「あんなにおった鯉が何故獲れないかなあ、あの山の陰には一疋や二疋いないことはなかったが、一体どうしたんだろう」
その夜は生暖な晩であった。地炉に焚く榾の火が狭い荒屋の中を照らしていた。
「二尺位ある二疋の鯉……二尺位の鯉が二疋欲しいものだなあ」
勘作は村の豪家から二尺位ある鯉を二疋揃えて獲ってくれるなら、云うとおりの値で買ってやると注文せられているので、二三日前からその鯉を獲ろうとしているが、鯉は愚かろくろく雑魚も獲れなかった。
「網では獲れそうにもないから、明日は釣ってみようか、あの淵の傍で釣ってみてもいいな、釣るがよいかも知れないぞ」
勘作は酒の気がないので、もの足りなくてしかたがなかった。
「勘作さん家かな」
何人かが入って来た。漁師仲間の何人かが話しに来たろうと思って庭を見ると、色の白い小柄な男が来て立っていたが勘作には見覚えのない顔であった。
「お前さんは何人であったかな、俺はものおぼえが悪いから」
「お前さんは知らないかも判らない、私は近比この村へ来た者だから」
「そうか、それなら、これからおつきあいをしよう、さあ、おあがり」
「そんじゃ、あげてもらおうか」
小柄な男はそう云って地炉の傍へあがった。
「お前さん、国はどこだね」
「東の方だ、東の方からぶらぶらやって来たが、この辺はいい処だね、漁もあるだろう」
「もとはあったが、近比はめっきり無くなった」
「そうかなあ」
「それにこの二三日は、すこしもないので、今晩はすきな酒も廃めている」
「そうか、それはいかんなあ」
「二尺の鯉を二疋獲ってくれと、二三日前から頼まれて、この広い湖へ片っ端から網を入れているが、鯉は愚か、雑魚もろくろくかかりゃしない」
「そんなことは無い、私は近比来た者だが、それでも鯉の二疋や三疋は、買手を待たして置いても獲って来る」
勘作は出まかせなことを云う対手がおかしくてたまらなかった。彼は大声で笑いだした。
「お前さんが嘘と思うなら、私がこれから往って獲って来てやろう、網はどこにあるかな」
「網は外の柿の木に乾してあるが、お前さん、狐にでも撮まれているじゃないか、俺はこの浦で二十年来漁師をやっているが、買手を待たして置いて獲る程鯉は獲れないよ」
「嘘と思うなら私が獲って来てやろう、待ってるがいい」
小柄な男はひょいと庭へおりて外へ出て往った。勘作は冷笑を浮べながら煙草を喫んでいたが、櫓の音がしだしたので湖に面したほうの障子を開けてみた。朦朧とした月の光の射した水の上に岸を離れたばかりの小舟が浮んで、それが湖心のほうへ動いていた。櫓を押ている小柄の男の姿も見えていた。
「俺に獲れないものが、あんな、小僧ッ子に獲れてたまるか」
勘作は障子を締めて横になって煙草を喫んでいた。そして、小半時も経たないところで跫音がして小柄な男が帰って来た。勘作が舟の中へ置いてあった空笊を小脇にしていた。
「勘作さん、どうだな、注文の鯉を獲って来たが」
勘作は起きあがって笊の中を覗いた。大きな二尺ばかりの鯉が四疋と、他に鮒や鮠などが数多入っていた。勘作は驚いて眼をった。
「注文の鯉を持って往けば、金をくれるだろう、これで一杯買おうじゃないか」
勘作は小柄な男を待たして置いて、その鯉を持って鯉の注文を受けている豪家へ往って二疋を売り、後の二疋を宿の旅籠へ売ってその金で酒を買って帰った。
「お前さんの名はなんと云うんだ」
勘作が酒を注ぎながら云うと小柄な男は笑った。
「名はなんでも好いじゃないか、これから朋友になったから、ちょいちょい飲みに来るよ」
「好いとも、飲もう」
小柄な男は明方まで飲んで帰った。勘作はその男の素性が不思議でたまらなかった。翌日になって仲間の漁師達に聞いても何人も知っている者がなかった。
小柄な男はその夜をはじめとして折おりやって来た。そして勘作が漁がなくて困っていると、彼は勘作の網を持ってちょっとの間どこかへ漁に往ったが、何時でも数多の魚を獲って来た。
勘作と小柄な男との間は三年ばかり続いた。勘作はもう小柄な男の素性を怪しいとも思わなければ、素性のことを考えもしなかった。某夜、平生のようにその小柄な男がやって来て二人で酒を飲みだした。
「勘作さん、お前さんは、私をなんと思っているかな」
小柄な男が云うと勘作はすまして云った。
「なんとも思っていないよ、俺はお前さんが、鬼でも蛇でもかまわないよ」
「私は人間じゃない」
「どうせ、そんなことだろうと思った、なんだな」
「水におる者だ」
「河童か」
「河童じゃないが、まあ、そんな者さ」
「それも好かろう」
「ところで、私は不自由だから、ひとつ人間になりたいと思っている」
「どうして人間になる」
「人間の体を借りるつもりだ」
「何時借りる」
「明日、午の比、この傍の路を旅人が通るから、その笠を飛ばして、それを執りに水に入って来るところを引込んで、その体を借りるつもりだ」
「そうすると、その人はどうなる」
「その人間は死ぬるが、私がその体を借りるから、他の人には判らない」
「そんなくだらんことは廃せ、やはり今までどおりで飲もうじゃないか」
勘作は何時の間にか睡って水の男が帰ったのも知らなかった。そして、朝になって水の男の云った詞をおもいだしたが、気の広い勘作はすぐ忘れてしまって漁に往き、午飯に帰って飯をすまし、庭前の柿の立木に乾してある投網の破れ目を繕うていると、家の傍の路を一人の旅人が通って往った。勘作はふと水の男が笠を落すと云ったことを思いだして旅人のほうに眼をやった。と、さらさらと風が吹いて来て旅人の冠ていた笠が、ひらひらと飛んでそれが湖の水際に落ちた。と、旅人は慌てて水際へおりて往こうとした。勘作ははっと思った。彼は走って往って大声で止めた。
「おい、おい、水へ入ってはいかん、魔物が棲んでおるから引込まれる」
旅人は水の中に足を入れようとして止めた。
「あぶない、あぶない、そこには魔物が棲んでおる」
旅人は笠をそのままにして、路へあがって来て勘作に礼を云ってさっさと前方へ往ってしまった。
水の男は勘作の顔を見るなり怒鳴りだした。
「やい、勘作さん、おまえさんのような情なしがどこにある、おまえさんはなんの怨があって、私の仕事の邪魔をした」
勘作は膳前に一本飲んでいるところであった。
「なんだ、なんのことだ」
「なんのことだ、おい勘作さん、とぼけちゃいけないよ、今日、俺が旅人の笠を飛ばして、旅人を引込んで、人間になろうとしていると、お前さんが走って来て、そこには魔者が住んでおる、入られんと云ったのを忘れたのか、おい勘作さん、忘れたとは云わせないよ」
「ああ、そのことか、そのことなら覚えている」
「だから、なんの怨みがあって、そんなことをしたかと云っているんだ、それを云ってもらおう」
「そうか、そのことか、そりゃお前さんがいけねえ、お前さんが人間になりたいと思って、他の人間を殺すのは道にはずれている、そりゃ、いくらお前さんと朋友でも、そんなことはいけねえ、それとも、お前さんは、道にはずれていると思わないのか」
「そりゃ、罪もない人間を殺すのは、ちと気の毒じゃが、それ位のことは、眼をつぶらねばいけない」
「それは己かっての理窟じゃ、そんな道にはずれたことはいけない、まあお前さんもつまらん望みを起さずに、今までどおりにつきおうて、旨い酒を飲もうじゃないか、まああがるがいい」
水の男は地炉の傍にあがって酒を飲みだした。
「人間になったところで、たいしたこともない、このままで俺と何時までも旨い酒を飲もう」
勘作と水の男は、又三年ばかりの交りを続けたが、某夜水の男は又勘作に云った。
「今度こそ人間になる決心をした、人間になったら、お前さんの処へ来られる」
「どうして人間になる」
「夫婦喧嘩をしている者があって、女房の方が家を飛び出して来ることになっているから、それを引込むつもりだ」
「そうか、どこでやる」
「この傍へ来る、明日の晩の亥の刻じゃ」
翌晩になると勘作は、又水の男の云ったことが気になりだした。彼は亥の刻になると外へ出て湖水縁の路を歩いた。星の多い夏の夜であった。と、前方からばたばたと足音をさして走って来る者があった。勘作は星の光に透して見た。色の白い女が肌もあらわになって走っている。いよいよ家出女房であると思っていると、女はふと足を止めて水の中へ眼をやった。勘作は背後からそっと往って、今にも飛び込もうとしている女をしっかと抱き止めた。女は勘作の手を揮り放して飛び込もうとする。二人が争っているところへ女の所天はじめ隣家の者が三四人やって来た。勘作は女を渡して帰って来た。
水の男はもう勘作の家へ来て坐っていた。
「おい勘作さん、お前さんは、なんと云う意地悪だ、何故私が人間になる邪魔をする」
勘作は莞爾莞爾笑いながら上へあがった。
「お前さんも又、殺生なことまでして何故人間になりたいのだ、そんなことは、ふっつり思い切ったらどうだ」
「思い切れないからこそ、やってるじゃないか、何故邪魔をする」
「お前さんは、そんなことを云うが、お前さんに生命を奪られて体を借られる人間の身になってみたらどうだ、俺が邪魔をするわけも判るよ」
「そりゃ、人間には可哀そうさ、だが私の身になったらどうだ」
「お前さんのことは道にはずれているから、そんなことは話にならんさ」
「お前さんは意地悪で困る」
「まあ、酒でも飲もう、宵のあまりがあるから、そいつを飲みながら話そう」
二人の交りは又三年ばかり続いた。そして、その年の春であった。某夜水の男は勘作が寝ている枕頭へ来た。
「私は、お前さんのおかげで悪いこともせずにやってたから、今度、神になって祭られることになった。これからこの湖では余り漁もないし、お前さんも年が往って仕事をするが苦しかろうから、私の処へ来て神主になるがよい、場所はこの家の前の路を西へ西へと十日ばかり往くと、大きな川がある、その川の土手だからすぐ判る」
翌日になって勘作は、水の男の云ったことを考えてみたがどうも真箇にできない。で、そのままにして相変らず漁師をやっていたが、それから水の男も来なければ漁もなくなったので、水の男の云ったことを思い出してその年の秋船も網も捨てて西へ向って出発した。
水が枯れて河原の広広とした大きな河が来た。勘作はこの河ではないかと思って、渡船場におりようとする河土手になった林の中を注意して歩いていた。と、路の上に新しい石磴があって、やはり新らしい檜の小さな鳥居が見えた。勘作はたしかにこれだと思ってその石磴をあがって往った。
夕陽の中を蜻蛉が二つ三つ飛んでいた。石磴をあがり詰めると檜の香の紛紛する小社があった。勘作はその前に往って頭をさげて拝んだ。
「勘作か、よう来た」
それは聞き覚えのある水の男の声であった。勘作は頭をあげて木連格子の間から中の方を見たがなにも見えなかった。
「二三日のうちに家もできる、それまでは、堂の内で寝るがいい」
勘作は縁に腰をかけて、肩に打ちかけた風呂敷包を置いた。
「お前はこれから、村へ往って来るがいい、その石磴をおりて村の方へ歩いて往くと、牛を牽いた老人が来る、その老人に、今、水神様のお告げがあったが、今晩、大水が出るから、河原へ乾してある稲は、すっかり執りこまなければならんと云うがいい」
勘作はその詞に従って石磴をおりて往った。そして、土手を内へ入って人家のある方へ歩いていると、果して牛を牽いた老人がやって来た。
「もし、もし、私は、今、水神様のお告げを受けたから、村へ知らしに往っております、今晩は大水が出るから、河原へ乾してある稲を執りこまないと流れると云うことです」
老人は半信半疑の顔をした。
「この天気続きに、おかしいなあ、しかし、神様のお告げと云うことなら、村の衆へ知らすことは知らしてやろう」
老人は牛を牽いて帰って往った。勘作はそのまま社へ帰って、堂の上へあがってみると酒や飯が三宝に盛ってあった。
「勘作、腹が空いたら、それを喫うがいい」
勘作はその酒を喫み、飯を喫った。水の男は姿を見せなかったが、傍で勘作の対手になった。
その夜大水があった。水神のお告げを信じて稲を執り入れた者は無事であったが、それを疑ってそのままにしてあった者は皆流してしまった。
村の人びとは、翌日水神の告げを知らして来た旅の男を水神の社の内に見つけて、それを神主として置くことになり、社の傍にその住居をかまえた。
底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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