新橋駅に降りた私はちいさな風呂敷包と、一本のさくらの洋杖ステッキを持つたきりであつた。風呂敷包のなかには書きためた詩と、あたらしい原稿紙の幾帖かがあるきり、外に荷物なぞはなく、ぶらりと歩廊プラットフォームに出たときに眼にはいつたものは、煤と埃でよごれた煉瓦の色だつた。そのため構内はうすぐらく、東京に着いた明るい感じなぞはしなかつた。そのころ東海道は新橋が行きとまりになり、新橋が東京の大玄関だつた。美術学校の二年生である田辺孝次と幸崎伊次郎、それに吉田三郎が迎えに出ていた。田辺孝次はすこし帽子を前伏せにかむり、犀星とうとう出て来たなと云つた。幸崎伊次郎は鷹揚に笑つて犀星は大いにやりに来たんだね、なにか外の者にたいして弁護するような語調だつた。美少年の吉田三郎は新しい薩摩絣の単衣に袴をはいて、犀星はまた荒し廻つて歩くだろうと云つた。そして美という徽章のついた学帽をかむつた彼等が私よりどこか大人めいていることと、その大人めいているものに対抗できない泥くささを私は自分に感じた。彼等はあかるい電車に私を乗せてくれ、電車というものにはじめて乗つた私は、派手な女の人の服装をはじめて見て、まばゆい感じであつた。田辺孝次は大きな声で犀星此処は銀座だと、せまい大通りの人ばかり沢山歩いている歩道を教えた。その声が大きいので今ついたばかりの東京という都会にたいして、また乗客の手前、私は顔をあからめた。彼はここが須田町、ここが上野というふうに云い、私は分つている分つていると低い声でこたえた。私が低い声をすれば田辺孝次も低い声になるかと思うと、彼は反対に大声になり私はひやひやした。
 私は電車と電車とがすれちがう時、眼をつぶつた。そして電車というものがその時代の文明をいかによく代表的にあらわしていたかに、私は驚いた。舶来的な、ひとりで走るような車体はどれもあたらしく、自動車がすくなかつたから大抵の人は電車に乗り、車内はいまの映画館の坐席のように美しい人が乗り合い、そういう客間のお茶の会のような光景が、そのまま街のなかを走つて行つた。往復五銭であつた。私はできるだけこれから電車に乗つてやろう、そういうふうに私は東京についた第一日の印象に、電車というものを好いた。
 その晩、田辺と幸崎とで浅草公園に行き、六区の映画館街につれこまれた。私はわりあいに驚かなかつた。こんなところはきつと一処くらいあるだろうと思い、却つて金魚を釣る店が何軒もならんでいて、そこに一杯の人だかりしているのが変に永く頭にのこつた。人と人との頭のあいだから見た金魚のあいた口から、その口の二倍くらいある泡が吹かれているのがあわれであつた。どちらにも肩をうごかすことの出来ない通りで、田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。そんなに驚いてはいないよと、もう午前十時から八時間東京にいるあいだに、私は東京になれて来たような気がしてくるのであつた。きよう昼間に田辺のご馳走した柏餅という柏の葉につつんだお菓子にびつくりしたのにくらべ、この六区の雑沓は平凡なものであつた。菓子といえばお茶のはやる故郷にあんな柏の葉つぱにつつんだ乱暴な菓子なぞは、見たくともなかつた。
 江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた。それならこんど一人で来て、魚釣りで魚を釣り、玉乗り娘のあわれに加ろうと思つた。だが私は十二階の塔を見上げたときは、奇異にも不思議な思いで、永い間うごかずに感激して了つた。七階と十二階に灯がついていて、その灯のついていない窓々が映画館のあかりを六角形の二角の面に受けていて、ココア色の煉瓦にしみた夜の濃い藍紫のいろが美しかつた。田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。それでは人が住んでいないんだと思うた。私は東京は西洋風とばかりおもい込んでいて、その感じのちがつていたのをこの塔を見上げて初めて訂正することができた。私はその塔のふもとに行き基礎の上まで覗きこんで見たが、夜眼にも苔が張つていることが分つた。
 私達はすぐ塔の下から岐れた幾本ともない小路という小路、通り抜けられぬ裏通りが通り抜けられ、からだを横にしなければ歩けぬ裏路地を歩いた。そこには間口一間くらいの家がぎつしりならんでいた。哀れはここに続いた。千九百十二年代の不幸な女らはここに屯して夜昼となくはたらいていた。私達は明るい通りに出て、観音堂横のベンチの上に腰をおろしてしばらく憩んだが、私はいま見て来たばかりの光景の目まぐるしさに、なんにもいうことがなくなり、茫乎としていた。少しはなれたところにヴァイオリン弾きがいて、卑俗な小唄をうたいながら唄を刷りこんだ小冊子を十銭で売りさばいていた。洋灯らんぷは暗いか、あかるいかというような小唄だつた。そしてこの唄うたい共は僕らも嘗て芸術家たらんとして都に出て来たものであるが、運つたなくて街頭の詩人になつて了つた。諸君は多くの芸術家の艱難な生涯をご存じであろう。ご存じあらば自作の詩集を一冊購いたまえといい、洋灯はくらいか、あかるいか、くらい小路をくぐり出で、ああ麗わしの眼見まみえて、……と、また唱い出した。ああ麗わしの眼見えてというのは、先刻の燐寸箱のなかにいた女のことを唄つたものであろう、そういうふうに考えるとこの詩人の小唄はことごとく不幸な女のことが叙せられてあつた。幸崎伊次郎が云つた。犀星もあんなのになる覚悟をしなければ東京の生活はできないよといい、あれでも自分の書いたものを売つて生きているではないかと、彼は不意に熱烈に街頭詩人を弁護して云つた。十年の後についに発狂したこの天才彫刻家は突然に怒るようにものをいうと、すぐ哄然として笑う男だつた。私は答えた。ヴァイオリンも弾けないし唄もうたえない僕はどうしていいか薩張り分らないね、と。そして仲店の方に出ようとするとそこの暗い辻にも、やはり洋灯はくらいか、あかるいかを唄う二人づれの男を見いだした。彼らは私とおなじ黒の紋附の木棉の羽織を着ていたが、私達若い青年はこの時代にあつてはみな黒地に白ぬきの木棉の紋附に、紙の縒子の紐を胸にしめ、髪はうしろに垂れるくらいの長髪がはやつていた。
 かくて都の一日が夜更けるとともに終ろうとしつつあつた。田辺孝次の宿に枕をならべて寝ようとすると田辺は云つた。犀星はどこか行くあてがあるかといい、あると私は応えた。あるならよし、なければ明日にも国に帰れ、一日見れば東京はたくさんなところだ。おれは君とともに共倒れになる生活はできないと彼は先ず痛烈に一撃を加えて置いて、さあ寝ようと、三十年の後に故郷の工業学校校長になる彼は云つた。そして三十年の後に彼のこう云つた言葉をあじわうことは、私をよく知る彼だと思わざるをえなかつた。
 だが、私はこの痛烈な一撃のためになかなか睡れなかつた。そして今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であつた。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧こんどうが、好ましかつた。東京の第一夜をこんなところに送つたのも相応わしければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。

底本:「日本の名随筆73 火」作品社
   1988(昭和63)年11月25日第1刷発行
   1992(平成4)年9月20日第6刷発行
底本の親本:「憑かれた人」冬樹社
   1972(昭和47)年7月
※表題は底本では、「洋灯(らんぷ)はくらいか明るいか」となっています。
※拗音、促音が小書きされていないのは底本通りです。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2012年12月15日作成
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