先日、日田ひたへ行く機会があったので、広瀬ひろせ淡窓先生の旧屋、秋風庵しゅうふうあんを訪ねた。
 広瀬淡窓の名前は、前から聞いていたが、機会がなくて、今までその人となりや教育方針のことなどは何も知らなかった。それで庵主あんしゅ古川老ふるかわろうのお話は、非常に興味が深く、また大いに啓発されるところがあった。
 門弟四千名、その中からは、高野長英たかのちょうえい大村益次郎おおむらますじろう清浦奎吾きようらけいごというような人々が出ていることも、もちろん特筆すべきであるが、それよりも驚くべきは、四千名というその数である。これらの門弟たちは、全国六十余州からきゅうを負って集ったもので、全然門弟の来なかったはんは、たしかに二つくらいしかない。青森地方、即ち南部なんぶ津軽つがるからも、はるかに九州のこの僻地へきちまで、数名の門弟が来ている。
 幕末時代の交通機関のことを思えば、これはまことに驚くべき事実である。淡窓塾で、所定の学業を終えれば、学位がもらえて、それであと一生就職には困らない、というようなことももちろんなかったであろう。藩か大店おおだなかの「公費」で遊学したという学生も、絶無に近かったものと思われる。
 門下生たちは、純粋に学問を身につけるために、千里を遠しとせず、九州日田の山地にまで集って来たのである。今日もし肩書や就職を全然度外視して、四千人はおろか、四十人の門下生でも集め得る教育者があったら、それは一つの奇蹟きせきであろう。
 ところで淡窓先生が、これら四千人の門下生に、どういう教育を施したかというに、今日のような技能的な教課を教えることは、もちろん出来なかった。のこされた教育課程の中には、やや専門的な課目の名前もまじっているが、淡窓先生の真面目しんめんぼくは漢詩人であって、その教育の大本は、敬天を主眼とした人間教育であった。
 近年復古調になった日本では、アメリカの六三制を輸入したため、日本の教育は崩れた、淡窓流の人間教育も必要だ、という風なことをいう人もある。しかしそれはアメリカの六三制の実態を知らない人の言である。アメリカでは、六三制の最初の二つ、即ち義務教育であるところの小学校及び中学校では、教育の主眼は、人間教育におかれている。学問は大切なものではあるが、国家が義務として国民に負わすべきものではないという理念のもとに、義務教育では、主として道徳教育が施されている。そして初めの六三で、人間教育を一応すませたところで、高等および大学教育で、学問を教えようという考えである。うまく行っていないところもあろうが、それを理念としていることは確かである。淡窓先生の教育方針が、一番よく守られているところ、あるいは望まれているところは、今日のアメリカかもしれない。
(昭和三十年七月二十一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「百日物語」文藝春秋新社
   1956(昭和31)年
初出:「西日本新聞」
   1955(昭和30)年7月21日
※表題は底本では、「淡窓(たんそう)先生の教育」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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