一

 柳を植えた……その柳の一処ひとところ繁った中に、清水のく井戸がある。……大通りかどの郵便局で、東京から組んで寄越よこした若干金なにがし為替かわせ請取うけとって、まきくるんで、トず懐中に及ぶ。
 春は過ぎても、初夏はつなつの日の長い、五月中旬なかば午頃ひるごろの郵便局はかんなもの。受附にもどの口にも他に立集たちつどう人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早てっとりばやくは受取うけとれなかった。
 取扱いが如何いかにも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下あなたが御当人なのですか。」
 などと間伸まのびのした、しかも際立きわだって耳につく東京の調子でる、……その本人は、受取口から見たところ、二十四、五の青年で、羽織はおりは着ずに、小倉こくらはかまで、久留米くるめらしいかすりあわせ、白い襯衣しゃつを手首で留めた、肥った腕の、肩のあたりまで捲手まくりでで何とももって忙しそうな、そのくせ、する事は薩張さっぱりはかどらぬ。なりに似合わず悠然ゆうぜん落着済おちつきすまして、いささ権高けんだかに見えるところは、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌しゃべって、時々じろじろと下目しために見越すのが、田舎漢いなかものだとあなどるなと言う態度の、それがあきらかに窓から見透みえすく。郵便局員貴下きか御心安おこころやすかれ、受取人の立田織次たつたおりじも、同国おなじくにの平民である。
 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻よつつじに立った。
「さあ、何処どここう。」
 何処へでも勝手に行くがよし、また何処へも行かないでもい。このまま、今度の帰省中ころがってる従姉いとこうちへ帰ってもいが、其処そこは今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣はかまいり昨日きのう済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日あしただし、すきなものは晩に食べさせる、と従姉いとこが言った。差当さしあたり何の用もない。何年にも幾日いくかにも、こんな暢気のんきな事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、他愛たわいがないほど、のびのびとした心地ここち
 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これでかっと日が当ると、日中ははやじりじりと来そうな頃が、近山曇ちかやまぐもりにうっすりと雲が懸って、真綿まわたを日光にすような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃ひるごろの蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわとやわらかい風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車くるまも見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜おぼろよを浮れ出したようなさまだけれども、この土地ではこれでもにぎやかな町のぶん城趾しろあとのあたり中空なかぞらとびが鳴く、とちょうど今がしゅんいわしを焼くにおいがする。
 飯を食べに行ってもよし、ちょいと珈琲コオヒイに菓子でもよし何処どこか茶店で茶を飲むでもよし、別にそれにも及ばぬ。が、あわせに羽織で身は軽し、駒下駄こまげたは新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金なにがしか貸してもい。
「いや、串戯じょうだんして……」
 そうだ! 小北おぎたとこかねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりとしまって、身体からだが帽子まで堅くなった。
 何故なぜ四辺あたりながめられる。
 こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉へいきち……へいさんと言うが早解はやわかり。織次の亡き親父と同じ夥間なかまの職人である。
 此処ここからはもう近い。この柳の通筋とおりすじを突当りに、真蒼まっさおな山がある。それへ向って二ちょうばかり、城の大手おおてを右に見て、左へ折れた、屋並やなみそろった町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
 その男を訪ねるに仔細しさいはないが、訪ねてくのに、十年ごしの思出がある、……まあ、もう少しして置こう。
 さあ、其処そこへ、となると、早や背後うしろから追立おったてられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々ゆうゆう歩行あるき出したが、取って三十という年紀としの、かれの胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気のんきさは、このなみが立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。

       二

 このとおりは、かれが生れた町とは大分あいだが離れているから、のきを並べた両側の家に、別に知己ちかづきの顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店りょてんがある。其処そこへ東京から新任の県知事がお乗込のりこみとあるについて、向った玄関に段々だんだらの幕を打ち、水桶みずおけに真新しい柄杓ひしゃくを備えて、うやうやしく盛砂もりずなして、門から新筵あらむしろ敷詰しきつめてあるのを、向側の軒下に立ってながめた事がある。通りがかりのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議のせつに上京なされると、電話第何番と言うのが見得みえの旅館へ宿って、ねぎ※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびで、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
 また夢のようだけれども、今見れば麺麭パン屋になった、ちょうどその硝子がらす窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世みせものの小屋がかかった。猿芝居、大蛇、熊、盲目めくら墨塗すみぬり――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓ひとくるわに、※(「くさかんむり/((口/耳)+戈)」、第3水準1-91-28)どくだみの花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男くもおとこの見世物があった事を思出す。
 ひたいの出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人おとなの二倍、やがて一尺、飯櫃形いびつなり天窓あたまにチョンまげを載せた、身のたけというほどのものはない。あごから爪先の生えたのが、金ぴかの上下かみしもを着たところは、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指おやゆびつまみ出しそうな中親仁ちゅうおやじ。これが看板で、小屋の正面に、ねずみ嫁入よめいりかつぎそうな小さな駕籠かごの中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額おでこ蚯蚓みみずのような横筋をうねらせながら、きょろきょろと、込合こみあ群集ぐんじゅながめて控える……口上言こうじょういいがその出番に、
太夫たゆういの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓あたま掉立ふりたて、
唯今ただいま、それへ。」
 とひねこびれた声を出し、あごをしゃくって衣紋えもんを造る。その身動きに、いたちにおいぷんとさせて、ひょこひょこと足取あしどり蜘蛛くもの巣を渡るようで、大天窓おおあたま頸窪ぼんのくぼに、附木つけぎほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起おもいおこす。
 それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時木戸きどに立った多勢おおぜいの方を見向いて、
「うふん。」といって、目をいて、脳天から振下ぶらさがったような、あかい舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然ぞっとして、雲の蒸す月の下をうち遁帰にげかえった事がある。
 人間ではあるまい。鳥か、けものか、それともやっぱり土蜘蛛つちぐもたぐいかと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母おばあさんが、
「あれはの、二股坂ふたまたざか庄屋しょうや殿じゃ。」といった。
 この二股坂と言うのは、山奥で、可怪あやしい伝説が少くない。それを越すと隣国への近路ちかみちながら、人界とのさかいへだつ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
 このあたりからは、峰の松にさえぎられるから、その姿は見えぬ。っといぬいの位置で、町端まちはずれの方へ退さがると、近山ちかやま背後うしろに海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然ありありと見える。……
 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場ステエションを出た所の、故郷ふるさとは、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時しばらく茫然ぼうぜんとしてたたずんだのは、つい二、三日前の事であった。
 腕車くるまを雇って、さして従姉いとこの町より、真先に、
「あの山は?」
二股ふたまたじゃ。」と車夫くるまやが答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端まちはずれまで、小児こどもの時にはかなかったので、ただ名に聞いた、五月晴さつきばれの空も、暗い、その山。

       三

 その時は何んの心もなく、くだんの二股をあおいだが、此処ここに来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名くもだいみょうが庄屋をすると、可怪あやしく胸に響くのであった。
 まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫いもむしが髪をって、腰布こしぬのいたような侏儒いっすんぼしおんなが、三人ばかりいた。それが、見世もののおどりを済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂のふちへ両手を掛けて、横に両脚りょうあしでドブンとつかる。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
 そう言えば湯屋ゆやはまだある。けれども、以前見覚えた、両眼りょうがん真黄色まっきいろな絵具の光る、巨大な※(「虫+松」、第4水準2-87-53)むかでが、赤黒い雲の如くうずを巻いた真中に、俵藤太たわらとうだが、弓矢をはさんで身構えた暖簾のれんが、ただ、男、女と上へ割って、柳湯やなぎゆ、と白抜きのに懸替かけかわって、かどの目印の柳と共に、枝垂しだれたようになって、折から森閑しんかんと風もない。
 人通りも殆ど途絶えた。
 が、何処どこともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸がらすどの奥深く、ドブンドブンと、ふと湯のあおったようなひびきが聞える。……
 立淀たちよどんだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、もののこだまのように聞えた。織次の祖母おおばは、見世物のその侏儒いっすんぼしおんなを教えて、
「あのたちはの、蜘蛛庄屋くもしょうやにかどわかされて、その※(「女+必」、第4水準2-5-45)こしもとになったいの。」
 と昔語りに話して聞かせた所為せいであろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上うきあがったように見る目に浅いが、故郷ふるさとの山は深い。
 また山と言えば思出す、この町のにぎやかな店々のかっと明るいはてを、縦筋たてすじに暗くくぎった一条ひとすじみちを隔てて、数百すひゃく燈火ともしび織目おりめから抜出ぬけだしたような薄茫乎うすぼんやりとして灰色のくま暗夜やみただよう、まばらな人立ひとだちを前に控えて、大手前おおてまえ土塀どべいすみに、足代板あじろいたの高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪かみのけひたい振分ふりわけ、ごろごろとしゃくを鳴らしつつ、塩辛声しおからごえして、
「……姫松ひめまつどのはエ」と、大宅太郎光国おおやのたろうみつくにの恋女房が、滝夜叉姫たきやしゃひめ山寨さんさいに捕えられて、小賊しょうぞくどもの手に松葉燻まつばいぶしとなるところ――樹の枝へ釣上げられ、後手うしろでひじそらに、反返そりかえる髪をさかさに落して、ヒイヒイとむせんで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩あくるばんもそのままで、次第に姫松の声がれる。
「我がつまいのう、光国どの、助けてべ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
 三晩目みばんめに、やっとこさと山のふもとへ着いたばかり。
 織次は、小児心こどもごころにも朝から気になって、蚊帳かやの中でも髣髴ほうふつ蚊燻かいぶしの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、きたない弟子が古浴衣ふるゆかた膝切ひざぎりな奴を、胸のところでだらりとした拳固げんこ矢蔵やぞう、片手をぬい、と出し、人のあごをしゃくうような手つきで、銭を強請ねだる、爪の黒いてのひらへ持っていただけの小遣こづかいを載せると、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったが、黄色い歯でニヤリとして、身体からだでようとしたので、きまりが悪く退すさったうなじへ、大粒な雨がポツリと来た。
 たちま大驟雨おおゆうだちとなったので、蒼くなって駈出かけだして帰ったが、うちまでは七、八町、その、びしょ濡れさ加減かげん思うべしで。
 あと二夜ふたよばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
 さて晴れれば晴れるものかな。磨出みがきだしたい月夜に、こまの手綱を切放きりはなされたように飛出とびだして行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕うしろまく一重ひとえ引いた、あたりの土塀の破目われめへ、白々しろじろと月が射した。
 ぼっとなって、辻に立って、前夜の雨をうらめしく、空をあおぐ、と皎々こうこうとして澄渡すみわたって、銀河一帯、近い山のからたまの橋を町家まちやの屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白まっしろな形で、瑠璃るり色のくのに薄い黄金きんの輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行あるいて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行あるいて、ちょうどその辻へ来た。

       四

 湯屋ゆやは郵便局の方へ背後うしろになった。
 辻の、このあたりで、月の中空なかぞらに雲を渡るおんなまぼろしを見たと思う、屋根の上から、城の大手おおての森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋ひとすじ真白まっしろな雲のなびくのは、やがて銀河になる時節も近い。……ながむれば、幼い時のその光景ありさま目前まのあたりに見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世がうさぎであった時、木賊とくさの中から、ひょいとのぞいた景色かも分らぬ。待て、こいねがわくは兎でありたい。二股坂ふたまたざかたぬきは恐れる。
 いや、こうも、他愛たわいのない事を考えるのも、思出すのも、小北おぎたとこくにつけて、人は知らず、自分で気がとがめるおのが心を、われとさあらぬかたまぎらそうとしたのであった。
 さて、この辻から、以前織次の家のあった、なにがし……町の方へ、大手筋おおてすじ真直まっすぐに折れて、一ちょうばかり行ったところに、小北の家がある。
 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側むこうがわだけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水ようじんみず水溜みずたまりで、石畳みは強勢ごうせいでも、緑晶色ろくしょういろ大溝おおみぞになっている。
 向うの溝からどじょうにょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌しゃべるのは、けだしこの水溜みずたまりからはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰ゆきかえりに、織次はひとりでそう考えたもので。
 同一おなじ早饒舌はやしゃべりの中に、茶釜雨合羽ちゃがまあまがっぱと言うのがある。トあたかもこの溝の左角ひだりかどが、合羽屋かっぱや、は面白い。……まだこの時も、渋紙しぶかみ暖簾のれんかかった。
 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過ゆきすぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出あるきだした時、織次は帽子のひさしを下げたが、ひとみきっと、溝の前から、くだんの小北の店を透かした。
 此処ここにまた立留たちどまって、少時しばらく猶予ためらっていたのである。
 木格子きごうしの中に硝子戸がらすどを入れた店の、仕事の道具は見透みえすいたが、弟子の前垂まえだれも見えず、主人あるじの平吉が半纏はんてんも見えぬ。
 羽織の袖口そでくち両方が、胸にぐいとあがるように両腕を組むと、身体からだいきおいを入れて、つかつかと足を運んだ。
 のきから直ぐに土間どまへ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出たおんなは、下膨しもぶくれの色白で、真中からびんを分けた濃い毛のたばがみすすびたが、人形だちの古風な顔。満更まんざら容色きりょうではないが、紺の筒袖つつそで上被衣うわっぱりを、浅葱あさぎの紐で胸高むなだかにちょっとめた甲斐甲斐かいがいしい女房ぶり。と気になるのは、このうちあたりの暮向くらしむきでは、これがつい通りの風俗で、たれあやしみはしないけれども、畳の上を尻端折しりばしょり前垂まえだれで膝を隠したばかりで、湯具ゆのぐをそのままの足を、茶の間と店の敷居でめて、立ち身のなりで口早くちばやなものの言いよう。
何処どこからおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
 と一向いっこう気のない、くうで覚えたような口上こうじょうことばつきは慇懃いんぎんながら、取附とりつのない会釈をする。
「私だ、立田たつただよ、しばらく。」
 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでもせいのない、塗ったような瞳を流して、じっと見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝をいた。胸をと反らしながら、驚いた風をして、
「どうして貴下あなた。」
 とひょいと立つと、端折はしょった太脛ふくらはぎつつましい見得みえものう、ト身を返して、背後うしろを見せて、つかつかと摺足すりあしして、奥のかたへ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様のおりさんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
 という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄げたの音。

       五

「さあ、おあがり遊ばして、まあ、どうして貴下あなた。」
 とまた店口みせぐちへ取って返して、女房は立迎たちむかえる。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶のを越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂まえだれで、れた手をぐいときつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団ざぶとんを持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身たちみで廻る。
「構っちゃ可厭いやだよ。」とと茶の間を抜ける時、ふすまけんの上を渡って、二階の階子段はしごだんゆるかかる、拭込ふきこんだ大戸棚おおとだなの前で、いれちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退あとずさりに退すさった。
 その茶のの長火鉢をはさんで、さしむかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うにつくばって、その法然天窓ほうねんあたまが、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶てつびんより低いところにしなびたのは、もう七十のうえになろう。この女房の母親おふくろで、年紀としの相違が五十のうえ、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子すえっこである所為せいで、それ、黒のけんちゅうの羽織はおりを着て、小さなまげ鼈甲べっこうの耳こじりをちょこんとめて、手首に輪数珠わじゅずを掛けた五十格好のばばあ背後向うしろむきに坐ったのが、その総領そうりょうの娘である。
 不沙汰ぶさた見舞に来ていたろう。このばばあは、よそへ嫁附かたづいて今は産んだせがれにかかっているはず。忰というのも、煙管きせるかんざし、同じ事をぎょうとする。
 が、この婆娘ばばあむすめは虫が好かぬ。何為なぜか、その上、幼い記憶に怨恨うらみがあるような心持こころもちが、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりしたまゆのない顔を上げて、じろりとひたいで見上げたのを、織次はきっ唯一目ただひとめ。で、知らぬ顔して奥へ通った。
南無阿弥陀仏なあまいだぶ。」
 と折からうなるように老人としよりとなえると、婆娘ばばあむすめ押冠おっかぶせて、
南無阿弥陀仏なあまいだんぶ。」と生若なまわかい声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りもらず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗さらさの座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、ついひまでもございまするしね、なまけ仕事に板前いたまえ庖丁ほうちょうの腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜でいわしがとれますよ。」とえんへはみ出るくらい端近はしぢかに坐ると一緒に、其処そこにあったちりを拾って、ト首をひねって、土間に棄てた、その手をぐいとつかんで、指をみ、
何時いつ当地こっちへ。」
「二、三日前さ。」
ざっと十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、わっしなんざもう御覧の通りじじいになりましたよ。これじゃ途中で擦違すれちがったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
いやちっとも変らないね、あいかわらず意気いきな人さ。」
「これはしたり!」
 と天井抜けに、突出つきだかいなひたいたたいて、
「はっ、恐入おそれいったね。東京仕込じこみのお世辞はきつい。ひと可加減いいかげんに願いますぜ。」
 と前垂まえだれを横にねて、ひじ突張つッぱり、ぴたりと膝に手をいて向直むきなおる。
「何、串戯じょうだんなものか。」と言う時、織次は巻莨まきたばこを火鉢にさして俯向うつむいて莞爾にっこりした。面色おももちりんとしながらやさしかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、いれかえますけれど、おひとツ。」
 と女房が、茶のから、半身をらして出た。
「これえ、わっしが事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走ごちそうをしなけりゃ不可いかんね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落ききおとしたらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻すいがらの灰をはじいて、はっとしたようにまぶたを染めた。

       六

「さて、どうもあらたまりましては、何んとも申訳もうしわけのない御無沙汰ごぶさたで。いえ、もう、そりゃ実に、からすの鳴かぬ日はあっても、おうわさをしない日はありませんが、なあ、これえ。」
「ええ。」と言った女房の顔色のさびしいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
 平吉はたたけ、
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠えんどおい方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印じついんしますより、事も大層になりますところから、何とも申訳もうしわけがございやせん。
 何しろ、まあ、御緩ごゆるりなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
 と膝をすっと手先ででて、取澄とりすました風をしたのは、それにきまった、というていを、仕方で見せたものである。 
串戯じょうだんじゃない。」と余りその見透みえすいた世辞の苦々にがにがしさに、織次は我知らず打棄うっちゃるように言った。とそのことばが激しかったか、
「え。」と、聞直ききなおすようにしたが、たちまち唇の薄笑うすわらい
「ははあ、御同伴おつれの奥さんがお待兼まちかねで。」
「串戯じゃない。」
 と今度はおだやかに微笑ほほえんで、
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
貴下あなた、まだ奥様おくさんはお持ちなさりませんの。」
 と女房、胸を前へ、手を畳にす。
 織次は巻莨まきたばこを、ぐいと、さし捨てて、
「持つもんですか。」
「織さん。」
 と平吉は薄く刈揃かりそろえた頭をって、目をえた。
「まだ、貴下あなた、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下あなた、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様おとっさんかわって、一説法ひとせっぽうせにゃならん。例の晩酌ばんしゃくの時と言うとはじまって、貴下あなたことほか弱らせられたね。あれを一つりやしょう。」
 と片手で小膝をポンとたたき、
「飲みながらがい、召飯めしあがりながら聴聞ちょうもんをなさい。これえ、何を、お銚子ちょうしを早く。」
はい、もうけてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折すそはしょりで。
 織次は、酔ったいきおいで、とも思う事があったので、黙っていた。
「ぬたをの……今、わっし擂鉢すりばちこしらえて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、いか、手綺麗てぎれいよそわないと食えぬ奴さね。……もう不断ふだん、本場でうまいものをあがりつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にもらない、ああ、らないとも。」
 とひとりでめて、もじつく女房を台所へ追立おったてながら、
「織さん、いわしのぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
 ああ、しばらく。座にそのいわしの臭気のないうち、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
 と織次は若々しいもの言いした。
此家こちらに何だね、僕ンとこのを買ってもらった、錦絵にしきえがあったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも年久としひさしい昔を見るように、ひとみじっと上へあげる。
うちで困って、……今でも貧乏は同一おんなじだが。」
 と織次はきっと腕をんだ。
「私が学校でる教科書が買えなかったので、親仁おやじ思切おもいきって、阿母おふくろ記念かたみの錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻かいもどして、しまっといてくれた。その絵の事だよ。」
 時雨しぐれの雲の暗い晩、寂しい水菜みずな夕餉ゆうげが済む、とはしも下に置かぬさきから、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請ねだった、新撰物理書しんせんぶつりしょという四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へかよわれぬと言うのではない。科目は教師が黒板ボオルドに書いて教授するのを、筆記帳へ書取かきとって、事は足りたのであるが、みんなが持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時きん八十銭と、覚えている。

       七

 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火ともしびの赤黒い、火屋ほや亀裂ひびに紙を貼った、笠のすすけた洋燈ランプもとに、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場さいくばに立ちもせず、そでつぎのあたった、黒のごろの半襟はんえりの破れた、千草色ちぐさいろ半纏はんてんの片手をふところに、膝を立てて、それへ頬杖ほおづえついて、面長おもながな思案顔を重そうにささえて黙然だんまり
 ちょっと取着端とりつきはがないから、
「だって、ほしいんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板のを伝って、だだッ広い、寒い台所へく、と向うのすみに、しもが見える……祖母おばあさんが頭巾ずきんもなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちとつめたい音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
 と聞分ききわけもなく織次がそのたもとにぶら下った。ながしは高い。走りもとの破れた芥箱ごみばこ上下うえしたを、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈まめランプ蜘蛛くもの巣の中にぼうとある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干うめぼしいからさ。」
 祖母としよりは、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂まえだれで手をき拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返ひきかえして、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後うしろ向きに、まだ俯向うつむいたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親おっかさん、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
 と納戸なんどへ入って、戸棚から持出した風呂敷包ふろしきづつみが、その錦絵にしきえで、国貞くにさだの画が二百余枚、虫干むしぼしの時、雛祭ひなまつり、秋の長夜ながよのおりおりごとに、馴染なじみ姉様あねさま三千で、下谷したや伊達者だてしゃ深川ふかがわ婀娜者あだもの沢山たんといる。
 祖母おばあさんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
 と顔を背向そむける。
 祖母としよりほどけた結目むすびめを、そのままゆわえて、ちょいとえりを引合わせた。細い半襟はんえり半纏はんてんそでの下にかかえて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗いところで、
可哀かわいやの、姉様あねさまたち。わしもとを離れてもの、蜘蛛男くもおとこに買われさっしゃるな、二股坂ふたまたざかくまいぞ。」
 と小さな声して言聞いいきかせた。織次は小児心こどもごころにも、その絵を売って金子かねに代えるのである、と思った。……顔馴染かおなじみの濃いくれない薄紫うすむらさき、雪のはだえ姉様あねさまたちが、この暗夜やみのよを、すっとかどを出る、……とと寂しくなった。が、べに白粉おしろいが何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、とおどった。
「待ってござい、おりや。」
 ごろごろと静かな枢戸くるるどの音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野あれの駈廻かけまわる。
 と祖母としよりが軒先から引返して、番傘ばんがさを持って出直でなおす時、
「あのう、台所のあかりを消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリとかどの戸がしまった。
 コトコトと下駄げたの音して、何処どこまでくぞ、時雨しぐれあしさっと通る。あわれ、祖母としよりに導かれて、振袖ふりそでが、詰袖つめそでが、つまを取ったの、もすそを引いたの、鼈甲べっこうくし照々てらてらする、銀のかんざし揺々ゆらゆらするのが、真白なはぎも露わに、友染ゆうぜんの花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足はだしで田舎の、山近やまぢかな町の暗夜やみよ辿たど風情ふぜいが、雨戸の破目やぶれめ朦朧もうろうとしていて見えた。
 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼いまなこくらまして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のそのさまを、のちに思えば鬼であろう。
 台所のともしびは、はるか奥山家おくやまが孤家ひとつやの如くにともれている。
 トその壁の上を窓からのぞいて、風にも雨にも、ばさばさと髪をゆすって、団扇うちわの骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚しゅろの樹が、その夜は妙にしんとして気勢けはいも聞えぬ。
 鼠も寂莫ひっそりと音をひそめた。……

       八

 台所と、この上框あがりがまちとを隔ての板戸いたどに、地方いなか習慣ならいで、あしすだれの掛ったのが、破れる、れる、その上、手の届かぬ何年かのすすがたまって、相馬内裏そうまだいり古御所ふるごしょめく。
 その蔭に、遠いあかりのちらりとするのを背後うしろにして、お納戸色なんどいろの薄いきぬで、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母としより背後影うしろかげを、じっと見送るさまたたずんだおんながある。
 一目見て、幼い織次はこの現世うつしよにない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
 その小児こども振向ふりむけた、真白な気高い顔が、雪のように、さっと消える、とキリキリキリ――と台所を六角ろっかく井桁いげたで仕切った、内井戸うちいど轆轤ろくろが鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
 ながしところに、浅葱あさぎ手絡てがらが、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪くろかみのおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっととおった横顔が仄見ほのみえて、白い拭布ふきんがひらりと動いた。
織坊おりぼう。」
 と父が呼んだ。
「あい。」
 ばたばたと駈出して、その時まで同じところに、いたようにじっとして動かなかった草色くさいろ半纏はんてん搦附からみつく。
「ああ、阿母おっかのような返事をする。肖然そっくりだ、今の声が。」
 と膝へ抱く。胸に附着くッつき、
「台所に母様おっかさんが。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
祖母おばあさんの手伝いして。」
 親父は、そのまま緊乎しっかと抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書をみんな読むとね、母様おっかさんのいるところが分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくともい。……おいでよ、父上おとっさん。」
 と手を引張ひっぱると、猶予ためらいながら、とぼとぼと畳に空足からあしを踏んで、板のへ出た。
 その跫音あしおとより、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚しゅろの骨がばさりとのぞいて、其処そこに、手絡てがらの影もない。
 織次はわっと泣出した。
 父は立ちながらせなさすって、わなわな震えた。
 雨の音がさっと高い。
「おお、つめてえ、本降ほんぶり、本降。」
 と高調子たかぢょうしで門を入ったのが、此処ここ差向さしむかったこの、平吉のへいさんであった。
 からかさをがさりと掛けて、提灯ちょうちんをふっと消す、と蝋燭ろうそくにおいが立って、家中うちじゅう仏壇のかおりがした。
! 世話場せわばだね、どうなすった、とっさん。お祖母としよりは、何処どこへ。」
 で、父が一伍一什いちぶしじゅうを話すと――
立替たてかえましょう、可惜あったらものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干いくらに買うか知れないけれど、差当さしあたり、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処ここにあればわけだ、と先ず言ったわけだ。先方さき買直かいねがぎりぎりのところなら買戻かいもどすとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
 とひどく書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、ただ立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子かねの出来るまで、僕が預かって置けばうがしょう。さ、それできまった。……一ツ莞爾にっこりとしてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児こどもに学問なんぞさせねえがいじゃないかね。くだらない、もうこれ織公おりこうも十一、※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごばたばたは勤まるだ。二銭三銭のたしにはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜ひじきだいが浮いて出ようというものさ。……実のところ、僕が小指レコの姉なんぞも、此家ここへ一人二度目妻にどめのを世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児こどもに本を買ってる苦労をするようじゃ、すえを見込んで嫁入きてがないッさ。ね、祖母としよりが、孫と君の世話をして、この寒空さむぞらに水仕事だ。
 因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
 ――その姉と言うのが、次室つぎのまの長火鉢のところに来ている。――

       九

 そこへ、祖母としよりが帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶あいさつもせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
 織次は飛んで獅子の座へなおったいきおい。上から新撰に飛付とびつく、とつんのめったようになって見た。黒表紙にはあやがあって、つやがあって、真黒な胡蝶ちょうちょう天鵝絨びろうどの羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流せせらぎのように動いて、何がなしに、言いようのない強いかおりぷんとして、目と口に浸込しみこんで、中にいた器械の図などは、ずッしりくろがねたてのように洋燈ランプの前にあらわでて、絵の硝子がらすばっと光った。
 さて、祖母としよりの話では、古本屋は、あの錦絵にしきえを五十銭からを付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬとことわる。ほしい物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端みせさきに腰を掛けて、時雨しぐれ白髪しらがを濡らしていると、其処そこの亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処ここにそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆たけべらの折返しの跡をつけた、古本の出物でものがある。定価から五銭引いて、ちょうどにつばを合わせて置く。で、孫に持って行ってるがい、とさばきを付けた。国貞くにさだの画がざっと二百枚、かろうじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
 平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
織坊おりぼう母様おっかさん記念かたみだ。お祖母ばあさんと一緒に行って、今度はお前が、背負しょって来い。」
「あい。」
 とその四冊を持って立つと、
みちが悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
 と祖母としより莞爾にっこりして、嫁の記念かたみを取返す、二度目の外出そとではいそいそするのに、手をかれて、キチンと小口こぐちを揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許ひざもとに残しながら、出しなに、台所をそっのぞくと、ともしび棕櫚しゅろ葉風はかぜおのずから消えたとおぼしく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
 雨は小止こやみで。
 織次は夜道をただ、夢中で本のいで歩行あるいた。
 古本屋は、今日この平吉のうちに来る時通った、確か、あの湯屋ゆやから四、五軒手前にあったと思う。四辻よつつじく時分に、祖母としより破傘やぶれがさをすぼめると、あおく光って、ふたを払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白くんで、うさぎのような雲が走る。
 織次はと幻に見た、夜店の頃の銀河の上のおんなを思って、先刻さっきとぼとぼと地獄へ追遣おいやられた大勢の姉様あねさんは、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
 一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着くッついたが、店も大戸おおども閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町はしんとして何処どこにもの影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
 と祖母としよりがせかせかござって、
御許ごゆるさい、御許さい。」
 と遠慮らしく店頭みせさきの戸をたたく。
 天窓あまどの上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
 と言う太い声。箱のような仕切戸しきりどから、眉の迫った、頬のふくれた、への字の口して、小鼻の筋からおとがいへかけて、べたりと薄髯うすひげの生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜くやしさを、織次は如何いかにしても忘れられぬ。
 絵はもう人に売った、と言った。
 見知越みしりごしじんならば、知らせてほしい、何処そこへ行って頼みたい、と祖母としよりが言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後えちごく飛脚だによって、あしはやい。今頃はもう二股ふたまたを半分越したろう、と小窓に頬杖ほおづえいて嘲笑あざわらった。
 えんの早い、売口うれくち別嬪べっぴんであった。ぬしが帰ってもない、店の燈許あかりもとへ、あの縮緬着物ちりめんぎものを散らかして、扱帯しごきも、えりひっさらげて見ているところへ、三度笠さんどがさを横っちょで、てしま茣蓙ござ脚絆穿きゃはんばき草鞋わらじでさっさっとって来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなりをつけて、ずばりと買って、らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯うわおびを結び添えて、雨の中をすたすたと行方ゆくえ知れずよ。……
「分ったか、お婆々ばば。」と言った。

       十

 断念あきらめかねて、祖母としよりが何か二ツ三ツ口を利くと、挙句あげくはてが、
老耄婆もうろくばばあめ、帰れ。」
 と言って、ゴトンと閉めた。
 祖母としよりが、ト目をこすった帰途かえりみち。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中ふところ小口こぐちを半分差込さしこんで、おさえるようにおとがいをつけて、悄然しょんぼりとすると、つじ浪花節なにわぶしが語った……
姫松ひめまつ殿がエ。」
 がやみから聞える。――織次は、飛脚に買去かいさられたと言う大勢の姉様あねさんが、ぶらぶらと甘干あまぼしの柿のように、樹の枝に吊下つりさげられて、げつろしつ、二股坂ふたまたざかさいなまれるのを、目のあたりに見るように思った。
 とやっぱりぷんとする懐中ふところの物理書が、その途端に、松葉のいぶ臭気においがし出した。
 もとより口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時いまどき町を通るものか。足許あしもとを見て買倒かいたおした、十倍百倍のもうけおしさに、むじなが勝手なことをほざく。引受ひきうけたり平吉が。
 で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻かいもどしてくれた錦絵にしきえである。
 が、そののち、折を見て、父が在世ざいせの頃も、その話が出たし、織次ものちに東京から音信たよりをして、引取ひきとろう、引取ろうと懸合かけあうけれども、ちるの、びるのでまとまらず、追っかけて追詰せりつめれば、片音信かただよりになってらちが明かぬ。
 今日こそ何んでも、という意気込いきごみであった。
 さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨てんじょうにらみの上睡うわねむりで、ト先ず空惚そらとぼけて、やっと気が付いた顔色がんしょくで、
「はあ、あの江戸絵えどえかね、十六、七年、やがて二昔ふたむかし、久しいもんでさ、あったっけかな。」
 と聞きもえず……
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故なぜかこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易たやすくは我が手にらない因縁いんねんのように、寝覚めにも懸念して、此家ここへ入るのに肩をそびやかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立いらだあせる。
 平吉は他処事よそごとのように仰向あおむいて、
「なあ、これえ。」
 と戸棚の前で、膳ごしらえする女房をあごで呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
はい、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然はっきり言った。
難有ありがとう、おことさん。」
 とはじめて親しげに名を言って、じっと振向くと、なみ浅葱あさぎ暖簾越のれんごしに、またさっと顔をあからめたところは、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かにおもかげかすか似通にかよう。……
「お一つ。」
 とそこへ膳をなおして銚子ちょうしを取った。変れば変るもので、まだ、七八ななやここのツばかり、母が存生ぞんしょうの頃の雛祭ひなまつりには、毛氈もうせんを掛けた桃桜ももさくらの壇の前に、小さな蒔絵まきえの膳に並んで、この猪口ちょこほどな塗椀ぬりわんで、一緒にしじみつゆを替えた時は、この娘が、練物ねりもののような顔のほかは、着くるんだ花の友染ゆうぜんで、その時分からまるい背を、背屈せこごみに座るくせで、今もその通りなのが、こうまで変った。
 平吉はう五十の上、女房はまだ二十はたちの上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉のぜんの家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半よわの嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうしたところではふさわしくなって、女房ぶりもあわれに見える。
 これも飛脚にさらわれて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
 いや、何んにつけても、早く、とまたきっと居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨よこにらみをした平吉が、
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
 と幾度いくだびも一人で合点のみこみ、
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁きんじょがっぺき、親類中の評判で、平吉がとこへ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、たかるほどに、とん片時かたときも落着いていたためしはがあせん。」
 と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
手前てまえじゃ、まあ、持物もちものと言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下あなたから預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢ゆびあか手擦てずれ、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩けんかになる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所よその蔵にしまってありますわ。ところが、それ。」
 と、これも気色けしきばんだ女房の顔を、兀上はげあがった額越ひたいごしに、トって、
「その蔵持くらもちうちには、手前が何でさ、……とその銭式レコしきの不義理があって、当分顔の出せない、といったようなわけで、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式レコしきの事ですからな。
 それに、織さん、近頃じゃが出ましたっさ。錦絵にしきえは……たった一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下あなたにも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。おしまぬ、ね、は惜まぬから手放さないか、と何度なんたびも言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。はばかりながら平吉売らないね。預りものだ、手放していものですかい。
 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めしあがれ、熱いところを。ね、御緩ごゆっくり。さあ、これえ、お焼物やきものがない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒ごしゅ尾頭おかしら附物つきものだわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたったおんなだ。へへへへへ、いわしを焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
 と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉のひたいをぬすみ見る女房のさまは、湯船ゆぶねへ横飛びにざぶんと入る、あの見世物のおんならしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
 坐り直って、
「あなたえ。」
 とうらめしそうな、なさけない顔をする。
 ぎょろりと目をき、けんつらで、
「これえ。」と言った。
 が、いわしの催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
 と隣室となりの茶ので、女房の、その、上の姉がしなびた声。
「なんまいだ。」
 とばばとなえる。……これが――「姫松殿ひめまつどのがえ。」と耳を貫く。……称名しょうみょうの中から、じりじりと脂肪あぶらの煮えるひびきがして、なまぐさいのが、むらむらと来た。
 この臭気しゅうきが、と、あの黒表紙に肖然そっくりだと思った。
 とそれならぬ、姉様あねさんが、山賊の手に松葉燻まつばいぶしの、乱るる、ゆらめく、黒髪くろかみまでが目前めさきにちらつく。
 織次ははげしくいった。
「平吉、金子かねでつく話はつけよう。いわしは待て。」

底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   1999(平成11)年3月15日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年4月初版発行
初出:「太陽」
   1910(明治10)年1月号
※底本の親本は総ルビ。底本作成時にルビが取捨選択されています。
入力:今中一時
校正:青木直子
1999年12月16日公開
2005年12月2日修正
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