先生の臨終の席に御別おわかれして、激しい心の動揺にされながらも、私はやむをえぬ事情のために、その晩の夜行で帰家の途に就いた。同じ汽車で小宮こみやさんも仙台へ帰られたので、途中色々先生の追想を御伺いする機会を与えられた。三十年の心の友を失われた小宮さんは、ひどく力を落された様子でボツリボツリと思い出を語られた。常磐線じょうばんせんの暗い車窓を眺めながら、静かに語り出される御話を伺っているうちに、段々切迫した気持がほぐれて来て、今にも涙がこぼれそうになって困った。小宮さんが先生の危篤の報に急いで上京される途次、仙台のK教授に会いになったら、その由を聞かれて大変おどろかれて、「本当に惜しい人だ、専門の学界でも勿論もちろん大損失だろうが、特に若い連中が張合いを失って力を落すことだろう」といわれたという話が出た。その話を聞いたら急に心の張りが失せて、今まで我慢していた涙が出て来て仕様がなかった。
 先生の直接の指導を受けた門下生はだれでも皆、先生の死にってすっかり張合いを失って、何をする元気もなくなってしまったように見える。この事が指導者としての寺田先生の全貌ぜんぼうを現わしているのではないかと自分には思われる。どの学問でもそうであろうが、特に物理学の方面では、本当の意味の指導ということは非常に困難な事であって、先生の予期されるように弟子たちはなかなか進歩しない。る時先生はS教授に、「君、若い連中を教育するには、無限に気を長く持たなければいかんよ」といわれた由を、同教授から聞かされたことがある。
 先生を失って弟子たちは何をする張合いもなくなる、そのような意味での指導が出来たのは、勿論もちろん先生の比類なき頭脳の力によるものであるが、今一つ先生の心の温かみというものが非常に重大な役割をしているとせつに思われるのである。『冬彦集ふゆひこしゅう』のねずみと猫の中に、誰にも嫌われた或る猫の下性げしょうを直すために、土を入れた菓子折を作って、「何遍なんべんとなく其処そこへ連れて行っては土の香をがして」やられる先生の姿が書かれている。これを読んだ時に、現代の東京の生活の中で、しかも忙しかった先生の御仕事を思うと、比喩ひゆなどという意味を全く離れて、先生の暖いそして静かな心が実感をもって身にみたのであった。指導者としての先生の温情の一つの現われは、常に弟子たちのためということを第一に考えられて、自身の仕事の都合は何時いつでも第二の問題とされていたことである。先生のレーリーきょうの伝記の中に、卿がゼー・ゼー・トムソンを指導したやりかたについて、「自分の都合だけ考える大御所おおごしょ的大家ではなかった」と書かれているのは、私共には全く先生の姿のように見えるのである。
 若い仲間の集りにありがちなこととして、時には情熱的な興奮をもって誰かの行為に対して批難がましい話をするようなこともあった。そのような話が先生の耳に入ると、よく先生は、「相手の人の身にもなって考えなくちゃ」といわれたものであった。そのような一言半句にも先生は極めてプラクチカルな指示を与えられた。相手の身になって一応考えて見ることによって、つまらぬ心の焦燥を霧消させ得た経験はその限りなくある。私が理研りけんの研究室を辞して今の所へ赴任した時に、先生からいただいたおしえはこうであった。「君、新しい所へ行っても、研究費が足りないから研究が出来ないということと、雑用が多くて仕事が出来ないということは決していわないようにし給え」といわれたのであった。教室の創設当時の雑用に追われている中にも、時々先生のこの言葉が閃光せんこうのように脳裏に影をさして自分を救ってくれたこともかぞえられない位である。また時には先生は極めて抽象的な言葉を用いられることもあった。その時にも「それから時々根に肥料こやしをやる事も忘れないで」と附加された。そのような言葉にも実は前から十分にその意味を理解し得るような準備はさせていただいてあったのである。それは、雑誌ばかり読まずに時々本も読むこと、そして出来たら専門以外の本も読むことを折に触れて注意されてあってのことである。
 私が理研にいた三年の間に、先生の仕事を手伝った主な題目は火花放電の研究であった。ずっと以前、先生が水産講習所へ実験の指導に行っておられた頃の話であるが、その実験室にあったありふれた感応起電機をまわしてパチパチ長い火花を飛ばせながら、いわゆる稲妻形に折れまがるその火花の形をかず眺めておられたことがあったそうである。そしてず均質一様と考うべき空気の中を、何故なぜわざわざあのように遠廻りをして火花が飛ぶか、そして一見全く不規則と思われる複雑極まる火花の形に或る統計的の法則があるらしいということを不思議がられたそうである。「ねえ君、不思議だと思いませんか」と当時まだ学生であった自分に話されたことがある。このような一言ひとことが今でも生き生きと自分の頭に深い印象を残している。そして自然現象の不思議には自分自身の眼で驚異しなければならぬという先生の訓えを肉付けていてくれるのである。その今の学習院の秋山あきやま教授らの学生時代の研究実験として、この問題を指導されたことがあったそうである。その時にはまた、短い直線状の火花も精細な写真観測をすると、点線状または裂片状れつべんじょうの構造を有していることに興味を持たれ、それを追究されたのであった。この問題は近年亜米利加アメリカで、カー槽を用いて火花生成初期の過程の研究が進められた時に、問題となったものである。もっともその理由はいまだに全く分らない。あるいはまだまだ近い将来には解決されない問題であるかも知れない。というのは現在世界各国で競って発表される電気火花に関するあの豊富な研究は、このような問題とはすっかり方面が違っているからである。先生の論文の緒言しょげんにあるように、「フランクリンが電光の研究をして以来、その後の火花の研究は、電気計測器の発達につれて、電圧、容量、抵抗その他計測しうる量に関する研究が先立ち、火花自身を問題とすることが少くなった」のである。もっとも最近になって、独逸ドイツのヒッペルのように、先生の仕事を引用して、火花の形の研究から豊饒ほうじょうな研究の領域がひらけるであろうということを指摘しているような人もないではない。先生の流儀は、或る現象の研究には、先ずその現象自身をよく「見る」というのである。
 理研時代になっての先生の火花の研究は、以前からの先生の考えをまとめられるような仕事が多かった。空気中での長い稲妻形の火花の写真を千枚以上も撮って、その空間における屈曲の角度の統計的研究は、「空気の割目われめ」の説となったりした。その中でも興味ある発見は、通常火花の形として見えるものは、火花の全貌ぜんぼうの中で可視光線を出している部分だけであって、そのほかに眼に見えぬ線を出している部分があるということであった。それは紫外線を出している部分であって、これは眼には勿論見えず、また普通の硝子ガラス鏡玉きょうぎょくで写真に撮っても写らない、しかし水晶と蛍石ほたるいしから出来ている鏡玉を使って写真を撮って見ると、普通に見える火花の形に附加して、紫外線を出している複雑な形の放電路が広い範囲にわたって存在していることが知られたのである。
 先生はこの問題を更に進めて、イオン化作用(この場合では放電現象)は起きているが、光も紫外線も出していないような放電路が更に広い範囲にわたって存在しているはずで、それが即ち火花の全貌であると考えられたのであった。ところが丁度イオンの存在を目に見えるようにする装置にウィルソン霧函きりばこというものがある。先生はこれを用いて火花の全貌を見ることを私に指図されたのであったが、自分の不勉強と留学の都合で、これはついに実験途中で中止の形となってしまった。私は現在の所へ来てから、この問題に再び着手して、有力な共同者のたすけを得て、最近その写真を撮ることが出来るようになった。結果は一番大切な点においては、全く先生の予期されていた通りであった。その結果の発表後数カ月のうちに、ほとんど同時に亜米利加と独逸とで全く同じような研究の発表があった。その後先生に目にかかった時に、「あの時もう少し勉強していたら、今になって数カ月のプライオリティなどを争わなくても、外国の連中よりも五、六年位先にあの仕事が出来ていたのですが」と申し上げたことがあった。その時は先生はよほど御機嫌ごきげんの良い時だったと見えて、「何、それに限らないさ、僕の所の仕事は、どれだって十年は進んでいるつもりさ」と、久しぶりで先生の気焔きえんを聞くことが出来た。先生は小宮さんに或る時、「僕の一生は何もしなかったかも知れないが、ただ一つだけ安心していえる事がある。それはこうと見当を付けた事は大概はずれなかったということだ」という意味をもらされたことがあるそうである。直接指導を受けた門下生としては、何もかも深い思い出の種となることばかりである。
 色々の瓦斯ガスの中での火花の形の差も、ひどく先生の興味をいた問題であった。実際に或る瓦斯ちゅうの火花の写真を撮って、他の瓦斯中のものと比較して見ると、多くの場合何処どこが違っているかということを指摘することは困難であるにもかかわらず、火花の形全体としては、明白に区別が出来るのである。先生はこれはどうも「形の物理学」が出来ていないのだから仕方がないとよくいわれたのであった。「ルクレチウスと科学」の中にも書かれたように、現在の科学の考え方はギリシア時代の思考の形式と殆んど変っていない、もっと他の形式の物理学が成立しても良いはずで、特に全くことなった文化にはぐくまれた日本人にそれが不可能であるとは思えないという風の意味のことを始終考えておられたようである。その一つとして、「形の物理学」などは大分先生の頭の中で醗酵はっこうして来ていたのではないかと思われるのである。近年ひどく興味を持たれていた割目の研究などもその顕著な現われの一つではなかろうか。そのように考えると、何だか一番大切な仕事が先生の頭の中に蓄えられたまま、永久に消えて行ってしまったような気がしてならない。
 静かに先生の科学者としての生涯を思い、最後まで飛躍することを休まれなかった業績を考えると、ポアンカレの場合とは少しく意味が異るかも知れないが、われらの船はかじを失い、われらは明日から再び手探りの研究を始めなければならないという嘆きに沈むのもまたやむをえないことと思われるのである。
(昭和十一年三月一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1949(昭和24)年
初出:「思想」
   1936(昭和11)年3月1日
※表題は底本では、「指導者としての寺田(てらだ)先生」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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