苗字は省きますが満里子君は私の少数の女友達のうちで、数年以来変らぬ親愛と信頼とを惜みなく持ち続けてゐる可憐で快活な人です。満里子君も亦私に対して満腔の尊敬と敬愛とを捧げてゐます。つい此間満里子君は私の、これも亦満里子君同様に、私は親愛を、彼は敬愛を互ひに譲り合つた験しもないといふいとも円満な交遊を持ち続けてゐる私の年下の友達のR君と華燭の典を挙げました。
 そのお祝ひの卓子ていぶるで、私は二人の喜びを胸一杯に享け入れて目出度い盃を挙げながら――うつら/\と、おゝ、それは二年ばかり前の春の時分であつたかな! などゝ、その頃の私達の楽しかつた生活の一端を思ひ出しました。
 その頃私達は海辺の村の、窓から海原を見晴せる小さな西洋館に合宿して、勉強と運動とに没頭して居りました。そこに、東京から、その頃未だ文科大学生であつたRが私の作品を慕つて遥々と訪れ、間もなく私達の合宿生活の一員に加はることになりました。私達は晴れた朝夕は、そろつてシヤツ一枚になつて浜辺へ降り立つては諸種の運動に吾を忘れて身神の鍛練に余念ありませんでしたところ、或頃から満里子君は、赤と白の旗を持つて言葉を描く信号体操といふものをはぢめました。私は、それに余り興味を覚へませんでしたので仲間に加はりませんでしたが満里子やRは非常に、これに熱心となつて暇さへあれば、私の窓から真正面に当る防波堤に出て、海へ向つて(私の方を背にして)体操の練習に余念がありません。私は窓側にRと机を並べて、毎日/\午から夕方まで語学の研究に耽つてゐましたが、いつも私が運動に出ない先に満里子か、Rの、どちらかのひとりが堤の上に現れて、しきりと体操の練習をはぢめるのでした。
 私は彼等が其処に現れて体操をはぢめると、つい、そつちばかりに気をとられて(殊に水兵服の満里子の颯爽たる姿を眼にすると――)勉強の方が留守になるので、稍迷惑さうに、どうして僕達の目の先でばかり運動するのだ、砂地に降りるか、でなければもつと人家の見へぬ方へ行つた方が虚心になれさうなものなのに! といふやうなことをなぢると、不図満里子君は顔をあからめて、
「マストの上に立つたつもりにならなければいけないんですもの、そして何処かに見てゐる人を感じながらでないと、気分が出ないのよ。」
 と云ふのです。それも尤もなのだらう――と私は思ひましたので、それ以上追求もしませんでしたが。――それからも、相変らず彼等の信号体操は続きました。それが、Rが現れると満里子は部屋にゐるし、また今度は水兵の白服の満里子君の番になると、Rは私の部屋に居るのです。ちよつと、もう一度その故を私は訊ねて見たい気もしましたが、それも規則の一つだらうと気づいて控えました。――然し仲々、これは佳き運動らしい、第一、青空の下、紺碧の海原へ向つて、縦横に風を切りながら旗を打ち振る旗手の胸の爽やかさを想像すれば、私といへども空飛ぶ鳥と想ひを交す底の恍惚境に誘はれました。
「あれで、やはり、何か定つた言葉を空に描いてゐるの?」
 若しさうならば、そしてそれが解つたならば、また一興と私は思つたので或時、Rの体操を私の背後で眺めてゐる満里子に質問すると「いゝえ。」と彼女は慌てゝかぶりを振りながら、オルガンの手慣し同様で決して意味はないとのことでありました。
 ところが私は次の日に、満里子君の体操がはじまると、私の背後に退いて、何か一冊の書物を開いて、切りにそれと彼方の運動とを見比べてゐるRを発見しました。そして、それが、信号法教則書と題する教科書であることを、二人の気づかぬ間に私は知りました。
 私は、それと知るやいなや早速人にかくれてそれと同様の書物をとり寄せ、体操がはぢまると全く素知らぬ風を装つて、そつとそれを机の上に開いて、耽念に見並みくらべました。間もなく私はその本の図解と彼等の体操に通じた段になつて見ると、彼等の体操には素晴しい意味を含んでゐるのを見出しました。
 次の言葉は私が、満里子達の体操から、受けとつた無数の信号中の二三の翻訳の抜萃であります。
「木兎が相変らず此方を眺めてゐる。あたし達の、ほんとの話は、この体操に依らなければならないなんて、何とまあ、窮屈な合宿となつたことだらう。」
「梟目玉のオセツカイが、口をあいて此方を眺めてゐる。気の毒のやうでもあり、好い気味である。」
「お茶の中にアダリンを溶し込んで、木兎を眠らせた後に……」
「木兎に悟られぬように、あの本の中に、あの手紙の返事をはさんでおくこと。」
「今夜、ホテルのダンスホールへ行く時には、ともかく、あいつをまいて――その手段は……」
 等々と制限はありませんが、たしかに、この木兎とか梟目玉とかいふ言葉は、彼等の間だけで通用されてゐる私の仇名だつたのであります。
 稍々驚いたには違ひありませんが私は少々自分の方がてれ臭くなつたゞけで、その秘密は未だに口外しません。
 ミセス、そしてミスターRは、相変らず私を先輩として尊敬してゐます。私も二人を信頼して円満な交際が続いてゐます。
 そんなことを思ひ出しても何故か私は、この二人の恋愛者に、いさゝかの隔りも覚へない親愛なる満里子君とRであります。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷
底本の親本:「婦人サロン 第三巻第十二号(十二月号)」文藝春秋社
   1931(昭和6)年12月1日発行
初出:「婦人サロン 第三巻第十二号(十二月号)」文藝春秋社
   1931(昭和6)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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