「これを以てあなたの大方針となすべきでしょう。これ以外に漢朝復興の旗幟を以て中原に臨む道はありますまい」
と、説いたものが実にその発足であったわけだ。
そして遂に、その理想は実現を見、玄徳は西蜀に位置し、北魁の曹操、東呉の孫権と、いわゆる三分鼎立の一時代を画するに至ったが、もとよりこれが孔明の究極の目的ではない。
孔明の天下の三分の案は、玄徳が初めからの志望としている漢朝統一への必然な過程として選ばれた道であった。
しかし、この中道において、玄徳は世を去り幼帝の将来とともに、その遺業をも挙げて、
――すべてをたのむ。
と、孔明に託して逝ったのである。孔明の生涯とその忠誠の道は、まさにこの日から彼の真面目に入ったものといっていい。
遺孤の寄託、大業の達成。――寝ても醒めても「先帝の遺詔」にこたえんとする権化のすがたこそ、それからの孔明の全生活、全人格であった。
ゆえに原書「三国志演義」も、孔明の死にいたると、どうしても一応、終局の感じがするし、また三国争覇そのものも、万事休む――の観なきを得ない。
おそらくは読者諸氏もそうであろうが、訳者もまた、孔明の死後となると、とみに筆を呵す興味も気力も稀薄となるのを如何ともし難い。これは読者と筆者たるを問わず古来から三国志にたいする一般的な通念のようでもある。
で、この迂著三国志は、桃園の義盟以来、ほとんど全訳的に書いてきたが、私はその終局のみは原著にかかわらず、ここで打ち切っておきたいと思う。即ち孔明の死を以て、完尾としておく。
原書の「三国志演義」そのままに従えば、五丈原以後――「孔明計ヲ遺シテ魏延ヲ斬ラシム」の桟道焼打ちのことからなお続いて、魏帝曹叡の栄華期と乱行ぶりを描き、司馬父子の擡頭から、呉の推移、蜀破滅、そして遂に、晋が三国を統一するまでの治乱興亡をなお飽くまでつぶさに描いているのであるが、そこにはすでに時代の主役的人物が見えなくなって、事件の輪郭も小さくなり、原著の筆致もはなはだ精彩を欠いてくる。要するに、龍頭蛇尾に過ぎないのである。
従って、それまでを全訳するには当らないというのが私の考えだが、なお歴史的に観て、孔明歿後の推移も知りたいとなす読者諸氏も少なくあるまいから、それはこの余話の後章に解説することにする。
それよりも、原書にも漏れている孔明という人がらについて、もっと語りたいものを多く残しているように、私には思える。それも演義本にのみよらず、他の諸書をも考合して、より史実的な「孔明遺事」ともいうべき逸話や後世の論評などを一束しておくのも決して無意義ではなかろう。それを以てこの「三国志」の完結の不備を補い、また全篇の骨胎をいささかでも完きに近いものとしておくことは訳者の任でもあり良心でもあろうかと思われる。
以下そのつもりで読んでいただきたい。
布衣の一青年孔明の初めの出現は、まさに、曹操の好敵手として起った新人のすがたであったといってよい。
曹操は一時、当時の大陸の八分までを席巻して、荊山楚水ことごとく彼の旗をもって埋め、
「呉の如きは、一水の長江に恃む保守国のみ。流亡これ事としている玄徳の如きはなおさらいうに足らない」
とは、その頃の彼が正直に抱いていた得意そのものの気概であったにちがいなかろう。
それを彗星の如く出でて突如挫折を加えたものが孔明であった。また、着々と擡頭して来た彼の天下三分策の動向だった。
曹操が自負満々だった魏の大艦船団が、烏林、赤壁にやぶれて北に帰り、次いでまた、玄徳が荊州を占領したと聞いたとき、彼は何か書き物をしていたが、愕然、耳を疑って、
「ほんとか?」
と、筆を取り落したということは、魯粛伝にも記載されているし、有名な一挿話となっているが、それをみても如何に彼が、無敵曹氏の隆運を自負しきっていたかが知れる。
しかも以後、
(劉備麾下に青年孔明なるものがある)を、意識させられてからというものは、事ごとに、志とたがい、さしもの曹操もついに、身の終るまで、自己の兵を、一歩も江漢へ踏み入らせることができなかった。
――とはいえ、曹操という者の性格には、いかにも東洋的英傑の代表的な一塑像を見るようなものがある。その風貌ばかりでなくその電撃的な行動や多感な情痴と熱においても、まことに英雄らしい長所短所の両面を持っていて、「三国志」の序曲から中篇までの大管絃楽は絶えず彼の姿によって奏されているというも過言でない。
劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟を以て、三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国史的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、曹操がその、主動的役割をもっている。
しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明の姿が現われると、彼の存在もたちまちにして、その主役的王座を、ふいに襄陽郊外から出て来たこの布衣の一青年に譲らざるを得なくなっている。
ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙したものというもさしつかえない。
この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。
痴や、愚や、狂に近い性格的欠点をも多分に持っている英雄として、人間的なおもしろさは、遥かに、孔明以上なものがある曹操も、後世久しく人の敬仰をうくることにおいては、到底、孔明に及ばない。
千余年の久しい時の流れは、必然、現実上の両者の勝敗ばかりでなく、その永久的生命の価値をもあきらかに、曹操の名を遥かに、孔明の下に置いてしまった。
時代の判定以上な判定はこの地上においてはない。
ところで、孔明という人格を、あらゆる角度から観ると、一体、どこに彼の真があるのか、あまり縹渺として、ちょっと捕捉できないものがある。
軍略家、武将としてみれば、実にそこに真の孔明がある気がするし、また、政治家として彼を考えると、むしろそのほうに彼の神髄はあるのではないかという気もする。
思想家ともいえるし、道徳家ともいえる。文豪といえば文豪というもいささかもさしつかえない。
もちろん彼も人間である以上その性格的短所はいくらでも挙げられようが、――それらの八面玲瓏ともいえる多能、いわゆる玄徳が敬愛おかなかった大才というものはちょっとこの東洋の古今にかけても類のすくない良元帥であったといえよう。
良元帥。まさに、以上の諸能を一将の身にそなえた諸葛孔明こそ、そう呼ぶにふさわしい者であり、また、真の良元帥とは、そうした大器でなくてはと思われる。
とはいえ、彼は決して、いわゆる聖人型の人間ではない。孔孟の学問を基本としていたことはうかがわれるが、その真面目はむしろ忠誠一図な平凡人というところにあった。
彼がいかに平凡を愛したかは、その簡素な生活にも見ることができる。
孔明がかつて、後主劉禅へささげた表の中にも、日頃の生活態度を、こう述べている。
――成都ニ桑百株、薄田十五頃アリ。
子弟ノ衣食、自ラ余饒アリ。臣ニ至リテハ、外ニ任アリ。別ノ調度ナク、身ニ随ウノ衣食、悉ク官ニ仰ゲリ。別ニ生ヲ治メテ以テ尺寸ヲ長ズルナシ。モシ臣死スルノ日ハ、内ニ余帛アリ、外ニ贏財アラシメテ、以テ、陛下ニ背カザル也。
枢要な国務に参与する者の心構えの一つとして、孔明はこれを生活にも実践したものであろう。後漢以来、武臣銭を愛すの弊風は三国おのおのの内にも跡を絶たなかったものにちがいない。子弟ノ衣食、自ラ余饒アリ。臣ニ至リテハ、外ニ任アリ。別ノ調度ナク、身ニ随ウノ衣食、悉ク官ニ仰ゲリ。別ニ生ヲ治メテ以テ尺寸ヲ長ズルナシ。モシ臣死スルノ日ハ、内ニ余帛アリ、外ニ贏財アラシメテ、以テ、陛下ニ背カザル也。
無私忠純の亀鑑を示そうとした彼の気もちは表の辞句以外にもよくあらわれている。
彼は清廉であるとともに、正直である。兵を用いるや神算鬼謀、敵をあざむくや表裏不測でありながら、軍を離れて、その人間を観るときは、実に、愚ともいえるほど正直な道をまっすぐに歩いた人であった。
子のように愛していた馬謖を斬ったなども、そのあらわれの一つといえるし、また、劉玄徳が死に臨んで、
「遺孤の身も、国の後事も、一切をあげて託しておくが、もし劉禅が暗愚で蜀の帝王たるの資質がないと卿が観るならば、卿が帝位に即いて、蜀を取れ」
と、遺言したにかかわらず、彼は毛頭そんな野心は抱かなかった。
だから晩年、年を次いでの北伐遠征には、ずいぶん孔明に従って行った将士が、他山の屍となって帰らなかったが、蜀中の戦死者の遺族も、決して、彼にたいして怨嗟しなかった。
のみならず、孔明の死に会うや、蜀の百姓は、廟を立て、碑を築き、彼の休んだ址も、彼の馬をつないだ木も、一木一石の縁、みな小祠となって、土民の祭りは絶えなかった。
また、彼は内政と戦陣にかかわらず、賞罰には非常に厳しかったので、彼のために左遷させられたり逼塞したものもずいぶんあったが、すべて彼の「私なき心」には怨む声もなく、かえって孔明の死後には、そうした人々までが、
「――再び世に出る望みを失った」
と、みな嘆いているほどである。
「いやしくも一国の宰相でありながら、夜は更けて寝ね、朝は夙に起きいで、時務軍政を見、その上、細かい人事の賞罰までにいちいち心を労い過ぎているのは、真の大器量でないし、また、蜀にも忠に似てかえって忠に非ざるものである」
という彼への論評などもないではなく、後世の史家は、そのほかにもいろいろ孔明の短所をかぞえあげているが、要するに、国を憂いて痩躯を削り、その赤心も病み煩うばかり日々夜々の戦いに苦闘しつつあった古人を、後世のご苦労なしの文人や理論家が、暖衣飽食しながら是々非々論じたところで、それはことばの遊戯以外の何ものでもないのである。いわんや晩年数次にわたる北魏進撃と祁山滞陣中の労苦とは、外敵の強大なばかりでなく、絶えず蜀自体の内にさまざまな憂うべきものが蔵されておったような危機に於てをやである。
思うに、孔明はまったく、その体が二つも三つも欲しかったろう。或いは、その天寿を、もう十年とも、思ったであろうと察しられる。
やはり彼の真の知己は、無名の民衆にあったといえよう。今日、中国各地にのこっている――駐馬塘とか、万里橋とか、武侯坡とか、楽山とか称んでいる地名の所はみな、彼が詩を吟じた遺跡だとか、馬をつないだ堤だとか、人と相別れた道だとかいう語り伝えのあるところである。そういう純朴な思慕の中にこそ、むしろ彼の姿はありのままに、また悠久に、春秋の時をも超えて残されていると思う。
――しかし、ただ困るのは、民間の余りな彼への景仰は、時には度がすぎて、孔明のすべてを、ことごとく神仙視してしまうことである。
その二、三の例をあげると。
――孔明の女は雲に乗って天に上った。それが葛女祠として祭られたものだ。「朝真観記記事」
――木牛流馬は入神の自動器械で、人の力を用いず自でに走った。「戎州志」
――彼は時計も作った。その時計は、毎更に鼓を鳴らし、三更になると、鶏の声を三唱する。「華夷考」
――孔明の用いた釜は今でも水を入れるとひとりでにすぐ沸く。「丹鉛録」
――孔明の墳のある定軍山に雲がおりると今でもきっと撃鼓の声がする。漢中の八陣の遺蹟には、雨がふると、鬨の声が起る。「干宝晋記」
そのほか探せば数限りないほどこの類の口碑伝説はたくさんある。純朴愛すべきものもあるが、中には滑稽でさえあるのもある。「三国志演義」の原著書は、史実と伝説とを、充分に知悉していながら、しかも多分にそういう土語民情の中に伝えられている孔明の姿をも取り容れて、さらにそれを文学的に神仙化しているのである。彼の兵略戦法を語るに、六丁六甲の術を附し、八門遁甲の鬼変を描写している件などはみなそうであるし、わけて天文気象に関わることは、みな中国の陰陽五行と星暦に拠ったものである。
けれど五行観も、宿星学も、これは根深く、黄土大陸の庶民に、久しい間信ぜられていた根本の宇宙観であり、それと結ばれていた人生観でもあったのだから、これを否定しては、「三国志演義」は成り立たないことになる。またかくの如く民衆のあいだに長く読み伝えられてもこなかったにちがいない。――で、私のこの新訳「三国志」も、そういう箇所にかかる度、すくなからず苦労が伴った。近代の読書人に対しては何としても余りに怪力乱神の奇異を語るに過ぎなくなるからである。ただその点において救われ得る道は、ただ一つ詩化あるのみであった。その点は原書も大いに意を用いたらしく思われるが、私の場合も、一種の民族的詩劇を描くつもりで書いていった。同時に、そうした妖しき粉彩も音楽も、背景も一切削除するなく、原書のまま書きすすめた。
ちと横道へそれたが、中国の民衆が、時経つほど、いかに孔明を神仙視したかという話では、唐代になってからでも、こんな挿話がひろく行われていたのを見てもわかる。
――唐ノ頃、盗アリ、先主ノ墳ヲ発ク。盗数名。斉シク入リシニ、人アリ、燈下ニ対シテ碁ヲ囲ムモノ両人、側ニ侍衛スルモノ十数名ヲ見ル。
盗、怖レテ拝ス。其時、座ノ一人、顧ミテ盗ニ曰ク。汝等、能ク飲ムカト。
而シテ、各ニ美酒一杯ヲ飲マセ、マタ玉帯数条ヲ出シテ頒ケ与ウ。
盗、畏震シテ、速ヤカニ坑ヲ出デ、相顧ミテ、モノヲ云ワントスレバ、唇ハ皆、漆ニ閉ジラレテ開カズ、手ノ玉帯ヲ見レバ、各、怖ロシゲナル巨蛇ヲ掴ミテアリシト。後ニ里人ニ問エバ、此陵ハ諸葛武侯ガ造ル所ノモノナリト曰ウ。
これは「談叢」という一書のうちに見える記事である。盗、怖レテ拝ス。其時、座ノ一人、顧ミテ盗ニ曰ク。汝等、能ク飲ムカト。
而シテ、各ニ美酒一杯ヲ飲マセ、マタ玉帯数条ヲ出シテ頒ケ与ウ。
盗、畏震シテ、速ヤカニ坑ヲ出デ、相顧ミテ、モノヲ云ワントスレバ、唇ハ皆、漆ニ閉ジラレテ開カズ、手ノ玉帯ヲ見レバ、各、怖ロシゲナル巨蛇ヲ掴ミテアリシト。後ニ里人ニ問エバ、此陵ハ諸葛武侯ガ造ル所ノモノナリト曰ウ。
書物の話が出たついでに孔明の著作についていえば、兵書、経書、遺表の文章など、彼の筆になるものと伝えられるものはかなりある。しかし、多くは後人の編志、或いは代作が多いことはいうまでもない。
そのうちでも代表的な孔明流の兵書と称する「諸葛亮五法五巻」などは日本にも伝わって、後のわが楠流軍学や甲州流そのほかの兵学書などと同列しているが、もとより信じられるものではない。
彼が、陣中でよく琴を弾じていたということから「琴経」という琴の沿革や七絃の音譜を書いた本も残されている。真偽は知らないが、孔明が多趣味な風流子であったことは事実に近いようである。「歴代名書譜」にも、
――諸葛武侯父子、皆画ヲ能クス。
と見えるし、その他の書にも、孔明が画に長じていたことはみな一致して記載している。しかしその画と信じ得るようなものはもちろん一作も伝わってはいない。
何事にも、几帳面だったことは、孔明の一性格であったように思われる。
孔明が軍馬を駐屯した営塁のあとを見ると、井戸、竈、障壁、下水などの設計は、実に、縄墨の法にかなって、規矩整然たるものであったという。
また、官府、次舎、橋梁、道路などのいわゆる都市経営にも、第一に衛生を重んじ、市民の便利と、朝門の威厳とをよく考えて、その施設は、当時として、すこぶる科学的であったようである。
そして、孔明自身が、自らゆるしていたところは、
謹慎
忠誠
倹素
の三つにあったようである。公に奉ずること謹慎、王室につくすこと忠誠、身を持すること倹素。――そう三つの自戒を以て終始していたといえよう。
こういう風格のある人に、まま見られる一短所は、謹厳自らを持す余りに、人を責める時にも、自然、厳密に過ぎ峻酷に過ぎる傾きのあることである。潔癖は、むしろ孔明の小さい疵だった。
たとえば日本における豊臣秀吉の如きは、犀眼、鋭意、時に厳酷でもあり、烈しくもあり、鋭くもあり、抜け目もない英雄であるが、どこか一方に、開け放しなところがある。東西南北四門のうちの一門だけには、人間的な愚も見せ、痴も示し、時にはぼんやりも露呈している。彼をめぐる諸侯は、その一方の門から近づいて彼に親しみ彼に甘え彼と結ぶのであった。
ところが、孔明を見ると、その性格の几帳面さが、公的生活ばかりでなく、日常私生活にもあらわれている。なんとなく妄りに近づき難いものを感じさせる。彼の門戸にはいつも清浄な砂が敷きつめてあるために、砂上に足跡をつけるのは何かはばかられるような気持を時の蜀人も抱いていたにちがいない。
要するに、彼の持した所は、その生活までが、いわゆる八門遁甲であって、どこにも隙がなかった。つまり凡人を安息させる開放がないのである。これは確かに、孔明の一短といえるものでなかろうか。魏、呉に比して、蜀朝に人物の少ないといわれたのも、案外、こうした所に、その素因があったかもしれない。
孔明の一短を挙げたついでに、蜀軍が遂に魏に勝って勝ち抜き得なかった敗因がどこにあったかを考えて見たい。私は、それの一因として、劉玄徳以来、蜀軍の戦争目標として唱えて来た所の「漢朝復興」という旗幟が、果たして適当であったかどうか。また、中国全土の億民に、いわゆる大義名分として、受け容れられるに足るものであったか否かを疑わざるを得ない。
なぜならば、中国の帝立や王室の交代は、王道を理想とするものではあるが、その歴史も示す如く、常に覇道と覇道との興亡を以てくり返されているからである。
そこで漢朝というものも、後漢の光武帝が起って、前漢の朝位を簒奪した王莽を討って、再び治平を布いた時代には、まだ民心にいわゆる「漢」の威徳が植えられていたものであるが、その後漢の治世も蜀帝、魏帝以降となっては、天下の信望は全く地に墜ちて、民心は完全に漢朝から離れ去っていたものなのである。
劉玄徳が、初めて、その復興を叫んで起った時代は、実にその末期だった。玄徳としては、光武帝の故智に倣わんとしたものかもしれないが、結果においては、ひとたび漢朝を離れた民心は、いかに呼べど招けど――覆水フタタビ盆ニ返ラズ――の観があった。
ために、玄徳があれほどな人望家でありながら、容易にその大を成さず、悪戦苦闘のみつづけていたのも、帰するところ、部分的な民心はつなぎ得ても、天下は依然、漢朝の復興を心から歓迎していなかったに依るものであろう。
同時に、劉備の死後、その大義名分を、先帝の遺業として承け継いできた孔明にも、禍因はそのまま及んでいたわけである。彼の理想のついに不成功に終った根本の原因も、蜀の人材的不振も、みなこれに由来するものと観てもさしつかえあるまい。
「三国志演義」のうちの本文にしばしば見るところの――身に鶴を着、綸巾をいただき、手に白羽扇を持つ――という彼の風采の描写は、いかにも神韻のある詩的文字だが、これを平易にいえば、
(いつも葛織りの帽をかぶり、白木綿か白麻の着物をまとい、素木の輿、或いは四輪の車に乗って押されてあるいた)
という彼の簡易生活の一面を、それに依ってうかがうことができるのである。
彼には初め子がなかった。
で、兄の諸葛瑾の次男、喬をもらって養子としていた。瑾は呉の重臣なので当然、その主孫権のゆるしを得たうえで蜀の弟へ送ったものであろう。
この喬は、叔父や父のよい所にも似て、将来を嘱望され、蜀の馬都尉に役付して、時には養父孔明に従って、出征したこともあるらしいが、惜しいかな、二十五で病死した。
孔明の家庭はまたしばらく寂寥だったが、彼が四十五歳の時、初めて実子の瞻をもうけた。晩年の初子だけに、彼がどんなによろこんだかは想像に余りあるものがある。
かつ、瞻はたいへん才童であったとみえ、建興十二年、呉にある兄の瑾に宛てて送っている彼の書簡にもこう見える。
=瞻今スデニ八歳、聡慧愛スベシ、タダソノ早成、恐ラクハ重器タラザルヲ嫌ウノミ
彼は八歳の児を見るにさえ、国家的見地からこれを観ていた。その年、孔明は征地に歿したのである。遺愛の文房のうちから、「子を誡むる書」というのが出てきた。
その後、瞻は十七の時蜀の皇妹と結婚、翰林中郎将に任ぜられた。
父の遺徳は、みな瞻の上に幸いして、善政があるとみな瞻のなしたようにいわれた。しかし、その名声はすこし溢美に過ぎていたようである。孔明が生前すでに観ていたように、
(この子、おそらくは大器にあらず)
という所がやはり瞻の実質であったようである。
蜀亡ぶの年、瞻は、三十七で戦死した。
子の尚もまだ十六、七歳であったが、長駆、魏軍のなかに突き入って奮戦の末、果敢な死をとげた。
決して、国家の大器ではなかったにせよ、孔明のあとは、その子、その孫も、共に国難に殉じて、みな父祖の名を辱めなかった。
尚の下にも、なお小さい弟があったといわれるが、この人の伝はわからない。また、孔明には他の母系もあったという説もあるが、それも真偽はさだかでない。
孔明の家系は、こうしてもとの草裡に隠れてしまったが、この諸葛氏なる一門からは、この三国分立時代に、三人の将相を同族から出していたのみでなく、その各が、蜀、魏、呉と別れていたのは一奇観であった。
すなわち、孔明は蜀に、兄の瑾は呉に、従兄弟の誕は魏に。そして誕のことは余りいわれていないが、一書に、
――諸葛氏ノ兄瑾、弟誕、並ビテ令名アリ。各一国ニ在ルガ故、人以テ曰ウ、蜀ハ龍ヲ得タリ、呉ハ虎ヲ得タリ、而シテ、魏ハソノ狗ヲ得タリト。
これは少し酷評のようである。誕は分家の子で早くから魏に仕え一方の将をしていたが、孔明と瑾の間のように親交がなかったので、三国志中にもあまり活躍していないだけにとどまるのだ。ただ、後に魏を取った司馬晋に叛いて敗れ去ったため、晋人の筆に悪く書かれてしまったものとみえる。誕についても、語ることは多いが、余りに横道にそれるから略す。孔明死後の蜀のことは後に略説する。しかし彼の死後なお三十年間も蜀が他国に侵されなかったのはひとえに彼の遺法余徳が、死後もなお国を守っていたためであったといっても過言ではあるまい。
頼山陽の題詩「仲達、武侯の営址を観る図に題す」に、山陽はこういっている。
――公論ハ敵讐ヨリ出ヅルニ如カズ、と。
至言である。山陽は、仲達が蜀軍退却の跡に立って、
「彼はまさに天下の奇才だ」
と、激賞したと伝えられている、そのことばをさしていったのである。これ以上、孔明を論じ、孔明を是々非々してみる必要はないじゃないか――と世の理論好きに一句止めをさしたものといえよう。
だが、ここでもう一言、私見をゆるしてもらえるなら、私はやはりこう云いたい。仲達は天下の奇才だ、といったが、私は、偉大なる平凡人と称えたいのである。孔明ほど正直な人は少ない。律義実直である。決して、孔子孟子のような聖賢の円満人でもなければ、奇矯なる快男児でもない。ただその平凡が世に多い平凡とちがって非常に大きいのである。
彼が、軍を移駐して、ある地点からある地点へ移動すると、かならず兵舎の構築とともに、附近の空閑地に蕪(蔓菁ともよぶ)の種を蒔かせたということだ。この蕪は、春夏秋冬、いつでも成育するし、土壌をえらばない特質もある。そしてその根から茎や葉まで生でも煮ても喰べられるという利便があるので、兵の軍糧副食物としては絶好の物だったらしい。
こういう細かい点にも気のつくような人は、いわゆる豪快英偉な人物の頭脳では求められないところであろう。正直律義な人にして初めて思いいたる所である。とかく青い物の栄養に欠けがちな陣中食に、この蕪はずいぶん大きな戦力となったにちがいない。戦陣を進める場合も、そのまま、捨てて行って惜し気もないし、また次の大地ですぐ採取することができる。で、この蔓菁の播植は、諸所の地方民の日常食にも分布されて、今も蜀の江陵地方の民衆のあいだでは、この蕪のことを「諸葛菜」とよんで愛食されているという。
もうひとつ、おもしろいと思われる話に、こんなのがある。蜀が魏に亡ぼされ、後また、その魏を征して桓温が成都に入った時代のことである。その頃、まだ百余歳の高齢を保って、劉禅帝時代の世の中を知っていた一老翁があった。
桓温は、老翁をよんで、
「おまえは、百余歳になるというが、そんな齢なら、諸葛孔明が生きていた頃を知っているわけだ。あの人を見たことがあるか」と、たずねた。
老翁は、誇るが如く答えた。
「はい、はい。ありますとも、わたくしがまだ若年の小吏の頃でしたが、よく覚えておりまする」
「そうか。では問うが、孔明というのは、いったいどんなふうな人だったな」
「さあ? ……」
訊かれると、老翁は困ったような顔をしているので、桓温が、同時代から現在までの英傑や偉人の名をいろいろ持ち出して、
「たとえば……誰みたいの人物か。誰と比較したら似ていると思うか」と、かさねて問うた。
すると、老翁は、
「わたくしの覚えている諸葛丞相は、べつだん誰ともちがった所はございません。けれども今、あなた様のいらっしゃる左右に見える大将方のように、そんなにお偉くは見えませんでした。ただ、丞相がおなくなりになってから後は、何となく、あんなお方はもうこの世にはいない気がするだけでございます」
と、いったということである。
仲達の言もよく孔明を賞したものであろうし、山陽の一詩も至言にはちがいないが、私は何となくこの老翁のことばの中にかえってありのままな孔明の姿があるような気がするのである。
丞相ノ祠堂 何レノ処ニカ尋ネン
錦管城外 柏森々
階ニ映ズ 碧草自ラ春色
葉ヲ隔ツ黄 空シク好音
三顧頻繁ナリ 天下ノ計
両朝開濟ス 老臣ノ心
師ヲ出シテ未ダ捷タズ 身先死ス
長ク英雄ヲシテ 涙襟ニ満シム
孔明を頌した後人の詩は多いがこれは代表的な杜子美の一詩である。陽の廟前に後主劉禅が植えたという柏の木が、唐時代までなお繁茂していたのを見て、杜子美がそれを題して詠ったものだといわれている。錦管城外 柏森々
階ニ映ズ 碧草自ラ春色
葉ヲ隔ツ黄 空シク好音
三顧頻繁ナリ 天下ノ計
両朝開濟ス 老臣ノ心
師ヲ出シテ未ダ捷タズ 身先死ス
長ク英雄ヲシテ 涙襟ニ満シム
孔明なき後の、蜀三十年の略史を記しておく。
いったい、ここまでの蜀は、ほとんど孔明一人がその国運を担っていたといっても過言でない状態にあったので、彼の死は、即ち蜀の終りといえないこともない。
しかし、それは孔明自身が、以て大いに、自己の不忠なりとし、またひそかなる憂いとしていた所でもある。
従って、自身の死後の備えには、心の届くかぎりのことを、その遺言にも遺風にも尽してある。
以後、なお蜀帝国が、三十年の長きを保っていたというも、偏に、「死してもなお死せざる孔明の護り」が内治外防の上にあったからにほかならない。
そこで孔明の歿した翌年すなわち蜀の建興十三年にはどんなことがあったかというに、蜀軍の総引揚げに際し、桟道の嶮で野心家の魏延を誅伐した楊儀も、官を剥がれて、官嘉に流され、そこで自殺してしまった。
延は儀を敵視し、儀は延を邪視し、この二人は、すでに孔明の生前から、互いによからぬ仲であったが、孔明の大度がよくそれを表面に現わすなく巧みに使ってきたものに過ぎなかった。
それというのが二人ともひそかに、孔明の死後は、われこそ蜀の丞相たらんと、おのおの、その後継をめぐって相争っていたからである。
かつて、呉の孫権は、蜀の使いに、孔明の左右にある重臣はたれかと訊ね、
「さてさて、儀や延を両腕にして戦っているのでは、さだめし孔明も骨が折れるだろう」
と、同情的な口吻のうちに、延や儀の人物を嘲評していたという話もあるが、たしかに、この二人物は、蜀陣営の中の、いわゆる厄介者にちがいなかった。
「――延は矜高。儀は狷介」
とは、孔明が生前にも、呟いていた語であった。――で彼は、そのいずれにも後事を託さず、かえって、平凡だが穏健な蒋と費とに嘱すところ多かったのである。
楊儀の失脚も、結局、その不平から起ったもので、彼は、成都に帰って後、さだめし大命われに降るものと、自負していたところ、なんぞはからん、重命はに降り、自分は中将軍師を任ぜられたに過ぎないので、以後、しきりに余憤をもらし、あまっさえ不穏な行動に出んとする空気すらうかがわれたので、蜀朝は、これに先んじて、彼の官を剥ぎ、官嘉の地に流刑するの決断に出たものであった。
これが、孔明死後の成都に起った第一の事件であった。支柱を失うと、必ず内争始まるという例は、一国一家も変りがない。蜀もその例外でなかった。
けれど、蒋はさすがに、善処して、過らなかった。彼はまず尚書令となって、国事一切の処理にあたったが、衆評は、彼に対して、
「あの人は平凡だが、平凡を平凡として、威張らず衒わず、挙止、ありのままだから至極よい」
と、みな云った。
孔明が、彼を挙げたのも、その特徴なきところを特徴として、認めていたからであったろう。
十三年四月。
は、大将軍尚書令に累進したので、そのあとには費が代って就任した。また、呉懿が新たに車騎将軍となって、漢中を総督することになった。
遠征軍の大部分は引揚げても、漢中は依然、蜀にとって、重要な前衛基地であった。なお多くの国防軍はそこに駐屯していた。呉懿の赴任は、その為にほかならない。
ここに、たちまち豹変を兆しはじめたのは、同盟国の呉であった。その態度は、孔明の死と同時に、露骨なものがあった。
「いま、蜀を救急しなければ、蜀は魏に喰われてしまうであろう」
これを名目として、呉は、数万の兵を以て、蜀国境の巴丘へ出て来た。この物騒きわまる救援軍に対して、蜀も直ちに、兵を派して、
「ご親切は有難いが、まず大した危機もこの方面にはないからお引揚げ願いたい」
と、対峙の陣を布いた上、こう外交折衝に努めたので、呉もついに、火事泥的な手を出し得ずに、やがて一応、国境から兵を退いた。
建興十五年、蜀は、延と改元した。
この年、蒋は、討魏の軍を起して、漢中に出で、ひそかに、魏の情勢をうかがっていた。
孔明なき後も、劉玄徳以来の、中原進出の大志は、まだ多くの遺臣のうちには、烈々と誓われていたことが分る。
は、孔明がいつも糧道の円滑に悩んでいた例を幾多知っていたので、こんどは水路を利用して魏へ入ろうとして建議したが、蜀の朝廷では、
「北流する水を利して進むは、入るに易い道には違いないが、ひとたび退こうとするときは、流れを溯上るの困難に逢着するであろう」
といって、ついに彼の建議をゆるさなかった。これは、その作戦を否定したばかりでなく、すでに遠征を好まない空気が、ようやく、廟議の上にも顕著となった一証だと見てよい。
「守らんか、攻めんか」
蜀の輿論は、ここ数年を、ほとんどそのいずれともつかずに過ごした。
そのうちに、延七年の三月、魏は蜀の足もとを見て、
「いまは一撃に潰えん」
となし、すなわち曹爽が総指揮となって、十数万の兵を率い、長安を出て、駱口を経、積年うかがうところの漢中へ、一挙突入せんとした。
ところが、蜀軍いまだ衰えずである。蜀は、その途中に邀撃して、魏を苦戦に陥らしめた。
費の援軍が早く来たのと、方面に蜀兵の配置が充分であったため、たちまち、魏軍を諸所に捕捉して、痛打を加え、特有な嶮路を利用して、さんざんに敵を苦しめたのである。
「いけない、なお未だ孔明の遺風は生きている」
曹爽はそういって退却した。
その翌年、蜀の蒋は死んだ。
蜀の良将はこうして一星一星、暁の星のように姿を消して行った。何かしらん力を以ては及び難いものが蜀の年々に黒框の歴史事項を加えていた。
蒋はついに丞相にはならなかったが、孔明の遺嘱を裏切らなかった忠誠の士であったことに間違いない。
同年、十二月にはまた、尚書令の董允が死んだ。允はに次ぐ重臣であり、剛直をもって鳴っていたので、の死以上、これを惜しむ人もあった。
この二者が亡ぶと、
「わが世の春が来た」
といわぬばかりに擡頭してきた一勢力がある。宦人の黄皓を中心とする者どもである。皓は日頃から帝の寵愛を鼻にかけていたが、政治に容喙し始めたのは、このときからである。骨のある忠臣は相次いで世を去るにひきかえ、こういう類の者が内政から外務にまで新たに面を出すにいたっては、もはやその国の運命は量り知るべきである。
だが、ここになお、いささか蜀のために意を強うするに足るものはあった。それは、費、姜維の両人が健在なことだ。以後、彼らが鋭意国政に当って、この衰亡期にある国家を支え、故孔明の遺志にこたえんとする努力には、涙ぐましいほどなものがある。
ただ――これは結果論となるが――姜維のただ一つの欠点であったことは、孔明ほどな大才や機略にはとうてい及ばない自己であるを知りながらも、その誓うところ余りに大きく、その任あまりに多く、しかも功を急ぐの結果、彼の英身が、かえって蜀の瓦解へ拍車をかけるの形をなしてしまったことである。
さもあらばあれ、武人として、また唯一の遺法を、孔明手ずから授けられた彼としては、
(玉砕か、貫徹か)
まさにこの二途を賭して、あくまで積極的に出るしか生きがいはなかったであろう。
で彼は、かねて、涼州地方の族を懐柔していたので、この一勢力を用いて、魏へ進攻する策を企てた。
それの実現を見たのは、延十年の秋である。維は、雍州へ攻め入った。
魏の郭淮、陳泰などが、この防戦に当り、各地で激烈な戦闘を展開したが、結局、魏の諸郡を踏み荒した程度で、蜀は退却のやむなきに至った。魏に退路を断たれ、また部下から多くの脱走者を出したりしたためだった。
ここにまた、蜀にとって一不幸が起った。費の死である。
孔明の衣鉢をつぐ大器としては、まず費であろうとは、衆目の視ていたところであったが、突然、この訃が知れわたったので、蜀中は非常な哀愁につつまれた。
死因も、その折は、秘密にされていたが、後に自然一般にも知れてしまった。一夕、蜀の将軍連と歓談している宴席において、突然、魏の降将、郭循という者に刺し殺されたのであった。
費なき後、蜀の運命は、いよいよ姜維一人の双肩にかかった。
維は、十八年八月、魏の王経と西に戦って、久しぶりの大戦果をあげた。この時の殲滅には、魏兵万余人を斬り尽して、西の山河をほとんど紅にしたといわれている。
ために、彼は大将軍に叙せられた。
しかしすぐ次の戦いには、魏の名将艾と段谷にまみえて、こんどは逆に惨敗を喫した。
若きから孔明に私淑して来たものの、孔明に似て孔明にとどかず、その人格に力量に、如何ともなし得ぬ先天的な器量の差は、こういう風に、軍をうごかすたび、歴然と結果に出てくる。
延二十年。維は秦川を衝いた。
魏軍が関中方面へ移動したのでその虚をついたものである。
魏の艾・司馬望の軍は、彼の鋭鋒を避けて、敢えて当らなかった。維はさまざまに挑んだが、消耗するに止まって、大した戦果も獲られずに終った。
彼が、孔明の遺志をついで、しきりに積極的となっていた背後には、内廷における黄皓らの反戦的空気が、ようやく濃厚になりかけていた。
かくては維も思うように戦えなかった。国家として、まことに危険な状態にあったといわねばならない。
延の年号は、二十年を以てあらためられ、景燿元年となった。帝劉禅は、この頃からようやく国政に倦み、日夜の歓宴に浸りはじめた。時艱に耐うる天質のいとど薄い蜀帝をして、この安逸へ歓楽へと誘導するに努めていたものが、黄皓などの宦臣の一群であったことはいうまでもない。
「ああ、国は危うい」
「かくては、蜀の落日も、一燦のうちであろう」
心ある者はみな歎いた。
しかし、帝の寵威を誇る黄皓にたいして、歯の立つ者はいなかった。
ひとり姜維は、面を冒して、諫奏幾度か、
「佞臣を排されたい」
と、劉禅の賢慮を仰いだ。
饐えたる果物籠の中にあって、一箇の果物のみ饐えないでいるわけもない。帝の心はすでに甘言のみを歓ぶものになっている。朝に美姫の肩の柳絮を払い、夕べに佳酒を瑠璃杯に盛って管絃に酔う耳や眼をもっては、忠臣の諫言は余りにもただ苦い気がした。
「蜀は風前の燈火だ」
維は、慨嘆した。
果たせるかな、魏は、
「時到る」
とこれを見ていた。そして景燿六年の秋、一挙に蜀中に攻め入って、その覆滅を遂ぐべしと、艾、鍾会を大将として、無慮数十万の大兵は、期して、魏を発し、漢中へ進撃した。
蜀の前衛は、たちまち潰えた。
姜維は、剣閣の嶮に拠り、この国難に、身を挺して防いだ。
さすがに、ここは容易に、抜けなかった。
けれど一方、陰平の険隘を突破した艾の軍は、ときすでに蜀中を席巻し、直ちに成都へ突入していた。
成都。ああ、成都。
彼ら蜀人は、ここに魏兵を見ようなどとは、まったく夢想もしていなかったのである。殺到する魏の大軍を見て初めて、
「これは、この世のことか」
と、狼狽した程だったという。
ためにこのとき、城郭の防備などは、少しもしていなかったといわれている。知るべし、跳梁する敵人の残虐ぶりを。魏兵の蹂躙に悲鳴して逃げまどう婦女老幼のみじめさを。――かかるとき、なお毅然としてある都門第宅の輪奐の美も、あらゆる高貴を尊ぶ文化も、日頃の理論や机上の文章も、ついに何の役をもなさなかった。むなしく災いの暴威と敵兵の濶歩におののくだけであった。
蜀宮は混乱した。
ここもまた、かつての、洛陽の府や長安の都そのままの日を現出した。
帝劉禅には、何らの策も決断もない。妃とともに哭き、内官たちと共にうろたえているのみである。
魏軍はすでに城下へ迫って歌っている。蜀亡びぬ、蜀すでに亡し。有るはただ城門を開いて魏旗の下にひざまずく一事のみと。
「どうしたらよいか。汝らの意見に従おう。ただ朕の為に善処せよ」
劉禅は、これを告ぐるのがやっとであった。夜来の重臣会議もまだ一決も見ずにある。沈湎蒼白、誰の顔にも生気はない。
「呉を恃みましょう。陛下の御輦を守って、呉へ奔り、他日の再起を図らんには、またいつか蜀都に還幸の日が来るにちがいありませぬ」
「いや呉は恃み難い。むしろ呉は、蜀の滅亡をよろこぶ者であっても、蜀のために魏と戦うような信義のないことは、丞相孔明の死去のときから分りきっている」
「いっそ、南方へ蒙塵あそばすのが、いちばん安全でしょう。南方はまだ醇朴な風があるし、丞相孔明が布いた徳はまだ民の中に残っています」
衆論は区々である。帝はただ迷うばかりだった。
ときに重臣の周が、やっと不器用な口つきで、最後に私見を述べた。
「もの事にはすべて、始めがあり終りがあり、また中道があります。始めや途中のことなら一時の変ですから、挽回の工夫もあり、立て直しもききますが、今日の変は、要するに、丞相孔明が逝かれた後の万事の帰着です。天数の帰結です。もういけません。呉へ奔るも愚策、南方に蒙塵あるも、何もかも、唯、末路の醜態を加えることでしかありません。……願うらくはただ、努めて先帝の御徳を汚さぬよう、蜀帝国の最期として、世の嗤い草にならぬよう、それのみを祈りまする」
「では、汝は、蜀城を開いて、魏に降伏するのがよいというのか」
「臣として、口になし得ないことですが、天命にお従い遊ばすならば、それしかほかに途はありません」
案外にも、劉禅はすぐ、
「そうしよう。周のいうことが、いちばん良いようだ」
といって、むしろ一時の眉をひらくような容子にさえ見えた。
重臣はみな痛涙に咽んだ。けれど誰も皆、周の意見が悪いものとは思わなかった。諦めの底に沈黙した。
この周については、有名な一挿話がある。
彼が初めて蜀宮に召されたのは建興の初年頃で、まだ孔明の在世中であった。
孔明は彼の学識と達見を夙に聞いていたので、帝にすすめて田舎出の一学者を、勧学従事の職に登用したのである。
ところが、最初の謁見の日、蜀朝の諸官は、彼のすこぶる振わない風采と、また余りに朴訥すぎて、何を問うても吃っていっこう学識らしい話も場所柄に応じた答えもできないでいる容子をながめ、皆クツクツと失笑を洩らした。
「あのような不嗜みなことは、朝廷の儀礼と尊容を甚だしく紊すものです。笑った者を処罰しようではありませんか」
廟堂監察の吏は、問題として、これを取り上げ、一応、孔明のところへ相談に来た。
すると、孔明はこういった。
「われなお忍ぶ能わず。いわんや左右の衆人をや」
彼は、取り上げなかった。
孔明は笑いはしなかったが、やはり心のうちで、おかしさを覚えていたのである。――自分の身にとってすら忍び得なかったことを、衆にたいして罪として問おうというのは法の精神に悖るとなしたものであろう。
孔明が戦場で死んだと聞いたとき、この周はその夜のうち成都を去って、はるばる途中まで弔問に駈けつけて行った。その以後、離京した者は、官吏服務規程に問われて、反則の咎をうけたが、真っ先に行った周だけは、何の問責もうけなかった。
――衆論に囚われず、劉禅に開城をすすめた彼は、まずそういう風な人物だったのである。
開城を宣すると、蜀臣はその旨を魏軍へ通告した。
城外には、魏軍の奏する楽の音や万歳の声が絶えまなく沸き立っている。蜀宮の上には降旗が掲げられ、帝は多くの妃や臣下を連れて城外へ出た。そして魏将艾の軍門に、降をちかう、の屈辱に服したのであった。
かくて、蜀は、成都創府以来、二世四十三年の終りを、この日に告げたのであった。
昭烈廟(玄徳を祀る所)の松柏森々と深き処、この日、風はいかなる悲愁を調べていたろうか。
定軍山の雲高き処、孔明の眦はいかにふさがれていたろうか。
なおなお、関羽、張飛、そのほか幾多の父、幾多の子、また、無数の英骨、忠臣、義胆の輩はいかに泉下の無念をなぐさめていたろうか。
かつて皆、この土のために、生命をささげ、骨を埋め、土中に蜀の万代を祷っていたろうに、今や地表は魏軍の土足にとどろき、空は魏旗に染められている。
そもそも誰の罪か。
心なき蜀中の土民こそ嘆かぬはなかったであろう。
ただここに、なお劉家の血液を誇った一皇子がある。帝劉禅の五男北地王であった。皇子は初めから帝の蒙塵にも開城にも大反対で、
「蜀宮を墳としても、魏と最後の最後まで戦うべきです」
と主張していたが、ついに言は聴かれず、自分と共に討死しようという烈士もいないので、憤然ひとり祖父の昭烈廟へ行って、妻子をさきに殺して自分もいさぎよく自殺した。
蜀漢の末路、ただこの一皇子あるによって、歴史は依然、人心の真美と人業の荘厳を失っていない。
剣閣の嶮に拠って、鍾会と対峙していた姜維も、成都の開城を伝え聞き、また勅命に接して、魏軍に屈伏するのやむなきにいたった。
「武器を抛棄せよ」
と姜維に命ぜられて、魏の前に降兵として出ることになった彼の部下は、このとき皆、
「無念」
と、剣を抜いて、石を斫ったということである。
これを見ても、蜀人の意気戦志は、まだ必ずしも地に墜ちていたとはいえない。いやむしろ、孔明なき後の三十年も、年々、進攻的な気概を外敵にしめし、「攻むるは守るなり」の積極策を持ちつづけて来た気力にはむしろ愕かれるものがある。
とはいえ、姜維らのこの意気は愛すべしだが、ために、費の言なども多くは耳をかさず、求めて欠陥を生じ、急いで国家を危殆へ早めて来たこともまた、否み得ない作用であったというしかない。
費は、存生中にも、姜維にむかって、しみじみ、こういっていた事実がある。
「自分などは、どう贔眉目に見ても、とうてい、故丞相に及ばないこと甚だ遠い者だ。――その丞相ですらなお中夏を定め得なかったことを思うと、況んや、われら如きにおいてをやと、痛感しないわけにはいかない。だからしばらくはよく内を治め、社稷を守り、令を正し、国を富ましめるのが、われらのなし得る限度ではあるまいか。外の功業の如きは、やがて孔明のような能者を待って初めて望み得ることだ。僥倖を思うて、成敗を一挙に決せんとするようなことは、くれぐれもおたがいに慎まなければなるまいと思う」
これは一面の善言であった。
しかし姜維はべつに姜維の抱負を持しつづけた。いずれが是であったか非であったか、これはかえって周の最後のことばに傾聴するものが多いようだ。
だが、過去を天地の偉大な詩として観るとき、姜維の多感熱情はやはり蜀史の華といえよう。彼はついに長く屈辱的武人たるに忍びきれず、後また、魏の鍾会に反抗して、たちまちその手に捕えられ、妻子一族とともに、首を刎ねられた。彼の血液はやはり魏刀に衂られるものに初めから約束されていたようである。
魏の成都占領とともに、蜀朝から魏軍の艾に引き渡された国財の記録によると、
領戸二十八万
男女人口九十四万
帯甲将士十万二千人
吏四万人
米四十四万斛
金銀二千斤
錦綺綵絹二十万匹
――余物これにかなう。
とあるからそのほかの財宝も思うべしである。
しかし国力はかなり疲弊していたものだろう。蜀将の意気もすでに昔日の比ではない。帝以下百官、城を出て魏門にひざまずき、城下の誓いを呈したのである。いかなる国家も亡ぶとなると実にあっけないものだ。
この亡滅を招いた原因は、数えれば種々ある。帝劉禅の闇弱、楊儀の失敗、董允、蒋の死去、費の奇禍、等々、国家の不幸はかさなっていた。
最後となっては、劉禅の親政と、宦人黄皓の専横などが、いよいよ衰兆に拍車をかけていた。亡ぶものの末期的症状にかならず見られるのは、宦官的内訌とこれに伴う暴政、相剋、私的享楽などである。蜀の終り頃もこの例外を出ていない。
――特に、もっとも蜀を弱めたものは、蜀中の学者の思想分裂であった。彼らのうちには、三国鼎立策にも大陸統合にも、ほとんど何の興味も感じていない者が多かった。要するに思潮は戦に倦み戦を否定し始めていたのである。
門を閉じて、高く取り澄ましていた杜瓊なども、春秋讖中の辞句をひき出して、
「漢に代るのは当塗高だろう」
などと平気で放言していた。当塗高とは魏をさしていっているのである。魏という文字は「高閣」を意味する。――道に当りて高いもの――という伏字だ。蜀の粟を喰いながら、こんなことを平気で説いていたのである。
また学府の学者でも、もっと甚だしい説を撒いていたのがある。
「――先帝の名は備なり。備は、備うるなり、また具うるを意味す。後主の諱は禅にして禅るの意をもつ。すなわち禅り授くるなり。劉氏は久しからずして当に他へ具え禅るべし」
こういう学者を内に養っていた国家が内に病を起していないわけはない。いわゆる最後の「あっけなさ」は、すでに蜀の肉体のこういう危険な病症が平時に見のがされていたにほかならない。
ところで降人に出た劉禅の余生はどうなって行ったろう。魏へ移った旧蜀臣は、おおむね魏から新しい官職を与えられて、その隷属に甘んじた。劉禅もまた、魏の洛陽に遷され、後、魏から安楽公に封ぜられて、すこぶる平凡な日を過していた。
――ある時、彼の心懐を思いやって、魏人の一人が、彼の邸を訪うて面接したとき、試みに、
「魏へ来ても、日常のご不自由はないでしょうか、何かにつけ、蜀のむかしを思い出されて、折には、ご悲嘆にくるることもおありでしょうな」と、たずねてみた。
すると、凡庸な彼は、
「いやいや、魏のほうが、はるかに美味もあるし、気候もよいから、べつに蜀を思い出すようなこともありません」
と、いっこう無感情に答えたということである。
この無感情が、大悟の無表現ででもあったなら偉いものであるが、彼の場合は、現れたとおりの、懸値なしであるからまことに愍れというほかはない。
孔明の歿後、魏は初めて、枕を高うして眠ることを得た。
年々の外患もいつか忘れ、横溢する朝野の平和気分は、自然、反動的な華美享楽となって現れだした。
この兆候は、下よりまず上から先に出た。大魏皇帝の名をもって起工された洛陽の大土木の如きがその著しいものである。
朝陽殿、大極殿、総章観などが造営された。
また、これらの高楼、大閣のほかに、崇華園、青宵院、鳳凰楼、九龍池などの林泉や別荘が人力と国費を惜しみなくかけて造られた。これに動員された人員は、天下の工匠三万余、人夫三十万といわれている。
まさに、国費の濫費である。曹叡ほどな明主にして、なおこの弊に落ちたかと思うと、人間性の弱点の陥るところみな軌を一にしているものか、或いは、文化の自然循環と見るべきものか。
いずれにせよ、彫梁の美、華棟の妍、碧瓦の燦、金磚の麗、目も綾なすばかりである。豪奢雄大、この世に譬えるものもない。
――が、たちまち一面に、民力の疲弊という暗い喘ぎが社会の隅から夕闇のように漂い出した。巷の怨嗟。これはもちろん伴ってくる。
この上にも曹叡は、
「芳林閣の改修をせよ」と、吏を督して、民間から巨材を徴発し、石や瓦や土を引く牛のために、民の力と汗を無限に濫用した。
「武祖曹操様すら、こんな贅沢と乱暴はなさいませんでした」
と、諫めた公卿もある。もちろん曹叡には肯かれない。のみならず斬首された者もあった。
反対に、こういう甘言を呈する者もある。
「人は、日精月華の気を服せば、つねに若く、そして長命を保ちます。――いま長安宮中に柏梁台を建て、銅人を据えて、手に承露盤を捧げさせるとします。すると盤には毎夜三更の頃、北斗から降る露が自然に溜ります。これを天漿とよび、また天甘露と称えています。もしそれ、その冷露に美玉の屑末を混じて、朝な朝なご服用あらんか、陛下の寿齢は百載を加え、御艶もいよいよ若やいでまいるにちがいありません」
こういう言を歓ぶようになっては、曹叡の前途も知るべしである。
が、魏の国運は、なお旺だった。これはおそらく良臣や智識が多かったに依るであろうが、曹操以来の魏は、何といっても、士馬精鋭であり、富強であった。
中でも、司馬懿仲達は、魏にとっては、まず当代随一の元勲だった。自然、彼の一門は、隆々、勢威を張るにいたった。
延十四年、魏の嘉平三年。その仲達は歿して、国葬の大礼をもって厚く祭られ、遺職勲爵は、そのまま息子の司馬師が継いだ。
ところが、この師も、間もなく逝去した。弟、昭が跡目をついだ。
昭は一時、大いに威を振るい、大魏大将軍になり、また、晋王の九錫をうくるにいたって、ほとんど、帝位に迫るの勢威を示した。
この昭が終ると、その子の、司馬炎が王爵をついで立った。魏の朝廷は、このときすでに元帝の代に入っていたが、炎は、この元帝を退位させて、自ら皇帝となり、新国家の創立を宣した。
これが、晋の武帝である。
かくて、魏は、曹操以来五世、四十六年目で亡んだことになる。――それはまた実に、蜀の滅亡後、わずかに三年目のことだった。
魏蜀を併合して、晋一体となったこの国が、なお呉を余していたのは、呉に間隙がなかったによる。とき呉の孫権もすでに世を去り、次代の孫皓の悪政が、南方各地の暴動を醸すにいたるまでは、長江の嶮と、江東海南の地を占めるこの国の富強と、建業城中の善謀忠武の群臣は、なお多々健在であったといえる。
しかし、敗るるや、急激だった。四世五十二年にわたる呉の国業も、孫皓が半生の暴政によって一朝に滅んだ。――陸路を船路を、北から南へ北から南へと駸々と犯し来れるもののすべてそれは新しき国の名を持つ晋の旗であった。
三国は、晋一国となった。