目次
 夕方になると、一人の童子どうじが門の前の、表札の剥げ落ちた文字を読み上げていた。植込みを隔てて、そのくろぐろした小さい影のある姿が、まだ光を出さぬ電燈の下に、すそすぼがりの悄然しょうぜんとした陰影を曳いていた。
 童子は、いつも紅いぬりのある笛を手にたずさえていた。しかしそれをかつて吹いたことすらなかった。
 植込みのつたの絡んだ古い格子戸の前へ出て、この家のあるじである笏梧朗しゃくごろうは、そういう童子のたずねてくる夕刻時を待ち慕うていた。青鷺の立ち迷う沼沢の多かったむかしにくらべ、この城外には、いらかを立てた建物が混み合っていた。
「きょうは大層たいそうおそかったではないか、どうしてからだをふるわせているのか、犬にでも会ったのか。」
「いいえ、お父さん。」
 童子は、頭をふって見せた。柔らかい唐黍とうきびのような紅毛が、微風に立ちそよいだ。
「いつもお父さんのおうちのそばへ来ると、妙にからだがふるえるのです。べつにんでもない。」
「それならいいけれどね。また加減をわるくするといけないから。」
 笏梧朗は父親らしい手つきで、童子の、絹のような頬に掌をあてた。
「お母様は?」
 童子は、そういうと家の中をさし覗いた。ココア色をした小鳥が離亭はなれの柱に、その朱塗の籠のなかで往き来し、かげは日影のひいたあたりにはう無かった。
「ほら、離亭で朱子しゅすを縫うている。見えるかな、鳥籠のある竹縁のそばにいるではないか。」
「ええ、呼ぼうから。」
「それよりもそっと行って驚かしてみせたらどうだ。」
 童子は、すばやく玄関から次ぎの部屋をぬけ、離亭への踏石へおり立とうとしたとき、一軸の仏画が床の間に掛けられてあるのを見戍みまもった。
「どうしてああいうものを掛けておくの。あの絵は見たことがある……。」
「あれはね。」
 笏は、悲しそうに童子と仏軸とを見較べ、躊躇ためらってやっと重い口をひらいた。
「あれは、おとうさんが妙に寂しくなると掛けてみたくなるものだ。お前があれを見ることが厭なら止めてもよいが……。」
「でも、へんですね。」
 古い軸の上に、細い目をしたふっくりした顔があった。蓮華を台に、古い、さびしい仏は坐っていた。が、その感じは、月夜のように蒼茫そうぼうとした明るみを持っていた。
 童子は、庭石の上に降り立った。まわりを青篠あおざさでめぐらした離亭で、朱子を縫う針のきしみが厚い布地であるためか、竹皮を摩するような音を立てていた。童子は、母親の、白い襟足えりあしと瘠せた肩とを目に入れ、そして可懐なつかしそうに心をあせったためか、竹縁にぎしりと音を噛ませた。
「お母様。」
 童子の手は、母親の胸もとへ十字にむすびついた。うしろから突然そうされたので、母親は驚いた目をしばらく静まらせ、間もなく嬉しそうに輝かせた。
「まあ、おまえどうして来たの。」
 母親は、そう言うたときに父親がっている窓口を見た。ふたりは微笑わらいあったが、どの微笑いも満足そうな色を漂わしていた。
「おとうさんが、門のところへ出ていてくだすってすぐ分った。」
「でもお母さんはびっくりした。ふいにお前が飛びついてくるから、遠いところをよく来たわね。」
 母親は、そういうと一度父親を見た。空を見ていたらしい父親はうっすりと暮縮くれちぢんだ明りのなかで悲しそうに微笑って見せた。
「僕は、一日がけで歩いたってなかなかお家へまで遠いんですもの。ぐるぐる廻ってばかりいる道なんだから。」
 母親は、童子をだき上げ、そうして痛々しそうに眉をしかめた。
「ほんとにどんなに遠いだろうね。」
 母親は、庭へ童子をれて出た。童子の好んだ青い扇のような芭蕉は、もう破れた竜旗のようにはたはたと夕風に櫛目を立てていた。
「お父さん、この子はどうしてこう顔色が悪いんでしょうね。」
「そう、どうもよくない。」
 二人は、こう言いうと、童子を真中にして庭後へ出た。
「季氏は?」
「もうかえるころでございましょう。」
 母親は、童子に向い、「おまえに季氏という妹ができたんですよ。お前は見たことがないだろうがね。それはかわいい子ですよ。」
 童子は、曇った目をしながら、そういう母親の目をみあげた。
「僕は知らない。」
「いまに会うことができるから。」
 童子は、答えようとしなかった。ちょうど自分一人でなかったことに気がつき、それを寂しむような表情が漂うていた。
「季氏にこの子はあわせない方がよいかも知れない、何となくそういう気がする。もし会わせたらそれきりこの子はたずねて来そうもないように思われてならないから。」
 父親は、童子のたどたどしている足もとをみながら、暗くなったあたりに仄浮ほのういている母親をかえりみた。
「しかし……。」
 母親は、言葉を切った。「いつの間にか逢うようになるでしょうし、かくしきれるものでありませんから。」と言った。
「それもそうだね。その子の心もちになると寂しいだろうと思うから言うのだが、だが、どうでもよい。」
 父親は、蜘蛛の巣に羽ばたく虫を払い、手を石泉つくばいで漕いだ。
「お父さん、もう僕かえろうかしら。」
 童子は、立ち止まって言った。
「ほら、もうお食事だろう、あそこに、白い布がかざられたし、みんなが御馳走をこさえている、見えるか。」
「あのまるいものは何?」
「くだものさ。花もある、もうすこし温良おとなしくしているんだよ。わかったかな。」
「え。」
 童子は、しばらくしてから、きゅうに母親をみあげた。
「僕の時計はまだある?」
「ありますとも、鳩のとんで出るのでしょう、あれならありますとも。」
「あとで見せて?」
「いいとも。」
 父と母とはまた顔をあわせた。あたりは全く暗くなった。乳母車の音がかすかに表からして来た。
「かえって来たらしいね。」
「車があたらしいからよくきしみますこと。」
 母親は、門前へ出た。乳母車の上には小さい女の子が、羽根のある帽子のしたでほそい目を閉じ、すやすやと睡っていた。
「あんまりよくおよってらっしゃるものですから、そっとして参りました。」
 そのため遅くなったのだと、下婢は、幌をうしろへしずかにはねながら言った。
「そう、ご苦労でしたね。」
 母親は、ぬくまった小鳥のようなからだを抱きあげると、あか児は目をさまし、あたりを見まわしながら、暗くなっているので怖いのか、きゅうに泣き出した。母親は、胸をひろげた。そこから葡萄の実ほどの、珠がすべり出、あか児の唇へふくまれた。
「病院の奥さまにこの花をいただきました。枯れましたけれど。」
「水甕にいれてお置き、いつもよくして下さるのね。」
 いつの間にか、童子は母親のそばへ佇んでいた。そうしてあか児を覗き込もうとひくい背を延び上げようとしていた。父親も、うしろに立っていた。
「お母様。」
「なあに。」
「僕にそのあかん坊をちょいと見せて下さい。」
「こうしてですか。」
「え。」
 童子は、赤ン坊を覗き込んだ。そばから父親が、童子の肩のところに手をおいて、静かに言った。
「おまえによくていると思わないかい、鼻つきにしろ目にしろ大そうよくおまえに似ている。」
 父親は、あか児の頬を指でふれてみたりして、それを童子に眺めさせた。が、むしろ童子の眼の中には明かに不快に近い曇色ある表情があらわれていた。父親にはそれが何よりさきに己が心にかんじられた。
「僕にはすこしも似ていない、僕のような顔はどこにもない、お母様、僕には似ていはしません。」
 母親はその言葉を悲しそうに聞き、父親と顔をみあわせた。父親の顔には、何にも言うなという表情があった。
 童子は、あか児のそばを離れ、もみじしたつたの葉をむしっていた。――食事のときにも、母親は、童子に小さい魚を火にあぶってつけたが、童子はそれよりも野菜の方に箸をつけた。
「お母様、おさかなはどうして釣るもの。」
 童子は、紅い肌をした一ぴきの魚を箸のさきで、指さし尋ねた。
「河にいるし海にもいるの、針のさきに餌をつけ、おさかなの居そうなところへげておいて、静かにしているのです。お腹のへったおさかなが来て、フイに食べて針に引ッかかる……。」
「おさかなは痛いでしょうね。」
 童子は、母親の顔をみて、痛そうな顔をして「このおさかなもそうして釣れるの。」そう尋ねた。
「多分そうだろうね。」
 父親がそばから言った。
「おさかなは人間に食べられることを生きているうちは、あまり考えないらしい、だから悲しくはないのだ。」
「食べられてから悲しくないの。」
 童子は、こういうと食卓の向側にいる父と母とを、かわるがわる眺めた。――父親も母親もすこし青ざめ、しばらく黙り込んでいた。
「おまえはむずかしいことを言いますね。そりゃお魚だって悲しいにちがいはなかろうがね。しかし死んでいるんだからどうだか分らない。」
「死んでいるんだから分らない?」
 童子は、おなじことを言って、眼で考えるようにして見せた。父親はそのとき不思議なほど何かに思い当って顔色を変化えた。その筈である。母親が真青になっていたから――。
「お父さん、僕はどうしてこうして居るのでしょうか。お魚のようにではないでしょうか。」
 童子は、手にった笛を腰のあたりに差した。そして童子自身が困りぬいたかおをして見せた。
「おまえはおとうさんの子だから、そうしてお母さんの傍にいるのは当り前のことなんだよ。おさかなとはちがう。ほらおまえはちゃんとそうして其処そこに坐っているではないかね。」
 父親はそういうと、なお一層いっそうわかりやすく話し出そうとした。
「そうしているとお前にはお父さんの顔がよく見えるように、お父さんからもお前の顔がよく見えるんだ。だからお前は詰らないことを言ってはなりません。」
 童子は、黙って時計をさッきから見恍みとれていたが、その白い肌に遠い覚えを辿たどるようなむしろ鬱陶うっとうしい目いろをした。
「あの時計は僕は知っている!」
 そう言って文字を読むような目つきをして立ち上った。
「そうとも、おまえは何時いつも珍らしそうに時計を見ていたんですよ。よく覚えているのね。」
 母親は、また言葉を継ぎ足した。「あのときから見ると、おまえは大そう歳をおとりだけれど、あの時分はまだお前は歩くこともできなかった。」
「そう、僕は歩けはしなかったのね、けれど今は歩けるのね。ほんとうに何んだかふしぎね。」
 童子は、柱の下に立った。そうして刻限ときをきざむ音にちいさい耳をそばだてた。白い肌をもつ時計には卵黄色に曇った電燈のあかりが、光をやや弱めながら近づいていた。
「そうさ、あのころから見ると、この時計も古いものだ。わずかしばらくだったが、おれには百年も経ったような気がするんだ。」
 父親は、時計を見上げながら悲しそうにした。
「でもこの子はこうしているんだから……。」
 母親は、童子のあたまを撫でさすった。「ほんとにお前を何処どこへ返すものか。」そう言い手をとろうとしたとき、いまのいままでいた童子は、既う玄関のそとに立ち出て、黙ってすたすた歩いて行こうとした。
「もうお帰り? ひどいわ、そりゃ。」
 母親は、玄関へ飛び出した。そうして父親も。――しかし童子の姿は、植込みのかげにすら影を停めなかった。
「あの子はもう帰ってしまった――。」
 母親は門前に立って笏梧朗を顧みた。笏は、瞳を凝らして地面を見つめていたが、其処に童子のらしい小さい足跡が、やや濡れ湿って印せられてあった。
「ご覧、こんなに沢山な虫だ。」
 笏はそう言って、足跡に蝟集あつまっているうじうじしている馬陸やすでを指さした。――馬陸は、足跡の輪廓の湿りを縫いながら、蠢乎しゅんことして或る異臭をみながら群れていた。母親の心には、優しい子息の足跡を舐める、この肌痒い虫が気味悪かった。
「にくらしい馬陸。」
 母親がその足の下で踏みにじろうとすると、笏はにわかに止めた。古い話によると、亡きものの尋ねてきた足跡を踏むものではない。それはそのままにして置くものだという風に言葉を挿し入れた。
 二人は、黙ってむかい合っていた。――そして馬陸は、靴針のように童子の足跡を辿って、幾重にも縫糸をかがってくことを知らなかった。

 笏は、夕刻にはそのふしぎな暗い森の中の家のまわりを、何か恋慕うもののあるようにうろついていた。森と言っても崖ぎしの家に過ぎない、ただ非常に古いえのきしいとが屋根を覆うていて、おりおり路上に鷺の白い糞を見るだけであった。
 そこなら七八歳ばかりの子供が、出たり入ったりして、笏は、その子供の顔を見に出掛けるのだった。笏には、その子があまりによく肖ているということばかりではなく、或る日なぞ、笏のところに訪ねてくる子供が、そこらあたりで影をなくしたことに、気を留めていたからであった。
 その夕刻にも、笏は、にわかに自分の姿を匿そうとして、垣根に身をよせたが、その家の、なりの高いあるじに、すぐ見つけられてしまった。たびたび顔を合すが、お互いに顔をかくしあうようなことが多かったのである。
「あなたは何かこういつも用がありそうに私の家のまわりを歩かれるが……何か用事でもおありですか。それともただ歩いていられるばかりですか。」
 笏と同じい年頃のその家の主人は、なかば好意をさしはさんでなかばけげんな人見知りな表情で、じろじろ笏の顔を凝見みつめた。
「いや、べつにお宅に用事はないのですが、妙な癖でこの道路をただ歩いてみたいだけで、ぶらついているのです。あやしいものではないのです。」
「あやしいなぞとは申しませんが、しかしあまりによくお見かけしますから……ついおたずねしたのです。」
 この木彫を仕事にしている人の顔は、ねむげなはれぼったい瞼といい、頬皺といい、どこか酒を飲みすぎた人によくありがちな、くろずんだ皮膚といい、一つとして笏の心に変な気が起さずにはいられなかった。就中なかんずく、その沈んだ人を馬鹿にしたような諦め切っているような眼の色には、どういう対手あいてにも親しそうに話しかける光がなかった。
「お宅はすぐ西洋館からすこし行ったところでしたね。奥さんにはよくお目にかかりますが。」
「え、小路から二軒目なんです。」
 笏は、なおぐずぐずしていたのは、玄関の中に、人影らしいものが見えたし、着物のがらの大きさから言って、れいの子供らしく見えたから、ひょっとしたら出てくるかも知れないという微かな期待があったからだった。それゆえなるべく話を長びかそうとしていた。
 そのうち子供は、珍らしい人と話しているのを、犬なぞがよくするように、わざと余所目よそめをしながら何かの葉っ葉をちぎりちぎり近づいて来た。――笏は、その顔といい、まるい頭といい、好ましい感じを与える子供の近づくのを待った。
「あなたのお子さんですか、たいへん悧巧りこうそうな。」
「え、気がちいさくて家にばかり居る子なんですが、いや、私のように妙に物に厭うように引っ込んでばかりいるのです。あいさつをしないかな。」
 子供は、ちょいと頭をさげた。笏は、永い間その顔をみつめているうち、子供もふしぎそうに眼を凝らしていた。
「おいくつですか。」
「七つです。」
 子供は、おとなの話をむしろ陰気臭い目をして、直覚的に自分の身の上に話がはこばれているのに、注意深くなっているらしかった。
「ときどき遊びにいらっしゃい。」
 さういう笏に、子供は寂しい微笑いがおをもって答えた。
「では失礼します。」
 あるじは、突然そういうと、家の中へはいってしまった。子供の手をひいて――そして暗い戸を裏から閉めてしまった。変な家もあるものだ。それにしても何という変化かわった人だろうと、笏は自宅の方へ引きかえそうとした。
 と、すぐ垣根にそうた暗みへ犬の足豆が擦れるような音がして、小さい影があるいて行った。からたちの垣根ばかりだからそのとげにでも手足を引っかけはしないかと思うているうち、小さい影は笏の方へ向いてあるいた。なるべく気づかれないように笏は足音をひくめながら、その子のあとについて、垣根のきわをあるいてゆくうち、いつの間にか自家の前へ出ていた。が、小さい影は、そこにもう無かった。
「はあて。」
 笏は、植込みをぬいながら、そっと、家の中を見た。女は縫物をしている。そしてその傍にいつもの童子が坐って、糸屑をいじくっては丸めていた。よこ顔がそっくりさッきの家の子に似ていた。が、女はすこしも童子のいることに気がつかないらしく、それに目を遣りもしないで、ときどき溜息をついては玄関の方をながめていた。あたかも何かそこに影のようなものでも折折見出さなければならないように……しかし童子はおとなしく、ただ小さい跪座あぐらをくんで、ひとりで、それがひとりであるために充分であるように、丸めた彩糸いろいとをいくつも女の膝の上にならべていた。女は、それに少しも気をとられないでいた。静かな電燈の下で、それらの光景が、笏梧朗をして家へはいることを思いとどめさせ、止むなく植込みの中に佇っていた。
 童子は、それがいかにも安らかで他念なさそうだった。同じことを繰返しながら倦むこともなかった。母親は、虫のこえにさそわれたのか、それとも何となく長い疲れが出たのか、針箱に手をささえたまま、うっとりと睡り込んでしまった。――母親とすこし離れて小さい臥床ふしどがあり、そこには赤児がこれも低い笛のような安らかな睡りを睡っていた。いっさいは曇色ある明りの中に、時計ばかり動いている外に物音のない部屋は、きちんと仕組まれたすくりいんのように、おのおの影をひきながら在るままに在った。
 笏梧朗は、足音を忍ばせ家のなかへはいると、童子は、すぐに見付けた。そして父親のそばへ恋しげに寄りそうた。
「わたしは先刻お前が垣根のへりを歩いていたのを見た。そして自家の前で見失うたのだ。」
「いえ、お父さん、僕は何にも知らなかったのです。」
「それならそれでよいが……。」
 笏は、童子の面を見つめた。「お前はこのさきの、暗い家の子供を知っているかね。まるでお前そっくりで、お父さんにも見境がつかないぐらいなんだよ。お前が来ないときには、お父さんはよくその子供の顔を見にゆくことがあるんだよ。」そう言って、童子のあたまを撫でた。
 童子は、しかしそれには答えないで、悲しげに父親をさしのぞいた。
「お父さん、どうしてあなたはそのように似ているということばかりを捜してあるくの。僕は誰にも肖てはいない。僕は僕だけしかない顔と心とをもっているだけですよ。」
 父親はそのとき初めて気がついたように、そして童子によくわかるように口を切って言った。
「それはお父さんのわるいくせなんだよ。お父さんにはそういう詰らない似ているということさえせめての楽しみなんだ。お前にはそれがよくわかるだろうね。そしてお前がいつでも此処ここのうちにいられたら、そしたらお父さんはそういう詰らないことなぞ考えはしなんだよ。」
 童子は、黙ってうなずいた。そのとき母親がうっすりと目をさました。眩しいものを見つめようとして、それがく見つめられない寝起きの人のように、しばしば渋らせながら童子を見戍った。
「まあ、お前そこにいたの。いつから居たの。そしてお父さんも、――わたし睡っていたのね。」
 彼女はそういうと、その夢裡になおさまようているような上目をして見せた。
「わたしうとうとしていると、大そう花のたくさん生えたところで、お前にあったのだけれど、お前はわざとのように知らない振りをして行ってしまったの。なんでも暗いへんな彫り物をしている方がね、ほらいつかあなたにお話をした……。」
 彼女は、そういうと急に何かを思いあてたように、笏の記憶をゆすぶった。
「すぐそこの、道路のまがり角にいらっしゃる彫刻家がね、なんだか岩の上のようなところに立って、わたしの方を眺めていらっしゃる。――すると この子がわたしの方へは来なくて、その彫刻家のそばへ行くじゃありませんか、しまいにその方がね、この子の手をひいて、水草の生えた花の浮いている水田のようなところへ行っておしまいなすったの。そしていま目をさますとこの子がいるじゃありませんか。」
 彼女は、ふしぎそうに笏の顔をみた。笏は、その妻が夢見ている間に、自分が彫刻家の家のまわりにいたこと、そこの子供をみたことなどを、思い出した。その事を彼女に話をしておいて、
「あの彫刻家がね、おくさまによくお目にかかりますとそう言っていた、なんでもないときにね。」
「ええ、わたくし町へ出ようとしてあそこの前をとおりますと、いつでも私の方を眺めなすって大そうさびしい顔をなすっていらっしゃいますの。いつだったか、ふいに何かのはずみにご挨拶をしてしまって、それからまだ黙礼だけいたしますの。」
 笏は、女の顔をみながら己れもやはりそれと同じい、むしろ好意に似たものをおぼろげながら心に感じた。
「あの人は妻をなくしてから、ああしてぼんやりしているらしい、あの子供とふたりきりらしいんだよ。」
「え、そりゃわたくしもぞんじていますの。それにあのお子さんときたら、まるでこの子に生きうつしなんですもの。」
 女は、いまさらのように童子の顔と、己がこころにあるおもかげとを見くらべるような目色をした。
「全くふしぎなほどよく似ている。」
 笏も女と同じことを言った。
 そのとき母親は、ふと童子の手に笛の提げられてないのに初めて気づいた。
「おまえは笛をどうかしたの。珍らしくもっていないではないかね。」
「ぼく、笛はつまらないから止した。」
「そうかえ、しかしお前はそんなにまで大人にならなくともいいわ。まだ笛を棄ててもよい年頃ではない……。」
 童子は、白いような微笑いをもらしながら、母親にわざとのように或る哀愁をふくんだ声音こわねで言った。
「笛なんぞ携っていつも鳴らしはしないんですもの。」
「どうして鳴らないんでしょう。」
「笛の孔が塞がってしまっているの、六つの孔がみんな開いていないんです。」
「お見せ。」
 母親は、笛を手に取ると、古い埃や泥のようなもので凝固かたまってしまった孔内は、吹こうにも息の抜けみちがないために音色が出なかった。
「ひどい埃ね。」母親は、それを縁端へ持って出て、細い針金のようなもので、孔内を掃除をしようとしながら、
「いまによく鳴るようにしてあげますから待っておいで。」
 そう言い、孔の一つびとつに針金をしながら、器用な手つきで古い埃をほじくり出した。丹塗にぬりの笛の胴にはいってから密着くっついたのか、滑らかな手擦れでみがかれた光沢があった。
「お母様、その笛をおそうじしてくだすっても、僕それを吹けそうにもないの。」
「どうしてでしょう。」
「どうしてって僕そんなものを吹いて居られないんですもの。」
 童子は、暗い顔をした。蝙蝠こうもりのようにくろずんだ或る影が過ぎ去った。――笏も、その妻も、きゅうにし黙って、哀れな己れの子供とその言葉を裏返しして眺めた。
「そうね。お前はそういう笛なぞ吹いていられなさそうね、母さんが悪かった、母さんは大へんなことを忘れていたから、ついお前を困らせた。」
「いえ。」
 童子は、母親をなぐさめようとして、笛の掃除を止めかかったその時に、よく甘えるときするようにもたれた。そして低いほとんささやくような声で言った。
「それでも時々、ほんのときどきだけれど、僕笛を吹いてみたいの。」
 母親はなみだぐんだ。「そうだろうね、けれどお前の居るところではね。」
 笏は、これも立膝をだいて悄然として坐っていた。
「おれが吹いてやってもいいよ、よくお前のこないときにでも、いつでもお前の居そうなところへとどくようにね。」
 童子は微笑った。そういう父親を憐むような顔付かおつきをしていた。
「けれども僕のいるところへは、いくらお父さんの笛でも聞えて来はしない、僕そんな気がする。」
「いや。」
 父親は、むずかしい顔をすることによって、己れの心にある悲しそうな表情をあらわすまいと努めるように、眉をしかめた。
「お前が聞こうという気さえもって居れば、きっと聞えるにちがいないんだ、もっともおまえにその気がなければ仕方がないが……。」
 童子は、なかば疑うようにそしてなかば父親をなぐさめるように言った。
「僕、聞こうという気はあるの。」
「それなら聞えるよ。きっときこえるに決まっているよ。」
 母親も、ことばを揃えた。
「聞えますとも。」
 が、その三人の影はまるで有るか無いかのように、畳と壁の上に稀薄であった。かれらは何か幽遠なものにでも対いあうように、ひとりずつが、何を手頼たよってよいか、そして何を信じてよいかさえ分らなかった。かれらは唯忘れた夢をとりもどすように様々な己れの考えを考えるにすぎなかった。
 笏梧朗は、これはよく見る夢だと思い、母親は、これが次第に現実につながってゆくものだという風に、女らしい未練な考えにふけっていた。
 が、童子だけは自分がどこから来ているかということを、かれはかれの本体に呼吸いきづいているだけ瞭然と知っていた。
「お母様、僕はもうかえるの。」
 母親は、それをいつものならいであるだけに止めることができなかった。
「そう。もうおかえり?」
 父親の顔をふと見た。笏は、煙草をふかしながら煙の中から母親のかおを見返した。
「ではお静かにしていらっしゃい。」
「ええ。」
 童子は立った。間もなく表へしずかな素足の音がした。――あとを見送っていた父親はすぐ座を立った。「何処へいらっしゃる。」母親は、真青まっさおになった笏の顔をまともに見上げた。
あれのあとから行って見る……。」
 笏の、そういう声音はふだんとはかすれていた。その上眼色まで変化っていた。女は、笏のどこかを掴もうとした。
あれのあとから行っても何んにもなりません。」
「いや、あれのあとから行って見る……。」
 笏は、そういうと玄関のそとへ飛び出した。白い道路は遠いほど先の幅が狭り、ちぢんで震えて見える。ふた側の垣根の暗が悒然ゆうぜんと覆うているかげを、童子はすたすた歩いていた。電燈は曇ってひかり沈んでいた、と、黒いかげがだんだんに遠のいてゆくのである。

 笏梧朗は、小さい影をうてゆくうち、じめじめした水田のようなところへ出ていた。限りもない水田のうえに円い緑色の葉が浮き、そのあいまに白い花が刺繍された薄明りのさす四辺あたりは、さざ波一つ漂わない、底澄んだ静かさだった。その岸へついたとき童子は立ちどまって不意にうしろを向いた。笏は自分の姿を見られまいとしてからだを縮まらせたが、その姿はすぐ童子の瞳の中に映った。笏は、何ごとかを言おうとしたが、童子はものをも言わずにしゃがみ込んだが、すぐ一抹いちまつの水煙を立てると、その水田の中へ飛び込んだ。笏はすぐけつけたが、いたずらに澄みかがやいた水田には、その波紋の拡がってゆくばかりを見るだけで、童子の姿はなかった。
 笏は、此処がいったい何処であるかということを考えるより、自分がどうしてこの水田へきたかということを考えると、自分の歩いて来た道程があまりに近かったし、そしてそういう近いところにこんなにまで広い水田があろう筈がないように思われた。笏はうしろ向きになり歩いているうち、いつの間にか、病院の前の町へ出ているのに驚いた。そうすると直ぐ鉄橋の下の水田へ、自分が今行って居るのだということが、判然と頭にうかんで来たのだった。
 笏は、わが家の前に立ち、そうしてわが家に不吉なことでもありはしなかったかと、内部をさし覗いてみたが、かわりのない静かさが輝く電燈といっしょにあるきりだった。そして妻は青い一本の草のようなもののさきに、火をけむらせていた。笏は、その妻の顔色が真青であるのに驚いた。
「よくお帰りなすった。わたしどうしようかとおどおどしていたのでございます。あなたがあわてていらしってから……。」
「水田のところまで行ったが、そこであれの姿がなくなった。あれが私の姿をみるとすぐに飛び込んだのだ。」
 女はそのとき、「睡蓮というものは晩は咲かないものでございますね。」
「そうさ、朝からおひるころまで咲くものだ。それがどうしたのか。」
「いえ、ただその事が気になったものでございますからお尋ねしただけでございますの。」
 女は何か考え込んでいるうち、表に足音がした。それが佇んでいるらしいけはいがした。ふたりは耳をかたむけた。眼と眼とでそれを聞き分けようとしていた。
「どなたでしょう。」
「たしかに誰かが立っているようだね。」
「たった今しがたですよ。」
「黙って?」
 表でやはり人のいるけはいがつづき、そして門の戸がばたんといきなり開けられたときに、笏は新しい驚きようをして顔をすかし見た。
「私です。」
 笏は、その人がれいの彫刻家であることに、すぐ気づいた。
「あなたでしたか、どうぞ。」
 彫刻家は、わざと立って、家じゅうをすかし見ながら、かすれた低い声でおずおず疑い深そうに言った。
あれがもしか此方こちらへまいっていはしませんでしょうか、いましがた犬を追って出てから戻らないんで……夜分でしたがおうかがいしに上ったのです。」
「いえ。お見えになりませんの。どこへいらしったのでしょう。」
 女は、彫刻家のわびしげな眼のうちにおさまり答えたときに、笏は、そのことに自分がかかわっているように思われてならなかった。そして、
あれとはどなたです。」
 笏は、そうたずねて見た。
「子供のことです。」
 彫刻家は、わざとらしい質問をあざ笑うように、大きな手で、子供の背丈せたけをはかるようにして見せた。「つまり私はなんだかお宅へ行けばわかりそうな気がしたので、それを自分でおさえることができずに、こうして夜半でしたがお訪ねして参ったのです。」と、一歩あとへ退きながら言った。
「そのうちにおかえりでございましょうよ。」
 女は、そう言うと外へまで出て見ながら、彫刻家を見送った。
あれがよくお宅の前の……そう、ちょうどこの辺に佇っていることが多いものですからね、どういう訳なんですか、ふいにいないと必然きっと此処に立っているんですよ。」
 女は蒼くなって笏をかえり見たが、こんどは胸をおさえるようにして、訊ねて見た。
「いつころでしょうか。坊ちゃんがいらっしゃるころは?」
「そう、晩方ばんがたですな。どうも不思議な気がするんです。」
 彫刻家は、そういうと「お邪魔をしました。」と言うと、すたすた暗いもと来た道路へあるき出して行った。帽子のない、なりのひくい姿は、墨のようににじんだ影を、くらい軒燈の下に落して行った。
 笏と女は、そのあとをぼんやり見送っていたが、笏は、そのかげのあとに、もう一つ、小さい影のあるのを見た。
「ほら、いて行くぜ。小さい奴がかがんでな。」
「ええ。」
 女はからだを震わせながら、それを見送った。と、れいの馬陸がくろぐろと門の台石のところへ群れ、湿りを食いあるいていた。


 秋遅い荒れ冷えた風が吹き、何となくからだの一箇所に自分の手を触れていたくなるような夕景には、童子は寒そうにちぢんだ姿をどす黒く門端に滲ませたが、どういうものか、その影は日に日に稀薄になった。
 古い写真絵のような、雨漏りのした紙のようにきいろくぼんやりしていた。
 女は、それがどういう訳で、うすく、にじんで見えるのか分らなかった。ただ、童子の手をとるごとに、自分の目をこすりながら、笏梧朗に言った。
「わたくし眼が悪いんでしょうか。この子がぼんやりとしか見えません。それもこの頃になってはげしくなるばかりですの。」
「お前ばかりではない、おれも何んだかこの子の姿がぼやけて見えるのだ。まるで影みたいに遠くなって見えるのだ。」
 笏梧朗は、ふしぎに日に日に輪廓のぼやけた童子を見るごとに、童子が自分らのそばから日に日に遠のいてゆく前徴だということや、もともと影のような童子のことゆえ、影はやはり影としか眼にうつらなくなるのだと、悲しげに心でうなずいた。
「この子が亡くなってから、どれだけ経っただろうか。」
「三月になります。」
 女は、そう答えると、曲げた指をもとのまま、膝の上に置いた。
 笏梧朗は、童子の眼をみつめた。童子も、しばしば眼をしばたたいては、何んだか絶えず不透明なものを仰ぎ見るような眼付をしていた。そして、
「お父さん、僕もやはり何んだかあなた方がよくわからないの。見ようとするほど、眼がかすんでしまって能く見えないんです。どうしたんでしょう。」
 笏もその妻も目を合せた。三人が三人とも何かうすもののようなもので眼隠しされたような気がした。
「お父さんの顔が見えるかね。そこからお前の目に。」
「え、ぼんやりと……。」
 童子は目をしばたたいた。母親も心に苛立ちを見せながら目をこすったりした。
「こうしてお前とわし等とは、日が経つごとに縁が切れてしまうのだ。お互いの影がだんだんに薄くなってしまって、お前にもわし等にもお互いに見ることができなくなるのだ。」
 父親は、そういうと童子の手を握りしめた。童子は、その手を父親のするとおりに委せていた。
「でも、そのうちに又見えるようになりはしないでしょうか。」
 母親は童子の顔近く眼をよせながら、こらえられなさそうに言った。
「いや、もうたと子供を見ることはできないだろう、何となくそう思われる。いつまでも子供をみていることはできなくなるだろう。」
 母親は、童子にすがって泣いたが、童子は、間もなく門の方へ駆け出した。そして全くそのかげを消してしまった。
 その翌晩から、笏はその妻と食卓に対いながら、ぼんやり門前をながめていたが、いつもの時間になっても童子の歩いてくる姿はなかった。垣を覆うつたの葉が、長い茎を露わしてしおれ落ちる微かな夕風が渡るだけだった。
 かれらの退屈で陰気な日が続いても、童子の寂しい姿すら見ることができなかった。笏もその妻も、灯に対って悄然と坐ったきりだった。長い夜は壁ぎわから冷えわたるだけで、何一つかれらの心には温かいものがなかった。
「あれはみな夢をみていたのでしょうか。あの子の訪ねて来たことも、そうして話していたことも。」
 母親は、やつれた面をあげ、夫をみあげたが、笏は、やはりちからなく坐ってしばらく黙っていたが、やっと鬱々うつうつしい口をひらいて言った。
「あれらの出来ごとはおれとお前とが、想像つくりあげていたようなもので、それが今はあとかたもなくコワされたのだ、そう思うより仕方がない。」
 笏はその心に、童子の来たことも偶然に父と母との考えがいつの間にか毎日の出来事のように仕組まれていたに過ぎない。それもお互いが子供のことを考え合っているとき、微妙な働きがあれほどまでに正確に動いていたかと思うと、すこし恐ろしい気もした。――笏梧朗はなにか考え込んでいたがふと悒々ゆうゆうした目をあげた。
「こうしていてもあれがやはり来ているのかも知れない、ただ、目に見えないだけかも知れないのだ。」
「そうね、わたしもそんな気がしますの。」
 女もそう答えると、あたりをうっすりと見廻した。わけても庭の方へその視線がただようて行った。
あれが来ていると考えるより仕方がない。」笏は、そう言ってあたりを眺めても、何も影らしいものすらなかった。――二人は、青色を合んだ夜空の下へ出て、置石のそばへかがんだ。妻は、石燈籠の燈石のあるそばで、燐寸マッチった。そして苔の生えた青い燈籠に灯を入れた。
「久しい間灯を入れなかったな。」
 笏は、くらい繁りの間にその燈籠の灯のちらつくのを眺めた。が、しばらくすると、女はひっそりした声で笏を呼んだ。
「たいへんな虫。」女は、そこの湿りある地面を指さした。そこにれいのくろぐろした馬陸が、小さい足跡を縫うように這い動いていた。
あれはやはり来ているのね。」
 女の、その声は嬉しそうに輝いていたが、どこか凄気せいきのある青くさい声音であった。
「来ているらしい。」
 笏は、女と同様に広い庭さきに目をさまよわせたが、蒼茫そうぼうとした月明つきあかりを思わせるようにあかるい夜ぞらと庭樹の間にはそれらしい陰影すらなかった。が、又何となくふしぎに目のとどくところに茫乎ぼうとした影が、ちぢまり震えて見えるような気もした。繁りの奥や、幹が地に立つところに、かれらはその愛児の姿の、ほとんど水に濡れたようになっているのを眺めた。
「あれの方でも探しているかも知れないのだ。だが何となく盲同士のような気もするのだ。」
 笏は、あたりを眺めながら、縁端へ来て何時までも佇って影を求めている、やせ細っている己が妻を哀れに思うた。
「わたくし、こうして手をさしのべていますと、掌が温かいような気がいたしますの。あたまが恰度ちょうどふれてくるように。」
 女は、右の手のひらを伸ばして、何かに触れてでもいるように、宙に浮しながら目を凝らしていた。――笏には、その手の下に、誰かが背延びをしながら、なおそれにとどかないでいる姿を描くには、何のさまたげもなかった。
「だが、そんなことをるものではない、気味の悪い。」
「え、」
 女は、手を引込めた。
 女は、夫のいる縁側へ来た。ふたりとも、ぼんやりと庭をながめていた。疲れているというほどでもないが、ぼんやりとすべては夢のうちにある気がしていた。一秒間がふしぎに十年も二十年も経つような退屈な時間が、ゆるく廻っているようでもあった。わけても笏には、途方もない大きな車の輪が、のろくゆるく廻っていて、そのわだちの間に、誰かが挟まっているような気がした。それは、童子でもありないようでもあった。笏は目を凝らしてながめていた。
 女は、立ってれいの光る小さい堂宇どううの前へ行った。そして細い一本の草のような烟るものに火をけた。かれらは、かれらの生んだものを慕うそれにふさわしい、小さいお鉦鼓かねを叩いた。
 笏は、玄関へ出た。そして植込みをながめ、表へ出た。そして往来の遠くまで眺めわたしたが、何の姿もあろう筈がなかった。晩のことで、豆ずれをさせながら、すたすたと犬が濡れたように走って行った。それを見ていると、影がちぢまり小路へまがると、それきり何もない夜目にも一色の白い道路であった。
「お父さん――。」
 笏は、声のある方へ振り向いた。背後にその声があった。そうかと思うと前にも、そして空にも、また地ごもるようなところにもあった。どこを向いても、声は、かれにむすびついた。
 すたすたと誰かが歩いて行ったが、よく見ると、さきの犬がもとの道を小路から出てきた。どす黒い影だった。笏は、その犬を呼んでみたが、ふりかえりもしないで、やはり寂しい豆ずれを曳いて行った。かれは、間もなく部屋へかえると、れいの、繊い笛をとり出した。そしてそれを静かに吹きならして見た。その笛の音について何かが惹かれてくるような気がしたからである。
 雨になって笏の家の内も外も、ひっそりとしていた。かれは内側から雨戸を閉め、そして寸分の隙のないようにして置いたらしく少しの明りさえ漏れていなかった。しずかな雨がつづいて話し声もきこえなかった。が、ふしぎに雨戸のきわに小さい影がいつころとなく――多分、雨戸を閉めてからあとに、どす黒く滲んでいて、すこしも動かなかった。それは鳴らない丹塗りの笛をさげた、れいの童子の姿であった。

底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星全集 第4巻」新潮社
   1965(昭和40)年11月15日
初出:「女性」
   1923(大正12)年2月号
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2013年10月11日作成
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