神仙しんせんの実在を信じて「神仙記伝」と云う書物を編輯へんしゅうしていたと云う宮中掌典きゅうちゅうしょうてん宮地嚴夫翁みやじげんぷおうが明治四十三年、華族会館で講演した講演筆記の写しの中から得た材料によって話すことにする。この話の主人公河野こうのと云うのは宮地翁門下の一人であった。河野の名はひさし、通称は虎五郎、後に俊八しゅんぱちとも云った。道術を修めるようになってから至道しどうと云う号を用いていた。もと豊後ぶんご杵築きつきの藩士で、大阪なかしまにあった藩の蔵屋敷の定詰じょうづめであったが、御一新ごいっしん後大阪府の貫属かんぞくとなって江戸ぼりに住んでいた。非常な敬神家けいしんかで、神道の本を読み宮地翁の講義などにも出席していた。
 明治七年の四月になって河野は大阪から泉州せんしゅうの貝塚へ移り住んだ。その時分から彼の敬神のかんがえは非常に突きつめたものになっていた。宮地翁のことばによると、「始終私どもの講義を聞いて、ここにはじめて神の正しく儼存げんぞんたまううえは、至誠しせいってこれを信じその道を尽し、その法を修めんには、神にも拝謁はいえつのできぬものにはあらざるべしと決心し、これより種種しゅじゅの善行を志し、捨身すてみ決心して犬鳴山けんめいざんこも大行たいぎょうをはじめ」たのであった。犬鳴山の行場ぎょうじょうへ籠ったのは翌年の三月一じつのことであるが、その山へこもるようになったのは前年の十月に霊夢を感じて仙術の修練に志したがためであった。犬鳴山では毎日滝にうたれて荒行あらぎょうをした。荒行をはじめた始めの一週間には種種いろいろな不思議なことがあった。
 八月の六日になって、河野は大和の葛城山かつらぎざんへ登ってその頂上で修練を始めた。草の上に安坐趺跏あんざふかして、おのれの精神を幽玄微妙ゆうげんびみょうさかいに遊ばしている白衣びゃくえを着た河野の姿は夜になってもうごかなかった。空には星が光っていた。鹿の鳴く声がすぐ傍から聞えて来た。鹿の声は二三匹の鳴く声であった。鳴き声が止まるとがさがさと云う落葉を踏む跫音あしおとが聞えた。そして河野が気のついた時には五匹ばかりの鹿が傍へ来て立っていた。鹿はれ馴れしそうに寝たり起きたりした。
 河野はおこなすまして動かなかった。七日の明け方になったところで、今まで傍にいた鹿はどこへ往くともなしに急にいなくなってしまった。河野はそのままぎょうを続けてその日の夕方になったが、水がみたくなったのでたにへおりようと思っておりかけた。二三ちょうばかり往ったところで、前方むこうから不思議な風体ふうていをした男がやって来た。黒い紋のある衣服きものを着、はかま穿いた二十二三に見える色の白い眼の鋭い男が髪をひもで結んでうしろへ垂らし、二尺くらいある短い刀を一本差していた。
「その方は、こうした深山しんざんの中で独り何をしておらるる」
 刀を差している男は声をかけた。
「私は昨日きのうからこの山へ登って、修業を始めた者でございますが、水が欲しいので尋ねて往くところでございます」
 河野がありのままに答えると、
「水なら、わしが知っておるから教えてあげよう」
 刀を差した男はこう云って引返して山をおりかけたので河野もそのあとからいて往った。とが白樺しらかばなどがいじけた枝を張ってぼつぼつ生えている間を通って、山のうねになったところを廻ると、大きな岩のそびえている下へ出た。そこにはこけの生えた清水のたまっている岩穴いわあながあった。
「これだ」
 刀を差した男はそれに指をさした。河野は腰にさしていた竹筒へその水を汲んだ。
 うっすらと峰を染めていた夕陽の光が消えてしまった。二人は今おりて来た道を登った。
昨夜ゆうべ、山の上で徹夜した時に、何か変ったことはなかったか」
 刀を差した男が云いだした。
「べつに変ったことはありませんが、夜遅くなって、五六匹の鹿が傍へやって来て、明け方まで遊んでおりまして、明け方にどこへか往ってしまいました」
 河野が返事をすると、刀を差した男はり返ってにっと笑った。
「その鹿は五匹じゃ、二匹は親鹿で、三匹は子鹿じゃ」
 河野は驚いた。この人はただの者ではない、しかするとじぶんの求めておる神仙であるかもわからないと思った。河野はそのまま土の上につくばうようにした。
「何も知らない者でございますから、無礼ばかりいたしました、どうか、その罪をお許しくだされて、道のおしえをお授けくださいますように」
「その方の志は好くわかっておる、しかし、わしは、今晩のうちに己の住家すみかへ帰らねばならぬ、その方も仙道せんどうを修めたいと思うなら、これから、わしといっしょに往こう」
 刀を差した男は暗いなかにその光のある両眼を見せていた。
「有難うございます、では、おともつかまつります」
「では、わしにいて来るがよかろう」
 刀を差した男は走るように歩るきだした。河野は遅れてはならんと思って一生懸命になって跟いて往った。
 道は草の峰になり、岩のそびえた渓川たにがわの間になり、大木のい茂った真暗な林になるなど、眼まぐるしく往く道が変化した。寒い風が吹き、雲霧くもぎりが飛び、星が見えたり隠れたりした。刀を差した男の体は鳥のようであった。河野は何時いつの間にか人事不省じんじふせいに陥ってしまった。そして、気がついた時には、刀を差した男がうしろへ廻って背をさすっていた。
「気がついたか」
 河野の口の中には何時の間にか薬が含まされてあった。薬は体一面に浸み渡るような心好い感じを与えた。河野は夢からめたように体の疲労がとれてしまった。
「もう、これから余り遠くない、もう一息じゃ」
 河野は起きあがった。刀を差した男はまた歩きだした。何時の間にか夜が明けかけていた。
 道は大木の生い茂った林の中へ入った。朝の光がこずえからしらじらとさしていた。大きな岩があって岩屋いわやらしい入口が眼についた。刀を差した人はその中へ入って往った。
「ここじゃ、ここへ入るがよかろう」
 河野はそのあとから入った。刀を差した人は岩屋の中にゆったりと坐った。河野もその前に坐った。
不肖ふしょうは河野久と申す者でございますが、これからお弟子になされてくださいませ、一体ここは何と云う処でございましょう」
「ここは、吉野山の奥で、昔から人跡じんせきの到らない処であるから、仙道修行にはまたと無い処じゃ、わしはもと大和の国の神官で、山中やまなかと云う者であったが、わしが人間界におった時は、足利義満あしかがよしみつ義持よしもちが将軍になって、言語道断な振舞をするから、慷慨こうがいの余りに山へ入ったのじゃ、わしは応永初年の生れであるから、山へ入ったときは四十あまりであった、初めは富士山へ登って、富士山の神仙について、数百年の間、みちを学びしんを修めたから、その功が満ちぎょうって、照道大寿真しょうどうだいじゅしんと呼ばれるようになっておるが、近ぢかのうちに、地仙ちせんせきを脱して、天仙てんせんになることになっておる、この霊窟れいくつは、それまで住んでおる仮りの住家すみかじゃ、ここへその方をれて来たのは、その方の精神に感じてのことじゃから、気を置かずに休息するがよかろう」
 話の内に日が出て明るい朝日の光が岩屋の中にさした。瑠璃色るりいろの羽をした鳥や、孔雀くじゃくのように羽を広げた鳥などが、岩屋の前をおりおりいて通った。河野はふとじぶんが気絶したときにまされた不思議な薬のことを思いだした。
今朝こんちょう私が戴きました薬は、どうした薬でございましょうか」
草木そうもくを見ればよくわかる」
 照道寿真は軽くこたえた。河野にはその意味がわからない。
「草木を見よとおおせられますと、草木を……」
 照道寿真はにっと笑った。
桂枝けいしのもとには草しょうぜず、麻黄まこうの茎には雪積らず、これにじゅんじて、注意しながら山を廻っておると、自然に薬が知れてくる」
 照道寿真はそれを発端として玄妙げんみょうな仙道の秘訣を教えはじめた。河野はその教えを心に刻みつけた。午後四時ごろになって寿真の話は終った。河野はその時になって、未熟な身でそうした神境しんきょうにおることが勿体もったいないように思われだした。
「未熟な身が、何時いつまでもこの霊窟におりますのは勿体のうございますから、お別れいたしたいと思いますが、このうえとも御指教ごしきょうを願います」
「それでは、今日は帰るがよかろう、そこまで見送ってやろう」
 寿真は河野をれて岩屋を出た。そして二人で山をくだって往った。一里あまり往って、深林を出放ではなれると渓川たにがわが来た。左右には高い山が天空を支えてそびえていた。渓には夏の夕陽があった。寿真は片手を出して渓下たにしたの方に指をさした。
「この渓川に沿うて、下へ下へと往って、あの山のはずれを」
 と、云って渓の下の方に見えている左側のんがった峰に指をさした。その指が大きく光って見えた。
「あの山はずれを、西へ西へと往けば、人の通るみちが来る」
 河野はうなずいた。
「これから、わしの処へ来たくなったら、ここまで来て待っておるがいい、わしが迎いに来てやる」
 河野は寿真の方をおりおりふり返りながら山をおりて往った。最後にふり返った時には、一沫いちまつの雲が寿真をおおうように見えていた。
 河野はその晩たにぐち持宿もちやどをした。翌日は吉野路よしのじを通って、五条橋本ごじょうはしもとなど云う処をてそのかごとりと云う山の辻堂つじどうで一泊し、十日になって紀州路きしゅうじから泉州せんしゅう牛滝うしたきと云う処へ越え、それから葛城山かつらぎざんへ往った。葛城山ではまた二日間修業して、十二日の午後三時ごろ貝塚の寓居ぐうきょへ帰った。
 河野はそれを初めとして、その後も度度たびたび葛城山へ登り、吉野へも往って照道寿真に面会した。照道寿真もまた時どき河野の家へやって来た。
 河野は照道寿真から修真の法を授かった顛末てんまつを書いて、それに「真話しんわ」と云う題を附け、それを宮地翁のもとへ送って来た。河野はのちに堺から大阪へ往って西区紀伊橋きいばし西北詰にしおかづめ粕谷治助かすやじすけと云う人の許にいた。
 宮地翁が河野が神仙にうたことを知ったのは、明治九年の夏のことであった。宮地翁はその時、教部省のめいで大阪に在勤して神道の講義をしていた。河野が宮地翁の講義を聞いたのはその前であったが、しかしその時は一聴講生として宮地翁の前に出ておっただけで個人としては知らなかった。河野はその時長沢在仲ながさわざいちゅうと云う医師いしゃを紹介者として、山女やまめを持って面会を求めた。
「私は先生の講義を拝聴いたしておった者でございます」
 宮地翁はこのことばによって河野が聴講生であったことを知った。河野はそれを縁にして時おり宮地翁の許へやって来て、二三日逗留とうりゅうしてゆくこともあった。河野の食事は平生いつも葛湯くずゆでそれをコップに一杯ずつんでいた。
「手のかからないいいお客さんだ」
 宮地翁はこんなことを云って知己しりあいの人に話して笑った。河野には細君さいくんがあった。およねと云う女の子もあった。細君には同藩の木村知義ともよしと云う人の妹であった。河野は時とするとその木村といっしょにやって来た。木村は河野と往復した書簡及びその直話じきわを筆記して、「至道しどう物語」と云う一篇の書を作ってこれを宮地翁に送って来た。至道は河野の道号どうごうであるのは云うまでもない。
 明治二十年四月下旬になってから河野は百日間の断食だんじきぎょうを始めた。そして、七月の末になってもう二三日すると満行まんぎょうになると云う日になって、河野は宿の主人を呼んだ。河野はその時机にかかって俯向うつむいていた。主人は急いで河野のへやへ入って往った。庭には午後の暑いがぎらぎらと光っていた。河野はすこし顔をあげて主人の方を見た。
「気の毒じゃが、氷水こおりみずを二杯とってくださらんか」
 従来河野は断食することがあっても水だけはすこしずつ用いていたが、その時の断食に限ってすこしも水をとらなかったから、それに同情していた主人は早速さっそく氷をとって来て盆へ載せて持って来た。
「これは有難い、私も今りょう三日すると、満行になるが、急に往かねばならぬことになったから、手数てすうをかけた」
 主人は往くと云ったのを平生いつものとおり貝塚へ往くことだと思った。
「長い間の行でございましたから、あとの養いが大事でございますよ」
「有難う」
 河野はこう云ってそのまま机の上に俯向いた。主人は室を出て往ってしかけてあったちょとした用事を済ますと、何かまだ他に用事はあるまいかと思って河野の室へ顔をだした。河野は机の上に俯向いたままじっとしていた。氷はと見ると一つの氷のコップは空になって、もう一つの方は一口ぐらいんだようにちょっと上の方がいていた。
ねむっておられる、長い間のぎょうで体が疲れているだろう)
 主人は跫音あしおとをして驚かしてはならんと思ってそっとへやを出て往った。しかし、河野のことが気にかかるのでまたしばらくして来て見たが、河野は初めのように俯向うつむいていた。もしあれから氷を喫んだのではあるまいかと思ってコップに眼をやったがコップは元のままであった。
(やっぱり疲れておるから、うとうととなされておるだろう)
 主人はまた外へ出て往ったが、何だか河野の容子ようす平生いつもと違っているように思われるので、また引返えして来て、
「先生、先生」
 と声をかけた。返事もなければ体も動かさない。主人は思いきってその傍へ寄って往って、片手を掛けて揺り動かした。
「先生、先生、先生」
 河野の体はもうかたくこわばっていた。
 河野が死んでから二十日はつかばかりしてのことであった。何かの用事で東京から大阪へ往っていた宮地翁は、中の島の知己しりあいの家で河野の寄寓きぐうしていた粕谷治助に逢って、河野の歿くなった話を聞かされた。
 明治三十四年五月、東京麹町区こうじまちく飯田町いいだまち皇典こうてん講究所では神職の講習会があった。宮地翁はその時「神仙記伝」と云うものを編輯へんしゅうしていた。神職講習会へ来ていた備前びぜん国幣中社安仁こくへいちゅうしゃやすひと神社の禰宜太美万彦ねぎふとみのよろずひこと云う者が、某日あるひ一人のつれとともにやって来た。万彦は宮地翁の机の傍にあった神仙記伝の原稿に眼をけた。
「あなたは、神仙のあることをお信じになって、これを編輯へんしゅうなされておりますか、それとも、ただ面白い記録として編輯なされておりますか」
「実在を信じておりますから、こうして数年にわたって編輯しております」
「そうでございますか」
 万彦は神仙記伝の話をそのままにして他の話をして帰って往ったが、翌日になるとまた一人でやって来た。
昨日きのうは他に人がおりましたから、何も申しあげませんでしたが、私も神仙の実在を信じておる者でございます」
 万彦はじぶんの知っている神仙のことについてはなした。備前びぜんくに赤磐郡あかいわごおり太田村おおたむら大字万富おおあざまんとみ小字梅こあざうめという処に山形尊やまがたそんと云う盲人があった。その盲人はその時三十歳であった。その盲人の尊は少年の時音楽を習おうとしたが、記憶力が弱くて何を教わっても覚えられなかった。某人あるひとが「安芸あき厳島いつくしま弁財天べんざいてんへ、火のものを絶って祈願をめると、必ず覚えがよくなる」と云って教えた。尊は十二三であった。彼はそのことばを信じて七日間火のものを絶って遥かに祈願をしたが、すこしもしるしがなかった。尊は失望して死のうと思い、同国和気郡わけごおり大字板根おおあざいたねと云う処へ往ってそこの橋の上から身を投げようとした。ところが、和気郡の熊山くまやまと云う山に住む神仙が来て、尊をれて往って種種しゅじゅのことを教えてくれた。神仙は銀製の長さ二寸ばかりあるトッコンと云う楽器、水晶でこしらえた亀のこうの形をした一寸五分ばかりのもの、鉄扇てっせんけんの四種の品をくれた。神仙は尊に向って、「十年間はこのことを他言たごんしてはならん」と云った。尊はそのめいを守って十年過ぎても何人たれにも云わなかった。ところで明治二十八年になって、やはり同国御野郡みのごおり金山かなやまの人に「神の告げがあった」と云って、三人の者がれだって訪ねて来たから、尊も始めて神仙の話をして聞かせた。尊はその時分、神仙からさずかった秘法や禁厭まじないで附近の人びとの病気などをなおしていた。尊の噂が高まってくるとともにその門人もんじんとなる者もできた。太美ふとみ万彦よろずひこもその弟子の一人であった。尊は時どきその門人を伴れて熊山へ往った。火のものを絶って尊にいて往った門人達は、熊山の山頂で神仙の奏する音楽を聞くことができた。神仙の形は見えなかったが音楽は近ぢかと聞えた。尊は門人達に、「熊山、吉野山、伯耆ほうき大山だいせんなどには仙境せんきょうがあって、吉野山の神仙と、熊山の神仙とは常に往来ゆききしている」と話したこともあった。万彦は某夜あるよ尊に伴れられて平生いつものように熊山へ往って音楽を聞いた。ところで、その晩の音楽の中に一つつたない音楽があった。万彦は不審に思うて尊にいた。尊も不思議に思っていたから神仙にうかごうた。神仙は尊のといに答えて、「近比ちかごろ人間界から来た新仙しんせんがあって、まだ音楽に熟していないのが混っているからである」と云った。尊は、「それは何という人で、何時いつこの仙界へ来られたか」と訊いた。「河野久と云う者で、十四五年ぜんに入って来た」と神仙は答えた。
 万彦の話に耳を傾けていた宮地翁は、河野久の話を聞くと、もし万彦がじぶんと河野久とのことを知っておって、己を喜ばすために作りごとを云うのではないかと思ったので、そのままに聞き流してその日はなにも云わなかった。しかし、その数回万彦がやって来るので気をつけて見たが、別に河野と己との関係を知っていそうにもないので、ある日、宮地翁は万彦に向って河野の話をして聞かした。
「あなたは、この間、河野久のことを話しておられたが、河野のことを御存じですか」
 万彦は無論河野のことは知らなかった。宮地翁は河野の書いた「真話」と木村知義の書いた「至道物語」を出して見せた。万彦は驚いて尊へ送る手紙のはしにそのことを書いてやったが、神職講習会が終って帰郷すると、尊に会って河野のことを詳しく話した。尊は神界へうかがいをたててそのの河野のことを訊いた。河野は吉野山の仙境に住んでいて時どき熊山の仙境に往来しているとのことであった。宮地翁はこれに対してこう云うことを云った。
ここおいて私の考えておりましたとおり至道の死去は、その実普通の死去でありませんので、前に申しました漢の李少君りしょうくんや、我国の白箸翁しろはしおうるいで、全く屍解しかい仙去せんきょであったことが明白になりました。これにて神仙の存在ははなはだ確実なることがしょうせられると思います。実は私の本朝神仙記伝に載せました事蹟の中にはこの伝よりも余程面白き奇談もありますけれど、この河野は第一私の直接面会したものでありまして、またこれを証明いたしました太美万彦氏も、今日にては安仁やすひと神社の宮司ぐうじに進みて、現職の人であります故、最もたしかな話ですから、特にこの河野のことをお話しいたしたのであります」

底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
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