目次
 結廬古城下いほりをむすぶこじようのした
 時登古城上ときどきのぼるこじようのうへ
 古城非疇昔こじようむかしのままにあらず
 今人自来往こんじんおのずかららいあうす
 坂を登り、また坂を登り――そして、石垣の台上に居並ぶ家々のうちで、一番隅つこの、一番小さい家に居を移した。だが、朝から晩まで家中に陽があたつて、遠く西北方の空を指差すとゑん/\たる丹沢山の面影が白々しい空の裾に脈々と脊をうねらせてゐる有様が望まれる。それにしても何とまあ麗かな日和続きの、なつかしい冬であつたことよ。私は終日椽側の、こわれかゝつた椅子に蹲つてそれらの山々の、遥の山つづきの麓にある、とある寒村に住み慣れて、猪を追ひかけたり、悪人共と鉾を交へたりした数々の華々しい武勇物語を回想して得意であつた。御覧、私のこの左腕に残つてゐる傷痕は――或る肚黒い酒造業者の酒倉をおそつて、番犬と格闘した思ひ出の痛手だ。向ふ脛にのこつてゐる負傷の痕は、私達のケテイを地代金の代償として手込めにしようとして担ぎ出した悪銀行員の馬車を追つて、月見草のさかんな河堤で、一騎打ちのつかみ合ひを演じた折、私の力が及ばなかつたか、奴の手玉にとられて蛇籠じやかごの上にもんどりを打つた時の不覚の傷手である。だが私は、その時、このまゝむざむざと私達のケテイをあのやうな奴輩の獣慾の犠牲にされてはアポロの門前で割腹をしなければならなかつたから、必死の勇気を揮つて、いきなり足許の蛇籠の目からこぼれ出てゐる拳骨大の石を拾ひあげるや、奴の臀部を目がけて、えいツ! と投げつけた。石は見事に奴の脊に命中して、そのまゝ悪人は脆くも虚空をつかんで悶絶した。私は気絶してゐる娘の猿轡を解き、馬車を横領して一散に凱旋した。そして「竜巻村のジヨーンズ」といふ称号を獲得した。
 私達は左様云ふ雰囲気の村で、最も荒くれたまゝ文学の道に励んだ。――ジーベルとフロツシは、その頃からの私の道伴れである。そして二人は去年の春私の後を追ふて都に上つた。二人は凡そ五年前に、三田の学校を出た文学士でこのあたりの地理に明るく、この家を見出して私に住はしめた。ジーベルが私如きの後を追つて武者修業に現を抜かしてゐるために一家は極貧の庭に沈んで、今ではここから程遠くない二本榎の崖の下の棟割り長屋に移り、母君と妻君は針仕事に余念なく、妹君は私の紹介で青バスの車掌となつて、甲斐々々しく目黒・日本橋を往復してゐる。私が文藝春秋社などへ赴く時、彼女の車に乗り合せると彼女は乗車賃を取らずに切符を呉れやうとしたりして屡々私を狼狽させる。目黒線の小町車掌と称ばれて評判が高い。私はそこの重役を先輩に持つのであるが、彼からの最近の伝へに依ると彼女のサービス振りは抜群の成績で間もなく一足飛びに昇給するであらうといふことで、一夜、その老ひたる母君の眼に嬉し涙を宿らしめ、吾々に悦びのプロージツトを挙げしめた。私の修業も大変だがジーベルの文学の行手も、見事に径が嶮しいのである。

 フロツシの事
 次にフロツシは、これも云ふまでもなく永年の文学道の鎧武者であるのだが、そして私と握手を交して以来凡そ七星霜の貪寤の波に私達と共々に云はゞノルマンデイの海賊もどきに長蛇船ろんぐさあぺんとの舵を執りつゝ此処に到着した男であるが、気の毒な話であるが、今では文学のつとめよりも私達の生活の舵とり役の方が専門となつてしまつた。もともと彼はトラツク競技の選手ちやむぴおんだつたゞけに多くの軽業に長けてゐたのは好かつたが、そいつが何うも私達の村のストア生活に於て余りに役立ち過ぎてしまつたのがそも/\の御難と化した。
 彼は、居酒屋の店先につないで置く馬の脊中を目がけて、二階の窓から飛び乗つて逐電を試みる早業が巧であつた。網を担いで河原に降り立てば忽ち若鮎の数十尾を、銃を借りて半日山野を駆け回れば豊富な山の産物を捕獲して、おゝ思ひ出せばそれらの彼の働きに依つて、幾度私達はうえをしのいだことであつたか! お蔭で私は幾篇の小説をつゝがなく書き終らせたことか! 勘定の言訳の述べ憎くなつた居酒屋から、あの飛乗りの早業で何度彼は酒樽を借出して来て、仕事疲れの奄々たる私を炉端に慰めたことか! 蜜柑山で働き、水車小屋の水門番を務めて、何俵の米を彼は私達の空の米櫃へ運んだことか! 棒高飛びの離れ業を演じて、決して私に面会しようとしない或る慾深屋敷の塀を飛び越えて、何度私の借金申込みの代弁を果したことか! 思へば私の胸に感謝の涙が涌きあがりさうだ。
 私にして若しも彼の肖像画を描くとなれば、その頭上にさんらんたる金色の円光を添え度いものだ。ところが、それはさうとして彼も再び都に戻り、いよ/\創作の筆を執らうと奮起したのであるが、いざペンを持つて見ると、これまでの余りな荒業に練られた腕にとつては、ペンの軽さが手答へがなくて厭にペン先が震へるばかりで、決して落々と文字などを書き誌すといふことが不可能事であるのを発見した。私達は仰天して交る/″\にその腕をさすつたり肩を按摩したりすると彼は擽たい! 擽たい! と叫んでげら/\と苦悶するばかりで何の効目も露はれぬ状態だつた。私は、これほど、傷ましくも深刻な人間の泣き笑ひの表情といふものを見た経験がない。
 書けぬと決れば、如何ほど彼が逞ましい離れ業に長けてゐるとは云へ、此処に至つてはそんな芸当はおそらく役立ずに決つてゐる。
 彼は、身を持てあましてジーベルの家で碌々としてゐるのであるが、半ばは私の処に来て、今私が斯うしてペンを構えてゐる目の先の椽側に跼つて、遥かの雲の下に浮び出てゐる連山の姿を凝つと視詰めてゐる。あゝ、私は彼の達磨の眼を見るのが傷ましい。――一度は、いつそのこと活動の活劇俳優を志願して見たらといふ議が起つたが、彼は俳優と聞いたゞけでも恥かしさのあまり顔から火が出る! と唸つて、頭を抱へて泣いてしまつたのである。
 勿論彼の極めて内気な性質を知り抜いてゐる私がそんな乱暴な話を持出したわけではなかつたのであるが、彼はまともに相手の顔を見て物を言ふことすら出来ない位ひの話下手で、たゞ/\爽かな友達思ひの情に富んでゐる。村に居た頃は、丹精込めて様々な産物をジーベルの崖下の留守宅へ送ることを忘れなかつた。最も真面目で最も貧しい文学の友である創作の道を展いて呉れゝば幸ひである。僕は彼の文学の為にならば奈落の舞台回しになることに甘んずる――斯う云つて彼がジーベルを私に紹介したのは、あの山麓で私が哲学に飽きて、夙に中世の海賊文学の閲読に、夢を逞しくしてゐた頃であつた。

 坂の下で電車を降りると、寺と寺との間の細い坂道へ曲る。石の段々に差しかゝる。それを稲妻型に一つ折れて台の上に登るのであるが、一番奥の私達の家は、突きあたつて更にもう一つ左手へ曲る具合になつてゐる。それが一見すると、曲り角の家が行き留りに思はれて、恰も此方はその家の裏口のようになるので、屡々訪客は隣家の前まで来て、もうその奥には家はないものと誤解して、引き返す場合が珍しくない。引き返したと云へば、一ト月ばかり前斯んな口惜しい挿話が起つた。私の東京の一人の親しい友達が、はぢめて私達の新居を訪れるために、石段を登つて隣の家の前まで来たのであるが、まさかその横に家があるとも思はれぬので踵を回らせ、あたりを数回に渡つてぐる/\と探し回つたが断然見つからぬので、つまらなく引き返してしまつた。彼は、シラキウス産のとろりとした一壜の古ウヰスキイを持参してゐたのである。そして彼は、私の家が見つからぬので帰宅すると呆気なくひとりで飲んでしまつたのだ。手紙でそれを知つたので私は早速明細な地図を描き赤鉛筆で道筋に矢の方向を附して速達したが、シラキウスはもう一滴も残らず水蒸気と化した後だつた。――それが若し借金取りであつたならば幸せだつたのに! と、私達は長大息を洩らした。ジーベルの筆も進まず、フロツシは腕組みのまゝ山ばかりを眺めてゐるので、自然二人は我家の多くの負債の言訳がかりとなつてゐる。幾分弁舌のさわやかなジーベルが先づ怖る/\と出張つて言訳を述べると、弱々しい彼を甘しと見て、仲々帰らうとせぬ債権者がある。事態が漸く面倒な模様になると、今まで二階の縁側でギヨロツとした眼玉と重い腕組をして山を眺めてゐた無精鬚の物々しいFが、全くそれと同じ態度を保つたまゝぬツとして訪者の前に現はれるのである。そして何時までゝも其処に立つてゐるのである。口を利かぬ業ならば彼は飽くまでも辛棒強いのである。
 おゝ、思はず寒い余談に走つた不躾けを許したまへ。そんなわけで彼等は、おうおうとして失職と創作難の憂目に祟られてゐるので、近頃はせめてもの歎きを読書に依つて医さうといふ事となり、私も彼等の姿に接してゐると同情のあまりつい創作の筆も悲しくなるので、寄れば、もう三人黙々として頭を並べて読書に没頭することゝなつた。
 この随筆は、この場面から書きはぢめるべきであつた。といふのは私達が、この二ヶ月ばかりの間で読んだ書物のうちで、私達にこよなき亢奮の夢を誘つたところの数々の著書に就いての感想を披瀝したいのが私の希ひであつたのである。然し今日はもうその予猶がなくなつてしまつた。
 私達は、不思議な讚嘆絶賞の唸りを挙げながら、日に夜をついで奇怪な夢のとりことなつてにも勇敢な日を過した。――義太夫なんて、碌々聞いたこともなし、勿論人形芝居を観た験もない滝巻村のドンキホーテやロビンフツドを何うしてそれらの書が斯くも囚へて、斯くもさんざんに打ちのめしたかといふ世にも滑稽なエピソードは、いつそ連書でなりと著者に報告しようかと相談中である。――この冒頭に引用した一節の古詩は、その晩私が満悦に乗じて思はず筆を執つて壁に走り書いた有頂天の誌である。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷
底本の親本:「時事新報 第一七四九四号、第一七四九五号、第一七四九六号」時事新報社
   1932(昭和7)年2月20日、21日、22日
初出:「時事新報 第一七四九四号、第一七四九五号、第一七四九六号」時事新報社
   1932(昭和7)年2月20日、21日、22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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