必ず九時迄に来ると、云つて置きながら、十五分も過ぎてゐるのに、未だ叔父は来なかつた。僕は堪らなく焦れたく思ひながらも、叔父の来ることを待つてゐるには違ひなかつたから、頭の中で到頭叔父が大変に憎らしい者になつてしまつた。
 好い天気の日曜の朝である。白い雲一つ見当らない。叔父と遊びに行く約束があつたから、僕は一時間程前に三人の友達が誘ひに来たけれど、断つて了つたのだ。こんなに待たされるくらゐならば、先程さつき皆と一緒に行けばよかつた。僕だつて何も無理に叔父と一緒に遊びに行き度いのではない、約束をしたから待つてゐたのだ。
 家の中は静かだつた。電話のベルが鳴る毎に僕は胸を轟かせた。叔父からではないかしら、と思つたからである。
 友達はどんなに面白く遊んでゐるだらうと思ふと僕は一刻も凝としては居られないやうな気持になつた。叔父が来る来ない、といふことよりも、待されるといふ苦しみが堪らなくなつた。叔父に伴れて行つて貰へることは、毎日殆ど同じことをして遊ぶ友達と遊ぶことよりは、変化があつて、より楽しいことには相違なかつたが、こんなに待されるくらゐなら、伴れて行つてなんか貰ひたくない。負け惜しみではなく、全く僕は待されることが厭だつた。
「ね、お母さん、僕に空気銃を買つて下さいな。」
 この望みは達せられないことはよく承知してゐたが、僕は今の頼りない憤満を持て余してゐた場合、こんなことを云つて見たいやうな気にもなつて、――これは僕の大へんに悪い癖である。――いくらか甘えるやうな調子で云つた。僕は他人に甘えるやうなことは大嫌ひだ。自分が「甘える」毎に必ずさう思ふ。さうして、もう決して「甘えまい」と思ふ。自分のためには勿論、若しこんな場面を友達にでも見られたならば恥かしい。然し、空気銃を欲しいと云ふ事実も、僕自身が「甘える」ことをいやがつてゐるといふ事実と同じ程度に強くもなつてゐたのである。
「また始ツたよ、この子は! 駄目だよ、他のものなら兎に角、空気銃は危いからいけないツて、先生からも止められてあるんぢやありませんかね。」
「だつて、僕……」と、僕は大へんに不機嫌な表情をして、唐紙の方を向いて――さて、何と云はうかしら、と思つたが、全く母の云ふ通り、空気銃は先生からも止められてゐるので、返答する言葉が無い……困つたな、と思ふと、無上に情けなくなつて、ホロリと涙が頬を流れてゐた。
「ね、お前はおとなしいね。」
 こんなことを母は何故云ふんだらう、僕は一層こゝでうんと叱られた方が気持がいゝ、第一涙を見られることがいやだ、叱つて呉れゝば却つて清々として涙なんかどつかへ行つてしまふ。
「空気銃はお止しなさい。それよかお前、今に叔父さんが来るから、さうしたら動物園にでも伴れてつてお貰ひよ。」
 僕は、もう、何が何だかわからなくなつてしまつて、ワツと声を張り上げて泣き出した。面白いやうに涙が盛んに頬を流れる。ふと「俺は何がそんなに悲しいのかしら?」と思つた。
「叔父さんはちつとも来ないぢやないか。」
 僕は斯う叫んだ。
「もう直ぐに来るよ。此の間で試験はお終ひになつたツてえんだから、もう来るよ。」
「厭だい、厭だい。」
 どうして僕は斯ういけないのだらう、と思ひながらも、むしように僕は悲しくなつて、足をバタバタやつた。それでゐてこの場合には、僕はそれ程叔父さんのことなんか考へてゐるわけではなかつた。何のためにそんなに胸がくしや/\するのか、自分で少しもわからなかつた。強いて云へば、自分の胸が理由わけもなく、たゞ無暗にくしや/\するので、自分ながら癪に障つて/\たまらないのであつた。自分の意気地なさが、口惜しかつたのだ、とも云へるかも知れない。
 こんな小さな原因でありながら、事態は漸く大きくなつた。僕の「泣くこと」はどうしても止つて呉れなかつた。騒ぎを耳に入れた祖母が、いつの間にか僕の傍に来てゐた。
「どうしたつてえんだよ、一体全体……」と祖母は呟きながら、ちよつと母の方を見て「近所にみつともないぢやないか。」と云つた。母は黙つてゐた。この言葉を聞いた僕は、どうしたことかすつかり母の味方になつてゐた。
 で……「だまらう。」と決心したが、どうしてもだまれなかつた。母はむツとしたと見へて、その儘次の室へさつさと入つてしまつた。
「お母さんがあれだもの。」と祖母は母の後姿を見送りながら呟いた。――僕は、母のことを強く思つた。祖母さんが悪い、と思つた。
「どうしたの、え、純吉や、泣くんぢやないよ。お前何か欲しいのかえ、何が欲しいんだよ。お祖母さんに云つて御覧よ。」
 祖母は僕の顔を覗き込んで、しきりに僕をなだめようとしたが、僕は少しも祖母の云ふことを聞く気にはなれなかつた。空気銃なんか欲しい、とも思へなくなつてしまつた。たゞ母の気持ばかりを考へて居た。祖母は遂々僕に愛想をつかして、
「勝手におし、強情な子ツ!」と云つたまゝ出て行つた。その時僕は少しも祖母に気の毒だ、といふ気の起らなかつたのは、自分ながら不思議だつた。その儘、僕は唐紙にピツタリ身をせてゐると、祖母と母とが何やら話してゐるのが途切れ/\に聞えた。
「疳の虫のせゐだよ、お前……セメエンでも飲ましたらどうだい。」と祖母の声。
「さうですね。」と母の声。
 誰が飲むもんか、と僕は歯を喰ひしばつて力んだが、「虫の為だよ」と云つた祖母の言葉が急に気になり出して堪らなくなつた。ひようきんな顔付をした「疳の虫」が、僕の胸の辺で、僕が散々に駄々をこねてゐる様を、いゝ気味だとばかりに冷かに傍観してゐるところを想像してぞツとした。――お前がどんなに焦れたつてこの俺がかう控えてゐる間は、どうすることも出来ないぞ――虫がそんなことを呟くことを想像した。「きさまなんかにまけて堪るものか。」と僕は思つた――と僕は、その変な虫のために呪はれて、どうすることも出来ないはめになつてゐるのだといふやうな、何とも云へない心細い気持に駆られ始めて、ワツと再び声を挙げて喚いた。
「木山さん(医者)に診て貰つたら。」と祖母の声が再び聞えた。――もう僕は我慢が出来なくなつて、
「嘘だ、嘘だ、虫なんて居やしないやい。」と喚くや、力に任せてドンドン唐紙を蹴つたり撲つたりした。
 母と祖母は直ぐに駆付けた。僕は決して祖母の顔を見なかつた。祖母は呆れたやうな顔をした。
「大丈夫だよ。」と母は云つた。僕はそれを信じたかつた。――僕は到頭母の胸に取り縋つて、しきりに泣いた。ほんとうに虫が居るんぢやないかしら、若しさうだつたら母のためにも申しわけがない、といふやうな、名状し難い心細さが犇々と込みあげて如何してもだまれなかつた。
 丁度その最中に「おそくなつて済なかつたな。」とニコニコと笑ひながら叔父が入つて来た。
 その叔父の顔を見ると、僕は夢から醒めたやうなキヨトンとした心になつて――「あゝ僕はみんなにほんとうに済まなかつた。」といふ心が湧いた。同時に「虫だつたのかな。」といふ厭な心持がした。
(十、六、一作)

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第二一六号(夏期特別号 八月号)」時事新報社
   1921(大正10)年7月8日発行
初出:「少年 第二一六号(夏期特別号 八月号)」時事新報社
   1921(大正10)年7月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月29日作成
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