山上のホテル――食堂のベランダ、夏のをはり――午後九時頃。
テーブルに、青年とその母が向ひ合つてゐる。

青年  もうおやすみになつたら如何です。だいぶん冷えて来ました。
母  こんなに晴れた空を見るのは久しぶりだね。――寝るのが惜しいやうだ。
青年  僕は少し考へごとがあるんですから、しばらく一人きりにして下さい。――お部屋からでも空は見えるでせう。
母  そんなにいつまでも空を見てゐる気はないよ。寝るのは惜しいといつたのは、かうしてお前と二人きりでゐるのも、さう長いことぢやないと思つたからさ。
青年  さういふことをおつしやるもんぢやありません。――お母さんが、いつも不用意に口になさるお言葉を、僕は繰返し繰返し考へるんですよ。さうすると、始めは意味のない言葉が、僕の頭の中で、だんだん大きな意味をもち出すんです。何時かも、お母さんは、僕の目が死んだお父さんの目に似て来たつておつしやつたでせう。なるほど、それはさうかも知れません。子が親に似るのは当り前ですもの。だからつて、それを故さら、不思議なことのやうにおつしやる必要はないでせう。僕は、なんのために、お母さんがさういふやうなことを口に出しておつしやるのか、わからなかつたんです。考へれば考へるほどわからなくなります。しかし、たうとう、それに理窟をつけてしまふんです。さうすると安心ができるかといへば、それはさうでなく、その時から、僕の心の底に、なんだか重いもの――例へば大きな不安の塊のやうなものができるんです。
母  お前はなんでもないことをむつかしく考へるからいけないの。
青年  なんでもないことですか、それが……?
長い沈黙。

母  母さんのやうに無学な女は、いくら考へたつて立派な考へは浮ばないよ。その代り思つたことを、そのまま口に出していふだけ、罪がないとはいへないかね。自分だけで考へてゐることは、どうかすると恐ろしいことがあるよ。
青年  さういふことは、なはさら黙つてゐて下さい。僕はもう、お母さんが何もおつしやらなくても、すつかり思つてらつしやることがわかります。
母  お前が小さい時、母さんもさう思つてゐた。――お前の考へてゐることは、すつかりわかつてゐると思つてゐた。
青年  ほんの僅かな間だけね。泣くことと笑ふことしか知らない間だけね。
母  今だつて、お前の悲しみだけは、わかるつもりでゐる。――わからなければならないと思つてゐる。
青年  自惚れはおよしなさい。
母  お前は、だんだん母さんを信用しなくなるね。母さんは、もうお前に用のない人間かしら……。
青年  残念ながら、用はありませんね。だから大事ぢやないとはいへません。つまり、お母さんがして下さることは、みんな僕ひとりで出来ることなんです。以前は、僕がお母さんの一部だつたんです。それが今は、お母さんが僕の一部なんです。
母  さういふ理窟は、母さんにはわからない。だが、なんといつても仕方がない。母さんは、もうお前のいふことに逆らはないことにするよ。
青年  その方がお母さんのおためによろしいでせう。
母  そら、さういふにくまれ口を利くところまで、おとうさんそつくりになつたんだから……。
青年  もういい加減におやすみになつたらどうです……。親子がこんな話をしてゐるのは、あんまり見つともよくありませんよ。
母  どうして……。それぢや、いよいよ、明日は帰ることにするね。
青年  お母さんがおいやならしやうがありません。このホテルの客も、いよいよ僕たちだけになつて、これから静かに考へごとができると思つてゐたら……。
母  でも、母さんはたつて帰らうとはいやしないよ。もうぼつぼつ冬の支度もしなければならず、それに、こんなに急に涼しくならうとは思つてゐなかつたし。……羽織一つ持つて来てないんだからね。
青年  送らしたらいいぢやありませんか。
母  それでもいい。
青年  さうなさい。月末までゐませう。ホテルの閉まるまでゐませう。当分天気も続きさうだし、秋草もこれからがいいんですよ。
母  年寄りには、少し厳しすぎる気候だね。でも、まあ、大したことはあるまい。ぢや、おやすみ。あんまり夜更かしをしないやうにね。(起ち上らうとして)あ、さうさう、何時かお前に訊かう訊かうと思つてゐたことがあるんだけれど、もう少し邪魔をさせておくれ。
青年  ……。
母  また、そんな顔をして……。ぢや、止さうか。
青年  どうせ伺はなければならないことなら今伺つて置きませう。
母  お前はさつき、あたしの考へてゐることは、なんでもわかるとおいひだつたね。あたしが、今どんなことを考へてゐるか、それを当ててごらん。
青年  ……。
母  当ててごらん。(微笑)
青年  (目をつぶり、恰もそれを考へるやうに)わかつてゐます。――お母さんは今僕の結婚について考へておいでです。
母  当つた。それぢや……。
青年  それで、お母さんは、僕を早く結婚させようと思つておいでです。
母  さう。お前は、今まで、なぜかその話に触れたがらないが、それには何かわけがあるのかい。
青年  あります。
母  そのわけを聴かしておくれ。
青年  結婚したくないわけですか。
母  何時までも独りでゐるつもりぢやあるまい。
青年  そのつもりです。
母  どうして……。
青年  それをお話しても、お母さんにはおわかりにならないでせう。
母  そんなにむつかしいことなの。
青年  僕はね、お母さん、人間が、自分の意志で生れるのではないといふことに、絶対不賛成なんです。
母  そんなことをいつたつて、お前……。
青年  だからですよ、僕は、子供を作りたくないのです。まあ、それは、僕だけの気持ですが、子供が親から受け継ぎたくないものまで受け継がされるといふことは、実際堪へられない苦痛ですからね。
母  ……。
青年  お母さんにこんなことをいつたつてしやうがないですね。兎に角、僕は、結婚はしませんよ。おわかりでせう、これだけいへば……。
母  母さんには、お前を説き伏せる力はない。しかし、お前を、ほんたうに幸福にすることだけは知つてゐるつもりだけれど……。
青年  それがいけないんですよ、お母さん、あなたの考へておいでになる幸福とやらが、そのまま僕の幸福だと思つてらつしやるからいけないんです。世の中の子供達は、親譲りの幸福を目あてに、みんな下らない生涯を送つてゐるのです。子供が、自分の思ふやうに大きくなり、自分の思ふやうに出来上つて行くのを見てこの上もない満足を感じてゐる親達は、その辺にいくらもゐます。さういふ親たちの一人になりたくないんです、僕は……。
母  ……。
青年  子供の方からいつてもさうです。自分を勝手に生み、勝手に育て、自分の未来を勝手に決めてしまつた親といふものを、なんだつて、他人と区別しなければならないんです。なんだつて、他人以上に尊敬し、他人以上に愛し、他人以上に労らなければならないんです。
母  ……。
青年  駄目です、駄目です。その涙がなんです。僕たちは、今まで、その涙を見るのが怖かつたのです。そんなはずはないぢやありませんか。お母さん……かう呼んだからつて、それはなんの意味もありませんよ。習慣に過ぎないんですからね。お母さん、その涙で僕を嚇かすことは、もう止して下さい。
母  お前はひどいことをいふね。
青年  これぐらゐのことは平気ですよ。僕は今、例の「愛情の海」を泳ぎきつて、目ざす陸地へ上つたところです。
母  母さんは、お前にそんなことをいはれる覚えはない。母さんのしたことに間違つたことがあつたら、なんでもいつておくれ。
青年  間違ひだらけです。
母  そんなことをいふもんぢやない。それやあんまりだ。
青年  しかし、それは、お母さんだけの罪ぢやありません。だから、お母さんだけを責めようとはしません。
母  あたしのしたことが気に入らなければ、どんなにあたしを責めてくれてもいい。ただ、あたしを見すてないでおくれ。
青年  そんなお約束はできません。
母  えツ。
青年  それごらんなさい、そんなに意外な顔をなさるでせう。あなたは、知らず識らず僕に色々なことを強ひておいでになつたわけですね、さういふ風に……。もういけません。どんなことがあつても、「親に向つて」といふやうな顔はして頂きますまい。
母  それなら、お前は、親子の縁を切るとおいひなのかい。
青年  切りたくても切れないから、こんなことをいふのです。僕は、お母さんを憎みたくても憎めず、見捨てたくつても見捨てられないのです。(泣声になる)だからこそ、親子といふ関係が厭でたまらないのです。お母さん、僕達は、もつと、ほかの愛し方はできないでせうか。
母  (青年の肩に手をかけ)母さんは、お前の好きなやうにするよ。どんなことでもする。さ、どうすればいいの。いつておくれ、後生だから、いつておくれ……。
青年  僕にもわからないんです。
長い沈黙。

母  今日はもう、そんなことは考へないで、静かにお休み。ね、からだをこはしたら、それこそ取返しがつかないからね。
青年  (母の顔をつくづく見つめ)ありがたう。僕は今、死んだお父さんのことを考へ出してゐるのです。
母  お父さんとお前とは、考へがまるで違つてゐた。
青年  幸ひにね。それまで同じだつたら、僕はお父さんと……。さうでもないな。どうでせう、お母さん、僕が年を取つたら、お父さんみたいな顔になるでせうか。
母  さうさね。だけど、お前は、また、あたしにそんなことを訊いて……いや、いや、あとが怖いから、なんにもいふまい。
青年  馬鹿に用心がいいですね、今度は……。それぢや、もう、今夜は、これでおやすみにしませう。僕は、まだ眠られさうもありませんから、もう少しここでぼんやりしてゐます。どうぞ、お先へ……。
母  そんなら、先へやすまして貰はう。おやすみ……。(起ち上り)でも、ほんとに大丈夫かい。
青年  なにがです。(漠然と)ええ、大丈夫です。
母  それぢや……。(行きかける)
青年  お送りしませうか。
母  いや、いや……人がゐないと、燈火がずつと明るく見えるね。
青年  さうでせうか。僕はあべこべだな、ずつと暗くなつたやうな気がしますよ。
母  さうかね……。どつちにしても、燈火ばかり目について……。(去る)
長い間。

青年  (起つて行つてスヰツチを捻る。燈火が一斉に消える。座に帰る)
長い間。

突然、何処からともなく、一人の老紳士が青年の眼前に現はれる。

青年  (不安と驚愕の表情。――その老紳士から目をはなさずに、起ち上つて、二三歩後ずさりをする)
老紳士  (ぼんやり青年を見つめてゐる)
青年  (締めつけられるやうに)お父さん……。
老紳士  ……。
青年  お父さん、どうなすつたんですか。
老紳士  どうもせん。お前はここにゐたのか。
青年  ……。
老紳士  お前は亡霊といふものを信じないのだらうな。然し、自分の目と耳を信じるがいい。おれは三年の間、ただ、時が経つといふ感覚を、生命の全部として生きてゐたのだ。それは生きてゐたとはいへないのかも知れない、つまり、死んでゐたといつてもいいのだ。しかし、人間に取つて、死は総ての最後ではない。
青年  僕たちが此処に来てゐることを、どうして御存じなのですか。
老紳士  どうしてだか、おれにわかるものか。お前の目の前におれの姿が現はれたやうに、おれの目が、不意にお前の姿を見たのだ。
青年  (頭を抱へ)わかりません。僕の頭は狂つてゐるのです。
老紳士  そんなことはどうでもいい。おれは死ぬ前に、お前に会つて、訊いて置きたいことがあつたのだ。
青年  お父さんが危篤だといふ報らせを受け取つた時、僕は随分迷ひました。帰らうか帰るまいかと一晩中考へました。
老紳士  そして、たうとう帰らなかつた。――おれの葬式には……?
青年  帰りません。さうする義務はないと思ひました。
老紳士  お前には義務といふ言葉を使ふ資格はない。
青年  ……。
老紳士  お前は、わしのいひつけを守らず、勝手に家を出て行つたが、わしが死ぬと、また勝手にわしの家にはひり込んでゐる。
青年  お母さんがどうしても僕に帰つてくれとおつしやるのです。
老紳士  それで、わしの財産を相続する義務を感じたといふのか。何もそんなに唇を噛まなくつてもいい。お前のしたことは当りまへのことだ。ただ、お前がさうするのを、わしも望んでゐたといふことだけ、はつきりいつて置きたいのだ。
青年  ……。
老紳士  お前は結局、わしの意志を意志として、素直に岡野家を継いだことになる。お前はどうしてもわしに背くことはできなかつたのだ。
青年  さう取りたければお取りになつてもかまひません。僕はそんな解釈をありがたい解釈だと思ひません。
老紳士  親といふものは、これで、不思議に子供の行末のことがわかるものだ。
青年  わかると思つてゐるだけです。
老紳士  いや、さうぢやない。一時、どんな廻り路をしても、親があらかじめ建てて置いた道標のそばを、子供は、きつと何時か通りすぎるのだ。
青年  それが親の矜りになるのですか。僕は自分の運命について、このごろ、しきりに考へてゐるのですが、親の力といふものを、それほどまで信じたくないのです。ただ、どうすることも出来ないのは、この似方です。子が親に似るといふこと、子が親から必然的に或るものを受け継いでゐるといふ事実です。そのことを考へると、僕は目の前が真暗になるのです。
老紳士  わしに似たのが不服なのか。
青年  不服どころぢやありません。僕は、あなたに似ないために、世の中で最も下等な人間に似てゐたらと思ふ位です。僕は自分の眼指や、鼻の形や、顎の尖りかたや、さういふ処が、あなたに似て来たことを不愉快に思ふ以上に、自分の感傷癖や、嫉妬心や、時とすると、一寸した趣味の現はれなどが、不思議にあなたと近づきつつあることを感じて、恐ろしくなることがあるのです。この調子で、あなたの才能が、あなたの性格全体が、殊に、あなたの意志が、そのまま、僕の才能であり、性格であり、意志であることがはつきりして来たら、それこそ、たまらないといふ気がするのです。
老紳士  わしがもつと偉い人物だつたら、さうは思はんだらう。
青年  ますます思ふでせう。僕はお父さんのやうに平凡な一生を送ることを苦痛とは思ひません。――それが、自ら選んだ平凡さならです。
老紳士  お前は、それでわしを恨んでゐるのか。
青年  子供に対して、最も謙譲であるべき親が、最も尊大な時、僕は、その親を軽蔑してもいいと思ひます。
老紳士  わしは、子供以外から軽蔑されたことは一度もないよ。
青年  それはどうだかわかりません。少くとも世の中のあらゆる子供達に聞いてみなければわかりません。
老紳士  わしは、さつきもいふ通り、死ぬ前にお前に訊いて置きたいことがあつたのだが、それは、つまり、お前のわしに対する気持だ。わしは、息を引き取るまへに、お前が、兎に角、駆けつけてくれると思つてゐた。その時、わしは、先づお前にいふつもりでゐた。――今までのことは水に流さう、と……。それから、かう訊いてみるつもりでゐた。――わしがお前を愛してゐるといふことを信じてくれるか、と……これだけ訊いてみるつもりでゐた。今日、その返事を聞きたいと思ふのだが、今までの話の調子では、わしの望んでゐる返事を聞かして貰へまいな。
青年  ……。
老紳士  それから、わしは、また、色々なことが知りたいのだ。第一に、わしが死んだと聞いて、お前は悲しんだか、それとも、喜んだか。
青年  ……。
老紳士  喜びもすまい。
青年  お察しの通りです。
老紳士  悲しみにもいろいろある。お前の悲しみは、例へばどんな悲しみだつた。
青年  そんなこと聞いてどうなさるのです。
老紳士  知りたいわけがあるのだ。光もなく、音もない一つの世界を想像してみろ、そして、そこでは、生前の忌はしい記憶が、形のない妄念となつて、永久に流れる「時」の中で躍つてゐるのだ。かうして、地上のお前と話ができたのを幸ひ、わしは、その妄念の数を一つでも減らしたいのだ。それとも、お前は、さほど悲しみもしなかつたといふのか。
青年  さういひたいのですが、さうは行きませんでした。
老紳士  はつきりいつてくれ。
青年  そんなら、はつきり、ほんたうのことをいひませう。――僕は、声を上げて泣きました。
長い沈黙。

老紳士  お前が家へ帰つて来た時、お母さんは何といつた。
青年  お母さんですか……お母さんは……。
老紳士  何といつた。え、何といつた。
青年  よく覚えてゐません。いいえ、一言も覚えてゐません。ただ、それは、世の中にこれほど悲しい言葉があるかと思ふほど悲しい言葉でした。
老紳士  それやさうだらう。
青年  今の僕なら、その言葉をもつと冷やかに聞き流したでせう。
老紳士  お前はそれほど変つたといふのか。わしの見るところでは、お前は昔通りのお前だ。お前が変つたと思つてゐるのは、わしがさうなるだらうと思つてゐたことに過ぎないのだ。お前は知らず識らず、わしの通つた道を通つてゐる。そこにゐるのは、実はお前ぢやない。三十年前のわしだ。
青年  うそです。うそです。
老紳士  わしは、もう、お前から何も聞かなくてもいい。お前は何時か、また泣きながら、わしの腕に抱かれに来るだらう。
青年  いいえ、断じて、そんな……。
老紳士の姿が消える。
青年は、両手で顔を掩ふ。やがて床の上に跪き、椅子の上に突伏す。母が現はれる。

母  どうしたの、え、どうしたの。
青年  ……。
母  気分でもわるいのかい。(青年の肩に手をかける)
青年  (首をふる)
母  やすまうと思つたけれど、なんだかお前のことが気がかりで、また上つて来たんだよ。そんなにして、転寝うたたねをしてゐるんぢやあるまいね。
青年  (静かに顔を上げ)はうつといて下さい。かうしてゐると一番頭が静まるんです。
母  お前このごろ、ほんとに疲れてゐるよ。顔色だつてよくないしさ。
青年  今時の世の中に、顔色のいい奴なんか、みんな馬鹿ですよ。僕は、時が経つといふ感覚だけで生きてゐる人間が羨しくなつて来ました。
母  時がたつのは早いもんだね。
青年  さうでせうか。さ、もう少し、僕を一人きりにして置いて下さい。さもないと、僕はどんなやんちやをいひ出すか知れませんよ。
母  母さんはね、お前の邪魔にならないやうに、ただそのことばかりを考へてゐるんだけれど、お前はちつとも母さんの気持をくんでくれないね。
青年  また愚痴ですか。仕方がないぢやありませんか。――それより、お母さんは、近ごろ、お父さんの夢をごらんになりますか。
母  どうしてまたそんなことを聞くの。
青年  少しわけがあるんです。
母  お前の口から、お父さんといふ言葉を聞くと、あたしは、どういつていいかわからなくなるよ。お亡くなりになる前、あれほどお前のことばかりおつしやつてゐたお父さんのお心持を、お前も少しは察してあげたらいいだらうに……。
青年  いいえ、さういふことを伺つてゐるんぢやありません。お母さんは近ごろ、お父さんの夢をごらんになりますか、それとも、ちつとも、ごらんになりませんか。
母  それや、たまにはね。
青年  夢で、どんなお話をなさるんです。
母  一々覚えてはゐないさ。でも、大概昔のことだよ。
青年  昔のことつて、どんなことです。
母  ……。
青年  ずつと昔のことですか。
母  さうさね。よく覚えてゐないね。
青年  お父さんが僕ぐらゐの時は、多分もう結婚していらしつたはずですね。
母  さうだつたかね。
青年  さうでせう。お父さんは、僕みたいに憂鬱でしたか。
母  そんなでもなかつたらうね。
青年  僕みたいに神経質でしたか。
母  さうでもなかつたらう。
青年  僕みたいに夢想家でしたか。ぼんやり考へ込んでいらつしやるやうなことが度々ありましたか。
母  いいえ、そんなことはなかつた。
青年  僕みたいにひねくれ者でしたか。
母  お前ほどぢやなかつたかも知れない。
青年  僕みたいに人嫌ひでしたか。人と話をするのを避ける方でしたか。
母  無口は無口な方だつたけれどね。
青年  それぢや、ちつとも似てやしない。
母  お前はどつちかといへば、母さんの若い時にそつくりなところがある。――母さんも、よくひとりでぼんやり考へ込んでゐたものだ。月のいい晩なんか、何時までも床にはひらないで、窓ぎはに肱をついたまま空をながめてゐたものだ。
青年  それや違ひますよ。
母  それに、人に会ふのが恥かしくつてね。お客さまなんかがあつても、どうしても出たくないのさ。それでたうとうお祖母さんに叱られたことがある。
青年  そんなこととは別ですよ。
母  そいぢや、ひねくれ者のところは似てるね。何か不調法をしても、御免なさいつていふことが出来ないのさ。
青年  お母さん、もう沢山ですよ。僕は誰に似たつてかまやしません。それはどうすることも出来ないことですからね。しかし、お父さんやお母さんに似てゐるからつて、それを、お父さんやお母さんが御自慢になさることはないでせう。子供が親に似てゐるといふことは子供に取つて最大の不幸なんですからね。そのことも少し考へて下さい。そのことだけでも、子供は親に対して不服をいふ値打があるのです。
母  またわけのわからない理窟をこねだしたね。
青年  お父さんは、たうとう、そのために、僕の顔を見ずに死んでしまはれたのです。お母さんも、お気をおつけなさい。うつかり母親振つた口の利き方をなさると、僕は、そのままでは済ましませんよ。そんなにびつくりなさらなくつてもようござんす。お母さんに限つて、そんな馬鹿な事はなさらないでせうから……。今までのお母さんは、ほんとにいいお母さんでした。
母  何をいひ出すんだらう、この子は……。
青年  どうか、僕を信じて下さい、お母さんだけは、きつと幸福にしてあげます。その代り、僕のいふことはなんでも聞くんですよ。
母  老いては子に従へつていふからね。
青年  さういふ打算的な教訓をお母さんも御存じなんですか。よろしい。それならそれで、僕は、お母さんの利益のために、お母さんに命令しますよ。――さ、僕の足をおさすりなさい。
母  (青年の足をさする)
青年  もつと、力を入れて……。
母  ……。
青年  そんなにひとところばかりでなく……。
母  ……。
青年  お母さんに、僕のこの苦しい闘ひがおわかりですか。僕は飽くまでも、勝たなければならないのです。それでなければ生きて行けないのです。僕の頭に喰ひ入つてゐる不思議な思想の力を、僕はきつと払ひのけて見せます。――こんどは、こつちの足……。
母  ……。
青年  僕のやつてゐることは不自然でせうか、お母さんは、また泣いてゐますね。何がそんなに悲しいんですか。こんなに大きくなつた息子の足を、かうやつて揉まされるのが辛いのですか。もう少し辛抱なさい。僕がいいといふまで、さうやつておいでなさい。
母  (声を上げて泣く、しかし、足をさすつてゐる手を止めようとしない)
青年  お泣きなさい、お泣きなさい、いくらでもお泣きなさい。僕は、それくらゐのことでまゐりはしませんよ。僕だつて、この通り、歯を食ひしばつてゐるのです。拳を握り締めてゐるのです。さ、お母さんも、僕に勇気をつけて下さい。もつと一所懸命にさすつて下さい。もつと一所懸命に……。(息がつまるかのやうに身悶えする)
――幕――

底本:「岸田國士全集3」岩波書店
   1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「落葉日記」第一書房
   1928(昭和3)年5月25日発行
初出:「週刊朝日 第十三巻第三号」
   1928(昭和3)年1月8日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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