった。近そうに思えたので通りまで見に出てきいて見ると新宿だという。通りの人々も火事が千駄が谷まで来るというような心配はしていない。自分ももちろんやがて消えることと安心していた。(また実際この火事は二時間ぐらいで消えた。だから自分は遅くまで消せない火事を考え得なかったのである)
 自分を驚かせたのは火事よりも大島爆発のうわさであった。自分はそれを印絆纏しるしばんてんの職人ふうの男から聞いた。その男に注意されて見ると、南の方に真っ白な入道雲がひときわ高くムクムクと持ち上がり、それが北東の方へ流れて、もう真東の方までちょうど山脈のように続いている。真蒼まっさおな空に対照してこの白く輝く雲の峰はいかにも美しかった。なるほど南の端の大きい入道雲はだいたい大島の方角のように思われる。がそれにしてもこの短い時間(自分はそのとき最初の震動からせいぜい十分か十五分ったばかりだと思っていた)の間に大島の噴煙が東京まで飛んでくるのは不思議だと思った。というのは、南方のは大島の上の煙であるとしても、東方まで流れて来ているのは確かに東京の上にあるに相違ないからである。しかしそのときには他にこの雲に対する説明の仕方が思いつけなかった。そうしてあの爆音はなるほど大島の爆発の音だったのだと考えた。こういう噂がひろまり又それを受け容れる心持ちには、我々に最も近い桜島の爆発の知識が働いていたように思う。
 南に高く現われた入道雲がなんであったかは、その後いろいろ聞き合わせてみたが、まだはっきり解らない。あれは横浜の煙だったと言う人があるが、あるいはそうであったかも知れぬ。横浜の建物は最初の震動でほとんどことごとく倒壊した。同時に無数の火の手が上がった。だから大火になったのは東京よりも早かったらしい。その煙が最初に最も高い入道雲となって七、八里離れたところから見えたということは、あり得ぬことではない。そうすれば南東より東方にかけて現われた入道雲は、南から流れて来たのでなく、おのおのその下から、すなわち東京の町から起こった煙であったのである。
 がその当時白い入道雲を噴煙だときめた自分は、その雲の根方に薄黒く立ちのぼっている煙だけを火事の煙だと考えた。見ると南方に一つ、東方に一つ立ちのぼっている。自分は少しでも遠く眺め渡すために、そこいらでは一番高い鉄道の線路へのぼった。電車がとまったので線路にはもう人が絡繹らくえきとして歩いている。自分はその内の一人を捕えて火事の見当を相談した。南の方のは青山だろうということであった。(これは実際はどこの烟であったか知らない。青山は焼けなかったはずである。方角からいえば高輪たかなわ御殿の烟だったとも思われる)東の方のはそのとき解らなかったが、たぶん溜池ためいけの火の烟でそれが日比谷ひびやの烟と一つになって見えたのであろう。が自分は相変わらず火事は消えるものときめて、別に驚かなかった。驚いたのは自分の話しかけた相手が、激震の当時穴八幡あなはちまんにいたと話したことであった。彼は穴八幡のガッシリしたお堂が今にも倒れるかと思うほど揺れたことを話して、「ここいらはあんなにかわらが残っていますがね、高田の方はひどうがしたよ」と言った。それでは、と自分は驚いたのである、あの激震のときからもうそんなに時間が経ったのか、穴八幡からここまで歩いて来られるほどの時間が。そうしてみると自分の感じよりも三、四倍の時間が経っている。そんなに自分は心の常態を失っていたわけかな、と初めて気づいた。がそれに気づくほど地震からうけた激動は鎮まって来たのである。自分は家々のむねを見渡して、ほとんど倒壊家屋のないことや、その向こうに高くそびえている四連隊の煉瓦建てが崩れていないことなどから、なに、大した地震ではなかったのだ、と少しく拍子ひょうしぬけのしたような気持ちにさえもなった。
 帰って家族に大島の爆発のことを話し、太陽の直射の激しいことをこぼしながら、しばらく漫然として、あてもなく、しかも呑気のんきな気持ちで、次に起こることを待っていた。二時と五時にまた強震があるというおふれが廻って来たが、危険のない空地にいることとて、家がつぶれはしないかという心配のほかには、なんの不安もなかった。

 ところで郊外の我々がこんな呑気な時間を送っていた間に、東京市中ではもうすさまじい火災が始まっていた。が、自分の聞いたところによると、この火災の渦中にあった人々さえもが、最初は、異常な大火の起こり始めたことを理解しなかったらしいのである。
 神田は地盤が弱くて倒壊家屋が非常に多かった。従って火の手は諸々方々から起こった。が、岩波の店のT君にきくと、最初地震で表へ避難してから間もなく一、二町南に煙のあがるのを見はしたが、しかし店との間に倒壊家屋が多いので、とてもここまでは来まいと思ったそうである。女中は激震の合い間に勇敢にも路地をはいってその奥の家のまたその最も奥にある台所へ行ってガスを消して来た。それを皆があぶながって留めたほどに人々の頭は地震でいっぱいであった。岩波は小石川の家が古いために必ず倒壊したろうことを思って、子供の身の上を心配しつつ自転車を飛ばした。倉庫番の人々は、崩れた倉庫を飛び出した出会いがしらに、倒れて来た向こう側の家の屋根へ偶然にもうまく飛びのって、危うく助かって来た。出版部にいた人々は最初金庫の側へ避難したが、その金庫が前へ倒れかかって、偶然にも左右へ開いた扉に支えられたために、危うく圧し潰されるのを免れたのであった。人々はその興奮で火事のことを冷静に批判する余裕はなかったであろう。が、やがて、電車通りの向こう側からも煙があがった。店の側を裏通りへぬける路地からも火が出た。その火は迅速に大きくなって行く。急いで原稿や帳簿の取り出しにかかって、まだその全部を出し切らないうちに、もう明かり窓の上の日覆ひおおいに火がついていた。なおそれ以上に物を取り出そうとすれば出せないでもなかったが、その代わり誰かが怪我けがをしたかも知れない。小石川からけ戻った岩波がそれをとめたので、原稿と帳簿の他は丸焼けになった。このときが幾時ごろであったかは解らないが、焼け跡から出た時計は一時十五分でとまっていたそうである。
 深川の森下町にいたN女の話によると、地震で逃げ出したときには附近のものが互いに火を警戒し合ったので、近所から火事は出さなかった。しかし去年の経験で、また水道がとまるだろうと考えて、震動の隙間に台所へ飛び込み、できるだけ多く水を汲み取って置いた。出入りの職人がかけつけて来たときには、N女の母親は、明日にも屋根屋をよこして貰いたいなどと言っていた。が、その内に電車通りの向こうから火が出た。火足が早いので、何一つ取り出すひまもなく、逃げるための舟を探さねばならなかった。初め話のできた舟が駄目になって、ずっと小さい舟が手に入ったので、それに七十幾つかの祖父と母親と自分と(それがN女の家族全体であった)が乗りこんで、船頭に大川おおかわぎ下らせた。避難の舟が多いので、もし初めの大きい舟に乗ったならば、相生橋あいおいばしでつかえて動けなくなるところであったが、舟が小さいお蔭で波の荒い沖へ出ることができた。そうして養魚場のあたりへ逃げて、数日の間食わず飲まずで暮らした。
 日本橋、京橋の方は地盤がいいとみえて倒壊家屋が少なく、従って出火も少なかった。だから地震後数時間は火事の心配をしなかった。白木屋向こう側の鹿島ビルディングにいたK氏の話によると、四階の自分の室で地震に逢って、窓際の本箱を押えつつ窓から見ていると、隣の野沢組のビルディングの四階の窓越しにあわててけて行く女の姿が見えた、と思う瞬間に突然その建物が低くなってパッと立ちのぼるほこりの中に見えなくなった。しばらくして埃が薄らぐと、もう以前の建物は見えなかった。そうして見渡す限り瓦の落ちた屋根が続いていた。やや震動が弱まったとき、K氏はその同僚と共に七階建ての屋上へ逃げのぼったが、そのときにはもう火の手が三か所に上っていた。日比谷の方角に一か所、日本橋の本町付近に一か所、浅草の方角に一か所。が、やがて、十分も経ったかと思ううちに火の手は十二か所にふえた。それがしばらくするうちに二十四か所ぐらいにふえた。蔵前くらまえの高工からは物凄ものすごい火の柱が立ち、十二階はてっぺんから火を吹いた。(そのあと火元がどれほどふえたかはK氏も数えなかったのであろう、あるいは煙のために数えることができなかったのであろう)しかしこれほどの火事を眺望したK氏も、三時半ごろその建物を去るときに、そこが焼けるだろうとは少しも考えなかった。五時ごろ郊外へ帰ったとき、頭にあるものは大火ではなくてただ地震の被害であった。
 いったいに日本橋あたりのあの大建築物が焼けるだろうということは、無数の火の手を見ていたその土地の人々さえもが考えなかった様子である。三越では四時ごろに焼けないと確信して店員を帰したという。日本橋詰めの店々では、その夜三越に火がついたときくまでは逃げようともしていなかった。丸善の店員は六時ごろに同じく焼けないと確信して店を出たが、十時ごろには焼けた。店を出て郊外へ帰った人々はいいが、その土地に住む人たちは、焼けないと信じつつ火の手の来るのを待って、いよいよ逃げ出すときには荷物を積んだ車の雑踏のために、あるいは煙に巻かれて死に、あるいは持ち出した荷物を捨てて命からがら逃げるというふうな目にさえ逢ったのである。幸い丸の内まで逃げのびたS氏の話をきくと、荷物の車をひいて魚河岸うおがしの三、四町の間を通るのに、一時間以上もかかったという。自分の親戚のMが語るところによれば、銀座附近も同様であったらしい。最も近い火事は日比谷で、火事場との間には掘り割がある。そこを火が越えて来ようとは誰も思わない。だから夕方になって掘り割を越えて来た火に追われてあわてて逃げ出すときには、やっと荷物を出すともう家に火がついているという始末であった。がそのときでも、堀二つをへだてた築地の水交社までは火が来るとは思わず、銀座の多くの商店と共に持ち出した商品をそこへ運んだ。そうしてそこで焼かれてしまった。
 誰もが大火の火熱によって数町先のものがげることや、大火の呼び起こす烈風がその方向を気ままに変えることや、又それがこうじて貨車をも持ち上げるほどの大旋風となることなどを理解しなかった。本所で多数の人々が死んだのもその結果であろう。被服廠ひふくしょう跡へ逃げろということは巡査が自転車でふれ歩いたと伝えられている。おそらくそれは事前においては何人も承認する適切な勧告であったに相違ない。しかし無数の木造家屋の燃え盛るあの大火熱にとっては、方三町ぐらいの空地や幅二町ぐらいの川はなんにもならなかった。たまたま本所に住んでいた人々は、この人間の無知の犠牲となったのであるが、焼けなかった山の手の人々もその無知においては変わりなかったのである。
 このように人々は大異変の起こったことを最初に理解しなかったために、漸次ぜんじ大きい災害に巻き込まれていった。が、さらにもう一つ、それを手伝った不幸がある。それは地震におびやかされた人心が、最初に抵抗力を失ったことである。地震後諸方に発火した、その火は時機が早ければある程度まで消せたのである。しかし人々は団結して消火に当たる代わりにただ逃げることを考えた。すでに地震が人心を「逃げる」方に押しつけていた。この抵抗力の喪失が、大火への無理解と相って、火事をますます大きくしていったように思われる。すなわち最初の逃げる気持ちのゆえに、遂には逃げられないような大火にしてしまったのだとも言える。
 もし東京の地震が横浜や湘南しょうなん地方のように激烈であって、家屋の大多数が倒壊したとしたらどうであろう。ちょうど昼食時で、多くの家には火がある。火事は一区内に数十の個所から起こったに相違ない。ちょうど今回の地震で横浜に起こったような迅速な火事が、日本橋にも京橋にもまた神田、浅草、下谷にも起こる。それを取り巻いて山の手の芝、麻布あざぶ、赤坂、四谷、牛込うしごめ小石川こいしかわ、本郷などの低地が同様に燃え始める。その際には、ちょうど本所で起こったようなことが下町全体を通して起こりはしなかったろうか。数十万の人々が被服廠跡におけるように火の旋風に巻かれて死にはしなかったろうか。この大きい惨事をまぬがれ得たのは、人間の力ではない。ただ地震があれほどの強さに留まったというほんの偶然からである。しかしあれ以上の地震は、数十年の後には、また起こりうるであろう。我々は今大火についての知識を恵まれている。このときを除いて右のごとき大惨事の予防に着手する時機はないと思う。

 郊外における我々がこの大火を悟ったのはよほど後であった。
 南に見える入道雲を大島の爆烟ときめた我々は、それが当然南から北へ流れてくるものと考えていた。しかるに、たぶん二時過ぎであったかと思う、千駄が谷から東北方に当たって更にいっそう大きい入道雲が現われた。我々はそれをも爆烟と考えることはできないので、たぶんそれは普通の夕立雲であろうと噂し合った。やがてその雲の中から雷鳴かとも思われる轟音ごうおんが聞こえてくる。地震を恐れて家にはいることができないのに、ここで夕立に見舞われてはたまらないと思う。で我々は不安な気持ちでこの雲を眺めていた。雲の動く方向を観測して見ると、どうも自分の方へ迫って来るようには見えない。が、右へ動くのでも左へ動くのでもない。頭部はほぼ静止していて、胸部あたりの雲が左から右へ動くように思われる。かと思うと右から左へ動いている雲もあるようである。しばらく経つ内にどうも入道雲としては変だと思え出した。そう思って見ると、ときどき聞こえる轟音が、雷鳴としてはうねりが小さすぎる、またこの雲が夕立雲で初めのが大島の噴煙であるという区別も立たない。両者は同じ性質のもののように見える。
 自分はまた様子を探りに通りの方へ出た。そこで誰に聞いたか忘れたが、南の方のは目黒の火薬庫の爆発の煙であり、東北の方のは砲兵工廠の爆発の煙であるという説明をきいた。後日になってこの両者の爆発はいずれもうそであると解ったが、このときには目黒の火薬庫の爆発をいきなり信じた。それは大島の爆発よりもよほど合理的に思えた。なるほど大島の煙があんなに早く来るはずはない、自分の無知のために一里先の煙を三十里先の煙と間違えたのだと思った。砲兵工廠の方はあの新しい入道雲に気づいた後に爆音を聞いたように思ったので、少しに落ちないところもあったが、結局それも信じた。こうして一時間ぐらいはこの説明に満足していたのである。
 しかしこの爆煙の根方に見える薄黒い火事の煙が、いつまで経ってもやまない。むしろおいおいに盛んになってくるように思われる。で、たぶん三時半か四時ごろであったと思うが、自分は鉄道の踏切へ出掛けて行って、東京の方からぞろぞろ帰って来る人に火事の様子を聞こうとした。するとそこの踏切番のじじいが通る人から聞いたことを伝えてくれた。神田が大火である。日比谷も盛んに燃えている。日本橋、浅草、本郷、麹町こうじまちなども燃えている。あの雲は火事の煙であると。
 自分が大火に愕然がくぜんとしたのはこのときである。なるほどあの入道雲は火事の煙かも知れない。これは容易ならざる大火である。水道には水がない。消すことはできぬ。どこまで燃えひろがるか解らない。――が、こう思いながらも、まだ自分は、大火があれほど猛烈なものとは考え得なかった。堀があるところでは留まるであろう、不燃性の建物は焼けないであろう、というふうな気持ちであった。
 このころからおいおい火事の噂が伝わって来た。須田町を中心に四方八方に燃えひろがっている、警視庁や帝劇が燃えつつある、本郷の大学が焼けた、などと、我々は半信半疑でその噂をきいた。が一方では地震に脅かされているために、歩いて火事場まで確かめに行ってみようという気も起こらなかった。ただ入道雲のような火事の烟を仰ぎ見てなんともいえない不安な気持ちに閉ざされていた。空は美しく晴れて太陽が明るく輝いている。風はかすかに肌に感じるほどの微風である。あたりにはこれといって異常な現象も見えない。がこの平生のとおりな静かな自然がなんとなく気味悪く見える。あとで妖怪ようかいの本性を現わす美しい女郎のような気味悪さである。正午以来時間の感じをかき乱されていたので、ちょうど時間がある点で停止してよどんでいるような、いわば魔術使いの呪文で時間が魔縛まばくされているような、不思議な気持ちだった。
 夕方には南方の大きい入道雲がいつの間にか消えて、北東の高い入道雲がやや東方に移りつつますます大きくなった。そうして日が傾くと共に雲の根が赤くなり始めた。日没後には南方から東北方へかけて打ち続いた煙雲の下半部が一面に真っ赤に見え、その根元には燃え上がる炎がすさまじい勢いで動いていた。特に東方より北東にかけての方面が物凄かった。あとで考えるとこの方面に日本橋、神田、浅草、本所などが重なっていたのである。この有様におびえた人々は、ときどき火事が近づいたというような噂を伝え合って、自分の家族なども、自分が火の模様を見に行っている留守に、持ち出すものの荷造りをしたほどであった。
 我々は空地の樹の傍に蚊帳かやって子供たちを寝せてから、茄子なす畑のそばで茫然としてこの火を眺めながら夜を明かした。ちょうど十六夜で、煙の向こうから真っ赤な姿を現わした月が、煙を離れてからはその白い光で煙の上部の団々とした雲塊を照らしていた。森蔭のこのあたりにも月光と火事の火の明るさとがまじった。我々はいじけた心でこの火の小さくなることをのみ念じていたが、火はむしろだんだん盛んになり、ひろがって行くように思えた。我々は大火というものの物凄さを初めて理解することができた。この調子では何物も残さずに焼くであろう。人力ではもう如何いかんともすることができない。地震時の大火とはなるほどこれなのだ。それは我々の考えていた火事とは別物である――こう我々が悟り始めたのは、大火が始まってから十時間も後なのである。

 翌朝になると夜の内に本郷まで行って来た隣のF氏が帰って来て、小石川や麹町の焼けていることを話した。日本橋の親類を探しに丸の内へ出掛けた近所の新城は、呉服橋に焼死体が累々るいるいとして横たわっている惨状を話した。そうして麹町の火が四谷の方向に延びつつあることを言った。見ると火事の煙は依然として盛んにのぼっている。我々は本郷、小石川、牛込、四谷というふうに山の手全体に燃えひろがってくることを想像した。通りに出ると疲れ切った避難者が、あるいはそのか弱い背に子供を背負い、あるいは包みを背負って幼い子供の手をひき、トボトボと歩いて行く。ある者は手車に荷物を積んでその上に老人をのせている。そのすべてが、煙をくぐりぬけたためか、着物も皮膚も薄黒くよごれている。それを見ると、涙ぐましい心持ちになると共に、やがて自分たちもああして逃げなくてはなるまいという恐れを感ずる。いよいよ大火の惨状が現実として迫って来たのである。
 あとになって行ってみると、外濠に沿って歩けば四谷見附から飯田橋までは焼跡を見ないですむ。また青山の通りから六本木を経て芝公園までもそうである。しかし我々はそうとは知らなかった。江戸川べりが焼け切ったと聞いた我々は、その両岸の高台、小石川と牛込とが燃えつつあると信じた。麹町の通りからは四谷へぬけ、南は芝と麻布へ燃えひろがりつつあると信じた。幾度か踏切へ行って通行人にただしたが、どの報告もそう信じさせるに充分であった。もう戒厳令もしかれ、軍隊が消防に努めつつあると伝え聞いても、大火にふるえ上がった我々には、とてもこの火が消しとめられそうに思えなかった。で我々は、一方は四谷の方から他方は赤坂を経て、千駄が谷まで延焼してくることを恐れた。まさかと思いつつも、その恐れは二日の夕刻までだんだん高まっていった。
 他方でこの日はすでに食糧難について注意を喚起された。米はもう手に入らない。メリケン粉も駄目である。わずかに少量の干うどんとさつまいもとが手に入ったきりであった。たとい焼けないにしても、当分は芋粥いもがゆにして食いのばさねばならぬ。がそれも長くは続かない。そのあとには飢餓きがが来る。その当時は関西からあれほど迅速に食糧を回送して来ようとは思わなかったので、我々は食うもののない時期を予想してその対策を考えた。がそこにはなんの手段もなかった。我々は飢餓の危険に対しても覚悟をきめる必要に迫られたのである。
 そういう不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。これまでは抵抗しがたい天災の力に慄えおののいていたのであったが、このときに突如としてその心の態度が消極的から積極的へ移ったのである。自分は洋服に着換え靴をはいて身を堅めた。米と芋と子供のための菓子とを持ち出して、火事のときにはこれだけを持って明治神宮へ逃げろと言いつけた。日がくれると急製の天幕のなかへ女子供を入れて、その外に木刀を持って張り番をした。
 月がまだのぼらず、火事の火であたりがほのかに見えるころであった。家の側を空地の方へバタバタとかけ込んで来るものがある。見ると青山に住んでいる妻の妹である。今月が臨月であるというのに三つになる女児を背負ってハアハア息を切らせている。それを見て自分はぎょっとした。燃えて来たのかと聞くと、そうではないが放火で物騒ぶっそうだし今にも燃えて来そうなのだという。車や自動車はとうてい手にはいらない、子供はおびえて他の人におぶさろうとせぬ、仕方なしに自分でおぶって来たのである。送って来た若い者は通りまで荷物を取りに引っ返した。自分たちは危険がいよいよ近寄って来たことを感じて急に興奮した。そこへ二人の若者が、棒で一つの行李こうりを担って、あわただしく空地へかけ込みながら「火を消して、火を消して」とただならぬ声で叫んだ。それを先ほどの若者と気づかなかった我々は、何かしら変事の起こったことを感じた。もうすぐそこにつけ火や人殺しが迫って来たのだと思った。この瞬間が自分にとってはあの流言から受けたさまざまの印象の内の最も恐ろしいものであった。もとより火を消す必要もなく、また放火者が近づいて来たわけでもなかったのであるが、こうして我々は全市を揺り動かしている恐慌きょうこうにたちまちにして感染したのである。
 夜じゅう何者かを追いかける叫び声が諸々方々で聞こえた。思うにそれは天災で萎縮いしゅくしていた心が反撥し抵抗する叫び声であった。ちょうどその抵抗心が高潮している初夜のころから、東方の火焔は漸次鎮静し始め、十二時ごろには空の赤さがよほどあせていった。ようやくそのころに、延焼の怖れはもうなかろうと思い出したのである。しかし煙はまだ依然として立ちのぼっている。全然安心したのは、火の色がどこにも見えなくなった暁方あけがたの四時ごろである。
 三日の朝は、やっと天災がんだという快活な印象を与えた。自分のように引っ込み思案なものも、この日は親類や友人の安否をたずねようという気持ちになった。まず焼けたらしく思われる方角から始めた。通りを歩くと汚れたゆかたでなりふりもかまわず足を引きずって行く避難者がまだなかなか多い。東京の方へ出掛ける人も人探しらしいのが頻々ひんぴんとして目につく。すべてがいっさいの修飾を離れて純粋な人間の苦しみを現わしている。自分はその苦しみを共に分かたずにいられない切迫した心持ちになった。がそれは自分だけではない。目に入る限りの人間がすべてその心持ちを共にしているように思われたのである。天災に縛られていた人間の心が今や町全体の上に湧然ときのぼっているような心持ちである。が四谷の塩町に行くまでは自分はまだ幾分の平静を保つことができた。塩町で初めて見知らぬ人と口をきいたとき、なぜとも知らず涙がこみ上げて来たのである。自分は市が谷見附へ辿たどりつくまでそれをとめることができなかった。それは一方では罹災者りさいしゃの苦しみへの同情である、が他方では町全体に渦巻いている純粋な人間の情緒への感動である。今やいっさいの営利のシンボルは町から消え去った。人々はただ苦しみと苦しみを救おうとする心との他に何物をも持っていない。その人生の姿が自分を動かしたのである。だから四谷見附で中学生らしい二人の子供をつれた紳士が、水筒と写真機とを肩にかけて、のんきな声で、「さあどっちから廻ろうかな」と言っているのをきいたときには、思わずなぐりつけてやりたい衝動を感じた。が一方では通りすがりにちょっと小耳にはさむ或るやさしい一語でもが、すぐに新しい涙をさそう。いな生物でなくても、人間の苦しみを軽くするものでありさえすれば同じ印象を与えた。本村町の変圧所の前で崩壊した外壁の間から内部の機械の案外に損じていないのを見たとき、ただそれが破壊の手をまぬがれたということだけで、嬉し涙がこみ上げて来た。また辻々のはり札で軍艦四十せきが大阪から五十万ごくの米を積んで急航する、というふうな報知をよむと全身に嬉しさの身ぶるいが走った。しかしこういう気持ちの間にも自分の胸を最も激しく、また執拗しつように煮え返らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂であった。
 自分は放火の流言に対してそれがあり得ないこととは思わなかった。ただ破壊だけを目ざす頽廃的たいはいてきな過激主義者が、木造の都市に対してその種の陰謀を企てるということは、きわめて想像しやすいからである。が今にして思うと、この流言の勢力は震災前の心理と全然反対の心理に基づいていた。震災前には、大地震と大火の可能を知りながら、ただ可能であるだけでは信じさせる力がなかった。震災後にはそれがいかに突飛とっぴなことでも、ただ可能でありさえすれば人を信じさせた。たとえば地震の予言は事前には人を信じさせる力を持たなかったが、事後には容易に人を信じさせた。(三日の夜には午後十一時半に大震があるとの流言で、ようやく家にはいっていた人々が皆屋外に出たのである)そのように放火の流言も、人々はその真相を突きとめないで、ただ可能であるがゆえに、またそれによって残存せる東京を焼き払うことが可能であるゆえに、信じたのである。(自分は放火爆弾や石油、揮発油等の所持者が捕えられた話をいくつかきいた。そうして最初はそれを信じた。しかしそれについてまだ責任ある証言を聞かない。放火の例については例えば松坂屋の爆弾放火が伝えられているが、しかし他方からはまた松坂屋の重役の話としてあの出火が酸素の爆発であったという噂も聞いている。自分は今度の事件を明らかにするために、責任ある立場から現行犯の事実を公表してほしいと思う)
 いずれにしても我々は、大震、大火に引き続いて放火の流言を信じた。それを信じさせたものはさかのぼって行けば「大火に対してなんの防備もない厖大ぼうだいな都市」を作った市民自身の油断に帰着すると思う。事前には油断し切って危険の上に眠っていた。その危険が現前すると共に、人々はその危険に対して必要以上に神経過敏になり、その恐怖心を枯尾花かれおばなに投射してそこに幽霊を見た例も少なくなかった。これは人間の心理として当然のこととも言えるであろう。しかしそれが油断から出た狼狽であること、そこに健全な判断が欠けていたことはなんといっても否定できない。人々は都会の与える営利と享楽とを追うのに急であって、その都会生活の基礎を確実ならしめる努力におろそかであった。その油断を一挙にして突かれた。そうして頭脳が昏迷こんめいした。我々はこのあやまちを承認しなければならぬ。必要なのは正しい認識とそれに従う正しい実行である。我々は在来の東京市の「不完全」を都市計画の上からもまた社会組織の上からも、更に進んでは都会人の心の持ち方の上からも、過敏なほどに感じさせられた。これを我々は正しい認識にひき戻し、そうして断乎たる決心をもってその改善に着手せねばならぬ。過敏な神経が静まると共に、この正しい認識をさえも再び、震災前におけるごとく神経過敏と呼びあるいは書生論と卑しめるような愚かさを繰り返してはならぬ。大火の直後には醜名高き市会議員すらもが土地市有を高唱した。それが利権をわたくししようとする動機から出た説か否かは自分には解らない。とにかく土地市有あるいは土地公有をこの種の人々さえもが主張するほどな好時機に際会したのである。即ち公共の利益のために断乎として利己主義的な社会組織、経済組織を改善する機会を、天が日本人に与えたのである。ただ復旧するのみではなんにもならない。東京市に広濶な防火公園を設け、下町一帯に耐震耐火の建築物を建てるということも、この際なすべきことの内の最も表面的なものに過ぎない。大震大火に襲われたがゆえにただ将来の大震大火に対する設備のみをなすのは再び短見を繰り返すことになろう。次回の関東の大震は早くも数十年後でなくては起こるまい。それ以前に起こるかも知れぬところの日本全体の社会的大地震の惨害に対してこそ、我々は相互扶助の精神に基づく最善の予防法を講ずべきである。それが今回の天災の与えた教訓である。地震、大火、流言において我々が今経験したごときことを、再び社会的大地震において経験するならば、その災禍はとうてい今回のごとき局部的なものには留まらないであろう。
(思想)

底本:「黄道」角川書店
   1965(昭和40)年9月15日初版発行
入力:橋本泰平
校正:小林繁雄
2013年4月9日作成
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