「散髪して来よう。」
 さう、思ひつくと、彼は、膝の上の夕刊を投げ棄てゝ、安座からむつくりと立ちあがつた。立ちあがつた彼は、如何にも退屈らしく「ウーム」と云つて大きな伸びをした。その彼の伸びは、彼が故意にさうしたのだつた。立ちあがつた動作が余りに唐突で、――といふ気がした彼は、ふと叔母の視線に触れて、ひよいと軽いながらも白けた感じをうけたので、それを、安易さをもつてナチュラルに解決しようといふやうな心で、さうしたのだつた。
「勉強?」叔母は縫物の手を止めて、彼に釣り込まれて思はず休息したかのやうに、両肩をこゝろもち落して彼の方を見あげた。丁度、彼の伸びが終らうとしてゐるところだつた。隣りの家から琴の音が洩れてゐた。冬が終らうとしてゐる静かな生温い宵だつた。叔母は、直ぐに手の先を動かし始めてゐた。
 さうと、叔母に何気なく云はれて見ると、彼は無意味な不安を感じた。
 ……俺は今、寝転むだ儘、退屈を紛らすために、叔母を相手に極めて無意味な話だけをしてゐる、叔母は十分な、俺の相手である。二人は二人の間の雰囲気を同程度の力を分けて各々保つてゐるのである。然るに叔母はさうしてゐながら立派に自らの仕事を運むで行く。つまり俺の全部の力は叔母の何分か一の力に依つて容易く限定されてゐるわけである。
「ほんたうだ。」……
 一刻前彼はそんな愚考に割合に強く焦かれて、たしかたつたそれだけの原因で、寝転むでゐた状態を安座に戻したらしかつた。――それから、今ふと立ちあがつたのである。だから彼は、「散髪に行かう。」と思つたことは、その妙な焦燥に似た心に対する言訳のやうにも感ぜられて、伸びが終つた頃にはもう出掛けることは大儀な気がした。
「もうそろそろ試験でせう?」
「いゝえ。」
「だつて……」
 もう少しで彼は叔母に酷いことを云ふところだつた。――が、帯を握つた両腕をウンとこきおろしながら、相対的の調子を強ひて含めずに、
「こりやどうも少し飯を喰ひ過ぎたぞ、ウーン。」と、そんな独り言を呟くと、また、坐つてしまつた。さうして鉄瓶の胴腹をピンピンと指先ではじいた。
「降るかしら。」と叔母は云つた。
 そんな質問に答へるのが「寂しい」やうな気がした彼は、黙つたまま、努力してその自らの心を傍観しようとしてゐた。
「夕方から急に陽気がゆるんで来たから、こりやあ、どうもあやしいよ、雨だよ、屹度。」
 まだ叔母はこりずに、と彼は思つた。――と、彼は、こんな些細な茶飯事に……であればあるだけ自らの愚かしい邪推が気の毒になつて、酷く自分を憎むだ。けれど、かうなると僭越な心ばかりが先に立つて、叔母と調子を合せる為の決心の裏は倦怠ばかりではあつたが、仕方がなく、
「降るかしら?」と、叔母の言葉を追ふことで辛うじて答へた。さうして彼は、叔母の方を見た。叔母がこれに答へないでも其場の雰囲気は極めて自然なものであつた。叔母は、セツセツと手の先を動かしてゐる。そこに、彼は親しみを見出して、初めて安心な沈黙に浸つた。たゞ極めて空漠と頭の中が軽かつたので、彼は、その軽さに重味を加へたいやうな気がした。
 三分間の後(実際彼は、柱時計の針がそれだけ動いたのを見てゐた。)彼は、「降るかな? 或は降るかも知れない? それとも持ち続くか?」そんな風に、さつき叔母の提言したことだけをしきりに考へてゐるばかりの自らを見出した。
 彼は、巧みに動いてゆく叔母の針の先を、眼バタキをしないで眺めてゐた。見てゐるといふ事実とは全く別に、たださうしてゐる眼の感覚が快かつたので、彼はその甘さを味はつた。
「俺の神経病にも困つたものだ。」と彼は思つた。然し、実際の彼の頭は、彼が、病気だなどと思ふ程神経的でもなく、その言葉からうける繊細な鋭さからは反対な――だからその意識外の半面は甚しく茫漠とした白々しい愚昧さのみであつた。
 パチパチと仰山な眼バタキをした彼は、見るからに悩ましげに眉を顰めて、片方の人差指で顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)を突きながら欄間の古い額を見あげた。
 涵虚混太清、と書いてある不気味な文字の額だつた。解釈は考へなかつたが、莫迦にその額が不快な気がした。

「何処かへ出掛けるの?」彼がその室を出ようとした時に叔母が斯う尋ねると、
「ええ、ちよいとそこまで。」と彼はかう答へたら必ず叔母は不安を抱くに違ひない、と思ひながら、ワザと洒々と云つた。叔母の口先や態度に「監督」といふ色合の見ゆるのが彼は気に喰はなかつた。尤も前の年の試験に落第したので、両親の手前は勿論、その依頼を享けてゐる叔母の手前に決して「口はばつたいこと」の云へる境遇ではなかつた。
 それだのに、こんな些細な言葉尻に、もう彼は憤懣を覚えて、実際今立ちあがつた時は、二階へ行つて試験の勉強をしようと考へてゐたにも係はらず、そんな答へをしてしまつたのである。で、彼は「仕方がない散髪へでも行かう。」と思つた。「もつと何か面白い処があればいいな。」とも思つた。
 机の上には友達から借りて来たノートが三四冊積み重ねてあつた。一冊は、うやうやしく拡げて、赤い鉛筆などがその傍に置いてあつた。時々叔母がそれとなく覗きに来る場合の要心に「道具立を配して置いたこと」を見ると情ない気持がした。
 翌日中にそれ等のノートは返却しなければならないことを思ふと、彼の心は苛立たずには居なかつた。
「こんなものは他愛もない。」そんな自慰的な自惚れと、時間の切迫から享ける物質的な怖れとで、
「兎に角やらう、一気に。」と呟かせられた。坐りながらコツンと力を籠めた拳固で軽く自分の頭を擲つた。
 ………………
 ノートに専念に眼を曝した彼は、「専念に」といふ心の働きが唯一の努力の対照になつてゐて、だからそれが極めて技巧的である事に――我慢はしようとしたが……もう、その愚かな我儘に打ち勝てなかつた……彼は、「まあ、好いあんばいに……」と思つてゐるに違ひない階下の叔母を想像した。
 で、彼はその叔母の微笑を、ふと思ふと、「ちよつと、そこまで。」と云つて室を出た時の自分を持ち続けなければならない気がした。理性では明瞭に、こんな莫迦気た自尊心など、と打ち消したが……そんなくだらないことを考へてゐるうちに、それが何だか妙に愉快なやうな滑稽なやうなすがすがしさに似た心が湧きあがつてきて、彼は意味もなくセヽラ笑つて立ちあがつた。「兎に角散髪して来やう。」と思つた。
 タオルを懐ろへ入れて玄関へ来ると、ふと気附いたやうに、帽子と外套とを手にして、
「ぢや叔母さん、ちよいと行つて来ますよ。」と、彼は大きな声を張り挙げた。その外出に就いては好ましからぬ疑念をさしはさむでゐる叔母は、わざわざ玄関へ走り出て、
「あんまり遅くならないやうにね。」と、迂散な眼附で彼の外套姿を眺めた。
 イヽ気味だ、と彼は思ひながら、
「えゝえゝ。」とばかりに空々しくうけ流しながら愴惶と潜り戸を脱け出た。叔母が邪推してゐるとほりに、情人があつて縦令遊里の女とでも気軽く遊べるだけの気の利いたところがあつて、こんな場合に金さへ十分にあれば気持も何もあつたものぢやなし……などと、こんなことを考へ始めると、どんな無理をしても遊びに行き度い気持ばかりになつた。……考へて見ると近頃毎晩のやうに、こんな風にフラリと家を出てはカフェーで時を費したり活動写真へ入つたり寄席へ入つたり芝居の立見をしたりなどしては大概家へ戻るのは早くても十二時近くだつた。実際は散歩などにたつたひとりで出掛けるのは嫌ひなのであつた。
「ひよつとすると遊べるかも知れないぞ。」
 ふいとさう思ふと、未だそれが果してどうとも見当が附きもしないうちに彼の胸は嬉しさの余りワクワクと躍つた。「行くこと」の恍惚にだけ浸つて、「行けるか、行けないか。」そんなことを打算することすら面倒だつた。
 彼は懐ろから財布を取り出すと細かいものまで丹念に計算を始めた。月の始めだつたので一ヶ月分の小遣が大部分あつた。それに彼は(叔母達の予想とは全く反対に)可成りケチ臭くて精算的だつたし、それに遊びなどは殆ど経験もなかつたし――その時計らずも「辛うじて遊び得られさうなだけ」の分量の金を自分が持つてゐることを見出すと急に「嬉しい世界」を発見したやうな気がした。彼の胸は無性に躍動した。――様々なロマンテイックな情景を想像したりした。
「第一に歯切れよく、と。」そんなことを考へた。口のうちで歌をうたつて見たりした。
 彼は慌てゝ家へ引き戻つた。
「ちよつと忘れ物、ノートで。友達に尋ねなければならないところが。」
 彼は斯うきつぱりと、あるきまつた対照の為に嘘をつくことの出来たことが愉快でならなかつた。
「三冊程本を、今晩買つて来たいんですが、叔母さんちよつと七円程出して下さい。」
 これで彼は用意の分を作つた。
「十円なんだけれど――三円あつて?」
「さうですね。」と、彼は財布を験べて、確かに三円はあつた癖に、
「さあ……?」と言つた。
「ぢや帰つて来てから。」と言ひながら叔母は十円紙幣を彼に渡した。彼は叔母の此の言葉から何となく軽蔑された苦々しさを感じながらも、この三円で偶然にも更に安心の程度が高まつたのを悦んだ。
 ノートを取りに行くことを装つて彼は二階へ上ると、キョロキョロと階下に注意を配りながら、そつと行李の底から他所行の着物を抜き出した。
「帰りに、若し時間があつたら床場へ寄つて来ますから、兎に角少し遅くなります。」と彼は云つた。一刻前には「散髪へ行くこと」が叔母への唯一の秘密であつたのに、今度はそれが極めて順当な方便の為の嘘に変つたことも彼は余りにアツケなくて可笑しかつた。「莫迦だな、俺は。」といふ気がしたが、それが為にセンチメンタルな理性に引戻るには余りに彼はセンチメンタルな華かさに興奮し過ぎてゐた。
「ぢやいくら遅くなつても開けて置くからね、寝てはしまふけれど。」先程彼を送り出した時の態度とは打つて変つた叔母は、安心したやうに言つた。
 電車に乗らうとしたが、ふと止めて、彼はスタスタと歩き始めた。浜町の角まで来て始めて彼は、両国の方へ行かうか、それとも水天宮の方へ行かうかと思つた。人形町の通りにいつも彼の行く理髪店があつた。家を出て、此処迄来る間「遊び」の事は考へて居なかつたやうな気がした。
「先へ頭を刈つてそれから行かう。」と、決心して、水天宮の前迄電車に乗つた。
 五の日で縁日だつた。ピーツといふ風船の笛が遠くに聞えた。床場の五六間手前に来た時に彼は帯の間から時計を出して見た。「そんな間はない。」と思つた。頤を撫でて見るといくらかザラザラしてそれがひどく気になつたので「大急ぎで顔だけ」と思つたが、何だかぢつとして椅子にヒックリ返つてゐることを思ふと、その間が堪らない気がした。理髪店の親爺が非常に饒舌なお世辞者であることも思つた。
 彼は、スツとその前を行き過した。家へ速かに帰り度いと思ふ気持のみになつた。叔母に対する道義的な気持が浮びあがつて「ああ、サッパリした。」と、刈りたての頭を叔母に示す時の健全な快さが沁々と想はれた。試験のこともひどく気になつた。
 が、また彼は何やら思ふと、一寸立止つただけで引戻さずに歩き始めた。もう、その時の気持は彼自身には解らなかつた。強ひて言へば、自分の気持などを考へることが面倒で且余りに莫迦気てゐるのが醜くく感ぜられたやうであつたが、単純な彼の頭脳の働きはたつたそれだけのことでもうこんがらかつてしまつて、その原因である些細な情実までは想ひが至らなかつたのである。白く茫然とした頭を持ち続けて歩いて居た。
 彼は、堀留三丁目の電車の停留場迄来てしまつた。「ああ俺は矢張りあの照子のことを思つてゐる。」斯う気附くと彼は自分ながらひどく癪に触つた。「あんな奴何だい。」
 が、かうなるとどうしても寄らずには居られなかつた。「何か言訳になりさうな用事はないかしら。」と、しきりにそれを考へながら弥生町の方へ折れると、直ぐ其処の路次先にある照子の家へ近附いて行つた。
 ………………
 彼が茶の間へ入つて行くと照子はたつた独りで、長火鉢と離れた灯火の下で瀬戸物の火鉢に凭り掛つて演芸画報を見て居た。
「叔父さんは?」坐らずに彼は斯う尋ねた。
「まだよ。」
「で、阿母さんは?」
「アラ、純ちやんは家から来たんぢやないの。」
「ああ。」と彼は言つた。
「さつき純ちやんところへ行くんだつて出掛けたのだつてさ。」
「叔父さんは帰りは遅いかしら?」
「どうだか、なんでも此二三日莫迦に忙しがつてゐるやうだから屹度遅いでせう。」
「そいつあ弱つたな。」彼は照子の火鉢へおよび腰の儘、慌しげにガサガサと両手を揉みながら翳した。
「お留守居とはしをらしいね。」一刻前の妙な憂鬱などは可笑しい程他愛もなく吹き飛むでしまつた彼は、浮々とした下品な調子で言つた。
「嘘よ、妾だつてもう先程帰つたばかりよ。」
「山下さんとお芝居か、例によつて。」
「冗談言つちやいけないよ、あんな奴とはとつくに喧嘩しちやつたわよ。」
「ほう! 素晴しい権幕だな。」と彼が云ふと、
「実は、しようと思つて居るんだよ、だつて余り彼奴厭らしいことばかり言ふんだもの。」と照子は言つた。彼は、照子がその山下とかいふ男とほんたうに喧嘩をしてしまへばいい、と希つた。
「そんなことだらうとは思つたがね。」彼は少し芝居気を離れて冷笑した。
「明日山下さんの下宿へ遊びに行つてやらうかしら。」と照子は言つた。山下といふ男のことをよく照子は口にするが、実際は照子が言ふ程それと親密ではないことを彼はよく知つてゐた。それに就いては彼は内々照子の友達などにそれとなく様子を尋ねてあつたし心配する程のことはない確証は十分(何でも照子の友達の処で歌留多会で二三度遇つただけで個人的な交際は全然ないのである。)なのだが、うつかりさうした方面で戦ひを求めて行つたりすると――その言葉だけと見ても酷く嫉妬せずには居られない極めてキハドイ事を平気で照子は言ふので、それを聞くのが怖ろしくて、彼はその勇気はどうしても出ないのである。
 彼は、一寸黙つてしまつた。「ほんたうに行きはしないかしら。」と思ふと、たゞその幻想だけで、ムカムカと涙が込み上げて来るやうな嫉妬を感じた。
「ああ、お腹がいた。」
「奢つてやらうか、今日はかう見えても多少ウエルシイなんだぜ。」
「へえ? まあ珍らしいわね、純ちやんに御馳走になつた事があるかしら、ほんたうに。いつでも妾ね。」
「だからさ。」
「だつて後が怖いわ。それよか此間貸してやつた五円を返して貰はうか、そんなにお金持なのなら。」
「まあ、そんなケチなことは無しさ、ところで何だい?」と景気よく彼は口走つたが、
「ぢや出掛けようか。」と照子に言はれて見ると急に厭になつてきて、
「さうだねえ。」と生返事をした。
「俺の顔少し赤かないか。」
「ちつとも。」
「もう少し飲みたいやうな気もする。」
「何処へ行つて来たの。」
「……」彼はワザと意味ありげにニヤニヤと厭な笑ひを浮べた。
「純ちやんは余り赤くならない方ね。」
「さうさ。」
「兎に角洋食で勘忍してやるわ。お里が今お使ひから帰つて来るから……」と言ひながら照子は立ちあがると、箪笥を引き出して、最初出した羽織が気に入らないで、また別のを出して着た。
「どつかその辺だぜ。」
「厭なこつた、Tでなくつちや。純ちやんはみつともないつてことを知らないから厭なんだよ、うつかりすると。」
「歩くのが厭なんだよ。」実際彼は、こんなところまで歩いてしまつて可成り草臥れても居た。
「何言つてんのさ、ケチ!」斯う照子に言はれると彼は、全く(照子の予想外に)さうであるより他はなかつたので、テレかくしに、
「ハッハッハッ。」と笑つた。その笑ひを照子は善意に取つてゐることは云ふまでもない。
「照ちやんは未だ御飯を食べないのか?」
「撮み喰ひばかりしてゐて忘れちやつてえたのよ。それに阿母さんが帰りに何か買つて来る筈になつてゐるんだけれど、どうせ碌なものぢやないからさ。」
「いよいよ持つて堪らねえぞ。」とは言つたものの彼は決してそれほど冗談ではなかつた。
 照子と肩を並べて歩くことを想ふと、彼は嬉しいには違ひなかつた。照子の後ろ姿を見上げながら彼は「或時の夫の気持」を想像したり味はつたりした。照子は箪笥の中をガサガサと音をさせて何か捜して居た。
「行つて参りました。」と女中が餠菓子を大きな焼物の器に盛つて其処へ置くと、彼は、
「この鹿の子は旨さうだな。」と、パクリと一口に頬張つた。煙草を喫ひ過ぎた舌に、その冷い甘さが非常に快かつた。で、もう一つ食べようとすると、
「アラ、お止しよ、お腹が張つてしまふぢやないか。」と照子が言つた。「さあ出掛けやう、お待遠う様。――お里、お前これをお食べな。」
 鹿の子と羊羹とが、明るい電灯の下でピカピカと光つてゐた。彼は唾をのむだ。
「一つ喰べてやれ。」と照子は、羊羹をモグモグやりながら、彼の先へ玄関を出た。

 T――軒の食堂は、未だ可成り賑つてゐた。うまく窓の側のテーブルが空いてゐたので二人はそれに向ひ合つて座を占めた。途中で照子が買つて呉れたスリーキャッスルを咬へた彼は、それが随分短くなつてゐるにも関はらずまだ喫して居たのを、照子に注意されて棄てた。
「テーブルのAを頂戴な。それからね、純ちやんは飲むんでせう、何?」と照子は彼の方を見たが、彼が愚図愚図してゐるので直ぐに「ウヰスキーを一つ。」とボーイに命じた。「妾、ベルモット。」
 ボーイが立去ると彼は、
「酔つたつて知らないよ。」と苦々し気に言つた。彼は「遊び」のことを考へて居た。その計画が斯んな余計な事にムザムザと破壊されて行くのを思ふと残念で堪らない、と思ふと遊びなんかといふことよりも実際に書物も買ひたくなつて来たことに――軽く驚いた。
「一体今日は何処の帰りさ。」
「まあ、そいつは言はないことにして置かうよ。」
「いい加減なことを言つてら。――精々遊びでもしたら幾らか気が利いて来るだらうに……だけど一体何方の方へ行くの。」
「まあまあ……」
「嘘つき!」
「さうだよ。」
「チエツ、厭になつちまふ……」
 ……彼は、どうしても遊びに行く、と決心した。第一さうした方面のテクニックを殆ど知らない事に非常な不便を感じた。
「何さ、未だ頭を刈らないぢやないの。此間あんなに妾から言はれたことを忘れちやつたの! 厭だわ、こんなサヽラみたいな頭の奴となんか一緒に歩くのは。」照子は二杯目の洋盃を殆ど空にして、頬のあたりから眼の周囲を赤くした。「第一柄にないわよ。」
 日増に照子の莫迦さ加減が増長して来るのが目に見ゆることは、彼にとつては憐れ味を垂れてやるべく痛快だつた。山下といふ男にも、とうに弄ばれてゐるのぢやないかしら、その方が余程好い気味だ――そんなことを、ふと考へると彼は何とも言へない快さを感じたりした。
「明日は必ずお刈りよ、でないともう何処へも伴れて行つてやらないよ。」
 オイオイ、二つや三つ年が上だと思つて余り姉さん振るものぢやないよ、――斯う言つてやれ、と彼は腹の中で呟いてゐるにも関はらず、
「さうだな。」と心細く答へてしまつた。……だが先程理髪店へ入らないでよかつた、とは思つた。
 一杯をやつとのことで空けると、至つて酒に抵抗力の無い彼の肉体は恰もブランコにでも乗つて居るかのやうにスースーと浮いたり沈むだりしてゐるやうな気持になつた。こんなことで見透されては大変だ、と思つてゐる彼は辛うじて両眼を見開いて、さうして鷹揚に煙草を喫した。頭はカツカツと熱くなつて、爪先の方は寒けを覚えた。
 ボーイが来ると照子は、また彼の盃に酒を注がせた。未だそれが注ぎ終らないうちに彼は盃に指先を持つて行つた、もつと飲むのは当然のやうに。だが、彼は盃を撮むだつもりだつたが指先が震へて、それを倒してしまつた。盃の首がコロリともげてしまつた。
「アラ、済みません。」と照子はボーイに言つた。ボーイがテーブルを拭いてゐるとき、照子は如才なく、
「どうも済みません。」と言ひながら、彼の足をギユッとふんづけた。
「直しますか?」
「どうぞ。」照子は軽やかに云つた。新しい盃になみなみと酒は注がれた。

 間もなく二人は其処を出た。
 そんなに機嫌を悪くする程のことではないのに、とフラフラする足取を踏み堪へながら彼は呟いた。
 照子は彼からずつと離れて歩いて居た。彼は、どうかして照子の機嫌を直さなければならないぞ、といふことだけをしきりに考へたあげく、悉く冗談にして笑ふことで取り返さう、と謀むだ彼は、
「照ちやん、もう少しゆつくりお歩きよ。」とワザと照子の腹を知らない者のやうにして追ひついた。
「顔から火が出さうだつた。」
 返事があつたので、彼はいくらか安心した。
「粗相なんだから勘忍してお呉れよ。ねえ。」
「そんなことぢやないわよ。」
「へえ! で、その御機嫌のななめならぬは?」と彼は口を開けて、無頓着さうな笑ひで照子の眼を見た。
「テイップがあれツぱかりで好いと思つてゐるのかえ。」
「さうさう、そりや悪かつたね。」と彼は笑つた。
「どうして純ちやんは、ちよつとした処へ行つても固くなるの?」
 彼はヒヤリとした。さうして今になつて一刻前と余りに打つて変つて饒舌になつてゐる自らを強く恥ぢた。折角愉快になりかかつた気持がまた別な憂鬱になつた。
「僕は大分酔つてしまつたよ。」彼は初めてほんたうのことを言つた気易さを覚えた。
「大体が意気地が無いんだよ。フヽツだ。」
「参つたよ。」
 照子の機嫌は直ぐに癒つてしまつて、甘納豆が食べ度いから買つて来て呉れなどと言つて、彼を使役した。
「家へ帰るのも未だ少し早さうだね。」と彼は言つた。その癖彼は爪先が前へ出ない程草臥れて居た。それにしても何とかして照子に、此方の気の利いた腕を示したかつたが、酒を飲むことだけは思つても堪へられなかつた。
「試験休みには田舎へ帰るんでせう。」勝ち誇つた照子はそんなことを云つた。「田舎の家には柿の木が何本あつたかしら?」
「何本あるかな。」
「いつかの秋、妾が行つた時純ちやんは木へ登つて柿を取つて呉れたつけね。」
「そんなこともあつたかね。」
「ああ妾、柿が食べたくなつた。」
「馬鹿。――これからどうしよう、未だ早いね。」
「もう帰つて勉強でもした方が好くはなくつて。また落つこつたりしちや厭よ。」
「あんまりふざけるなよ。」
「妾これで学校時分には……」
「その話も止めようや。――ちよいとM――座を覗かうか。」
「をととひ見ちやつたわ。」
「でもいいだらう、あの人が出るんだから。」
「当づつぽうに行くのは厭さ。」と照子は時計を見て、「今ならいいかも知れない――ぢやちよつとよ。」と言つた。

 立見場の止り木に凭り掛ると、彼はその時まで堪へに堪へた酔が一時に発して、思はずグッタリと首垂れてしまつた。ちよつと眼を閉ぢると何か夢のやうなものを見た。――。
「御覧よ。」照子に突ツつかれて、ふいと眼を開くと、舞台では幡随院長兵衛だか何だかが眼をむき出して不快な音を発してゐた。彼の眼は五分と保たれなかつた。其儘寝転むでしまふことのみを欲してゐた。照子は肩掛で鼻の上をおさへて見てゐた。彼は両足が自分のものでないやうな気がした。
「××屋」――素晴しい音響が耳許でグワンと響いて、彼は驚いて夢から醒めた。
 場内は森閑としてゐた。恐ろしく驚いたが、どうしてか彼は、これが当然でなければならないのだ、といふやうなことを考へながら、キョトンと舞台の方を眺めてゐた。――次の瞬間彼は非常に大きな声で、
「大タチバナア」と怒鳴つた。
「叱ツ」何処かでそんな声がした。が、それよりも彼が驚いたことは、照子が素知らぬ風で、足音を忍ばせながらスタスタと出てゆく姿を認めたことであつた。
 大失策を演じてしまつたぞ、と彼は気がついたので遠慮して、照子が外へ出てしまつたころを見計つて、――「酔つぱらつてゐやあがら。」などと言ふ声を聞き棄てながら其処を立去つた。
「お静かに願ひます。」段々のところでそんなことを云はれた。

 橋のたもとに後ろ向きで、照子がしよんぼりと立つて居た。彼は怖る怖る照子の傍へ近寄つて行つた。よく、まあ待つてゐて呉れたね、待つてゐて呉れるとは思はなかつたよ、と斯う彼は言ひ度かつたが、――それは、帰られてしまつたことよりも怖ろしいことに気が附いた――間抜けツ! とばかりにいきなり叱り飛ばされる……それを覚悟せずには居られなかつた。それは覚悟したが、居て呉れたことは嬉しくて堪らなかつた。――この臆病な驚愕で今迄の酔は少なくとも自らの意識の中では全く醒めてしまつたことを感じた。――が、彼は、何と言つたらいいか、全く途方に暮れて、仕方がなく苦しくも何ともなかつたが、欄干にへたばりつくと、
「ウーム、ウー、ウー苦しい。」と苦悶した。この呻き声が如何にも苦しさうに、自分の耳に響いたのには可笑しかつた。
「純ちやん、純ちやん、どうしたのよう。まあ困つたわね、……え、そんなに苦しいの、関はないから出るんなら出しておしまひよ、さ、さあ。」と、照子は甲斐甲斐しく彼の後ろへまはつて親切にも背中を叩いたり腹を圧し上げたりし始めた。――彼は、余りに予期と反した事情で少なからず面喰つた。さうして「しめたぞ。」と思つた。
「苦しくつて堪らない。」彼は息も絶え絶えのやうな声を発した。「ウーム、苦しいよう。」
「どうしたらいいだらう、困つちやつたわね、悪かつたわ妾が、ね勘忍して。」
「…………」
「吐いてしまつた方がいいわ。」
 余りギュウギュウと照子が下腹を圧すので、彼は反つて吐きたくもないものが不自然に込みあげて来さうになつて、酷い迷惑を感じた。
「未だ出ないの、――思ひ切つて……。指で舌を圧へなさい。」
 照子の腕にこんな強い力が潜むでゐたか、と彼は思つた。彼は仕方がなく、指先を口の中へ入れるやうな真似をして仰山にゲクゲクと喉を鳴らした。
「落ち着いたら少うし静かにしてゐらつしやい、妾、水を貰つて来るから。」
「いいや、もう大丈夫だ。少し歩かう。」斯う言つて彼は欄干を離れると、自分ながら可笑しい程足がフラフラした、ちよつと踏み止まつて今度は故意に蹣跚とした。
「アラ、危いわよ。」照子は慌てて追ひ縋ると彼の片腕をしつかりと抱へ込むだ。「歩いた方がよささうなら――河岸の方へ歩かう、こんなざまで家へ帰つちやいけないわ。」
「ああ、さうして貰はう。」
 戦ひに敗れた芝居の軍人のやうに、彼はその儘照子に凭り縋つてヨタヨタと歩いた。
「今日は全く妾が悪かつたのだけれど、純ちやんにはお酒が性に合はないんだから、もうこれからどんなことがあつても飲むだりしてはいけないよ。」
 照子の顔が眼近く彼の顔を覗き込むだ時、彼の眼には涙が浮むでゐた。川端は、静かな夜で、黒い舟の艫の音が時たま聞えたばかりだつた。芸者を乗せた車が二三台通り過ぎたりした。彼は、其方を見るのも厭だつた。
「家の阿母さんや叔母さん達は純ちやんのことを随分心配してゐるのだからね、ほんとにこれから気を附けてね……」
「此方の敗北に附け入つて、」照子がそのお人好しのところを露骨に示し出すと、彼は、自分の厭にひねくれた、さうして莫迦気て邪推深い愚かさを強く憎まずには居られなかつた。彼は叔母の事も考へ始めて居た。
「寒かないの?」照子は彼の肩を袖で覆うた。「苦しいの、癒つて?」
「どこか入る家はないかしら。」
「休み度いの。」
「もう少し飲み度いのだ。」彼は斯ういふ場合に我儘の言へる可能性を知つてゐた、丁度病気になつた時家人に対するやうに。
「飲むなんて冗談だけれど、すつかり醒まして行かないと困るから。」
「酔つてなんか居やしないよ――もう少し景気よく飲みたいんだ。尤も照ちやんを相手ぢや始まらねえけれど……」
「まあまあ……」照子はどうしても彼にさからつて来なかつた。
「ほんたうに僕は酔つては居ないよ。」
「駄目よ。」どうしよう、と照子は呟いてゐた。
 ………………
 それから間もなく照子はほんたうに怒つてしまつた。彼が余りイヽ気になつて愚にもつかぬことを喋るので、照子は、愛想を尽すことに依つて脅迫して彼をなだめよう、としてゐるらしくも見えた。
「妾が家を持つたつて純ちやんなんて決して寄せつけないから。」などと言つた。
「帰るわ。」と照子は、電車の停留場の方へグングンと行かうとした。帰られては形無しだ、と彼は思つた。それに何だか、この儘照子を帰してしまつては照子に気の毒なやうな気がしてならなかつた。順調な気持に直して帰してやり度い――そんな気がした。
「ぢや酒なんか飲まないから。」到頭彼は斯う言つた。
「厭だね、限りがないわ……」
「まあ、もう少し。」彼は急に元気を出して照子の手を引つ張つた。
「みつともないわよ。」仕方がなく照子は笑ひながらついて来た。今度こそは、と彼は思つた。
「ここの公園で少し休まう、ならいいだらう。」
「おゝ厭だ、休む位なら何処かへ入らうよ、こんな処、なんかと怪しまれるわ。」
 彼は酷く不自然にそれを打ち消した。
「ぢや兎に角ここを抜けて………僕途中迄送つて行かう、もう少し歩いた方が………醒めるから……ああ俺は矢張り酔つてゐるんだな、ハッハヽヽヽ。」と彼は照子の機嫌を取る為に大袈裟に笑つた。
「当り前さ。」照子は漸く彼に従つた。
 広小路の小さな公園で、三つ四つぼんやりと青い瓦斯灯がともつて居た。人影は、ひとつもなかつた。向うの寄席からしきりに客を呼むでゐるしやがれ声が聞えた。――どういふ理由か好く解らなかつたが彼は夥しい焦燥を感じてゐた。さうしてそれは此処を通り過ぎてしまつたら、駄目なやうな気がしてならなかつた。――彼は出来る限りゆつくり歩かうと試みてゐたが、妙に照子の気持が此方と離れてゐるやうに思はれて――それに照子は倦怠の余り白けてしまつたやうに少しも口を利かないのだつた。
「僕は初めて此処へ入つて見たよ。」と彼は尚も歩き出さずに言つた。
「妾だつて。」
「随分狭いね。」
「さうさ。」
「もう少し広くしてもよささうなものだ。」
「何言つてるのさ。さつさとおいでよ。」
「ちよつとそこのベンチへ掛けようや。」
「厭だつてえのに!」
「照ちやんは遊動円木へ乗れるかい?」
「あんなもの他愛ないわ。」
「ぢや乗つかつて御覧よ。歩けるもんか。」
「知らないよ、そんなこと。」
「……」彼は二本目の煙草に火を点けた。
「…………」
「僕がね、もうせんには機械体操のチャムピオンだつたことを、照ちやん知らなからう。」
「知らない。」
「ひとつ腕前の程をお目にかけようか。」
「子供みたいなことを言つてら。」と照子は冷笑したが、ちよつとその中に好奇心の動いたらしいのに彼は気附くと、わけもなく胸の躍つて来るのを覚えて「ちよいと見てゐて御覧よ。」と言ひながら帽子と外套とを照子に持たせて、其方に進み寄つた。踏台の上に立つと、怖ろしく緊張した自分の心を知つた。彼はペツと手の平に唾して、「いいかえ!」と言つた。暗がりの中に、ただ白く照子の顔がツマラなさうに此方を見てゐた。
 鉄棒がよく見えないので飛びつくことが怖ろしかつたが、――彼は「ヤツ!」と言つて、いきなり飛び上つた。極めて偶然に鉄棒が握られたやうな安心を覚えた。で、元気を盛り返した彼は、肘掛を試みた。
「うまいだらう。」
「チエツ!」と、彼の眼の下の白い顔が言つた。
 降りてしまつてはまた飛びつく時にオツカナイから、この儘でもう一つやつて見よう、と彼は思ひながら腕を伸して垂れさがつた。
 彼は、尻上りを試みるべく徐ろに爪先を挙げ始めた時――ふと、足の上に光つてゐる星を見た。
「あしたまた好い天気に違ひない。」
 そんなことを思ひながら、その儘彼は尚もぢつと星を瞶めた。
(十年三月)

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「父を売る子」新潮社
   1924(大正13)年8月6日発行
初出:「十三人 第三巻第五号(五月号)」十三人社
   1921(大正10)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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