北条高時は江ノ島の弁財天へ参籠して、船で浜御所へもどる海上の途にあった。
「なに。わしを清盛のようだとか?」
あの特有なかなつぼ眼で、高時は船中の船酒盛りの近習らを、ねめ廻し、
「ばかを申せ。すれや元々、北条家は“平家”であるには、ちがいないが」
と、ぺろと上唇を舐めた。
猫の目より変りやすいごきげんなのだ。人々は、それを言い出した北条茂時の方をつい見てしまった。若い茂時はただ、赤くなっている。
「わが娘を皇后に入れ、一門、摂関家と位階を競うた平相国であろうがの。――高時には、毛頭、さしたる野望はない」
波映が、酔の面をよぎる。
三ツ鱗の幕やら彩旗をなびかせた女房船、供船などの数十そうが、一列な白波を長く曳いて行く。その快も、高時の語を、弾ませていた。
「高時は、堂上などに、眷恋はせぬ。京にも負けぬ、鎌倉の京をここに築いて見しょう。あらゆる工芸の粋をあつめ、万華鎌倉の楽園を、一代に創って、その中で生涯する。……なんで、朝廷の空名などを、物欲しげに」
と、嘲侮をうかべ、
「さるによ」と、やや怒ッた青すじを、額にみせた。
「じたい、量見のおせまい天皇以下、事ごとに、関東を忌み恐れ、またこの高時を清盛に輪をかけた乱暴者と誤まっておる。……その果てが、正中ノ変よ。つづいて先帝の、よんどころない隠岐遷し、さらには不逞な公卿坊主らの処刑となったのも、申さば、やりたくはないことを、しいて仕向けられたものだ」
「…………」
「が、わしは清盛でない。清盛には、野放図もない夢が多すぎた。そのあげくに、あの熱病死。そして一門も壇ノ浦のあわれを見たわさ……」
急に彼は、海に眩を起したような眉をして杯を下におき、眉の辺を指で抑えた。――が、すぐケラケラ笑い出して、
「鶴亀、鶴亀。……壇ノ浦とは、地形がちがう。鎌倉の海では、さはさせん。たとえ敵が来るとも、さはさせん」
と、海へ向って、子供のように、胸を張った。
「いや、太守」
侍していた道誉が、そのとき、初めて口をひらいた。
「茂時どのが申されたのは、今日の江ノ島詣りと、平相国の厳島詣でとが、さも似たりと、仰っしゃったまでのことです」
「高時と清盛とを、くらべたわけではないと申すか」
「さようです。清盛公は、福原から厳島へ、月詣でもしたとのこと」
「その点も、似ていないな。わしの方が、ずんと不信心らしい。ははあ、それでか。……それで過日、江ノ島弁財天の夢見などしたわけよな」
道誉の助け舟で、茂時もほっとし、近習ばらも、わざと話題をほかへ、迷ぐらした。
いつか、華麗な船列は、海中の一ノ大鳥居の下を通って、鎌倉の浜についていた。
浜は、出迎えの綺羅な人馬でうまっていたが、高時が、浜御所に入るやいな、そこには、六波羅からの早打ちが、五騎も六騎も昨日から待っていた。
「なに、早打ちどもが?」
高時は、耳にしたが、驚いたふうもない。
事実、早馬早打ちには、鎌倉の上下とも、麻痺していた。
ここと都との通信機関は、早馬の往復だけが、唯一無二のものである。だから時局の波瀾をみると、海道から府内は、昼夜、ひっきりなしに六波羅飛脚だ。――また柳営からも、指令の馬が、西へ飛ぶ。
「なぜ、こんな所で、飛脚どもは待つのか」
座につくと、高時は、脇息をかかえるなり、長々と、両脚を前へ投げだして怒った。
「ここは浜御所、せっかく海上の疲れを、一ト休めと思うたに、陸を踏むやいな、すぐ飛脚どもに待たれてはやりきれん。なぜ柳営の方で、処置しないか」
「はっ」
淡河兵庫が、彼の脚のさきの遠くに、平伏していた。
「おるす中といえ、急使の飛状は、その都度、政所にて、ご処理でございますが、なにか、一刻も早く、お耳に達せねばならぬ火急と伺っておりまする」
ついと、高時は横を向く。
「茂時」
それから、また、
「道誉」
と、名ざしのもとに、
「ふたりして、飛脚状を収め、また委細を、早打ちの武士どもから、訊きとっておけ。……わしは、こうしていてもまだ船の上に揺られているような心地だ。ちと、ねむっておきたい」
茂時と道誉が、そこを立つまに、女房たちが、大きなお枕をささげて来て、高時の青い頭の下にあてがった。そして彼のみを、そっと残して、やがてみな、退がって行った。
高時は他愛がない。頭もまろいし、大きなぼんちみたいな寝相である。このままの人ならば、天真爛漫といっていい。
が、あいにく北条家九代の嫡と生れ、天下の執権という、彼に似合わない政権と武権を双手にしていた。――いや、似合わないとは、彼も彼の肉親も、思いはしない。すべて彼を愛し、彼を利用している周囲には、一こうにその自覚もないことが、いちばいな悲劇であった。絢爛豪奢な喜劇でもあった。
すでに、嘉暦(六年前)のころ。
高時はいちど、執権職を退いて、職は金沢貞顕にゆずり、またまもなく、赤橋守時に代っていたはずだった。
そのころの高時は、世に“うつつなき人”といわれたほど、しばしば、狂癲の持病を発作したり、キャキャとはしゃぐと、よく涎を垂らしたりしたので、彼を盲愛する生母の覚海尼公も、後見の長崎円喜らも、たまりかねて、その栄座から、ひっ込めたものであったが、近年はとみに「――御快癒である」と、となえて、またぞろ、推して、執権の座に復させたものであった。――もちろん、そのウラには、北条氏内部の紛争やら犠牲者も出たりして、一時はここが武力の発火点にもなりそうだったが、笠置、赤坂の一挙のため、かえって、鎌倉は逆にかたまったといえる現状になっていた。
「や。……ようおやすみだ」
「どうしましょう?」
ほどなく、もどって来た道誉と茂時は、そこの“うつつなき人”のお寝相に、顔見合せて、たじろいだ。
へたに起せば、ごきげんを損じよう。そして、こじれ出したら、ご持病のお物狂いもおこりかねない。
「……まずは、もすこし、お目ざめまで、待ち申そう」
道誉の分別にしたがって、連署の北条茂時も、彼と並んで、そっと、遠くに坐っていることにした。
浜御所の広間である。いかにも、こころよげな高時のうたた寝だった。波音も、眠りをあやす階音になっている。
が、道誉の耳には、この波音も、時勢の吠え声に聞えていた。
「…………」
茂時とは、ほんとの胸など一語の語り合いもできないが、道誉はその茂時とたった今ふたりで、六波羅の急使たちと、表ノ間で対面し、風雲の急を、聞きとって来たばかりなのだ。
刻々、変ってゆき、また悪くばかりなってゆく国々の形勢図が、波と聞え、眼にも見えるここちがする。
「……だのに、寝てござる」
愍笑を、禁じえない。
いま、耳にした六波羅飛報によれば。
――そのご、行方も知れず、といわれていた大塔ノ宮護良親王は、先頃来、こつねんと吉野山の愛染宝塔に拠って砦をきずき、諸国へむかって、公然、
“義兵ヲ募ル”
の令旨を発しているという。
また。とかくこの鎌倉では「名もない土豪の小さかしい野心沙汰」と見て、軽視の風がある楠木正成も、赤坂から千早への築城を完了し、金剛山一帯は、今やひとつの連鎖陣地をなして来たともつたえている。
その楠木と大塔ノ宮とが、歯と唇のように密接なのは、いうまでもない。――いわばその二つの主峰は、一時雲に隠れていたものが、ふたたびその健在な姿を、巍然と、雲表にあらわしたものといっていい。
はやくも、それにこたえて。
播磨では、赤松円心に、二心の準備がみえ、備前の児島党、松田党などもまた、いつでも、呼応の姿勢にある。
四国の河野党も怪しい。九州の菊池党も、どうやら、あぶない。なお疑えば、あなたこなたに、宮方色は、日にまし、多くなりつつある模様。――もう局部的な小策で鎮めえられる段階では決してない。「今にして、大英断をくだし給わずば……」というのが、六波羅早馬の、声々だった。
だが、道誉には、それすら甘い観方とおもわれたほどである。
彼は、この六月、愛知川の宿で、生前の北畠具行から、もっと多くの“宮方連判”の名をきいていた。――それを思い、これを思い合せれば、
「鎌倉は累卵の危うさ」
と、ひそかに、自分の居る位置も、そっと、見まわさずにいられない。
しかも、高時という驕児は、噴火山上に、昼の手枕だ。
道誉は、にっと、冷ややかな笑みをふくんで、彼を見ていた。高時の明日の運命が、彼には、見えていたからである。
「道誉! 何を笑う」
ふと、彼はきもを冷やした。高時が言ったのだ。高時はいつのまにか、薄目をあいて、いたずらッぽく、逆に道誉の顔を見ていたのだった。
道誉はドキとした。
この暗愚な太守、油断はできない、と思いながら、
「や、お目ざめで」
と、畏んでみせた。
高時は、起きて、大欠伸を一ツした。すぐ湯殿へ入る。お湯浴み、お召換え、つづいて、浜座敷での御一献と、女房たちが、もう配膳にかかり出す。
「……夕になったら」
と、高時は女房たちへ、註文をつけていた。
浜御所の廻廊すべての吊り燈籠に灯を入れること。そして、仮粧坂や名越の傾城、白拍子などを、たくさんに呼びあつめろ。こないだの晩のように、妓たちに仮装させ、鉦、太鼓をたたいて、廊を巡り巡り、踊り念仏して遊ぼうよ――という御意なのだ。
踊る宗教といわれる時宗の流行は、ついに上方からこの鎌倉にもおよんでいる。
高時は自分もやってみたくなり、もう何度か、この浜御所に、鎌倉中の妓をあつめて、夜もすがら、踊りに踊ってみたのである。
「おもしろい!」と彼は絶讃していた。そして従来の闘犬興行とあわせ、これも彼の病みつきになりかけていたものだった。
「あいや、今宵は、お見あわせを」
道誉が、止めた。
いい出しかねている茂時の色を見て、それに代って、いかにも、忠臣が諫言するような、おもてで言った。
「太守。ご歓楽は、長い先の春秋で、いくらでも御堪能できましょう。――早打ちどもの飛報は、どれ一つ、安らかでありません。ここは、太守の大英断を、時局へお下しあらねばならぬ危機かとまで、思われますが」
「あ。飛脚のことか。そうそう、まだ聞いていなかったな」
と、高時は坐り直し、
「どうなのだ? 六波羅状の一つ一つは」
「筑紫(九州)の探題からも一、二報まいっております」
「そのために、評定所がある。まった武者所と政所もある。てばやく処置をとっておろうに」
「が、これまでの程度ならば、でございまする」
「こんどは違うか」
「しさいは、連署殿からどうぞ」
と、道誉はゆずって、あとは茂時に語らせた。
大塔ノ宮の旗上げ、その吉野城と、金剛山との結びつき、四国九州にわたる宮方の危険な兆し、それらを、茂時は事務口調で、吶々と申し陳べた。
「ふーむ、たいへんだな」
高時は、唸って、聞きすまし、
「なるほど、大英断を要しよう。すておけん」
と、天井を仰いで言った。
「こんな夜、わしが踊り明かしていると、お耳にしたら、またまた、あの心配性な、母の尼公が、お病を重くするかもしれん。止めよう、止めよう」
彼が恐い人は、妻の舅の長崎円喜と、生母の覚海未亡人であったようだ。
その尼公の病因は、しばしば、子の高時の盲愛に迷うためといわれているが、高時も母思いでないことはない。
踊りも宴も見あわせて、彼はその夕、若宮大路の柳営の内へ、座を移した。
高時の私生活は、高時だけのものである。
彼の出入だけを見ていては、鎌倉の苦悩のなにもわからない。現に、幕府の営中は、それどころでない空気だった。
いまも警蹕が、
「ご帰館――」
とつたえ、また、
「中御所へ入御」
と側衆から、柳営諸所の寄人だまりへふれわたされても、営中の、おもくるしいまでの緊張には、変化もなかった。ただ、華奢な一群の人員が激増しただけに過ぎない。
事あれば、ここには一族、重臣、元老、それに譜代の御家人。いかめしい肩書の人々は、ありあまっている。
そして、たれも心のうちでは、一個の驕児高時を、あてにはしていなかった。
北条氏である!
九代の幕府である!
その組織が彼らの主人であった。一世紀半にわたって、日本全土に根を張ってきた政体の巨幹である。この組織が、と恃んで、
「太守(高時)は、おかざりものでよい。たとえ少々、ご奇矯であろうとも、執権職の空座をめぐッて、内輪争いを見るよりは、やはり、ご正嫡をあがめておくに如くはない」
という考えなのである。ここ数日らいの難局もまた、全北条の主脳だけで、閣議にあたまをいためていたのだ。
それにしてもである。
さいごの“決”は、やはり高時に仰ぐわけなので「――ともあれ、ご参籠先の江ノ島へ、早舟でお知らせだけでも」という動議も出たが、結局、早打ちの使者どもを、浜御所までやっておくことにとどめて、ひたすら、帰館を待っていたものだった。
で、やがてのこと。
「さっそくながら」
と、中御所へは、一族の名越、普恩寺、赤橋、大仏、江馬、金沢、常葉などの、日ごろには営中に見えない門族の顔やら、四職の閣老すべて、高時の台下に、席次ただしくつめかけていた。そして、ひとりが、
「まことに、ここひきつづいて、おもしろからぬことのみ、お耳にいれ、恐縮にござりまするが、いまは鎌倉の存亡にもかかわる大事と見えますれば、なにとぞ、ご勇断のもとに、さいごのおさしずを下したまわりたく」
と、さしせまった地方情勢の険を、絵で画くように、わかりやすく、上聞にいれた。
高時は、台座にあぐらして、つんと胸をそらしていた。
どれも親類のおじさんみたいな人ではある。が、こう偉いのが顔をそろえて、あだかもこの自分を、神の天童のごとく、礼拝しているのをみると、彼としても固くならないではいられない。また自然そうしているうちに、彼自身の脳裡でも、火花のような智のひらめきを感じ出し、それを霊感と信じるような顔つきにもなってきた。
「そのことなら、もう聞いてる、聞いてる!」
とつぜん、額からとび出すような声で、彼は一同をおどろかせた。
「そうくどく、説明にはおよばん。浜御所での休息中に、飛脚どもから聞きとっておる。そこで、皆はどうしたいのだ。またぞろ、軍勢を出そうというのか」
「御意……」
と、おだやかにうけて、
「それも、このたびは、去年の笠置攻めに数倍する大軍をおつかわしなくば、なかなか、事むずかしいかと思われます」
子を諭すような口調でいう老人がある。二階堂出羽ノ入道道蘊だった。
「むむ」
と、高時は合点をみせ。
「やるからにはな。ざっといって、どれくらい?」
「十万とぞんじます」
「十万?」
そんな兵力が、どこにあるか、と言いたげに、高時は眼をまろくした。
「いや、公称十万。じつの数は六、七万で足りましょうか。いずれにせよ、去年の三倍四倍の兵を要しまする」
「それではまるで、蒙古襲来の防ぎに駈け向うような軍勢になるな。……高時が生れぬ前のことだからよう知らんが、あのときは、十万といったそうだ」
「まだしも、蒙古の襲兵は、筑紫の一局でございましたが」
「こんどは」
「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
「評議は、まとまったのか」
「ご裁可さえ給われば、ただちに、諸大名へ、兵の割当てと、発向の日を、布令るばかりに相なっておりまする」
「征くのは、誰々か」
「まず、この二階堂道蘊、老いたりといえ、先陣のひとりに馳せのぼるつもりです」
「それから」
「ご一族では、阿曾ノ弾正少弼、名越遠江守、大仏陸奥守、伊具ノ右近大夫、長崎四郎左衛門」
「外様では」
「おまちください」
道蘊は、席次のつぎにいる工藤高景をかえりみて、代ってもらった。
やがて、武者所の軍簿から、動員される外様大名の名が、端から読みあげられて行った。高時の兎耳も、赤く透いて、はりつめた神経を、ぴんとみせる。
千葉ノ大介、宇都宮三河守、小山政朝、武田伊豆ノ三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆、芦名ノ判官、三浦若狭、千田太郎、城ノ大弐、結城七郎、小田の常陸ノ前司、長江弥六左衛門、長沼駿河守、渋谷遠江守、伊東前司、狩野七郎、宇佐美摂津ノ判官、安保の左衛門、南部次郎。
工藤は、ここでつけ加えた。「なお、私も右の内に入る者でございまする」
「ほかには」
「甲斐、信濃の源氏。北陸七ヵ国の勢。――また西国では、安芸、長門、周防、四国の伊予にまでも、このたびは、お下知のまいらぬ国はありません」
「すれや、十万も超えるであろうが」
「が、不参も生じますので」
「なるほど」
「召しに応じたくも、途中の敵に阻まれて、心ならずも、参陣できぬお味方など、かぞえておかねばなりません」
「わかった」
高時は、裁可を与えた。
一同が中御所をさがったのは、もう夜に入っていた。それからのこと。武者所は徹夜だった。政所の灯もあかつきを知らなかった。そして須臾のまに、鎌倉の府も、海道口も、日々秋霜の軍馬で埋まった。
――馬糞、ご上洛
と、海道沿いの子供らは、歌にうたった。
稀代な景観に見えたのだろう。毎日、西へゆく軍馬の流れを見ぬ日はない。その馬糞が、鎌倉から都まで、一条につづいているとなす童心の空想は、
――夕焼け、小焼け
の声と似て、何か、明日の晴雨を物思わせたにちがいない。
そんな或る日を。
西から東へ、とぼとぼ、牛車にまかせて来た忍び下向の公卿がある。かねて幕府では、わかっていた人か、四棟ノ御所に迎えて、ていちょうに扱っていた。そして高時との対面の日が待たされた。
高時は、
「しさいない、いつでも」
と、いっている。
しかし周囲は、このさいであり、警戒のいろ濃く、あらかじめ、下向の内意をきいてから、やっと、ゆるした。
公卿は、後醍醐の乳父、吉田大納言定房だった。
いや、そういうよりも、正中ノ変の寸前に、宮中の陰謀を、幕府へ密告した公卿といった方が、いまではたれにでも分りがいい。
宮方の“裏切り公卿”としてである。――この鎌倉で、まっさきに、宮方の張本として首斬られた日野俊基などは、
「いちど吉田一品の腹をきかねば、死にきれぬ。側近第一の卿が、なんで、みかど以下、われら同志のものを、蹴おとしたか」
と、死すまで、恨んでいたほどである。
あまつさえ、笠置のあとも、吉田大納言定房だけは、恬として、新朝廷に仕えていた。
およそ以前は、後醍醐の朝に、ひとつであった公卿すべてが、流竄、断罪に処せられぬはない中で、どうしてか彼だけは、新しい光厳帝にまみえ、花園院にも出入りして、洒ア洒アと、こう生きながらえていたのである。
「その、辱知らずが」
と、鎌倉武士にしてからが、彼を、蔑侮の眼で迎え、
「……何を、また?」
と、高時との会見にも、要心をおこたらなかったが、しかし会見は、定房ののぞみで、人交ぜもせず、石庭ノ亭の一室でおこなわれた。
「ほ。……これはまた、大納言どのには、いたく老い込まれたご容子じゃな。たんだ両三年、お会いせぬまに」
高時のお愛想である。定房は、白い鬢をなでて、品よく笑った。
「人から悪しざまに指さされると、そのたびごとに、一すじずつ髪の毛が白うなってゆきます。……がまだ、いささか黒毛が残っておりますから、なお、科の償いが足りぬものかもしれません」
「ふうむ……」と、高時はふしぎそうに「それが、あなたのお道楽ですかな?」
「はははは。ま、そうでしょうな。風月を楽しめる世ではありませんから、道楽かといわれれば、そんなところを、生き効いとしているのかもしれませぬ」
「そして、こんどのお下向のお心は」
「さきに、しばしば、書状にこめて、定房の微衷を、お願い申しあるが」
「あ、なるほど、たびたび拝見いたしておる。あなたはさすが、文も筆蹟も、お上手だな」
定房は気がねれている。
大宮人のしなやかな辛抱づよさを笑みにもって、相手の風向きに逆らわず、嬲れば、嬲らせている世に古い老い柳のごとき姿であった。
「ハハハ、お迷ぐらしを」
と、高時の半痴な言とも、遊び合う。
老躯の、しかも大納言ともある身で、こんなさい、関東のまッただ中へ、しのび下向を踏み切って来るなど、よほどな勇気と目的でなければならぬはずだった。……が、そんなあせりは少しもない。根気よく高時の他愛ない話し相手になっていた。
とはいえ、いつかしら、定房は上手に、驕児の耳を、自分の言へも、かたむけさせていた。――支那の春秋左氏伝の史話などひいて、世間ばなしに事寄せているので――高時もはじめのほどは、おもしろげに聞いていたが、だんだん聞いてみると、
「一日も早く、隠岐の先帝を、お解き返しください。それが天下静謐の前提です。北条氏にも百年安泰の大計です。……その上で、どんな政治的な御折衝も可能ではありませんか。……この定房もまた、その上でなら、一命を賭して、後醍醐のきみをおなだめ申しあげ、きみを語ろう宮方の者どもを鎮めるために、犬馬の労もいといません。たとえ幕府の犬よとよばれ、ふた股者と罵られても、それで、世を平和に返し、民の塗炭が救えるものなら、この老骨の往生に、本望この上もありません」
と、いう意味のことを、るると説いているのであった。
高時は、はっと、定房の目的に気がついて「こやつ、なにをいうか」とばかり急に態度を硬めかけたが、そのくせ、頬にはタラと涙を垂れていた。反省でもなく、後醍醐への同情でもない。定房の老いの眼に涙をみたので、つい、誘われていたのであった。
「よう、諮っておく」
彼としては、いい答であった。政所や、評定所衆という機関のあるのを忘れていない。
「……なにとぞ」
と、老大納言は、清涼の殿上でもしないほどな平身低頭を、高時へはして、
「そこで、もひとつ、ここに。御仁恕を仰がねばならぬ一儀がございます」
と、いった。
父皇後醍醐とともに、軍事にたずさわった皇子らは、みな遠くへ流されたが、都の内には、なお中宮やら、十歳以下の幼い宮たちが幾人も、六波羅監視のもとにある。
「……申さば、あどけない御子やら皇女がたで、罪も知らず、みな別れ別れ、他家に預けられておいでなのです。どうか、それらの幼いお方には」
と、幕府の寛大を――わけてこんどの大軍上洛にあたって万一の乱暴などないように――と、定房は、その赦免だけでなく、庇護をも切に頼むのだった。
「よろしい」
高時は、初めて、権力の快を感じた。
「よいことだ、一存で承知した。母の覚海尼公も、そういうことなら、お耳にいれると、たいそうよろこぶ。案じられな……大納言殿」
夜は、小御所の内殿で、饗応がひらかれた。それも、そっとの催しで、微行の吉田大納言は、次の日、さっそく、京へ帰って行った。
冬ざれが来た。
こがらし、冬の海鳴り。それさえ長くて、高時はたまらなく嫌いなのに、ほかの人間がみな、狂気に見えてくるような、明けても暮れてもの、戦ばなしだ。
「十二月だぞ」
高時は、つまらない。
「すぐ初春だわ。春となっても、闘犬は見られんのか。踊りも踊れまいか。……いったい、いつまで軍勢を送りつづけるのだ」
戦時下が窮屈で、またこの人には、退屈なのだ。
ひょこと、評定所だの政所にあらわれては、そこの引付衆や重臣をみて喞つ。
ここといい、武者所といい、見馴れた顔は、めっきりと減っていた。一方の大将として次々に出征したのだ。それにつれ、鎌倉中の人口の潮位も激減していよう。
「いや、まだまだ、足りるどころではございませぬ」
居合せた佐介上総介が答えていう。
「――初春には、なお第三陣、四陣のご軍勢をも、徴することになりましょう」
「途方もない。どうして、そう底抜けに、兵力が必要なのか」
「簿の上では、充分なはずですが、まま、令に応じぬ大名が、なかなか、動かぬためでございます」
「応じない大名がある?」
「はい」
「そんなのは懲罰にふして、さっさと、当面の戦争をかたづけてしまえんものか」
「内争は禁物ですし、かえりみてもいられませぬ。かつ、吉野や金剛山の宮方を、絶滅するには、このさい、思いきり大量な兵を投じて、余りな長陣にはせぬご方針とも聞いております」
「それよ、長戦にするなとは、この高時が命じたのだ。戦はかなわん。遠くの戦でも、戦は好きでない。足らぬものはぜひないゆえ、出す兵はどしどし派して、はやく凱旋せよと申してやれ」
始終、つつましく、彼に近仕していた佐々木道誉は、高時が、小御所の座所にもどると、あらたまって、暇をねがった。――近江へお返し給わりたいといい出したものである。
「なに、近江へもどりたいと。この上、そちがいなくなっては、いとど淋しいぞ。なぜ急にさようなことを印し出るか」
「いま伺えば、出陣の御教書に接しても、雲行きをみて、容易に、腰をあげぬ大名も多いとか。譜代のご恩もわすれた嘆かわしき武門の廃れ、はや見ているにしのびません」
「では、出陣を望むのか」
「わが四ツ目結の旗を先に立て、そのような忘恩の大名どもへ、後日、悔いを噛むなと、言ってやりたいのでございまする」
「しおらしい」
高時は、賞めそやしたが。
「まあ、そちまでが、征かんでもよい。身の側におれ」
「いや、ぜひとも、おつかわしを」
「なんの、武者所の簿を繰れば、まだまだ鎌倉山の将は綺羅星だ。わけて、当然出陣せねばならん者が、軍勢発向もよそに、いまだに顔すら見せおらん」
「ご府内の住人で」
「目のさきにおりながらよ」
「そのような不所存者は、そも誰でございますか」
「高氏じゃよ。あの足利だ!」
高氏――
という響きは、いろんな意味で、道誉を複雑にさせずにいない。
始終、胸につかえている名である。道誉の家は二階堂だ。大蔵の足利屋敷の門前は、まま通る。通ればかならず「――高氏は?」と、白眼で振り向かれる。
「そ知らぬふりで、いちど立ち寄ってみてやろうか?」
しかし、何やら、うしろめたい。さすが、そこまでの厚顔には、なりきれない。
かたがた。
高氏とて、この風雲や、関東大出兵の急もみていように、なんでしいんと大蔵の門をとじて、出仕もなまけているのだろうか。ここらの高氏の心境なども、道誉には的確にまだつかめていない。この鎌倉に多い谷の洞穴みたいにそれは不気味な感なので、
「まずは、ヘタに触るな」
と、いつも通りすぎていたのである。――それをいま、高時が、さも憎げに「この時もよそにして、久しく顔も出しおらん」と、怒りをもらしたので、道誉にすれば、高氏の殻を割る、勿怪な鎚の柄と、すぐ考えられていた。
「……なるほど、仰せのとおりでございますな。私もこの春、洛南の羅刹谷で会うたきり、足利殿には、ついぞお目にかかっておりません。近ごろ、どうしておられますやら」
「病気だと称しておる」
「そんな噂も、ちらとは、耳にしていますが」
「そちにしても、まにはうけまい」
「が。ご不快では」
「いやいや、よく仮病をかまえる男だ。這奴の不快とは、心の不快で、去年の出陣に、武者所がヤイヤイと催促したのを、恨みとしておるらしい」
「去年の出兵も、出渋ったのでございましたか」
「もっとも、陣触れをうけた前日に、父の貞氏が、あいにくと病死した。子としては、忌明けの法事なども見て……と考えていたろうがの」
「ははあ、そんなことですか。もし戦陣なら親の屍をふみ越えてさえ戦うのが武門のつね。たたみの上でみまかった父の死水を取って、征途にのぼれるなどは、まだ倖せではございませぬか」
「そうは、とらんのだ。ゆらいあのうすあばたは、この高時に心から馴じめぬらしい。過ぐる年の闘犬興行でも、大勢の中で、高時の愛犬に咬みつかれ、手くびに消えぬ犬の歯型をのこしたことを、当時、いたく恨んでいたそうな」
「でも、赤橋殿の妹君を娶え、いまは御一族でございますのに」
「それよ、その若夫婦を、祝うてくりょうと、華雲殿に招いてやったこともある。……ところが這奴め、大酒に食べ酔うて、田楽どもの烏天狗の姿を借り、この高時をしたたかな目にあわせおった。わしを華雲殿のただ中に投げおった」
妖霊星……ようれいぼし……。
そろそろ、藤夜叉の名も、出かねない。
道誉は懐紙を出して、咳をつつんだ。話をほかへ持ってゆく手段である。さし当って、高氏の病気とは、仮病かほんものか。それを高時の権力でつきとめさせたい。
「いかがなものでしょう」
道誉は、すすめた。
「ひとつ、太守からのお見舞をおつかわしになってみては。……さすれば仮病かほんものかは、明白ではございませぬか」
「いや、見舞の使いは、いくどかやっておるはずだ」
「公式にすぎますまい。さような儀礼一片でなく、太守のご心配ひとかたならずと、かくべつに」
「いらんことだ」
と、高時は感情まる出しに。
「なぜ高氏ずれに、そこまでの機嫌をとらねばならんか」
「これはてまえの言い方が不行届きで。要は、探りをやってみてはと申しあげてみたわけです」
「たれをやる?」
「てまえが行きましょう」
「おもしろいな」
と、たちまちニヤとして。
「這奴、仮病であったらあわてるだろうな。そちではゴマ化しも相なるまいし」
「手にはのらぬつもりでございまする」
「よかろう。申しつける」
数日後のことだった。
日ごろは横目に素通りしていた大蔵の足利屋敷の門へ、道誉はいい口実をえて、駒をつないだ。
すでに年暮景色で、どこの門にも注連飾りや大きな門松が立っていたが、足利家にはそれがなかった。
「……はてな」と見まわして「服喪は一年、先代貞氏の喪なら、もう明けているはずだが」
邸内もひっそりだった。
考えてみると、足利家の門の繁昌も、赤橋守時が執権中だけのことで、そのごは守時の逼塞と共に、高氏も不遇な方にちがいなかった。
「そのせいか」
やがて、書院の客座につく。
下賜の鮮魚や品々の目録を披露して、道誉は、家臣一統へ、申しいれた。
「ご当主には、だいぶお長い御病気、どんなか、よう見舞うてこいとの御諚でおざる。さしつかえなくば、ご病間でもいい、親しゅうお顔を拝したいが」
「あいや」
家臣たちの狼狽気味はありありだった。「……しばし、お待ちのほどを」とばかり、倉皇、奥へかくれてゆく。
ははん……。思った通りであったと思う。
高時にはうとまれるしで、とかく不遇な高氏だ。ここは冬眠をよそおって石垣の穴から首を出すまいとしているのだろう。それならそれで大いに話せる。こっちも伊吹の蛇ではある。
「が、さて。何と出てくるか」
道誉はだいぶ待ちしびれた。
だが、こう乗りこんできた以上、彼は高氏にあえて負目は感じていない。高時の寵はにぎっているし、また、京鎌倉の間の要地に、伊吹ノ城をも持っている。どっちへころんでも高氏は正面切ッてこの自分を敵には廻せないはずである……と、そのうぬ惚れは並ならぬ構えであった。
すると。ずしっ、ずしっと大きな跫音。つづいてすぐ、大書院の袖のあたりで、
「やあ、どうも、どうも」
と、ひどく馴れ馴れしいガラ声がひびいた。
来たな。
と感じたものの、それはどうもすこぶる不愉快な予感だった。それにまだ一度も会ったことはない人物に思われた。
入って来た男は、人間以前の人間の毛ぶかい痕跡を手の甲や耳の穴にまだ持っている四十がらみの侍だった。力士だといったら誰もほんとうにするだろう。かたい肉むらが赭ら顔の両顎にたっぷり張ッていて、大きな鼻の坐りをよくしている。
なんとも貪欲な人相だが、しかし毛虫眉をかぶッた切れ長な眼は細く針のような底光りをかくしていて、しじゅう意識でえびす顔を作っており、それがこの人物の食えない甘酸ッぱさをまた妙に発散している。そして精力的で傲岸な体臭が一見、相手を押圧せずにおかないものとなっている。
おや?
道誉ですら何かこの男を見たとたんには、意味なく気押されたかたちでなくもなかった。「――足利家にはこんな侍もいたのか」と眼をみはっただけでも、いやというほどな印象を第一に拒めなかった。
「……これは」
男の武者烏帽子と、黒い狩衣の両袖は、いやに仰々しく、道誉の前にヒレ伏して、
「長々お待たせ申しておざる。ただおひとりここへおいて、おかまいも申しあげず、いやどうも、ご無礼を」
と、わび入った。
道誉はすでに、ごつんと来ている。そんな慇懃ぶりなどに用はないといった風で単刀直入に言って返した。
「ではすぐ御病間へ案内してもらおうか」
「いや、主人よりは、御前てい、ただ、何とぞ、よしなに御披露を、とのことにござりまする」
「会えんのか。高氏どのへは」
「が。せっかくお越しの佐々木殿へは、身に代って、心からなおもてなしをして進ぜよ。重々な失礼はひらにおゆるしを仰いでと……まずは御意にござりましてな」
「やめよ。もてなしをうけに来たのではない」
「ごもっとも」
と、黒地に蔦つなぎを白抜きした狩衣はその背を初めて客と対等にして、でんと太鼓腹の恰幅を向けてみせた。
「おもてなしとは、つまり主人高氏に代り、何なと、おはなし相手を仕れとのおいいつけで、決して、さもしき意味で申したわけではおざりません」
「そちは当家の何をしておる者か」
「申しおくれました。――足利ノ庄の国元にいて、久しく留守の家職(国家老)を勤めおりまする高ノ武蔵守師直と申すもの。以後、お見知りおき下されましょう」
「高家か。ふウむ……」
高ノ党といえば、ちょっとした名族である。祖は山階家から出ており、三河、武蔵、下野あたりに、子孫は分布されている。
「その国家老の師直が、いまは当所へまいっておるのか」
「いえいえ。この歳末とて、藩用のために、ちょうど、お国元より出て来ておりました者で」
「大蔵には人も多かろうに、なんで高氏どのには、さような田舎勤めの家臣を、わしの応対に突ン出されしか」
「はははは」と、師直は大きく笑った。「――主人はなかなか人を観る明をそなえております。きっと、やつがれなれば、あなた様と駒が合うにちがいないと、お察しなされたものでございましょうわい。光栄至極に存じおります」
道誉にも今はわかった。
高氏以下ここの家中は、結束して、殻のような要心をかたく守っているのらしい。
つまり“毒には毒を”という制し方を取って、こんな男をわざと応対に出したものに相違なかろう、と彼は観る。
「師直とやら」
「はっ」
「せっかくな好意だ。饗応にあずかろう。かたがた、もっとくわしく、高氏どのの病状など訊いて帰らねば、台下へのご復命もできかねる」
「や、ごもっとも」
これが口癖か、師直は取ッてつけたような相ヅチの下に、
「ありがとう存じまする。ではご迷惑ながらべつな席まで少々お運びを」
と、先に立った。
外廊の沓脱石には、いつか穿履までそろえてある。そこらの家中の侍たちへ師直は小声で何かいい残していた。「――佐々木殿の供の衆には、供待ち部屋で、酒食を振舞うておくがいい。こちらは夜に入るかもしれんでな」――そんな意味に聞きとれる。
彼の案内にまかせて、道誉は大庭をななめに庭つづきの山すそをだいぶ歩いた。おかしいと感じ出したのは、もう庭ではなく、滑川を渡って町屋根も見えていたからだった。
「師直。邸内の庭座敷などではなかったのか」
「いやまあ、お庭内も同様な閑静な所でおざる。陰気なお屋敷では、せっかく、お気散じにはなるまいと存じましてな」
「陰気なと申されたが、しかし御家中の服喪は、すでに明けておるはず。しかるに、なぜ今年も足利家では、門松をお立てなさらんのか」
「お気づきでしたか」
師直は先に立って、いつか清洒な木の間の露地へ曲がっていた。おくに家があるのか、きれいに箒目が立っている。
「ちとお答えに窮しますな。……いや何、関うまい。じつは主人高氏には、何やら結願のあるらしくて、それの叶うまでは、門松を立てぬと、大殿のお位牌へ、去年の陣中でお誓いになったものとか聞いておる」
「ははあ。正月にも正月をせぬと、御先代の霊へお誓いとは、何かよほどな願望でおわそうな。ひとつ訊いてみたいものだが」
「次第によっては」
と、師直は色気をもたせながら、そのとき小腰をかがめていた。
「さあ、どうぞお先へ――」
見ると武家の別邸らしくもない。紗綾形編みの篠垣に、柳を抱いた女性的な門づくり。どうしてもしかるべき白拍子の家でもあるか、さもなくば仮粧坂や小磯大磯あたりには多い茶屋といった屋構えだった。
「? ……。師直、ここは」
「よう御存知でございましょうがの」
「いや知らん」
「ま。ずっとお通りを」
師直は、濡れ光った玄関からおくへむかって、手を打ち叩きながら大声で言っていた。
「白龍、白龍、なにしておる。はやこれへおわたりだわ。お出迎えいたさんか」
と聞いて、道誉は驚いた。白龍とは、柳営へもしばしば呼ばれてくる鎌倉でも一流の白拍子なのである。
白龍はおくから走り出てくるなり、人前がなければ抱きつきもしそうな媚を道誉の前に誇張して、
「まあ、ようこそ。こんな伏屋へ勿体ない」
とばかり、出迎えながら、一方では下屋の妓部屋へ向い、
「みんな何しているの。しようがないわね、お眉粧ばかりに手間どって。……お越しですよ。はやくなさいよ!」
なにしろ家じゅうの騒ぎである。師直からの前ぶれも、今しがた受けたばかりで天手古舞っていたものらしい。
道誉はとたんに「――師直め、計りおッたな」と、式台を踏むのも二の足だったが、しかし、花街攀柳の園というものは男にとり妙な衒いとちがった分別をさせるもので、道誉もまたこの社会では「伊吹さま」とか「箒ノ頭さま」とか、とかく艶名高い方だったから、いまさら師直へやぼな忿懣をもらしもならず、すでには席いっぱい、咽せるばかりな脂粉の群蝶も来てそれに取り巻かれる段となっては、もういさぎよく笑顔を作っているしかなかった。
妓たちは、朱唇をそろえて、まず言い囃す。
「どうした風の吹きまわしなんでしょう?」
「伊吹さまと師直さまの、お連れ合いなんて」
「変ね」
「変よ」
「どっちも、むずかしいお顔をしてさ」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
彼女たちは、恐れを知らない。柳営に聘され、高時の浜御所によばれてもこうなのである。とくに高時の前では、日ごろの猛者や大名が、彼女たちの繊手にかかると手も足も出ない有様を見て高時がよろこぶとこから、自然、鎌倉の妓ほど、東国武人を手玉にとり馴れているものはなかった。
今も、である。
師直の命で、あらかじめ、選りすぐった一流どこの美妓が首をそろえていた。――西施、小観音、小槌、おだまき、獅子丸、於呂知、箱根、沖波などという白拍子名をそれぞれに持っており、わけて於呂知というのは、道誉がまだ“箒ノ頭さま”でない初心な少年の日に早くも枕席に侍って初めての閨戯をお教えしたものと、みずからそれを光栄にしている妓で――いまでこそは、こんな色気を捨てた大酒呑みの年増ではあるけれど、わたしだッて――と常々、酔った果てには我から吹聴するのであった。
「ちょいと、於呂知さんえ」
「なあに」
「どうしたの、あんたも」
「だって」
と、彼女は三日月様みたいな顎を白々と撫でてみせて「いくらあたしでも、すこしはおみきが入らなくっちゃ……」
「だからおすすめしたらどう?」
「そう、勇を鼓してね」
於呂知は、銚子のつるを把って、左の指を持ち添え、わざと師直のそばへすり寄った。
「おれか」
「あい」
「それやお門違いだろ」
師直が軽く肩を突く。すると、こころえたものである。於呂知は大ゲサにしかも姿態よく道誉の方へ仆れてそのまま彼の膝に抱きついた。
妓たちはわあっと囃す。
にやと睥睨しながら道誉は、
「飲むぞ」
宣言して飲みだした。それまでは、飲むまいとしていた顔であったと分って、妓たちは凱歌にはしゃぐ。こうなれば婆娑羅の本領である。高ノ師直のごとき、眼の中のチリでもないと、道誉は観る。
「これや師直、まんまと、わしをだましたな。が、足利家の内にも、師直の如き婆娑羅がいたとは意外だった。この家の白龍は、そちの馴じみか」
「ご眼力」
と、師直も妓の中に埋もれながら横着な居ざんまいで、自若と答えた。
「白龍はてまえに首ッたけな情婦でおざる。そもそもの馴れそめは近江さまと於呂知よりは、ちと古いかもしれませんな」
「いうたな、大言を」
「されば極道にかけては、あなたにも譲りません。ゆらい、足利の御家風は、質素一式、婆娑羅の婆の字も知りませぬが、それでは御家人づきあいや柳営向きも巧くゆこうはずがなく、この国家老師直が、上府のつどには、白龍の家をねじろに、ちとばかり、お台所政治の方も努めております」
「それや大した内助だ。いくら鈍な足利殿でも、内には誰か一人ぐらい経理の才物がいるに相違ないと見ていたが、それが武蔵守師直だったか。師直と申す狒々だったのか。あはははは」
妓たちはすぐ言った。
「狒々とは何でございますえ」
「和漢三才図会にある獣だ」
「ま、おひどい。お口のわるい近江さま」
「したが、そちたちはわしを“箒ノ頭”といったりするではないか。箒よりはまだ狒々の方がましであろ」
「どうしてです」
「人間に似ている」
「人間に」
「人間以上だ」
「どこが」
「全身毛深うて」
「おおいやらしい」
「そして女に眼がない、酒に眼がない、すべて獰猛無比、人間もおよばんところだ。ただ、そこにおる師直はやや近いかな」
興にのッて、言いたい放題を、道誉は腹いせに言いちらす。しかし師直は辛抱づよく彼の肴になりながらも、折々、道化にことよせては、辛辣に相手を揶揄の手玉に取り、しかも決して怒らせない。
見ようによれば、これは当代武家極道の両雄が、一方は於呂知を主将とする妓陣、一方は白龍を将とする妓陣、二つにわかれて、杯を盾とし、舌を矢として、虚々実々の婆娑羅合戦を展じたものといえなくもない。
なにしろ男女ともみな泥酔した。この宵、妓家の蓄えの大きな酒甕は、幾壺をカラにしたことか。
しかも、灯を見ると、道誉は、ひょろけもせずに立ち上がって、
「陪臣(師直をさす)。馬を曳け、もう帰るぞ」
と、外へ出た。
師直もまた、泥酔はしたが、正気は失っていない様子で、
「心得まいた。鵺殿のお馬、狒々が口を取って、途中まで同道つかまつらん」
とばかり、狩衣の片肌外して、駒の背へ道誉を乗せ、蹌踉、闇の道へ引ッぱり出した。
どこなのか、わからない。
滑川の水音だけがどこかでする。
「師直。いやさ陪臣!」
「なんでおざる」
「わしはもう大蔵などへは戻らんぞ。どこへわしを送る気だ」
「てまえも、お送りする気などはありません。お勝手に召されい」
「では何で、わしの駒の口輪など把って、従いて来るか」
「師直、今日まで、ずいぶん種々なお人の、饗応役も仕ったが、こよいほど、おもしろかったことはおざらん……。で、ちとどうも、食べ酔い気味で」
「さすが狒々もか」
「……が、こうして、馬の口輪にぶら下がって歩けば、足もとも心配なく、馬がどこへか連れて行ってくれましょう」
「無礼者、吠えづらかくな。いつ馬の腹へ踵をくれて、急に飛ばすかわからんぞ」
「どっこい」
師直はあざ笑いながら、馬上の影を振り仰いだ。その白眼は「なんたる凄い眼の男か」と思わせた。
「やって御覧じ。武蔵守師直が、こう抑えた馬の口輪、びくとも動かすものですか。はははは」
「それ、溝川だぞ。陥るな」
「だいじょうぶ。馬の方が悧巧でおざる。さては鵺殿には、まだ酔い足らんな。これで立ち帰っては、主人高氏どのへの話もおもしろくない。はて残念な」
「今日のことはみな、高氏のさしずだったか」
「何の、師直が一存でおざる。自体、わが殿は、おとなし過ぎる。さればこそ、伊吹の鵺殿ごときに嬲らるる。それを無念と存じ、今日のご接待役、この師直が、あえて買って出た次第でおざる。ゆめ、わが殿へ遺恨をおふくみ下さるるな」
「いや高氏の腹は汲めた。嬲り返しに、今日はこの道誉を嬲ったものに相違ない」
「どうなとお取りなされ。仮病と見たら、君前へ、仮病と御披露あるもよし。……ただこちらとて、佐々木殿のお内輪事なら、聞いていないこともない」
「何」
「それは、遠い過去なれど、伊吹ノ城の茶堂で、わが殿へお洩らしあった一事もおざろう。……近くは、あなた様がさんざん追い廻した小右京ノ君からも、いろんな秘事を伺うておる」
「こやつ、何を」
鞍に挟んであった鞭を抜いて、道誉が馬上で振りかぶると、とっさに、師直も足もとに落ちていた棒切れを拾って、
「おや、ご立腹か」
「いわせておけば」
「わが殿は無口な質だが、この師直はいわずにゃ腹が癒えん質だ。六月十九日――伊吹の下で首となった源中納言具行も、虚空で歯がみをしているそうな。……それらも探り知らずにいる足利家とお思いか」
「しゃっ、この下郎っ」
鞭も唸ったが、より早く、師直は口輪の前を跳びのいて、その手にしていた棒切れで、いやというほど馬の尻を打っていた。
馬は驚いて、かたわらの溝川を跳び越え、そこの畑から道へ、狂奔に狂奔をつづけてゆき、やがて大町の辻の灯に、ようやく脚をゆるめていたが、どこへ振り落したものか、道誉の姿はなく、その背はいつか空鞍だった。
年はこえて、すぐ正月がきていた。
けれど新しい年の紀号も、
元弘三年
正慶二年(北方)
と、敵味方によって称びわけられるという変則な地上では、もとより四海兄弟などと唱えて祝福し合う初春景色などはどこにもない。
ただ高時の執権邸のおくで三ヵ日には鼓の音がもれていたくらいなもの。
柳営の門にも、例年の大紋烏帽子の参賀や式事すがたは見られず、代りに、おちおち正月気分も味わえずに征途へついてゆく武者ばらのあらびた猛り声や軍馬の馬糞が若宮大路を明けくれにうずめている。
ただ例外なのは、花街の大繁昌だった。
七切通しの安手な娼家から一流どこの茶屋、白拍子の家までが、夜ごと、やけくそな武人の遊興に紅燈をただらしていた。――むかし北条氏中興の名主、時頼や泰時が、障子のツギ貼りをしたり味噌をなめて、みずからの生活を節し、士風をいましめ、済民や水治の善政に心していた時代にくらべれば、あまりに隔世の感がある。――だが、今日の鎌倉武士はそんな“世代の美徳”にはお目にかかったこともないし、またかえりみているでもない。
すでに、一陣二陣と先に立って行った友軍の戦場からは、たくさんな戦死者報が、留守の家族へ聞えて、悲涙をしぼらせていたのである。
「こんどはちがうぞ。いままでにない大戦の様相だ」
とは、いわず語らず、たれの眉をも、悲壮にしていた。――で、生きて還れぬからには、と動員をうけた兵の端までが、思いきりな欲望を花街に放逸してゆくのもぜひないことで、世相全般からいえば、ほんの一面の風でしかない。
もっと奇形なのは、征途に去る者、残る者の悲壮もよそに、折々鎌倉の夜の闇を、妖しくゆする鉦の音だった。しかも何百人が、幾組にもなって、鉦叩き踊りに狂う念仏の諸声なのだ。――去年あたりからにわかに猖獗をみせてきた例の踊る宗教――時宗の阿弥仲間へはいるものが、おそろしい勢いでふえつつある。
その鉦を、どう聞いてか。
諸家に飼われている闘犬や、鳥合ヶ原のお犬小屋の犬どもは、ここへ来て夜も昼も、けんけんと異様な啼き声を世間にこだまさせていた。
「むりもないよ」
と、犬ずきは、気にもしないのである。
「なにしろ、ここのとこ、しばらくは高時公の闘犬の御上覧もないからね」と。
道誉の私邸、佐々木の門は、鳥合ヶ原から遠くない。
彼はこの正月を、寝たっきりであった。いや年暮からのことである。
高ノ師直に、いっぱい食ったあの帰途だった。
暗い溝崖で、したたか奔馬の背から振り落され、右の肩を打ち、右額へも、大きな擦過傷を負ったうえに、念入りに風邪までひきこんでしまったのだ。
このごろ、風邪はややよく、邸内でぶらぶらしていたが、頭の繃帯はまだとれていない。
もちろん、見栄坊な彼、
「このていでは」
と、まだ柳営へも出なかった。
年暮から出仕を欠いている彼へ、柳営の高時からは、
「はやく顔をみせよ」
と、慰問の使いは度々であり、道誉はあの日の報告を、
「不審重々のまま、いずれ君前にまかり出て、つぶさに言上申しあげまする」
とだけ、つたえてある。
もちろん、高氏の仮病を、彼は弁護しようなどとは思っていない。むしろ、
「どうして、この報復を」
と、呪っていた。
高氏はおもしろい奴、行く末なにか大ばくちでも打ちそうな奴。利用すべき男で、敵にまわすべきではない。
従来は、こっちでやや男惚れの嫌いがあった。まま女讐とみたり出世讐とそねんでも、また時には恩を売って彼の歓心を買おうともし、将来の提携だけは失うまいとしていた道誉だったのである。が今は、
「敵だ」
と、はっきり彼に見切りをつけた。そして、
「しょせん、高氏とは、どっちも相容れぬものをもっているのだ。すこしでも未練をもつ方が負けになる。もう色気はもたん」
と、腹をすえたふうだった。
とはいえ、その報復を急ぐのは危険と思う。こっちの脛にもキズはある。まず高時の耳へ讒をくにも春の日永のことでいい。――として彼は今日も、舶載の支那鉢に、ひと株の福寿草を移し植え、それを卓の春蘭とならべて、みずから入れた茶を喫しながら、ひとり閑を養っていた。
姿は、風雅である。
しかし彼の心には、彼も気づかぬ本然の妄執がいつかうごいていた。春蘭のしなやかな葉も刃と刃にみえだしてくる。支那鉢の朱泥のいろまでが、高ノ師直の肌や体臭をおもわせる。
あんな大それた無礼きわまる所行は、師直一個の量見から出たものではよもあるまい。やらせたのは高氏にきまっている。――そして大蔵の足利屋敷では、あのあと家中一同で手をたたいておれをわらったものだろう。
「……よろしい、きっとこの返報は」
つい瞋恚に燃えやすい怏々の胸を、彼も意識では、ふり払おうとするのらしい。一日不愉快におくるのは一日の損だ、と彼は知っている。しんそこの風流ではなく、功利的な消閑なのだ。こんどは細ながい筥からこれも元の舶載らしい水墨画を解き出して、壁にかけ、脇息に倚って、ながめ入った。
ところへ。
召次から思いがけぬ来客の告げがあった。道誉が、
「ほう、いつ来ておったか。それやめずらしい、通せ通せ」
といった口ぶりにも、よほどな好意をもつ者にちがいなかった。
まだ頭の繃帯もとれていず、正月の客もみなことわっていたのである。そこへ通されて来たのは、一見、遠来の武者だった。まずあいさつ、以後のぶさたの詫びなどあって、客は言った。
「一昨日、ご府内に着き、昨一日は、柳営の問注所でございました。いやどうも、えらくおきびしいご質問やお調べでして」
それは隠岐ノ判官佐々木清高なのだった。何事か、幕府の召しによって、遠い島から急いで来たのらしい。
隠岐ノ判官佐々木清高は、佐々木党の一支族で、いうまでもなく、道誉は宗家佐々木であった。
で、先年の先帝島送りのさいには、清高は島から出雲の美保ヶ関までお身柄を受けとりに来ていた。そして道誉から親しく引き継ぎをうけ、また何かと帝のおとりあつかいや将来についても、ひそかな密語を交わして別れた仲だ。
それだけに、道誉は、
「なに、召しをうけて?」
と、どきとした色で。
「では、きのう一日、問注所にて、配所のお扱いにつき、おぬしは、そんなにもきびしい取調べを食ったのか」
「なんとも、身のあぶらを絞られるおもいでございました」
「ふウむ」
「先年、美保ヶ関でお引き継ぎをうけたさい、殿のお耳打ちもありましたことゆえ、島では、先帝以下、三名の典侍たちへも、ずいぶん御自由な日々をお過ごしさせておいたのです」
「むむ。あの折は、おぬしへ、確かにそう耳打ちしておいた」
「ところが」
「どうしたのか」
「事々、この鎌倉表へ、知られております。――御酒は禁断なのに、御酒をさし上げたこと。配所外への、ご歩行は一切まかりならずとあるに、ご歩行をおゆるししたのはいかなるわけか。――また、鎌倉の許可なく、余人を近づけ奉るべからずという厳令をやぶって、鰐淵寺の僧頼源や二、三の土着武士を帝にお会わせしたことまでも」
「わかっていたのか」
「ぎょッといたしました。千里の先を、鏡にかけて見るかのような、一々の質問で」
「……ははあ」
「お心当りがございますか」
「帝のおそばの典侍のひとり、小宰相ノ局は元々鎌倉のまわし者だ」
「それはこの清高も、知らぬではございません。しかし島のことです。どうあっても、鎌倉へ内報の手だてはないはずでございましたが」
「いや。待て清高」
何のつもりか、道誉はつよく首を振った。清高は自分の申し述べが、道誉の意志にそぐわぬ色を見て戸惑った。
「やめるがいい。もう従来の陰の骨折りは廃すことだ。わかったか。これからは鎌倉表の厳命どおり、帝以下をきびしく囲って、配所の守備を、かりそめにも手かげんするな」
「では。……?」
「では何だ」
「美保ヶ関でお耳打ちのことは」
「あれは取り消す」
道誉はあっさり言ってのけた。しかし彼自身にすれば、年暮いらい、考えぬいていたあげくのもので、とっさの狼狽からではない。
「そこで、問注所の方だが、申し開きはすんだのか」
「いやまだ、再三の呼び出しはまぬかれますまい」
「すててはおけぬ。わしも明日から柳営へ出仕する」
「なにとぞ、ご執権をうごかして、事なく相すみますように」
「そちばかりではない、佐々木一族の禍い、坐視できぬのは当然だ。案じるな」
道誉は言った。たのもしい宗家の族長と見えもするが、しかし清高は、何とも腹のわからないお人であるとも、ひそかに思った。
そのまま晩くまでもてなしをうけながら、清高は、何かと道誉の知恵をかりたり将来の計をさずかっていた。
「腹のわからないお人」の腹も、どうやらその帰りがけには、彼にもわかった気がしていた。すべて道誉には一貫した方針などはないのであった。時々刻々の変にしたがって行こうとする機会主義が本領でもあるらしい。
「じつをいえば、おれはどっちへも賭けていない。その腹を裏返せば、宮方へもすこし賭けているし、また、北条氏へも賭けていることになる」
臆面もなく道誉は彼に打ち明けたことだった。
「それゆえ……問注所では、あくまで北条氏へ忠節をちかい、どんな神文誓書でも書くがよい。そして隠岐へ帰ったら、配所の掟を厳にして、宮方くさい人物などは以後は一切近づけるな。……そのうちには、宮方勝つか、鎌倉が持ち直すか、天下の傾きようも次第に形勢明らかとなってくるだろう。……時によりその上でまた、寝返ってもおそくはない」
清高は、こう吹き込まれて帰ったのだ。
宗家ではあり、高時の寵臣道誉の言だ。ずいぶん腹ぐろい腹を見せられた心地ではあったものの、宗家の彼にそむいたら一ぺんに身の破滅は知れていた。さらには、このけわしい風雲の暗黒下である。いやでも宗家と運命を共にするしか生き途はないと観念するしかない。
三日ほどして、清高は問注所へ出頭を命ぜられた。
それから中二日おいて、また呼び出され、そのつど彼は、呶々、二心なき釈明にこれ努めた。
一説には。
かくて何回かの査問中、ある日、清高は幕府の重臣数名だけしかいない密室で、極秘裡に、後醍醐を暗殺し奉るべきことを、誓わせられたともあるが、しかし徴すべき史証のないことだから、そのへんの機微はたれにも臆測の域を出られぬものというしかない。
とまれ、やがて連署の名で、彼は嫌疑をとかれ、同時に、
「帰国してよい」
との、ゆるしをうけた。
これにはもとより、あの日から柳営へ出仕していた道誉が、陰で高時をうごかしていた力が大きくものをいっていたのはいうまでもないことだろう。――彼はさっそく道誉の私邸へ、その報告と礼に出向いた。
けれど道誉はいなかった。
いらい道誉はまた昼夜、柳営に詰切りだとのことである。思うに、いよいよ時勢は大きなわかれ目、今は高時のそばを寸分も離れまいと近侍しているのだろうか。そこで、ぜひなく、
「清高、明日、帰国仕ります。先夜、おさずけの御方針など、充分、心得おきましたゆえ、ただ、よろしくお聞え上げを」
とだけ、家中へ伝言をたのんで、鎌倉を離れ去った。
隠岐への道は、京から播磨、美作を越えて山陰へ出るのが順路だが、すでに大津以西は、東国勢の軍馬でいたるところ大変だと聞き、清高は近江から曲がって北陸路へ出た。
そして敦賀から便船で、出雲美保ヶ関へゆき、そこで待っていた自家の船便で、やがて隠岐の国府へ帰ったのが、はや二月近くであった。
大山(伯耆の)
お山から
隠岐の国みれば
島が四島に
大満寺
もちろん、これは現在、島で唄われている民謡で、元弘頃の古い謡ではない。お山から
隠岐の国みれば
島が四島に
大満寺
「古事記」だの「延喜式」などの古いものによると、隠岐は上代に、またの名を、
天之忍許呂島
と、よばれ、
京ヲ去ル九百一十里
ともいわれていた。
そのころの一里は後世の三十六町でなく、一里は六町単位であったから、文字どおり本土からは“千里絶海”の隔離をおぼえさせられたことであろう。そしてここへ流されてしまっては、ふたたび帰るにも帰れぬ虚無にとらわれたことでもあろう。――現に、承久の後鳥羽法皇は、北条義時にやぶれて、この島へ流され、海士郡の配所に十八年間をむなしく囚われのまま送って、ついにここで崩ぜられており、その法皇が詠まれたという、
我れこそは
にひ島守よ
おきの海の
あらき波風
心して吹け
の、悲調な一首も島人の胸にまだ生々しくのこっていた。にひ島守よ
おきの海の
あらき波風
心して吹け
ことし元弘三年は、その承久からちょうど百十年目。
なんたる循環か。
またも同じ運命の、同じお人の生れ代りみたいな“流人の帝”を、島は去年から、配所に迎えていたのである。
その後醍醐以下、侍者の公卿や典侍らの身をあずかってから、すでに早や一年ちかくにはなるが、隠岐ノ判官清高の立場は、一日も心のやすまるひまはなかった。
こんども――
鎌倉の召喚をからくもすませて、出雲から海上まる一日を揺られて来た彼の船は、やっといま、島後の八尾川ぐちへ入って、島第一の高峰、大満寺山を夕空に見つつ帆ぐるまの綱を解いていたが、
「さて」
と、清高のおもてには、どこにもほっとした容子はない。長い旅から帰って、久しぶり自領の灯を見たくつろぎもあるはずなのに、それとは逆な、
「これからだ! ……。むずかしいのは」
独り呟いているかのような硬めた眉の翳だった。
船は八尾川の西へ着く。
古い国府の跡である。暗い潮の香に吹かれながら、岸には無数の松明が出迎えていた。
清高の家ノ子郎党たちであろう。やがて彼の影は、それらの人々にかこまれた馬上となって、近くの小高い山上の館へ入っていた。
その甲ノ尾の館は、祖先義清いらい、一世紀余も住み古してきた代々の家だった。北の彼方に、国分寺の址がある。――そして配所の帝――後醍醐の行宮には、その国分寺の一部を修理して宛て、外には柵をまわし、警固には、清高の部下を主力に、地方(本土)武士も加えて、おこたりない監視の下においてあった。――清高のいる甲ノ尾の居室から、赤い篝が見えもするほど、それは近い距離なのだった。
とにかく清高の立場は、生やさしいものでなく、その上にも新たなむずかしさを抱いて帰ったことだった。
「隠岐殿にはまだ、帝のご配所へもお顔出しもしておらんそうな」
「なにか重い幕命をうけて来られたのではないか?」
島全体は、さっそく危惧や不安の眼で彼をとりまいていた。
鎌倉へ喚ばれたからには、何か重大な密命があったにちがいない、とするのが島一般の観測だった。――事実、周囲も、
「お疲れか」
「お顔の色もひどく冴えぬ」
と、いっている。
ほんらいなら、帰島と共に、国分寺の配所へは、さっそくにも出向いて、
帝にはお変りないか。
侍座の公卿も。
また、典侍たちも。
と自身、警固の状なども任務上、見廻っておくべきであり、清高もそれを知らぬわけはない。しかし知りつつ、それをおこたって、甲ノ尾にひきこもっていたのだから、島じゅうの危惧臆測が昂まったのも当然だった。
ここに、彼の妻は浮橋といって、三人の子もあった。
浮橋は、鎌倉から帰ってからの良人が、人がかわったように無口になって、とじこもっているのを怪しんで、ある折、
「さし出がましゅうございますが、なにか重いお悩みでも、お持ち帰りでございましたか」
と、そっと良人へ訊ねた。
「ようきいてくれた。……じつはの、浮橋」
「何ぞ家の浮沈にでもかかわるような?」
「弱った。どうしてよいか」
「仰っしゃってくださいませ。女の身には、何もできませぬが、子たちの上や、家のことならば」
妻の真剣さをみると、清高は初めて、多年つれそいながらまだ知らなかった、べつな妻を見いだした思いで、
「……こうなのだ。じつは」
と、鎌倉表における宗家の道誉の豹変や、幕命の一端などを、かたりかけ、
「それだけなら、まだよいが」
と、あとは妻へも洩らし切れぬ秘事かのように口ごもった。
が、もとより妻として、もう聞きのがすはずはない。浮橋の涙につめよられて、清高は、
「では、はなすが、ゆめ他言はならぬぞ」
と、ついその一事も、声をひそめて打ち明けていた。
「……ま、そ、そんなおそれ多いことを」
浮橋は、まっ青になって、わなないた。そのふるえを、後悔して眺めるように、小心な清高は、こわい顔になって言った。
「まあ仕舞いまで聞くがいい。――もし首尾よく果せば、後日、恩賞の領土を加えて、六波羅の一員にも列せしめよう、というありがたいご内約だが……しかし、それにそむけば、やがてわが家の没落は知れている」
「……で、あなたのお覚悟はどうなのでございますか」
「迷うのだ。妻子をみると」
「いいえ」彼女はさけんだ。
「そんな出世を、私たちは望んではおりません。ただ、あなたがあなたらしく、出雲源氏の誇りさえお忘れくださらなければ」
「なに」
清高は、妻の涙を憐れんだ。
「わしに、出雲源氏のほこりを持てというのか」
「ええ」
「そんなものを力に、そなたは生きてゆけるのか。いやさ、生きてゆける今の時勢と甘くみているのか」
「でも、それしかないではございませんか」
浮橋も必死であった。かたく自分の信に拠って、良人の迷いには共に迷おうなどともしない。
この一途さからして、清高には「妻はやはり古い女」と、ながめられた。狭い島内にいて、本土のことは何も知らないのだから無理はないと思われるものの――彼は後悔した――男の世界の重大な機密などを、やはり、打ち明けるべきではなかった。
“名”だの、“武門のほこり”のとは、かつての平家の公達や源氏勃興の当初の人々が謡っていた生きがいに過ぎず、近時はまったく、世情がちがう。
名誉とは、立身出世のことである。
生命と取り換えにするほどなものではない。それこそが、武門のすたれだと、かなしむような声すらも、近ごろ、武士のあいだにさえ聞かれなくなったのだ。
清高などは、それと割りきってもいない島武士だったが、たまたま京や鎌倉へ出てみては、滔々たる一般の風潮に驚きをうけて「世の中は変った」と、行くたびに考えさせられ「こんなことでは、いつか自分なども時勢から振り捨てられるぞ」と、いつも恟々たる時代不安を抱いては帰島するのがつねだった。
だから、こんどの鎌倉召喚のばあいでも、
「いかにして身を保つか」
また、
「いかにこのさい、立身の緒をつかむか」
が、彼の胸いっぱいだったので、その点からいえば、幕府の或る密命も、宗家道誉の暗示的な言も、彼には好都合としていいはずなものだった。
ところが、島の現状ではそうもいかない。
かんたんに、それをよろこべない複雑なものが、帝の配所をめぐって、すでに出来上っていたのである。――なぜといえば、従来、清高は、宗家のさしがねに従って、帝の周囲をきわめて自由にまかせてきたのだ。で、しぜん島の配所には、かなり顕著な宮方の一勢力がとりまいており、俄に、それらの人物を駆逐するわけにゆかない実状にある。かりに力をもって、しようとすれば、血をみるにきまっていた。
「それも一ト騒動だし?」
と、彼は悩む。また幕府からうけた“密室の秘命”にしても、それの実行を思うと、肌に粟が生じてくる。
「やむなきばあいには、先帝を弑逆し奉ることもぜひがない。四民のためだ。天下を静謐に帰するためにはだ。それの手段は、そちの分別にまかせておく」
鎌倉の枢機でかれたその一言が、いまでも彼には、鉛を呑んで帰ったように、心を重くしていたのだった。
しかも、古い型の女の妻は、それには絶対な反対をいっている。――その古い美徳につくべきか、新しい考え方で行くべきか、隠岐ノ判官清高はいま、三人の子の父、年も四十幾つとなって、踏み迷った。
能登ノ介清秋は、その日、甥の判官清高に会うため、隠岐の島前から島後へ、舟で渡っていた。
隠岐ノ島は大別二つにわかれている。
本土寄りの南の島嶼が“島前”で、北の陸地を“島後”とよび、そのあいだは、わずか六海里でしかない。
「もう来たか」
居眠っていた能登ノ介は、すぐ舟から跳んで上がり、都万の柵へかかっていた。
都万は島後の南端にある小さな港だが、ここばかりでなく、およそ舟出入りのある浦には、番所がもうけられていた。――帝の配所と外界との遮断のためであるのはいうまでもない。
「ご苦労だな」
彼の声と知った番卒たちは、びっくりして小屋から飛びだしてくるなり礼をそろえて言った。
「これは、別府様(彼の別称)でございますか。いずれへお越しで」
「甲ノ尾へ行くのだ。わずか二里余でしかないが、この間の大雪が、まだ途中に残っているそうな。馬を一頭出してくれい」
「甲ノ尾の館へおいでなされますか」
「おおよ、なぜ訊く」
「甲ノ尾からも、これへお先ぶれがございましたが」
「なんと申して」
「判官の殿が、島前の別府へおわたりあるゆえ、舟手の用意をいたしておけと」
「ほ。相違ないのか」
「ご覧じませ。あれにお船座も設えて、お待ちしおりますところで」
「そうか。それではここでお館を待つとしようか」
番所へ入って、彼はそこの大きな土間炉へ、さらに薪をくべさせた。
島前の別府にいるので、島では彼のことを「別府どの」ともよんでいる。遠いむかしには、島後の国府の支庁があったところから起った地名だが、いまでは守護代清高の甲ノ尾の出先代官所の称がその「別府」で通っていた。
一刻ほど待ったろうか。
やがて、その甲ノ尾の判官清高が、馬でこれへくるのがみえた。わざわざ都万の柵まで来て、舟で行こうとしたことや、目立つほどな従者も連れていないのを見ても、よほど、どこかに気がねしている微行らしくおもわれた。
「やあ、おやかた」
「おう、別府殿か。どうしてこれに」
どっちからも訪ねようとして、ここで会ったのは、偶然でないとして、二人はすぐ舟の方へあるき出した。
期せずして、はなしは秘中の秘にわたるのをお互いに意識し、そこに支度してあった舟を選んだものだった。
「水夫ども。しばらく陸へあがっておれ。用談はここですみそうだ。そちたちは、わしの呼ぶまで、番所の小屋で休息しているがいい」
小者も水夫も追いはらって、清高は叔父とただふたりで、舟のうちに向い合った。
「別府殿、ここなら安心、なんでも話せる。――ところで、きのう妻の使いが、別府のご辺の許へ、何か訴えては行かなかったか?」
清高の小心な善良さにひきかえて、叔父の能登ノ介は、ひと癖もふた癖もありげな男で、島武士ながら世事にも抜からぬ風貌の持主だった。
きのう彼はその清高の室から「――良人の大事について、ぜひ会って話したい」との使いをうけていたし、清高の帰島にたいする臆測さまざまな噂も耳にはしていたのである。
が、内容については、何もまだ詳しいことは知っていない。――清高の口からいま、打ち明けられて、初めて、
「ふうむ」
と、大きく唸いたものだった。とたんに貪欲な眼いろもそれに伴って、
「では、奥方の御心痛とやらも、そのことでございましたか」
と、甥の二の句もまたず、
「それこそ、時が与えてくれた幸運だ。つかまねば自然の命にそむく。いや、いたさぬことには、鎌倉殿へも相すむまい」
と、大乗り気で励ました。
「しかし、妻は」
と清高が、その妻の反対している家庭内の苦悩をはなすと、能登ノ介はまた、わざとのように、甥の気弱さを、あざわらった。
「奥方が御同意なきはむりもない。かかる大事を女に計れば、一応どんな女でも、おののき厭うのはあたりまえだ。……しかし男があぶない望みも首尾よくしとげて、出世の栄に会う日ともなれば、また他愛ない者でもおざる。まかせられい、奥方のほうは、この能登に」
彼は、骨の髄からの武辺でまた功利一方の人間らしい。元来、鎌倉幕府があることは知っても、朝廷などは念頭にもない者だったとみえる。清高の抱いている畏れとか怯みなどはまったく持っていなかった。
むしろ彼から小首をかしげて、
「……が、むずかしい」
と言い出したのは、その鎌倉の密命に従って、後醍醐を亡いたてまつるにせよ、帝の周囲も、つねに敵地に在る細心な警戒をおこたらないことでもあるし、その手段にしても容易ならぬ思いが先立つことだった。
帝は、いわば配所の孤帝。
ふたりの公卿と三名の妃は、かしずいているが、まったくの無力である。遠い幕府の眼からはなおそう観えているだろう。けれど、じっさいには、警固の中に加わっている地方(本土)武士のうちにも、また、いつか島内へ流れこんで来ている外者の山伏や僧などの宮方臭い人物までも、暗に配所をめぐって、帝を守る衛星の形をなしているのだった。
それは、知りながらも、宗家道誉の命で、きのうまでは、見すごして来たのであった。しかし、こうなれば、それが大きな邪魔になる。
「おやかた、判官の殿」
「…………」
「いかがなされた。まだお迷いでおざりますか」
「いや、もう腹はきめた。迷ってはおらん。したが、あとの策に当惑するのだ」
「何の取り越し苦労を。これより能登も甲ノ尾へ御同道いたしましょう。諸事の段取りは、手前の胸におまかせおきを」
二人は船を出た。出るとすぐ大満寺山の雲が異様に目についた。
小雨であった。島の二月初めはまだ寒くて、春雨とも言いがたい。
そのかみの国分寺の址はおもかげもなく荒れ廃れていた。その一部は帝の配所として改修されてはあるものの、雨の日などは、元の金堂の内陣も、雨漏りの音が不気味にひびいて、廊は傘をささねばあるけないばかりであった。
そこをいま、裳を片手からげに、抜けるほど白い花顔の人が、素足で静かにどこかへ消えて行った。あたりの蕭条とほのぐらい伽藍のこと、なにかそれは妖しの物と見えなくもない対照だった。
「千種どの」
女は、はるか大屋根の端の廊をまがって、一房のうちへ、こう呼んでいた。
帝の寵妃、三位ノ廉子なのである。すぐ内からは、侍者の千種忠顕が、侍者ノ間から答えて出て来た。しかしその後ろに、商人風な男が、こちらへ背を向けたまま、室内で、もう一名の行房とはなしこんでいるのをチラと見、
「あれは?」
と、彼女は要心ぶかく、すぐ口をつぐんだ。
忠顕は言った。
「ご心配な者ではございません」
廉子は、いくらか警戒の眉を解いて。
「……では、みかどの綸旨をいただきたいと申して来た岩松とやらの使いですか」
「そうです。岩松経家の直書をもって、はるか四国の阿波からこれへ、ことばに絶する苦労をして、昨夜辿りついた者でござりまする」
「ならばよいが、ひょっと、番の武士にでも知られたら、一大事でしょうに」
「いえ。それも今は、心の知れている成田小三郎と名和悪四郎が柵の当番にござりますゆえ、夕の交代時までは、まず懸念はありません。……してなにか、みかどの御用でも」
「お薬湯が切れたのです。いつぞや土屋が送ってくれた薬種のうちの黄袋はもうありませぬか」
「あれはさしあげただけですが、もし何でしたら、成田に申しつけて、甲ノ尾の館へ求めにやらせましょうか」
「いえ、余人の手をへたお薬などは、めったにお口にもなされませぬ。……それに、昨夜はしとどなお汗をかいて、お熱はさがっておられますし」
それでか。廉子も寝不足のような皮膚をしていた。
まだ二月の寒さなのに、後醍醐にはさき頃、この破れ屋根の内陣にすわって、二七日の祈願をこめられ、そのムリな勤行のため、おかぜを引きこんだものだった。そんなときの阿野廉子は、たとえば下世話でいう世話女房ぶりの実意を帝の看病につくして、ほかの二人の妃にも一切、手をかけさせないほどだった。
「そのご容態とあれば、一両日中には、岩松の使いの儀も、ご奏聞に入れられましょうか」
「吉事ですか」
「もとより宮方の吉報です」
「ならば、ご気分を伺って、わらわからそっと、ご内意を拝してみましょう。あすにでも」
彼女が立ち去るとすぐ、彼方の柵門の方から、一人の若い警固武者が、こっちへ駈けて来るのが見える。
「成田ではないか。あわただしげに何事だ」
「千種さま、ご要心を」
柵の武士、成田小三郎はこうまず告げた。
「ただいま甲ノ尾から、隠岐ノ判官殿がこれに見えますぞ」
「清高が」
「鎌倉からは、とうに帰っていたものですが」
「いらい顔も見せぬ彼が、前ぶれもなく?」
「何かただならぬ幕命をうけて帰ったらしいとのこと。それに別府の能登ノ介清秋も、甲ノ尾の館にあって、寄々一族の密議があったとも聞いています。ともあれ、お気をつけて」
「こころえた」
忠顕は飛びこむように、後ろの侍者の間へ、さっとかくれた。
成田小三郎というのは、地方(本土)からここの警固役に加わってきた島外武士のひとりなのだが、鎌倉の目的とは逆に、いつか後醍醐の侍者に説かれて、ひそかに、宮方への同心をちかっていた若者だった。
もっとも、そうした武士は彼だけではない。――伯耆から来た名和悪四郎泰長、出雲からきた富士名二郎義綱。また土着の島武士では、近藤弥四郎、村上六郎など、かなりな数が、みな配所に気脈をつうじて、
「いつかは」
と、帝の脱島の機をうかがい合い、しかもその機会の容易につかめぬことを、すでに久しい思いでいたのである。
ところが、つい昨夜。
年に二度ほど島へ交易にくる長門船の一商人が、村上六郎の手引きで、侍者の公卿ふたりへ、一書を手渡した。
密書には“唐梅”の朱印がおしてあった。
これは阿波の小松島から勝浦ノ庄へかけて蟠踞している岩松経家という豪族にして海賊でもある家の定紋なのである。つまりは海賊の印であった。
忠顕は故あって(後に説くが)その経家とは一、二度の面識がある。
「信じるに足る男だ」
として、忠顕はその書面を疑わなかった。しかも商人に化けてはるばるこれまで来た者は、経家の実弟吉致でもあったから、一刻もはやく、この吉報を帝に奏したいとおもったが、折ふし帝はその前々日からの発熱だった。で、ぜひなく侍者ノ間に、潜めておいたものだった。
「岩松」
部屋へ入るやいな、
「気のどくだが、床下へかくれてくれ。いまこれへ、隠岐ノ判官が来るとの知らせだ。見つかっては一大事ぞ」
彼の慌てぶりに、
「それは」
と、一条行房も色をなして、座敷の菅むしろを上げ、床板をめくって、岩松吉致のからだを押しこむようにかくした。
もうどこかには、人声がしていた。出てみると、柵門に馬をおき、雨中を濡れてきた隠岐ノ清高が、蓑笠を兵にあずけて、ただ一人、
「御侍者、清高でござる。鎌倉より立ち帰り、時おくれましたが、ごあいさつに罷り出ました」
と、階を上った所に立って言っていた。
ここでは、清高は絶対な支配力をもっている。帝のお座所以外ならどこへでも、いつなんどきでも、ずかずか通って来るだけの職権があるし、またいつもそうしていた。
「お。いつ鎌倉からお帰りか」
忠顕と行房とは、彼を迎えながら、いま知ったように、わざと言った。
「さればちと旅疲れで、帰島以来、引き籠っておりました。きけばお上にも御不例とか」
「いや、お熱もさがって、今日はややおよろしい方なのです」
「おかぜですな」
清高は一歩、本堂のうちへ入って、坐る所をさがすかのように見まわした。大床のどこもかしこも、雨漏りのしずくであったが、
「ちと、折入って」
と、あらたまって彼が座をとったので、ふたりも床の冷えを忍んで坐った。
「余の儀でもありませんが、じつはこの清高、鎌倉へ召喚ばれて、このたび、きついご叱責をうけて帰りました」
「なんぞ、職務上の儀で」
「そうです。従来、よくおわかりでもあろうが、配所のご起居については、清高一存にて、ずいぶんご自由にと、掟を外して、お気ままにおさせ申してまいりました。……しかるに」
「なにか?」
「以てのほかな怠慢なりと、数日にわたって、問注所の取調べをうけ、あわやこの清高の職も領も褫奪されんばかりな詰責でございましてな」
「ほ。では現状より厳しくせいとの厳命でも?」
「どうもここの朝夕を、内々、鎌倉へ通じていた者があったに相違ありません」
「…………」
忠顕と行房は、思わず顔を見合せた。思い当りがなくもないからであった。
「ついては……」と、清高はそこで、重々しく威儀づくったが、ごくと唾を呑む小心な体の硬さにもなりながら――「幕命でござれば」
と言って、また言い閊えた。
「幕命とは、何事を」
さてはと、ふたりも、ひそかに抱いていた危惧を眉に反撥してかたくなった。
「まことに、お痛わしくは存じるが、お上の御快気次第、ここの御所をよそへお移し申しあげることになろう。一そう外部との接触を断ち、もそっと孤立した警固によい地形におけとの厳命でござりますれば」
どこ? と訊いても、清高はかたらなかった。
叔父能登ノ介から出た策だったのはいうまでもなかろう。帝の配所がこの国分寺にあっては、手の下しようがない。
ここは島第一の港の西郷や八尾川にも沿っていて、出船入船、あらゆる雑人の耳目に近すぎる。のみならず、あきらかな宮方分子が、すでに配所とむすばれている形だ。どうしても、それらの者と、帝とのあいだを、切り離しておく必要がある。
配所がえは、古来いくらもある例で、土地の支配者の権限に委せられているし、かつは鎌倉の示唆にも「その策と手段は島の実状にてらして、臨機応変におこなえ」ともあったので、能登ノ介が清高にすすめて、この挙に出たものかとおもわれる。
清高はその帰りに、柵門わきの警固所へも立寄って、
「このたび、帝の御所を、島内のべつな地へお移し申すによって、ここの警固所も一応解体する」
と、諸武士へ宣した。
すべては、鎌倉殿の命であると、彼らの動揺を見て、前提しながら、
「ついては、地方武士の面々は、このさい加役を解かれるゆえ、三日以内に島外へ立ち退き、各の在所へ帰国するがいい」
と、その解任の簿を、警固頭の手へあずけて、甲ノ尾へひきあげた。
名簿の中には、
成田小三郎
富士名ノ二郎義綱
名和悪四郎泰長
など、日ごろからたれにもそれと分っていた宮方色の警士十幾人の名がほとんど洩れなくあげられていた。
「すわ、何かの前ぶれだぞ」
と、ここの動揺はその直後からあらわなものがあった。
といっても、常備二百人以上はいる警兵のあらましは、清高の家来であり、また地方武士にしろその十中八九までは、鎌倉の鼻息をおそれる者でしかない。そこで彼らは次の日、近くの大満寺山へのぼって、なんの気がねもない青天井の下で、天狗の集会のような車座をかこんでいた。
「どうする?」
一人がまずいえば、
「どうも仕方があるまい」
と、分別顔はなだめにかかる。
「島を離れぬといってみても、公命をたてにされては、論にならぬし、暴れてみても、これしきの同志では歯がたたん」
「だが、みすみす、みかどの御一命もあやぶまれるのに」
「いや、御座所をほかへ移しても、よも臣として、帝のおいのちまでを窺うようなことはしまい」
「わかるものか」
べつな声は怒っていう。
「吉野、金剛、中国、そのほか各地は大動乱だと聞えている。もし一朝、鎌倉の旗いろが悪いとなったら、やぶれかぶれの鎌倉はどんな暴でもやりかねん。配所がえは、その準備であろ。まずおれたちを配所から遠ざけておき、一令いつでも弑逆したてまつるための支度であるまいか」
「それはあり得る」
分別派もそれはみとめて。
「したが、ここで無謀なまねをしたら、よい口実を敵に与えることになろう。やはりおれどもは一応、おとなしく島を去って、外部から帝の脱島の計を一日も早くすすめることだ。あとは運を天にまかす。それしかない」
集会のあと、彼らは玉若酢明神のまえに揃って祈誓をこめ、やがてちりぢり麓へ下りて行った。――そして翌朝にはもう甲ノ尾から差廻しの一船に乗りこみ、解任の簿名と頭かずの点検をうけた後、本土へ向ってその一帆は還り去った。
しかし、大満寺山の集会でも、さいごまで「おれは島を離れぬ。帝がお還りの日でなくばおれも還らん」と、いい張っていた者もある。
成田小三郎、名和悪四郎などは、その組だった。彼らは一たん本土へ送り返されてもまた艀ででも島へ舞いもどっていたかもしれない。――中でひとり富士名義綱だけは、或る一策をもって、出雲の守護、塩冶高貞の許へ奔って行った。
一方。帝の左右の人々は、
「お上には、ご不例である。ご本復を仰がぬうちは」
と、一日のばしに、ここの配所がえを拒否していた。
夜々日々が猜疑の中の不安だった。たのみとしている警士中の宮方武士が、ことごとく島外へ追いやられた一事など、わけて行宮の内輪には手足をもがれたような衝撃だったにちがいない。
「ご油断はなりませぬ」
妃たちは、風の音にもつい恟々と眸をすます。
とくに帝のお口にされる朝夕の供御には、いちばい細かい心をつかった。妃の廉子は配所仕えの童僕、金若という者へ、いちいち「これを喰べてごらん」と、毒味をさせてからでないと、帝へお膳をすすめなかった。
が、後醍醐は声なく笑って。
「お汝らは、なぜ痩せるかとおもっていたが、あまり心を労しすぎるせいだったの。食はたのしんで喰べねば意味がない。食はすべて天禄だ。よも碗の中にまで北条は居るまい」
そんな戯れさえいったが、
「しかし、忠顕」
「はい」
「配所がえはぜひもないが、次の配所の地を明示せぬ法があろうか。北条の手下をよんで、問いただしてみい」
帝は一切、ここの支配者をさして、判官とも清高ともよばなかった。「北条の手下」或いは単に「北条北条」とよんでおられる。
すると、日ならぬうち、清高の甲ノ尾からそれの指示があった。すなわち行宮遷しの先は、
島内の島前美田郷別府
とのことだった。
同時に、
「ここ海上も春凪に見えますれば、明朝、お輿立ちの案内を差向け申す。相違なく、お支度おきを」
と、もう猶予はゆるさんとする沙汰でもあった。
その夕、一条行房は、
「動顛の余りつい忘れていた。もしやいつもの場所に」
と、行宮から北の方の大きな神木の洞ろをのぞいてみた。外部の宮方との連絡にはいつもここを使っていたからである。果たせるかな島外へ去った成田、富士名、名和たち連名の一書がその中にかくしてあった。
それによって、彼らの二心ない結束がくずれていないことはまず分った。
とくに富士名義綱は、
「これを機会に、出雲簸川城の塩冶殿を説き伏せ、きっと御還幸のはかりごとをめぐらしますれば、期して吉報をおまちください」
と、たのもしげな意図をそれに残していた。
あとで行房からそのことをお耳に入れると、帝はおん眉をひそめて、
「あぶないぞ、それは」
と、かえって御懸念のようだった。
坐ながらに後醍醐は、本土のたいがいなことは、ここで観ておられた。出雲の守護塩冶判官は、たよりにもしておられないお口ぶりなのである。
それにひきかえ、先ごろ四国の阿波からここへ来ていた海賊岩松の使者へは、大きな御期待のかけようで、その宵も。
「岩松の密使をここへ呼べ。もそっと詳しゅう彼の献言をきき、また、わが旨も充分に申しふくめておかねばならん。直々の面語も苦しゅうはないぞ」
密使の岩松吉致は、その晩、帝座に召されておそくまでさまざまな下問にこたえていた。
帝座といっても、廃寺の一院を補修したにすぎない行宮だ。それもこよいかぎりよそへ移される沙汰なので、妃たちは席にも見えなかった。
御簾もあるわけではない。
吉致は閾一ツへだてた次室に平伏し、帝との間には、千種忠顕と一条行房がひかえていた。
「若いの」
帝は吉致を見た初めに仰っしゃった。綸旨をさずけたり、じきじき、おん大事をかたるにはやや心もとないお気もちであったのかもしれなかった。
で、行房がたずねた。
「何歳に相なるのか」
吉致はそれに答えて、自分は岩松家の三男で二十五歳、長兄経家は三十三歳ですと言い。
「なおその間に、次男の兼正がおりますが、これは母系の一族、上野ノ国の新田義貞殿の領内、岩松と申す地に久しく在住でございまする」
帝はすぐ、お耳をとめ。
「岩松は、新田一族なのか」
「さればで」
と、忠顕がいいたした。
「新田のみならず、足利とも、浅からぬ家系でございまする」
「新田、足利は隣国だったな」
「はい。――ひとくちに申せば、岩松家の祖先時兼は、足利家六世の男ですが、父の勘気をうけて、新田義重の食客となり、義重のむすめ来王御前をめとって領下の岩松に住みました」
「それが岩松の祖か」
「は」
「四国の阿波を領したわけは」
「その時兼が、承久ノ乱でうけた恩賞の地の由ですが、いらい本地よりは、阿波に住みついて、同所の仁和寺領や石清水八幡領の“領所預かり”などをしながら、しだいに海賊としての大きな地盤を、小松島ノ浦や勝浦ノ庄にかためてまいったものらしゅうござりまする」
「忠顕は詳しいようだが、当主岩松経家とは、前々から知るところがあったのか」
「石清水八幡の宮司、田中陶清をつうじて、都ではいくどかの面識もありまして」
ここまで聞くと、後醍醐も初めて「そうか」と大きくうなずかれ、お心もゆるして来た風だった。
石清水八幡の宮司田中陶清の後妻は、日野資朝のむすめなのだ。そしてかつての“文談会”の一員でもあり、帝のお耳にもしばしば入っていた者である。
「ようわかった」
帝はそこで。
「もひとつ、たずねるが、その海賊岩松経家が、これへ使いをよこした動機は何か。ただ宮方への味方を誓ってまいっただけのことか」
「いえ」
と、吉致が直答した。
「それだけではございませぬ。……じつは去年いらいの鎌倉の動員にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略に参加しておりまする」
「む……。なるほど」
「その途次、兄経家も阿波を出て、ひそかに義貞殿と某所におちあい、ふかくお諜し合ってのすえ、初めて、てまえにお使い役が下ったような次第でございまする」
一穂の灯は、いつか有明けめいている。
帝はすでに御寝だった。
しかし岩松吉致は、じきじきの拝謁をえたうえに、望みの綸旨もたまわって、こんどの密使の役目は十二分といっていいほどすませていた。
で、あとのひそひそ声は、
「気をつけてまいれよ」
「綸旨を人手に奪われるな」
侍者のふたりの注意やら、別れのことばなどだった。
ほどなく。行宮の北の藪垣を躍りこえて、まだ暗い海の方へむかって、ひた走りに消え去った人影がある。吉致だったのはいうまでもない。
行宮のうちは、それからが眠りの夜だった。でもかなりな時間は眠られたようである。やがて柵門の方に人馬の喧噪が聞かれだしたころには、陽も高かった。そして帝以下の妃たちは、朝の身粧いからすべてをすませ、
「いつでも」
と、次の運命の所作にしばしを委せるかのように迎えを待っていた。
この日、清高は晴れいでたちで、軍兵二百余人をつれ、やがて階下へ来て、
「よい日です。あちらには、万端のご用意もできておりますれば、ご心配なく、おわたましを願いまする」
と、御立座をうながした。
帝には、あじろ輿を。
また、三名の妃には、貧しげな板輿が与えられ、侍者二人は、馬の背だった。
八尾川ぞいに、西郷の港へと思いのほか、軍兵の列は、島奥の原田の方へえんえんと流れて行った。――港の人目をわざと避けたものにちがいない。――歌木の山地を迂回してやがて淋しい島南の磯へ出た。
都万の漁村だった。
船手の勢が、船をそろえて待っていた。いささかの休息さえない。それぞれ、船へ追い乗せられた。そして島前の三つの島影へさして、六海里の海上を帆が鳴りはためく。
たそがれ頃、帝はせまい島と島の両ぎしを船のうちから眺められた。はや島前へ着いたのである。かねて聞く後鳥羽法皇の崩られた遺跡はこのへんと思われるにつけ、お心ぼそさは一トしおだったにちがいない。――それというのは、渡島いらい、おやつれもない、むしろ埋め火となった覇気一ぱいな、ご健康ぶりでさえあったが、都万の漁村からこっちは、妃たちとも侍者とも船をべつにされ、海上は後醍醐おひとりであったからだ。
そして、その御船の艫には、見るからにひとくせありげな男が腰をかけていた。男は大太刀を佩から解き、杖のようにそれへ肩を凭せかけている。
ときおり船尻の幕が舞いあがると、帝の御座からその男のすがたが見えた。また男のけわしい顔も、きまって、その無作法な眼でジロと帝の御気配をねめすえているのであった。
「……?」
帝のお肌はなにかぞくとするようなものを男から感じた。殺気という眼はあれではないか。
「わしに害意をもっておるな」
皮膚が教える。
まもなく、別府へつくと、すぐお分りになったことだが、この男こそ、能登ノ介清秋であったのだ。
後醍醐はゆうべ初めて、独り寝の夜を過ごされた。
国分寺の行宮には、妃のうちのたれかはきっと御寝に侍っていたが、ゆうべ荒磯の風のまッ暗なうちを、鬼火のような松明にみちびかれてきたこの別府の黒木のお小屋では、妃も侍者も、どこかべつな所へおかれたのだ。
「これもよいな」
そのため、夜すがら眠りにつけないような帝でもない。
朝の千鳥に目をさまされた瞼も晴れておいでだった。久しく陽に会わない幽居なので龍顔の青白いのはぜひもない。髯も漆黒な若さをほこり、お唇は紅を塗ったようである。
粗末な後架を出て、濡れ縁の端の掛樋へ寄って行かれると十四、五歳の童僕が、下にいて、
「お顔を洗い召されるか」
と、そこの竹簀の子へ盥や手拭を供えて、うずくまった。
「ほ。金若だの」
「はい」
「そちだけは以前の所から、配所仕えとして、これへついて来たか」
「はい」
「典侍らは、昨夜、どこで眠ったの?」
「ぞんじませぬ」
「侍者どもは」
「知りません」
「何事も答えてはならんと、ここの代官、能登ノ介清秋から、かたくいわれておるか」
「はい」
帝は苦笑される。
朝の清掃から、お食事をはこんでくるのも、すべてこの小僕ひとりがするのであった。
また、それで事足るほどな狭さなのだ。ゆうべはよく分らなかったが、今朝あらためて、あたりの景やら室内のさまを御覧あるに、これはまったく急拵えな丸木づくりのほっ建て小屋といっていい。
間は、四間ほどあるが、荒壁に菅むしろを敷いたのみで、風雨にそなえ、蔀と遣戸があるだけのもの。世捨て人の庵でも、もすこし何かしらの風雅はある。
「いや有り余る風流よ」
帝は、孤独をもてあそぶかのように、自分を自分の外に観た。
するとここはすばらしいともおもわれた。別府とよぶ鄙びた港の屋根から半島形に伸びている突端の松ばかりな丘の上である。松越しに見える向い島にも人は住むのか。南の高い山はかねて聞いていた焼火山というのであろう。いまは舟歌もない、千鳥の声もしない。波濤と松風とが、交互に廂を吹きめぐっている。
「……どうかなる」
自暴でも滅失でもない。易学の易理が腹に据っていたのだ。従来、幾多の禅家や智識に会って、究極にまで自己を小づき廻してみたりしたことも、いまとなれば、無形に役だっている気がされなくもない。きのうの船中で見たあの殺伐な眼の持ち主にしろ、一瞬はぞっとしたが、しかし今朝はそれほどでもない。「――あれも人間だろうに」と、心のすみでかたづけていた。
しかし、それからまもないことだった。
そのいやな眼の持ち主が、足音をしのばせ、そして帝の御室を木蔭から窺っているのにふと気がつかれたときは、やはり肌そのものが無意識に、きのうと同様、帝を再びぎくとさせていた。
「たれだっ」
と、帝は物蔭の男へ不意にお声をかけた。
いったいに日頃も音吐の高い声の質が、体じゅうから意識的に発したものだけに、
「あっ」
木蔭の男は、恟みを禁じえなかったらしく、へたっと地上にかがまったばかりでなく、帝の眼光にもひしがれて、おもわず平伏してしまった。
「北条の手下だの。もそっと前へすすみ出い」
「……は」
「犬好きな北条の手下は、みな犬真似が上手よの。なぜ前へ出て来んか」
「は」
男は、その武者面を渾身の敵意でやっと擡げた。「天皇が何だ!」と腹のなかではいっている面がまえである。「五分と五分の人間ではないか。しかもここにいれば帝とはいえど一囚人にすぎぬ」と、しいて思惟しながら、一たんはずかずかお縁さきまで歩き寄って行ったのだが、やはりその体の位置を持ちきれないように、つい片膝折って地に屈まる姿勢をとってしまった。
「名はあるのか」
と、後醍醐は訊かれた。
「…………」
これはひどい侮辱だ。
男はむかっとしたようだが、ものを知らない天皇なら我慢せずばなるまいと、胸をさすって。
「隠岐ノ判官の叔父、別府の住人、能登ノ介清秋にておざる」
「では、ここの別府を守る柵の長か」
「されば、昨夜よりはこの能登が、おからだ一切を預かることに相なりました」
「そちの手へか」
「いかにも」
能登はやっと、相手の気位に平衡をとり得た気がして、眼をもって、ぐっと迫った。
けれどそれも長くは自分の視力にたえなかった。帝の眸はふしぎなものをたたえていた。これは一朝一夕にできた眸ではない。天皇の座にあって生れながら誰をも下に見つけている眼ざしなのである。だから能登の反抗にみちた眼気も、帝には蟇ほどな感もある容子ではない。
能登はかえって、底知れぬ淵へ吸いこまれそうな気さえしたので、あわててその深淵から元の俯目に返ってしまった。
「能登とやら」
「は」
「妃たちをなぜ離した?」
「いや、御用なればいつでも、郎党に付き添わせて、丘の下よりお呼びしましょう。それぞれべつな木の丸小屋にありますれば、ご心配は無用でおざる」
「それも鎌倉のさしずとか」
「天が下、われら武者が服すお主は、鎌倉殿よりほかに存じ申さぬ」
「忠義な犬よの」
けわしい沈黙をすこしおいて。
「能登!」
「は」
「さぞ、そちの腰の刀はよう斬れような。しかし何を斬れても、世には斬れぬものがあることも、わきまえておけよ」
「…………」
「行くところまで行く世の波は断れぬ。あわれな奴だ。鎌倉の飼犬でなくば、ゆくすえ禁門の一将ともしてとらせんに、不愍や、こんな小島で朽ち終るか」
「ご親切に」
能登は鼻皺をよせて嘲った。
「仰せを聞けば、いつかまた万乗の位に還るお夢でもごらんのようだが、まずそのような煩悩は、さらりとお忘れあった方がよろしゅうござろう」
「そうかの」
帝は柔軟である。微笑されて、
「しかし儂が還るまいとしても、いつかはきっと迎えが来る。大挙、宮方の軍勢がこれへの」
「わはははは」
能登は鮪の血あいみたいな唇を反らして帝に酬いた。
「さようさよう。そんなお夢をみつつ、ここの松風波音を友に、まずはお独りを慰めているがいい。ならば無事と申すもの」
「そのうち必然に、北条幕府は亡び去る。能登っ、そちには信じられまいがの」
「…………」
「信じられまい」
「…………」
「むりはない。こんな島にいては、井の中の蛙だ、わからぬはずよ。だが今日もひろい本土の空の下では、いたるところの山河が矢叫びや武者吠えあげて、はや羽蟻の巣にひとしい幕府の古屋台をゆすぶっている。どうッと地鳴りが響いたら一朝のまに鎌倉の大廈は世にあるまい」
「……どれ」
と能登はわざと、耳もかさない容子で地から腰を擡げ出した。
「いずれ朝となく夜となく、自身しげしげ見廻りにまいる。みかど! ほかに何ぞ、頼まれておく御用でもないか」
「ない」
「ありませんかの」と嘲侮をふくめて「もし御用のときは、童僕の金若をお召しなされ。彼方の鈴縄を引けば、すぐ下の木戸から兵どもが登ってまいろう」
「抜かりはないの」
「あって堪ったものではおざらん。甲ノ尾の判官殿はお気弱だが、能登は生れてから涙は知らぬ男でおざる」
いい捨てると、彼はその野性の野臭をほこるかのように、大きな肩幅と尻を帝にむけて、のっそ、のっそ、立ち去った。
後醍醐はおん眼のすみからそれを見やっていた。
が、ふしぎに腹も立って来ないのだった。
むしろ爽快な感すら覚えたようである。野人の無礼は難なく帝の皮をひン剥いて行ったのだ。しかし帝はそのため、かえって素肌な人間と人間とのやりとりというものを教えられたといっていい。一野人を相手どってこんなにも思うざまを吐いてみたことが、自然、五体の汗腺にあとの爽快味を残したものかとおもわれる。
それにせよ、ずいぶん秘すべきことをまで放胆にいってしまわれたが、すでに判官ノ清高には、こうならぬ前に国分寺では、かなりご腹蔵の底を洩らされておられたのだ。いまさら能登にだけ隠してみても始まらない。
だから何もかも、ご観念の上ではあった。
さりながらその観念なるものも、生死一髪の秒間ならまだしやすいが、明けても暮れても静かな起居のあいだに、持続していることは後醍醐ならずともむずかしい。
言明どおり、能登は朝に夕に、いや時刻さだめず、黒木の御所を見廻りにくる。時にはわざとらしく「……エヘン」と咳払いなどして通った。
能登は四六時中、ひとり胸の中でつぶやいていた。「……造作はない、檻の獅子だ、手をくだそうと思えばもういつでもやれる」と。
彼の大太刀は、丘上の黒木の御所を仰ぐたび、鞘のうちで夜泣きしていた。
「恩賞には」
と、枕についても考える。
「――恩賞には、いったい、どれほどな領土を幕府はおれにくれるだろうか」
これについては、判官ノ清高も鎌倉の確約を取っていたわけではない。「北条幕府への忠節」というだけのものである。
「清高も青くさい。なぜ、出雲、伯耆で何郡をくれるぐらいな言質をとっておかないのか。……帝は殺害まいらせて候う、と注進におよんだあとのはなしでは分が悪い」
しかし、彼は、
「幕府のことだ、まさかけちなまねは」
と、絶大な幕府崇拝の先入主までは疑いもしなかった。
ところが彼の耳にも近ごろはひんぴんと幕府の権威も疑われるような風声のみが地方(本土)から吹いてきた。たかをくくっていた金剛、千早もなかなか落ちず、吉野も強く、播磨では播磨の豪族赤松円心が、宮方に拠って起ち、四国九州も、蜂の巣をつっついたように、いまや騒然たるものがあるという。
「はて。甥めは、何をぐずぐずしているのか」
能登は気が気でなくなっていた。
二月は過ぎる。
ただし今年は閏だ、二月という月が二度かさなる。
おそらく、念入りで小心な判官ノ清高は、さっそく、配所がえの処置を鎌倉へ報じ、そしてもいちど、最後の断についての命を待っているのであるまいか。
事が事である。――いかに我武者羅な能登でも、島後から「いざ」という一使がやって来ぬうちは手を下すことも出来ずにいた。
「どれ、都の女でもまた見て来るか」
彼は、彼の住む別府ノ館を今日も出て行く。それも能登の役目のひとつなのだ。黒木の御所の丘からずっと下がった所の低地に、三人の妃を押しこめた木の丸小屋がおかれてあった。
妃小屋は、帝の御所よりやや小さい。小屋の地点も柵も三ヵ所わかれわかれに建っていた。内を覗いてみると昼もほの暗く、黒髪長やかな白い顔が何を打ち案じているか小机に倚っているのが、簾ごしに透いてみえる。文字どおりな籠の鳥。
黒木の御所を見廻るよりは、彼にはここを覗くことのほうが興ふかい。――三位ノ典侍廉子を見ては、豊麗な美女だがそろそろ年増だナと思い、権大納言ノ局をうかがっては、
「男と生れたからには、いちどはあんな女を」
と、いやしげな連想にふと相好をくずして行く。
しかし、もう一名の妃、小宰相の木の丸小屋へ来ると、ここでは彼の態度もがらりと変っていた。
「ほ。……お髪洗いかの」
と、知るべの家の縁にでも立ち寄ったように腰をおろして、片あぐらをすくい上げ、
「はやく都へ帰りたいことでおざろうな」
などと、世辞よく話しこむ。
三つの妃小屋のうち小宰相の囲いだけは、どこか警固がゆるやかだし、また何かと待遇などもちがっていた。
この典侍だけは、鎌倉方に気脈をつうじている女性と、さきに甲ノ尾の清高からも、内々の指示があったからである。
で、小宰相の方も、能登ノ介清秋を、こわらしい武者などと恐れてはいず、今も、櫛笥をとりかたづけて、すぐ濡れ縁へ寄っていた。
「お美しいなあ、いつも」
能登は無遠慮に、ほれぼれと、その人の顔を見つめて。
「それでもうひと脂お肉づきがあれば、なお艶やかでおわそうが、ちとお目のくぼが青ぐろい」
「そうですか」
「はての?」
「なぜじっとそのように、私の顔を見るのです」
「でも、妙じゃと思うて」
「なにを」
「わが女房の妊娠も何度となく見ておるが、頬の瘠せやら肩のとがりやら、もしや?」
「え」
「まさか、あれではありますまいな」
「あれとは」
「帝のお胤などを」
「…………」
小宰相はしいんと眸を澄まして、そういう能登の猥らな唇を憎むように睨めかえした。ぱっと紅葉をちらした顔でもない。
「や、違ったかな」
能登は眼をそらした。自分でいい出して自分で頭を掻いたものである。
「男には分らん。分らんものを、見当違いな率爾であったら、ごかんべんを願いたい」
「…………」
「これやしまった。お怒りかの」
「いいえ。それほど窶れたわが身かと、はっと思っただけなのです。朝夕、鏡は見ていますが、見馴れるとあたりまえに見えるのでしょうね」
「むりはないことだ。いやつまらん冗談をつい先にしてしまったが、小宰相どの、近ごろ何ぞ、京か鎌倉の便りがお手に入りましたかな? ……。いろんな噂は島にもつたわって来ておるが」
「いいえ」
彼女もどこかほっとしたように、その話題へは急いで答えた。
「どうしたのでしょう。このところ、ぷつんと絶えて、何の便りもありません。あれば必ず、甲ノ尾のお手を通るはずですが」
「ところが、そのおやかたもさっぱり無音だ。地方(本土)の戦乱はよほど大きくでもなっているのか」
「それはもう六波羅も血まなこでしょうし、鎌倉表も軍務にたいへんなのでしょう。そのため遠い隠岐ノ島のことまでは顧みていられないのかもしれません」
「そうとみえる」
能登はいやいやうなずいた。彼としておもしろくない本土の形勢にふと気が重かったものだろう。彼はそこから黒木の御所を仰いだ。「――そちには信じられまい」と、いつか帝にいわれたあのことばがふと頭に泛かぶ。
「どうだな、小宰相どの」
「…………」
「ここでは、みかどの夜のお伽にまだいちども、侍いておられまい。こよいあたりひとつ黒木の御所へ伺うてみては」
「え。ゆるして給うのですか」
腹はわからぬが、とにかく能登は、彼からすすめて、小宰相ノ局にのみ、その夕から翌朝まで、帝のおそばへ侍くのをゆるしたのだった。
「あなたは、味方だ」
と、いや味な笑い方をして、彼はまた、
「お耳を」
彼女の横顔へ、身をズリ寄せた。
「いずれは、一断に御処分し奉ることになろうが、ずいぶんズバズバ物を仰っしゃるみかどだ。もっといろんな秘事を聞きおきたい。よいかの、お伽よりも目あてはそれだ」
「わかっています」
小宰相は、あわてて彼のたまらない口臭の熱気から身を離して。
「みかどのお命をちぢめよとは、たれのいいつけなのですか」
「もとより鎌倉の秘命だが、まださいごの一令は言って来ぬ。とかく煮えきらぬ判官殿が、また妻に邪げられでもしているものやら、いや焦立たしいことではある」
「…………」
小宰相の唇が白っぽく息をのんだ。その眸の奥もよく見ずに、能登はなお吐ざきちらした。
「むごいとでも思うのか。いや、あのみかどは、もうそれも感づいておる。だからいいおきたいことも今ならいうに相違ない。……といっても、あなたからは触れぬがいいぞ。みかどはすごく炯眼だ、怪しまれる」
だいぶ話し込んだと自分でも気がついてか、能登は、やっと縁先を離れかけて。
「小宰相どの。男と女というものはまたべつだ。木乃伊取りが木乃伊になるようなことはよもおざるまいな」
「お案じなされますな」
彼女はもういつも能登が見ている彼女と変りがなかった。
「都には、現朝廷(光厳帝)にお仕えしている肉親たちがあまたおります。もし私が心変りして、鎌倉どのの密命を裏切れば、その者たちの破滅ではござりませぬか」
「む。うむ」
いかにもと、能登はなんどもその猪首でうなずきながら。
「この能登も、ここで一つの功を立てれば、いずれは地方(本土)に二郡や半国の領地は持ちえて、都に一ト屋敷は構えるつもり……。小宰相どの、能登はあなたを、ほんとは、みかどの側へなどはやりたくないのだ。後日、都の宿の妻として眺めたい。忘れないでいて欲しいな」
思い入れたっぷりな言い方だった。それを言いたいための長尻であったかもしれない。さすがに口に出してはてれたのだろう。のっし、のっし、すぐ彼方へ行ってしまった。
「身のほども知らない男」
さげすみと、身ぶるいを抱いて、小宰相は簾に籠った。そして夕のくるのを待ちわびた。
まだ陽は高かったので、それからの半日あまりを彼女は長い想いにたえなかった。
六波羅の獄いらい、おそろしい心をかくして、帝をあざむきつづけて来たが、ほかの二人の妃にたいする反抗と憎しみなども手つだって、さして罪とはそれを思わずにいた彼女だったが、ようやくこのごろは、そうでない。
どうやら、妊娠らしい体の異状を、この春ごろからは、否みようなく自覚されていた。
小宰相はもともと単純なあかるいたちの女性であった。
姉も叔母なるひとも、みな新しい光厳帝の朝に列している西園寺家やら久我家の室に嫁しているほどだから、彼女とて公卿教養はひととおりな麗人だったにはちがいない。
いつごろから後醍醐に寵されたかは、さだかでないが、しかし、その後宮や側近らにもうとまれて、とかく帝の寵から遠ざけられていたのも、肉親たちがみな持明院派の公卿だったことの祟りであったのはいうまでもない。――が、鎌倉方ではわざと、そこを利用して三人の典侍のうちに彼女をも加え、いわば“女目付”の役を負わせてきたのである。
そのため、遠い島まで、帝との流人暮らしを共にして来たなどは、小宰相にはかなしみだったにはちがいないが、しかし彼女は、隠密の悪そのものを、つらい役目とも罪深いこととも思っていなかった。
幼少から持明院派の公卿家庭に育てられてきたのである。
事々、大覚寺派への敵愾心やら蔭口のなかで人となり、また事実、そのころは後醍醐方の圧迫から持明院派はみな日蔭者の貧しさと、さげすみの目にひしがれていたものだった。
それが身に沁みている。
かつは、彼女の考え方も、
「後醍醐おひとりが、天皇ではない。持明院統から立たれた光厳帝さまも、ひとしく、まぎれない、天子さまではないか」
にあった。
だから彼女にすれば、自身の行為は反逆ではない。新朝廷への忠節であるとさえ信じていたのだ。新しい朝廷を確立するための犠牲として一門親族から涙を瀝がれて島へ来ている人身御供のわが身ぞという悲壮なこころもちなのだった。
けれど、ただここに。
いいようのない辛さがあった。
後醍醐の愛は、すこぶる茫漠たるもので、お心の内がわは分らないが、表面は三人の妃のたれへも平等にふるまわれていた。夜のお伽も交代で、とくに廉子ばかりを召すとか、権大納言ノ局だけを多く枕侍させるというようなことはない。
しかし何といっても、一人の男性を囲んで三人の女が共にせまい配所で起居するかたちは不自然な葛藤以外なものではなかった。おひとよしでどうにでもうごく権大納言ノ局は当然、廉子の薬籠中のものであり、小宰相はいつも二人の白眼視とトゲのうちにおかれていた。
それもまた、べつな意味で、小宰相の女ごころを、つよい反抗と復讐へ駆りたてていた。いつかは廉子が号泣して、とり乱す日が来るだろうとして、その日を見るのも彼女のひそかな愉楽でさえあったのだ。
ところが。
「どうしてぞ……?」
と、彼女自身ですら自身が腑がいなくなり出していた。
なによりの原因は、彼女の意志とはべつに、彼女の女のからだが、日にまし帝を愛しがって昼の間すら忘れがたい男になっていたからだった。
そのうえ年暮ごろから酸い物をこのみ、つわりを覚えるなど、あきらかに今年に入ってからは、身の受胎を知っていた小宰相なのだった。
「ちょうど今朝、髪を洗っておいて……」
よかったと、彼女は思う。
待ちかねた夕になると、彼女はその黒髪に香を焚き染めて、もういちど入念に化粧を凝し直していた。
「近うおざるが、ご案内にまいった。そろそろお立ち出でを」
やがて外で、迎えの兵の声がする。
彼女は被衣して、
「ご苦労ですね」
すぐ白い足に草履をはいた。
松の丘の西がわに、残照の影が美しい。東がわの湾は暮色を深くして、もう波音は夜の階音といっていい。
「もし」
登りかけて行く兵の背へ。
「すこしそのへんを巡ってみたい。ほかの妃たちの木の丸小屋はどこですか」
「あれに」
と、兵のひとりが指さした。
「権大納言ノ局のお小屋。また三位どの(廉子)の住むお小屋は、もすこし先の山蔭です」
彼女はだまって小道をそっちへ選んで行った。――こうして兵の案内でそぞろ黒木の御所へ登って行く自分を知れば、ほかの妃たちがきっと今夜の自分の寵幸を妬ましい眼で眺めるにちがいない。
小宰相はそれを意識し、また帝のやさしい腕を胸にえがきなどしながら、わざとゆっくり小道を拾っていた。
そして、今夜の幸を機に、帝のお胤をやどしたことをお耳に入れよう。これから先も帝の御愛情は何十倍も厚くなって下さるだろう。そのうえ折々にはわが身だけが、黒木の御所の夜に召されて行く。そうしたことにならないものか。
「それには、能登を怒らせず、上手にあしろうて行かねばならぬ。わけておそろしい機会を待ちかまえているあの男を」
帝のお命のあやうさに思いいたると、彼女のほかの考えは一切消えて、ここの松風はただまっ黒なものになった。そのことも今宵は帝にささやいて、帝のよいご分別をうながさねばならぬ。……さもなくば、ご一命は風前のともし火。身にやどしたお胤は父御を知らぬものになる。
「いやこの身とて、生きてはいられない」
小宰相は夕風を抱いた。いつからこんな気もちに変ってきた自分かと、自分をあやしむゆとりもなかった。――彼女とすれば、いま遠廻りの小道を曲がって来たように、ちっとも不自然ではなかったのである。そして、過去にもっていた“女目付”の役などは振り返りもしていなかった。
「黒木の御所は」
と、兵はやがて足をとめた。
「そこでおざる。明朝、お迎えにまいるまでは、ごゆるりと」
彼女を残して立ち去った。
廂のおくを窺うと、一室の簾のうちに、小さい灯影がまたたいている。外に立ち惑うらしい彼女の影をみると、
「お待ちですよ」
と、童僕の金若がすぐほの暗い中から言った。
「オ、金若か」
「はい」
「昼のうちに、私のことは、ここへお知らせがあったのですね」
「はい」
「みかどは」
金若は黙ッて奥の灯を指した。
「小宰相か」
ふっくらと情のこもったお小声だった。
後醍醐もこの宵は“待つ宵の男”みたいな、そぞろ心地でお待ちだった。
「もう、どんなに」
と彼女は、身を崩折るなり、
「……お目にかかりたさで、苦しかったかしれません」
と、帝の腕へ、我からも手繰り寄って、そのお膝へ顔を埋めてしまった。
波音だけがしばらくする。
「…………」
帝は皇太子の頃から、女という女の型はあまた知りつくしておいでなのだ。めったに盲目的になるなどの例はない。
だが、別府の配所では、久しく女香にも隔絶されておられたので、小宰相のなみだの蒸れや、妊娠初期の女体の烈しい血の蕩揺は、帝の渇きを医すにありあまる熱さであったろう。
夜半になると、ここを繞る波音は、なおさら高い。
生理的にも三月か四月かという感受性のつよい期間にあった小宰相は、みかどたることも忘れて、帝を一個の男としてのみ、離しがたい思いにただれたに相違ない。そしてともに暁の疲れに黙しあって、閨も白々としてくるうちに何のご屈託もないかのような寝息に入った帝のお寝顔を見ながら、彼女は、ゆうべ涸れるまで泣きつくした涙を、またしてもサメザメと新たにしていた。
ついに、彼女はゆうべ、
「私は悪い女でした」
と譫言せずにいられなかった。その懺悔なしには、帝の腕のなかのよろこびも二分されて、完全な歓喜が完全な苦悶に落ちいっていたからだった。ところが、帝は、
「それは六波羅の獄舎にいたころから察していた。いまさらゆるすもゆるさぬもない」
と、驚きもなさらない。
また、能登ノ介の腹ぐろい害意をお告げしても、
「わかっている」
帝は彼女以上にも、ご存知な風だった。
ただいささか、ご当惑に見えたのは、帝のおたねをやどして早や三月か四月にあることを、彼女がいたそれを聞かれたときのおん眉の翳だけだった。
けれど、それも決して女性の猜疑を刺すほどではなく「だいじにせよ」と、一そうな愛しみをこめて「……案じることはない。何事もの」と、力づよく仰っしゃった。
帝は何か、かたい自信を持っておいでらしいのだ。具体的にはお洩らしもなかったが、さしあたっては、柵守の能登ノ介は上手に御しておけとか、またそなたはあくまで以前どおり鎌倉方の女諜者と思わせておくがいいとか、細やかな策もさずけられた。
彼女はすっかり安心した。その朝の後朝から、丘下の木の丸小屋へ退がってからでも、初めて異分子でなく居る所をえた気がしていた。
そして時々顔を見せる能登ノ介へは、それ以後よけい愛想よくむかえ、ふと手など握れば握らせておいて、しかも靡きもせず、あしらっていた。
どこだろう。海上もまだ、くらいうちだった。いんいんと事ありげな貝の音が尾を曳いている。
「目付島だな」
別府の柵の兵は、湾のすぐ正面の小島へ小手をかざしたが、はっきりとはしない。
やがてようやく、東方の模糊な空に揉み出された日輪のにじみへ。
「オオ美田院(現、美田尻)の浦に、鰐淵寺の寺船が着いておるぞ」
と、すぐその由を近くの別府屋敷へしらせた。
能登ノ介は、腹巻や太刀の佩をつけながらすぐ出て来て。
「なぜ寺船など寄せつけたか」
と、寝起きづらを、一そうまずいものにして、柵の兵どもを叱りちらした。
「たとえ鰐淵寺の船であろうが大社船であろうが、かまえて許可なく島前に着けさすなと、かたく申しつけてあるではないか」
「はっ」
「目付島の見張りも何しておるのだ。船を見いだしてから、慌てて貝を吹いたとて何の役に立つとおもうか」
「いえ、昨夜から今暁へかけては、めずらしいほどな濃霧でございましたので」
「たわけ者」
大喝して。
「そうした時こそ、いちばい警戒を密に、浦々から艀も出して、なぜ終夜見廻っておらんのだ。いや言ってみても、あとのまつりだわ。すぐ船手の勢を組んで、あの寺船を、湾外へ追ッ払え」
しかし、そのときはもう美田院の荒磯のほうから二人の僧をとりかこんだ一群の兵が、ついそこへ見えていたのだった。
「はや、船の使僧を連れてまいった様子でございますが」
能登は、聞くと、
「よしっ、引いて来い」
と床几にかかって、傲然と待ちかまえた。
やがて、ひきすえられた若い使僧ふたりは、そんなやかましい島掟が立てられたとは夢にも知らずに来たのです、という平然たる答弁だった。
そして能登が、威たけだかに、何者かという詰問にたいしては、
「出雲鰐淵寺の長老、頼源僧都の弟子」
と答え、
「師の頼源は、昨年八月十九日、みゆるしを得て、島後へわたり、国分寺の御配所にて、したしく帝にお目にかかって、御幽居をお見舞い申しあげて立ちかえりました者ゆえ、このたびもその例に倣い、かくべつおとがめはない儀とぞんじて、われらにお使いを託されたものにございます」
と、どこ一点怪しむかどもない明瞭な陳弁だった。
かつは鰐淵寺は、都の比叡山延暦寺の有力な末寺であり、元徳三年のころ、ときの叡山の座主大塔ノ宮のおはからいで、勅願所ともなっている関係から、島の孤帝にたいして、寺がこういう働きかけに出たとしても、決して不審とはいいえない。
で、去年。頼源僧都が帝をお見舞いしたとき、したしく後醍醐からおたのみをうけていた漢書や歌書などがやっと見つかったので、それのついでに、徒然のおなぐさみ物を少々揃えて、配所へおとどけのために渡島いたしましたわけで……という使僧のことばには、少しも疑う余地はなかった。
だが、そんな程度で、すぐ疑いを解くような能登でもない。
「よろしい」
能登は、一応合点したが。
「それなら、そのおとどけ物が、みかどのお手許へわたればそれでよいのだろうが」
「いえ」
年下の使僧がいった。
「はるばる寺船を仕立てて渡島して来たことです。帝のお起居のさまも伺わずに、立ち帰りましてはどうも」
「それは御僧たちの勝手。こっちの知ったことではない」
「でも、師の頼源僧都から申しつかって来たおことづてもござりますれば」
「みかどへ、おことづてだと」
能登は耳をとがらせて。
「それも能登が取次いで進ぜる。ともあれ、黒木の御所へ通すことはできん。お帰んなさい」
「なりませぬか」
ぜひなげに使僧の二人は腰をあげた。そして携えて来た軽い包み物一箇を、彼の手に託してスゴスゴ引っ返したが、そのあとで、
「しまった」
能登は衝きあげられたように、急に馬へのって、使僧のあとを追ッかけて行き、その乗船の内を点検した。
寺船はもっぱら寺領輸送に使われるものなので、大きいのは見のがし得るとしても、船艙には必要以上な食糧がかくしてあった。そのほかどうも大勢の人間を乗せて来たらしい形跡がある。
それについて、能登はここでも二人の使僧をさんざん厳問した。
けれど使僧はあくまで、
「いや船中の者は、われら二人と六人の水夫だけで、余人は乗せてまいりません」
と、強硬に言いはり、船頭たちも口をあわせて抗弁する。
疑えばきりがなかった。濃霧の海上をそっとすべり入って、朝までにそこらの荒磯から人間を上げてしまえば、それまでのことである。
島は狭いとはいえ、焼火山一つの裾野だけでも十人や二十人の数が散らばッて潜むになんの造作があろう。――いやまさか、そこまでの企みはあるまい。そんな腹なら頼源から帝へのとどけ物なども、素直に預けて帰るはずもないのだ。
自問自答、やっと、能登は呑みこみ顔をみせて。
「帰ったら、寺中へ申し触れるがいい。いかなる船も、無断、島前の磯へ近よったら再び地方(本土)へは還さんぞと」
ほどなく。
虎口に似た湾外へ、寺船の帆はうすれ出している。しかも数十艘の舟手は、なお送り狼のように、知夫の雉ヶ鼻へんまで尾行していた。
柵へもどった能登は、すぐ人なき所で、検閲を始めていた。さきの使僧から託された――頼源僧都から帝のお手許へ――なる油紙包みの紙ヨリを無造作に解いてみたのだ。そんな行為を自身いやしむような怯みなどはどこにもない。むしろ“あばく”興味に燃えている眼であった。
ところが、出てきたのは。
あどけない童女の人形一コと、香木の香苞と、唐筆と匂いのいい墨が一つ。
あとは十冊の書物だった。
書物はみな難しくて、能登には解らぬものである。――が、童女人形についていた紙札だけは彼にも読めた。それには、
瓊子作ル
と、幼げな優しい書体でかいてあった。
「なんだ、くだらぬ物ばかり」
童女人形も書冊も、能登には、そう見えただけのことらしく、
「さしつかえあるまい」
と判断の下に、その一ト包みは、やがて黒木の御所へ届けられていた。
瓊子作ル
とした童女人形は、一とき、後醍醐のお眼を涙にした。
瓊子内親王は、帝の何番目かの皇女である。――去年、都から父皇を慕って出雲まで来たが、会うこともかなわず、絶望のあまり米子の安養寺に入って、乙女尼になっていると、帝へも、風の便りがきこえていた。
「さては瓊子の形見か」
帝はしばし人形でない瓊子を抱いてやっているお気もちだった。しかし、うごかない人形の眸が、むごい親心を責めているようだった。いかにもおつらそうに、帝はすぐ横へやってしまわれた。
察するに。
その瓊子もよそながら、以後は鰐淵寺の僧都の庇護の下にあるのであろう。そこで僧都頼源のたよりに託してこれをとどけてよこしたものにちがいない。
帝はすぐ、べつな十冊の書物を披いてこれには倦むことをしらなかった。寝るまと食事のほかは、机によってお眼を離すこともない。
そのどれにも、欄外には、漢文のむずかしい朱の書き入れが、随所にあった。
また、文の行間にも、朱筆で点々を打ったり、こまかい書入れが、やたらにみえる。――すべて送りぬしの、頼源僧都の筆蹟なのだ。
帝はその附点やら朱書の部分を二日がかりでべつな紙へ写しとった。すると書物の内容とは縁のない独立した長文のものが生れてきた。
――あきらかに頼源のことばである――つまり浩瀚な書物をつかった暗号書簡だったのだ。そしてこの巧妙な情報手段は、帝にいろいろな耳あたらしい本土情勢をつたえていた。
せっかく、吉野大衆を擁して、吉野城に旗上げされた大塔ノ宮も、鎌倉の大軍にかこまれて、いまは命旦夕の危急にあるなどという情況も、これによってお知りになった。
しかし金剛や千早のまもりは堅いとある。
中国、四国、九州の宮方は、いよいよ旺に、日にまし勢威を加えているともある。
「もう、ご猶予はなりません。時を過ごさば、ふたたび巡ってくる機会は、果てなく遠くになるでしょう」
頼源の暗文は、それのおすすめが眼目となっていた。いや暗文はもっと具体的だった。帝の島脱けのご決意を、早急にうながすと共に、こう告げている。
時期は、月のすえ。
閏二月二十四日から五日へかけての、月もない海上を、ご脱出の事――。
その宵から夜半までに、配所の西方、知夫の港までおわたりあれば、海上には岩松の海賊船もお迎えに出ているはず。万端、ご懸念はご無用、と予定まで立っている。
「今日は早や十七日」
帝は俄に身のまわりを見まわされた。事はまったく急だった。
一日おいて。
つまり十九日の昼。
丘の下へ水汲みに行った童僕の金若が、水屋から這い上がって、帝のお机の間をうかがっていた。
「みかど……。磯の上でいま、こんな物を、みかどへお渡ししてくれとたのまれました」
「たれから」
「知らない人です」
「何か? それは」
竹の水筒である。金若は帝がお手に取ったのを見ると、後ろの板敷きへ、あとずさった。
その中からは密書が出てきた。帝は読むとすぐ細かに裂いて、
「金若、竈に残り火があるか」
「ございます」
「これを燃やしてしまえ」
「はい」
「そして、ここへ寄れ」と、さしまねき、お声をひそめて。
「そちは都へ行きたいのか。……そんなことを、成田小三郎にはなしたことがあったのか」
「ええ、国分寺の柵にいた頃」
「よしっ」
にっと、帝は見すえて。
「連れて行ってやる」
「はいっ。……?」
「だが金若。口外すなよ。もし洩れたら連れては行けぬぞ」
「言いませぬ。死んでも人に洩らすことではありません」
「おお、それほどの心なら、行く末、侍にもなれるだろう。……して、この竹筒の文は、成田小三郎から渡されたのか」
「いいえ、漁夫のような人でした。けれど国分寺の柵にいた成田、富士名、名和などの人をみな知っている様子です。仲間なのかもしれません」
「むむ」
話題を変えて。
「ここの柵守能登ノ介は、きのうから島後へ行って留守なのか」
「いまのに、そんなことまで書いてありましたか。――能登は、何か急用で島後の判官殿に呼ばれて行き、きのうからここにおりません」
「そうか。……あとでまた呼ぶ。……ゆめ、いまのことは人にさとられるな」
帝はお独りになった。
二十四日までだ。あと幾夜もない。
はからずいまお手にした成田小三郎の密書によると、すでに彼らはこの島前の内へ潜入し、鰐淵寺の僧徒や、海賊岩松の党とも、連絡をとって、はや、それのために暗躍しはじめているものらしい。
おこころ丈夫に。
と、意味は簡だが、確信ありげに、帝の決行を励ましているものだった。
「げに、勇気が要る」
帝のおこころ支度は、それのみでなかった。
二人の侍者はともかく、三人の妃という者がある。それらの足弱な女性をどう連れてここを落ちのびられようか。
おそらくは、能登ノ介が留守を奇貨とし、その隙にという僥倖も計算に入れている一味の者の策であろうが、果たしてその能登が、当夜二十四日もここに不在か、また帰っているかも、まだ分らないことだった。
島後へ行った能登は、翌々日となっても、柵へ帰って来たらしい様子はなかった。
「いえ。月うちは帰らないかもしれませんよ」
金若が、帝へいた。
この童僕は従来、ひどく甲ノ尾の館や能登を恐れて、何を訊いても唖のようだったが「都へ連れて行ってやる」と帝に優しくいわれてからは、がぜん、恐い者なしに、探ってきたことは、何でも後醍醐へ告げていた。
「金若、どうしてそちに、それがわかる?」
「でも、柵門の番卒溜りで、みんながしゃべっていたんです」
「月内は帰らぬ、とか」
「そうは言ってませんでしたが、島後の館へ、先ごろ、鎌倉表から偉い人がやってきて、それの相談事でここの能登も呼ばれて行ったんですって。……いや出雲の守護の塩冶高貞もよばれて、島後へ渡ったと、話していました」
「ふうム」
童僕の無心な饒舌も、帝には天来のものに聞える。
この時局に、鎌倉の特使が渡島したとあれば、よも、ただの配所検分などではあるまい。
出雲の塩冶高貞が、そこへ会同したというのもおかしい。――さきに国分寺の柵守から解任された宮方の一人富士名ノ二郎義綱は、塩冶を説いて、宮方へ引き入れる自信があるとかいって、たしか出雲の簸川城へ塩冶をたずねて行ったはずである。
それが、不成功に終ったことは、さきに鰐淵寺の僧都の暗文書簡にもみえていた。――富士名が持ちかけていった意図とは逆に、彼はその場で、塩冶家の手に軟禁されてしまったものと、観られている。
「……と、すれば」
帝は思う。
それやこれ、島後の会合なるものは、いよいよここの配所へ、いやわが首へ、さいごの魔刃をくだそうとする打合せであろうことは、はや疑うまではない。
「金若」
「はい」
「妃小屋にも、侍者(忠顕・行房)たちの小屋にも、それぞれ番の者が付いているのか」
「ええ、付いています」
「隙はないか。そちが近づいて、すばやく、文を手わたすことはできないか」
「できないこともありません」
「ならば、これを」
と、帝は四通の結び文を金若へ託された。二通は侍者ふたりへの連絡である。そしてほかの一通は権大納言ノ局へ。もう一つは三位ノ局阿野廉子の手へと、かたく、おいいつけになって、
「たのむぞ」
と、仰っしゃった。
「みかど。……小宰相さまのが、ありませんね」
「彼女には、ことばの上で告げてある。が、いちどもここへ来ていない権大と三位ノ局へは、二十四日の手筈を、書中にしたためてやるほかに手だてはない。抜かるなよ」
どう足手まといであろうとも、脱島には、妃たちもみな連れて逃げるお覚悟のようらしい。わけて阿野廉子は皇后以上にも思っておいでなのだから、たとえお身を賭けても、彼女を島へ置き去りにして行くなどは、忍びえず、としておられた。
自然、きのうも今日も、お心はもうここの配所の外だった。ただ現身だけを朝音暮音の松かぜにおいて、
「あとは天命あるのみ」
と、余す一日を獄簾のうちに、じっと耐えているようなお姿だった。
「みかど。……なんだか今日はすこし変ですよ」
「金若か。何を見たの」
「能登が帰ったかどうかとおもって、町へ探りに行ってみたら、一ト晩のうちに、おッそろしく兵隊がふえています。どこから来たのかしれませんが」
「能登は帰ったのか」
「帰っていません」
「ならば、能登の留守を、いちばい堅固にと、島後から加勢の兵が渡ってきたにちがいあるまい。金若」
「は」
「めったに柵外へ出て、兵の眼の中をうろつくなよ。……お、それよりは、きのうそちに託したものは、いかがいたした」
「はい。権大ノお局さまと、三位ノ廉子さまへ、また侍者のお二人へも、それぞれ、そっとお手わたししておきました」
「それ聞いて安堵した。あとは明夜を待つばかり。……金若も身を休めておくがよいぞ」
それは帝自身へいっていることでもあった。とかくこの両三日は夜半の物音にもすぐ眼がさめる。すると果てない将来へ、天下再建の構想へ、そのうつらうつらがつづいてしまう。
愚である。
と、帝は、自己妄想の愚は、ご承知だった。
難なく、脱島が成功すればだが、ふとすれば、死を招くかもわからない。一切が水泡に帰し終るかもしれないのだ。
その公算もかなり多い。
しかしながら、やむにやまれぬものが、身を鬼にしているのだと、観ておられた。
ここの御所からは、別府湾をへだてて、海士郡の山波がすぐ眉に迫ってくる。その丘の一つは、承久の後鳥羽法皇のおん亡骸そのものなのだ。皇孫の後醍醐にすれば、幕府を倒す、という願望は後鳥羽いらいの悲願ではあることだし、その後鳥羽は、事むなしく、十八年をこの島に閉じこめられ、いわば北条氏に殺されたのも同様だった。
「やわか、自分は」
後醍醐は、おくちを噛む。
ここでは必然に、後鳥羽の鬼魂ともいえる啾々の松かぜに明け暮れのお誓いを吹き研がれずにはいられなかった。
「一死か。一挙の成功か」
賭けは、すでに笠置蒙塵の日、踏みきッておられたもの。あのさいの大覚悟をおもえば、脱島の冒険とて、何でもない。
しかも、である。
機は熟したものとまずいえようか。島内にはだいぶ宮方の士も入り込んでいるようだし、海上には海賊岩松の船手が期して待つとある。陸には、鰐淵寺をはじめ、日ノ御碕の神職土屋一族、大社の国造孝時などの宮方。――また、はるかにはかの伯耆の大山が我をさしまねくかのごとき相だ。
「坐して死をまつよりは」
やがて。その日も暮れる。
「ここも、こよいかぎり……」
その宵、小宰相が、そっと帝の許へ忍んで来ていた。
兵の眼にかかっても、小宰相だけには咎めがない。彼女は身ままなのである。
また、すっかり帝の寵に甘えぬいた彼女にもなっていた。換言すれば、後醍醐がそう仕向けたといえなくもない。いずれにせよ、黒木の御所へ最後の夜まで通っていたのは、三人の典侍中、ひとり小宰相だけだった。
「……みかど」
更ける夜を、彼女は惜しむように、沁み沁み言った。
「こよい限りでございますのね。こうして、みかどに侍いていられますのも」
「大事はあすの夜だ。そなたは身おも。ここを出る折、他の者におくれるなよ」
「ですが」
彼女の案じるところと、後醍醐の案じるところとは、女と男の距離ほどもちがっていた。
「……島にいればこそですが、ふたたび都にお還りの後は、もうこんなにはしていただけないのではございませぬかしら」
「では、そなたは島にいたいのか」
「ええ、みかどとならば」
帝はぎょっとされた。
女人を御すむずかしさは、男の最もやッかいな至難事と聞いていた他人事を、いまはお身にさとって。
「そんなことはない」――かろくうけ流し「よしや幸いに、本土の彼岸へつくことができても、まだまだ、都へ坐るまでには容易でない。転々と戦場暮しがつづくであろう。そなたこそ、その身おもで耐えられるか」
「耐えないでどういたしましょう……」ポロと露をこぼして。
「みかどの、お愛しみさえ、いまのようならば」
「なぜ、疑う」
帝はつよい抱擁の中で、彼女の濡れた頬をゆすぶッて仰っしゃった。
「……さ、こよいは戻れ。あすの夜は、途中どんな苦難やらもしれぬぞ。よう身を休めておかねばなるまいが」
むりに追うように、帝は、たって彼女を丘下へ返したのだった。そして深夜の独り居を、ほっとしておいでになった。ところがなお濡れ縁の端に、白い女の顔がじっとかがまっている気配であり、去りもせず、入っても来ぬ様子なので、おもわず舌打ちと共に、こう叱った。
「小宰相、まだ去なぬか。ききわけのない女子よの」
すると。
返辞はまったく質の違ったまろみのない声だった。
「みかど。その小宰相はつい今、泣き泣き、丘の下へ帰ってゆきました」
「あ。……廉子か、その声は」
「はい」
「いつ、そこに」
「お驚かせしてはと怺えて、さっきから暗い所で、じっと端居して、おはなしのすむのをお待ちしておりました」
「なぜ、はいって来ぬ。なぜ、そのような水臭いまねを」
「でも、みゆるしを待たいでは」
三位ノ廉子は、やっと帝のおん前へ来て坐った。
どう番兵の眼を掠めて来たのか。金若のしらせを手にし、彼女もあすを期して、ただならない今夜にはちがいない。――が、それにせよまずいところを見せたものと、帝も一目おいている廉子だけに、はたと、ご当惑な眉だった。
もとより廉子は皇后ではない。都には皇后の禧子がある。
が、その自意識において彼女は皇后とおなじ気位をほこっていた。三人の典侍中では年上であり、またなによりは帝の御子をいくたりも産んでいる。
それにこの遠流の辛酸までを、蚤虱と共に、帝と一つにしてきたことだ。
その契りは、比翼の鳥もおろかと思い、つねに生死と紙一ト重な敵中で、いわば糟糠の妻振りを、かたむけつくしていたのである。
それには、帝もあたまが上がらなかった。――都にある名ばかりの皇后とはちがった意味の皇后――いや皇后以上なものと彼女をゆるすしかなかった。同時に廉子は、帝にとって姉か母かのようだった。愛情とはべつな恐さが廉子のうしろにあるのらしい。朝夕の食膳のこまかい注意から、帝がもっとも嫌いな灸でさえ、月々の七日灸は、いやおうなしに施えてしまうなど、そんな芸は、廉子でなくばなしえない妙術だった。ふしぎに帝も「いや」といえなくなるのである。
「…………」
いま。その廉子の眼は、意地のわるいほど、いつまで冷やかなまま帝を見ていた。
後醍醐は、まのわるさを、おおいきれなかった。去ったばかりな小宰相の残り香が、その涙のシミが、まだ、ご自身の袖や膝に乾いていない。
「よう脱けて来られたの」
「参らずにおられましょうか」
これきりで、彼女と帝のあいだは、またしばらく、深夜の波音だけだった。
「あすの夜だ。……明夜迎えが見え次第、ここの木戸を破って逃げる」
帝はわざと、彼女が言いたそうにしていることの眸の矢ジリをほかへ外らして。
「金若から知らせたこと。心得ているだろうな。およその時刻、身じたく、覚悟のほども」
「……ですが」
「不安か」
「いいえ、みかどと、ご一しょでしょう。何の恐れでもありはしませぬ。けれどそのご決行は、何者のおすすめなのですか」
「鰐淵寺の僧都、心ある島武士。またかねてから宮方の成田、名和。そのほか、眼にみえぬあまたな味方が、いまぞと、ここをうながしておる」
「でも、わらわには、解せませぬ、心配でなりませぬ」
「なぜの?」
「さほどな御大事を、あの小宰相へ、おもらしではございませぬか」
「いや、疑うな。彼女もいまではまったく前非を悔い、宮方の不為を計る惧れなどはみじんもない」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
廉子は、はじめて顔をほぐした。が、その黛や唇は、男の立場のくるしみを、揶揄で撫でている翳があった。
「みかど。それはそのはずではございませぬか。小宰相は妊娠ッているのですもの。みかどにしても、お愛しゅうございましょうから」
「ぜひもないではないか」
「では、やはり連れて落ちるお心でいらせられますか」
「つれて行く!」
すると廉子はキュッと唇の端を緊めた。しかし、一だん美しくホホ笑んでいるのではあった。
「おお、おつれなされませいな」
後醍醐は、憮然と黙っておられたが、やがて、
「さても女とは、不びんなものだ。そなたを初め……」
と、呟いた。
「いいえ」
廉子はすぐ強く言った。
「ご不愍の情などに、乱されているときではございませぬ。あすの夜、幸いにここは脱け出られても、海上はどうなのでございましょうか」
「知夫の港には、迎えの船が……。また沖にも、海賊岩松の党が、待つとあれば」
「そうですか」
いくぶん安心したように。
「では、おいさめはいたしますまい。かけがえのない玉体ですから、万一にも、おぼつかない計りでしたら、お止めしようかと思うてこれへ来ましたが」
「そなた。番卒の眼は、どうして掠めてきたのか」
「番の者へは、持仏やら釵を与えて、やっと得心させて来たのです。あの小宰相だけは、日頃からさも誇らしゅう、この廉子や権大ノ局の小屋の前をあるいて、みかどの許へ、よう通っていたようですが」
「もう、いうな」
帝は、彼女の刺すような眸からお顔を外した。これが気のいい権大ノ局か、または小宰相でもあるならば、なんのためらいもなしにその唇をふさぐすべもあるのにと思われたが、こんなときの廉子には帝もお手が出なかった。三十路の豊艶な花はまだ露も香も十分にたたえているが、それにもかかわらず棘がある。
けれど女性の棘は必ずしも拒否の表情とは限らない。
むしろその逆である。廉子も暁にいたるまで帝に侍してささめいていた。
断崖の男女はきまってこんなときその悲調な奏でをたかめあって、さいごの饗宴を愛熱の杯に酌みあうものであるようだ。わけて廉子の脳裡には、小宰相への憎しみが燃えていた。帝までが憎かった。啖い殺しても上げたいほど女心では憎くてならなかったのである。彼女は三十路をすこし越えた自分の容色と肉体に負けじたましいをふるいおこしていた。たとえ、あすの運命の岐路が死であろうと生であろうと、帝はじぶんのものでなければならない。“帝王ニ夫婦ノ倫理ナシ”と古くにはいわれているが、彼女は現代の女である。小宰相ずれに帝の御心を寸時でもしびれさせておくなどは、自己のほこりがゆるさなかった。
ほどなく暁を潮に、夜の物蔭が退いてゆくと、彼女もいつか黒木の御所から消えていた。
その日。二十四日である。
「今夜ぞ」
と、お胸もさすが只ならなかった。それをしいて、物静かなうちに、午さがり頃から帝は小机に倚って昼寝していた。そしていつかうつつないお姿だったが、とつぜん、夢魂を醒まされたご容子で、
「たれだっ」
と、水屋明りの方を、恐いお眼でにらまえた。
「み、みかど。た、たいへんでございます」
「金若ではないか。慌ただしゅう、どうしたのだ、何事だ」
「能登が帰ってまいりました。まだ帰るまいと思ッていた能登が、今日にかぎッて、下の柵門に来ております」
能登が島後から帰ったのは、まったくは、昨夜うちだった。
が、彼はそのまま船手を督して中ノ島、西島、知夫里などの浦々をめぐり、島前各地の浜番所の勢子へ、
「異状はないか」
をただし、つい今しがた柵に姿を現わしたものだった。
島後の会合では、何事が謀られたのか。能登の顔つきは恐ろしく研げていた。屯の部下たちですら彼のいつにない無口や硬ばッた形相を、なにか近づきがたいものに見ていた。
いつか濁赤い夕雲も薄れ、月のない宵がこの大海の中の小陸地をひっそりと区ぎッている。丘上の黒木の御所には、いつもどおりな小さい灯がポチとあった。
「……よいか」
能登は、耳打していた。
番卒の頭らしい男の肩をつかまえてである。
「いずれあとではわかることだが、ここのところは極秘なのだ。自然、長い月日にわかるのはいいが、いま島民を動揺させてはちとまずい。……で、おれが今夜行った先で、どんな物音がしようと叫びが聞えようと、決して駈けつけて来るにはおよばんよ。いいか。あとの心得は、あとで申しつける」
「……はっ」
組頭の顔は、土け色になって、返辞も喉の辺だった。
能登はもう丘へ向っていた。左の手を大太刀の鯉口に当て、右手で自分の顎をツネるような恰好をもちながら鈍々と道をのぼりかけている。
おそらく清高の島後の館では、彼も鎌倉の特使にじきじき会っていただろう。それが急遽、別府へ帰されてきた理由の一ツは、
「ここ両三日来、見つけない怪船が、幾十となく、島前の沖を游弋している」
という情報が、そこの人々を驚かせたからだったに相違ない。
「あきらかに“唐梅紋”とわかる海賊旗をたてた親船が、出雲の日ノ御碕や多古の沖を出没している」
とも、べつな警告は告げていた。――で、鎌倉の特使と会同していた塩冶高貞なども、大いそぎで出雲へ帰ってゆき、能登もまた帰るやいな、ここの浦々の巡視を、まッ先にしていたわけだった。
つかみようのない怪聞ともいえるが、事実宮方のうごきだとすれば一大事である。本土の情勢からもまた、ありえないとは断じきれない。とまれ禍根は黒木の御所のお人にある――となして鎌倉の特使もかねての最後手段を、能登へいそがせたものだろう。能登はもとより「こころえたり」と、ふくんで帰って来たものにちがいない。
「だが」
丘の中腹で、彼はふと、足をとめた。足の関節がガクついてきたふうでもある。おれらしくもないと、しているらしいが、なぜか日ごろの武力自慢をも超えるものがぞくとその背を寒くしていた。
「ご観念をと、すすめたところで、なかなか、おあきらめを持つみかどではあるまい。……といって、じたばた噪がれては」
そこからは、這うように行き、やがて黒木の御所のうちをそっと窺った。奥の御簾蔭には人影なく、ただ一点の小さい灯だけが白かった。
能登は、狐のようにキョトついた。根気よく、帝座の灯のあたりをうかがいながら、
「はてな」
と、もう幾足かを忍ばせて行った。
帝がいつも寝所としている北廂のぬれ縁の方へである。そこの雨戸へひたと片耳を寄せたのであった。すると、
「――下郎っ」
ふいな一喝は、彼が精を集中していた内とは逆な方から聞えて来た。しかも音吐のいろは、後醍醐のそれにちがいなく、
「なにしておる!」
と、能登の狼狽をどこかで見ているような落着いた言い方でもある。
能登は、後ろへ跳んだ。――驚きの余りにではあるが――つい大太刀のこじりを刎ね上げての動作だった。それはすでに刺客の自白にほかならない身構えというしかない。
「おうっ。そこにおいでか」
急に地へ片膝をついて見せたものの、はや言いくるめようはないと覚って、彼は、すてばちな気になった。満身に描かれた殺気を隠そうとはしていない。
が、帝の影はさりげなかった。
「あいにく、月はないが」
と、お独りごとみたいに、
「春の夜だ。そぞろ歩きにそこらの磯まで出てみようと思う。下郎、供をせぬか」
はや、松の木の間を彼方へ歩いておられたのである。
能登は身を起した。しかし、どういうものか、せつなをつかんで抜打ちに跳びかかる気も、失っていた。虚をつかれた戸まどいを、とりもどすひまもなく、つい曳きずられて行くような恰好をぜひなくしていた。
とはいえ、それも、数十歩のことでしかない。
能登は何度も息をのんだ。餌にかかる豹そのままな腰を見せて、先を行く背へ、白刃の一颯をふくみかける。――けれどそのたび、帝の眸は故意か偶然か、後ろをふりむいて、彼の手もとをじっと射た。お声もこぼれた。
「能登、能登。……まだ早い。逸まらぬが身のためぞ」
そして、誰へともなく、
「まあ、おちつけ」
木の根にお腰をすえてしまった風なのである。能登にはいよいよ相手がわからなくなっていた。何もかも知りぬいているようであり、知っていないようでもある。
「みかど……」
ひからびた声が、すでに殺意に晦んだ非人間性そのものだった。能登は帝の影と共に、いちど地へ膝をおとしたが、すぐ膝歩きに、帝の方へ太刀のつかがしらと一つに迫っていた。
「……お、お覚悟をねがいまする。ぜひない幕命でおざる。おみぐるしくないように」
「そうか」
帝は騒ぎもなさらない。
能登もまた、肩で大きな呼吸をみせた。
「およそは、察していた。いかにも、みぐるしくはしたくないの。……さればこそ、我から遠くへそちを誘うて来たのだ。あわてるにはおよばん」
「なんぞ、お言いのこしでもありますか」
「お、それをいいたい」
「仰せられい」
能登は眼を研ぎすました。
帝は、言った。
「能登。どこを見ておるのだ、そちの眼は」
あきらかな殺意に曝されている無手な自身を――その危険さも――まるで度外視しているようなそれは静かな揶揄だった。
能登は、気をのまれてつい、
「えっ?」
と、いった。
待っていたものを見たように、帝のお唇のへんには微笑がのぼった。
「やはり、そちは島武士の小胆者か。自分以外に何もその眼は見えておらんな」
「…………」
「あわれな奴!」
このときは、声にもらして、笑い出された。
「そちはわしを殺そうとの一念らしいが、なんぞ知らん、儂は宮方の武士に厚く守られておる。それのみか、そちの後ろにはさっきから太刀に反りを打たせて、そちの身を睨めすましておる者どもがおるのだぞ」
「しゃッ」
能登は狂気したように、体じゅうの凄気で自分の耳をおおった。
「そ、そんな、たばかり事にたれが乗ろう」
しかし、本能的に、能登はその行動を思うせつな、無意識に後ろを見た。すると、いなみようなく、眼にみえたものがある。
けれどそれが、どんな人間なのか、幾人ぐらいなのか。また、後ろばかりでなく横の木蔭やらそのほかにもまだ居るのか否か。そういうことまでは見さだめる余裕もなかった。というよりは、帝のおちつきぶりと思いあわせて、全身、咒縛にかかったような恐怖にすくんでしまった以外のものではない。
「能登。残念か」
「む、む」
彼は唸った。
もう能登のからだにあった殺意の棘は全部自身の防禦に変っていた。虚勢すら持ちきれない浮き腰な眼くばりなのだ。
「さても下郎の浅智恵とはそちのこと。だが、おののくには当らぬ。そちを斬るはやすいがここは一命を助けてとらす」
「…………」
「北条の手下としては、忠義なやつだ。また欲心のためでもあろう。一領の大名ともなって都へも出、宿の妻には、小宰相を側においてみたいなどの、欲望でもあったろうに」
「やっ、それまでを」
「小宰相すら非を悔いておるに、なんでそちの眼は世にめくらなのか。宮方について働け。いまからでも」
そのとき、帝の横顔からあたりの木々の肌までが赤く染まったように見えた。どこかに大きな火の手があがって、夜空を焦がしていたのである。能登はそれを知るとおどり起って、牛のようにあばれかけた。
「浦屋敷だっ、別府の柵が焼けている!」
けれど途端に、彼はどっちへも動けなかった。しずかに迫って来た人数の枠の中におかれていた。少なくも二十人ちかいかと思われる人の輪であり、そして一部の人影は早くも帝を擁して、
「いざ」
とばかり、西の方へ走り出していた。
後醍醐は跣足になられた。
走りながら大口袴をくくし上げて、まわりの顔へ。
「妃たちもあとから来るであろうな」
「まいられます」
「足弱な三名が三名とも、洩れなく追っついて来られようか」
「お案じにはおよびません」
「行房と忠顕も?」
「はや今ごろは、小屋をやぶって、おあとを慕っておりましょう」
答える一語一語はみな声がちがっている。どれも若い、そしてたのもしげな語気で、帝をはげまして行くのだった。
その中には、成田小三郎の顔がみえる。
また土着の島武士、近藤弥四郎、村上六郎なども加わっていた。
すべてこの晩の決行には、島内の土着武士と島外の宮方との、緊密な一致があった。しかしこの挙をみるまでの彼らの暗躍や苦心などに至っては、帝もご存知ないことが多かった。
まず、彼らは努めて、帝に近づかないことを旨とした。ただ月日にかけて、ひっそりと企画をすすめていたのである。
それも帝のお身一つでなく、三人の妃、二人の公卿侍者をもあわせてという救出なので、その万全には、よほどな準備をもたぬかぎり、踏み出せなかった。
が、鰐淵寺の寺船を介して、海賊岩松の党とむすびつき、また能登ノ介が、柵を留守にするなどの機密をえてから、事は急速にはこばれていた。
そこで、すでに今夕には、西島や中ノ島にひそんでいた一味はみな黒木の御所附近へ入り込んでいたのである。四崖は海を恃んで無防禦にひとしい丘である。柵内へしのび入るなどは何ら至難なわざではない。
そのうえ、頃をはかって、浦の民家から代官屋敷附近へ火を放って、守備兵をそっちへ引きよせる計もべつに立てていた。そしてこの策もほぼ図に中った。いや何も知らなかった能登にとってはただ仰天のほかはなかった。彼がここへのぞむ以前に、はや帝の身は、成田小三郎らの一味に擁されていたのである。そして暗がりの面々が、その火の手があがるのを待っていた折であったなどとは、あとからやっと覚りえたことだった。わかったときは、能登も、もうどうしようもなかったのだ。
その能登は、十数人の宮方武士にとりかこまれて、
「歩け」
と、さきに後醍醐が急いだ方へあとから追い立てられていた。
宮方の面々は、すべて抜刀していたが、能登は丸腰だった。小刀までも取り上げられていたのである。
「止まれ」
四、五町来ると、一人が言い、ほかの白刃も、能登をかこんだまま後の方を振り向いた。
「ちと早すぎたな」
「む、余りこちらは順調すぎた」
「万一があるといけない。お妃方の来るのを待とう」
待つほどもないうちだった。
彼方から一トかたまりの人影がこっちへさして駈けてくるのがみえる。中で一人の典侍は、一人の武士の背なかに負われていた。
問うまでもなく分っていたが、あえて一同で、
「何者だ」
と、声をかける。
すると、眼の前へ来た一群の方でも、その声に応じて、
「妃のおひとり、権大ノ局」
と、こたえた。
「よしっ、そのまま急げ」
と同勢は、元の位置についたままで、この一ト組を先の道へ見送った。その中の武士のひとりに負ぶさって行った権大ノ局の白い顔は、人心地もないような瞼をふさいでいた。
まもなく。また七、八名の武士にたすけられて、小宰相がここを通った。
彼女は身おもである。やはり男の背に負われていたが、それにしてさえ、喘ぎをしていた。しかし味方の一団をここに見ると、
「みかどは?」
と、すぐたずねた。
名和悪四郎が、それに答えた。
「成田に守られて、ひとまず小迎までお落ちです。その小迎はあといくらでもない。西へ西へお急ぎなされい」
悪四郎たちに囲まれていた能登は、誰よりは複雑な眼で、彼女の通過を、むなしく見ていた。
やがてまた。
三位ノ局廉子が見えた。しかし彼女がこれへ来るまでには、その間、かなりな時間がたった。もしやと、ここの者どもが、案じていたほどである。
遅かったわけは、この期となっても彼女だけは、武士の背などを借らなかったせいであろう。裳をかかげ、草履を結いつけて、歩いて来たのだ。かりそめにも、帝以外の男のからだに縋ろうやという、彼女らしい誇りか潔癖かであったとみえる。
それに、侍者の忠顕や行房とも一つになり、いわばしんがりのかたちにおかれたことも、逃げ難かった羽目を招いていたにちがいない。
「みな、大儀でしたね」
廉子は、女将軍のように、ここで言った。
その威儀に、
「はっ」
と、名和悪四郎以下みな、ひざまずかずにいられなかった。
頭を見わたして、
「みかどは、ご無事でいらせられましょうね」
「は。万端の用意がととのうまで、小迎と申す浦の、一味の者の家にて、お待合わせのはずでございまする」
「それ聞いて安心しました。知夫の港とやらへは」
「あといくらもございませぬ」
「そう……」と、さすがほっと黛を夜空に憩わせた。星ばかりである。遠くには別府の火の手が海風にあおられているのが見えた。
「三位さま」
武士の一名は、彼女の足もとへかがまって、わが背をすすめた。
「お疲れでしょう。どうぞおつかまり下さい。韋駄天といそぎまする」
「いいえ」目もくれず――「千種どの(忠顕)一条どの(行房)行きましょうか」
「なお、おひろいで?」
「みかどのご苦労を思えばなんでもありません。それよりは、すぐここへ、柵の兵が追っかけて来ましょうぞ。それはよいかの」
「こころえました」
と、名和悪四郎が起って答えた。
「そのための殿軍には、われらがおります。後には一切お案じなく」
浦の代官屋敷をはじめ、別府じゅうは一刻、叫喚に煙っていた。
諸所の火の手もだが、流言蜚語も飛び、また何よりの混乱をまねいたのは、指揮者の能登が見えないことだった。
その能登殿は、宵のくち「何事が起っても登って来るな」と柵の屯へ言いのこして、ただ一人で丘へ登って行ったと分ったなども、さんざんな、てんやわんやのあげくであった。
「おかしいぞ」
誰からともなく、
「三つの妃小屋が三つとも、こよいにかぎって灯を見せぬ。ともあれ山上へ行ってみろ」
それからの狼狽さは、いうまでのこともない。彼らにもはじめて、事態の全貌がわかったのだ。
仰天して、組頭は、貝を吹き鳴らした。
高い所から流れた非常貝の音は、目付島や美田院の番所へ、この変をしらせるだけでなく、しきりに主将の能登の姿をも、求めていたのであったが、
「どうしたことだ?」
彼らはなすところも知らず、ただ右往左往の影をいつまで丘の上下にえがいていた。
「たわけよ。無駄貝ばかり吹き鳴らしたとて、追いつくことか」
おくれ走せに来た由良弥惣次、菱浦五郎などは、みな能登の肉親の者である。彼を叱ッて、兵を一手にまとめ、
「ここに見えぬなら、西へ落ちたときまっているわ。つづいて来い」
と、まっ先に立って駈け出した。
はたして、一団の人間を道のかたわらに見いだした。いや逆にこっちを待っていたふうで、
「待てっ」
向うから声があった。
すわと、空間をおいて、殺気が一瞬を冷たくした。矢をつがえ、太刀、長柄もすぐ戦闘を展じうる姿勢となって、由良弥惣次を楯に、くろぐろと、息をのんだ。
「能登の身内と、柵守の衆だな」
わざわざ道へ出て立ちふさがって見せたのは、名和悪四郎なのである。後ろの群れを、眼でさして。
「あわてるな。お身らが捜している能登ノ介清秋はここにおる。いま、能登の口から直接なにか話があるだろう。はやまって、主人の一命に、とどめを刺すようなまねはせぬがよかろう」
「なに?」
信じられない動揺だったが、
「おおっ、能登殿か」
弥惣次以下、つい、おろおろせずにいられなかった。
能登はうなだれていた。その影は日ごろの彼自身を失って、十数名の白刃の中に悄然とかこまれていた。
「能登。申せ」
悪四郎がそういって、彼の背を小突くと、能登は二、三歩よろめき出て、さてそれから、泥土のようなその面を、重たそうにやっと上げた。
「みんな、退いてくれい。おれは思うところがあって、宮方へ寝返った」
「えっ。……?」
「後日をまたず、島後のお館へもすぐ知らせろ。能登はみかどへ降伏して地方(本土)へお供し去っておざると。そして判官殿にも、旗をお持ち変えなされと、おれが言っていたとつたえるがいい」
うしろに山を負っている星明りの暗い漁港だった。
知夫の港である。
湾はその内そとに、小れ島の島影をいくつも重ね、夜凪のゆるい波が浦曲形に白かった。そしてさっきから渚に待機していた人影もみな黙りこくって、遠くへ面をむけあっていた。
「オ、やっと参られたらしい」
「お見えか」
「あれにちがいない」
近づく櫓音につれて四、五そうの小舟の影も見えてきた。するとそこの人影はみな黒い藻の山みたいに下へ平伏した。
ほどなく、近くに着いた小舟から、幾つもの人影が次々に浜へこぼれた。わずかな時間だが長かった。すぐ声なき列が波打ちぎわをあるいて来る。
人影の一つは、まぎれもない後醍醐だった。
すこし離れて、三名の妃。
つづいて、二人の侍者も供奉にみえる。
嚮導に立って、帝のさきを歩いて行った髪の真っ白な島武士は、小迎の住人近藤一族のあるじなのだ。老人は一代の晴れに感奮してでもいるようなかたい表情であった。そこらにかがまり迎えていたのは、みな彼の部下ともいえる海の男どもであろうか。ぎょろ、ぎょろと、見て通った。
この老人はよほど土着武士中でも重きをなしているものか。海士郡の村上家と共にいわば海賊衆なるものの豪家だった。領主にたいする反骨は、すでに持ち前なものである。――とまれ名和悪四郎や成田小三郎らの計には、早くからくみしていた者にちがいない。
黒木の御所を脱した帝は、山越えをとって、ひとまず、彼のやしきで憩いながら、なおあとの首尾や柵兵のうごきをみていた。――万一のばあいには、そのままその家の屋根裏へも――というほどな用意でもあったことだろう。しかしまもなく三名の妃もつつがなく落ちあい、殿軍の成田小三郎からも伝令で、
「われらは陸路をまわって、おあとより追っつきまいらせますれば、お舟にて早やかねての場所までお渡りを」
とあったので、
「いざ、今は」
と、老人の案内で、小迎の磯からここまで落ちのびてきたものだった。
しかしその成否と、ほんとの脱出は、これからなのだ。
港には、大型な帆船一隻と、軽快な速舟三ぞうも用意されてあったが、この先も、はたして無事をゆるすかどうか。
ともあれ帝以下、その乾魚臭い親船の底におちつかれたときは、ただ祈る以外の雑念はなにもなかったにちがいない。
ほどなく、さいごの成田や名和も、能登を拉して、追ッついて来た。
「おさらばでおざる。……都までも曠れのお還幸を遠くでお祈り申しあげておりまする」
一群の島の者をうしろにおいて、老人は最上の礼儀を何度となく海上へ送っていた。――月もない夜凪の彼方へ、彼の持舟の帆は彼に代って、帝以下の運命をそれぞれな宿命の本土へいま送り返している。老人に若い者のような先行きの欲望はない。これで死んでもよいとしているような姿だった。
船が隠岐の口を離れるまでには、なお幾つかの船関があり、そのたび速舟のへさきから能登の影が、
「番所の者、怪しむまい。おれは別府の能登だ。昨夜にひきつづき、こよいも浦々を巡視してゆく」
と呶鳴ッては通りこして行った。いやそう強制されていた彼だった。しかし、――すでに隠岐の陸影もうしろに薄れると、名和悪四郎は、ただちに能登の体を縄目にくくし上げて、帆ばしらの根にくくってしまった。
能登は踵で舟板を蹴叩きながら、抗議を吠えた。
「約束がちがうッ。こんなはずではない」
「ではすぐ首をぶち落してくれとでもいうのか」
「みかどに伺ってみろ」
「匹夫下郎の処分まで、いちいち叡慮に伺うばかがあろうか」
「うんにゃ、おれはみかどのおことばなればこそ、節を変えて、勤めたのだ」
「節を変えて。ふふん、おのれにも節はあったのか。知らなかった」
「みかどは、うそをつくまい。随身せよと仰っしゃった。今からでもと」
「だまれ。うぬのような奴は、宮方では使い物にならん。ただ、地方(本土)の味方へはいい島土産ではあるのだ。……がしかし、うるさいな。おい」
悪四郎は後ろの仲間となにか目交ぜし出していた。すぐ死の予感をもった能登は近づく者の手に体をちぢめたが、彼に与えられたのは猿ぐつわだった。
船が洋上へ出るにしたがい、さすが波のうねりは高く、またどこかには月の色が淡かった。下弦の月である。親船の黒い帆蔭になっている。
こう三ぞうの速舟に守られたその親船は、ほかの舟との速度にたえず気をつかいながらも、
「ここまで来れば――」
といういっぱいな安心感をも乗せていた。
しかし、そこの舳から青い洋上へ、眼をくばッている成田小三郎だけは、まだそんな姿では決してない。「――大事はこれから」としている風だ。
はたして、青い月の波間に、やがて視線をひいた物がある。速舟の上に盛られている人影はみな弓や長柄をとって惣立ちになった様子である。だが小三郎だけは、船艙の底に身をうずめている帝や妃たちを驚かすまいためにか、いつまでもその唇もとをむすんでいた。
「……あ。火縄を振って合図をしている」
どこかで誰かのほっとしたような声があがる。声はすぐ潮風に飛んでゆく。
「岩松の党だ」
小三郎も言って腰をあげた。
相互から近づきあうまで、彼方の火合図はつづけられていた。それはこちらの速舟よりはやや大型な五そうの舟群で、この地方では見ない、むしろ熊野舟の型に近いものだった。
「岩松か」
小三郎が呼びかける。
潮の中からは、
「去年、国分寺の御配所へまかりました岩松経家の舎弟吉致です。お迎えにまいりました」
という答え。
「おおお待ちかねだ。吉致一人だけ、こなたへお移りなされ」
と、小三郎はすぐたぐり綱を投げさせた。
親船へ移って来た岩松吉致は、すぐ艫の船頭小屋にみちびかれて、侍者の千種忠顕と一条行房に会っていた。
その吉致からの、或る報告を聞きおわると、
「それは一曙光だ」
と、喜悦しあって、
「さっそく奏聞に」
と、忠顕だけが一人船艙の底へ、手さぐりで五、六段降りて行った。
暗い魚油の灯が一つ架かっている。
干鯣か魚屑のにおいだろうか。鼻をつく異臭であった。荒むしろの片すみには、妃の廉子と権大ノ局が寄り添って一つものみたいに居眠っており、小宰相はぽつねんと、ひとり離れて、その身おもな体を海藻のように横たえている様だった。
帝はと見れば。
乾魚俵に肱をついて、頬づえのまま、こんこんとしておいでになる。……そしてふと、忠顕がぬかずいた気配にその上半身を重そうに擡げられた。一夜のうちにゲッソリ頬もこけたような龍顔である。さすが心身ともに綿のようなお疲れらしい。
「みかど。もうご安泰にございまする。岩松の党も、海上のお迎えに来合せました」
「吉致が再度来たのか」
「はい」
忠顕は奏上した。
さきに、岩松家へ賜わった綸旨をたずさえて、吉致の兄、岩松経家が、あれからすぐ関東へ急下して行った由を、つたえて。
「成否はもとより天にありますなれど、勅を奉じた岩松経家が、ともあれ、その好都合な立場から新田、足利両家の仲に立って、あらゆる手を打つ所存であるとのことでございまする。……もしそれが実をむすべば、関東のかたちは一変して、幕府は足もとからたちまち瓦解の物音をあわただしく始めるに相違ございませぬ」
「むむ」
後醍醐はにっとされた。
ところで岩松党では、吉致を代表として、べつにこういう希望も寄せていた。
このままお船の帝座を、自領の阿波ノ国へお迎えしたいというのである。
もし阿波へ御動座あれば、楠木の金剛山、大塔ノ宮の吉野とも近く、京畿の宮方はふるいたつに違いない。――その供奉のためには、なお幾そうもの大船を、先ごろから出雲沖に待機させてある――という吉致の口上だった。それも忠顕から帝へ諮られた。
しかし、後醍醐には、
「その儀は、採らん」
とばかり、なんらお迷いの風でもない。
「かねてからの方針がある。浪の誘い、風の変りに、いちいち進路を惑うていたら限りがない。予定は変えまいぞ」
ともつけ加え、
「一路、伯耆へ行け」
と命ぜられた。
下弦の月の海原は、夜明けをおもわせるが、まだ夜明けには間があった。――やがて吉致の影は、侍者に別れて、仲間の速舟のうちへ戻っていた。
ついにまだ、隠岐の追手の船らしい船影にも出会わない。
おそらく隠岐ノ判官清高は、やっと今頃、島前からの急使に仰天して、追捕の船手の編成に狂奔していたのではあるまいか。
次の日のひる。
帝は海上から本土の陸影を見ておられた。
出雲の人煙である。美保ヶ関の松である。また、伯耆の大山である。
陸からは、鯨の一群みたいに見えたであろうその船影は、出雲を避けて、依然、東への船脚をつづけていた。
一書には、このさい、出雲へ上陸するお考えから杵築の一港へ近づいたところ、たちまち反宮方の襲撃に会い、あわててまた海上へのがれ出たともあるが、あきらかにそれは虚説だ。
島の配所の一年間。そのあいだじゅうの人々の腐心は、ただ今日の計にあったのである。脱島後のあてもない軽挙であろうはずがない。
まして、出雲ノ守護塩冶高貞は、敵性とわかっている。
ほんらいなら出雲沿岸の塩冶の船手が、怪しいと見て、すぐなんらかの行動にも出るべきだった。――その気ぶりもなかったのは、大社の孝時、日ノ御碕の検校、鰐淵寺の頼源などの下に不気味な宮方同心の層があるのを知っていたせいであろう。
また沿岸には、さきごろ、海賊岩松の唐梅紋の旗が出没していたこともあるので、それの牽制が大いにものをいっていたのかもしれない。
いずれにしろ、帝のお心あては、伯耆ノ国にあったようだ。
伯耆の名は、箒だろうというのは俗説で、古事記の伊邪那美命のことに因んで、
母君の国
と呼んだのが、自然訛ってきたものとか。
天神川を幹流とする東の東伯、日野川を動脈とする西の西伯。その海岸線は、ほとんど直線で、港らしい港はなかった。で御船は御来屋、赤崎あたりの沖をいつまで漂ッていて、うかと岸へ近づくふうもない。――おそらく船中では、帝を中心に、行房、名和悪四郎、成田小三郎らのあいだに、細心な評議がおこなわれていたのではあるまいか。
やがて、海上も夕茜にうすずく頃となってから、やっと、
「では行てまいりまする」
と、千種忠顕が勅命をおびて、その親船からべつな小舟へ移っていた。
どこへさして上陸するのか、忠顕のほか、供としては、名和悪四郎一人だけがついて行った。
人々の顔は、
「大山の加護あれ」
と祈るような眼でその小さい勅使舟の行方を見ていた。
春の海ばらもいつかゆったり暮れている。碇を下ろし、苫をかけて、沖に夜泊の用意も出来た。
「はやくても使いの吉左右がわかるのは、夜半か、明朝か」
と、観られていたからだろう。
低い煙がそこらの水面を這いはじめた。
それぞれの船が夜食にかかる炊煙だった。そしてこのときだけは、供御のために、妃たちもみな艫へ出て、水仕や調理につとめ合っていたが、やがてのこと、
「やっ、あの無数の火は?」
と突然、まわりの速舟が、こぞって猛り起っていた。
「隠岐ノ判官の船手にちがいないぞ」
「すわ、追手船だ」
「油断すな」
船上の人影は、すぐ逃げ支度のため、帆綱や舵へ跳びついていた。
帆のほか、両舷の大櫓もある。水夫たちは、えいや声を嗄らした。風がない。たよるのは櫓であった。
ときどき船は大きく揺れ傾いた。七そうの速舟との間に、行き場を阻まれたうねりが白いしぶきを揚げるのだった。
「大丈夫!」
速舟の一そうからは、岩松吉致が親船を仰いで、何度となくいっていた。
「こうとは、あらかじめ分っていたこと。岩松の党があるかぎり、お案じにはおよびません!」
しかし、親船の艫にいる妃たちには、彼の声も救いには思えない。――いまにも船戦か、と顫いている姿だった。
初め、追手船が迫ったと知ったせつな、小宰相はすぐ帝のいる船底の口へ逃げようとしかけた。けれど、立ち阻んだ廉子の眼に射られて、ついその場に恟んでしまったのである。
「これしきのことに」
と、廉子はわざと、権大ノ局のほうへ叱った。
「みぐるしいうろたえなどしてなりましょうか。お上のそばにお仕えしているからには、わらわたちとて、いざといえば、打物を把ってお守りするぐらいな覚悟でなければなりませぬ」
ぜひなく、権大ノ局も小宰相も、そのまま艫の端で、御食の支度をつづけていたが、追捕船から射て来る矢は、はや幾筋もそこらに刺さった。
もちろん、こなたでも、成田小三郎らが、舷に立ち並んで射返している。
それだけに気を奪われ、その一とき、廉子が童僕の金若の肩を抱くようにして、彼にいていた姿などは、誰も見ていないし、またそこは見えないような暗がりだった。
「そなたは、忠義者。……が、あの小宰相は、そなたも知ってであろうが、元々、鎌倉方の廻し者じゃ。帝のお為にならぬ悪い女子なのじゃ」
なお何を、かれていたのだろうか。金若は眼をぎらぎらさせ、そして単純なうなずきを幾度もしていた。
それからまもなく、艫の端で「――ひいっ」という叫びが聞えた。権大ノ局もほとんど同時に「あっ?」といった。自分のすぐ後ろで御食の器を洗っていた小宰相の姿が、一瞬に見えなくなっていたからである。
せつな、異様な水音を下に聞いたし、白い水玉をもかぶったので、彼女はわれを忘れて、そこに茫然と棒立ちになっていた金若の影へむかい、
「童ッ。何をしやったっ」
と、狂気したようにむしゃぶりついた。
「…………」
よほど昂奮しているらしい金若は、夢みる唖みたいな硬ばッた顔を、権大ノ局が夢中で打つにまかせ、また局の身は、うしろから、廉子に抱きとめられていた。
「ま。かわいそうな。金若の科ではない。わらわはこの眼で見ていました。小宰相は過って落ちたのじゃ。金若が手を伸ばしたのも間にあわずに」
そのとき、味方同士ぶつかったのか、船は裂けるような響きをたてた。
追捕の舟軍は、一とき、夜の海を不知火にして迫っていた。そのうちの二、三ぞうは、つい矢ごろの距離にまで追ッついて来たほどである。
けれど、終始、
「大丈夫です」
と、岩松吉致が予言していたとおりなものが、ほどなく敵の脚いろに見え出していた。――次第にその舟影は遠ざかり、不知火の一ツ一ツは算をみだして消え果てた。あとはまったく元どおりな海しじまだった。
が、その夜半ごろまでも、帝の親船以下、みな漂いをつづけていた。因幡ざかいの沖合だろうか。吉致は、やがて親船へ来て、行房へ告げた。
「もはや、ご懸念無用とぞんじます。――先に上陸したお使いとの手筈もあること。元へ引っ返そうではありませぬか」
「再度、隠岐ノ判官がよせて来る惧れはあるまいかの」
「大事ございませぬ」
「でもこの広い海原、敵の船火は滅したが、不意にどこから襲わぬかぎりもあるまい」
「いやいや。おつつがなく帝を陸地へお上げするまでは、岩松の党が、夜見ヶ浜から美保ヶ関の御前島へかけて幾十そうも船手を潜ませておりまする。さいぜん俄に、隠岐の追手船が火をみだして潰え去ったのも、おもわぬ伏勢を見たからのことで、敵とて、もうめったに近づくものではございませぬ」
「ならば」
と、行房は小三郎にも計って、船を西へ向けかえた。いつかゆうべのような下弦の月がおぼろに低い。
おぼろなままに、春がすみの晨となった。
その間、帝は船底の御座へ、いくどとなく行房を召されては、おたずねだった。
「陸へまいった使いの吉左右はまだ知れぬか」
「はっ。まだ何の沙汰も聞えてはまいりません」
「名和ノ庄とやらは、この辺りからよほど遠くか」
「いえ、御来屋の浦からいくらの道でもない由です。したが、御諚はとつぜんな儀、事は何せい、ゆゆしきお迎えでもありますれば多少の遅滞は無理ならずとも思われまする」
陽が映した。白い海気に滲んだ橙色の旭光を船底から上に仰ぐと、後醍醐は、待ちきれぬもののように、乾魚俵の間からお身を起した。
「廉子。座を移せ、上にいて使いの吉左右を待つとしよう」
彼女と権大ノ局とは、あわてて仮のむしろの御座を、艫の一端にしつらえた。帝はそれへ胡坐しながら、ふと、ふたりの姿のほかを見まわして、ご不審そうに呟いた。
「……小宰相が見えんの。彼女はどうしたな。ほかの寝小屋の内にでも臥せっておるのか」
「いいえ」
すぐ廉子がお答えを引きとった。なんのわだかまりもない滑らかな声である。
「いずれそのことは、目前のおん大事もすんでから、み気色のお麗しい日に、お聞え上げいたしましょう。今は余りにどうも……」
「むむ」
帝のお心も、ついそこになく、
「そうだ。それどころでない」
と、霞のうえの大山の紫へ、そのお眸を真向きに直した。
五十三、四か。まだ老人というほどな彼ではない。
骨ぼそだが四肢は長く、人には引けない蟇目(強弓)をよく引くほどな鍛えもある。
長い顎から禿げ額までが、その面長をよけいにのぺッと見せているが、富裕で子福者らしい人相を邪げてはいなかった。
「お変りもなく」
と、その兄の姿を見上げながら、悪四郎泰長は、他人行儀に遠くで手をつかえていた。
もっとも、兄との対面は、何年ぶりやらわからない。
しかもこの深夜、とつぜん故郷の門をたたいて、兄の長年やら義姉やらの、一家を驚かせたものである。
「いや変ったさ。わしもな」
長年は見よがしに、薄い髪の毛をなでまわした。
壮年からもう若禿げの方だったが、なるほど地肌も透くばかりとなっている。その少ない髪では茶筅にも結えないのだろう。二つに折って、塩辛トンボみたいな小さいちょん髷に結っていた。
「変らぬのは、悪四郎、おぬしじゃないか。……もう寝所に入りかけていたところだったよ。びっくりしたわさ。あいかわらず突ッ拍子もない」
「この数年間、一片のお便りだにせず、いきなりこんな深夜飛びこんでまいりまして」
「いやまあ、それはいいが、人払いしてくれとは、いったいどういう用なのだ。まずそれを聞こうじゃないか」
「兄上」
ずっと、膝をつめて来て。
「じつは今夕。隠岐のみかどのお供をして、近くの浦までご案内してまいりました」
「……?」
長年は、返辞もしなかった。
ただ穴のあくほど弟の顔を見まもってはいる。そしてつく息も忘れている。
弟とはいえ、ほんらいなら門を潜らせる弟ではない。義絶と世間へもいってあるのだ。なにしろ一族中での放埒者だ。
それを、亡父の行高は、盲愛していた。末子の甘やかし程度でなく。
「いまどきの若い者なら、悪とよばれるほどでなければ、行くすえ大をなすことも出来ん。大山の麓の寝牛みたいな凡児どもには、心配もないが愉しみもない」
と、言ったりしたので、この驕児はなおいい気になって悪四郎の悪名を自慢にしていた。
のみならず、あげくには長年の家臣末吉真吾という者の恋女房を奪って逐電してしまったのである。――以後、たまたま家人のうわさにでものぼれば「……悪四郎か。そうだなあ。たぶんは、よくて野伏りの頭にでもなっているか。さもなくば、散所民の中にでも落ちていることか」と、長年は淋しげにいつも笑い濁していたことだった。
「兄上。こう申しても、てまえの言では、なかなか、ご信用もございますまいな」
「いう通りだ。事にこそよる」
「ですが」
「まあ待て。おぬしはこれまでどこにいたのか」
「隠岐にいました。隠岐の配所の柵守をしておりました」
「ふうむ。誰の手について」
「塩冶殿のいとこ、富士名義綱と知りあい、その手づるで」
「それはここ一年のことだろう。それいぜんは何していたな?」
悪四郎は急にあたまを掻く。すると以前の悪冠者らしいツラだましいが、その薄笑いの底にチラとする。
「イヤ兄者人、そこをふかく訊かれると、なんともはや面目はございません。こうお顔向けもならなくなる」
「なにさ」
長年は打消して。
「いまさら糺明するわけではないよ。ものの順序として訊くのだ。誤解するな」
「まっすぐいってしまいます。郷里を出奔してから三、四年は都にいて、酒、ばくち、喧嘩の口きき、時には火つけ押込みまでやりましたが、或る時、恐ろしく強い相手に出会って、これこのとおり」
と、左の肩の狩衣を少しはだけて、古い刀傷の痕を、まざと灯下にさらして見せながら、
「死ぬ目に会ったのが、いい境目になりました。女とも別れて、ひとつえらい坊主にでもなろうかなんて思い立ちましてね」
「僧門に入ったのか」
「ところが寺を覗いてみたら、これまたばからしくて居られやしません。またぞろ諸国を流浪です。けれど年も三十と気づいたら、急に矢もたてもなくなりました」
「なにを感じて」
「いまという世に生れたのに、生命の使い道を知らなかったと、世の中を見直したんです。で、真人間の道をさがすべきだと性根を入れかえ、それには兄者人へお詫びしてもらおうと、むかし仲のよかった塩冶殿の一族富士名ノ二郎義綱をたよって行き、しばらく身を寄せておりました」
「む。そして」
「するうちに、その義綱が、隠岐の配所の警固方に命ぜられ、どうだ、貴様も行かないかというすすめです。こっちはどうせ食客の体、否やはありません。すぐ柵守の一員に加わって、共に島へ渡ったという次第。それが去年の夏の初めでした」
「そうだったのか。いやあらまし分った」
「あとは兄者人にも、ご明察がついておりましょう。何となれば、ここ伯耆の大山と、隠岐の配所とでは、海を越えての暗黙なお語らいが疾くより交わされていたはずです。……てまえの帰郷はとつぜんでも、帝のご脱出は、兄者にとって、決して寝耳に水とは思われません」
「いかにも」
長年は大山の相そのものを自己としているような温容だった。
「そのことには、なにも驚きはしておらんよ。意外なのは、おぬしが帝のお使いに立って来た一事だ。どうして今日まで、隠岐におることを、そっとでも、この長年へ告げていなかったのか」
「郷党へも兄者人へも、悪名のみを刻みこんで、多年、郷里を離れていた四郎泰長です。白々しい消息などは書けません。それよりは事実を以て、お詫びの日を期していたわけでした。ですが兄者人」
「なにか」
「帝の御使には、べつなお方が渡られたのです。てまえは御勅使の案内者にすぎません」
「えッ、ほかにどなたが?」
「六条ノ少将千種忠顕卿を、つい来る途中の加茂神社に、お待たせしてあるのでございます」
「なぜ早くそれをいわぬ」
長年は、叱った。
「勅使にたいしてご無礼な。悪四郎、すぐ走り戻って、お迎えしてまいれ」
「ですが、念のため申しまする。兄者人、いかにお身内のみの館でも、公卿のご風貌とはすぐ分ります。大事ございませぬか」
「なるほど」
ちょっと、黙考して。
「こよいの宿直には、おぬしに女を奪られて、いらい悪四郎ときけば、目のかたきにしておる末吉真吾も詰めておる」
「一人でも異心がいては、うかとご案内はできません」
「というて、長年から館を出て行けば、松明の気でもすぐ近郷に知れわたる。……お、こうしよう。よい口実を持たせて、末吉真吾はさっそくに日野川の上まで使いに出す。おぬしは加茂にお待たせしてある千種殿をつれて、頃合いよく出直せい」
「こころえました。――御船のみかども、一刻千秋のおもいで沖に待ち漂うておられましょう。――お館の方でもお抜かりはございますまいが、いやが上にも、お緊密に」
「よしッ、はやく行け」
長年が奥へ入るのを見て、悪四郎も、つと中廊下の果てから外へ消えた。――この夜、海上の不知火はここらの里ではわからなかったが、しかし、おなじ下弦の月が空にあった。
名和家の門のひそかな人出入りはそれからだった。ここは大山の麓といっていいほどだが、その大山の影も見えない夜霞が館の灯から物音までも朧にしていて、世間の耳目をそらすにはまたとないような桜月夜の――また“春眠暁ヲ知ラズ”の時刻だった。
正装した長年が、
「異存ないな」
と、一同へむかって、念を押したときは、どことなく、春の朝が、人々の顔をほのかに見せだしていた。
夜来、ここへ呼び集められていたのは、長年の子、小次郎長義、孫三郎基長、六郎太義氏、いちばん末子の竹万丸。
また一族では、甥の鬼五郎助高をはじめ、鳥屋彦七、宇田川義直、左摩大八、荒木宗行、それに家職の車尾丹玄などを加えても十五人にみたなかった。
けれど、これだけは、長年がどんなにも心をゆるしうる者たちだった。
ただ親心として、ここに欠けている顔が一つ気にかかる。それは六波羅の召しに応じて、否みようなく、幕軍の一隊として、中央へ出ている嫡子の太郎義高だけがいなかった。
「……それにしても、うかつであったよ」
長年は、一同への話をもどして、心の底のものを、つかみ出すように呟いた。
「よもや、まだかと、時機をはかっておるうちに、勅使はすでに、この里へお臨みなのだ。帝は沖のお船で吉左右をお待ちとある。……何ともあわただしいこととはなった。しかし、日ごろの申しあわせはみな忘れてはおるまいな」
「ご念にはおよびませぬ」
揃って言った声が、長年の耳をほがらかにした。朝の花明りは見るまに明るさをましている。
そのとき、小走りに廊へ見えた郎党が、勅使の忠顕と悪四郎の訪れを告げていた。
悪四郎の案内で、やがて勅使は名和家の大床へ通ってきた。
そこは水を打ったよう。
名和又太郎長年をはじめ、腹巻狩衣の一族は、一様にヒレ伏して、しばらく仰ぎ見もしない。
どこかの山桜が、朝風に身をゆすぶッていた。その白い斑がここにもヒラヒラと遊んでいる。
やがて、上座の辺で、
「――儂は、みかどのお使い、六条ノ少将忠顕」
と聞えたので、一同はすこし頭を上げた。けれど、
「みことのりです!」
と次いでの声に、背の波は一せいにまたしいんと沈んだ。
「かねて、当家をば」
忠顕の発音も、しばしは口の唾液を待つような渇きにカスれがちである。
彼自体が、ひどい疲労に耐えていたのでもあるが、成否の重大さにも、硬ばらずにいられなかったことだろう。その身なりも名和一族のきらびやかにひきかえて、彼は島以来の荒海藻にひとしい囚衣のままだし、もとより冠はいただかず、蓬頭垢面そのものだった。
「……疾くより、みかどにはふかく御たよりに思され、時あれとしておわせしが、宇内八荒のありさま、今や坐視あらせらるるに忍び給わず、ついに御意を決して、二十四日払暁、隠岐の柵より波濤をしのぎ出でられ、百難を排して、この伯耆沖までお渡りあった次第です」
「…………」
「さ候えば、即刻、みかどをお迎えし奉ッて、かねがねの手筈にたがわず、山陰の宮方をこぞり集められよ。――御諚、以上のとおりであるが」
忠顕はわざと、語尾のにごりを残して、
「お受けあるや否や。事は猶予をゆるしません。もしお迷いならば、帝の御船を移して他の宮方へおん頼みあるべしとの内議もある。――ご即答をえたい」
と、語をむすんだ。
長年はすぐ答えた。
「かしこまりました。伝来の弓矢も、かかる日のお頼みに会うは、面目というものです」
「義心お変りないか」
「否やはございません。――なれどこの地の近郷にも、幕府方の武豪輩があまた虎視を光らしておりまする」
「それや、さもあろう」
「かつは、この名和ノ荘といい、名和の館と申せ、平野の小丘です。楯、櫓を布くによい地相ではありませぬ。――しかしまだ、みかどがお船にあるこそ良けれ、日暮れを待って、近くの加茂の村社へお迎えいたし、そこでお身支度のうえ、ここより東二里余の船上山へ安んじ奉りたいとぞんじまする」
「船上山へ」
「そこも大山のうちです。鳥ヶ峰、矢筈山、かぶと岳などにかこまれて、山上はひろく、長期の行宮にも、敵のふせぎにも、万全と申せましょう」
「ではその由を」
と、悪四郎をかえりみて。
「悪四郎、めでたいな。事は成就とみえた。沖のお船でも、みな首を長うしておられるに相違ない。いざ、もどろう」
とばかり、すぐ立った。
長年は大床から退がるとすぐ、末子の竹万丸を一室へよびよせていた。
「竹万、いまからすぐ大山の叔父御の許へ急いで行け」
「お手紙でも持ちますか」
「筆をとる暇もない。たった今、そちも勅使のお旨をみなと一しょに伺っていたであろうが」
「はっ」
「あの通りを、叔父さまの信濃坊源盛につたえればよいのだ。源盛もこんな急とは思いもよるまい。……だから麓へ下って来るにはおよばん、ただ船上山の方の手配をすぐたのむと、この父に代って申せ。そしておまえも叔父さまの手に付いて、ここは一生の働きどころと思うて働け」
竹万丸は、ことし元服をひかえている十五歳だった。
だいじな連絡にこんな乙子を用いたのは、少年の一途と敏捷のほうが、なまじな者よりは安心とした長年の考えだったものだろう。――須臾にして、小鳥のような竹万丸の姿は、名和から東南へ三里ほどの大山の霞のうちへかくれていた。
ここで寸言すれば。
名和ノ庄の大地主、名和又太郎長年の“長年”という名のりは、あとで後醍醐帝から賜わったものである。このときはまだ“長高”といっていた。
が便宜上、長年を使ってゆく。
それと「伯耆巻」「船上記」「増鏡」「梅松論」すべてが、帝の潜幸事情を、漂流者のあてなしみたいに観て、長年もまた、勅の意外におどろき、俄に旗上げを計ったかのごとく伝えているが、この大冒険は双方共に、そんな生やさしい小芝居の沙汰ではない。
長年の立場からいおう。
名和家は平安朝いらいの旧家で、北日本海第一の大岳といわれる大山のふもとに住み、王朝藤原氏が盛んなころにできた大山寺、三輪明神、修験の大道場などを背景に、神領の領家として富んできた一族。
海幸、山幸にはめぐまれ、日野川に産する砂鉄は刀鍛冶にはなくてならない物であり、大山祭りの年四たびに開かれる上市下市の牧の牛馬の売買からあがる税も少なくはない。
だが藤原氏の衰微につれ、大山もさびれて来たし、ひいては名和家も今は萎みを呈していた。幕府の地頭政策から、領土もだいぶケズリ奪られ、ほかの地頭が近郡にはばをきかせて来たせいでもある。
時しも、といっていい。
はるか吉野にある大塔ノ宮や、正成の手にかくれている四条隆資や、居所不明の北畠親房などから、播磨の大山、伯耆の大山の二つを通して“お味方”をすすめてきた。
隠岐からもまた再三、海人の便りに託しての密使があった。――それらはすでに去年のことに属している。――早くに密契はささげていたが、こうその実現が急とは、長年にも想像しえなかったわけである。
「……奥方、ちょっと加茂の梶岡入道の家まで行ってくるぞ。留守のまに、一族の者から勅使のしさいを訊いておくがよい」
こんな大事をその日にひかえた彼ともみえない。午ごろである。長年は加茂村の一武家屋敷の門を、さも閑人らしく訪ねていた。
梶岡ノ入道永観は、もう隠居の法体だが、長年にも頭の上がらない人だった。長年の亡父の遺言中にも“何事ニ依レ永観ニ談ゼヨ”とあるほどで、いわば一族の長老だが、とかくふだんは敬遠していた門なのである。
よも山の話のすえ、
「世も変りましたな」
長年がそろそろ、談を時勢の昨今へ持ってゆくと、
「変り過ぎるわ」
と、永観は憤慨した。
あさましい事だらけだと、この老人は嘆じてやまない。
老人の論法はすべて今と昔の“比較”に基準をおいている。
また、北条泰時の善政時代や、最明寺時頼の名君ぶりなどが、あたまの髄をなしていて、
「じたい今の天皇家もなっておらんわ。王道がどこにある。利己、栄誉欲、喧嘩、すべて凡下並ではないか」
口吻でもあきらかなように、永観は徹頭徹尾な北条支持者であった。――幕府もいけないが中世幕府ごろの善政に醒めるべきである。流血は無用だ。改革の次に何が来るかだッてわかりはしない。承久の愚を二度もくりかえすな、というのが持論なのである。
「ですが、ご老体」
「ですが? なんじゃの」
「かりに一天の御座にもあるべきお方が、ここらの浦へ一舟を寄せて、もし、頼むと仰せられたら、どうしましょうなあ」
「どうもこうもないわさ」
「ご老体でしたら」
「ただちに浜へ弓矢を布き並べ、匹夫同様なご行動は、おつつしみありたしと、申そうず。それでもきかねば追ッ払う」
「でも、窮鳥フトコロニ入レバの古語すらあるではございませんか。わけて武門の情け、この国の者として」
「嘘よ」
永観は一笑し去って。
「長年どの。そういうお腹の底には、家のほまれ、またあわよくば、潮に乗って、という欲心も道づれじゃろ。武門おおむねの唱える大義も、まあそれじゃな」
「しかし名を尊び家を興すは、武門の伝統ではありますまいか。時にし会えば」
「人間、無事にめぐまれていると、ふと、ひょんな気もおこるものだ。……何かの、ここらの里へも、そのような風が吹いて来たとでもいう仰せか」
「いや万一の日の心得に、お伺いしてみたまでです」
「わしは知らんな、そんな賭け事は」
「さよう、知らぬことにしておいていただければ倖せだ。輩には夢もありますので」
「夢か。夢をみるなともまさかいえまい」
「いっても肯くことではございませぬよ。ご老体とはやはり一ト時代ちがった人間どもが今の名和ノ庄の中堅でございますから」
「ま。一献まいろう」
永観は酒を出させた。
多くは飲まなかったが、昼酒にぼうっとして、長年はやがて門を辞した。それがもうたそがれ近い。
館へもどるやいな、彼はすぐ身を鎧い、ふたたび名和の丘から馬で駈け出していた。三男基長だけを残して、息子の長義、義氏もつづき、甥の鬼五郎助高、鳥屋彦七らは途中から加わった。
浜まで、一里にも足らない道。
「鬼五郎、松葉をいぶせ」
長年が、甥に命じる。
そして波打ちぎわを前に、一族四、五十騎はヒソとかたまりあいながら、沖のこたえに固唾をのんだ。
落日と共にあらゆる虚空音も雲の果てに吸い込まれたような一ときだった。そこの人馬や波の模様も靄々としておぼろである。ただ合図の煙だけが白くまっすぐに立ちのぼる。
このとき帝を待った名和党は一説には、五、六百騎ともあるが、近郷の小波、赤崎、中山谷などには幕府方の地頭、守護代がそれぞれ土着していたのである。――事は電光石火な離れ業にもひとしい。――何でわざわざ人の耳目を引くような大人数をうごかそうや、である。
ほどなく、何かを波間にみとめたのだろう。静かに、長年がまた言った。
「……一同、下馬いたせ。下にいてお迎えせい」
浜は遠浅らしい。
渚までの或る距離を残して、幾そうもの舟のうちから、人々の影はザブザブ白い波光を描きつつ上がって来た。男の背に負われた影も幾つかある。どれが帝か妃なのかも分らない。
「名和。名和はどこに」
おぼえのある今暁の声を聞きとめて、長年が馳せ寄って行くと、そこに千種忠顕の顔があった。
また、忠顕の横には、黙然と物に腰をおろしているただならぬお人影と二人の女性のかしずいているのも見えた。
はっと、長年は一そう身を低めて、とたんに何かいいしれない感奮に血を熱くした。眼に見て、想像以上な傷ましさに打たれたのだった。かりに天皇でないただの漂流人であったにしても一片の同情は禁じえなかったことだろう。ましてやと思う。それも昼、梶岡の永観入道が彼へ皮肉ったような功利を伴った感動でなかったことだけは確かである。彼はその年まで知らない涙をつい頬にぬらしていた。
「名和。ご用意は」
「は、すぐお供つかまつります」
「加茂村の社へか」
「一時そこへと存じましたが、梶岡の入道をば、説き伏せ切れず、やむなく予定がえして、ただちに山上の方へ」
「はなはだしいお疲れでおわせられるが」
「山坂もわずかな間。道はここから三里ほどしかございません。どうか夜半までのお怺えを」
「おお急ごう。……では」
と、忠顕はなぎさを振り向いて、ここで別れ去る者へ、深いひとみを送った。
岩松吉致や隠岐の一党はみな、元の海ばらへ返ってゆき、帝は駒に召され、妃の二人は、板輿に舁かれて、前後を黒々まもられながら、一陣の雨雲みたいに御来屋ノ浦から東南の方へ急ぎ出していたのであった。
悪四郎は徒歩で駈けた。――自分へ貰った裸馬の背へ、例の、能登ノ介の体をくくし付けていたのである。
二里余りを来て、野中で一ト息入れ、それからの山坂道では、名和長年が自身、後醍醐の大きなおからだを、わが背に負ってうんうんいいながら登って行った。じかでは畏れ多いといって背に荒菰を巻いていたので、りんりな額の汗のみか、彼の五体はまるで俵蒸し同様になっていた。
老人のつねで梶岡の永観入道もきまって夜半に厠に通う。だから彼は世間がいつものような深夜でなかったことは疾く感づいていたはずだった。わけて昼には名和長年が来て心得がたい意を洩らしていたことでもある。思いあたらぬわけはない。
が、永観はいちど起きたもののまたすぐ寝所へ入った。それきり一刻もたったろうか。もうどことなく遠い喧騒やら炎のハゼる音までも耳をすませば聞えなくはない。それなのに彼は枕もうごかさなかった。
「ご隠居さま。一大事です」
やがて、家人の騒ぎにやっと永観はそこから出て来て、
「何っ、怪し火じゃと。誰ぞ、見てまいれ」
と、仰天を装って共に立ち騒ぎ出したものだった。
すぐ続々と知らせが来る。
「火災は丘の名和殿です」
「十棟の籾倉から物ノ具倉、母屋もはや炎でございまする」
「なお不審なのは、厩に馬もいず、女房方や童まで見えません」
なおそれ以前に、籾倉の食糧は、近村の老若が一荷一荷かついで山地へ運び去ったという風聞も聞えて来た。
「しゃッ、奇怪千万。そこらの百姓女房二、三人をひッからめて来い」
永観はさっそく、それらの里女房たちを取調べた。その結果、判明したところはこうだった。
まだ宵のころ。
領下の農家全般へ布令が廻った。足達者なものはよい銭稼ぎを与えようぞ、御館の丘へ集まれ、とのこと。
なるほど、籾倉の前には、銭俵が裂いてあった。――そして名和殿の三男基長のさしずの下に「女子供たるを問わず、誰でも、食糧一荷をかついで船上山まで運んでゆく者には、銭一トつかみずつとらせるぞ」という号令だった。
百姓たちは有卦に入ったような昂奮の渦をまもなく蟻のような列に変えてえんえんと山路へつづいた。その中には武者に付き添われた名和殿の奥方や小女房も交じって行ったようではある。――が、たれも山路の喘ぎにかえりみてはいられなかった。――するうちに、はるかな名和殿の丘に炎を見たので、さては何か大事件かと初めて気づき、銭をふところにしながらも、みな胴ぶるいを覚えたという自白なのだった。
「よし、おまえらに科はない」
永観はその者たちを解き放してから、ただちに少ない家の子郎党を一つ庭へよせ集めた。
「ひる、あれほど意見しておいたのに、名和殿は自分の勇を恃んで、分不相応な野心に駆られ去ったとみゆる。……こうなっては早や同族のよしみもない。名和長年は鎌倉どのの反逆人、この永観にとっても敵だ。すぐ出馬の用意をせよ」
すると、そのとき近郷の稲井瀬ノ五郎義弘という者が、手勢をひきいて門前へひしめいて来た。彼はこのへんでの鎌倉目付といわれている男なのだった。
「永観どの、大変だ。折も折、夜見ヶ浜からの早馬には、天皇がこの地方へ逃げ込んだという沙汰だぞ。そのため隠岐ノ判官の追手三百余人が、いま上陸中だとある。名和は早くも裏切りとみえるが、当家の向背はどうなのだ。ただちに隠岐の追手へご加勢か、それとも裏切り者の名和と一つ腹か」
「心外なご疑念を」
と、永観は門外へ出て来て、言い放った。
「たとえ同族でも、長年めの裏切りはゆるしがたい。われらは鎌倉殿へ二心のない者、いざすぐ隠岐の判官の追手へ力をかし申さん」
彼の家の子郎党といっても、わずか三、四十人にすぎなかったが、全家をあげて稲井瀬ノ五郎の手へ合流し夜見ヶ浜のほうへ急いだ。
そのころ、淀江あたりを中心に、浜では、隠岐の追討勢があらまし上陸を終っていた。
しかし首将の清高以下、兵の二百余人はみな舟暈いでもしたような疲れを引きずって、はなはだ気力を欠いていた。
むりもない。
帝の脱出とわかって、大あわてに島後の船手を編成して海上を追ッかけ出したときからして、すでに半夜以上な手おくれは踏んでいる――。
そのうえ途中で島前の船手を糾合してみると、これがまたほとんど支離滅裂の状態だ。
もっとも能登ノ介清秋が宮方の手に拉致されて行った風聞はもう島々に高かったから、それ一つでも士気の沮喪はやむをえないことではあった。けれどこのおびただしい追捕の船列が、翌晩、みすみす伯耆沖で帝の逃亡船らしきものをみとめながら、それを拿捕できず、かえって一夜中、疲労困憊のさまよいを海上にみせていたのは、いったい何の理由であったのか。
清高は、錯覚したのだ。
あのさい、べつな方向へ、遮二無二逃げてゆく一舟群を見たのである。
追っかけてみると、その舟群からは猛烈な抵抗があり、それこそ天皇坐乗のものにちがいなしと直感された。そこで彼は、全船列の舟かがりを滅灯させ、どこまでもと、追跡して行ったものだった。
ところが、夜が明けてみると、そこはもう石見沿岸寄りの近くで、名も知れぬ島嶼のかげに隠れこんだ相手の大小の船をみると、その帆ばしらや舳には、樺色地に白く“唐梅紋”を抜いた海賊旗をかかげている。――つまり名うてな阿波の岩松党だ。さてこそ不審。――清高は一そう疑いを深くした。
このため彼は岩松党を相手に、半日以上にもわたる喧嘩腰の交渉につい時をつぶしてしまった。結果は、先方の船をのこらず見せてもらって落着した。もとより後醍醐はいなかった。帝はおろか宮方臭い一人もいない。
どっと舟べりで沸く笑いを浴びて、清高以下の隠岐勢はもとの海路へひきあげ去った。彼も兵もくたくたになったのは当然である。でも追捕の急はゆるめもならず、捜査の手を海陸にわけて、やっと夜見ヶ浜へ上陸とまでの、目ぼしをつけて来たものだった。
「おそかったぞ、隠岐どの」
浜迎えに出た小波の田所種直も、地だんだ踏ンで、こういった。
「不覚はわれらにもあるが、目標のお人は早や船上山の上らしいのだ。事ごと、出し抜けを食わされておる」
小波の城は、淀江から南へ半里だ。
稲井瀬ノ五郎や梶岡の入道永観も駈け合わせて来て、ここはたちどころに、幕府方の拠る船上山攻めの本陣のかたちとなった。
北日本の平和は一夜に様相を変えていた。
急を告げる早馬は、六波羅や鎌倉へ、狂気のようなムチを打ちつづける。
同時に、地方武士から在国の間でも、これまでの日和見主義や対岸の火災視はゆるされず、即座に、
船上山の宮方か。
幕府勢の寄手につくか。
の去就をせまられたことでもあった。
何といっても地方ではまだ幕府依存の根がつよい。寄手は日ましにさかんな旗幟を加え出した。逃亡天皇の追捕と聞く大きな功名心のまとも彼らの眠っていた野望をふるわせたにちがいない。
中でも、船上山から北三里の赤崎城にいる地頭三河守清房は、まッさきに小波城の隠岐勢にこたえをみせた。
また、船上山へはもっとも近いところに位置している中山谷の糟谷弥次郎重行もただちに寄手として立った。
とくにこの糟谷は生ッ粋な鎌倉武士だ。それに伯耆の守護代でもある。だから彼は、
「隠岐の武士どもは、昼寝でもしていたのか。野良猫に籠の鳥を取られるのも知らずにいたとは何たるうつけだ」
と、罵り立ったものである。
このほか小鴨城の小鴨治部少輔元之なども迷うなく幕府方の名のりをあげ、船上山の東方へはや兵をすすめていた。
これを戦図上でみれば、船上山をかこむ西、北、東、あらましは有力な幕軍である。――小波の城を本拠としてやや心身の疲れをとりもどしていた隠岐ノ判官清高も、
「このぶんなら」
と、やや眉をひらいた。
が、じっさいには彼として苦慮にたえない空気がみえる。
寄手は随所に奮い立ったが、しかしそれを統率する大将というものはない。六波羅から特命の将でも下ってくればだが、清高は、隠岐一島の守護にすぎないし、それに帝の脱島を追って来た、いわば不始末を起した下手人でしかないのである。
そんな不覚者を、首将といただいて、彼を助けようとするような人のいい地方武者は一人もいない。みな「おれこそは」の気ぐみなのだ。清高の失脚などは意に介するところでない。わが手に後醍醐を捕って、賞にあずからんとする方がみな急だった。
ために船上山攻めは、おそろしく急速に、また気負い込んでくり返されたが、そのほとんどが惨敗だった。個々、てんやわんやの戦列や突撃が因をなしたのはいうまでもない。
「隠岐殿っ。……能登ノ介と申す者が、山上から逃げ落ちて来た。島から捕われて行ったあの能登ではあるまいか」
彼が、こう聞いたのは、田所種直や稲井瀬ノ五郎や入道永観らと共に、船上山へむかって、野陣を布いていた陣場のうちだった。
「えっ。能登が生きて?」
清高は、半信半疑に、
「能登といえば、わが叔父御にちがいありません。どこへ来ていますか」
仮屋としている農家の土倉から出てみると、なるほど、見知らぬ一人の武士と姿を並べて、茫然と変りはてた能登ノ介が、眼もうつろに佇んでいた。
季節は三月に入っている。山襞の深いところまで木々の芽ざしが色づいたり思わぬ花があったりする。おびただしい武器や兵糧を持ち込むさえ造化への冒涜であるような初々しいこの自然環境も、血まなこな戦争目的の下には、どんな大木の伐採だろうが土ケズリだろうが惜しみなくされていた。のべつ山上か山腹かには何かの煙が立ち迷い、西坂、猿坂などの泥土が敵味方の血のぬかるみとならない日はない。
「信濃坊」
長年がよんでいた。
折りえぼしに、卯ノ花おどしの、背のたかいその姿を、信濃坊源盛は遠くからふりむいて。
「おう兄者ですか。何ぞ?」
「どこへ行く」
「西坂が危ないそうですから」
「案じるな。鬼五郎助高、鳥屋彦七らに、山上の兵を引ッ下げさせて、さっそく助勢にやってある」
「でも若い者まかせでは」
「いや若いのにまかせておけ。それよりも、もっと大策を講じておきたい」
帝を背負って、ここへよじ登った夜から早や半月余だ。行宮の朝夕もまずはととのい、防禦もほぼ万全といっていい。なによりは船上山そのものが天与の地の利であったとおもう。
二人は黙然と三所権現の杉木立をうしろに腰をおろした。帝の御所は、はるか奥の院のほうである。衛士の役はすべて、信濃坊源盛の手であつめられた大山の僧兵があたっていた。
「源盛、これを見てくれ」
兄長年が、よろいの袖から取り出して見せた一書状を手に。
「や、永観入道の筆ですな。……あの頑なな入道どの。降伏でもすすめて来たのですか」
「まあ読んでみい」
「……は」
黙読してゆく源盛の瞼は赤くうるんでみえた。
永観はこう書いている。
――先頃はつらい別れ方をしたが、これでわしもさっぱりした。正直、おまえ方の亡父行高どのに、名和家の後事やおまえ方の後見などを頼まれて死なれたことは、ずいぶん多年の間の心の荷だった。
しかし昨日今日、船上山にひるがえる無数な旗幟をはるかに見て、これでわしの任はすんだと、ひそかにはうれしい気もする。
だが、わしは根ッからの鎌倉武士だ、まだ弓勢に年は老らせていないつもりだ。そのつもりで貴さまら兄弟も善戦してみせてくれ。わしも決して弓の手を弛めはしまい。
ただひとこと言っておくが。
ゆくすえ再び名聞や利欲の争いに踏み迷うなよ。わしなどは古びた最後の鎌倉武士なのかもしれないが、年の功とやらでそれぐらいな将来は眼に見える心地がするのだ。
いずれ拝面しようが、そのときはおそらく無言の対面となろうから、なつかしきままの一筆を。
「……兄者。これは失くさず大切に仕舞っておくことですな」しかし昨日今日、船上山にひるがえる無数な旗幟をはるかに見て、これでわしの任はすんだと、ひそかにはうれしい気もする。
だが、わしは根ッからの鎌倉武士だ、まだ弓勢に年は老らせていないつもりだ。そのつもりで貴さまら兄弟も善戦してみせてくれ。わしも決して弓の手を弛めはしまい。
ただひとこと言っておくが。
ゆくすえ再び名聞や利欲の争いに踏み迷うなよ。わしなどは古びた最後の鎌倉武士なのかもしれないが、年の功とやらでそれぐらいな将来は眼に見える心地がするのだ。
いずれ拝面しようが、そのときはおそらく無言の対面となろうから、なつかしきままの一筆を。
えいかん頑老
状を巻いて、それにお辞儀をしながら、源盛は長年の手へ返した。
「おっ、ここにおいでか」
そのとき、末弟の名和悪四郎が何事か息をせいて駈けて来た。
ひどくあわてているらしい末弟の様子である。長年も源盛も共に腰をあげて。
「悪四郎、何が起ったのか」
「どうも面目がありません」
「何がそう面目ない」
「抜かりました」
「とは?」
「土牢へぶち込んでおいた能登ノ介めが、合戦のすきに逃げ失せたのです」
「一人ではできないことだ、たれだ手引きした者は」
「かねがねてまえに恨みをもっていた末吉真吾でした」
「末吉真吾か」
長年は苦笑した。
「ありそうなことではある。とは承知しつつ、ここにおいていたのも長年の落度だった。まあいいじゃないか」
「よくはありません。これで山上の機密は、のこらず寄手にわかってしまいましょう」
「わかっても仔細はない」
「そんな無茶な」
「いや暴言でなくだ。ほんとに、そう大した影響はあるまいよ」
「どうしてです」
「寄手の攻め振りをみると、隠岐ノ判官以下、糟谷、小鴨、赤崎らの手勢、それぞれは烈しく襲って来るが、みな功名の争いに急で結束のつよさはない。……それに日々、山上のお味方は増しているし、一人の能登ノ介などに騒ぐには当らぬよ」
そして長年は、二人の弟へ、
「記録所まで来ないか。――今日も各地からの応えが届いているにちがいない」
と、先に歩いた。
記録所には、行宮の智積寺の一坊が当てられている。たたみを上げ、ふすまを取り払い、そこの大床に千種忠顕が武将姿で床几に腰かけ、そして脚長な卓の上には、戦図や書類がいっぱいに拡げてあった。
「や、打揃うて」
忠顕は大容に三名を見て、
「何事だな?」
と言った。
この公卿はすでに近衛大将か何かのつもりでいるらしい。乾魚船の底にかがめていた背も、いまは尊大にかまえこんでいた。
かつは、後醍醐の御座をも、ここでは智積寺の行宮ふかくに奉じて、自己の伝奏によらねば、決して近づけさせることではなかった。はやくも禁門の制を布き、宮闕の威厳を復活させていたのである。
「さきに発せられた諸州へのお召しにたいし、今日も武士の応えが聞えておりましょうか」
「おおぞくぞく返牒がまいっておるぞ。これを見よ。いや読み聞かせよう、信濃坊も悪四郎泰長も聞くがいい」
すみに佇立していた僧兵が三名に床几を与えた。そのまに忠顕は一帖の“簿”を取り上げて、
「すべては大御稜威だな。それにいまの季節のようなもので、機運も熟して来たといえような。……まず近郷では、土屋彦五郎、おなじく孫三郎、阿陀加長貞、筑見九郎、鏡五郎左衛門惟村。いやこれはすでに、ここへ馳せ参じている者どもだが」
忠顕は、次を読んだ。
石見、長門、播磨、美作、備前、備中にまでわたる諸州の武士の名であった。それがみなお味方を誓って来ていた。中には児島高徳らの名もみえた。
しかし、児島高徳の名も、ここの参陣の“簿”のうちでは一個の小ヌカ星的な存在でしかなく、忠顕にも何の印象すらないようだった。
彼は“簿”を閉じて。
「とまれ、大物小物といわず、諸方の武士の去就はいま一にここの戦況如何にかかっている。名和の兄弟、ひとしお合戦にはげんでくれよ」
「御意までもなく」
と長年は苦笑をみせた。
帝事にかぎらず、軍の上にも臨んで、はやくも公卿大将気どりでいる忠顕のことばが、武士の彼には生ぬるくて、実感にはせまらなかった。
「われら弓取りは、必然、代々の名和ノ庄から妻子眷属までを、これの武運に賭けているのです。負けろといわれても負けられはいたしません」
「が、守るに専念で、まだいちども攻勢に出ておらんな」
「敵の疲れを待っています」
「したが、敵にも刻々援軍があろう。もう汐はいいはず。信濃坊、功を見せよ」
と、源盛の方へいった。あたかも、これまでには何の功もあげていないかのようにである。
「はっ」
源盛も悪四郎もちょっと恥じた顔をした。――長年の防禦一点ばりの戦法は二人もじつは内心いさぎよしとはしていなかった。
で、忠顕の命令をたてに、その晩悪四郎は、鬼五郎助高や鳥屋彦七らとしめしあわせ、敵の小波城へ夜襲をかけた。
また信濃坊源盛も、べつに一手をひきいて、夜半、中山谷の敵へ突いて出た。
「それみろ」
と、長年はその翌日、ふたりへ言ったものである。
夜襲はさんざんな敗北に帰したのだった。しかし長年は、その日をさかいに、
「攻勢に一転する」
と全山へ言明した。
このままな消極策は士気にかかわると観たのだろう。彼自身一陣をひきいて、いちばん遠い小鴨城へ間道から潜行して不意にそれを攻めおとし、つづいて赤崎を火攻めに苦しませ、転戦また転戦して四日めの朝、山上へひきあげて来た。
「兄者」
悪四郎泰長も、その留守のまに、兄に負けじと、小波の城を攻めつぶしていた。で長年を迎えるなり誇らかにそれの報告をして、
「隠岐ノ判官は、海上へ取り逃がしましたが、ごらん下さい。――能登ノ介の首、末吉真吾の首、小波のあるじ田所五郎左の首まで、かくの如くでござります」
と、それらの首級十幾ツをならべて検分に入れた。
長年が順に見てゆくと、その中には変りはてた梶岡の隠居、永観入道の首もまじッていた。
「ああ、永観どのか」
長年はそのしなびた法師首を抱き取った。そしてしばらくは涙と追憶になってしまった。
「信濃坊、供養をたのむ」
と彼へ首をあずけた翌日、長年はふたたび出て、中山谷を撃破した。――かくて寄手はほとんど伯耆の山野に影をひそめ、隠岐ノ判官清高は、残兵を載せて、島へ逃げ帰った。
けれど清高は、自領の隠岐も捨てて、またすぐほかへ逃げていった。なぜなれば、島全体が彼にそむいて、はや寝返っていたのであった。
船上山の攻防は、ほぼ二十日たらずで下火になった。
いかに名和長年の一族がよく戦ったとはいえ、これには地方における幕府への信頼感も一度に冷めはてたことであろう。終始、ついに六波羅からは一軍の派遣もなく、加勢も見ずにしまったのだ。
功名の慾は慾でも、
「鎌倉どのの恩顧にこたえん」
として寄手に拠った多くの地方武者をみすみす中央の六波羅は見ごろしに見すてていたようなものである。
わけて、あわれをとどめたのは、隠岐ノ判官清高だ。
敗れ帰ったあげく、本国の島民からも追われて、ぜひなく越前の敦賀へ落ちたが、以後いくらもたたないうちに、また六波羅の没落に会し、江州番場の辻堂で、さいごには腹掻き切って死んだとある。
“君を悩まし奉りける天罰のほど不思議なれ”
と古典太平記の筆者はいい気味みたいにいっているが、そうではあるまい。こういう小心で正直で乗せられやすい、そして官僚肌からも脱けられない憐れむべき人物は、いつの世のどんな場所にもいる。しかも平凡な日頃の中にえてしている。
また、太平記的な、春秋の筆法では、この合戦中にも、いろんな奇瑞や天変があったとしている。たとえば八幡大明神の加護が見えたとか、奇鳥の群れがお座所の上をめぐったとか、事ごと、奇を謳ッているのであるが、じつは人心が幕府を見かぎり出した兆し以外なものではない。四境の武門は、風を望んで、われがちのように船上山の御所へのぼって随身の誓いをささげた。――いわゆるものの勢い――これを見ては寄手の弓矢が逼塞してしまったのもむりではない。
「ことしは大山の祭りもなく、四月の牛馬市も立たないのか」
と一ト頃、里は暗澹としていたが、なんのことはない、例年のごとく牧の馬や牛を引いた博労が、ぞくぞく伯耆平野を過ぎりはじめてもいる。
「長年、お召しぞ」
ある日、彼は忠顕から沙汰をうけた。行宮の階下に、彼はぬかずいた。後醍醐は御簾のうちに、忠顕と行房が、外の左右に侍坐していて。
「追っては、叙位の恩命もくだされようが、こうなったのは、一にそちの忠勤にあるとのおぼしめしから今日は祝酒を賜わる。ありがたく存ずるがいい」
祝酒はべつな部屋でくつろいでいただいた。帝も簾をへだてて杯をとり、そこには妃の起ち居する気配もうかがわれた。
「かえりみると、隠岐を脱して伯耆へ上がるまでの日夜は忘れがたい」
後醍醐は言った。
そして、千種忠顕へ、
「そちは絵が描けよう。丸の中に帆懸舟をいっぱいに描いてみい」
「何になされますか」
「名和の家の紋に与えよう」
「これは破格な」
即座に描いて、
「これでよろしゅうございましょうか」
と、お見せした。
後醍醐はそれに和歌を添えて、長年へくだされた。――時運の風を満帆に孕んで、この天皇軍を、さらに都まで押し進めよと、それはなお長年へ宿命を負わせているような図であった。
恩賞の配与には当時もずいぶん気を労ったことらしい。
帝が、当座の嘉賞として、
帆かけ舟の紋
を長年に与えたなどは、いかにも当意即妙でよく武将の心をつかんでいる。名和家の子孫は江戸時代の頃までも、それを家紋として、祖先の船上山の功を誇りにしていたとのことだ。長年の感激はいうまでもなかったろう。
もちろん、その日につづいて、彼以外の戦功者にも嘉賞はそれぞれ行きわたった。特に、
成田小三郎
名和悪四郎
の二人は、島の配所いらいの殊勲者だし、ほかにも功労者は多い。しかし、さしあたって与える物もないので、帝は隠岐脱出のさいに召されていたボロの狩衣を細かに裁ち切らせ、
「まずは後日に恩賞を与える手形ぞ」
と、その小布れを墨付き代りに諸武士へ渡されたのだった。
そのさい帝は、長年の末子の竹万丸にまで、
「これを」
と、日常使用されていた黄楊の櫛をおやりになった、というほどの話もある。恩賞と人心の周波ともいえるような微妙な雰囲気の程度がわかる。
そんな或る日、
「富士名ノ二郎義綱が見えました。――出雲の守護職、塩冶判官高貞をつれ、御陣の下へ、高貞の降伏を誓わせにまいッてござります」
こう麓から山上へ伝令がきこえて来た。
「なに、高貞が」
武士の多くはいきり立ったが、富士名と一体の名和悪四郎のとりなしで、高貞の帰順は容れられた。なんといっても出雲の守護高貞の投降は、山陰道の風靡をここに決定づけた。
また鰐淵寺の頼源や大社の孝時らの、つまり武士でない社寺側と船上山との往来も、公然とひらかれて来て、
「春は来た」
との実感が、日ましに行宮の装いを厚くしていた。
――遠くから望んでも船上山の春は、春の花よりも諸州から馳せ参じた国々の武士の旗幟のほうが多かった。
「この上は、一日も早く」
と、千種忠顕は口ぐせに、長年らへいう。
「途々の敵を払って、めでたく元の九重の内に、帝駕の還幸を計らねばならんが」
「いやまだ」
と、長年はいつも止める。
「天下は蜂の巣の状です。夜の明けるたび各地からいろんな飛報は入りますが、情勢はまだ混沌です。もすこし見とおしをえてからでも遅くないでしょう」
この前後であった。
さきに幕府の召しに応じて中央へ出征していた、長年の嫡子義高と、弟の与一高則が、万難を排してここへ帰って来た。
「六波羅の内部は、どんな有様か?」
また、
「正成の千早城のささえはどうか?」
などを、義高はさっそく、下問された。
彼のはなしで、千早城の根づよい抵抗ぶりから、昨今の洛中の混乱ぶりまでを、人々は手にとるように聞き知った。
後醍醐は、義高へ、
「千早城を包囲しておる関東勢は何万か。――正成以下の士気はどうか。――籠城はなお幾月も維持できそうか」
などを仔細におたずねあって、河内の戦況には、特に関心の強さをしめされた。
義高は、その千早攻めにも加わっていた者なので、
「正成はいぜん健在です。それになぜか楠木の名は鬼神か天魔のように人々の間に浸透してしまったので、現地にある何万の将士も、幕府のあたまも、まるでそれ一つに取り憑かれたような躍起となっておりまする」
と前提して、知るかぎりを、言上した。
それと彼は、ここへ帰って来る途中で見聞した赤松勢の情況もおつたえした。
播磨の赤松円心は、とうに宮方同心の一族ではあり、かねて播磨の大山寺と伯耆の大山寺のあいだに立って、帝を船上山に迎える暗躍を果たしていた一人でもあったが、
「帝の都還りのお道は、わが赤松勢が先駆してみせる」
といって、二月早々に苔縄の本城を進発し、備前、美作あたりの武士二、三千をもあわせ、途中いくたびとなく六波羅勢を撃破しつつ、ついに京都のまぢかへまで迫っていた。
六波羅ではあわてて一万騎の新手を急派し、また阿波の小笠原勢三千もそれへ向けかえて、破竹の赤松軍をやっと尼ヶ崎附近にとらえ、そこでは完全に打ちたたいた。
ために大敗を喫した赤松父子は、わずか十数騎で乱軍からのがれたほどだが、なにしろ円心入道というのは、よほどねばりづよい男らしいのである。またたちまち残兵をかりあつめて勢いを盛り直し、じわじわ敵を押し返しながら、今やまた洛外淀川から山崎近傍の山野も染めるばかりな旗じるしを林立させ、
「両六波羅へも、都の内へも、ほどなく赤松円心の兵が、一番乗りを名のるだろう」
と豪語して、いよいよ意気衝天の軍威である。
しかしこの猛気の軍勢に、一歩でも洛内の地を踏むことをゆるしたら、それこそ北条氏総司令部たる六波羅の府は、たちどころな大混乱におちいってしまうほかはない。
そこで六波羅全軍も今は死力の形相を呈していた。
一方には難攻の千早、金剛をひかえながら、また一方には、破竹の赤松勢を、洛外桂川の一線でくいとめていたのである。――以上が、名和義高のごく最近な中央報告の一端だった。
× ×
そのころ四国方面では、伊予の河野党が、一族をあげて、
後醍醐推戴
の旗上げをふれ、土佐や長門へ打って出ていたし、また石見ノ国高津港の海賊、高津道性も海陸軍ふた手にわかれて、中国探題の長門の庁――北条時直の居館を水陸から攻めていた。
時直はやぶれて、闇夜に関門海峡を逃げわたり、一時九州へかくれたが、その九州もまた、昨今、八荒兵乱の相だった。
九州での、世にいう“博多合戦”なるものは、そのとし元弘三年三月十三日のことだった。うごかせない傍証もあるのでこれはほぼ確実といってよい。
だが。
船上山の上に後醍醐がおちつかれたのも、月の初めの朔日か二日である。そして以後は昼夜なき防戦だった。そんな中の、しかもわずかな日数のあいだに、どうして九州在国の豪族たちの手へ、帝の綸旨や下賜の錦旗などが行きわたっていたろうか。
どうもこれには裏面がある。帝の隠岐脱出と同時の頃に、べつに発せられた密使があったにちがいない。
でなければ、それ以前に、鰐淵寺などのうちで、いつでもという準備がなされていたものか、あるいは出没自在な海賊岩松党が、その役目までを引き受けていたのかとも考えられる。
とにかく、
船上山の詔
は九州だけでなく、山陰山陽から四国にまで発せられ、それの応えも恐ろしく早かったことに見ても、なにかの機密組織はあったのだろう。
それの一例とみられるものに「博多日記」の三月二十日の条がある。
今日、辻の木戸で怪しの男が捕まッた。八幡弥四郎と名のッて、さまざま口実を構えていたが、体じゅうから密書が出てきた。それは大友、筑州、菊池、平戸、日田、三窪らへ宛てた六通の院宣だった。――とあるのである。密書や密詔の往来がいかに頻繁だったかが察しられよう。
「筑紫は火の国だ、血の気が多い。……気をつけぬと」
九州探題の北条修理亮英時は、伯耆から次々と入ってくる船上山の情報を手にするたび、
「ここも?」
と、予感せずにいられなかった。
そこで彼は、時局の談合に名をかりて、日ごろ怪しいと見ている武門たちを、いちど博多に呼びあつめ、その真意を確かめておこうとした。――彼の黒表にのぼっていたおもなる大族は菊池、阿蘇、少弐、大友の四家だった。
その召集をうけた肥後の菊池武時は、
「ただではすむまい。いッそ迎え潮と申すもの」
と覚悟して、日ごろの盟友、阿蘇ノ大宮司惟直ともしめしあわせ、まず彼のみ家の子郎党三百余騎をつれて、博多へ出た。そして息ノ浜に宿営した。
すでにこの一月にはこんなこともあったのだ。
彼と阿蘇惟直とは、鎌倉の令で河内の千早攻めに参戦を命ぜられていた。で、備前の鞆ノ津までは舟行していたが、急に引っ返してしまったのである。
途上で大塔ノ宮の令旨をうけたのだ。そして、それいらい両者は阿蘇の麓でじっと雌伏していた。ところへ、つい数日前、さらに船上山からの檄に接していたのである。密詔と錦の旗とを、下賜されたのだ。
そのことは「武時申状」や「博多日記」にもあるのでまちがいはない。また下賜されたのは菊池武時だけでなく、阿蘇、少弐、大友の三家も同様であった。――探題の北条修理亮英時が全然知らないでいるはずもない。
菊池武時には、べつに、
寂阿
の法名もあり、入道姿だが、年はまだ四十三、四の壮者だった。
「行って来る」
彼の馬上姿は、あまり立派ではなかった。小づくりなうえ色が黒い。それに彼は頭巾や烏帽子を愛さない。いつも素頭である。その素頭も毎日剃るわけではないから浅ぐろく伸びていた。
「行ってらっしゃい」
彼を見送った一族大勢の中には弾んだ子供の声もまじっていた。武時には妾腹の子がたくさんあった。――肥後からこれまでの道中、探題方の眼を油断させるためかどうか、そんな幼いのも連れていたのである。
息ノ浜の宿営地から街の探題邸までは、入江に沿った松原つづきで、途中に櫛田神社がある。
「…………」
その前で、彼はちょっと馬をとめた。降りようとした風である。しかし降りもせず黙祷もせず過ぎ去った。
博多の探題邸は一城郭のおもむきをなしていた。いわば筑紫九ヵ国の鎮台だ。少弐、大友、島津をはじめ鎮西の諸豪はみなもう駒をつないでいる風だった。
「肥後の寂阿でおざる。ただいま伺候つかまつッた」
すると、探題の侍所、広田新左衛門が中門で立ちはだかった。
「ご遅刻もはなはだしい。武時入道には何しておられた。すでに御会議はすすんでおる」
「ほ。さほどな遅参とも心得ぬが」
「それじたいが、いかに今日の時局へも無関心かを、尊公みずから言っているようなもの。お帰んなさい」
「なに立ち帰れと」
「着到に附すことはなり申さん」
「そうか」
「ご会議は明日もおこなわれる。明日は懈怠なくまかるがいい」
「む。出直そう」
武時は栗の皮のハジケたような笑いを一つ見せて、素直にそこは退きさがった。
しかし息ノ浜では晩にかけて、篝を焚き、酒をあたため、さかんな感興をわかせていた。――探題方の密偵は、その猥歌やら裸踊りの狂態を見とどけ、余りのばからしさに呆れて帰った。――が、深夜の宴はまた情景をかえていたのだった。
童や老人は、ちりぢりに、どこへともなく落ちて行き、そしてあとの三百人ほどな屈強だけは、いつのまにか具足、よろい、頬当までして弓の弦など調べていた。――時刻はそろそろ十三日の寅の一天(午前四時)に近かった。
「オオ、いい音だ」
兵士たちはふと耳をすました。鼓を打っている者がある。それは武時の次男三郎左衛門頼隆だった。二十一、二歳の美丈夫でまた生来の大酒であった。まだ名残り惜しげに杯を前においている。
「父上、一とさしお目にかけましょう」
こんどは父や一族の前で、頼隆は立って舞いはじめた。――もう探題御所へ朝討ちをかける時刻に迫ッていたのである。――物蔭から見ていた兵士たちはつい眼を熱くしてしまった。頼隆はつい先ごろ結婚したばかりで、娶ってからまだ十六日にしかならない新妻を肥後の郷里に残してこれへ来ていたのであった。
あけがたの桔梗色の空の下に幾ヵ所となく炎が立った。博多じゅうの辻はすぐ阿鼻叫喚を押し流していた。
「われらは勅命によって、逆賊北条一族を討つものだ。これまでの悪政はやみ、世の中はずんとよくなろう。わずかの間の怺えだ、女子供や老人はしばし山野へ身を避けていよ」
大声でこう言いながら、逃げまどう市民の中を探題御所の方へ駈けて行った馬上の将があった。つづく兵があった。
それを見たし、市民はまた、いままで見たことない一旒の錦旗も眼に見た。けれど「勅」といわれても「逆賊」と聞かされても、多くは何のことやらも分らなかった。降ッてわいた合戦と方々の火の手にただ、死ぬまい、生きようとするだけの相だった。
菊池一族の三百騎ほどは、息ノ浜から松原口まで、驟雨のように駈けて来たが、
「待て」
武時の命に、一ト息入れた。
「頼隆、おかしいぞ」
「どうしたのでしょう。約束の少弐(筑後守貞経)や大友(近江守貞宗)のうごきはどこにも見えません」
「よも違約はあるまいが、念のため、使いを待とう」
少弐も大友も、共に、船上山からの密詔と錦旗をうけていた者だし、それ以前からの同志でもある。
で、こんどの博多召集には、火の手をあいずに各自の宿営地から起って、九州政庁の探題邸を一挙に占拠してしまおうという密盟の下に、国を出て来たことなのだった。
ところが、まもなく。
大友貞宗の陣営へやった使いの二人のうち、一人だけが、蒼白になって逃げ帰って来た。――貞宗はどう俄に気が変ったのか「そんな不逞なくわだてに同心した覚えない」とシラを切ったのみでなく、使いのひとりを斬りすてたというのである。
菊池父子は愕然とした。
一方、少弐筑後守のほうへ、出兵の催促にやった使いもまた、もどって来ない。
「頼隆、おれの落度だ」
「…………」
頼隆はそう言ったせつなの父を見るにたえなかった。そんな父の顔を子として見たことがなかったのである。
「人間の皮をかぶっただけの畜生を、ひとつ宮方だの、やれ同志のと憑んで、こんなもくろみを立てたおれもまた、日本一の大不覚人というべきだ。かんべんしてくれい」
「なんの頼隆は悔いません。元々、王事のためなればこそ起ったのでしょう。私とて、けちな功名心ぐらいなら、あの愛しい新妻を家にのこして出ては来られませぬ」
「頼隆、よくいわれた」
武時の弟、次郎三郎覚勝もおなじ意味のことを、兵にも聞えわたるような声でくりかえした。たとえやぶれても自分らのあげた今朝ののろしは九州宮方の先駆となってほかの同志のたましいを揺りうごかすだろうといった。また後醍醐の御理想が布かれるような世になれば自分らの名は百代にも残るのだとも声を大にしていった。
「それっ、御旗を先に振れ。御旗につづいてすすめ」
すでに生きることは考えられなかった。火の玉となった一族は、辻堂方面の炎をくぐって、櫛田浜を突進し、そして探題邸の一門へせまった。
このときの九州探題は、さきにもいったが、北条修理亮英時といった。
英時は、この博多でもう在職十年からになる。
ゆらい九州は統治にむずかしい所とされていた。筑紫の強豪一藩一藩はどれ一つ生やさしい族党ではない。その筑紫で十年以上も探題をつとめあげてきた英時には、ただの官僚の才や腕だけでない人望と人柄の良さもあったのではあるまいか。
人柄といえば。――彼は、一時鎌倉の執権職にもついた赤橋守時の実弟なのだ。赤橋家のひとりなのである。
だから足利高氏へ嫁いだ、かの登子は、この英時の妹であり、高氏は義弟にあたる――。
ここで、思いあわされるのは、ずっと後年ではあるが、その足利尊氏が中央に失脚して、楠木正成や新田義貞にもやぶられ、長駆、九州へ逃げ落ちて行ったさい、たちまち鎮西の大勢力が、彼の麾下にあつまって来たことだ。それは、時運の潮もあろうし、尊氏の人物にもよったであろうが、おそらくはそれいぜんの、探題英時時代の人望やら多年にわたる下地が、たぶんに「――英時殿の義弟」として、逆境の尊氏をたすける機運に大きな力をなしていたのではなかろうか。
いや、話をもどす。
その朝は、探題英時のほうでも、ひとつの作戦ちがいを犯していた。
「菊池はやるぞ。むほんの相、歴々だ」
とは、彼もとうに察知していたことである。
そして前夜、大友貞宗や少弐筑後守などをも説き伏せて「――菊池とは手を切る」という一約破棄の誓文まで取っていたほどなので、あけがた諸所にあがッた火の手にも、いまさらな仰天はせず、
「やがて、菊池父子がこれへ曳かれてくるのは、朝飯前」
としていたのだった。
なぜなら、探題軍は暗いうちに道を迂回して行って、息ノ浜の宿営を突くばかりになっていたのである。――ところが余りに手筈がよすぎていたといえようか。それが息ノ浜を突かないうちに、菊池勢はすでに辻堂方面へ疾風のように抜け出していた。追ッかけて、両軍の激突が渦巻いたのは、櫛田ノ浜であり、ここで探題軍は逆に、もう孤立無援と知って生還を思わなかった菊池勢のため、ほとんど全滅にひとしい惨敗に会ってしまったのであった。
「次郎、ここへ来い」
かちどきと、血ぶるいの中で、菊池武時は嫡子の次郎武重へ、
「これはそちの母へのかたみだ。これを持っておまえはここから肥後へ帰れ。……何、何、父と一しょにだと。ばかをいえ。今日だけが世の終りではない。早く落ちろ」
渡したのは、ゆうべ懐紙に書いていた一首の歌と、ひたたれの袖だった。
「この上は、探題英時の首をあげ、九州の北条城を枕に討死をとげよう。落ちたい者は落ちるがいい。武時は身の本分へ進むばかり」
この決死と猛攻の中に煙った探題邸では、さきに所属の兵が大部分出てしまったので、ほとんど手薄だったらしい。
わずかな守兵は次々に仆れてゆき、英時もいまはと、自刃を思う眼をふさいだ。
博多合戦はただの一日でかたづいた。
いや三月十三日の寅ノ一天(午前四時)から辰ノ刻(午前八時)までとあるから厳密には早朝一ト煙の市街戦だったといってよい。
しかしこんな小合戦ですら、それは酸鼻をきわめている。
ただ探題英時は助かった。
一時はそこも陥落し、彼も自刃かとみえたが、すでに武時を裏切っていた少弐、大友の二軍が菊池勢のうしろへかかって、急を救ッたものだった。
そこで、菊池党三百人は、ことごとく戦死した。
大将の菊池武時、子息の三郎頼隆、大円寺の阿日坊隆寂などは犬射ノ馬場のあたりで――。また武時の弟覚勝の手勢七十余人は木戸を破り、築土をのりこえ、探題邸の庭内にまで討ち入って一人のこらず斬り死にした。
このほか、市中から街道すじにかけても、むざんな死者が、かなりあった。
それらの打首は、人目だかい諸所方々でさらされたが、わけて犬射ノ馬場の光景は、あまりにも悽惨で目をおおわしめるものがあったという。――馬場の五ヵ所に曝し場をもうけ、それぞれに三段の木を結いわたした。そしてお壺の内(庭内)や築土附近で斬り死にしたおもなる者の首七十余級を梟けならべ、いちいちの首のもとどりに、
むほん人 誰々
と、札を打って幾日もさらしてあったと「博多日記」は誌している。
これまでにも、何かとよく引用書の名をさしはさんで来たが、この博多日記なるものは、とくに異色のあるものなので、ちと余談にはなるが、あえて余談に入ってみたい。
当時、良覚という坊さんが九州のどこかにいた。
僧籍は京都東福寺の法師。
おそらくは九州東福寺領への赴任者として永らくこの地に住んでいた一僧にちがいあるまい。なにしても、この良覚法師は、偶然にも、博多に来ていて、三月十三日の博多合戦を、目のあたりに見ていたのだった。
思うに、旅人の彼も、旅籠かどこかで、暁の合戦に寝耳に水のおどろきを浴び、血のちまたやら黒けむりの下を逃げまどった群衆の中の一人であったのではあるまいか。
その恐ろしかった見聞を、彼は後日、なんという目的でもなく、ただ目に見た社会事件として、生々と記録していた。
それの用紙には、
――東福寺領肥前ノ国彼杵ノ荘ヘノ鎌倉幕府下知状目録
といったような文書の反故裏がたんねんにつかってある。そして前年十二月から翌年四月までの社会記事が主となっているのだが、右のうち三月十三日の博多合戦前後の部分を、史家が「博多日記」となして今日の一等史料とされている次第である。
だから博多合戦は、後醍醐の隠岐脱出や、また船上山の合戦などからみれば、比較にならないほど小さい一局地の騒ぎであったにかかわらず、その詳細までがよく後世に残されたわけなのだった。――それとまた、筆まめな良覚法師は、合戦以外の、いくつかの哀話や巷談をも書き忘れていなかった。
その戦後哀話の一つ。
ここに。
犬射ノ馬場では毎日たくさんな人だかりがしていたが、なにせい“むほん人、誰々の首”とあるさらし場なので、ひとしく哀れな、とおもっても、探題北条氏をおそれて、たれひとり一枝の花を手向けてやる者すらなかった。
そのうちにシトシトと晩春の雨が降りけむる夜などには、たれいうとなく、青い陰火が燃えるといったり、断末の声がするなどという噂も立ち、いつかそのあたりへ立ち寄る者はなくなっていた。
すると四月四日のこと。
ひとりは年のころ四十左右、連れはまだ十七、八かとみえる初々しい女性が、いずれも被衣して忍びやかにそこの梟首台の前へ来てじっと果てなくたたずんでいるさまだった。そして変り果てたさらし首の一つ一つへ眸をうつしてゆきながら、口に名号をとなえ、指に水晶の数珠をツマぐっているかと見えたが、やがて、寂阿入道菊池武時の首と隣して、死すとも父子一座として寄り添っているかのような、その子三郎頼隆にまぎれない若い首級へ、若い方の女性の視線がヒタと釘づけになったとおもうと、
「……オオ」
水晶の数珠は、はらと、その足もとに落ち、全身をきざみ上げる悲泣に被衣は脱げて地にまみれた。
その様子に、ふと、異常を感じたのであろう。連れの年上の婦人もまた、
「あ……?」
と、かろい叫びをあげ、
「嫁女っ」
走り寄って、彼女の嫋かな双肩を抱きしめつつ、その耳へ口を寄せて、いくたびとなくおなじことを言っていた。
「……妙子っ、妙子っ。……どうしやったのじゃ。気をたしかにして給い」
おそらくは婦人は姑女であり、妙子とよばれた妙齢の女性のほうは彼女の息子の嫁であったとみえる。
姑女は身をふりしぼって、なおも異常な容子から醒めない嫁の名をよびつづけていたが、とつぜん、どっちからともつかず、かなしげな悲鳴がそこに流れたとおもうと、
「ホ、ホ、ホ、ホ」
妙子は袂の片方を空へ振って仰けざまに笑っていた。
そして、何が彼女のひとみには見えるのだろうか、
「ちョめ」
と、袂で交互にそこらを打ち払い、また、やにわに、そこの身丈よりは低い竹矢来を破ッて、さらし首の梟けならべてある台へむかって突進しかけた。
姑女は刎ねとばされて、俄に起ちもできずにいたが、さっきから犬射ノ馬場の隅小屋で見ていた探題所の不浄役人の二、三はすぐ駈けつけて来て、
「これっ」
「何をし召さる」
と、抱きとめた。
といっても、妙齢なひとではあり、粧いからみても、いやしからぬ家柄の息女とは思われたので、手加減をしていたためか、逆に彼らは、おもちゃのように手玉に取られて地へ振り捨てられ、
「ホホホホ」
狂女は一転、ヒラと、街へ走り出していた。
「や、狂女だ」
「オオ狂美人」
「なんとあの妙齢を」
「やれ、気のどくな」
こんな辻騒ぎがまだ消え去らないうちだった。
ちょうど、よそから帰って来た探題北条英時は、さっそく役人を呼んで、事のしさいをたずねていた。
「女は二人連れと申すが、博多の者か、よそ者かの」
「ついぞ見かけたことのないもので、ひとりは四十がらみの媼、気の狂うた方は、まだ二十歳にもみたぬ嫋女でございますが」
「何で発狂したのか」
「わかりません。とつぜん犬射ノ馬場で艶な笑い声を聞いたとおもうと、もう狂蝶のような姿を、外へ走らせておりましたので」
「して、どこへ?」
「媼の供が三、四人遠くにいたのでございました。やッとのこと媼やそれらの者が取りしずめ、輿のうちへ押しこめるやいな、人々の眼から逃げるように走り去ったことでございまする」
「……。安富」
英時は、従者のうちの安富浄明という入道武者を見ていいつけた。
「いずこの何者か、女の宿所をたずねて、たしかめて来い」
「はっ」
と、彼が立ちかけると、
「やよ浄明、腰の大太刀などは外して行け。先はさだめし、悲嘆に暮れていように、探題武者が訪ねて、さらに怯えさせては悪い。ただ行きずりの法師となって、ねんごろに優しゅう物問いして帰れよ」
と、言い直した。
「こころえました」
浄明は、すぐ去った。狂女の輿の行くさきを途々人にききながら、やがてその宿をさがしあてていた。
櫛田ノ浜の松原を東へ、なおも松に飽き飽きするほど歩いて、そこも松林のうちだった。――見れば何かの小社と一堂がある。
「はてな」
浄明はゾクと襟もとを寒ム気に吹かれた。
考えてみると、ここは?
つい先ごろ。菊池ノ寂阿入道武時以下の一族が、探題邸へ決死の朝討ちをかける前夜、屯していた息ノ浜にちがいなかった。――と気がついてからは、そこらの昼の青暗さも、ド、ド、ド、ド……と背なかを押して来る波音までが彼にはすべて不気味な世界のものだった。
それさえあるに、やがておとずれていた一堂の玄関もまたひどく荒れ寂びていて、いくど呼んでみても答えはなかった。そしてやっと媼の家来らしき者が出て来たが、一こうその男も無口で何の受け答えも通じない。そこで浄明は言ってみたのである。「……ぜひ、御息女へ祈祷の加持をしてさし上げたい。ご心配の中ではおわそうが、ともあれ病間へお取次ぎくだされたい」と。
「さあ何と仰っしゃいますか分りませぬが」
家来は、そういって引っ込んだきり、いつまで顔も見せなかった。つまり取り合ってもくれぬものらしい。といって安富浄明は、主命、むなしく帰りもならず、いつか夕せまる方丈の庭などうろうろしていた。
するうちに、そこの障子の内で、すすり泣くような狂女の気配をふと耳にした。
浄明は、しめたと思い、そこの濡れ縁から障子の内へ。
「もし、ご息女……。いかがなされましたか」
そして、内の応えに、きき耳すまして屈まっていた。
他人の声が狂女にもわかったのか、すすり泣きはすぐやんで、サヤサヤと近づく衣摺れと共に。
「……たれじゃ」
「旅の僧でございます」
「旅の僧とは、どこの旅の僧かよ?」
「されば……」
浄明は、閊えた。
障子をへだてたままなのである。だから声は今泣いていた狂女にちがいない気はしたのだが、ことばには物狂いの様子もなく、また女性とも思われない。どこかりんとした響きさえあったので、彼は、自分が探題の家臣とはや内の人に覚られでもしたことかと、おもわず萎縮したのだった。
「されば、これは国々の会下をめぐり、近くは鳳儀山の大智和尚にも参じていた旅の雲水でござりまする」
「なに。鳳儀山の僧とか」
……つづいて。
「やれ、なつかしや」
声のせつなに、障子の内のひとは、みずからそこの障子をサッとあけた。
浄明はその不意なのにおどろいた。濡れ縁を跳び退くやいな、庭面の遠くで片手と片膝を地についた。そしてさて、胆をすえてから、夕のあいろを透してその人を見直した。
やはりうら若い女性なのだが、それは尋常一様な容姿ではない。この世のものではないといえよう。しいていうなら凄艶無比な一個の生きているものだった。
ホツレ毛を帯びた梨の花のような白い顔は泣いたところだけをほの紅く腫らしており、眸の光に、狂者を証しているのである。小袖はほころび、ちぎれた緋や紫がまた妖しい炎みたいに濡れ縁をあちこちしていた。しかもその歩き方は男であった。
「…………」
手にも彼女は男扇を持っている。いや彼女は亡き良人、菊池三郎頼隆になりすましているのらしい。きっと、浄明の方を見て、扇拍子をとりながら、謡うがごとく、こう語り初めていた。
「聞きねかし、旅僧……
われは菊池入道の子、三郎頼隆と申す者、童名菊一とて、有智山の稚子にて候ひし、人みな知つて候ふ……
さるに、菊池の庄にて、新妻を迎へ、わづか十六日と申すに、合戦の沙汰に会ひ、その朝、出陣の袴を着候ひしに、わが妻、わが袴の腰を当てつつ、あはれ、相構へて二度見奉つらばやと言ふに、我が額の髪を切つて妻に与へ、妻の髪をば、わが守り袋に入れ、犬射ノ馬場にて死ぬ日まで肌身に持つて候ひし……」
見るまにその形相は怒りにみなぎり、またハラハラと涙をながして、言いつづけた。さるに、菊池の庄にて、新妻を迎へ、わづか十六日と申すに、合戦の沙汰に会ひ、その朝、出陣の袴を着候ひしに、わが妻、わが袴の腰を当てつつ、あはれ、相構へて二度見奉つらばやと言ふに、我が額の髪を切つて妻に与へ、妻の髪をば、わが守り袋に入れ、犬射ノ馬場にて死ぬ日まで肌身に持つて候ひし……」
「ただその日、目ざす敵をも討たで、死にたるこそは、くちをしけれ……
また我れ、息ノ浜を打ち出でし時、夜更くるまで酒を飲み、水の欲しく候ひしを、水をも呑まで打ツて出で、炎の中に、斬り死にして候ひし……
水が欲しう候ふ。旅僧、水を給び候へ。水を……」
彼女は、求めながら庭へ降りて来たが、すぐバタと仆れてしまった。水が欲しう候ふ。旅僧、水を給び候へ。水を……」
しかも、彼女はなお、身をもたげて。
「水を、水を……
旅僧、水が欲しう候ふ……
水を給び候へ」
と、狂女の本相そのものをあらわして叫ぶので、安富浄明は何も思わず、うしろの井戸から小桶に水を汲んで来て、大あわてに彼女の顔の前へ持って行った。水を給び候へ」
すると、ふるえつくように、彼女は二タくち三くち……四くち……さも美味しそうに飲みつづけた。ほつれ毛も唇もしずくにした。そしてこんどは、
「我れ頼隆は、日ごろ上戸にて候ふ……
酒飲み候はん……
おん僧も飲み候へ」
と、またも狂いやまないので、浄明はもう身の立場もわすれ、おん僧も飲み候へ」
「どなたか、おいでください。お内の人、お内の人」
と、大声で呼ばわった。
おそらく狂女の身寄りたちは、彼女が一ト間のうちですやすやおちついているものとのみ安心していた隙だったことなのだろう。姑女らしい婦人やら二、三の若党らがすぐ仰天してそこへ駈け集まって来た。――そして元の一ト間のうちへ屏風囲いにして、口々になだめたり念誦の経をくり返している様子であった。
「…………」
浄明は黙って立ち去った。
なぐさめる言葉もなかったのだ。彼はその晩のうちに探題北条英時の前へもどって、見とどけたかぎりのことを、事こまかに復命していた。
「そうか」
英時も沁んみりして、
「では察していたとおり、媼はやはり菊池寂阿(武時)の後家だったか」
「は。わざと問わずに戻りましたが」
「そして、犬射ノ馬場で発狂したのは、寂阿の子三郎頼隆の妻であったのじゃな」
「それも嫁いでわずか十六日しか一つにいなかった新妻とか……、いや何とも敵ながらあわれなことでござりました」
「頼隆の供養をしてやれ」
英時の命で、まもなく息ノ浜の松蔭に、一つの卒塔婆が建てられた。そしていつとはなく、そこへ詣る浦人たちは、かならず冷たい水を上げることにしていると、「博多日記」は誌している。
「博多日記」はなお、そのほかにも、同じ頃、探題の手に捕まッた菊池方の若党が、いくら拷問しても、ひと口も、主の不為は吐かなかったことやら、またやや後日、備後の鞆ノ津でかこまれた菊池の落人宮崎太郎兵衛が、持っていた密書をまもるため、それを焼いて割腹したという事件や、とまれ大小の社会事件を聞くままに記録していた。――ただ惜しいことに良覚法師のその覚え書も、四月七日で終っていて、あとの部分は世に残っていない。
しかし、以上の事柄だけでも、九州における武門の胎動がほぼどんな形で世間に口火を切りだしたかはよく分る。
それと。――当時もなお、筑紫諸豪のあいだには、いまは廃れたと見なされている鎌倉的な武士気質がいぜん隆々と弓矢に存していたこともよく窺われよう。たしかにここの鳴動は“時の火山脈”の一噴口をおもわせた。
そしてまたその地熱は、地底をとおして、河内の千早城、金剛山の噴煙ともつながっていた。
摂津、和泉、紀伊、大和。わけて河内は中心といってよい。
いたるところの野や川すじや散所町まで、兵馬の影でうずまっていた。
すべて去年の冬いらい、幕府の一令下に出征してきた天下の諸大名あらましの陣旗であった。「太平記」はその景観を、いつもの古典的筆法で、
日本、小国といへど
か程に人は多かりしと
ただ驚かるるばかりなり
と言い、また元弘三年正月の“現地着到帳”の上では、か程に人は多かりしと
ただ驚かるるばかりなり
諸国の軍勢八十万騎
これを三手に分かちて
吉野、赤坂、金剛山
三つの城へぞ向けられける
としているが、しかしもとより数字は誇張にすぎない。じっさいは「保暦間記」にみえる五万余騎、あるいはそれより少し内輪目ぐらいが、ほんとの数ではなかったか。これを三手に分かちて
吉野、赤坂、金剛山
三つの城へぞ向けられける
それにせよ金剛山をめぐるわずかな一地方に、五万余という人口の急増率は、山河の形貌も変え、住民の生態をさえ根こそぎ覆していたことだろう。
また、いわゆる戦争景気の異常昂奮も吹きまくッて、それをめあてに、他州から流れ込んで来たいろんな人種も、いつか法外な数にのぼっている。そして軍民のけじめもなく、ここの狂気の土壌を、さらに異常な地熱帯としているさまであった。
「や、なんだ、なんだ?」
「お布令だよ。いや、えらい御高札だぞ」
「ほ。金儲けやな」
「そんなケチなものではない。たれであろうと、それをなせば、すぐ小大名ほどな身分になれる。どうだ、そこらの衆」
と、ひとりの男は、じぶんの“学”をほこるように、いま兵が辻に建てて行ったばかりの高札の文を、あたりの顔へこう読んで聞かせていた。
一、大塔ノ宮ノ御事
先ニハ、捕ヘ奉レトノ沙汰、再三ニ及ブモ向後ニオイテハ、須ラク、誅戮シ奉ルモ、構ヒナシ
諸寺諸山、非職員ノ住侶、又、タトヘ凡下放埒、与党賊徒ノ輩タリトモ、忠節ノ実ヲイタス有ラバ、賞トシテ、近江国麻生ノ庄ヲ宛テ賜ハルベキ也
二、楠木兵衛尉ノ事
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ宛テ行ハルベシ
賞ハ、卑賤ニ依ラズ、一切仔細ニカカハラザルコト、同前ナリ
おそらくこの公示は、各地に建てられたものだろうが、朝夕、金剛山をすぐ目の前にしている河内石川、錦織、三日市あたりの住民には、いちばい生々しい実感が持たれたにちがいない。中には天ッぺんの熟柿を見るように、いつまで仰向いている顔もここにはあった。先ニハ、捕ヘ奉レトノ沙汰、再三ニ及ブモ向後ニオイテハ、須ラク、誅戮シ奉ルモ、構ヒナシ
諸寺諸山、非職員ノ住侶、又、タトヘ凡下放埒、与党賊徒ノ輩タリトモ、忠節ノ実ヲイタス有ラバ、賞トシテ、近江国麻生ノ庄ヲ宛テ賜ハルベキ也
二、楠木兵衛尉ノ事
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ宛テ行ハルベシ
賞ハ、卑賤ニ依ラズ、一切仔細ニカカハラザルコト、同前ナリ
「やっ、親分。もしや大蔵親分じゃございませんか」
「えっ?」
気をとられていた高札から眼をふりむけて、忍ノ大蔵は、怒ッたように呟いた。
「なんだ、権三じゃねえか。ええい、人をびッくりさせやがる」
そこの辻を、石川河原の方へ下がった所に、戦場が生んだ“俄か市”がこつねんと菌みたいに簇生していた。
生きるにたくましい散所民の男女が、寄手の雑兵目あてにムシロ小屋や野天売りを張っているもので、もしここも合戦の場となれば、風のごとく小屋をたたみ、またどこかの野ヅラに一夜で市を開いていた――。それは軍虱のように、金剛山への寄手五万の兵にくッついて歩き、その数は何十ヵ所かしれず、軍の取締りも手のほどこしようがないのであった。
「飲まねえのか。おい」
忍ノ大蔵は、相手へ言った。
小酒屋めかした野天の腰かけ板へ、濁酒と串焼をもらって、その串ザシの肉を咥えて、串をぽんと捨てながら。
「権三」
「へい」
「まさか、牛の肉は食いませんなンていう汝でもねえんだろ。ま、やってみなよ。さかなも美味えし、酒も悪くはねえ」
「へ、肉だけをいただきます」
「なぜ飲まねえんだよ」
「でも、あっしはすぐ顔へ出てしまう方でしてね。親分もご存知のように」
「いいじゃねえか。酔のさめるまで、そこらの草ッ原でころがって帰えればいい」
「ところが、今日はそうしちゃいられねえんです。へい。……本庄鬼六さまから、千早城の真下にいる寄手の、名越遠江守さまのお手許まで届けろといわれて、大事な物をおあずかりして来た途中なんで」
「そうかい」
ふンと笑っただけで、わる強いもせぬ大蔵が、権三には変に小気味がわるい。こんな筈はないのである。大蔵は、かつての自分たちの放免頭であり、六波羅放免(密偵)二百余人の操縦に腕をふるい、自分はその大蔵の片腕ともいわれていたのだ。
「どうも親分、ヘンに他人行儀をいって、申しわけございません」
「お役目の途中じゃ仕方がねえ。……だが権三、今日はひょんな所で出会ったな。別れて三年ぶりだろ」
「まったく、びっくりしましたぜ、あの高札場の人込みで、ひょいと、お見かけしたときは」
「おれだって、ぎょッとしたよ。たしかその三年前か、木菟の権三は、水分の雨乞い祭りの晩、神社の石だんの下で、喧嘩相手にたたきつけられ、血ヘドを吐いて死んだなんてえ噂も聞いてたもんだからな」
「そいつあ、親分も同じですぜ。忍ノ大蔵がまだ生きてこの世の辻を歩いているなんて聞かせても、六波羅中たれひとり、まにうける者はねえでしょう」
「はははは。するとおたがいは、亡者だな」
「いったい親分はどうなすったんです。……あれは先おととしの元徳二年の三月でしたぜ」
「そうだ、山伏の八荒坊と姿を変えて、日野俊基のあとをつけまわし、高野街道から紀伊見峠のあいだまでは、たしかにおれも、忍ノ大蔵でいたわけだが」
「それから先は」
「いやはや、面目ねえ。ま、もすこし飲るから、その上で聞いてくれ」
なるほど今日の大蔵は山伏でもない。半袖、半袴、泥脚絆。どう見ても、軍人足か牛追のような身なりであった。
大蔵はしじゅう辺りへ眼をくばる。いつまでも黙っている。
権三へ話しにくいわけでもなく、酔を待つのでもないらしい。腰かけには、ほかの客もいたからだった。
「権三、出よう」
銭をおいて彼は歩き出した。といっても、野天市の人目はどこも変りがない。
「ここがいい」
やっと河原べりの傾斜を見つけて、彼は鮎の石焼きみたいになって寝そべッた。二月の若い草が、石コロの間々に青かった。
「権三、寝ころべよ。坐ッてるなんざ、人が見てもおかしいや」
「へい」
ぜひなく、権三もずんぐり太い体を腹ン這いにして、ふと。
「何だか、こうやってると、天気はいいし、金剛山の楠木勢の眼からここの二人が見えるような気がしますぜ」
「ほんとだ」
山を振り仰いで、大蔵も一笑した。
そしてその眼を、河原の蔭の小さい支流の岸へやった。ふと人声がしたのである。
散所民の女子供たちが、古金やボロの山をかこんで、小舟で運ぶ物をふるい分けているのだった。
おそらくは必死な稼ぎなのだろう。――合戦のあるたびに、戦場のあとから谷やら峰道を、暗夜、命がけで嗅ぎあるいて、死者の持物やら小袖などを剥ぎ取ることが半公然とおこなわれていた。そのためには、ずいぶん命をおとす者もあるが、ものともすることではない。鬼火すら燃えない風雨の晩でも、彼らの活動はやむことがないと武将たちの舌をも巻かせているのである。
だから彼らの貧土には、この大乱もまったくちがう意味の千載一遇と映っていた。火事泥はその本能にちかいものだが、無知で無力で、しかも善良な者の、戦争への揶揄も無自覚にはたらいていたし、また生きるためには、これが彼らの戦いであったと観られぬこともない。
「…………」
大蔵は急にその頬杖を外して。
「おい権三。おれのつらは変ったろ」
「変ったどころか。こうしていても、いぜんの忍ノ大蔵とは思えませんぜ」
「そうだろう、この面傷だ」
笑うと、その赤黒い痕は、一そう彼の顔に凄味を加えた。右びたいから眼の下の頬へかけての刀痕だった。
かつての年、楠木正季らの手に捕まって、加賀田の隠者毛利時親の山荘へと引ッたてられてゆく途中、あまりあばれたので、一ト太刀くッたそのときの古傷だった。
という仔細をかたって。
「じつはな、権三。……それからずっと、おれはいま言った加賀田の隠者に飼われて来たんだよ。意気地のねえはなしだが」
「それはまた、どういうわけで」
「どうたって仕方がねえ。あっちが偉すぎて、こっちが背イ足らず、人間と人間の勝負で負けたというまでのことだ」
「たしか加賀田の隠者ってえのは、正成、正季に兵法を教えた師匠だとかいうこってすが」
「そうよ、それほどな爺さんだ。おれが参ッたのも、むりはねえと察してくれ」
腹ン這いと腹ン這いとが並んで、寝牛のような二人だった。大蔵が言いつづける。
「とにかく、その加賀田の隠者は、おれには命の恩人だった。あぶなく楠木正季らに殺されるとこを助けてくれて、まア山荘の下男にでも使ってやるからというままに、それなりずっと山に飼われて来たわけさ」
「じゃあ今では、山荘の下男勤めをしてるんですかい」
「そんなンじゃねえ」
声をゆがめて、
「あいかわらず、俺あ、伊賀者の生れつきにものをいわせて、変化自在にとびあるいているんだよ。……じつあ、ついこの間じゅうまでは、吉野山の愛染宝塔を根じろにたてこもっていた大塔ノ宮の御陣中にいたが、この二月初め、吉野は陥ち、宮は高野へ落ちのびてしまったので、こんどは土民に化けて、寄手の二階堂道蘊の荷駄隊へ軍夫となってまぎれこみ、一しょに河内へひきあげて来たというわけなんだ」
「へえ。……あれッきり六波羅へも帰らずにね。いったい、誰のためそんなクソ働きをしてるんですえ?」
「知れたこッた。人間、己れ以外のために、たれが捨身になるものか。――頼まれたのは山の隠者からだが、その隠者へは、時々、両軍のもようを知らせてさえおけば、いくらでも金はつかわせてくれるんだ。……しかしただそれだけで、この大蔵が、飼いごろしにされて間尺に合うものじゃあねえ」
「だけど、あの世捨て人が、なんだってまた、そんなに戦のもようを知りたがるのか。そして隠者の腹は、宮方なのか鎌倉方なのか、そこはいったいどうなんです?」
「いや、あの毛利時親ッてえ爺さんには、宮方も関東もねえんだよ。……ただの学者さ、兵学者だ。……家につたわる大江家伝来の和漢の軍書にとッ憑かれて、つい一生を書の虫みたいに送ッちまった人にすぎねえ」
「なるほどね」
「ところが今、目のさきでは、兵書の理くつではないほんとの大戦が始まっている。隠者にすれば、こいつは大したこの世の見ものだ。そこで俺をつかって、両軍の情報を事こまかにききあつめ、自分は山荘の机に戦絵図をひろげたッきりで、何か夢中になっているあんばいなのさ。……いや、そんな事アどうでもいいが」
急に、大蔵は身をおこした。そして相手が痛い顔するほどその腕くびを握りしめた。
「なあ権三。それよりは、さっきおめえは、寄手の名越殿へとどける大事な物を持ってるといったッけな。なんだいそれは」
「え?」
権三は急にふところを意識して硬ばッたが。
「ままよ親分だから言ッちまいますがね、じつあ、自分たち放免組が土地の女子供までつかって、やっと探りあてた千早城の水ノ手の調書……。そいつを本庄鬼六さまから名越殿にとどけ、敵の水ノ手を断つ急所の責め手につかおうというんでさあね。何しろたいへんなもンなんで」
「ふム。ちょっと見せねえか」
「何をで」
「その水ノ手の何とかをよ」
「じょ、じょうだんでしょ。親分、そいつだけは、かんべんしておくんなさい」
「見せられねえってのか。じゃあいい」
大蔵は突ッ放すようにいって、そっぽを向いた。
が、その横顔のけわしさに、権三はふるえ上がらずにいられなかった。“忍ノ仲間”には骨肉以上な情もあるが、ややもすると“消す”という非常手段がすぐつかわれる。大蔵のその残忍性がどういうときに出るかなどは知りつくしている権三だった。
「親分、怒ったんですかえ」
「怒りゃあしねえよ。ただこっちは、いぜんの好誼で、おなじことなら、てめえも共に、立身出世をと思っているのに、あいそッ気のねえ返辞をしやがるから、ついまずい面になったまでさ」
「すみません、親分」
「なにがよ」
「そうお気を悪くなさらねえでおくんなさいよ」
権三は腹巻をゆすぶッて、革の苞につつまれた一封の書状を出して示しながら、
「なにしろ、お見せしようにも、こう封蝋がしてありますんでね」
「いいのかい」
「へ。どうぞ」
言った下から。
「あっ親分」
「なんだよ、おれの手を抑えやがって」
「封蝋を破ッちゃいけませんよ。権三の首がなくなります」
「なんでえ、その泣きッ面は。もうまにあわねえよ。封蝋は破ッちまった。……だが、てめえの首はおれがスゲ替えてやるから心配するな」
無造作に、大蔵は股ぐらのうえに、中の物をひろげだした。
一ト綴の書類と、一札の書面で、
忍ノ者支配、本庄鬼六
と、裏にみえ、名越遠江守どの御床几へ
と宛ててある。綴じ書の七、八枚はすべて鬼六が配下にさぐらせて蒐めた千早、金剛の貯水池の図や埋樋(隠し水の水路)の資料であった。
ゆらい敵の金剛山には、
五所の秘水
とよばれる水みちと、
七ツ井戸
の給水源があるのだとは、敵味方なくいわれていた。
事実、半年ちかくも山上にたてこもりながら、すこしも楠木勢におとろえがみえないのは、その水ノ手の確保にあると、寄手方では観察している。
すでに、力攻めでは、何千人もの死傷を出して、攻めあぐねのかたちだった。ところがこの二月一日、寄手は初めての凱歌をあげた。
楠木勢の前線のかなめ、すなわち金剛山の中腹の堅城、上赤坂ノ城を攻めつぶし、牙の一つを抜いたのだった。
これは、忍をつかって、上赤坂の水ノ手を断ったのが成功したものである。……で、次の千早城へもまた、同じ作戦が、寄手によって考えられぬことはない。
「どれ、行こうか。権三」
「ど、どこへです親分」
「だまってついて来い。……こいつはおれが預かっとくぜ」
「じょ、じょうだんを」
「てめえこそ腹をすえろよ。さっきの高札場で、てめえはあれを読んでいなかったのか。楠木の首一ツには、一躍、地頭さまにもなれるほどな恩賞がかかッてるんだ。そんな運を取り逃がして、何の生き効いがあるもんかよ」
権三の異名は木菟といった。いつも昼間が眩しそうで野呂ッとしている顔つきは、いっこう忍ノ者らしくない。
が、じつは貪欲でまた獰猛の鋭さがあることも、大蔵はよく知りぬいていた。
「やい」
立ちどまって、再三後ろへ。
「早く歩かねえかよ。おい」
「だって親分」
権三は半分泣き面だった。
「いったい、どこへ行こうってんですか。どこへ」
「もう一ぺんさっきの高札の前へ連れて行ってやる。そして、てめえには読めねえだろうから、読んで聞かせてやろうというんだ。はやく来い」
その高札場の辻は、もう彼方に見えていた。入れ代り立ち代り、さっきとも変りのない人群れだった。
――まぎれ込んで、大蔵は、権三の顔のそばへ顔をよせる。
そして小声で、
「……よしか。初めが『大塔ノ宮ノ御事』ってんだが、それはおいて、次の『楠木兵衛尉ノ事』。そこだけ読むぜ。
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ宛テ行ハルベシ
とある。権三、わかるか」「…………」
「それから次の文句には
賞ハ、卑賤ニ依ラズ、一切仔細ニカカハラザルコト、同前ナリ
つまり凡下放埒でも、坊主でも武士でも、敵味方なく、正成の首さえ持ってくれば、その日から船井ノ庄一郡の地頭にしてやるというお布令だ。ずいぶん、ご褒美の沙汰も出るが、こんな大した恩賞がかけられたことはあるめえが」大蔵は、相手の腕をくむばかり寄りそいながら、またすぐ辻を捨ててズンズン山の方へ歩き出していた。
山とはもちろん金剛山のことでしかない。けれど金剛十方の裾はひろい。麓の村々から上へ越え出ても、さらに丘あり断層あり、また峰から峰がるいるいと重なっていて、どの辺が千早、金剛の主峰なのやらも、ふと、山ふところでは分らなくなるのであった。
「権三」
「へ」
「いやに元気がねえな」
「むりでサ親分。いったい、あっしをどこまでお連れなさるおつもりなんで?」
「来てるじゃねえかよ。ここはもう金剛山の内、桐山の大根田部落だ。……ム、どこかそこらの峰で一ト息つこうぜ」
ここまでには、もちろん寺元村の木戸、観心寺の柵、下赤坂の陣地など、すでに七、八ヵ所の寄手の軍区域は抜けていた。
それらの木戸ではいちいち当然な訊問をうけるが、そのたび権三は六波羅割符をしめし、大蔵は、表に「二階堂」裏に「荷駄組」と烙印した手脂でひかッている分厚い鑑札を兵に見せて通って来たのだ。
「どうだい、ここの見晴らしは。山は大繁昌という景色だな」
大蔵は腰をおろした。そして、大金剛の西面から北面、また頂上の空までを見上げ見下ろして権三へ言った。
「ここから眼に入るだけでも、何万人ていう寄手の軍勢だ。花なら一目千本といえるが、みんな鼠色になった旗やら幟だらけ。いや鳥獣は驚いていやがるだろうナ」
しかたなしに権三も、大蔵に倣って、そばの岩に腰かけたが、こんな眺めは見飽きている彼なのだ。木菟にそっくりな瞼の皮をショボつかせ、
「……面白くもねえ」
と、いった顔。
その彼にかまわず、大蔵はひとり、ここからの俯瞰を愉しんで、やがて後ろの峰の一ツを振り仰いだ。
赤茶けた山火事の禿げあとに、上赤坂城の残骸が、峰から沢へかけて望まれる。
「ああ、やっぱり陥ちたのか」
大蔵は嘆声をもらした。
「上赤坂は、金剛山のヘソ城だ。あれが陥ちては素人眼にさえもう上の千早城も長い寿命とは思えねえ! 痛えだろうな、楠木方に取っては」
彼が何を見、何を思うのかは分らない。
が、彼の眼を仮りて、ここで大金剛一帯の守備と寄手の配置とを見ておくのは、無用であるまい。
大蔵がいま、
「上赤坂は金剛山の臍だ」
といったが、いみじくもよく言った。おそらく楠木正成は、そこを正面防禦の中心として、全山にわたる他の幾ツもの小砦を、連珠的につないで、守備構想をたてていたにちがいない。
しかしその要害も、攻防共に、屍山血河の激戦をくりかえしたあげく、水ノ手を断たれて、この閏二月一日落城を見てしまい、楠木方の平野将監以下三十余人は降参して出で、楠木正季は脱出して、からくも兄正成の千早城へ入ったのだった。
正季が脱したその逃げ道は、上赤坂の三面の谷あいを除く一条の馬ノ背道の稜線で、そこを南へのぼりつめれば、修道寺から金剛山の頂へ出る。
が、そのあたりも、いまは全面にみな、勝ちほこった関東勢の占領下だった。
そして、上赤坂のあとには、総大将の阿曾弾正少弼。――軍奉行、長崎悪四郎高真の陣所などが、せい然と見える。
また猫背山には田村中務。
七ヶ瀬に桜田三河守。渋谷安芸。さらに本間山城守は吉年村近傍に。
そのほか、関東の大族、結城、宇都宮、千葉、三浦、武田、伊東、河越、工藤なども陣々数十ヵ所にわかれて、山のヒダや峰道やまた部落に長陣をそなえ、楠木の最後の一城、千早を取巻いているのであった。
その千早の下へ、もっとも近々とせまって、対峙している寄手は、
大仏陸奥守の一軍
金沢右馬助の数千騎
名越遠江守のそれにまさる一軍団。――ほか遊撃隊の五百、三百、あるいは百ぐらいな侍によってなる、いわゆる無数な小隊の鉄桶だった。
これが、遠くは麓の観心寺や佐備、天野から、なお視界の外の裏金剛の抜ケ道にまであるのである。寄手の総軍馬、数十万と号されても、眼ではそうかと信じられる。
それにたいして、千早には、正成、正季の下に、どれほどな守兵があるのか。
忍ノ大蔵は知っていた。
わずか千か、せいぜい千二、三百をこえていない。
大蔵の眸は、その孤塁へ、じっと吸いよせられていた。
五、六万騎とみえる寄手に、千早城の一千人は、五十対一でしかない。いかになんでも少なすぎる。
けれど、上赤坂も陥ち、さいごの千早も籠城百日をこえた頃には、もっと少なかったかもしれないのだ。
それが事実である。
かつては“金剛山大要塞説”という、おそろしく幻想的な過大視もおこなわれていた。徳川時代の兵法者流の錯覚である。また明治、大正以後の極端な楠公崇拝のあまりに生じた誇張だった。
たとえば、それによると。
河内金剛山の海抜四千尺から、前面の石川平野、大和川、住吉、堺までを作戦地域とし、搦手は紀伊、葛城山脈などの山波を擁し、いたるところの前哨陣地から金剛の山ふところまで、数十の城砦を配していたことになる。だがそれには、正成自身の手にまず少なくても、三万以上の兵力がなくてはならない。
装備、食糧、運輸、そんな兵力がうごかせようはずもなし、またついきのうまでは、
正成死せり
と世上にいわせて、身をひそめていた彼なのだ。
いかに、彼にたましいの光があり、錦の旗があったにしろ、すでに関東の大兵が山野をうずめ、それも新朝廷をいただいて、逆に楠木をさして、
賊軍
と呼んでさえいるのである。どうして畿内の武士があげて正成の麾下にあつまるだろうか。よしまた摂河泉すべての守護地頭が、幕府に寝返りを打って彼に協力したとしても、とるにたらない数で、しょせん、何万という兵にはならない。
かりに、もっと譲って。
正成がそれほど兵力を持ち、そして、数十の“連珠式大要塞”の構想をじッさいに配置していたとしたら。……これはおかしい。遠征の関東五、六万騎などは、随所で粉砕していなければならないし、からくも千早一城をささえたなどは、特にたいしたことではなくなる。つまりはひいきのひき仆しというものだろう。
とまれ、是非の論はいらないのである。論をなしたい人は、秋でもいい、春でもいい。金剛の細道を幾うねり登ッて、今日でもあまり山容の変っていない千早の古塁に立ってみればすぐうなずかれるにちがいない。そこの平地、地頸、わずかな斜面の“勝負ノ壇”などをいれても、ここで活動できる兵力の限度は、せいぜい五、六百人にとどまり、千人を容れるのは無理であることが一ト目で分ろう。
だから当初の配備は、
上赤坂城に、楠木正季、平野将監以下の約三百人。
千早の詰城に、主将正成を中心におよそ五百。
北山砦と金剛山の背面へ、搦手の守備約二百。
また遊撃隊として、点々の小隊が、諸所の隘地にほぼ五十から百人程度。
そんなものではなかったか。
そのうえ上赤坂城はすでに陥ち、平野将監らも降人となったりして、かなりの死傷も出していたことだった。
ただ以上のほか、金剛山の絶頂にある転法輪寺では、公卿の四条隆資が指揮をとって、そこの山伏党をつかっていた。山伏の働きはすべて“陰の活躍”だったのはいうまでもない。
「……おう、いつのまにか霧が巻いて来たぜ、権三」
大蔵は腰を上げて。
「千早の内へ入り込むには、夜でもなくッちゃ危なッかしいと思っていたが、この霧はおあつらえだ。すぐ行こう」
「えっ、千早へですッて」
「そうよ。正成の首を狙うには城中へ入るしかあるめえが」
「ちょっと待っておくんなさいよ。いくら親分だって、そいつはちと」
「二の足か」
「滅茶ですよ、何ぼ何でも」
「いやおれには方寸がある。権三、てめえはまだびくついているな」
「だって」
「じゃあ打明けてやろう。さっき、てめえから預かった水ノ手の調べが、正成へ近づくいい口実のタネになる。もしあれが寄手の名越殿へ渡れば、千早城はおそかれ早かれ落城だ。……だからそれを手土産に正成をよろこばせ、隙をみて寝首を掻くんだ」
「そ、そんなことで、寝首をかかれる大将でもねえでしょう。それに、こち徒のような人間に、油断するはずもねえ」
「おいおい、権三。てめえは俺をまだいぜんの放免頭と思い違いしてやしねえか。おれの名は六波羅放免組からは、とうに消えているんだぞ」
「それやあ知ってますよ」
「そしてだ。三年が間も、おとなしく加賀田の山荘に仕えてきたんだ。――だからこの大蔵はすッかり改心した人間とおもわれて、楠木兄弟にも深く信用されているんだよ」
「へえ?」
「こんど、吉野から帰って来たのも、加賀田の隠者へ、報告かたがた、千早のうちへも、べつな一ト役をおびているんだ。――その上によ、寄手に渡る水ノ手の秘図を、以前の仲間の者から手に入れましたと、正成へ届けてやってみろ。どんなに頼もしく思うか知れめえ」
「…………」
「権三、虎穴ニ入ラズンバ虎児ヲ得ズ――ってえのはこのことだよ。正成の寝首を掻いたら、すぐてめえの手に渡すから、てめえは遮二無二それを抱えて、すぐ千早城の真下にいる名越殿の御陣所へころげ込め。――いや名越殿とは限らねえ。寄手の内なら大仏陸奥守さまでもどこの陣地でもかまわねえ。……そしたら高札どおり、その首はすぐ丹後船井ノ庄一郡とお引き替えだ。たちどころにおれは地頭、てめえも侍分にして、一生末生、何不自由なしに送らせてやる」
もう深い霧の中を歩いて行きながらの話し声なのである。
霧は、二人の声さえも、数歩のほかには出ない白い壁をなし、灰色の二つの影を、やがて木不見の尾根づたいから猫背山の西谷の方へ塗りこめていた。そしてなおしばらく行くと、前面の霧が、ぼうと大きな紅蓮のような明るみに見えた。
「……?」
這いすすんで行ってみると、それは屍を焼いている火であった。山とばかり薪を積み、戦うごとに数百数干の屍を運んで来ては、仮の荼毘にふし、そしてそこの仮寺で、かたちばかりな誦経を上げている死の谷であったのだ。