使の出がけに、清盛は、父忠盛から背へ喚かれた。――その声に、たえず背を追われているようなかれの足つきだった。
何といっても、父は、こわい。おととし、保延元年である。その父親について、かれは初めて、四国、九州へまで渡った。
在京の兵をひきい、内海の賊徒を平定に征ったのだ。春四月から八月までかかって、海賊の頭株以下三十余人を数珠つなぎにし、意気揚々と、都へ、凱旋したときの晴れがましさは、忘れ得ない。
(おやじは、えらいのだ。……やはり、本当は、偉かったのだ)
清盛は、それ以来、父への認識をあらためた。こわさが、違ってきたのである。
少年時から、家庭を通じて、かれの心に、映されてきた父なる者は、およそ、社交ぎらいの物ぐさで、出世欲もなければ、経済的なあたまもなく、ただ貧乏性を頑に守ることだけが強い一武人としか見えなかった。
が、決して、それは、童心の描きあげた父親像ではなく、多分に、母から日ごろに吹っこまれる愚痴やら環境にも依るものだった。もの心ついて以来のかれの記憶によれば、都も場末の今出川の荒れやしきに、十年の余も、雨もりのつくろい一つせず、庭草も刈らず、住み古して、家の中では、父と母とが、のべつ夫婦喧嘩ばかりやっていた。そのくせ、平太清盛をかしらにして、次男の経盛だの、三男坊だの、四男坊だの、子どもばかりは、次つぎに、産まれていた。
その父は、しかも、とかく官途をきらって、鳥羽の院へも、御所の衛府へも、特に、召されでもしない限りは、出仕した例がない。家計は、伊勢の禄地から上がる稲が唯一の収入で、おりおりの賜わり物だの、役得のみいりなどは、一切、なかった。
清盛にも、このごろやっと分かってきた。両親のいがみあいも、原因はいつもそこらにあるらしい。母は、口達者で、良人の忠盛からいわせると――油紙に火がついたようによく喋べる女――なのである。
かの女が、忠盛へ、まくしたてるきまり文句は、いつも、こうだった。
『ふたことめには、良人に向かってと、すぐこわい顔をなさいますが、わが家に、そんな立派な良人顔があるとは、思いもよりませんでしたよ。あなたは、もともと、伊勢平氏のいなか育ちで、汚い貧乏も、性に合っているかもしれませんが、わたくしは、都そだちです。親類縁者とて、みな藤原一門の公卿堂上ばかりですからね。こんな雨もりだらけな屋根の下で、年じゅう、芋粥や稗飯ばかりをかみつぶし、秋といっても、月見の御宴に伺えるではなし、春が来ても、豊楽殿のお花見などは、他人のこと。人間ともむじなとも分からぬ日を、毎日こうして、くり返してゆく生活なんて――わたくしは、自分の未来に、夢にも思っていませんでした。……ああ、わたくしは何という、不しあわせな女なのであろ。……子どもさえいなかったら、こんな女の一生を送ってはいなかったのに』
この程度は、序曲である。忠盛さえ、黙っていれば、めんめんたる愚痴と悲嘆は、終わることを知らないのが常であった。
いったいかの女は、どんな点を、最もいいたいのか。天に哭し、地に訴えたいのか。子の清盛も、聞き飽いているが、要約すれば、およそ次のようなことらしい。
まず第一は、良人なる忠盛が、懶惰で、生計をかえりみない。幾年でも、家にこもって坐食しているほか、何の能もない。
第二の不平は。――自然、親類の藤原一門とも、往き来がたえ、宮中の五節会やら、おりおりのお催しなどにも、気恥かしくて出られない。あたら、栄花のできる身に生まれながら、つい女の一生を、めちゃくちゃにしてしまった。……という痛恨。
以上のほか、ややもすると。「子どもさえなければ――」という喧嘩の口走りがきっと出る。
母の、その最後の極まり文句は、未熟な清盛の心をぐざと刺した。かれは、わけもなく、つらい、悲しい、嗚咽にせかれた。そしてもう十六、七ともなったころには、自然、年に似合わぬませた眼で、母の胸を臆測した。
(もし、子どもさえいなかったら? ……母は、どうするつもりだろう)と。
母は、父に嫁いだのを、後悔している。ままになるなら、今でも別れたいのだろう。そして、離別して、おそまきにでも、栄花のできる世界へ帰り、よく口ぐせにいう親類の公卿仲間の女たちのように、月を簪し、花を着て、牛車に乗りあるき、あの少将、この朝臣と、浮かれ男相手に恋歌などを取り交わして、源氏物語の中の女性みたいな生活を、一ぺんでもしてみたい。そうでもなければ、死にきれない。女と生まれたかいもない。――と、あんなふうに、おりおり、油紙に火がつくものにちがいない。
無条件に母を母と信じきれないで、母を観察する眼ばかり日々養われている子の不幸は、いうまでもなかった。
(……ふん。おれたちが、そんなに邪魔か、ならば、出て行けばよいだろうに。いや、父上も父上だ。なんで、こらえてばかりいるのか。焦れったいなあ……。くそったれめ。藤原がなんだ。藤家の一族に親類があるからとて、あんなにまで、威張りちらされている父上のお気が知れぬわ……。父上の意気地なしよ。――眇目の伊勢どのは、美人を妻にもったため、女房負けしてござるぞと、世間ではいっているわ)
清盛とて、二十歳近くにもなれば、これくらいな義憤はもった。世間の例では、子どもは、母親びいきときまっているが、かれの家庭では、あべこべだった。父に加担しないのは、まだ母の乳ぶさにいる末子と、わけの分からない三男、四男だけで、次男の経盛なども、冷静な性だけに、もの狂いするときの母の唇を、ときには、憎そうにまで、冷やかな眼で見ていることがある。
そんなおり、この兄弟にとって、世にも情ない気がするのは、父その人の姿だった。まるで、妻にこき下ろされるために生きている男のように、黙って、やりこめられているではないか。世間のあだ名にされている瞼の皮のヒッつれた眇目をふせて、じっと、自分のひざの拳を見ている父……。
顔に、あばたはあるし、あだ名の通りなスガ目だし、四十幾つの男ざかりだが、父はたしかに醜男ではある。正直、子の清盛でも、そう思う。
それにひきかえ、母は美しい。まだ二十代とも見えるほどだ。あれで五人の子の母かと、世間のあやしむのも道理である。そのかわり、いくら貧乏が迫ろうと、身の粧いは崩さなかった。見るに見かねて、召使たちが、食糧の工面もする。そして、垣の古竹やら床板をはいで炊ぎの焚き物にしたり、幼い子らが、垢じみた身なりでピイピイ泣きながら、尿の垂れながしをしていようと、かの女は知った顔つきではない。かの女は、良人にもだれにも冒させない塗籠の一室をもち、起きれば、蒔絵の櫛笥や鏡台をひらき、暮れれば、湯殿ではだをみがく。そしてはときどき、家人でさえ、あっと、びっくりするような衣装を着こんで、
(親類の中御門様へ、ごぶさたのお詫びに行ってまいります)
などと、貴人の外出そのままな容態で、近所の牛車宿まで、なよかに歩き、そこからいつも、牛車を雇って出かけてゆく。
『女狐じゃ……。あの美しさは』
召使まで、蔭ではいった。子飼いからの郎党で、もう髪も白くなりかけている木工助家貞なども、じっとこらえる眼をして、よく、泣きやまぬ子を背に負いながら、出てゆく子の母を見送ることがあった。夜も、厩のまわりを、かれの子守歌の声が巡り歩いていることが毎度であった。
そんなときさえ、忠盛は、黒い柱によりかかったまま、瞼をふさいで、黙然と、想い沈んでいるにすぎない。
経盛は、勉強家である。たいがいな場合、われ関せずと、机にむかって、書を読んでいる。
その弟も、清盛も、早くから、勧学院の学生であったが、しかし清盛は、いつか通学をやめていた。――すこしは、学問もやれよ。と父からたまには戒告をうけるが、いまの世情を見ても、家庭をながめても、ばかばかしくて、孔子の書物などは真にうけられなかった。父の懶惰をまねて、弟の机のわきにふん反り返り、加茂競馬のうわさとか、近所の女のはなしなど持ちかけた。弟が耳をかさないと、天井をにらまえながら、鼻の穴などほじくっている。また、ときには、裏の的場へ飛び出して、にわかに、弓を引いてみたり、不意に、厩の馬にむちを加え、大汗かいて帰って来たり――といったふうで、とかくかれには、規矩がない。
母も、変り者。父も変り者。ひとり次男の経盛が、やや真面目そうではあった。けれど、かんじんな総領息子の清盛がまた、このとおり、どこか毛いろ違いにできている。困った家族だと、感傷になれば、限りもなく厄介な人間同士の寄り合いだった。とはいえ、それらの個性個性をも引っくるめての、伊勢平氏という一つの「家」は、そのころ、まだ極めて少数な武人の家として、有数な名家にはちがいない。都の片すみでは、もう数代の祖おやを経ている中流社会の一戸であった。そしてこれからも、屋敷畑の芋のように、子蔓孫蔓を幾代にも世の中へはわせて行くであろうことも確実であった。しかし、清盛はまだ、自分がどんな芋なのやら、運命の蔓に生っているものやら、何も自覚はしていなかった。ただかれの若い生命は、至極、屈託のない、健康なものであったということだけはたしかである。
きょうの使いはわかっている。清盛には読めていた。また親戚へ金借りにゆくのだ。
めずらしいことではない。――先は、父のただひとりの弟、兵部省出仕の北面の侍、平ノ忠正の家と、泣きつく所もきまっている。
この正月。――明けてことしは保延三年だが、春早々から、あの母が、風邪を重らせて、寝こんだのである。
典医を呼べの。高価な薬を取り寄せろの。やれ、夜具が重いの。こんな食物は病人にたべられぬのと。――例によって、かの女のわがままは、家じゅうを、手こずらせた。
ここ一年の余、うっかり忘れていた貧乏が、そのため、一夜のうちに、凩のようにまたやってきた。
おととし、海賊の平定の功で、忠盛が、めずらしくも朝廷から賜わった恩賞の品じなも、一封の金子も、有ればあるにしたがって、かれの妻の浪費と、ことしの病気とで、むなしく消え、昨今はもう朝晩の粥すら、すすりかねて来た。
そこで、毎度なので、書きにくそうな手紙を書いた忠盛は、清盛にさえ、いいにくそうに、
(平太。また、すまんがのう、叔父御のところまで、行って来てくれい)
となったきょうの使いなのだった。
それはいい。それは忍ぶとしても、出がけに、
平太よ。また、帰りに、塩小路などを、うろつくなよ――。の一言は、気にくわない。
『子どもにだって、少しは、楽しみがあってもいいだろう。あわれや、この春で、おれも青春二十歳になる。その若さで……叔父貴のやしきへ金借りとは』
自分で自分がいとしまれた。こう思っても、決して、不逞ではあるまいと、清盛は考えかんがえ歩いていた。
『またかよ。平太……』
叔父の忠正は、手紙を読んで下におくと、実にいやな顔をした。手紙が求めているものを貸してはくれたが、叔母も出て来て、
『なぜ、和郎は、母方の身よりへ無心に行きなさらぬ。わろの母御前は、みな、れッきとした、藤原の朝臣とやら、中御門様とやら、きら星な御貴人ぞろいではおわさぬか。また、それが大自慢の、よい母御前をおもちではないのか。――忠盛どのへも、いうてあげたがよい』
それから始まって、清盛を前に、かれの両親の棚下ろしである。子として、これを聞くほど、辛いことはない。清盛は、ぼろぼろ泣いた。
だが、忠正の家庭とて、楽でないことは、かれにもわかる。朝廷にも、院の方にも、衛府や武者所の制ができて、たくさんな武士をおくことにはなって来たが、いわばこれらの人間は、野性で勇猛な点だけを取りえに思われて、藤原貴族などからは、紀州犬や土佐犬の性能なみに、番犬視されている公な奴僕にすぎないのだ。もちろん殿上人との同席はできず、地方に所領はあっても、たいがい山地や未開地である。平氏も源氏も、おしなべて皆“地下人”と呼ばれていた。給田の収入は薄く、余得もなく、武士の貧乏は、通り相場なのだった。
二月の寒風を、初東風とかいう。春だと思うせいか、よけい冷たい。
『ああ、腹が減った。すき腹のせいもあるぞ』
叔父も叔母も、飯を食うて行けともいってくれなかった。――それさえ、かえって幸いに思えたほど、そこの門は、逃げるように飛び出して来たのである。もうもうこんな使いはしたくない。こじきになってもしたくないと思う。
『おれともある者が、ぼろぼろ、涙をこぼしたのが残念だ。銭を見て、泣いたと、先では、考えたろうな。それがいまいましい』
まだ瞼が、腫れぼったい。――往来の者が振り返ると、かれは、泣いたあとを、見られる気がした。いや、涙よごれの顔よりも、じつは若い清盛の身なりの方が、およそ人目を引くものだった。
よれよれな布直垂に、垢じみた肌着ひとえ。――羅生門に巣くう浮浪児でも、これほどは汚くあるまい。もし、腰なる太刀を除いたら、一体何に間違われるか――だ。泥田を踏んで来たような草履や革足袋。うるしのはげた烏帽子は、すこし斜かいに乗っかっている。背丈はずんぐり短かく、かた肥りという体躯だ。
背のわりに、頭が大きい。耳、鼻、口、造作すべてが、大振りなのが、この顔の特徴だった。眉毛はふとく、それにともなう切れ長な眼じりが、下がり気味に流れているため、いささかは愛嬌もあって、あやうく“異相なる小男”の残忍さを救っているという容貌である。
いや、それと、色が白いことである。大きな耳たぶが、血のたれるばかり紅あかとしているのも、この青年の、異相ながら、美しさの一つと数えてよい。
――で、人は、「どこの小殿であろ」「何をする武者やら、小冠者やら?」と、怪しむのであった。また悪い癖で、清盛はよく、ふところ手で歩く。良家の子弟にはない風儀だ。父の前では絶対にやらないが、戸外へ出ると、癖が出る。――これはまちがいなく、塩小路に集まる人種の影響であった。
『きょうは、立ち寄るまい。銭を持っている……。口惜しくも、借りた銭を』
かれは自分をおそれた。そこの魅力が、すでにむらむら意欲に響いていたからであろう。生まれつき、意志が弱く、煩悩には克てない自分を、よく、わきまえてはいたのである。
しかし、そこのつじまで来ると、もうだめだった。狭い小路の口から、官能の好む生ぬるい風が、迷いを嘲って流れてくる。
『やってるな。いつものが……』
雉子の股や、小鳥のくし焼を売っている老婆のそばで、べつな男は、大きな酒瓶を、道ばたにすえ、自分も飲んで、酔って、歌いながら、実は目的の、酒売りをやっている。
――また、ひとかごの橘の実をひざにかかえ、しょんぼりと、市場の日陰にひさいでいる小娘もある。下駄売り、沓直しの父子も見える。干魚や、古着などの、ささやかな物をならべて、露命をつなぐ棚の軒も、この一画だけで、百戸以上もあるという。
どれもみな、世の下積みにひしがれた、あわれな雑草の生活の姿でないものはない。けれど、ここのぬかるみに根をおろして、生きぬき、生き合おうとする生命の群れとして観ると、おそろしい生存の闘いが、人の思慮分別をくらまし合っているような雰囲気でもあった。どこかで、煮焼きする食べ物の煙りは、黒い人混みの秘密をつつみ隠しているようだし、辻博奕だの、淫らな女たちの嬌笑だの、あかん坊の泣き声だの、放下師の鼓だの、そのほか識別しがたい臭気と物音が、耳の穴へ混み入ってくる。いってみれば、百敷の大宮人たちの貴族文化に張り合って、ここの人びとが身相応に誇って持つ唯一の楽園なのである。凡下や地下人だけの花の都なのだ。――だからこそ、清盛の父も、いうのである。あんな場所へ、ゆめ、近づいてはならんぞと。
ところが、清盛は、ここが好きだ。ここの人間たちにも親しめる。市場の西の大榎の下では、“醜草市”とも、ただ“クサ市”ともよぶ泥棒市がときどき立つが、それさえ、かれには、愉快に見えた。
『なあんだ。やれ強盗だの、山賊だのというが、こうして、食えていれば、仲よく暮しているではないか。ほんとの悪党は、この中にはいそうもない。いるのは、雲の上と極まった。叡山だの、園城寺だの、奈良だのにも、金襴ぐるみの悪仏どもがたくさんに』
かれはいつか塩小路の人ごみにもまれていた。そして、あっちをのぞき、こっちにたたずみ、夕迫るのも忘れて、呆うけ歩いていた。
クサ市には、きょうは、人影もない。
賽日とみえて、そのかわりに、榎の下の赤い灯だの、花束だの、香の煙りが、夕やみにゆらめいていた。
白拍子らしい女たちや、もっと低い種類の遊び女たちが、幾組も連れ立って、後からあとから榎の下へ詣ってゆく。
むかし、袴垂保輔という大盗の妾がここに住んでいた。その跡がこの大榎だということになっている。そこで、いつごろからか、この榎に願掛けすれば、浮気男に夢が通じるとか、恋仇を病みつかせるとかいう迷信が生まれ、袴垂が獄死した永延二年六月七日の七ノ日を賽日として、クサ市の盗児から、いろんな種類の女たちまでの参詣が、こんな風ににぎわうのだった。
四位の朝臣の家に生まれながら、放火、群盗、殺人などの悪行をほしいままにして、世に袴垂の悪名を売った男の名は、もう百年以上もたっているのに、妙に、今でも市井に何か残している。
それは、藤原一門の専横も絶頂期の、法成寺関白道長のころの一社会事件であった。――この世をばわが世とぞ思ふ――と歌った道長の全盛ぶりに対する細民たちの感情を、袴垂が、一個の身に代表して、あんな反抗をやったものと、当時の庶民は、逆にかれを礼賛したものかもしれない。とすれば、藤原閥の命脈のあるかぎり、ここの香華も、絶えないであろう。庶民の迷信は、庶民の祈りの変型といえなくもないからだ。
『たしかに、おれの中にもある。袴垂と似たような血が……』
清盛は、榎の下の赤い灯が、自分の未来を暗示するものみたいに思えて、なんだか、こわくなってきた。――で、急に、立ち去りかけると、
『おい。伊勢ノ平太。さっきから、何を見ていた。榎詣での女の顔でもながめていたのか』
夕やみなので、だれなのかも、よく分からない。はっとするまに、相手は両手をのばしていた。そして、かれの両肩を両手でつかみ、首ががくがくするほど揺すぶった。
『あ。……盛遠か』
『さればさ。この遠藤盛遠を、わすれるやつがあるものか。どうした、おぬし。いやに、呆うけた顔しているじゃないか』
『え、そうか。……まだ瞼が、腫れているか』
『美しい母御前と、スガ目殿との夫婦喧嘩で、また、わが家にもいたたまれずに出て来たか』
『うんにゃ。母は、寝こんでいる』
『病気でか……』盛遠は、冷笑した。
ふたりは、勧学院の同窓だった。年は、清盛が一つ上だが、学生のころから、盛遠のほうが、ずっとおとなびていた。学問でも、清盛はかれの足もとにも追いつけなかった。教授の文章博士などからも、俊才といわれたり、将来の逸材と、属目されていた盛遠なのだ。
『あははは。申しては、失礼かもしれぬが、あの女性の病などは、気まぐれ病、わがまま病ときまっている。なあ平太。くよくよするなよ。それよりは、どこかで、酒でも飲もう』
『え。酒……』
『そうさ。祇園女御は、幾人の子の母になろうと、やはりむかしの祇園女御だった――というに過ぎないはなしじゃないか』
『盛遠。だ、だれのことだ。祇園女御とは』
『知らないのか。……わぬしの、母の前身を』
『知らぬ。……和殿は、知っておるというのか』
『おう。聞きたければ、話してやる。ともかく、おれについて来い。スガ目殿は、宿命としても、若い平太までが、青春をしぼませてなんとするぞ。――日ごろから、ひとごとならず思っていたところだ。べそべそするな。なんだ、あんな女ごときに』
盛遠は、もひとつ、どやすように、清盛の背をたたいて、暗い小路を、先に歩きだした。
この家には、壁がない。
部屋のさかいは、板仕切りであり、入口には、古布を帳とし、妻戸の代わりに、むしろなど、垂れてある。
いくら寝坊な者でも、これでは隣りのばか騒ぎに、安眠しているわけにゆくまい。――鼓を打つ、鉢をたたく、猥歌をうたう。あげくに今、しりもちでもついたような、家鳴と、男女の笑い声が、一しょに沸いた。
『や? おれは。……しまった。もう、何刻だろう』
眼をさましたとたんに、清盛は、ひどくうろたえた。そばには女が寝ている。たしかに、六条洞院の遊女宿。――盛遠に誘われて来た家である。
『弱ったな。帰らにゃならぬ……』
家へ、なんと、うそをいおう。父忠盛の顔つきが見える。母のガミガミが聞こえるようだ。幸い、叔父から借りてきた金は、みんなまでは、費っていない。――そうだ、今のうちにと、むっくり起きた。
『……が。盛遠は、まだ、騒いでいるのかしら』
女の黒髪を踏むまいと、清盛は、その胸を跨いだ。そして、灯のもるふし穴から、隣りの騒ぎをのぞいてみた。何もない板じきの一部屋には、松明りを灯皿にくべ、どこの法師たちやら、悪僧面が三、四人、遊女たちを、ひざへのせたり、抱えたりして、すでに飲み空けた酒壺が、幾つも、横に、ころがされてある。
『あ。先に帰ったな。……盛遠はおれを残して』
かれは、一そうあわて出した。例の、ぼろ直垂を着け、太刀を腰へつるすのも、あたふたと、縁伝いに、出口をさがした。
暗いし、戸惑い気味でもあった。何やら、足の先に、金属的な物音を蹴のこしたまま、逃げるように、戸口を出た。
すると、物音に、とび出して来た法師たちが、
『待てまてっ』と、口ぐちに、清盛のうしろで、わめいた。
『ひとの長刀を蹴たおしながら、肩そびやかして出て行くは、どこの何者だっ。待ちおろうッ、そこな小男』
清盛が振り向いた眼のさきへ、チカッと来たのは、すでに、言葉ではなく、白い長刀のひらめきだった。おそらく叡山かどこかの、屈強な荒法師の手練にちがいない。死神の手のように、それは迅かった。かれは一ぺんに酒気もさまし、宵の快楽も、あとの悩みも、消し飛ばして、夜風の中を、逃げていた。
枯れ草の生えた崩れ築土と、腕木も傾いた怪しげな屋敷門とが、眼のまえに来ていた。清盛は、わが家と気づくと、ぞっとした。
『困ったぞ。なんといおう? ……なんと』
それもだが。
今夜にかぎって、父のこわさ以上、母を見るのが、いやだった。たまらなく、腹が立っている。あの声をきくのも、いやだ。
ほんとなら、こういう時こそ、ともに父の前へ、謝ってもらいもしたい母親に、こんな反逆をいだく子が、どこにあろうか。築土の崩れを見あげながら、かれは、孤独の感にとらわれていた。
多感は、かれの天性に近い。こめかみの辺を、異常に、けいれんさせながら、その大頭の中では、何か単純でない多血なあわつぶを、奔流みたいに、明滅させているかれであった。
『いっそ、母の素姓など、知らずにいた方がよかったかもしれぬ。……盛遠に会って、あんなことを、聞かされなければ』
それも、悔いられたが、その盛遠と、女たちを交えて、大酔いした遊びの座も、きれぎれ、思い出されてくる。いや、もっと忘れかねたのは、遊女宿の一間に、置きのこして来た寝ぎたない黒髪と、容易にどうにでもなる四肢をもった肉塊だった。それが美人か、醜女かなどは、問題ではない。二十歳にして初めて知ったふしぎな忘我と、生命の恍惚に、かれ自体が、ただおどろいた事実なのだ。そして、これが、女のはだを知ったということなのか――と、頭はのべつ甘い追憶にとらわれて、何か、すかっとして、燃え殻のようになった軽さを、自分の肉体に気づくのだった。
(ひょっと、女のにおいが、自分の体に、しはしまいか)
このおそれが、また、かれをしばらく、たじろがせていた。しかし、やがて築土を、跳びこえた。なぜ、こん夜に限って、こんな罪悪感にとらわれるのか。ただの夜遊びでは、何度も、越えなれている築土なのた[#「築土なのた」はママ]。――跫音は、いつものように、厩の裏の畑へ降りた。
『おっ、和子様よな。……平太様かよ』
『あ。じじか』
清盛は、棒立ちのまま、わが髪の毛をつかんでしまった。
爺というのは、木工助家貞である。父に次いで、清盛がけむたいのは、この忠誠な家来であった。自分など生まれないうちから、家に仕えて、もう前歯も二、三本欠けているほどな者だし、いかに世間が、ここの主人を、無能といおうが、貧乏平氏と嘲ろうが、かれのみは、武家の家憲を守りとおし、主従の礼儀、ことば遣い、いやしくも、折り目切れ目を、くずしたことのない家人だった。
『なんと、なされましたな。この深夜までは、街の灯とて、点ってはおりますまいに』
ころげ落ちた清盛の古烏帽子を拾いあげて、その人の手に返しながら、木工助はなお、嗅ぎ撫でるように、かれのすがたを見まわした。
『もしや、喧嘩のちまたにでもと、取り越し苦労の限りもなく、寝よと、大殿に申されても、寝られたことではござりませなんだ。……でもまあ、ようこそ、ようこそ』
真実、木工助は、眼をほそめて、安堵によろこびほぐれている態だった。それだけになお、清盛は、かれの顔を、まともに見ることができなかった。
父は、寝ているか。まだ起きておられるか。
母は、どうしている?
清盛の心配は、ただそこにあったが、木工助は、かれのたずねもまたず、こう、なだめた。
『さ。何も、お案じなされずに、そっと、臥床へお入りなされませ。すぐ、寝屋のお内へ』
『いいのか、じじ。……父上のお居間へ、伺わなくても』
『あすの朝。御きげんを見て、じじも一しょに、お詫びに出ましょうほどに』
『でも、怒って、おいでだろうな。わしの帰りの、おそいのを』
『もとより、御立腹には見えました。宵のころ、木工助やあると、ただならぬ御気色で。……彼奴め、どこを、遊びほうけているやら、塩小路なと見てまいれ……との仰せに、じじめが、心得申して、ほどよう、取りつくろうておきました』
『そうか。なんといっておいてくれたぞ』
『かりにも、大殿へ、うそをつく木工助のせつなさを、すこしは、お察しくださりませ。……堀川の叔父御さまのおやしきにて、和子様には、御腹痛で寝ておられました。……やがて、御腹痛もおさまれば、夜明け次第、お帰りに成られましょうと、かように、お答えしておきました』
『すまないすまない。じじ、かんべんしてくれやい』
厩の横の白梅が、氷の粒みたいに、夜空に滲みを描いていた。つんと、冷たい梅の香気にも衝かれて、清盛は顔を皺めた。……そして、涙が、木工助の肩へこぼれた。
いつのまにか、清盛は、じじの肩に、抱きついていたのである。木工助は、主君の子にそうされて、恐懼にかたくなっていた。だが、枯木のようなかれの肋骨の下にも、やがて烈しい感情が波打っていた。性来、泣き虫で多情な清盛の熱いものと、日ごろから、包みにつつみ、抑えにおさえていた老骨の中のものとが、弾みを得て、どっと、どっちも理性を破って、一しょに嗚咽し出した。ついには、声をあげて、ひとつ体みたいに、抱き縒れたまま、地へ、すわってしまった。
『わ、和子様よ。あなたは……あなたは、このじじを、さまで、お力に思ってくださいますか』
『あったかいのだ。木工爺よ。おまえの、体だけが、おれには、あったかい。――おれは、ひとりぼっちの寒鴉だ。……母は、あんなだし、父上も、ちがっていた。おれは、平ノ忠盛の、ほんとの子ではなかったそうだ』
『げっ。和子様。あなたは、そ、そんなことを、だれに、お聞きになりましたぞ』
『おれは、初めて、父の秘密を知った。……遠藤武者盛遠から、今夜、初めて、聞かされた』
『あ。……あの、盛遠が』
『盛遠が、たしかにいったぞ。聞けよ、伊勢ノ平太、わぬしの、真の父は、スガ目殿ではない。さきの白河上皇こそ、生みの父御だ。天皇の子とも生まれながら、すき腹かかえて、その布直垂と切れ草履はなんのざまだ……と』
『おっ、仰っしゃいますな。そのことは』
その口を塞ごうとでもするように、木工助は、手を振りうごかした。清盛は、じじの手くびを、顔の前から捻じ退けて、
『まだある。それだけではない、じじ、おまえは、知っているはずだぞ。なぜ、きょうまでおれに秘していたか』
はったと、清盛は、大きな眼で睨めつけた。腕くびの痛さと、その眼光に、木工助は、がくがく、骨からふるえが出た。――が、かれもまた、必死を、声にしぼり出した。
『ま、ま……。お心をおしずめなされい。その儀なら木工助からも、あらためて、お話し申さいでは成りませぬ。……あの武者所の盛遠が、なんと、語りまいたかは、存じませねど』
『いや。盛遠は、こうもいうのだ。……もし、わぬしが、白河の御子でないならば、八坂の悪僧なにがしの子にちがいない。天皇の子か、悪僧の子胤か。いずれにせよ、忠盛のほんとの子でないことだけは、明白だと』
『な、なにを、盛遠ごとき青二才の、知ったことでございましょうぞ。少々ばかりな学才を鼻にかけ、人をみな愚物に見、自分の行いと来ては、ならず者同様な男と、みなが申しおりますわい。……あんな狷介な者のことばを、やすやす、お信じあそばす和子様も軽がるしい』
『じゃあ、じじ。おまえこそ、証拠だてて、いってみい。この平太は、白河の子なのか、悪僧のたねなのか。さ、どっちだ。いえっ、いってみろ』
知らぬとはいわさぬぞという語気である。事実、この真相を知悉している者は、他人では、かれ以外にないことを、正直なじじ自身は、もう顔いろに、ありありと、自白していた。
平太清盛が、産まれたのは、元永の元年である。父忠盛は、二十三歳であった。
近ごろでこそ、スガ目殿だの、貧乏平氏のと、地下人の代名詞にされ、同族の親類にまで、小ばかにされているけれど、かれとて、以前からこんなだったわけではない。
祖父正盛は、白河、堀河、鳥羽の三朝につかえ、
(分を知り、ものの役にもたつ侍)
と、主上の御信任はあつかった。その子忠盛も、華やかな中に成長し、そして、一時大いに用いられた源義家以下の源氏武者の退潮に代って、平氏系の武人が、あちこちのいなかから、ぼつぼつ中央に登用される契機をなしたのも、実に、この父子の代であった。
白河上皇は、気にくわぬ源氏系人物を、しりぞける道具として、正盛父子を、登用した。また、僧団の武力にも対抗させて、内には、藤原氏を掣肘するにらみにつかった。――そして、退位の後も、政権をもたれ、いわゆる「院政」の端をここにひらいたものだった。
だが、この畸形な院政の新制度と、白河直裁の人事は、たちまち、朝廷と院の対立を生み始めた。また、それが二重の因となって、このころからようやく、
源氏・対・平家。
の対立も、地方武士間にまで、広がって行った。源氏か平家か。いずれかに拠らなければ、時流に乗れないという思潮が、ぼつぼつ興り出していたのである。
(理由なく、源氏に拠り、平氏へ奔り、みだりに、武威をなすべからず)
などという入党禁止令も出たが、ほとんど、効はなかった。
正盛の亡きあとは、息子の忠盛が、あとをついだ。白河上皇は、気のおけない忠盛を、正盛以上、重宝におもわれた。
たとえば、こんな一例もある。
院のお住居は、三条西ノ洞院にあったが、そこからおりおり――きまって夜、加茂をわたって、祇園まで、おしのびになった。
供は、いつも、ただふたり。
武者所の忠盛と、その郎党、木工助家貞と、きまっている。
もちろん、おしのびは、ある女性の許へ、であった。上皇はすでに、六十路におちかいけれど、そのみちにかけては、なみなみならぬ御好色であったらしい。お年にめげぬお元気さは、政治方面における絶倫な御精力にも、あらわれていた。
ことには。――時代の風習からも、上皇が、愛人を外にかくまって、ときたま、お通いになるからといって、時人は、べつに異とも何ともしてはいない。男が、女の寝屋へ通うのは、むしろ上古の純風で、奈良朝や平安朝の宮人たちが、みな、行っていたことである。親王でも、関白でも、大臣たちでも、その程度の忍びごとは、なにもそう非人格的であったり、名誉にかかわる問題とはしていなかった。
けれど、上皇のおしのびには、ないない、世間をはばかられるわけが、べつにあった。
――というのは、その寵姫が、どうも、身分の低い女性であったことによるものらしい。
白拍子という名称は、ごく近年、聞こえだしたものであるが、かの女は、その白拍子のひとりだった。貴人の邸に招かれて、伎楽、管絃の興をそえる特種な妓は、遠い以前からあったけれど、近ごろ、たて烏帽子に白い水干を着、さや巻の太刀などさして、朗詠をうたいながら、男舞を余興にすることが流行となってから――遊君、遊女の一派として、白拍子なる一階級が、新たに、世相にうかび出している。
上皇が、どこでかの女と馴染まれたかは、よくわからないが、世間へは、中御門家の息女とふれて、八坂のほとりに、清洒な桧垣をめぐらした一と構えができ、さる白拍子あがりの佳人が、そっと匿まわれて来たことは、院の側近四、五名だけは、早くから知っていた。
その人びとの間では、かりにその女性を、祇園女御とよんでいた。女御、更衣は、宮中の称呼なので、わざと、地の名をつけてよび、世間には、退官の寵姫のように、見せつくろっていたのである。
祇園女御。――この女性こそ、後の清盛の母であった。かの女はたしかに、清盛を産んだ。それだけはまちがいない。
けれど。……父は?
父は、たれ?
――となると、かの女以外に、この秘密は、所詮、解けないなぞとなってしまう。
どうして、そんな単純なことを、なぞと考えなければならないのか。生まれて、二十年もの後、その子清盛をして、悩乱せしめなければならないのか。そのこと自体のほうが、よほど、ふしぎといってよい。
だが、こういうあやしい禍因をつくるものの素地は、やはりそのころの時代が持っていたものであろう。優雅と繊細を極めた平安朝芸術にくるまれた貴族生活の“陰翳の美”が自然に宿す黴の一つというほかはない。だから、幾世紀ものあいだを、貴族の中で送ってきた人びとの風習と性道徳にすれば、べつに奇とするほどなことでもなかったかも知れないのである。
* * *
寒ざむと、木の葉まじりの夜時雨が、しとどな音を、道のぬかるみにも、小川や森の上にも、立てていた。
初冬の、そんな晩でも、上皇は、供の忠盛、家貞をつれて、祇園女御の家へ、通って来られた。
すると。木の間に、赤い火のゆれと、人影が見えた。上皇は、すくみ立って、叫ばれた。
『やっ。悪鬼?』
――まるで、針の蓑を着たような、大頭の怪物が、かっと、こっちへ向いて、口を開いたかのように見えたのである。
『忠盛忠盛。斬りすてい』
上皇は、恐怖にみちたお声の下で急きたてた。あっと、木工助家貞がまず答え、忠盛は、長刀を横にひそめて、そこへ馳けた。
だが、すぐこの君臣三人は、大笑いをのこして女御の家の門へ、はいって行った。――怪物と見えたのは、笠の代りに、麦ワラを束ねて被っていた八坂の油つぎ坊主が、灯籠へ灯を入れていたものであった。
悪鬼、妖怪、雷神、風神などの実在を、貴族も一般人も、疑わない時代であった。それにしても、よほど、後では、おかしかったとみえて、当夜のおどろきや、雨夜坊主の滑稽さを、上皇自身も、たびたび、側近に語られた。
そのたびにまた、上皇には、かならずそのおりの、忠盛の態度を、賞めちぎった。もし、忠盛が、臆病者であったら、かならず過って、罪もない坊主を斬り殺していたにちがいない。剛胆、沈着、武者たる者は、よろしくかれの如きであれ――と、いうのである。
ところが、暇の多い公卿たちは、得意の臆測をもてあそんで、
『はて。院のおはなしも、どこまでが、ほんとやら、どうも、正味には受けとれぬ』
と、陰ではいった。
理由を、いわせてみると――
『第一、あの夜以来、上皇は、祇園女御の許へ、ふっつり、お通いを絶っておしまいなされた。第二には、そのおりの功として、祇園女御を、忠盛の妻に、あっさり、お与えなされてしまったが、これもおかしい。……第三には、女御を賜わった当人の忠盛は、あれ以来、怏々と楽しまない顔つきだし、また、かれ自身は、雨夜坊主のはなしなど、一言も、ひとに話したためしがない』
『なるほど……?』
だれもが、変に思い出した。しかもまた、疑惑を、裏書きする事実も加わってきた。上皇から忠盛へ賜わって、今出川のかれのやしきへ、妻として、輿入れした祇園女御が、忠盛との同棲も、まだ十ヵ月に足らないうちに、男の子を、産んだといううわさなのだ。
『やはり、雨夜坊主の件は、上皇のつくり話じゃよ。あれは表面のことでしかない』
『では、その裏は?』
好奇な眼も、おたがい、そこまでは、触れあわなかった。かれらの良識としても、また、つきつめて行けば、問題は極めて重大なものにぶつかるという保身のおそれからも、ただ眼をほそめて、にんまりと、笑みすましておくことが、堂上生活では、賢明とされていた。
同じ、院の武者所に、遠藤光遠というのがいる。かれは、同姓の武者盛遠の叔父にあたる男だった。
――もうあれから十八年も後になってのことだが、
『忠盛の長男、伊勢ノ平太は、そちと、学友だっけな』
と、前おきして、ある日、こんな秘事を、甥にはなした。
『むかし、上皇が愛された祇園女御を妻にいただいた忠盛は、今でも、あの女性が、月満たずに生んだ子を――平太清盛を――心から、上皇のおん胤と、思いこんでおるのかしらて。……そうだとしたら、あわれな者だ。実は、つい先ごろ、むかし、祇園女御と密通していたという男におれは出会った。もう年ごろ、五十ぢかいが、なお八坂の古寺に住み、八坂の覚然といえば、名うてな悪僧じゃそうな。それが、真の、清盛の父親だと、自分でいっておるのだからな』
『えっ。ほんとですか』親しい学友でもあるし、うわさには、白河の落胤らしいともいわれている友の秘密だけに、盛遠は、興味をもって叔父へ問い返した。
『叔父上は、覚然とやらいう男自身の口から、それをお聞き及びでござりましたか』
『酒の上だが、さる場所でな。……その覚然が、さも得意気に、もらしていたのをこの耳で聞いたのじゃ』
『意外ですな。実に』
『わしも、おどろいたが、悪僧とはいえ、さまでのうそは申すまい。……はなしのつじつまも、合うておるし』
雨夜坊主の覚然から、光遠が聞いたというはなしは、もっと詳しかった。
八坂の覚然は、祇園女御を、ふと垣間みて、欲情に駆られた。だが、上皇の思い者なので、たやすく近づけないでいた。この桧垣の家を中心に、上皇は下淫を愛し、かれは上淫に妄執していたかたちだった。朝に夕につけまわし、覚然はついに悪僧の本領をあらわして、暴力による思いをとげてしまった。
上皇は、まれにしか、お通いにならない。覚然の寺とは、目と鼻のあいだである。しかも上皇は、六十路に近いお年だし、覚然はそのころまだ三十代の僧侶で、しかも美僧であったという。祇園女御が、こころと、肉体との、二つの本能に立ち迷いつつ、夜をかさねるごとに、どっちへ、愛情をひかれて行ったかは、いうまでもない。
そのうちに、時雨の一夜。
このような雨夜に、上皇のお通いもあるはずはなし――と、心をゆるして、祇園女御の門へ合図をして忍びかけていたところを、あいにくと来あわせた上皇に見とがめられ、扈従の武者に、捕まり損ね、覚然は、一生に一度の生命びろいをして、虎口をのがれたというのである。
これを、覚然の出たらめでないとすれば、それから後、忠盛の家で、月満たずに産まれた子は、だれの子とするのが正しいか――となる。
光遠は、甥の盛遠に、以上のことを、話したものの、その後では、
『この秘事。めったに、ひとには、口外すなよ』
と、かたく口どめした。
盛遠も、きょうまでは、たれにももらしたことはない。だがたまたま、塩小路で久しぶりに、見すぼらしい平太清盛のすがたを見るにおよび、何か、つつんでいられなくなったのだ。
――一面には、大いに、かれを鼓舞してやろうという、盛遠らしい気分も手伝い、わざわざ酒を飲みにさそって、かれにささやいたものだった。
* * *
『じじ。これ、木工助。……おれはもう知ってしまったぞ。秘しても、むだなことだ。……むかし、二十年前、時雨の夜に、おまえは、その眼で見ていたはずだ。盛遠のはなしは、うそか、真か。――いや、おれはいったい、たれの子なのか。いってくれい。……木工じじ。……明らさまに、この平太清盛へ、いい渡してくれやい。そ、そのうえで、おれはおれの血を考え、生涯のあゆみを決めねばならぬ。……頼む。いまはもう、こう、手をついて、おれは頼む』
さっきから、厩の蔭での声であった。しかし、それが止むと、水洟をすするのがもれるだけで、木工助家貞の声とては、一言も聞こえなかった。――すでに、軒ばの梅のほのかな気はいに、東の雲のゆるぎが感じられ、一しきり、夜明けの寒さが、ひしと、ふたりの骨をかんでいた。
うつ向いたまま、化石したかのような木工助家貞と。そのかれを、にらみつめている清盛と。――ふたりは、鳥肌になっていた。暁の地の冷えに反して、相互の血は、その皮膚の下で、たぎりあっていた。
『申しまする。どうしても、いえとの仰せならば、申しまする。……が、しばらく、心を調えてから、申しまする』
――やがて、木工助は、苦汁を吐くように、そう答えた。いや、うめいたといったほうがよい。それほど、語るには苦しい事情でもあるらしい。
が、その木工助を、清盛が責めてやまないのも、無理はなかった。たしかに、かれは、清盛が生まれた年の――二十年前の――暗い祇園の夜時雨の中で起こったある一事件を、その眼で見ていたはずの人間である。
当夜、主人忠盛とともに、上皇のお微行に扈従して、偶然、そのときに居合わせた者なのだ。ただひとりの目撃者として。
だが、第三者が、目で見たとする記憶などが、世事百般に、どれほどな真実性を、真実だとして、後のちにまで、断言し切れるだろうか。ことに、二十年も前のやみ夜のことなどが――。
木工助も今、同じ迷いを持った。自分の目撃も、解釈のしようで、どうにでも、動くことを、新たに、思いかえさずにいられない。
なるほど、半分ぐらいな“ほんと”は交じっているかもしれない。しかし、おせっかいな遠藤盛遠やら、世上でも語りつたえている――雨夜の油坊主と忠盛の沈勇――と称する一事件は、まったく、木工助の目撃とはちがっている。かれの記憶では、その夜、上皇の訪れとともに、祇園女御が住む所の垣を越えて、内から雨のやみへと、あわてて逃げ出したひとりの怪僧を見ただけのことにすぎないのである。
それと。――その夜は、上皇と女御との、おん睦みも、常でなく、何やら、女御の泣き声がもれたり、忠盛が奥へ召されたり、上皇のあらあらしいお声などもあって、暁もまたず、院へお帰りになってしまったのが――異例なことでもあったし、いぶかしいといえば、いぶかしいことでもあった。
けれど。
世上つたえられてきた油坊主の怪談が、その程度に、訂正されたところで、ことの真相には、何を加えるものではあるまい。――その年、忠盛へ嫁して、忠盛のやしきで、祇園女御が産みおとした男の子が、真実――たれの子なのか? ――という究極のなぞには、何のかぎともならないからだ。
帰するところ、その祇園女御の腹から出たことだけはたしかな――子の清盛が、いま、やっ起に、知ろうとしているかんじんな焦点は、どう木工助を責めても、かれの口から解かれ出るすべもなく、かれもまた、主家の血液の秘密にたいし、それ以上な臆測を加えることはできなかった。この問題の秘裏に立ち入って、それをなぞと考えてみるだけでも、郎党たる身にとっては、主家への反逆のように思えて、そらおそろしいことだったにはちがいない。
やっと、やや泣きじゃくりを収めた疳持の子のように、やがて清盛は、じじの木工助にかい抱かれて、やしきの内の暗い寝屋へはいっていた。
『さ。よう、お寝みなされませ。大殿のてまえは、朝となって、木工助が、よいようにしておきまするで。……お案じのう』
まるで、わが子へするように、木工助は、木まくらをそこへおいたり、衾を被せて、そしてまた、清盛の寝顔のそばへ、ひざまずいた。
『もう、もう……。さきほどのようなお悩みは、ふっつり、夢の中へ、忘れはてておしまいなされい。たとえ、真の父御が、たれであろうと、和子様だけは、まちがいなく、一個の男の児ではおわさぬか。手も脚も、片輪じゃおざらぬ。こころを太ぶとと、おもちなされい。天地を父母とお思いなされや。のう……それで、よいでは御座りませぬかや』
『じじ。うるさいよ。……もう去ねやい。おれも、考えないで、眠るから』
『おお、さすがは、さすがは。それでじじも安堵いたしましたわい。……では』
木工助は、もいちど、かれの寝顔へ礼儀をして、あとへいざった。そして、室の外から、そろりと、帳を垂れて、立ち去った。
――それから、どれくらいな時間を、熟睡したことか。
何しろ、寝たとなれば、いつも、正体なしの、清盛だった。
『……兄者人。……兄者人』
たれかに、ゆり起こされて、清盛は、しぶい瞼を、やっとあけた。小蔀の陽ざしでは、もう午ちかいように思える。
弟の、経盛であった。
兄のずぼらとちがって、公卿の子みたいに、神経質なその弟が、一そう深刻そうなまゆを近よせて、さっきから、起こしていたらしいのだ。
『ちょっと、来てください。……兄者人のことで、また、父上と母上が』
『なに。おれのことで、どうしたって』
『けさほどから、いさかいが始まって、午のお食事もそっちのけです。いつ果てるとも見えません』
『また、おふたりの夫婦喧嘩か。……なアんだ、めずらしくもない』
清盛は、わざと、不逞な大あくびを見せながら、両手を、伸びるだけ突っ張って、いった。
『ほッとけやい。めずらしくもない。おれは知らん』
『いけない、いけません、兄者人。あなたのことが因ですもの。下の小さい弟たちも、さっきから、腹が減った減ったと、あのように、泣いてばかりいるし』
『木工助は』
『じじも、さきほど、呼びつけられ、なんだか、母上に、ぎゅうぎゅう、取っちめられている容子ですよ』
『よしッ……。行ってやる』
いきなり、はね起きて、気の小さい弟の眼を嘲りながら、清盛は、顎のさきで。
『おれの、直垂をよこせ、直垂を』
『着ていらっしゃいますよ。御ふだん着は』
『あ。着たままで、寝ていたのか』
かれは腹帯から、ゆうべの遣い残りを取り出して、弟の顔のさきへ、つきつけた。
『この銭で、小さい弟たちへ、何か買って食わせてやれ。若党の平六でも走らせればよい』
『買い食いなどさせたら、あとで母上に、どんなにしかられるかしれません』
『かまわぬ。おれがさせるのだ』
『いくら、兄者人の、おことばでも』
『ばか。総領だぞ、この平太は、――おれのいいつけも、すこしはきけい。きいても、いいんだぞ』
弟のひざへ、銭を投げて、清盛の足音は、どすん、どすん、縁を踏み渡って行った。厨にちかい井戸屋根の下に立ち、くみあげた水を、がぼがぼと飲む。そして、顔を洗い、その顔を、布直垂のきたないそでで、こすりこすり、庭をななめに歩いて行った。
父のいる一棟は、荒れ御堂といってもよい。枯れ野みたいな庭の向こうにあった。清盛は、そこの破れ縁を上がった。そして、蔀の蔭から、おそるおそる中へすべり込んだ。
『ゆうべは、おそくなって、すみませんでした。お使いは、いたして参りました』
チラと、かれの影がさしたとたんに、ここの座にいた三人の沈黙は、すぐそれぞれの眼となって、かれの方へ向けられた。
――中でひとり、木工助だけは、急いで、眼をふせてしまった。清盛もまた、かれの姿から眼をそらした。ここで相見るに堪えない気もちが、ふと、ふたりの胸をかすめたのだった。
――が、清盛は、強いて、恬として、父へも母へも、虚勢を示しながら、また少しひざをすすめた。そして、叔父の忠正から借りてきた金を、無造作に、さし出した。
『堀川から拝借してきたお金です。すこし足りませんが、実は、友だちに会って、費いました。それから、小さい弟どもが、飢もじがっているので、経盛へも、少々、持たせました。残りが、これだけで……』
いいも終らぬうち、父忠盛の顔は、なんともいえないものに変った。自身を、恥じるような、あわれむような、また、堪えがたい憤怒の火でもどこかにつつむかのようであった。――ふと、わずかな金をそこに見たすが目の片方は、涙をためた瞼の引っつれを、常よりも醜いものにして、幾たびも、しばたたいた。
『……平太。そんなもの、おしまいなさい。なんですか! 座につくなり、おかねなど、ならべちらして』
泰子はかたく、良人と対峙のすがたを持ったまま、いやしむように、眼のすみから、子の清盛をしかりつけた。
祇園女御という名は、忠盛へ嫁ぐ前までのことで、中御門家の一女泰子として、籍は、この家に、移されていたのである。
母の横顔を見ると、清盛は、ゆうべからのものが、むらと、体に燃えてきた。
『なんですって、母上。それほど、いらない物なら、なぜわたくしを、堀川の叔父のところへなど、こじきみたいに、借りにやったのですか』
『おだまり。いつ母が、そなたを、そんな使いにやりましたか。それは、父上のおさしずでしょうが』
『でも。……でも、このおかねは、貧しいわが家の家計につかう物ではありませんか。母上だって、救われるのでしょうが』
『いいえ』と、泰子は、四十ちかい容色とはどうしても見えないほどみずみずしい顔をきつく振って――『いやなことです。わたくしは、そんな浅ましいお救いには、あずかりませぬ』
『じゃあ、母上は、食べないでいますか。あしたから、食べませんか』
清盛は、大きな耳たぶを、赤くした。撲りもしかねない眼つきである。両の拳は、そのひざの上に、わなわなと、ふるえを示していた。
『ええ、食べませんとも。……清盛よ。オオ、うしろに、経盛も来ておいでだの。ふたりとも、お聞きなさい。和御前たちには、不びんではあるが、母は、きょう限り、忠盛どのに、お暇をいただいたぞや。――忠盛どのとも、今からは、妻でもなし、良人でもない。男の子は男親につくのがならわし、お身たちとも、これきりと思うて給も。……ホホホホ。悲しいことは露ほどもなかろ。お身たちはみな、日ごろから、そろいもそろうて、男親の肩持ちじゃもののう』
清盛は、そういう母のすがたに、いま、気がついた。
母の泰子は、病人のはずなのに、いつ癒ったのか、または病を冒して、起きてしまったのか、盛装しているのであった。
例によって、高価な白粉を、惜気もなく厚く用い、髪には、香料をしのばせ、まゆを、ぼうと描いて、袿衣も二十歳台の女性が着るような、あでやかなのを、着すべらせている。
(これは、ただごとではない。いつもの喧嘩とは、すこしちがう)
母のよくいう――別れる、出て行く――は毎度のことで、良人も子どもらも、驚かないことにきめているが、それはいつも、争いのさいごに出る脅迫で、こう冷静に、初めから身支度までして、いい出しているのは、見たことがない。
それと、父の忠盛も、すでにかの女の要求に、承認を与えているような風が見える。清盛は、急に、狼狽を感じた。憎みながら、憎い母が、自分のからだと一つものだったことが、血のなかで、響きをたてた。
『ち、父上っ』――うろたえの眼を、向けかえて、こんどは、父へ、にじり寄った。
『ほんとですか。いま、母上が仰っしゃったおことばは』
『ほんとだ。……そちたちには、長いあいだ、悲しませたが、ほんとだから、これからは、よかろう』
『ど、どうして……』清盛は、鼻をつまらせた。うしろへ来ていた弟の経盛が、きゅうっと、喉の奥で、へんな泣き声をのんだからである。
『いけません、父上。……今さら、こんな大勢な兄弟どもを、つくりながら』
清盛が父の自分へ向かって、意見をいった。忠盛には、それも、おかしかったろうし、いい方も、いかにも、子供のいい分らしく、稚気に聞こえたものとみえ、思わず、顔をほころばしてしまった。
『はははは、平太。……よいのじゃよ。これでよいのだ』
『何が、よいものですか。いったい、あとは、どうなるんです』
『泰子も、仕合わせになろう。あとの、そちたちも、かえって、好かろうというものだ。べつだんな、騒動ではない、案ずるな』
『いや、経盛が申しますには、何やら、わたくしのことから……と聞きました。もし、平太が悪うござりましたら、どんなにでも、謝ります。母上、小さい弟どもが、かわいそうです。平太も、以後はお心に添うように務めまする。どうか、思いとまってください』
清盛は、詫び入った。この母に、こんなにまで、愛執を感じるのが、口惜しいし、ふしぎでもあったが、単なる感情とはべつなものが、かれをして、狂おしいまで、そうさせた。
郎党の木工助は、かれにも増して、慟哭していた。経盛も泣く。清盛も泣く。――泣かないのは、冷たい夫婦だけだった。
『うるさい。泣くな』と、忠盛は、三人をしかって――
『きょうまでは、子たちのために、何もかも、忍んでは来たが、もう、わしも、わしの愚からさめた。おろかしや、平ノ忠盛も、ひとりの女人に制せられて、二十年の間、われとわが心を煩い通してしもうた。ばかじゃったよ、おれは。――平太、おまえのばかを、おれはしかれん。あははは。アハハハ』
もち前のとり澄まし方に、じっと堪えていた泰子は、忠盛が、自嘲を発すると、むかと、顔に血をうごかして、すぐ反撥して来た。
『なんですか、その笑いかたは。……わたくしを笑ったのでしょう。たんとお笑いなさい。いくらでも、ひとを嘲りちらすがよい。――上皇様が、世にいらっしゃるうちは、いくらあなたでも、こんなにまで、わたくしを辱めることはできなかったでしょうに。……とはいえ、わたくしにはまだ、上皇さまの御在世のときに、里親とおきめくだすった中御門様というものがついておりますよ。覚えていらっしゃるがよい』
『はははは』と、忠盛は、なおさら笑って、
『中御門殿へは、いずれ、御あいさつに出向く。よい女御を、長のあいだ、忠盛ごときへ、お持たせおきくだされたと』
『ようも、悪たいを……』と、かの女は、これをさいごの憎悪として烙き残すような眸で、忠盛をにらんだ。
『あなたこそ、このわたくしに、たくさんな子を産ませながら、ただの一日でも、はればれと、妻のわたくしを、楽しませてくれたことがありますか。……二十年、いやでいやでならなかったのを、ただ、子の愛にひかれて、このやしきにいただけなのです。――ところが、どこから聞いて来たか、平太と郎党の木工助が、夜明け方、廐の蔭で、しきりと、わたくしの陰口をきいているではございませんか。――勿体なくも、亡き上皇さまのおうわさまで出していたのです。やれ、そのころの祇園女御の許へは、夜なよな忍び男が通っていたとか。それは、八坂の悪僧のなにがしであったとか。まるで、見てでもいたように、木工じじもいえば、平太もいいます。あげくの果て、清盛の真の父は、一体たれなのか……などと、正気とも思えぬことをいい狂っているふたりを、わたくしは、この眼とこの耳で、つきとめたうえでの、決心なのです。……もう、こんなやしきには、一日とて、いられません。子どもにまで、反かれて、どうして、いることができるものですか』
『やめよう。やめてくれ。そのはなしは、けさからもうさんざんやりつくした。木工助も呼びつけて、胸いたむまで、やり合った問題だ。果てしがない。よしてくれい』
『では、証をたててください。わたくしの、身の証を』
『だから、さきほども、いったではないか。――平太清盛は、まちがいなく、わしとそなたの、子どもだと』
『平太! 聞きましたか』と、かの女は、するどく見て――『聞きましたか。そこな、郎党の木工助も』
『…………』
『そなたたちは、めっそうもない陰口をいいふらす人びとではある。白河の上皇さまに御寵愛をうけたことは、かくれもないにせよ、八坂の僧を忍び男としていたなどと、もう二十年もむかしの古事を、いったい、たれがいい出したのでしょう。――忠盛どのも、知らぬといい、じじの木工助も、知らぬといい張る。……平太や、そなたはまさか、母のわたくしへ、うそはいわないでしょう。いってごらんなさい、その下手人を』
『わたくしです。そのことなら、だれでもない、この平太です』
『ま。そなたですって。……いやいや、子のそなたが、実の母のわる口を、いい出すはずはありませぬ。そこな、じじであろうが』
『いや、自分にちがいありません。……母上ッ』
『ま。何という眼。その眼は』
『そのことを、糾そうとしては、いけないでしょうか。畜生の子なら、考えもいたしますまい。が、清盛は、かなしいかな、人間の子でした。……ほ、ほ、ほんとの、父親は、たれなのか、どうしても、わたくしは知りたい』
『あらわに、忠盛どのが、今もそなたへ、いったではないか』
『お慈悲です……おことばは。――清盛は、たとえ、ほんとの男親なる者が分かっても、ここにおられる父上を、父以外の者とは決していたしません。……けれど、もうこうなっては、あなた様へは、糾さずにおきません』
清盛は、不意に、かの女のそでを、つかまえた。そして、ゆうべから涙にただれた眼じりを裂いて迫った。
『仰っしゃい。あなたは、知っている。――わたしは、たれの子だ?』
『ア、この子は、気でも狂うたか』
『狂うたかもしれません。父上が、世間に恥じて、こう長い月日、引き籠ったのも、あなたのためだ。あなたは、父上の大事な若い月日を奪った、おそろしい女狐だ』
『なんですッ、母にむかって』
『母ゆえに、平太は無性に、あなたが癪にさわる。あなたが、穢らわしいんだ、いまいましくて』
『あれッ――わたしを、そなたは、どうする気です』
『撲らしてください。父上には、撲れないんだ。二十年もの間、撲れずにいたんだ』
『平太、ばちがあたりますぞ』
『なんの、ばちが』
『今は昔でこそあれ、この泰子は、かりそめにも、白河の君の御愛情に秘めいつくしまれた体ですよ。もし宮中にあれば、后、更衣とも、あがめられたかも知れないのです。それをこんな、あられもない町屋敷へ、妻にと、下賜されて来たことを考えてみたがよい。そのわたくしに、手をあげたり、辱ずかしめたりすることは、取りも直さず、上皇さまへの叛逆です。無礼です。わが子とて、ゆるしは措きませんぞ』
『ば、ばかなッ。上皇が、何だッ』
不意に、体じゅうから出たかれの声が、人びとの耳をしびれるほど打った。いや、そればかりでなく、清盛の手のひらは、ぴしゃッと、母なるかの女のほっぺたを、力まかせに、はたきたおしていた。
『平太様が、気が狂うた』
『物に憑かれたか、和子様が、暴れ出して。――あれ、あの通りじゃ。はやく来い。はやく』
やしき中の、騒動とはなった。
貧しくても、さきには、地方の守まで勤め、院の武者所をも預けられていた忠盛である。食うや食わずも承知のうえで、なお、仕えている家の子郎党は、つねに二、三十人はいた。
中には、木工助家貞のせがれ、平六家長もある。平六は、父の木工助が、けさから奥へ呼びつけられたままなので、庭垣の外に、うずくまり、父の身を案じていたおりだった。そこで、まっ先に、同輩たちを呼びたてながら、ただごとならぬ悲鳴、物音、叱

――が、騒ぎは、一瞬の間であったらしい。
縁の上から転び落ちた泰子は、紅梅の袿衣や、白、青の襲衣も、またその黒髪もふり乱して、大地にうつぶし、どうかしたのか、そのまま起きもしないのである。
また。すこし離れた所には。
清盛が、肩に波を打ちながら、父忠盛に、腕くびをつかまれていた。いかにも、複雑な形相だった。阿修羅の像みたいに、突っ立っている。
そう二つのものの間に、経盛と木工助は、茫然としていたが、召使たちの跫音が、ここへ集まって来るのを知ると、泰子は、蒼白な顔を、地面からきッと上げて、
『お。……誰ぞ、牛車をよんで来て給もれ。……それから、ひとりは、里親の中御門殿まで、走って、この体を告げて給も。くちおしい……くちおしい』
と、叫びつづけた。
すぐ、街の牛車宿へ、ひとりは走り、べつの者は、六条坊門の中御門家へ、馳けた。
忠盛は、黙認していた。
ほどなく、牛車が来る……。半病人のようになって、かの女は、召使の背に負われた。そして、築土の外へ出て行った。
そこでも、ひとしきり、かの女の涙まじりの甲だかい声やら、経盛以下の、小さい子どもらの泣き声が、もつれもつれに聞こえていた。
それに、堪えつつ、忠盛は、清盛の腕くびを、いよいよかたく、にぎりしめたまま、じっと、二本の大木みたいに、立ちつづけていた。
空には、夕月があった。
やがて、牛車の輪音が、にぶく、重く、築土に添った道を、のろのろと、遠のいて行った。……聞こえなくなった。
『平太っ』
と、忠盛は、やっと手を離した。
くびられていた手頸の動脈が、突然、血を放たれて、どっと体じゅうに奔流した。清盛は、こめかみに筋を見せて、泣き出した。赤子のように、手放しで、泣き出した。
そのきたならしい泣き顔を、忠盛は、自分のふところへ抱えこんだ。そしてかれの頭へ、ごしごしと、音のするばかりほおずりを与えた。
『剋った。やっと、わしは、わしの愚に、いま剋った。――平太よ、かんべんせい。彼女を、そちに撲らしたほど、わしは意気地のない親だった。おろかな男親ではあった。……だが、もう今までのような悲しみはさせないぞ。伊勢ノ忠盛の面目を、これからは奮うてみせる。責めるな。そうわしを、泣いて責めるな』
『父上。……わ、わかっています。父上の、お気もちは』
『かくても、そちは、この忠盛を、父とよんでくれるかやい』
『呼びますっ。呼ばしてください。父上っ……。お父さまっ』
『おお、おれの子よ』
『おれの、お父さま』
研がれてきた夕月の下は、藍いあおい夜霞だった。その遠くのほうで、木工助じじが歌うらしい、子守うたが聞こえていた。
ただ単に“仙洞”とも、正しくは“院の御所”ともよばれていた。――三条東のひろい一地域、鳥羽上皇のお住居をである。
本来。上皇とは、皇位を退かれたお方をいうのであるから、院は、御隠居所であるはずだが、白河の御代から、院政というものが始まって、ここにも朝廷とおなじ組織がおかれ、当代ではその政庁化を、一そう、明らかにしていた。
つまり、せまい日本のせまい都に、二つの政府があったわけである。
けれど、春三月、都じゅうの柳が芽をふいて、土の匂いまでが革まると、ここが政治の中核とは思えぬような華やぎだった。宴楽の府、流行の府、恋の府――ともいっても、過言ではない。
院の百官は、季節に浮かされて、政務はとみに、なげうたれた。もっとも、春にかぎったことでなく、夏も秋も、冬もだが、今ごろは特にいけないらしい。春なれや――と、何は措いても、歌のひとつも詠み出ないことには、大宮人といわれる知性人の恥みたいな風潮なのだ。
夜来の雨に、陽は、加茂の小石小石の水陰から、東山のいただきまで、いちどに春を盈ちみなぎらした。いま。さくら御門の枝垂れ桜を擦って、大路の一端へ、さんらんと、揺れ出て行く御幸の御車にも、陽炎が立っていた。
供奉、随身の騎者は、おびただしい。なんとも長い列である。御車をひく牛の、のろい歩調に、総ての足なみがつれて行く。
『上皇さまは、お出まし好きでいらっしゃる』
これは、街の定評だった。
『五月も近いので、加茂の下見に行らっしゃるのであろう。諸国の馬が、たくさんに、上ったからの』
まだら牛がひく御車の簾は、わざと高だかと巻かれてあった。おん年三十六、七、色浅ぐろく、ほお肉のうすい、かなつぼ眼の貴人が、むッつり、唇をむすんで、内座いっぱいにすわっておられた。
鳥羽上皇である。
街の男女は、上皇をたびたびお見上げしていたが、上皇には、通るたびに、街が、物珍らにお見えらしい。眸だけが、ひんぱんに、左右へうごいた。ときには、何かへお眼をとめて、ホホ笑まれたりされるのだった。――と知ると、道ばたの庶民も、上皇の視線の先をさぐって、一しょに笑い合った。――そういう親しみを、不敬とよんで、庶民に土下座を強いたのは、もっと後世の風習である。武将が政権をにぎってからのことだ。武門の威光とか警戒などを、かりにも、ゆるがせにできないような世相人心を、みずからつくりあげたときに、必然、興った制度だった。――当時、朝廷と院政との、二元政治の変則を見たほど、世はすでに、紊れの端緒をみせていたが、まだちまたには、こんなある日の春風も流れてはいたのである。
右近の馬場の桜も、けさあたりを、艶な盛りとして、夕方には、もう散りそめるのではないか。ま昼の馬場いちめん、草萌えの香いも手つだい、咽せるばかりな花の肉感が、そよ風のたびに、顔をなでてくる。
『そうか。和殿の眼も、あれと見たか。――この春、諸国の牧から上って来た四、五十頭のうちでも、まず、あの青毛の四歳駒に及ぶ逸駿はない。こう見ていても、ほれぼれする』
源ノ渡は、大きな発見でもしたように、くり返していっていた。――さっきから、馬場の埓内へ、眼もはなたずに。
この馬囲いには、たくさんな若駒が、つながれていた。
『乗りたいな。無性に、乗りたくなる。――乗り味のよさが思われてくるのだ。堪らない名馬ではある。あの後脚からさんずにかけての、体づくりといったらない』
果ては、ひとり言にいう。
ふたりは、埓の外の、大きな桜の木の根もとに、ひざを抱え合っていた。――が、もひとりの、佐藤義清のほうは、かれほどな馬好きでないらしい。返辞は、微笑だけだった。
『義清。――和殿は、そんな気がしてこないか』
『……とは、どういう?』
『加茂の晴れの日に、あの青毛の背で、勝ち鞭をあげ、満場の凱歌につつまれたらと』
『思わぬなあ。……そんなことは』
『思わない?』
『名馬とわかれば、自分には、なお縁がないと、思うだけだ。馬がよくても、騎乗が悪くてはの』
『それや、謙譲というよりは、虚偽に聞こえる。和殿に乗りこなせないはずはない。いや、おたがい、鳥羽院の随身たり、武者所の侍ともある者がよ』
『はははは。渡、それは、はなしが違う』
『何が、違う』
『おん身は、競馬をいっているのだろう。五月の加茂の、くらべ馬にと』
『もちろん。――ここの若駒は、みなその日のために祝されている駒だ』
『――が、わしは競馬はきらいでな。車駕の御供に、随身として、乗るならべつだが』
『いざ、合戦の日には』
『ねがわくば、戦には、会いたくない。近ごろ、武人の身を、悔いることしきりなのだ』
『ふム……』と、不審そうな眼を、友の顔にこらして、
『北面の中でも、わけて勇猛と聞こえのある、佐藤兵衛尉義清の口から、いままでにない言葉を聞く。どうかしたのか。おい』
『どうもせぬよ』
『恋でも……』
『恋も、してみないことではないさ。それが今の妻だ。あの妻で不足はない。……が、実をいえば、数日前、この春の曙に、玉のような、子が生まれた。わしも父になったのだ』
『おれたち、武者輩でも、おのおの、家庭をもてば、子どもも生む。それが、なんのふしぎか』
『そうだ。実に、子だくさんがそろっている。そして、生みうみするものを、よくもまた、あわれとも、思わぬのが、ふしぎでならぬ』
『あははは。どうかしておるぞ、きょうの和殿は』
渡は、哄笑した。笑い放したかたちで、また、馬囲いの方へ、眼をやった。――と、そこの柵から、こっちへ出て来る伊勢平太清盛と、遠藤武者盛遠の顔が見えた。かなたのふたりも、ここのふたりに気がついたらしい。清盛の赤ら顔が笑っている。渡は、手をあげてさし招いた。かれなら馬好きと、見たからである。
すぐ、やって来た。――清盛だけが。
やあ、ここにか、と清盛はふたりのなかに割りこんで、ともに、草の上へまろびあった。
いずれも、ある期間を、勧学院で学んだ学生仲間である。清盛からすれば、源ノ渡は、五年も上級だったし、佐藤義清も、二ツ上。ここにはいないが、遠藤盛遠が、ちょうど、その間という年ごろの集まりであった。院の武者所では、自然、これら二十歳台の思想的な結合が、同僚のよしみ以上に、次の世代を意識の奥で約していた。骨たくましく、夢大きく、ひそかに未来を、自負しあっている輩なのだ。
勧学院は、もともと藤家の子弟のための大学だったが、武家の子でも、四位以上の家がらなら、入学はゆるされた。しかし学内でも、卒業後も、貴族の公達と、地下人の息子とは、学科から待遇にまで、差別があった。当然、ふたつのものは、水と油だった。
(なまじ、地下人の息子どもに、学問などかじらせたところで、なんになろう……)と、蔑視する一方と、
(いまにみろ。今に……)と現状組織のもとに、胆をなめて、無念を次代に托している組と――。これは、かれらの親同士もまた、暗々裡に抱いている通りなものの縮図だった。
中でも。
清盛などは、野性、貧乏、学力不足など、地下人的な特性を、もっとも、身にそろえていた方だから、公卿の子弟には、よく小ばかにされていた。しかし、妙に仲間からは、愛された。
勧学院を出ると、さらに最高学府の淳和院がある。だが、武家の子は武芸が専攻だという理由で、そこへは入学がゆるされない。清盛も、あとは、ほかの連中と同じように、兵部省に兵籍をおき、やがて、院の武者所へはいった。そして一応、勤めてはいたものの、父忠盛は、長年の籠居だし、母はあの通りであったので、持ちまえの懶惰とずぼらを伸ばすには、そこの勤めも、かっこうな温床だった。
ところが。例の、母の問題が、かたづいてから、忠盛は何か翻然とちがって来た。生活をあらためようとするらしく、
(おれも、まだ四十台。おまえは、まだまだこれからの二十歳。世の有り様も、このままではすむまい。気をそろえて、やり直そう)
と、あれから間もなく、院へも、出仕し始めている。そして、父子ともに、近ごろはまったく別人のように、からっと明るくなって、人びとに伍していた。
『盛遠は、来ないのか。……遠藤も、見えたようだが』
『うム。……なんだか、あっちへ行ってしまった。呼ぼうか、ここへ』
『いや、よせよせ。なぜか、盛遠めは、近ごろ、おれに会うと、顔をそむける。それよりは、平太、見て来たか――』と、渡は、馬囲いの方を指さして、さっそく、かれの意見をたたいた。『……貴様は、どう見たか、あの青毛の四歳を。どうだ、あの駿馬は。すばらしいものだろうが』
清盛は、ふんと、鼻を鳴らした。次には、すこし唇をひン曲げて、首を振った。
『あの青毛か。……あれはいけないよ。あれはだめだ』
『え。どうして。……なぜ、あの名馬が』
『いくら名馬でも、惜しいかな、四白だもの。――馬相からいっても、四白は、凶馬の相としてある』
あぶみを踏まえても、馬相の眼識にかけても、渡は、人後に落ちないつもりだ。
が今、清盛から、四白だぞ、と注意されると、ちょっと、ぎょっとした顔いろだった。
四白というのは、鹿毛、栗毛をとわず、馬の四つ脚の蹄から脛に、そろって、白い毛なみを持っている特徴をいうのである。ごくまれにしかないが、あれば、不吉だと、むかしからいわれている。
――はて。そいつは、気づかなかった。
渡は、あきらかに、動揺をつつんだ。が、年下の清盛に、しかも馬相のことなどで、教えられたかのようなのは心外であった。佐藤義清が、ニヤニヤ聞いているてまえからも――だ。
『なに、四白では、だめだと。アハハハ。……それでは、武者は、スガ目、あばた、赤鼻などでは、皆だめか』
『おい。なんぼなんでも、おれの父を、馬のひきあいに出すのは、ひどかろう』
『だが、貴様までが、青公卿みたいな迷信をいうからだ。陽あたりのわるい堂上では、ややもすると、物の怪だとか、穢れだとか、やれ吉瑞の凶兆のと、のべつ他愛ないおびえの中で暮しているが、おれたち、陽あたりのいい土壌の若者には、そんな迷信など、とるにも足らん。……不吉というのは、むかし、そんな馬を飼った公卿が、長い顎でもかみつかれたか、腰の骨でもくだいたことから、いい始めたにちがいない』
渡は、必要以上に、抗弁したあげく、
『――よい方の例をあげようか。いまは罷めたが、検非違使をしていた源ノ為義。知ってるだろう。大治五年、あの人が、延暦寺堂衆の鎮圧にのり出したとき、四白の栗毛にのっていた。相模栗毛とよんで、人も知るかれの愛馬だ。――また、さきのおととし、鳥羽の院と、待賢門院さまも、お臨みで、神泉苑の競べ馬に、下毛野の兼近が、見事な勝をとったのも、たしか、四白の鹿毛であったわ』
『わかったよ。何も、迷信を持って、名馬に非ずと、いったのではない』
『おれは一番、あの青毛で、五月の加茂に、名をなしてみたいと野望しているのだが』
『ア、それで、怒ったのか』
『怒りはしない。迷信を嗤ったのだ。いや、迷信があるのは、かえって倖せかもしれぬ。おそらく、あの馬に、乗り人はなかろう』
清盛は、答えなかった。粗大な神経のもちぬしのようで、些事にも、妙に気をやむことのあるかれであった。渡は、かれがいい返辞をしないので、義清の方をふり向いた。――が、義清はさっきから、そんな話にはなんの感興もないように、おりおり、白い斑が、ひら、ひら、と舞ってくる桜の梢を見あげていた。
『あ。……院の御車が、あなたに見えた』
『おう、臨御になられた』
そのとき、あたりで声がした。三人もすぐ突っ起った。そして、右近の馬場の端れまで、他の大勢とともに、御車迎えに、馳けて行った。
和歌の集い、香を嗅く会、また、蹴まり、散楽、すごろく、貝合せ、投扇興。そのうえ四季の物見行楽だの、闘鶏だの、賭け弓だのと、およそ今ほど、遊びごとや賭けごとのさかんなときは、かつてにもない。
飛鳥、奈良のころも、四季のたのしみや、宴会、歌むしろは、ずいぶん、おおらかに、それが天賦の自然生活でもあるように送って来たこの国の人びとではあったが、こう、すべてを遊戯化してはいなかった。
宗教行事、政治儀式、何でもかでも、遊戯化してしまう。遊戯化されないのは、武門の武事だけ――という時風である。
その戦争には、上下一般、内心では恟々としていた。火ダネは、いたるところにある。強大暴慢な僧団の武力。西国、東国から週期的におこる土豪や海賊の叛乱。もっと手近いところでは、朝廷と院と、二つの政府の、対立もある。さらに近ごろ、もっぱらいわれているのは、源氏系武者と、平家系との、同種二党の急激な肥りかたである。極めて、自然な現象みたいに、それはいつのまにか、見えない育ちかたをし始め、全国的に潜勢力を伸ばしあっていた。
(あぶない、地上――)
だれもが、そう観ている。いつをも知れない世の中を感じている。
ところが、そのおそれとは、正比例に、地上は、歓楽的にのみ彩られ、むりにでも享楽しようとする意欲がつよい。――近年、加茂競馬の人出などにも、それが観られた。
競馬は、古い。史には、文武天皇の大宝元年(西暦七〇一年)が始めとみえる。禁廷で、左右の衛府の人びとだけでやったものらしい。それも五月の節会だけに。
ここ数年の競馬流行は、とてもそんなものではない。五月の加茂競馬以外にも、諸所の神社で行われるし、天皇、上皇、妃たちの行幸にあたり、離宮や公卿大臣の第宅でも、私邸競馬がたびたびある。また、路上競馬といって、街中の、二条大路でも催されたことがあるし、野外の行幸先で、ふいに下命によってやる場合もめずらしくない。
十列競馬は、十騎争い。十番競馬は、二騎馳けで、十たびの競走をするのである。馬場は、直線がならわしだった。馬出しから、決勝点の標識まで、まッ直に走ったきりで勝負がつく。――だから、都大路のまん中でも、通行止めさえすれば、できないことはない。
さきの、堀河天皇は、非常な熱心家で、禁門の馬寮には、諸国の逸駿をつながせて楽しまれた。右馬頭、左馬頭らの配下は、この朝に人員も増されたし、役柄も大いにふるった。特に、競馬御料として、二十ヵ所の庄園を諸地方に下付されたのも、それ以来のことである。
ひいて、白河上皇、いまの鳥羽上皇も、その君に、おさおさ劣らぬおすきであった。
――きょう。右近の馬場へ、わざわざ御車をおむけになったのも、能登、加賀、出雲、伯耆、伊予、播磨、下毛野、武蔵などの御料の牧の若駒どもが、加茂の五月をまえに、ぞくぞく都へひかれて来たので、それらを選りすぐって、院の馬寮へ収められる思し召しのためだった。
『忠盛やある』
上皇は、お声をかけた。たくさんな若駒を、一頭一頭熱心に見て来られたのち、扈従の公卿たちの頭を越えて、随身の武者忠盛へ、じきじきに、訊かれたのである。
『ことしは、さして、眼をそばだたすほどな名馬も見えぬの。そちの眼ではどうか』
平伏した忠盛は、わずかに、頭を上げて答えた。
『いえ。ただ一頭は、なかなか優れて見えました』
『一頭は――というか。はての……オオ、下毛野駒の、青毛ではないか』
『おめがねの通りであります』
『あれなら、まろも、つなぎ杭の前で、しばし見とれたが、馬観たちも、公卿どもも、口をそろえてやめよというた。四白とやらは、よくないそうじゃの』
『俗説です。とるにも足らぬ……』いいかけて、忠盛は、なぜ自分はこう自分をあざむけない性分かと、すぐ悔いを覚えたものの――『これほどな馬数にも、あれに勝るは見うけません。容貌、眸、尾長など、名馬の相を、ことごとくそなえたものです』といってしまった。
上皇には、ふたたび迷うお顔つきに見えた。五月には、院の馬で、朝廷方を負かしてやりたいのだ。それには、四白の青毛をと思われたのだが、忌みごとをひどくおそれる貴族的な通有性では、上皇も同じであられた。
『もし、いとど惜しゅう思し召すなら、青毛のみは、院の御門を避けて、忠盛が家の厩に、その日まで、つなぎ置くもよろしゅうございまする。わたくしは、おろかないい伝えなどは、さらさら気にかけませぬ者ゆえ』
忠盛は、公卿たちのてまえと、自分のことばの責任上、そう考えた通りをいった。
『なるほど。それならば、障りもなかろ。そちの手にあずかって、加茂の日までに、脚ならしも、充分にしておくがよい』
――還御となった。
その日の、青毛のうわさは、翌日にはもう、院中にかしましかった。忠盛にこころよからざる公卿は、以前から多いのだ。それはかれが、武者の分際で、ただひとり、昇殿をゆるされているという一事にあった。
たとえひとりの忠盛でも、帝座にまぢかい殿上へ、地下人を上げるなどは、かれらの狭量と排他性がゆるさない。雲上の特権を破壊されると感じたのである。スガ目の伊勢こそは、油断がならぬ。上皇の御きげんをとることに妙を得た者と、そのころから、警戒されていたのだった。
事実、上皇の御信頼は、今にしても、変っていない。
忠盛が、あんなにも長い年月、ろくに出仕もせず、お召しのほかは、節会や式日の参向すら怠って来ながら、このごろやっと、久びさな勤務についても、上皇は、以前どおりな寵遇をかれに示された。そして、かれのことばは、まま、お取上げの栄に会う。
昇殿問題を、わすれていた公卿たちは、きのうの右近の馬場で、また、安からぬひがみや憎みを新たにした。
『いやはや、小うるさいことどもよ。何年たっても、変らぬは、公卿蛙の住む古池ではある』
忠盛は、今出川の屋敷に帰ると、きのうのうちに、ここの厩へ移して来た青毛の前へ立って、その鼻づらをなでながら、馬にいうようにつぶやいた。
『父上。きゃつらの陰口など気にしていたら、とても、都に生きてはいられません。ばかどもよと、嗤っておけばいいでしょう』
『や、平太か。いつ戻った』
『父上のお帰りを見、宿直の日でもありませんので、すぐお後から――』
『おまえも、不快を顔に出すなよ』
『なんの、腹のそこで、いまにみろと、思うだけです。心をもちかえて、出仕しようと仰っしゃった父上のお気もちを、わたくしとて忘れません。……それに、わが家のうちも、なんだかこのごろは、明るくなったし』
『いや、おまえは、さびしかろ。……母に離れて』
『いい出さぬお約束ではありませんか。父上、それはやめましょう。……ところで、青毛のことですが』
『うム、良い馬だな。おまえも、朝夕、地乗りしておけ』
『え。そう思いましたが、実は、同僚の源ノ渡が、どうしても、青毛の調教を、自分に譲ってくれといいます。五月の加茂の当日には、あの青毛を出して、十列の競馬に参加したい。おぬしの父から上皇に奏上してくれい、頼んでくれいと……つきまとって、わたくしへせがむのです』
『渡がか? ……』と考えて――『平太、おまえに、その所願はないのか。他人よりは、おまえに』
『何しろ、四白ですからな。四白でなければ』
清盛の濃いまゆが、ちょっと、まゆに似げない針みたいな神経をよせたのを見、忠盛は、はっとした。このずぼら息子のうちに、親も気づかずにきた一性格があったかと、いま知った思いがしたのである。
『いや、源ノ渡なら、きっと、それくらいな熱望はもつだろう。院の思し召しのほど、いかがあるや、はかられぬが、伺ってみてやろう。おまえに、望みがなくば』
多少、落胆の色はあったが、忠盛は、そういって、郎党たちに、飼糧、手入れの注意など与え、やがて奥の――いまは喧嘩を売ってくる妻もない独り居の灯の下へ――幼い子らをよび寄せて、戯れていた。
数日の後である。院のおゆるしを得た旨を、忠盛は、源ノ渡へ、じかに伝えた。
父のいいつけで、早めに、やしきへ帰った清盛は、青毛の若駒を厩から出して、九条菖蒲小路の渡のやしきまで、ひいて行った。
『見事な、若駒よの。院のであろか、内裏のであろか』
道ゆく人もふり返ったが、清盛は、厄落しにでも行くような気もちなのだ。
渡は、待ちかねていた。みずから、厩も掃除していて、たいへんな歓びかただ。かくもよろこぶかれを、見たこともないほどだった。
『はや、たそがれ。あいにく、妻が出ているが、まあ、飯でも食って行ってくれ。祝いだ。神酒も、一杯』
灯ともるまで、馳走になって、清盛は、指のさきまで、酒気に染まった。
自分のやしきと見くらべて、なんと、この家の清すがとよく調っていることだろう。柱も黒く、べつに調度の飾りとてないが、なんとなくつやがある。去年の暮とかに、妻を娶ったというその新妻のまめやかさの光りかもしれない。――清盛はうらやましい気もちで、ときどき、渡の口から出る女房自慢など聞かされて、やがて、座を辞した。
そして、武者屋敷といえばどこも同じな冠木門の袖垣まで、渡に送られて出て来ると、おりふし、外から戻って来たかれの新妻とばったり出会った。
留守におとずれた客と見て、かの女はすぐ被衣を脱って礼をした。黒髪やら、たもとやらに、焚きこめてある香のふくよかな気が清盛のあいさつをひどく唖らせた。渡は、妻をひきあわせて、
『や。ちょうどよいおりに戻った。平太、見知っておいてくれい。家内だ。――去年まで、上西門院の雑仕に召されていた袈裟ノ前と申すもの』
といった。そしてさっそくにも、すぐ立ち話で、青毛が移厩されてきた歓びを、この新妻に語り分けるのであった。清盛は、人妻ながら、なんとなく、はにかましくて、ろくな口もきけなかった。
菖蒲小路から木辻の暗い道を、かれは、火てったほおと、袈裟御前の面ざしばかり意識しながら、ふらふら戻っていた。世にはあんな佳麗な女性もいたのかと消えない幻影を連れて歩いた。かれのいただく二十歳の春の夜空に、美しい星が一つ、殖えていた。
と、だれなのか、黙って、かれのうしろから、大きく手をまわして背を抱いた者がある。
――賊だな。木辻には、夜な夜な野盗が出るという。清盛は太刀のつかへ、すぐ手をやった。
『平太、棘を立てるなよ。このあいだの宿へ行かないか』
耳もとで、にぶく笑う。なんとそれは、遠藤武者盛遠であった。清盛は、そうと、たしかめ得ても、なお、いぶかりは去らなかった。なんでこんな人も通らぬ京の端を、面をつつんでうろついているのか――と。
『行きたくないか。いつぞやの、六条の遊女宿へ』
盛遠はいった。――行きたいさ、と清盛の胸は一も二もなく反響する。が、心のわからない男だとも深く怪しむ。
『……来いよ。待っていたのだ。たそがれ、わぬしが、青毛をひいて、渡のやしきへ行ったのを見かけたので』
こういうと、盛遠はもうのみこみ顔な足どりだった。何か、この男にはぐいぐいとひかれるような力をかれは感じる。いや、盛遠にあるのではなく、あの板壁と素むしろに住む、売女の肉にあるのかもしれない。清盛は、思わざる僥倖に、待たれたような気がしてきた。
例の、六条洞院裏の遊女宿で、それから、盛遠も飲み、清盛も飲み、淫らな女をあいてに、夜をふかしたことは、この前のときと変りがない。いや、部屋を分かって、女とふたりきりになってからは、清盛は、前より少し大胆になれた。いくらかでも、女と口がきけただけでも、ちがっていた。
『連れは……おれの連れは、どこへ寝たのか』
『あの人?』と、女はくすくす笑った。『あの人は、寝たことなんか、いちどもないんですよ』
『え。じゃあ、帰ったのか』
『いつでも、そんな風なお人。ほんに、何しに来るのやら、気がしれない……』
女はもう眠たいらしい。答えるのも、億劫そうに、清盛の首を、余るほどな力でいきなり抱きしめた。
『おれは帰る。盛遠め、何か、おれを試しているのだ』
清盛は、そこを、飛び出した。宵にもった美しい幻影の道づれは、もうかれについて来なかった。
あくる日。院の武者所に、盛遠は姿を見せなかった。次の日、また次の日も、出仕した様子がない。清盛は、気がかりになった。――それにひきかえ、いつ院中で出会っても、以来、幸福にみちた顔を向こうから先に示してくるのは、袈裟御前の良人、源ノ渡であった。
公卿の邸宅には、どこにもいるが、ここの館にもたくさんな“ヘイライさん”が飼われていた。
ヘイライとは、雑色(下僕・小者)たちが被っている平折の粗末な烏帽子をいうのである。“平礼”と文字では書く。
烏帽子は、階級の標だった。商も農も、諸職も、六位七位の布衣たちも、日常、頭に載っけている。雪隠の中でも載せている。
それは、位階官職の高い者には、まことに都合のよいものだった。頭脳の中身は粗末でも、被り物が、その人間の優位を規定し、上流の生活を、生まれながらに保証していてくれるのである。
だから、ヘイライ階級には、ありがたくもないし、被りたくない物にちがいない。しかし、飼われたる奴隷であるかれらは、主人の館では、除るわけにゆかなかった。
ただ、外へでも出るときは、たちまちそれを、ふところにねじこんで歩いたりはしていた。でも、街の者は、かれらが着ている白い木綿の制服や、その物ごしでも、すぐ、
(あれは、ヘイライさんや)
と、見抜いてしまう。それは分かりきっていながらも、かれらは、街へ出ると、自分の被り物を、邪慳にした。そこでなお、意地わるく、時の人びとは、かれらをよぶに、雑色だの、中間だの、小舎人などといい分ける代りに、ヘイライさんと、総称していた。
『ヘイライさん、ヘイライさん。なんぞ買うておくれんか。花なと、ひもなと……』
六条坊門の中御門家の裏である。そこの雑人門をのぞいて、行商の女たちが、きゃッきゃッと騒いでいた。
ひも売り、花売り、ちまき売りなど、筥や籠を、髪の上に、乗せていた。女たちが、物を頭へのせて歩く習慣は、見なれていた。
『いらないといったら、いらないよ。うるさい阿女たちではある』
『ちまきは、どうやの、きょうは端午、五月のお節句じゃがの』
『その節句で、こちらも忙しくて、眼をまわしているのだ。……晩に来いよ。な。晩に』
『あほう! 好かんヘイライやの。ホホホホホ』
ところへ、奥から家職のひとりが出て来て、雑色たちのうしろからしかりつけた。
『これよ。また、物売り女とふざけおるか。けさのお湯殿守は、たれか。お湯殿の湯気が、熱うなって来ぬと、泰子さまが、中で、焦れていらっしゃるぞ。――はやく、火を見て来い』
怒鳴られて、ヘイライ仲間のふたりほどが、突ンのめるように、東の対ノ屋の方へ馳けて行った。
なるほど、湯殿の焚き口は、いぶり消えている。ふたりは、あわてふためいて、柴や薪を、くべ足した。
すると、縁に立ち現われた泰子付きの雑仕(侍女)たちが、煙に、まゆをしかめながら、また、
『そもじたち、何していやる? ……。御方にお風邪でもおひかせしたら、どうしやるぞ。うつけ者よ』
と、ここでも、ヘイライは、女房たちからさえ、犬猫みたいに怒られた。
天井は低く、床は、簀の子。まッ暗で、箱みたいな湯殿の中である。白い二つの女体が、寄り添って、じいっと、全裸に汗を浮かせていた。
そのころの湯殿というのは、みな室になっている蒸風呂であった。外のたき口で、火がハゼると、たちまち室中が白い湯気に満ち、中の温度は上昇してくる。
『ま、瑠璃子さまは、可愛らしいお乳をして。今ごろの、桜ンぼみたい』
『いやですわ、小母さまは。そんなにわたくしの体ばかり、見ていらっしっては』
『いいえ。この泰子にも、むかしは、あなたみたいな、はだの麗しい時代があったのにと、うらやましさに、つい、見とれるのですよ』
『でも。小母さまは、今でも、そんなにおきれいなはだをしていらっしゃるではありませんか』
『……そう?』と、泰子は、自分の乳くびを見た。白い項の伸びかたといい、全姿に浮いた玉の脂といい、瑠璃子がいったのは、お世辞ではない。――けれど、かの女自身にしてみれば、乳ぶさは、つかんでみても張がないし、乳くびは、杏の種子みたいに黒い。なんとしても、四人の男の子を産み養んだ泉の涸れが皮膚にもある。ことに、あの癇性な清盛が、まだ二ツか三ツころのとき、乳くびに咬みついた歯のあとが、いまでも白ッぽいあとになって残っていた。
『…………』
かの女はふと、むらッと、腹が立った。乳くびが思い出させるのである。――忠盛と別れ、あの貧乏やしきを去った日である。人もあろうに、自分のほおを、火の出るほど打ったのは、この乳ぶさで育てたわが子の清盛ではあるまいか。男の子とは、女親に、一体そんなものであるのだろうか。――としたら、女親とは、なんたるつまらない者だろう。成人してしまえば、ひとりで大きくなった気でいる子に――と、そのおりの口惜しさを、ありありと眸に出して、乳根を、じっと握って見ていた。
『小母さま。……おさきに』
瑠璃子はもう湯殿口の遣戸をこぐって[#「こぐって」はママ]、次の、囲いのうちで、水をつかっていた。
この姫は、ここの当主、中御門家成の妻の姪であった。一般に、早婚の風があって、女性は十三、四歳といえばもう嫁ぐのが少なくないのに、人なみすぐれた容姿をもちながら、なぜかこの姫は、ことし十六という妙齢まで、嫁ぎもせず、叔父叔母の館に養われているのである。
聞くところによると、姫の父は、伊賀守藤原為業といい、地方官のならいとして、任地に居住しているが、そのことの不便ばかりでなく、為業は、とかく中央の政令に添わないことが多く、関白家の忠通も、左大臣頼長も、同族の異端者と視て、よく思っていないことが、因をなしているのだといううわさもある。
――が、かの女は、婚期などには、無頓着で、結構、毎日を陽気に暮していた。ことに、東の対ノ屋の一部屋に、泰子が住むようになってからは、のべつ、西の対ノ屋からこっちへ遊びに来ていた。夜も泊ったり、ふろにも一しょに入ったりする。そして、未知な世間ばなしだの、新しい化粧の仕方だの、恋愛観だの、ときには、男の品さだめなども、あけすけに聞かしてくれる泰子が、またとない良い小母さまと思われて、心からなつき慕っているのであった。
当主の家成は、五十がらみの、人の好さそうな男だった。右大弁の官職にあったが、いまは退官して、闘鶏にばかり熱心である。
子がないので、姪の瑠璃子を、このままもらってもいいとしているふうであった。
ところが、この二月以来、とんでもない厄介者が、戻って来た。泰子である。何と意見してみても、ふたたび今出川へは、帰ろうといい出さない。
(四人もの、子をのこして)と、母性を衝いても、泰子には、さしたる愛着のもだえもないし、
(そもじとて、もう三十八という年では、いかに、美しかろうとて、そう、他家へ再縁も、なるまいに……)
と、暗に、かの女の自信を、諷してみても、耳をかす容子はない。
それどころか、かの女は、ここは、自分の里親の家と、まったく、生涯を寄せきっているふうで、いい部屋をいくつも占め、朝ぶろ、寝化粧、何不自由ない貴婦人生活を、それこそ、理想どおり振る舞っているのである。
勝手に、牛車はつかうし、召使はこき使う。夜は夜で、いずこの男か、忍んで来る様子も、あるとか無いとか――雑色部屋では、ヘイライどもにもうわさのたねになっている。
意見の程度を越えて、もし家成が、不平でもいおうものなら、かの女はたちまち色をなして、かえって、家成をやり込めてしまうのである。かつて、白河上皇の寵幸をうけた身であるという誇りが、かの女の心の骨格になっているらしい。すぐ、白河の御名を口に出す。そして女王の前の臣下のごとく、完膚なきまでに、家成ごときは、いい伏せてしまう。
家成は、もうその愚にはコリている。近ごろは、いわぬに如かずときめていた。かの女がちょうど今の瑠璃子ぐらいな年ごろに、上皇のお好色を知って、祇園女御を取りもったのは、自分である。ために、そのころは、上皇のお覚えもめでたく、官職も枢要に就き、庄園(知行所)の地も増され、賜わり物も少なくなかった。――かの女は、それを忘れない。しかと覚えて無形の資産としているのだ。忠盛へ嫁いでからも、おりおり、ねだりごとに来ていたのである。
自業自得とはいえ、実に、えらいものを、しょい込んだと、家成はこのところ、楽しい日を失っていた。それにひきかえ、泰子の住む東の対ノ屋では、男女の客の絶えまがない。すご六だの、香の会だの、管絃の稽古だのと、より集まっている顔ぶれの中には、いつ、どうして、かの女と親しくなったものか、自分の闘鶏の友人までが、交っているのだ。
いや、家成が、もっとまゆをひそめたのは、瑠璃子への、感化であった。
瑠璃子も、いつか、かの女のとりこになってしまい、西の対ノ屋にいるときはほとんどなく、のべつ泰子のほうへ、入りびたっている。
館は、中央の大きな母屋を寝殿とよび、また渡殿という長い廻廊づたいに、東と西とに対ノ屋が、わかれていた。そのほか、泉殿とか、つり殿とかも、すべて中心の閣をめぐっている。
公卿館の様式は、例外なくこの“寝殿造り”である。家族達が住む西の対ノ屋から、東の対ノ屋までは、ずいぶん遠く離れていた。
(瑠璃子。東の対ノ屋へは、行くなよ。ろくなことは覚えまいに)
やかましくかれはいう。が、いつのまにか、瑠璃子は行って泊っている。家庭はらちゃくちゃない姿だ。雑仕の女や、家人たちに見張らせても、ききめはない。なぜなれば、いまや召使たちが恟々と仕えているのは、家成ではなくて、泰子であった。
(――なるほど。強武者の平ノ忠盛すらも、若さをしぼませたのも、むりはない。忠盛が、長の年月、偏屈人に見えたのも、今にして、察しがつく。亡き白河上皇も、思えば、罪なお遺物をのこされたものかな)
と、家成は、わずか、ふた月の忍耐にすら、白髪のふえる思いにくらべて、よくも二十年もの間、妻にもって、辛抱していたものよと、今さらのように、忠盛を、えらいと思った。
ゆうべも、瑠璃子は、東の対ノ屋へ、泊ったらしい。
けさ、気づいて、家成は、たちどころに、不快になった。
室に、菖蒲の花を挿け、冠台に、造花のついたかずら冠を載せて――せっかく菖蒲酒をともに祝おうと、土杯までそろえたのに、召使を見せにやれば、さっきから、泰子とふたりで、長ながと、湯殿にはいっているという。
『いまに見い、姫も、朱に染まって、あんな女に、成り終わろうで』
ひとのせいみたいに、かれは、妻へむかって、ぶつくさいった。
だが、やがて、五月五日の、碧い空と陽を大廂の外に仰ぐと、
『節句じゃ、不きげんは、やめよう』と愚をさとって、
『装束を出せ。そろそろ、時刻であろうが』
と、ものうげに、腰を立てた。
加茂の競馬は、きょうであった。ちまたは、人出で、熱閙をえがいているにちがいない。
家成は、毎年の例で、競馬がすんだあとの祭典係りの一員として、列に立つことになっている。――仮病も考えたが、そうもなるまいと、思い直して、束帯を着、華冠を、頭にのせた。そしてあごを上げて、妻にひもを結ばせながら、いいつけた。
『牛車をひけい。新しい方の牛車じゃぞ』
召使は、かしこまって、すぐ雑色部屋へ、支度を命じに走った。
ところが、新調の美しい牛車のほうは、すでに、泰子と瑠璃子が、相乗りで、ひと足さきに、乗って出てしまったということであった。
『あな、たわけ!』
家成は、ヘイライどもを、痛罵した。――なんで、新調の方を出したか。ひと言、自分の耳に入れないのか。瑠璃子も瑠璃子である。いまは、あの姫までが、まるで叔父叔母をわすれている。養家の恩にそむいてまで、あんな宿借り女の偽態の愛に騙かされてしまうものであろうか。――家成は情なくもなるし、腹が立ってならなかった。が、ぜひなく、ふだんの古車に乗って、かれは、楽しまぬ顔を簾にかくし、平門から出て行った。やがて、遠いほこりの下に、加茂の群衆が望まれてきた。青葉若葉の木がくれに、紅白の幟だの、唐錦の旛だの、榊葉をくくりつけた馬出しの竿だの、人間で埋められた入口も見えはじめた。家成の古車は、そのときもう無数の他の牛車に押しもまれていた。なんというおびただしいくるまの数であろう。檳榔車もある。糸毛車もある。こんなにも、都には、くるまの数があるものか、と驚かれるばかりである。家成は、ふと、舌打ちならして、ひとり心の底で心のかぎり、罵りちらした。
『アッ。あれは、わしの新調の車らしいぞ。誇らしゅう、わしの前を打たせて行くわ。……ちえっ、牝馬め。――媼のくせに、色気づいて、あぶみにも、くつわにも懸らぬ牝馬め』
いま、馬名簿の奏上式が、終わったところである。
天皇は、玉座に、お妃の藤原聖子とならんで、あかるいお顔を見せておられた。
崇徳と申しあげ、まだ御十九の、青春の天皇であった。
鳥羽上皇も、臨御されている。上皇、女御をのぞくほかは、親王と諸卿群臣も、式のあいだ、みな立列していたが、終わると、おもいおもいに、桟敷の座につき、きょうの出走馬の判断や、騎者たちの評に、ざわめいていた。
ほかに、たくさんな幄舎があり、幕囲いが見え、そこには、右馬寮、左馬寮の職員やら、雅楽部の伶人やら、また、落馬事故や、急病人のために、典医寮の薬師たちまで、出張していた。
そよ風のたびに、加茂の宮の、青葉若葉の葉裏が光る――
清涼な風に乗って、伶人たちの奏楽が、万余の群集のうえをながれた。馬場の青草や埓門(柵の出入口)の幟の近くには、きょうをはれと競うたくさんな馬が、しきりに、悍気立って、馬丁たちを困らせている。馬は、音楽が好きなのである。決して、いたずらに暴れようというのではない。
ときどきおかしな光景が、馬と馬丁とのあいだに演じられる。口輪からふり飛ばされて、しりもちをついたり、また空走り(試走)の駒が、やんごとなき御座の正面で、ゆうゆうと尿をしたりすることである。
こんなとき、天皇も、御微笑されたり、お妃も、女官たちも、笑みこぼれて、ときならぬ百花らんまんの雲が揺らぐ。実にや、雲の上といい、九重の大宮人というのも、誇張ではない。とりわけ、鳥羽上皇の御座をめぐるあたりの諸公卿は、際だって、華やかな粧いにみえた。
これは、上皇が、お好みによるものか、あるいは、側近から生じた流行かわからないが、とにかく鳥羽院を中心として、近年、妃嬪や公卿の服飾が、華奢になってきたことは、非常なものである。
烏帽子のかたちにも、衣服の色にも、洗練された神経が見られ、強装束という一種の風を作ったのも、鳥羽院からの流行であり、また、男性が、面に粉黛をほどこしたり、たもとに香を秘めるなども、この院からの時粧である。
しかし、流行の端はここからでも、それを欲する時好の素地は一般にあった。朝廷方でも、みな時好にならい、男でも、うす化粧して、まゆをかき、紅さえほおに刷いている若公卿が殖えて来ている。
しかも、きょうは、加茂のはれの日。われ見よがしに盛装を競いあっていた。冠のおいかけに、藤の花をかざし、ふんぷんたる香いに風を染み、紫のさざ波たてている一群もある。
だが、見方をかえれば、時粧や流行の競争も、院と朝廷との、対立意識のあらわれといえないこともない。
きょうの競馬では、あきらかに、その対立が番組の興味だが、もひとつ、ふかいところに、何かがある。おおいがたい対立が秘せられている。
天皇と、上皇とのお心のうちにである。
こう御座をならべてお在しながら、父上皇と子の天皇のおん仲は、なんとなく、冷やかに仰がれた。めったに、ことばもお交わしにならない。よそよそしく、しらじらしく、二つの政府の象徴が並んでいるだけにしか思えなかった。
ことは、ときをさかのぼるし、余りに、宮中閨門の秘を語って、いたずらな奇を好むには似るが――ここに語らざるを得ない不幸な事実があった。
鳥羽、崇徳の父子のおん仲にわだかまっているある冷やかな感情こそは、すでに久しいものである。それはやがて、保元、平治の大乱をよび起こしたものだった。ひいては、庶民生活に、長い戦禍のくるしみを与えたのみか、崇徳、崩ずるまでの、惨として、鬼気、読史の眼をおおわしめるような生涯の御宿命をも、すでに、このときに約していたものであるから、語るを避けるわけにもゆかない。
崇徳、おん名は顕仁、鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、おん母は、大納言公実のむすめ、藤原璋子と申される。
ところで。――ここでまた、かの祇園女御を、平ノ忠盛へ与えられた白河上皇(後、法皇)をひきあいに出さねばならないことになる。
藤原璋子は、幼いころから、白河法皇に養われていた。法皇が、璋子を可愛がられたことは、ひと通りでない。その親寵狎愛の様は、たれの目にも、ただこの美少女を可憐とするものとは見えなかった。わけて、そのみちにかけては、なみならぬ好色のお聞こえある法皇のことなので、院中かくれもなき風流譚となっていたのである。
しかるに、永久五年、璋子は、鳥羽天皇の女御となり、ひいて元永元年、中宮に立たれたが、その後も、法皇は、おすきをあらためるふうがなく、鳥羽のおん目をかすめては、璋子を寵愛されていた。ために、おりおり、物議のたねにもなり、鳥羽天皇のお心も、ついぞ解けたことはなかったのである。やがて、璋子は、皇太子顕仁を生んだが、御産殿の几帳からもれた呱々の声にも、天皇のおんまゆには何の御表情もなかったという。
(顕仁は、わが子ではない。白河の御子じゃろ)
鳥羽は、御在位中にも、後、御位をゆずって、院へ移られてからも、公然と、左右にいって、はばからなかった。
いまは亡き前の上皇白河ではあるが、白河に致されたその一事が、よほど御青年時代を暗澹たるものにし、いとも口惜しい、おん悩みであったにはちがいなく、いまなお、心の古傷のふといたむときには、
(崇徳は、白河の子じゃよ、身が生ませた子ではない……)と、すぐ仰っしゃる。
当然、この怨恨めいた上皇の口ぐせは、すぐ天皇のお耳にはいった。崇徳も、おもしろからず思われて、感情にむくゆるに感情の言をもってされた。――それが、その通りでなく、輪をかけ、誇張されて、朝廷と院のあいだを、たえず刺激しあっている。
刺激は、対立を育てる。
対立は、対立あるによって、生きる道と、成功とを妄信する一部の人間を、当然、培養してゆく。
朝廷で疎外されたものは、上皇のもとへ走って媚びへつらい、上皇に怒られたものは、天皇にひざまずいて、憐れみを、訴える。――それは、危険な、火事の火の粉にも似た飛び交いといってよい。
――だが、それは、なんと風雅な文化的表現につつまれて、そんなことがある世かと、怪訝なうそみたいに、おおいかくされているではないか。たとえば、きょう、加茂競馬の庭をうずめている霞のような群集を見わたしてもそうである。冠には、插頭花を付け、藤花の薫りをたもとに垂れ、面に、女のような粉黛をなすくって、わいわいいっている公卿朝臣たちの――その何分の一かの人間は、要するに、危険なる次代の風雲に必要とされている火の粉なのだ。火の粉自身は、それと知らない。ただ、みずからのために、みずからの生存と成功の道はそこにありとして、ひそかに、動いているものにすぎない。
『あ。上皇が、お笑いをふくまれた』
『帝が、お立ち遊ばした。御興深げに仰がれる』
公卿百官は、競馬も見ているが、天皇と院の御気色には、のべつ気をつかっている。このような敏感が、どうして、天皇のおこころと、上皇のお胸のうちとに、永劫、解けあわないでいる父子にして父子に非ざる感情を、見のがしているものではない。
競馬の番数は、すすんでいた。
午となり、馬場の土は、乾いて、埃がたかい。
『ぼんやりと、どうなすった? ……。渡どの』
清盛は、武者溜りとなっている幄舎の横で、ふと、源ノ渡を見かけて、そうたずねた。
渡があれほど熱心に、きょうを機会としていたのに、どうしたことか、武蔵青毛の、例の四白の四歳駒は、出馬の番組に、書かれていない。
けさから、清盛は、気になって、見かけたら、かれに問いただそうと思っていたところなのだ。――が、渡は、友にきかれるのも、辛そうだった。悄然として、いうのである。
『けさだ。……まだ夜も明けきらぬ暁と思え。きょうの勝負のため、人知れず、強目な地乗をしておこうと考えて、あの青毛を、そっとここの厩からひき出したのが悪かった。……運だな、まったく、運の悪さよ』
『何か、あったのか』
『前日、幄舎を建てた工匠どもが、釘をこぼしていたものとみえ、釘を踏み抜いてしまったのだ。おれでも踏み抜けばよかったのに……あの青毛が、後脚の右の蹄で』
『ふうむ。……それでか』と、清盛はすぐ、凶馬の相をおもい出した。――が、また迷信とわらうにちがいない。この男には、いえないのだ。清盛は、心にもない慰めをいった。
『そう落胆し給うな。秋にはまた、神泉苑か、仁和寺か、どこかで、必ず催されよう。どこへ出しても、勝てる名馬。何も、功をあせることはない』
『うム。秋には、この無念を、雪がずには措かんよ』
『はははは。無念などと……あははは、そんなに、無念がらなくてもよいわさ。何か、人と、賭物でもかけたのか』
『いや、意地だ。たれもかれも、四白は凶馬だといいおるから』
『鞭加持は、やったか?』
『鞭加持。そんなことは、おれはやらん。あれも、滑稽きわまる迷信だ。坊主に、鞭の加持祈祷をしてもらって、それで勝てると思って競馬へのぞむ騎者たちの気がしれない。……そういう愚まいな者の眼をさましてやろうと思っていたが』
清盛は、かれの言葉の途中から、ふと、遠くへ、眼をそらしてしまった。いま、太鼓のあいずと一しょに、馬出しから、ぱッと、埃をあげて馳け出した二騎の勝負木の方へではなく――反対な桟敷の一角を見上げてである。
『……?』
無数の男女のあいだに、母の姿が見えたのである。母の泰子は、そのまわりにいるどんな

人びとの眼はみな長い馬場の果てへ吸いつけられている。――が、母の眼は、こっちを見ていた。清盛の眼と、むすびついた。母は、眼で自分を呼んでいる……。が、清盛は、にらみかえした。母が今出川の家を去ったあの日の眼で――清盛はきつくにらみ返していた。
泰子の眼は笑っている。かの女にも母性らしいものはあるのだ。子どものすねるのを可笑しがるように、なおも眼でさし招いている……、そして、そばに連れている瑠璃子に何かいっていた。
わあっと、そのとき、どよめきが揚がった。勝負木の下では、勝ち鼓の音と一しょに、あいずの紅い旗が振られている。院の紅組が勝ったのである。上皇をめぐる凱歌が高い。
『や。……じゃあ、また、後で』
清盛は、それを機に、渡と別れて、桟敷のほうへ、人波をわけて行った。泰子のひとみは、かれの姿を、手繰りよせるように、見まもっている。――清盛は、そばまでは、寄らなかった。
(――来たの。平太)
かの女は、そういわないばかりな顔つきである。本能は、母を慕い、感情は、反抗と憎みをこめて、ねめつけて来るかの女の子だった。けれど、清盛のその眸は、とたんに、羞恥みと変じ出した。ほおも、大きな耳たぶも、急にまっ赤にさせてしまった。特に異性を意識するとき、かれがよくやる正直な戸まどいなのだ。母は決して、異性ではない。母の美しさは、かれには、無価値である。憎みでこそあれ、無価値である。
『おかしな子よの……』と、母の泰子は、もじもじしている清盛を笑った――『なにを、羞恥ましゅうしていやる。わが身は、そなたの母ではないか。もそッと、寄って来たがよい』
母なる者でなければ決して現わし得ない愛情の波紋が、そういって、手招く人のホホ笑みにゆらいだ。
次の瞬間、清盛は、何かを、とび越えるような心理で、母のそばへ、寄っていた。寄ってみれば、なんの不自然もない母子を感じながらも――なおかれのひとみは、群集をはばかるように、どこか落着ききれない色をひそめていた。
泰子は、かれのその容子を、すぐ、そばの瑠璃子に[#「瑠璃子に」は底本では「瑠璃子に」]むすびつけて、見くらべた。ある性期の年齢を経た女というものは、若い男女のはにかみを前に置いて、さまざまな角度からながめたり、心を読んだりすることに、ひそかな興味をもつものである。泰子は、かれを眼のすみに措いて、瑠璃子の耳へ、唇をよせた。
『わたくしの、息子ですのよ。……いつか、姫にも、お話ししたことがあるでしょう。あの、平太清盛です』
――それからまた、清盛へは、ふと、こんな幼な物語を、して聞かせた。
『そなたも、三ツ四ツのころには、中御門家で養われていたことがあるのですよ。――ちょうど、いまの姫の身上みたいに』
そこまで近づけてもらっても、ふたりは、なんの話もできなかった。清盛が胸の動悸をありあり顔に染めているのを見て、瑠璃子も、理由なく面をぱっと紅らめてしまった。そして、深窓の処女には、あまりに強烈すぎるものへ対ったように、眩げな眼をそらして、ひとにも分かるような吐息をついた。
清盛は、たちまち例のむかつきを覚えた。この母の美しさと、そらぞらしさに接すると、やたらに、つめよって、訊きただしたくなるのである。――上皇の子なのか、悪僧の子なのか。おれの男親は、いったい、どっちがほんとなのか、と。
それは、真実の父を知りたいとするおさえ難い本能もあるが、より以上、母の貞操のあり方に、たまらない不快と憎しみをもつからであった。世の中の無数な売女や淫婦を越えて、この母ひとりが、汚ならしい女に思えてならないのである。
いまの世の習慣からいえば、貴族社会でも、下層民でも、女の貞操は、ただ男のためにあって、女のための貞操ではなくなっている。一夫多妻は、あたりまえのことだし、物の代償に、妻を他の男へ与えたり、貴人の一夜の饗応に、未婚の女子をささげることなど、むしろ当然みたいに思われている。――その代りに、女性もまた、享けたる女の身を、放恣に快楽し、女の一生を、ひたすら、自由な性愛の野に遊ばせて、ひとりの恋人や、良人や、乳のみ児の、ありなしなどに、顧みていない風潮もつよい。――それも男が女をこうさせているのだというように見せかけて――むしろ時代の自由さを、女の方が、逆利用しているほどにも見えるくらいである。
だのに、なぜ清盛は、母にのみ、女の高い貞操を標準として、憎むのだろうか。そんな無理を――時代的に少ない例を――母の場合にだけ固執してみたところで仕方はあるまいに――と、これはかれにも、分かっていないことではない。けれど、子どもは母を、強いてでも、清らな女性、気だかい女性、純なる愛の権化とも、見たいのであった。いや、乳ぶさにすがって、幼いうわ目づかいに見まもってきた母なるひとは、たしかに、そう見えていたのである。長じて、ものまなびし始めてからでも、たれも母を、汚ない女とは、教えもしなかった。それが、卒然として、一個の、淫らな肉塊でしかなかったと分かったとき、清盛は、腹が立った。母の不潔が、自分の不潔に思われた。それまで、貧しくも、伊勢平氏の父と、清らな母の血とをもって、自分のなかに脈搏っていると信じていたものが、急に、どろどろな宿命の物質みたいに思われてきたのである。
あの遠藤盛遠から、初めて、母の実体を聞かされた晩に、かれは、惜しみもなく、遊女宿の女へ、二十歳の童貞を、うっちゃるように、くれてしまった。自己へのさげすみは、母へのさげすみであった。あれからのかれは、自分の血と肉とに、こんなもの――という軽蔑をつねにもっている。
それが、青春の放埓へむかって、いつでも、崩れんとしているのを、何かに、あやうく支えられているだけのかれにすぎない。父ならぬ父忠盛の愛が支柱であった。あのスガ目のひとの大愛と長い忍苦を考えると、かれは、素直に返らずにいられなくなる。その人を真実の男親と思い、よい子になって、身も大切に持とうと思う。
……が。母を見ると、気もちは、たちまち、逆になった。このむくむくとたえず頭をもたげたがる異端な血こそ、かれが母からもらった唯一のものかも知れなかった。
泰子は、何か、あき足らなかった。子の清盛が、すこしも自分へ、あわれを見せないからである。もっと、涙をうかべて慕ったり、いつかの癇癪事を詫びもしたりすることだろうと思っていたのに、それも示さず、姫へもなじまず、いたずらに、加茂競馬の眼にもあまる群集の上にばかり気をつかっているふうに見える。
『平太。……たれに、そのように、気がねをしておるのです。忠盛どのに知られては、悪いとでも、思うてかの』
『ええ。……父上も参っていますから、もし父上が、わたくしがここにいるのを見たらと』
『かまいません。たとえ、母が忠盛どのと別れても、そなたは、わたくしの子であろが。のう……。母が今出川のやしきを去って、そなたも、小さい弟たちも、さだめし、毎日を、さびしく、みじめに、過ごしておわそうが』
『いえ! ……』と、清盛は、かぶりを振った。
『小さい弟どもも、厩の馬も、みなピンピンして、元気です。たれも、母上のことなど、申してもおりません』
『ホホホホ』と、かの女は、変えた顔いろを、すぐ、笑い消した。ねっちりした女の力で、清盛の手くびを、なんのためか、かたく握った。
『そなたもか。……そなたも、母に別れながら、おりには、会いたいとも、なんとも思わぬのかや?』
『あっ。――離して。……父上が、あなたの桟敷から、こっちを見ています。気がついたようです。離してください』
『平太』
と、かの女は、美しく睨めつけて、
『忠盛どのは、そなたの親ではあるまいが。……母こそは、まことの母。なぜ、忠盛どのばかりそのように慕うのですか』
『…………』
『ね、平太。……おりおりに、遊びに来て給も。まれには、母もそなたの顔が見たい。……母の許へ、遊びに来やい。……瑠璃子さまとも、ちょうどよいお友だちになれるであろ』
清盛は、さかんに、かの女のそでの蔭で、こぶしをもがいた。そして、上皇たちのいる桟敷の方をふり向いた。たしかに、父の姿は、こっちを見て立っている。
狂躁と、草ぼこりの中に、陽もうすずいて、その日の競馬も、終わりを告げた。
天皇、上皇は御座を立たれた。妃嬪、百官も、こぞって、おあとに従い、加茂の神前へ、歩を運んだ。
奏楽がおこり、奉幣の式があって、やがて、幄舎のうちの、賜餐となる。
この日の十番競馬や、十列の競馬に勝った騎者たちに、祝杯があげられ、親しく、おことばがかけられた。
しかし、本当の祝杯は、秋、あらためて、宮廷で行われるのが例である。
その儀式を、「負物貢ぎの式」といい、相互のあいだに賭けられている“負け物”――沙金、織物、香料などの多額な賞品を――負け方から、勝ち方の組へたいして、いんぎん、敗者の礼をつくして、贈呈するのが、約束となっているのだ。
もちろん、天皇、上皇、臨御のまえで、伶人たち奏楽のもとに、大々的に、勝敗の差別を明らかにする儀式であり、敗者から勝者への、負け物贈りのことが終わると、あとは、勝ち方の凱歌によって、一同、うちとけた酒宴[#「酒宴」は底本では「洒宴」]となるのである。無礼講なので、陛下のまえでも、いろいろな隠し芸や、珍趣向の余興をこらす者も出るのであったが、中には、勝負をこのように平和化する作用にも溶けきれず、いつまでも、残念ばなしにこだわって、酒乱を演じたあげく、大内裏の小庭へ出て、腹を切って死んでしまったりするような気の小さい騎者もあったりした。
栄枯盛衰は天地のならい、栄々盛々はあり得ないこと。勝つは負ける日の初め、負けるはやがて勝つ日の初め――と、殿上人の輪廻観のそこには、やはり仏教が働いていた。だから、負け方の騎者が、小庭で腹を切ったという事件にも、かれらは、なんの驚愕もあらわさなかった。ある者は、腹をかかえて笑ったりした。
仏教のいう宇宙観や輪廻の哲理も、かれらはそれを、自己のうえには、ゆめ、考えてみなかった。かれら藤原氏の門流や末葉たちは、祖々以来、宮廷を中心に、史上例外な、栄々盛々の三世紀を遂げて来ているからだった。いまも、余恵にうけている華冠薫袖の身を、まだ不足ぐらいに思いなれているのである。きびしい、敗者の運命などには、出会ったことはない族党なのだ。勝敗の烈しさ、つらさ、仮借なさ、そんな運命は、理念では知っていても、実感には、分かるわけもないのだった。――ゆえに、かれらの知る勝負ごととは、すべて、遊戯のほかのものではない。敗者の痛涙も、勝者の狂喜も、ひとしく、一場の泡沫と見、あれも可笑し、これも可笑し、なべて酒杯のうちに溶いて飲まんかな人生。楽しまずしてなんの人生やある――というのである。そしてつねにかならず、自己を傍観者の桟敷におくことは忘れない。
そういう意味だけの一日。きょうの五月五日も、みな、生きの身の歓をつくして暮れ――ほどなく加茂の葉桜のうえに、夕月を見るころ、主上の鳳輦も、上皇の御車も、れきろくと、群臣の車馬をしたがえて、還御となった。
忠盛は、晩く、鳥羽院を退がった。
いつも、帰宅するころには、やしきの郎党、木工助家貞が、かならず馬をひいて、迎えに来ているのが常なので、武者所の供待をのぞくと、清盛が、駒をひかえて、たたずんでいた。
『木工助は?』と、たずねると、
『参っておりましたが、こよいは、平太がお口輪をとって帰るからと――先に、やしきへ、帰しました』と、清盛は、答えながら、父の前へ、あぶみを、すすめた。
『ああそうか。おまえも疲れたろうに、待っていてくれたのか』
忠盛は、かろく馬上の人となった。上皇の御きげんもよかったにちがいないが、父の面も、さわやかに見えた。清盛は、馬の口輪をつかんで歩きながら、星空の中の父を仰いで、なんとなく、胸が安らいだ。
いい出そうか、いうまいか。
清盛は、みちみち、迷った。――告げることは告げて、父の不快をぬぐおうと、わざと迎えの郎党を帰し、こうして、父とふたりだけの帰路を待っていたのではあるが――。
(もしか、昼のことを、父が、気づいていないなら、なまじ、お聞かせしない方がよくないか)
そうも、思うし、
(いや、父はたしかに、遠くから見ていたふうだ。何も、いわないのは、父の性格だから、内心の寂寥と不快さは、人一倍なものがあろう。この父を、ふたたび暗い人にさせてはすまぬ)
こうも、考え、とつこうつ、駒をひくよりは、ひかれて歩くかれであったが、やがて、今出川の家も近づいてから、思いきって、馬上を仰いだ。
『父上。――父上は、知っていましたか。きょう、加茂の競馬へ、もとの母も、来ていたのを』
『うム。そうらしいな』
『会いたくもなく思いましたが、実は、余り招くので、ちょっと、母の席へ行きましたよ』
『そうか……』と、忠盛は、スガ目を細めて、清盛を見おろした。決して、わるい顔つきではない。清盛は、いいわけみたいに、いいつづけた。
『あいかわらず、若わかしゅうして、まるで、宮の上

『ふム。……それは余りよくないことだな。平太』
『え。どうしてです。父上』
『世に、母のない子ほど、あわれなのは無い。いわんや、眼のまえの母を、しいて母として、見まいとする、おまえの心は、不愍すぎる』
『いえ。わたくしは、父上の子です。母など、無ければ、無くもよしです』
『……それはちがう』馬上の影は、静かに、顔を振って――『おまえの心を、畸形にさせたのは、この忠盛に、罪がある。長い間、冷たい家庭で、父と母との、ののしりあいばかり見せたからなあ……。子であるおまえに、大切な母を、そのように醜いものと思いこませたのは、大人の罪じゃよ。――自然な人間の子とは、決して、そうしたものではない。平太よ。素直になれよ。母に会いたければ、いつでも行って、会うがよい』
『でも、あんな女。母とは、どうしても、慕われません。良夫へは、不貞だし、子どもへの、愛もないし、自分の欲ばかりしか考えない……』
『わしの口真似をしてはいかんよ。――おまえが、あのひとに、そんな口をきく理由はない。おまえとあれとは、どこまでも、母と子であることだ。……な。……愛情はすべてを越えた愛情であるときに、ほんとの美しさを持つ。冷たい母子も、あたたかい母子となってくる』
清盛は、黙った。父の心は、子のかれにとって、まだまだ咀嚼するにはむずかしい。深いのやら、あるいは、未練なのやら、分かるような気もするし、まったく分らないようにも思う。
いずれにせよ、屋敷の前へ、もう来ていた。木工助家貞、平六家長、ほかの郎党たちも、破れたりといえど大門を開き、貧しくはあれど小坪や式台を清掃して、明あかと、灯もかかげて、待ち迎えていてくれる。
こういう緊密な生活ぶり、調和と清潔さは、つい百日前までは、見られなかった家である。なんで去った母を惜しもうや。決して、さびしいとは思わない。なぜ父は、それを信じてはくれないのだろう。清盛は、そう思った。
その年の秋、八月のなかば。
源ノ渡は、院の武者所のうちでも、同年輩のごく親しい友、十名ほどに、状をまわして、
『何もないが、ささやかに酌み分けたい。月見のつもりで来てくれ』
と、自宅へ招いた。
そういっても、友だち輩にはわかっていた。――この秋には、天皇、上皇おそろいで、ふたたび仁和寺に行幸の内儀があり、同日同所において、競馬を覧給うと、さたされている。九月二十三日と、予定の日まで、きまっていた。
そこで、もっと明白なのは、むなしく加茂の春競馬に、例の、青毛に騎乗して、名を成すべかりしを、ふと、その若駒の故障から、思い止まって、脾肉を喞っていた渡が――天高き秋の仁和寺競馬を、千載一遇のときと、ふたたび手に唾していることである。
『その前祝いのつもりだろうよ』
友輩は、いいあった。
中には、また。
『いや、吝嗇と思われたくないのさ。ふつう、はれの日に出る騎者たちは、おのおの、日ごろ信仰する僧家へ行って、阿闍梨や上人たちから、鞭加持をしてもらい、そのあと、親類朋友をあつめて、大振舞をするのが例になっている。……ところが、渡は仏ぎらいだ。勝負は勝負に尽きる。あに、神仏の力をからんやと、よく、院の溜りでも、豪語しているだろう。……で、ムチ加持振舞を、月見と称して招んだにすぎない』
さらに、弥次性のある一友は、こうもいう。
『いやいや。あれの愛妻ぶりを知っているか。上西門院の雑仕だった袈裟御前だ。あの不器ッちょが、よくもあんな美人を射落して、宿の妻にしたと思うが、そのまた、愛しかたも、ひと通りではない。宿直に当って、夜も院に詰めているときなどは、心は家に行っている。――いちど、おれたちにも、拝ませろというと、かれ、にやりとして、秘蔵の妻だ、めったには、などとのろけたこともある。しかし、実は、見せたいのだよ、自慢の妻を』
迎える門は、水を打ち、厨(台所)を浄めて、気をつかっていたが、やがて、どやどや訪れる方は、一歩前まで、勝手な放談を楽しみつつやって来た。
しかし、この同年輩の若者も、客間につくと、ほどよく客振りを保って、やがて運ばれてくる折敷の肴、高坏、銚子などを前にしても、酔うまでは、なかなか遠慮めいた風趣も示す。
平太清盛もいた。佐藤義清も見えている。――が、ひとり、いるべきなのにいない顔が、清盛に、思い出された。
遠藤武者盛遠である。なぜかれは見えぬのか? ――と、清盛は、口へ出しかけたが、出さなかった。日ごろ、院の溜りでも、渡と盛遠とのあいだに、何か、溶けあわないものを感じていたからである。
ひとは、それとも、気づかないが、清盛には、観えてならなかった。
盛遠だけは、自分の一身上の秘事を知っている。それがあるので、清盛は、つい、盛遠の挙止言動に、ひとより細かい眼をそそぐようになっていた。かれの、粗暴で矯激な性情と、ゆたかなる学才とが、のべつ一個の中に取ッ組んでいて、盛遠自身、自分をもてあましているような風が、いつも、はらはらながめられる。
わけて、その盛遠が、渡と、同席のときなどは、ふと、盛遠の眼底に、卑屈めいた、実に、小心者のするような、いやな光が、うごいたりすることがある。そのくせ口では、剛愎なことをいう男がと、清盛には、ふしぎに絶えないおりがままあった。だが、近ごろの盛遠の眼のにごりや、ほお骨のとがりかたから察して、多分、過度な勉学のため、神経病にでもかかったか、あるいは、酒の飲みすぎのためか、――などとひとり答えをつけていたものである。だから、ひょっとしたら、主の渡も、好まぬ人物として、あえて招かなかったものかもしれない。
清盛は、そう考えて、自分にしても、余り思い出したくない男と、触れないことに、きめていた。
酒がまわると、客は、それぞれな個性を露出した。個性はまちまちでも、ときを得ぬ野性の地下人たることと、不平の吐け口の見つからない悪童どもであることだけは、一色であった。
『おい、主殿。もうそろそろ現われそうなものじゃないか。焦らすなよ、余りには』
『なにを? ……』主の渡は、佐藤義清のまえにすわって、銚子をすすめながら、そら耳に答えたまま、なお義清とむつみつづけていた。
静かで、杯盤も取りみださず、ひとりつつましやかな客は、佐藤義清だけだった。杯を唇にふくみながら、その義清が、主へいうには。――かつて上西門院の御歌会にうかがったおり、袈裟どのの歌も選に入って、よそながら歌の上では、早くから袈裟御前のおん名は存じあげている。人妻となられては、なかなか和歌の道に、かかずらってもいられますまいが、惜しい御才能です。せめて歌の会ぐらいには、せいぜい、出席させてあげてください。おたがい、武弁の輩に、もっとも欠けているのは、文事を解さぬというよりは、軽視の風が先に立つことです。その点で、武夫文妻は、松に添えて菊を描いたような画趣ともいいましょうか、めでたいお契りです。……羨望にたえません。連中がああして、嫉いているのも、理由のないことではありませんよ。ハハハハ……と、真面目な中に、酒興もふくみ、日ごろ以上の親しみも深めて、うち解けている体なのであった。
その間、ほかの人びとは、いよいようるさく、
『また義清が、歌の話ぞよ。あの男が、ものをいうと、とかく、いつも、酒が醒める』
『――主どの、主どの。それよりは、早く、ほんものを、見せ給え』
『疾く、これへ、お召しあれい。われわれ朋友にも、いちどは、おひき合わせあって然るべきであろうが』
と、渡の背へ、ほえやまない。
『さりとは迷惑な。この貧しき屋へ、白拍子でも、呼べとやいわるる』
『なんの、都の白拍子にも、江口、神崎の遊君たちにも、競ぶべきは無いといわるる御内方を、ちょっと、招かれれば、みな、気がすむというものだ。いかんぞして、こよい、袈裟どのには、チラとも、お顔を見せられぬか』
『お。妻が姿を見せぬというおとがめか。アハハハハ……。ゆるされい、ゆるされい。あれは、まったくの内気者よ。厨にばかりいて、水仕をしたり、酒をあたためたり、ひたすら、客人たちのお心に染まばやとばかり働いておる。性来、そういう女子なのだ。所詮、おのおのの御座ある灯あかりの前には、得もすわるまい』
『いや、秋の月よりは、厨の月をこそ、われらは見たい。主どのが、召されねば、召されぬもよし――だ。たれぞ、立って、客どもの意を体し、これへお連れして参られよ』
おうと答えて、おもしろ半分に、ひとりは、よろめき立って、台所へ通う渡り廊下へかかろうとした。主の渡は、追いかけて、見せるみせると、連れもどった。客どもは、興に入って、きっと召されるかと、念を押す。――渡はすこしあらたまって、しかし、自分は武者である、わが妻はまた、白拍子や遊君ではない。武者の妻を御見に入れるのだから、そのようにして、いま、会っていただこう。……しばらくお待ちねがいたいと、客どもをおいて、自身、厨の妻へ、告げに行った。
ほどなく、渡は、戻って来て、縁の端に座し、そこから客たちへ、こういった。
『春以来、心をこめて、飼うて来た効があり、御承知の、武蔵青毛の四歳駒。秋にのぞんで、ひと際、駿足の敏をあらわして来たかに見らるる。やがての、仁和寺の行幸には、心ゆくばかり、馳け競うて、春の口惜しさをそそぎ、かたがたとともに、快を叫びたいと存ずる。――まずもって、その青毛が、どのように、良くなったか、御酒興までに、御覧ぜられたい』
客は、さすがに、粛とした。――渡にとって、それは、名誉と努力を賭けた野心的な大仕事と、たれにも気持は分かるからだ。それでは、約束がちがうぞと交ぜ返す者もなかった。人びとは、異口同音に、
『それは、ぜひ』と、主に倣って、小坪(庭)に面した縁に座を取っていながれた。
馬を見るには充分なほど、おりふし、秋の夜の月は、昼のように、澄みきっていた。源ノ渡は、かなたの遠い厩へ向かって、
『ひけよ、青毛を』
と、呼ばわった。
かつ。……かつ……かつ……と、蹄の音が近づいてくる。虫の音がやみ、網代垣の萩がうごいた。白球をまきこぼすような露の音に、そこの柴折が開かれたと思うと、ひとりの女性が、駒の口輪を把って、はいってきた。
しずかに、庭面の真ん中に位置をとり、その女性はしゃんと、駒を止めた。
『…………』
客たちは、息をこらし、呀と、声を出す者もなかった。驚きと、感嘆と、恍惚とだけが、そこにあった。
月の下の、青毛の毛づやは、漆黒といっても、濡れ烏といっても、なおいい足りない。
均斉のとれた四股、筋肉の見事さ。春とは見ちがえるばかり上わ背丈も育っている。長い尾毛は地に触れんばかりであり、ただこの名馬にして、人が、凶馬の相ときらう四白の脚もとが目につくが、これまた、雪を踏んでいるかのように、かえって美しい。
しかし。――客たちは、馬を見ない。
縁にいならぶ人影の声なきひとみは、駒の口前から、静かに、こなたへ向かって礼をした女性にばかりそそがれていた。それは、渡の妻、袈裟にちがいないからである。
かの女は、かの女の良人がいいふらすほど、そう内気ばかりのはにかみやとも見えなかった。微笑をふくんで、客に一礼したあとは、馬と対して、客を見ない。きっと、馬の珠目(眉間)に向かい合って佇立し、両手で、口輪をおさえたまま、悍気のつよい秋の若駒をも、大地にすえて、びくとも、暴れるのは、ゆるさなかった。
月光のせいもあろうが、その横顔の線は、夢殿の飛鳥造りの観音を思わせる。手の指までの真白さ。長やかな黒髪は、青毛の毛づやも見劣るばかりである。たった今まで、召使に交って、厨の内で、煮焚きや水仕をしていたことは事実であろう。常の袿衣を、やや裾高にくくし、白と紫のひもを、裳に連れて垂れていた。
(……ああ。おれも、妻が持ちたい。どこかに、もうひとり、こんな女性はいないものか)
清盛は、自分ののみくだした唾の音に、思わず、顔をあからめた。あたまの中に、瑠璃子の顔がすぐうかんだ。六条洞院裏の遊女の寝すがたも、一しょに思い出されてくる。かれには、恋の対象すらまだ的確につかめもしていないらしい。恋みたいに考え出すのは、すべて単なる機会であった。――早く娶えるなら、瑠璃子でも、六条の遊女でも、乃至また、どこかのどんな女でもいいと思った。
月のいい晩がつづいた。山野でも、恋する鹿だの、野葡萄に踊るリスだの、動物たちも月夜の生理に浮かされるというが、清盛もなんとなく、やしきにしりがおちつかない。
かかる夜を――とかれは、弟の経盛を見ては、何か、茶化してやりたくなった。去った母が、残していった古机の横に、小さい灯皿を架けて、もっともらしく読書にばかりふけっているのだ。こいつは、十八にもなって、まだ心に女ももとめていないのかしら。つまらぬやつを弟に持ってしまったもの。――そう、嘆じてやりたく思う。
経盛輩の読書なら、のぞいてみなくても、かれには、およそわかる気がした。
勧学院や大学寮の文庫棚には、醍醐朝まえに輸入された宋版の儒書が、読みてもなく、久しくムシに蝕わせてあった。
それを、たれともなく持ち出して、素読したり、輪講したりする風が、近ごろ、若い地下人なかまに見えるとは、父忠盛も、いっていたことである。弟も、かぶれ出したにちがいない。
何があるんだ。論語や、四書の中に。
兄のおれも、勧学院では一通りは講義をうけたものだが、こいつは、主すじに都合がよく、われら地下人や、雑人輩には、うだつのあがらない証文を自分で自分に入れてしまうような学問と見たから、いつも、聴いている顔して、居眠っていたもんだ。
いったい、孔子なんて男に、人間やこの世の中を規定する、そんなえらい資格がどうしてあるのだ。孔子自体が、何を楽しんで、どれほど身がおさまっていたというのか。あのころの魯だの斉だのという国には、血をながす喧嘩もやみ、泥棒も消え、奴隷もいず、うそつきもいなくなったのなら、はなしは分かる。だが、その孔子様からして、盗跖という大盗と、議論をたたかわし、偽君子の皮をヒン剥かれて、説法に出向いたやつがあべこべに、まる裸の人間をさらけ出して、二の句もなく、逃げ帰っているではないか。
ばかな頭を疲らすなよ。弟。
この、いい月の晩に――だ。
気に食わないことが、もうひとつある。大内裏の紫宸殿には、聖賢の御障子があるそうだな。聖賢の間にすわったら、聖人賢者のように、頭がよくなるというお禁厭なのか、何なのだ。ちょうど、貴さまも、あたまの中に、聖賢障子を画いているようなものだ。
――くだらぬぞ、弟。
わが家は、公卿ではない。公卿に食わせられている武者だ。公卿が、院宣をうけて、おれたちに命じれば、おれたちは、たちどころに、憎めない相手でも、敵に取って、矢を弦にかけなければならない門に飼われている身ではないか。
『よせやい。いいかげんに』
清盛は、さっきから、妻戸の口で、両足を、縁さきへほうり出し、上半身だけ室内に入れて、仰向けに寝ころんでいた。
そして、まだ秋の蚊うなりもする、うすぐらいすみの壁代を横に、他念ない経盛の、机の姿へ向かって、さんざん、腹のムシャクシャを、腹の中だけで、たたきつけていたのだった。
理由は、父も寝、家人たちもみな寝たのに、ひとりこの経盛がいつまでも寝ないからである。――といって、誘っても、一しょに夜遊びに出るやつではなし、むりに寝ろといえば、むくれるにきまっている。小さなくせに、邪魔な存在でならない。この性分の差は、やはり、母はひとつでも、父の血がちがうせいだろうか。
――などと、思うまいとする思いが、雨漏りみたいに、胸にシミ出すと、かれは、父へのおそれも、弟への気がねも、今は、何ものでもなく、
『どれ。ちょっと、行って来るか。月もよいし』
わざと、あくび交りのひとり言をいい放った。そしてそこの縁から、すぐ、露ッぽい夜の草履へ、片足をおろしかけた。
『あ。……兄者人、お出かけですか』
『行って来るよ。どうしようかと、考えていたのだが』
『こんな夜更けに、どちらへです』
『さきごろ。源ノ渡のやしきへ、同僚どもと、招かれたおり、つい、約してしもうたのだ。――月の夜には、例の、四白の青毛をひき出し、強い地乗を試みているから、いちど見に来てくれといわれて』
『へえ……? 夜半に、馬の調練ですか』
『騎者、おのおのが、持ち馬の脚を秘し合うて、その日にのぞむのは、競馬の策戦で、ふしぎはない』
『うそ。うそでしょう、兄者人』
『なにっ』
屋内の小さい灯の虹輪を、清盛は、にらみつけた。――と、その眼のうちへ、とび込んでくるように、机を離れた経盛は馳け降りて来た。そして兄のこわい顔へ、小声で触れた。
『……母上へ、よろしくいってください。ね、兄者人。……そして、これを、お渡ししてくれませんか』
『な、なんだ?』と、清盛は、狼狽して、弟が、自分のふところへ突っこんだ手紙らしい物を、ふところの中で、触ってみた。
『でも、兄者人は、母上の許へ、そっと、会いにおいでになるんでしょう。……経盛も、会いとうございます。父とは、わかれたお方でも、子には、切れない母上。……お顔を、見たい。……経盛も、お会いしたくて、たまりません。……けれど、時のくるまで、こらえておりますと、兄者人からも、仰っしゃってください。手紙には、書きましたが』
俯向いていう弟の鼻の先から、一粒一粒、月を宿した涙が、ぽとぽと落ちる。これは、滑稽千万だ。弟は、勘ちがいしているらしい。だれが、あんな母を慕ってなどいるものか。――清盛はいいかけた。しかし、弟の泣きじゃくりにも、つり込まれそうになった。
『ちがうよ、経盛。おれは、渡との、約束で』
『いえ。おかくしなさいますな。兄者人の影を、中御門家の近くで見たお人もあるのですから。……その客人が、父上にも、話しておりました』
『えっ、父上に。……だれだ。そんな出たらめを、いったやつは』
『時信様です。――軽薄な堂上方のうちでも、あのひとだけはと、父上も、かくべつ、お親しくしている藤原時信様ですから、私も、疑いません』
『ふウ……む。あの爺様。このごろまた、やって来るのか』
『何か、院では、おはなしのできぬ相談事でもあるとみえて』
『そいつは、思わざる伏兵だ』清盛はあっさり、固執をすてて、頭をかいた――『そう、知れていては、仕方がない。白状するよ、経盛。おまえの手紙は、母上に渡してやろう。……だが、父上も、おれにいってくだすったことがあるんだ。母に会いたくば、いつでも、会いにゆくがいいと』
『じゃあ、兄上。いっそ経盛も、御一しょに参りましょうか』
『ばかをいえ』清盛は、うろたえて、『父上のお気もちにもなって見い!』と脅しつけた。
『――そこは、男親のつらいお慈悲だ。甘えてはならぬ。また、おれの夜歩きを、わざわざお耳に入れる必要もないぞ。いいか。木工助にも、黙っておれよ』
清盛は、築土をとび越えて、外へ降りた。――なお、百歩ほどは、経盛の泣き顔が、目先にあったが、すぐ忘れて、銀河の夜風に、二十歳の体温を吹かせて歩いた。
放たれた魚の肺にも似て、かれは、秋の夜を呼吸した。だが、行くあては何もない。何が欲しくて、あるいは不平で、宵から自ぶくれていたのやら、自分でも、気がしれないのだ。
しかし、外ではなく、かれ自体、持てあましているものが内にある。妄想させ、狂暴にさせ、涙もろくさせ、不眠にさせ、主体のかれでも、処置のつかないものである。父母未生前にまでさかのぼって、人間に善を説く仏だの神だのも有りとしながら、主体の許容もなく、人の子の血管に、こんな性をしのび込ませておいたのはだれなのか。
――清盛はいいたい。――苦しい、気が狂いそうになる。これは、白河上皇か母にあったものにちがいない。上皇か母がおれに持たせたものだ。おれのすることは、おれだけの責任ではない。
とはいえ、まだひとりで、六条の遊女宿へゆくほどな勇気もなかった。妄想して、思うらくは――またあの遠藤盛遠でも現われて、六条へ誘ってくれるものなら、そこでもよし。あるいは、行きずりの女でもかまわない。いやいや、月夜狐が女に化けて来てくれたのでもありがたい。何しろ、身のうちに暴れうめいているものを、宥め、鎮めてくれるものならば、ふと、一瞬の幻覚でもいい。女にふれたい。巡りあいたい――と、いう熱病のかれであった。
妄想の子の、あわれな影が、夏ごろから、この秋も、幾たびか、中御門家の裏あたりを、うろついていたのは事実である。
今夜のかれも、いつかそこへ来ていた。広い築土のそとに、自分を見失っているかれの影が見られた。
『だめだ。……おれは、意気地がない』
わが家の築土は、越えもするが、ここの築土は、高く見える。
この中の、東の対ノ屋には、母の泰子が住んでいる。その母が、加茂の競馬でささやいた。……遊びにおいで、瑠璃子さまとも、よいお友達になれるであろうと。
加茂の桟敷で見た瑠璃子はきれいなひとだった。妄想の子の対象には高貴にすぎる姫である。母にことよせて、忍び寄れないこともあるまい。――と、恋ではなく、かれは妄想するのである。
しかしかれは、ここまで来ると、いつも勇気を欠いてしまう。卑下のためだと、自分でもわかる。ヨレヨレな布直垂に切れ草履の貧しげなる無位の地下人。かえりみては、つい、怯まずにいられない。
公卿輩の公達なかまでは、やごとなき摂家の姫君をすら、萩すすきの野ずえに担き盗み出しまいらせて、朝月のほの白むまで、露しとどな目にお遭わせして、人目密に、帰しまいらせたとか。――また、つれづれに、内裏の典侍や命婦のかよう廊ノ間に落し文をしておけば、その夜の忍ぶ手のまさぐりに、粘き黒髪と熱い唇が、伽羅などという焚き香の蒸るるにやあらんやみに待ちもうけていて、なかなか萎えがちな弱男などは、暁の鶏も待たで逃げ帰ってしまうほどであるなどというはなしも――めずらしくないほど、清盛はつねに聞かされているのだが、どうして自分のまえには、そんな運命がやって来ないのであろうか。
(卑下だ。この卑下をさえ、蹴とばせば……)
かれは、自分を乗りこえるような気もちで、そこの築土と直面した。今夜こそと思った。盗賊に似た勇をふるおうと覚悟した。
けれどそれを、心のなかで闘ったとき、そして必死に実行へかかったとき。かれの影は、高い築土の上にあったが、かれの中の妄想は、かえって燃焼されていた。発汗した毛孔を風に吹き醒まされたように、ふと、
(――待てよ)と、考えた。かれの胸に、妄想とひとつに同棲しているべつな思慮のものが呼びかけていたのである。
(……木工助じじが、いつか、まくら元にすわって、しみじみいった。和子様とて、まちがいなく、一個の男の児。手も脚も、片輪じゃおざるまいに――と。上皇の子であれ、不義の子であれ、おれは、じじのいう通り、天地が生んだ一個のものだ。なにを恟々と、こんな真似をするのか。おれが、盗もうとしているのは、実は、おれの中にあるものに過ぎないじゃないか。……おれの中の欲望)
かれは、奇態なところへ乗っている自分の姿に笑いたくなった。一天の銀河が頭上に振り仰がれた。おれの位置はいま滑稽な宙ぶらりんを描いているが、しかし秋夜の大気をこうしてひとり占めしてみたのは悪い気持でもないと思う。
『おや。……まただぞ』
遠くの火事である。
清盛は、洛内の屋根の一つに眸をこらした。
洛内の火事は、めずらしくない。それはすべて放火だという。無情な貴族繁栄、民意ではわからない二院政治、暴意のみふるう武装僧団――そういう少数の下に無数の食えない層が、うすい筋骨を重ねて眠っている都の真夜半というものほど不気味な地上はない。――赤く、めらめらと、揚げている焔の舌こそ、飢民の舌である。かれらに、言論はないが、放火はかれらの輿論だった。――美福門の火事、西坊城の火事、鳥羽院別当門の火事、関白忠通の別荘の火事など、近年のそれはみなただごととは思えない。しかも、火の雨の下、黒けむりのうち、時こそと、おどる者は、これまた、藤原氏の栄花と宿業をともにして生息する地下の群盗であった。
清盛は、築土のみねから、跳び降りた。
内へでなく、外へ。――そして、騒めき出した街音を、肩に切って、かれらしく馳け出していた。
秋の長雨がつづき、憂えられたが、ことしは、加茂や桂川の出水もなく、九月の北山は、紅葉しかけた。
仁和寺の御幸も、あと十日ほどしかない。院の武者所は、その日のしたくに忙しかった。清盛は、こんど初めて、六位の布衣に叙せられて、御車の随身を仰せつかった。へんてこな自責感に問われたものの、正直にかれはうれしがった。随身は、選ばれたる近衛の騎馬将校である。過ちのないように勤めようと思う。
人々役々で、退け刻はちがうが、清盛はこのところ、帰宅は毎日、夜おそくなった。疲れる、腹がすく、妄想のいとまもない。結局、かれは救われた気がした。まくらにつけば、正体なく、すぐ快睡の常態になれた。
九月十四日。
――夜半というのも当らない。四更のころである。
清盛の寝屋へむかって、あわただしい足音が馳けた。郎党の平六家長だ。武者仕えの男の、日ごろからな心がけが出て、声高に、呼ばわり告げることには。――何事か、一大事な候うずらん、ただいま、院の宿直より早馬にてのお召しにこそあるなれ、いそぎ物の具つけて、揃い庭へ渡られそうらえ。早く、はやく――と、促すのだった。
『なに。不時のお召しだと?』
清盛は、足音に、逸早く、とび起きていたので、さしても驚かなかったが、弟の経盛は、歯の根も合わず、あたふたいう。
『な、なんでしょう、兄者人。まさか、合戦ではないでしょうが』
『わからぬぞ。いつ、何があるか』
『また、叡山か、興福寺の大衆が、強訴にでも、押しよせて来たのでしょうか』
清盛は、具足櫃から、胴、すね当、草摺など、つかみ出しては、手ばやく、身に着けながら、
『父上のお居間へ行って上げい。おれたちの母はいない父上。おまえでも行って、お手つだいしてあげろ』
『いえ。父上のそばへは、木工助が行っています。兄者人、わたくしも、具足を着けましょうか』
『おまえなど……』と、清盛は、思わず愍笑した。
『留守でもしておれ。小さい、弟たちを、泣かさぬように』
屋のまわりは、降るような物音だ。郎党たちが、厩から馬をひき出し、土倉から武器、松明など取り出して、しかりあい、わめきあいしながら、気負いを作しているらしい。
揃い庭へ出た。武家にはどこにもある空地である。忠盛はもう馬上にあった。清盛の参加をみとめると、すぐ木工助家貞に門をひらかせ、先に立った。清盛の馬もつづく。家貞、家長の父子、徒歩の郎党十六、七人も、長刀を小わきに、おくれじと、馳けつづいた。
みちみち、火の手を物見させたが、街に異変はない。院の諸門も、閉ざされていた。身を鎧って来た張りあいもないほどである。――が、仙洞へ来てみると、武者所の一門はひらかれ、一殿の遠侍の間、また、木の間もる寝殿の灯など、常ならぬ気配はどこやらにある。
忠盛は、院の別当が召されるとあり、すぐ中門から、内へかくれた。一方、清盛は、武者所の建物のまえに、黒ぐろと群立している同僚や、他家の郎党たちを見かけ、その口ぐちの声から、何事のお召しかを知ろうと思って、近づいて行った。
『人の身こそ、わからぬもの。つい、先月のことではなかったか、菖蒲小路の源ノ渡が家へ、われら同僚ども大勢して、月見にと招かれたのは』
顔、顔、顔――興奮した顔ばかりである。奪いあって、語っている。
『おお、あの夜は、おれもいた。客どもは、たべ酔うて、秋の月よりは厨の月をこそ、見せろ、見せろ――などと渡を困らせて』
『だが、さすがは、渡。――あのとき、自分の新妻を、おれたち友人に、ひき合わせた仕方は、よかった』
『おう、いまも、眼にあるわ。――萩の小坪に四白の駒をひいて。あの袈裟ノ前の立ったる姿よ』
『月、まばゆげに、われらの方へ、会釈はしたが、ニコともせなんだ横顔がの』
『ニコともせぬが、こぼるるばかりな』
『

『春ならば、梨花の一枝』
『ああ、傷まし、傷まし――』武者面にも似ぬ感傷をこめて、ひとりは、長嘆した。『人妻ながら、げにも美しかった。その袈裟ノ前が、殺されたとは』
清盛は、初め、耳を疑った。――袈裟御前の死。袈裟御前が殺された。――そう聞いても、にわかには、かれの胸にある印象が、拒むかのように、生きていて、信じたがらない。そのひとがいかに美人だったかを清盛にいわせるならば、清盛はなおなお諸人の称賛も足らないとしていうことが多かったであろう。
が。人の新妻と知るるばかりに、かれは、想うだに罪悪としていたのである。いま、その袈裟の身に凶事があって、人びとの口端にかの女の名が争っていわれ出すや、かれもまた、盲恋の窓を放って、まるで自分のことみたいに眼色をかえ、人びとの中へ割りこんでいた。
『ほんとか。まちがいないのか。……殺したのは、だれなのだ。下手人は。下手人は?』
『平太どの。あちらで、忠盛どのが、呼んでおられるぞ』
たれかに、いわれて、清盛は、中門の方へ馳けた。父忠盛が、立っている。
『そちは、すぐ、鞍馬口、一条あたりの、見張に立て』と、忠盛は命をくだした。父としての、姿ではなく『――往来人に心をつけ、怪しと見るは質し、洛内より出づるは検め、こよいの痴れ者を、逸するな。いかに、姿、面を変えたればとて、見誤るべき下手人ではない』
『だ、だれですっ、わたくしの、からめとるべき人間は』忠盛のことばも待ちきれず、早口にたずねた。
『遠藤武者盛遠じゃ』
『げっ。盛遠? ……あ、あの盛遠が、袈裟どのを殺めたのですか』
『そうだ』と、重くるしげに『――武者所の名に、大きな汚点がつけられた。こともあろうに、人妻に懸想して』
そのとき、中門の内から、盛遠の叔父、遠藤光遠が、異様な眼と、青ぐろいまでに緊張した面を持って、出て来たが、ここの人影に、逃げるがごとく辞し去った。
下手人と密接な人物と見、多くの眼が、それを振り向いた。いつのまにか、忠盛父子のまわりには、他家の主従も集まって、厚い列をなしていたのだった。
――忠盛は、いま、院の別当との打ち合わせもとげたので、ひとり清盛だけへでなく、他家の衆へも、事件の全貌を、次のように、明らかにした。
袈裟ノ前の死は、十四日の宵の戌刻すぎごろ(午後九時)――場所は、菖蒲小路の自邸。良人の渡にとっては、留守のまのできごとだった。
袈裟の母は、衣川の媼といい、親しいほどではないが、盛遠とは、顔見知りであった。
媼のむすめの袈裟が、上西門院の雑仕をやめて、源ノ渡へ、嫁ぐまえか、あるいは、その後かも知れないが――何しても、遠藤盛遠は、いつかふかく、袈裟に恋していたものらしい。
盛遠は、夙に、勧学院でも、みとめられ、将来は、朝廷から学問料もたまわり、大学寮へはいって、文章得業生たり得ようとまで――属望されていたものであったが、近来のかれの素行は、それらの先輩や、同僚にまで、まゆをひそませ、
(――盛遠は、近ごろ、どうかしておる)
と、見放されていた。
かれの性来は、ひたむきだった。徹しなければ止まぬのである。博学も、剛毅も、雄弁も、ひとを群小輩と視るくせも、その自負から生じている。まして、恋には、なおさらである。熱しるに理性をともなわない血液と頑健な肉体と――狂にちかい情涙の持ち主ときている。
袈裟こそは、災難であった。盛遠にいいよられたときの、おののきも、思いやられる。
それは、執拗をきわめていたろう。一徹、わき見を知らない男の横恋慕である。
おそらく“いのち懸け”を示したろう。――が、かの女も、男の脅迫のことばに暗示を得て、同時に、“女のいのち懸け”を、胸に秘めたにちがいない。
盛遠は、ついに、死ぬか、狂気するかの眼ざしで、さいごの返辞をかの女に求めた。――袈裟は、それに、こういう誓いを与えた。前後を、しずかに、考えあわせて、すでに用意していた答えだった。
(……ぜひもありませぬ。十四日の夜の戌刻、良人の寝屋へ、さきに忍んでください。その宵、良人にふろをすすめ、髪のよごれも洗わせて、酒などあげて寝ませておきます。……どう仰っしゃっても、良人が生きているうちでは、あなたのお心に従えもいたしません。わたくしは、遠い部屋で、あなたが、ことをすませるのを、眼をつぶって待っておりましょう。――良人は、打物取っては、強者ですから、そッと、まくらに近づき、濡れ髪がお手に触れたら、さそくの一太刀で、首打ち落してしまうことです。ゆめ、打ち損じてくださいますな)
(――よしっ)
と、盛遠は、血ばしった眼でうなずき、その宵、そのとおりに、実行したのである。実に、何の苦もなく、濡れ髪の一首級を獲て、たしかめるまでもない気がしながらも、小坪むかいの簀の子縁に出て、おりふしの月あかりに、それを、かざして見たのだった。
(ちいっ! しまったっ!)
かれは、恋人の首を、持っていた。
生涯にわたる傷魂の深手――懺愧と痛涙と滅失のうめきを、このときの一声にふり絞って、かれは、腰をぬかしてしまった。
――獣すら、かなしむのか。人間の愚を、怒るのか。
そのとき、厩の馬――あの四白の青毛が、異様な声を発し、ひづめをあがいて、いななき止まない。
盛遠は、突然、立ちあがって、何か、哭きわめくがごとく、灯のない屋内へものをいった。そして、抱えていた、血と濡れ髪とにまみれた冷たいものを、いよいよかたく抱え直したと思うと、ぱッと、籬、萩むらなど、おどり越えて、鬼影のごとく、どこかへ、走り去ってしまった。
…………
以上、今までの調べで判明した内容を、忠盛は、衆に告げて――さらに、人びとへいうには。
『これは、一女性、一地下人の問題ではない。院の御徳を晦うし、われら武者所の名にもかかわる。もし、刑部省の手にかかり、朝廷のおん裁きをうけては、われらなんの面目やある。洛内十二門路、九条のみちみちの口、さそくに固めて、きっと、狂者盛遠を、からめ捕られよ――』
黒ぐろと、聞きひそまっていた無数の形は、寂然と、うなずいた。清盛は、うなずく弾みに、ポロリと、自分の涙を見た。――ひらかれた盲恋の瞼から。――そして、袈裟の美しさに、光りのちがう美しさを見た。もし、一歩をかえて、自分が菖蒲小路にひかれていたら、自分も盛遠と同じことをやったにちがいないと思う。痴者、狂者。どっちが自分で、どっちがかれやらわからない。清盛には、どうも逮捕の自信はなかった。しかし、やがて夜明けの門をわかれ立つ他家の手勢の気負いを見ると、かれにも、人に劣らぬ勇躍がわいた。朝霧をついて馳け向かう鞍馬口へ、野性の眼はかがやいていた。
袈裟の死は、洛中のうわさとなった。いろいろな、意味、意義をもって、話題をひろげた。
かの女を、知るも、知らぬも、
『あたら、心ばえのものを……』
と、かなしむ情は、かわらなかった。
その感情で、下手人の遠藤盛遠についても、
『悪鬼か。色きちがいか』と、いい、
『学才があると聞けば、なお憎い。あきれた痴漢よ。憎んでも、憎みたりぬ犬畜生』
とまで、みな、誹った。美を惜しむのも極端に、その反動も極端に――である。
しかし、事件への好奇や、ひとへの憎しみ、惜しみも超えて、袈裟の死は、たまたま、この時代の男女が、ぼんやりとしか、もっていなかった“貞操”の観念に、はからずも大きな眼ざめを与えた。
死をもって、貞操を守ったかの女の――“女の道”のかなしさに、人びとは瞼をあつくし、その清冽さに、驚愕したのであった。
だが、なんとなく、批判的にみえたのは、宮廷の男女、公卿たちであった。それに反して、わんわん市場の雑民たちの声にしても、一般は、袈裟の死を、悲しまぬはない。美しい犠牲と、口をきわめて、みないった。――夜々に、肉体を男に売って生きている六条の遊女たちまでが、袈裟のうわさには、ひとごとならず涙ぐみ、白粉垢に、生き疲れたたもとを、濡らしおうて、
『野辺送りの日には、花を持って、鳥辺野まで、行ってあげよう』
とさえいう幾人かがあったのは、たれもが、意外とした現象であった。
一時の感傷かとおもえば、そうでもなく、果して、袈裟御前の葬儀の日には、それらしき女たちが、衣を被き、笠をかぶって、たくさんな会葬者の中に立ち交り、鳥辺野西院の荼毘所に、名知らぬ贈りての花束を、いくつも残して、立ち去ったということである。
おもうに、それは、かの女たちが、個々、みずからの貞操へ、みずから手向けて、せめてもの残香を、身にもってみた慰めであり、秋の一日だったにちがいない。
六条裏に、世を生きても、たれか自分を貞操のない女だとしている女が、ほんとには、あろうか。実は、かの女たちの心のおくにも、追いつめられて奄々たる気息の貞操はまだ生きていた。男に切り売りしているものは貞操ではない。むずかしい説教や書物に訓えられないでも、女体の本質が、知っていた。時により肉体と本心を、二つに持つことを、余儀なくでも、悟っている。
不幸か、幸か、かの女たちにくらべて、この問題を、切実に考え得られなかったのは、後宮女性の一部や、貴族の深苑に囲われている黒髪長き花ばなであった。
この世をば我が世とぞおもう――藤氏の門に咲いた花は、食う、生きるの、生活のたたかいからは、幾世紀も、庇護されてきたが、ひろい地上に根をもたないし、“女の道”を自分の意志でひとり歩きするわけにもゆかなかった。貴族層の繁栄をつづけるために、すぐれた美質は、すぐ政略や猟官の具として、贈り物の切り花につかわれ、女を自覚する年ごろには、もう制度や位階や、多くの侍きの中の身で、女ではなく、

しかし、そうした春苑の女性たちも、袈裟の示した貞操のきびしさには、心のどこかで、何か女の真性に、水を浴びせられたような、心地がしたにはちがいない。――とまれ袈裟の死は、上下を通じ、女性の心には必ずかくされてある白珠のようなその本質へ、真実をもって、何か、ささやいていたことは慥であった。
否。袈裟のとった死と、貞操の守りかたは、かんばしいことではない。女性通有な、心のせまさから、思慮にまどって、つい、あんな行き過ぎへ、自己を、つき落してしまったものと思われる。――そう輿諭して、うわさを、片づけてしまう堂上人も無いではない。
こうした一部の公卿たちは、
『したが、ゆゆしいことではある。一布衣の妻が、良人の身代りに、邪恋の男の刃で死んだ――というだけなら、市井の一些事。何も院をあげて、騒めくにもおよばないが……問題は、武者所にある。武者所の紊れに』
と、まったく、批判の焦点を、べつに指摘した。
『かしこくも、院の御警衛に任じ、事しあれば、洛内の騒擾にも馳せむかい、ときには、伝奏をも仕る北面の輩が、近ごろの、放埓なる素行は、何ごとぞや、遠藤盛遠に似たるは、ひとりやふたりとも思えぬ』
『されば、このたびの曲事など、今どきの若い北面どもが、いかにも、やりそうなことではあるよ』
『すでに、袈裟の葬儀もすみ、事件以来、はや数日を費しながら、いまだに、下手人盛遠を、捕え得ぬなど、言語道断。ひとりの痴漢をからめ捕るにすら、かくも能なき武者所に、なんで非常のときを、恃めようか』
ここには、堂上心理のうごきがうかがえる。ヒソヒソ、コソコソ、眼顔の集まりが、やがては、声を大にしていう。
『この責は、忠盛にこそあるなれ。忠盛が、なお、おめおめと伺候するなど、いかがあろうか』
『かれや、武者所の所司』
『なかんずく、この春、諸国の牧の馬献上に際し、院の御けしきに、へつろうて、不吉なる四白の凶馬を入れ、袈裟の良人源ノ渡へ飼わせたるこそ、忠盛が科というも、はばからぬ』
『それよ、かりそめにも、禁忌を冒すまじきは、法令にまさる、堂上の大則でもあるに』
ついに衆判にかけて、議は、上皇のまえにまで、もち出された。
上皇は、お困りのようであった。ややもすると、眼のかたきに、すぐ忠盛を衆判にかけるような堂上たちの執こい反目は、遠い、昇殿問題に起因している。名誉に似た禍を、求めもせぬ忠盛に担わせたのは、余人でもない、御自分である。
けれど、誠実な人間へ、愛と信頼を感じてゆくのは、どうしても、しかたがない。君主の道でもある。上皇は、そう信じておられる。
ことには、近ごろのように、どことなく、世上の安からぬとき、忠盛を恃みに思し召しておられたにはちがいない。忠盛が院庭に見えぬ日は心さびしいと、仰っしゃったことすらある。
『そうそう。仁和寺へゆく日は、もう幾日もないのであろな……』上皇は、ふと、公卿たちのいかめしげな物議を、あらぬ方へ、交わされて――
『盛遠の追捕も、後日の詮議として、ほどほどに、ひとまず、止めさせては、どうか。凶相の馬を、渡に手飼わせたるは、忠盛の罪と申すが、ゆるしたのは、朕であった。お卿らが、山科道理をいいたてては、おかしいぞ。そうことあららげるな、余りには』
と、にが笑いのうちに、人びとを、なだめられた。
“山科道理”とは、当時の、はやり言葉の一つだった。山科興福寺の僧衆が、まいど、何千という大衆の示威をもって、柄のないところにムリな理屈をつけ、禁門や院へ強訴に押しよせてくる。これには、さきの上皇白河も手をやいて「朕が意にもままならぬもの、加茂川の水、すごろくの賽、叡山の荒法師」と嘆じられたこともある通り、ひとり叡山だけでなく、山科道理は公卿たちの最もおそれる横車なのである。
上皇の、この御一言に、うるさ方の公卿沙汰も、一応は、退きさがったが、しかし陰性は、即公卿性である。決して、熄んだわけではない。
ただし、盛遠詮議の辻立ちは、あすかぎりで止めよ、という院宣は、ただちに洛中各所の、武者の屯へ、つたえられた。
七日のあいだも、むなしく、みちみちの口に手勢を張って、盛遠追捕に、腐心していた武者所の面々は、この令に、恐懼もしたが、みな、がっかりした顔つきで、嘆じあった。
『そも、あの悪盛遠めは、袈裟の首を、抱いたまま、いったい、どこへ姿をくらまし去ったものぞ。地へでも潜ったか、どこかで、自害でもしてしまったのか』――と。
盛遠の行方は、杳として、分からずじまいになりそうである。
凶行の夜以来、それらしい影を見たという者も出ない。
辻見張は、即夜に行われ、検非違使の手もうごき、刑部付きの放免(後の目明しの類)も、洛外の山野、部落まで、嗅ぎあるいているが、なんの手がかりも、もたらさない。
ところが、きょう限りに、辻を解くという、さいごの日に、
『上西門院の内が怪しい。あそこには、かれの縁者も仕えており、むかしなじみも少なくない』
と、清盛のまえで、いった者がある。
清盛は、家の子十七、八名をつれ、西ノ洞院一条の北、大峰の辻に、眼をそろえ、ときには、家人を放免に仕立てて付近をさぐらせたり、往来人を検めたりしていたが、これを聞くと、はっとした。
『つい、足もとは、おろそかに見る。盛遠はもと、上西門院の青侍。後に、鳥羽院へ、移されてきた者だ。――あり得ること。しかも、その上西門院は、すぐ目と鼻の先でもあるのに』
奇功をえがく胸は、たかぶるものに、張りきった。薙刀を持ちかえて、
『おういっ、木工助。顔を貸せい』
と、遠いうしろの、家貞をさしまねいた。
『おれはな、ちょっと、上西門院まで行ってくるぞ。辻立ちも、今夕までだが、その間、ここを頼むぞ』
『上西門院へ。はて、何しに、あなた様が』
『くさいのだよ。じじ、あの内が』
『お止めなされ……』と木工助家貞は、顔を皺めて横に振った。『――場所が悪うござりまする。内親王さまのお住居を、窺うたなどと聞こえては』
『かまわぬ、何も、その御方を、お疑いしてゆくわけじゃない』
『――が、何事にまれ、院と朝廷とのお間は、ささたることも、間違うと、思いのほかな大事にたちいたりやすいこと。おわきまえで、ございましょうが。構えて、足ぶみせぬが、賢うござりますわい』
『いやいや、おれは行く。聞けば、衛府の輩は、おれたちの迂を嘲い、自分らの手で捕ってみせるといいおるそうな。――意地でもある。盛遠は、この手で、捕えてみせたいところだ。盛遠もまた、どうせ捕まるなら、おれの手にかかりたいと念じているやもしれぬ』
あやぶむ木工助を、眼の外に、かれは持ちまえの幻覚に熱していた。大きな耳たぶが、血ぶくろみたいに、赤くなるときがそれである。
『そうだ。盛遠も、のがれぬところと、観念すれば……おれを思い出しているにちがいない。この清盛を、待っているような気がおれにはする。――木工助。父上が見まわって来られたら、左様に、お告げしておいてくれい』
木工助の危惧を、なだめるためか、薙刀も預け、馬も用いず、かれはわざと徒歩で行った。もっとも、すぐそこといえる距離ではあるが。
大内裏の外郭をなす十二の門のほかに、べつに掖門として、上東門院と、上西門院とがある。王城の森の北端、殷富門の先に見えるのが、それである。ここには、鳥羽の第二の皇女、統子内親王が住まわれている。――袈裟も、もとは、ここの雑仕。盛遠も、遠藤三郎盛遠といい、以前、ここの侍所にいたことがある。
疑いうる理由は、充分だ。皇女のお住居だからとて、除外していいものではない。むしろ、匿まう者にも、潜伏する者にも、気づよい掩護を思わせているかも知れないのだ。清盛は、次第に、足が弾んでいた。
すると、清潔な大路を抱く松並木の横から、待てまてと、どなる声がした。――そこな雑武者待てと、つづいて聞こえる。清盛は、足をとめて、
『おれか……』と、わざと、面ふくらして、ふり向いた。
ここにも、衛府の侍が、辻立ちしていた。天皇と上皇のおん仲の冷やかさを映じて、武者仲間にも対立がある。――“雑武者”が癪だったにちがいない。清盛は、大きな眼で、大勢を迎えた。
どんな用でも、たれであろうと、ここは、通るを、ゆるさない。
もと、仕え人だった者が、街で事件をひき起こした。そのため、あらぬ疑惑を上西門院に向けられては、内親王へ、おそれ多い。――帰り給え、戻れ――と、衛府の侍たちは、名も問わず、用件も糾さず、ただ、さえぎった。
『いや、罷り通る』――肯く男ではない。清盛も、頑張った。
『そこの侍所まで、火急な用のあって、参らねばならぬ者』
と、まゆを昂く示し、
『いわでも、お分かりだろうが、鳥羽院の臣でござる。なんで、内親王さまに、御迷惑をおよぼすようなことを――』と、理屈をこねた。性来、はなはだ理屈ベタのかれである。その不得手をこねようとすると、顔ばかり染まり、いたずらに筋肉が隆起し、何か、精悍をあらわすのであった。いやに戦闘的な男とは、当然、誤解されやすい。
揉め始めた。――かれひとりと、十四、五人とで。
すると、上将らしい年配の武者が見まわって来た。しばらくは、ながめていたが、やがて清盛のうしろへ立ち寄り、かれの鎧の背を、一つたたいた。そして、いうことばは、さっきの雑武者呼ばわりよりは、もっと、子どもあしらいだった。
『平太ではないか。何を吐ざいておるのじゃ、何を。……小生意気に』
『あ。……これは』と、清盛も、その人には、青筋を、ひそめた。――とたんに、二月ごろの寒風と、かなしい日の、空き腹や、いまいましい銭などが、頭のうちに、ちらついた。
『叔父上でしたか。……ああ成程、これは叔父上のお手勢ですな。そういえば、見た顔の家人もある』
表面の萎縮とはべつに、内心は、よけいに業腹が煮えた。こいつらは、おれをおれと知って、あしらっていやがったなと、辱を、新たにしたからである。
兵部省出仕の平ノ忠正。この人と、叔母を思うと、すぐ銭の顔が、あたまに泛かぶほど、その堀川のやしきへは、金借りの使にばかりやらせられ、両親のたな下ろしと、いや味と、愚痴の百万べんを、よく聞かせられたものである。従って、叔父の眼にも、貧乏神の餓鬼みたいに、平太が見えるにちがいない。清盛は、そう、ひがんだ。宿命的に、この叔父の前だけでは、人の子の屑みたいにされ、ひがみ者として、置かれてしまう。
『なにが、なるほどだ。何がよ……平太。このごろは、ケロリとして、堀川へも、顔を見せんではないか。もっとも、おまえに来られて、一ぺんでも、ろくなことのあった例しはないからの。……ぶさたも、まず、めでたいが』
清盛は、羞恥した。鳥羽院の武者所を負って、堂々と、一人前な男を誇示していた手前にである。穴があれば、はいりたい。
『いけないでしょうか。……どうしても』
面目もすて、意地もすて、甥として、すがってみた。忠正は、ざっと、部下から聞きとって、清盛のねばる目的が、何にあるかを、すぐ看破したらしい。
『いかん。相成らぬ。なぜ、おまえは、反抗するか。忠盛どのも、よう、くそ意地を張る男だが、つまらぬ貧乏性に、おまえも、似るなよ。帰れ』
と、いい放した。それとともに、いかなる貴人の御車を見たのであろうか。あたふたと、上西門院の、門のまぢかへと、大股に歩み去った。忠正はそこで、牛車にむかい、礼をしている様子であった。
清盛は、足をかえした。ぜひない気もちだった。背になお、嘲笑を聞く思いがする。
『……どなたの牛車だろう。いま、上西門院を出て来られたのは』
振りむくと、牛は、こっちへ歩いてくる。網代廂、花うるしのはこ、轅、車の輪など、金銀のちりばめに、茜しかけた夕陽が映えて、まばゆい女車である。
しかし、内親王のお用いになる糸毛ぐるまでもなし、従者も見えず、ただひとりの牛飼童が、笹を持って、秋の蠅を追いつつ来るに過ぎないので、かれは、杉の木陰にたたずみ、眼のまえを、よぎる牛車の内を、無遠慮に見上げた。
『……あれ?』
たしかに上で、声が聞こえた。簾を巻き、牛を止めさせた。――と、思いがけない人が、外をのぞいて、平太と呼んだ。
『あ。母上……』無意識に、轅の横へとびついて『いま、上西門院を、お出ましになったのは、この車ですか。母上でしたか』
『なにを、いきなりそのように、急きこんで、たずねるのです。いつ会っても、そなたはわたくしへ、なつかしそうな顔もしない』
泰子は、五衣の袿に、いつもながら、艶やかに化粧していた。家で朝夕に見ていたときより、加茂で会ったときより、見るたびに、若くなり、見よがしに、着飾っている。
『つい、そこの御門側で、忠正どのが、あいさつに、待ちもうけていやったが、そなたのことは、何も、いいもしなかった。そなたは、忠正どのと、一つにいたのではないのか』
『叔父御は、近ごろ、母上へ、あんな礼を執ったり、親しく、寄ってゆくのですか』
『ま。……おかしげな』と、泰子は、清盛の勝手な口早さを、笑った。『わたくしの問いには、答えもせで、そなたは、ひとにたずねてばかりいやる。忠正とて、以前とはちがい、よう侍いてくれまする』
『堀川の叔母もともに、いつも口をそろえて、あんなに母上の悪口を申していたのが?』
『それですから、貧乏はいやでしょう。ねえ、平太。おわかりであろ。……わたくしが近ごろ、内親王さまのお気に召して、舞のおあいてに伺うので、忠正どのも、まるで、家従のように、よくしますの。わたくしに、よく思われなければ、あのひとも、出世のために、損ですからね』
『なアんだ、そんなためにか』清盛は、牛の足もとへ、唾をした。あの叔父らしい、と思うしかない。
また、この母が、上西門院へ伺候するのも、いずれは、中御門殿あたりの口ききで、むかしの、白拍子の地を出して、御興に取り入っているものにすぎない。叔父とは、よい肌合いだ。清盛は、父ならぬ父忠盛のほうが、こうしていても、はるかに、骨肉に感じるのだった。実の母を、眼に見ているときほど、かえって、思いは、そう募った。
つまらなくなる、浅ましくなる、悲しくなる。清盛は、母を見ると、不幸になる。牛の背なかの秋蠅が、やたらに顔を襲うので、それにも、焦らだち、逃げるように、別れかけた。
すると、泰子は、あわててかれを呼びかえした。そして、平太……と、母のくせに、艶いた眼を、子へ、して見せた。
『――そなたは、何かまだ、わたくしに、問いたいことが、あったはずでしょう?』
清盛は、どきっとした。母の蔭に、もうひとり、潜むがごとく、乗っていた人を見ると、瑠璃子であった。
『平太。……何も、話はありませんの。……ホホホホ。瑠璃子さま、これを平太へ、あげてくださってもよろしいでしょう』
瑠璃子は、うなずいたきり、泰子の肩の蔭へ、顔を埋めた。その下から、泰子は、めずらしい乱菊の剪り花を、一枝とって。――これは、内親王さまからいただいたのではあるが、瑠璃子さまから、そなたへ贈ってくださるという。そなたは、菊の花に寄せて、歌を詠み、その歌をたずさえて、近いうちに、中御門どのの対ノ屋へ遊びにくるがよい。きっと、よい歌をお見せなさい。瑠璃子さまの心に染むような、よい歌を――と。
『……?』
清盛は、のろい牛の歩みが、遠くになるまで、ぼんやり立っていた。――母のことばの裏が、その間に、解けた気がしていた。――母は、別れた良人の忠盛を、もっと、不幸にしたがっているのだ。自分を、男親のそばから奪って、見返してやろうとしているのではあるまいか。そうだ。瑠璃子を、おとりにして。
清盛は、手の菊を、いつのまにか、ちりぢりに、もみむしって、棒だけにしていた。――それを、ムチのごとく持って、もとの大峰の辻の屯へ返って来た。
二頭の駒と、人影が一つ、たそがれのつじに、立ち残っていた。清盛は、元気がない。その人を、案じ顔に待っていた木工助家貞も、元気がない。
『みなは、どうした。はや、引き揚げたか』
『院宣を奉じて、ひとまず、つじつじみな、この夕べ、ひき払うてござりました。……して、上西門院のお探りは』
『ムダだった。よせばよかったよ。……じじ、父上は』
『みちみち、お物語りいたしましょうず。まず、お馬に召されて』
清盛を、鞍へ、うながし、つづいて、かれも馬上となった。
『院へ、もどるのか』
『いえ、今出川のおやしきへ』
清盛は、はて? と思った。当然、こよいは集合して、ひとまず、忠盛から、武者所一同へ、何かの辞をなすべきである。また、院の上皇、別当にも召されて、慰労はなくも、向後のおさしずを、仰ぐところだ。どうしてだろう、不審である。
『木工助、何か、父上のお身に、さしつかえでも、起こったのか』
『あすからの御出仕を、ふたたび、思い止まられたやに、伺いました』
『や、ほんとか。……盛遠が捕まらぬとてか』
『内に、豪気をつつむ御方。そのような一事の責とも覚えませぬ。例のごとく、公卿たちの、殿への憎しみが、表になったものでおざろう。日ごろのあることないこと、非違、指弾の紛々のうるささに、さしも、かなわじと、敗れ果ててのおん顔……。じじも、無念の涙に、よう詳しくもまだ、伺うてはおりませぬ』
『じゃあ、また、籠居か――』清盛は、また貧乏かと、いいたかった。鎧が、急に、重たく思う。――木工助家貞はつぶやいた。
『ああなぜか、御連がひらきませぬ。かくも、主従、武者勤めに、まごころを、くだくといえども、時やら、世の悪さやら……。いッかと、御運の芽が』
清盛は、ふと、自分の声とも思えない意識で、馬上の歌みたいに、いい出した。
『おれがいるよ、じじ、おれが……。いったではないか、いつか、そちが。天地が生んだ一個のもの、手も足も片輪ではおざるまいに――と。その一匹がここにいる。なんの、運など、あてにすることはないわさ』
兄の帰りと聞いて、待ち迎える、弟たちの影だった。
清盛は、それを、わが家の破れ門とともに見ながら、馬を降りた。
ことし三ツの家盛を、背なかに負ぶって、門の外にたたずんでいた経盛は、三男の教盛と一しょに、そろっていった。
『兄者人。お帰りなさいまし。……父上も、先に帰っておられますよ』
『うん。七日の間も、みな留守で、チビ達はさぞさびしがっていたことだろう』
『え。教盛が、ときどき、お母さまの所へ行こうといって、泣くには、困りました』――いいかけたが、兄の顔つきに、ことばをそらした。『そうそう。兄者人が見えたら、すぐ奥へ来るようにと、父上が、お待ちかねのようでした』
『そうか。じゃあ、このままで、すぐ参ろう。……じじ。おれの駒も、あずけるぞ』
木工助へ、手綱を託して、清盛は、母屋の灯へ向かって歩いた。
さきに戻っていた郎党たちも、まだ、物の具を、解いていない。
女手も少ないし、ヘイライなども召し使っていない貧乏平氏の邸内では、武者どもでも、日ごろから、百姓もすれば、馬も飼い、厨も手つだうといったふうで、こよいも、辻立ちから引き揚げて帰ると、そのままの姿で玄米を炊ぎ、薪をわり、また、畠の芋や蔬菜など採ってきて――ともあれ大家族の晩飯のしたくに、夕煙りをにぎわい立てているのだった。
『平太です。ただ今、木工助とともに、おあとから戻りました』
『お。帰ったか。ご苦労であったな平太』
『父上こそ、七日の御奔命に、身も心も、お疲れでしょう。盛遠でも、からめ捕っておればですが、そのむなしさも、手つどうて』
『尽すかぎりは尽しておる。悔ゆるにも及ぶまい。盛遠とて、根からの痴愚ではなし、辻かための手にかかるほどなら……』
『やはり、どこかで、自害して、果てたものでございましょうか』
『なんの、おそらくは、死んでおるまい。そう、やすやすと死ねるほど、浅い罪業ではないからな。……いや、時に平太、そちならではの用がある』
『あ。なんぞ、急な仰せつけでも?』
『いそぎだ。厩のうちの馬を一頭、街へ出して、売って来い。そして、買えるだけの酒を買うて来てくれまいか』
『馬を……ですか』
『うム。どのくらい、酒が買えるの』
『それやあ、たいへんです。わが家の同勢では、三日かかっても、飲みきれません。……が、このお使いは平太でも、ちと、きまりが悪うございます。馬を売るのは、武者として、何よりの恥としてありますから』
『それだから、おまえをやるのだ。つらい恥に剋って来い。値によらず、早いがいいぞ』
『はい。では……』と、清盛は父の部屋から、すぐ、厩へ行った。――七頭いる馬のうち、三頭ほどは、自慢のものだ。あとの四頭のうち、どれにしようと見くらべるが、可愛くないのは、一頭もいない。
あわれ、駄馬といえども、これらの馬どもは、過ぐる年の、西国遠征のときも、生死をともにした仲である。どのハナづらも、朝夕に、何百ぺんなでてきたやつか知れないのだ。
日ごろ、塩小路のわんわん市場の付近では、馬市が立つのを知っている。清盛はやがて、そこでよく見る博労の家へゆき、馬を売って、酒を買い求めた。――大きな酒がめを三つほど、手車の上に乗せ、酒売りの男と一しょに押しながら、ほどなくまた、今出川へ帰ってきた。
晩い夜食とはなったが、秋の夜は長い。
ことには、この家として、めずらしい大振舞というべきである。
忠盛は、家の子郎党から、留守していた小者までを、広床の一間に寄せ集めて、
『思いのまま、飲んでくれい』
と、一同へ、酒瓶をひらいた。非常の備えに貯蔵してある塩魚や漬物も、開けさせてこういった。
『夜昼、七日の辻立ち。さぞ疲れたことだろう。こよいは、当然、院のお庭で、一統に、御酒も賜わるべきを、この忠盛に、不つつかがあったため、御門へすら、入ることなく、かくは引き揚げてしもうたわけ。――忠盛の不徳は、そちたちへ、こう詫びるぞ。いつかは、みなの骨折りにも、きっと酬ゆる日もあろう。今はあるかぎりの酒、忠盛の謝り酒ぞや。夜を更かすとも苦しゅうない。思うがまま、飲み歌うて、卑屈にならぬ武者胆を、養うてくれい』
『…………』しばらくは、声なく、みな首をたれていた。
およそ、宮苑や公卿の第宅では、管絃の音と歓酔のない夜はなかったが、地下人のまた下僕たるこれらの人びとの中では、酒に会うことなど、まれであった。行儀は、粛と、構えているが、匂いにすら、腸が、鳴くのである。
それへの自然な欲望と、忠盛のしみじみという労りとに、郎党たちの感情は、瞼に熱いものをもった。泣いて飲む酒もまた味がふかい――とするように、そよと、晩秋の夜気が、燭をまたたかせた。
『あれ見よ。貧乏でよいものは、庭面の風情だけだ。生うるがままな秋草の丈は、なんと、われらの風流にふさわしいではないか。さあ、飲もう、みなも、酌み合え、酌み合え』
忠盛は、院でも、大酒家の評があった。人びとはみな杯をとった。清盛も持った。
『――父上』
『なんだ』
『平太も、こよいは、父上の半ぶんほどは、飲んでもよろしゅうございましょうな』
『う……。うム? ……。が、なあ平太』
『は』
『飲むはいいが、六条裏へは、余りには行くなよ』
『やっ! こ、これは意外な』
清盛は、頓狂に、頭をかいた。それがいかにも、初心な肉欲の赤面をあらわしていたので、満座の表情は、どっと、笑いに変った。忠盛も、めずらしく、声を発して、笑った。
(だれが、いつのまに、父の耳へ?)
眼をすら、まごまごと、清盛は、いつまでもてれていたが、これほどいる家人のうち、中には、こっそり六条の遊女町を、のぞき歩いている郎党もいないとは限らない。抗弁は、無益と、かれは急にゴマかしにかかった。
『平六、平六。何ぞ歌え。近ごろ街では、おもしろい歌がはやっている。あれを歌わんか』
『和子様こそ、お歌いなされ。六条裏で、覚えたお歌でも』
『やア、何をいうぞ、父上の戯れ真似などして』
――こうなればもう無礼講だ。無礼講とは、つまり赤裸を見せあう人間講のことである。
突として、末座の方から「このごろ都にはやるもの……」という今様を歌い出す者があった。たちまち、大勢がそれに唱和する。鉢をたたき、手拍子をそろえ、清盛も歌う、忠盛も歌う。
舞う――踊る――というような行為を、この時代の人間は、特別な自分を示す意識ではしていなかった。殿上でも、陛下のまえでも、この通りなことはあった。田植え、耕作のあいだにも、百姓たちは、すぐ舞った。飯を食い、水を飲む意欲と、同じにである。田楽舞は、それから起こったものといわれている。
すこし余談になるが――
やはりその辺から由来したものであろうか。当時の道化踊りにあわせてうたう歌謡のうちに「蝦漉舎人之足仕」というのが新猿楽記のうちに見える。
えび漉き舎人はいずくへぞ
この江にえびなし下りられよ
えび交りの雑魚もやあると――
この江にえびなし下りられよ
えび交りの雑魚もやあると――
といったような歌詞で、そのことばの内容と、足仕という意味から考えると、近世の宴会芸術によく演じられる“泥鰌すくい”なる諸大家の芸能は、すでにこのころから世に行われていたものとおもわれる。
踊る者があり、歌う者があれば、また、一隅では、怒色をなして、酒に、欝をいわせている者があるのも、人間講とすれば、やむをえない。
『いや、分かっている、殿は、何もいわれぬが、いわぬお心を、おれは酌むのだ。おれは、こよいの御酒を、涙なしには、いただけぬわい』
『またしても、またしても、院の公卿どもが、いい合わせて、上皇と殿との、おん結びを、盛遠追捕の不首尾にことよせ、裂こうと企てておるらしいぞ』
『あな、うつけ。――らしいとはなんぞよ。らしいとは。殿のお肚がわからぬか。殿は、またお引き籠りと、きめておるによ』
『非違もないのに、なぜ、わが殿は、さまでに、お弱気なのやら。……おれは、たまらぬ、業が煮える。まるで、姑、小姑みたいな悪公卿どもの、もやもやを、見ておられる上皇も上皇だ』
『これ、様をつけて申せ。様をつけて』
『なんのざまはない上皇ではあるぞ。殿を、正しい者と、信じて、お愛しになるならば、側近の誹りや隔ても、なぜ、一蹴してはくださらぬか。そのこともなく、殿が、御出仕あれば、寵を示され、公卿輩が、嫉み出すと、見えすいた陰謀も、知らぬお顔というのでは、殿が、生殺しというものだぞやい』
『もう、いうな。天下の政治は遊ばすが、院中の侫官すら、ままならぬものがおありなのだ。……殿は、自分のために、その上皇さまを、お苦しめ申しては相済まないというお考えにちがいない』
『そこが、殿上輩の、つけこみどころよ』
『とく、昇殿はゆるされておるが、身はなお、地下人においている気もち――とは、つねに殿が仰っしゃっているおことばだ。それは、おれたちへ、いっていることでもあるぞ』
『ではなぜ、昇殿など、ゆるし召されたか。おれは、上皇に、伺ってみたい。鳥羽殿のおんまくらにも通えよかし、おれは、ここから怒鳴るぞ。怒鳴ってやる』
『ば、ばか』
口をふさぐ。顔を振りぬく。手と手で揉み合う。杯が酒を流す。――それを、清盛は、そら耳のように聞いていたが、やおら、身を起こして、その一かたまりの中にすわりこむと、
『やい、地下人めら、何をグタグタ泣きごというぞ。わいらは、蛙ほども、蛇ほども、知恵のないやつか。よく思え、百千種も、春の来ぬうちは、地下草だぞよ。地の下のものだぞよ』
と、両方の手をいっぱいに広げて、そこらにいた人間の頭を四つ五つ、ひと抱えに、ひざと胸とに、抱きしめた。
『まだ、わいら、観念がたらないぞ。ああ、地下草。よろこぶべし、芽こそまだ見ね、地下草なのだ。おれたちはナ。……な。……なアやい、不服か』
頭と頭は、清盛の腕の中で、腕の力が締め弛められるたびに、ゴツンゴツン、音をさせて、目から火の出るようなカチ合わせをさせられていた。痛いと逃げる頭もなく、なすがままになっている。うんも、すんも、みないわないのである。そして清盛の一つひざへ湯のような涙をながし合うのだった。
男くさい、酒くさい、異様な涙の蒸れに鼻をつかれながら、清盛は、親鶏が腹の下へヒヨコを抱え入れたときのように、昂然と、杯を招いて、ひと息にのみほした。
野へかえすと、家畜も、まもなく、野獣になる。
愛らしい、籬の植物でも、畑の物でも、同じだという。
人間の場合は、その還元が、もっと速い。――たとえば、ここに見る遠藤武者盛遠などにしても、そうである。いかに人間は、一夜のうちにも、原始の半獣人へすぐ還るものかを――かれの姿は、ありのまま、一つの生命に、ぶら下げていた。
(おれは、生きてゆくのがいいのか。死ぬのがほんとか。おれにも、分からなくなった。おれに、考えさせるひまも与えず、おれのあとから、たえずだれかが追け狙ってくる。おれは、休みたい。……すこし、どこかで、息づきたい)
かれは、のべつ「おれが、おれが」――と、つきつめている。「おれ」なるものは、とうに失っている自分であるのに。
あの夜。――菖蒲小路の一つのやしきから、魔魅のごとく、影をくらましたきり、かれは、ちまたを見ていない。
土に寝、木の洞にひそみ、食物も火も用いない物ばかり食っていたらしいことは――そのボロボロな衣服や、素足の血泥や、そして急に獣じみてきた眼つきにも、わかる。
学問、良識のあるかれ。――文章得業生をも属望されていた秀才とは、これなのか。
こんなにも、あとかたなく、身にとどまらない才学とは、ゆめ、思わずに、ひとを衆愚と視、誇を高うしていたかれだろうに、おもかげもない。
あるのは、とにかく生きている――歩けばうごく生き物の――いのちがあるといえるだけである。
チチ、チチ。小鳥の音は、よく耳に透る。兎や鹿を見れば、親しまれる。盛遠は次第に山の鳥獣たちが、自分の仲間に思われていた。――が、ガサとでも人間の気はいに襲われると、満身の毛は、すぐ針になった。
『――来たなッ』
抱えているまろい物を、かたく持ち直したまま、しばらくは、虹のような眼気がおさまらない。
かれの狩衣の片そでが、そのまろい物の包みに用いられていた。あの夜以来、かれが、かた時も手ばなさない袈裟の首級にちがいなかった。露や土にまみれ、にじみ出た血しおは漆みたいに干乾びている。――あまつさえ、十数日を経ているので、異臭をもってきたことは、いうまでもない。
けれどかれは、夜も抱き、昼も抱き――抱いて、とろとろと、まどろむときは、夢のなかに現身の袈裟をみた。
袈裟は、かれだけには、いまも、容色を変えていない。私語するときの衣ずれや、においや、体温すらも、まざまざと、かれにはわかる。ひたと、身を寄り添うてくるのでもあった。――かれのまくら元には、朽ち葉に巣をつづる土蜘蛛がはい、陽をみぬ菌が妖しく生えならんでいようとも、それはかれの事実ではないのだ。かれは思いのまま仙窟を夢のなかに呼び降ろした。上西門院の花園に、かの君もまだ稚く、自分もまだ小冠者であった日の、女蝶男蝶のようなふたりがチラチラ相会うのである――。あわれ年ごろ恋い痩せの男の、狂い死にをも、見すごし給うか。この苦患を救いたもうもの、君をおいて、あらじを、あな、つれなき君かな。なんとて、渡が妻にはなり給える。かりのおん情たりとも、一夜、まくらを交わし給えや。夫あるひとの垣の、あだし妻花を寝盗むの科、その罪業十悪を越え、無間地獄の火坑に落ちんもよし。何かは、この想いの苦しみにまさるべきかは。――盛遠は、夢に、うなされぬくのである。
炎に似た夢は、袈裟の睫毛をふさがせ、閉じたる唇を、舌もてあけ、袿のみだれから白い脛や、あらわな乳のふくらみを見たりする。けれど、どうしても、どうしても、なお、焦きただらし得ない、何かがある。かれは、かの君のくろ髪をつかんでも想いを果そうとあせり焦らだつ。――はッと、夢は、いつも、そのときの、もがきに、さめる。惜しくも、さめてしまうのである。
そのあと。――盛遠はサメザメと泣きつづける。夜半の万象も、声をあわせて、かれのために哭く。
その夜も、妖しい夢の疲れと、慟哭に明けたある朝――未明のころである。
蹌踉と、所も知らず、歩いていたかれは、ふと、違った知覚に衝かれた。颯々と、氷のような冷気に頭を吹きぬかれた。耳の穴からも、脳の中枢へも、どうどうと、暴風のほえるに似た音響がこみ入ってくる。
『おや。……ここは、鳴滝だ。……高雄への道。ああ紅葉』
かれは、満山の濡れ紅葉に、眼をこらした。まだ、朝の月もあるほの明りなのに、けさほど、あざらかに、物の見えたことはない。それは、自分を見出したことでもあった。
九月十四日の夜のことが、忽然と、その場へ、ふたたび身を置かれたように思い出された。――あとに遺された衣川の媼の嘆きや、源ノ渡の恨みや、院の友輩の嘲笑、世間の誹りなども、声をそろえ、形相をなして、おそろしいばかり、自分をほえ責めている。――鳴滝川にほえ狂う、しぶきがみな、それに聞こえるのである。
『死のう。……生きて、世に、面向けのなる身かは』
突然、かれは、奔流へ向かって、答えた。よろ這うて、一つの巌頭へ取ッついた。そして、下をのぞいたが――そのとき、かなたの岸から、石切り男の一群が、瀬の岩から岩を跳び渡って来るのが見えた。盛遠は、パッと、すぐ逃げた。もう習性なのである。一気に、山の上まで、逃げのぼった。
抱えていた物を、前におき、どたと、大地へすわりこんだ。はだの汗ばみを意識してか、胸毛をなでまわして、しばらく大きな呼吸をくり返していた。
自害の意志は、変っていない。正気をとり戻していると思う。――ゆるし給え恋人。かれは、眼のまえの人に掌をあわせた。
おもい出される限りの人びとの名を称え、かれは、同じように、心で詫びた。そして、袈裟の首を、包みから解いた。――見てたまえ、死をもて詫びる盛遠の最期を。いまは、おなじ空骸となる身ながら、ひと目、世の面影を、見て果てんものを――と。
『…………』
漆に似た液体に乾びついて、みだれた黒髪はほおといわず額といわず、藻のようにはりついていた。――凝然、盛遠は、またたきもしない。
なぜか、涙も出ない。
ああ恋人――かの君――とは、この物か。
ただまろい土塊にしか見えなかった物は、あたりの白むにつれ、次第に、すだれのような髪の毛の下に、骨ばかりになった皮膚の異様な変りかたをあらわした。一片の干貝のような耳、青蝋を彫りくぼませたような瞼のあたり、そして、紙のカビみたいな斑点までが、浮いてきた。それらの、形象は、どうしても、個々に見えて、もうふたたび、一つの顔として見ることは、不可能だった。
『……ああ! 大日。……大日如来』
そのとき、盛遠の眸は、土くれに近い亡骸から、突然、はるかな空へ、ひかれていた。――いつか、かれの真正面に、まっ紅な太陽が、さし昇っていた。洛中の屋根も、東山連峰も、塔の尖も、なべて一面の雲の海であり、見たものは、巨大な光焔の車だけであった。
ふと、かれは、思い出した。
弘仁のむかし、それは仏教にまだ、さんらんたる生命のあった世のころではあったが、嵯峨天皇の皇后、橘ノ嘉智子は、人間の中に二度とこのような麗人は生まれないだろうとすらいわれたほどな美貌でおわしたのに、人身の常、やがて崩ぜられた。しかも、その御遺旨には、
(自分の屍は、都の西郊に捨てて、世の色餓鬼たちの見せ物に与えてください。腐爛したわたくしの亡きがらを見た人は、おそらく何か考えることがありましょう)
と、あったので、お心にはそむき難く、今までにない、林葬という違例をとって、おん亡骸を、野鳥や山犬の弔いに、委せたということである。
橘ノ嘉智子と、袈裟ノ前とが、かれの頭のうちで違わない人に思えたとき、かれは、新しい呼吸をし直した。生々久遠の美と光をもつ日輪のまえに、悩むこと、惑うこと、苦しむこと、何一つ、価値があると思えるものはない。――笑いたくさえなる。
だが、人間はある。果てなく生まれ次いでゆく。宇宙観の冷厳だけで、それをいいきってしまっては、人間とは、余りにも微小であわれ過ぎる。せめて、人間の中の範囲で、価値を見つけて生きあうのが、はかない者同士の世の中というものではあるまいか。――と、思い出したかれは、何か、地上の価値を見つける者のひとりになろうと思った。生きる愚よりは、死ぬのは、なお大きな愚だと思った。
草庵というよりは、簡素な山荘という方がふさわしい。
鳴滝の上流と、清滝の水とが交叉している渓川橋をわたって、高雄道八丁への途中、栂尾の山ふところに、覚猷僧正は、時どき来ている。
鳥羽に住んだり、栂尾へ来たりしていたが、世間では、鳥羽僧正で通っている。叡山の天台座主もやり、三井寺にもいたという僧歴はあるが、いまどきの法師は、大薙刀を振ったり、火攻め夜討ちにも、勇敢でなければならない。僧正は、人にいっている。
『わしには、とても、喧嘩はでけん。生まれ変ってでも来ぬことには、坊主になる資格はないでの』
そこで、山荘には、坊主を置かない。青侍一名と、小舎人三人ほど、召し使っていた。
『俗のお暮しやら、法師のお住居やら、とんと、分かりませんなあ』
人が、怪しめば、僧正は、澄ましていう。
『イヤ。わしの下僕ではないよ。京の邸の者が来て泊っておるのじゃろ』
要するに、僧正の生活は、方便に従っているものだろう。また、親ゆずりの横着者ともいえなくはない。
僧正の親は、僧正自身がもう七十すぎの老人であるから、断るまでもなく、世にはいない人だが、宇治の亜相と人びとから愛称され、皇后宮大夫をも勤めていた宇治大納言隆国であった。
隆国は、関白頼通の門をも、馬で乗り通ったというほどだから、公卿に似あわない面がまえの男であったらしい。が、多病で――などといいたてて、早くに、堂上仕えをやめ、夏は、頼通の別荘、宇治の平等院へ間借りして、避暑がてら、「今昔物語」の著作などやっていた。小机のまえに、葛布の単衣をはだけて、へそもあらわにすわりこみ、往来の旅人や、界隈の雑人たちをつかまえては、
(何か、話せ。めずらしいことはないか。なんぞ語れ)
と、耳ぶくろへ入れては、ひとりの童に、大団扇で汗をあおがせながら、筆を執っていたという。まことに、おかしな風格をもっていた人物であった。
僧正は、その隆国の何番目の子かしれないが、とにかく、食べるに困る人ではなく、法衣は着ても、坊主は、ふるふるきらいで、好きなのは、絵であった。絵ばかり描いて楽しんでいた。
その絵も、古今を通じて、類のない絵であった。長く鳥羽にいたので、世人はそれを、鳥羽絵と呼んだ。
さきの白河上皇の前でも、召されて、描いたことがある。図は、たくさんな米俵が、大風で宙に吹ッ飛んでいるのを、大童子や小役人が、アレヨアレヨと、騒いでいる狂態である。
(ははあ、おもしろげではあるが、なんの、意味であろ?)
公卿たちが、いぶかり問うと、僧正は、
(近ごろ、供米のお取りたてが、余りにも、きつ過ぎるとて、下じもでは、俵のうちに、いろいろな思案でもつめこんで、供出するしかないというておる。……で、今に、俵も風に飛ぶほど、軽くなるであろうと思うて)
と、答えて、退がったという話もある。
また、南都、叡山などの荒法師の行状やら、公卿堂上たちの奢りやら、後宮の迷信だの、官職の争奪だの、およそ社会愚や人間悪の目につく弊をことごとく漫画にした鳥獣戯画という幾巻かの絵巻を描いて隠し持っていられるのを、こうて、見せてもらったという人もある。
人間を、獣に擬して、狐と兎の競馬だの、狸僧正の祈祷だの、また衣冠した蛙同士の喧嘩やら、示威運動やら、化かし合いやら、見方によっては、おそろしく世を憤っているか、あいそをつかし果てたか、どっちかの、諷刺である。
ところで。――きょうも僧正は、何か、世間への悪態を絵筆にいわせて描いていたが、途中、客があって、反古も硯も、そっち退けになっていた。
客は、僧正から見ると、孫ほども年のちがう、院の北面の侍、佐藤義清であった。
『まことに、おうらやましい御生活ですな。お会いするたびに、思います。僧正のように過ごされてこそ、ほんとの、人間の生涯。自然とともにある生命と申すものであろうと』
『うらやましければ、あなたも、すきのように、生きたがよかろうによ。どうして、ひとをうらやんで、自分ではせぬかな。わからぬのう』
『なかなか、やさしいことではござりませぬ』
『そうかのう。……山に住めば、都を恋い。都に住めば、山を恋う。アハハハハ……果てしがないかのう?』
『――あ。僧正。お描きかけの絵が、風で飛びちります』
『絵反古か。あ、放っとけ。……客人、きょうは、紅葉見か。歌でも、お拾いか』
『いや、仁和寺まで参りました。先ごろの、御幸のあとの、御用もおびて』
『ホ、そうか。よう競馬ばかり御覧ぜられるの。やがてものものしゅう、世をあげての、人間の悪さ競べにならねばよいが、武者所など、さしずめ、悍馬、奔馬、じゃじゃ馬などの、集まり所。……こわいのう』
ふいに、陰部屋をふり向いて、僧正はわめいた。
『童よ。いいつけておいた柿はまだか。――客人に、柿なともいで来て、もてなさぬか』
答えはなく、山荘の裏のほうで、何か、ひそひそ、人声がしていた。
と、庭をまわってきた青侍が、縁先にひざまずいた。――いま、近くに住む石切りたちが、色を変えて報らせに来たと、伝えるのであった。――それによれば、けさから、この付近に、異な風体の男がうろついており、狩衣の片そではやぶれているし、素はだしで、なんとも、腑に落ちないところから、それとなく挙動を注意していると、一たんは、槇尾の密林にかくれて、手に大事そうに抱えていた物を、地へ埋けようとする様子であったが、人の気はいを覚ると、高雄の奥へと、飛鳥のように、かくれこんだ――というのである。
『なんぞよ、それが……』僧正は、興もない顔つきを示して。
『つまらぬことに、関ずらうな。追うつもりか、そのような者を』
『は。……とも思いませぬが、石切りどもが、夜盗ぞ山賊ぞと、捕えたがって、騒ぎますので』
『やめよ、やめよ。俵も風に舞わねば食えぬ世間とか、みながいう。盗人も、かせぎのたびに捕まっては、その者は、獄で食えても、盗人の妻子は、生計がたつまい。……のう、客人』
義清は、ふと、物思いに、とらわれていた。軒ばごし、高雄の峰の雲でも見るのか、遠心的な面もちであった。――何かいま、答えそびれをしたような気もちを機に、長座を詫びて、かれはまもなく、山荘を辞した。
鳥の食いのこした山柿が、晩秋の空に、まっ赤だった。峰の雲には、石切りの鑿の音が、冷やかに、こだましていた。
黄菊白菊は、この都では、道ばたの、ただの雑草でしかない。
霜がおり、もずの声が耳につき、その菊叢も枯れそめると、都もどこか、荒涼とながめられた。
『……はてな。こんな場末に、朝臣の家などがあるかしら。どっちへ出ても、雑人町のあばら家ばかりだが』
十月のある日。小春びより。
清盛は、父忠盛の手紙をもって、丹波口、西七条のあたりを、うろついていた。
父のことばによれば、
(時信どのは、穀倉院に勤めておられるから、そこへお訪ねしたがよい)
と、簡単だったので、穀倉院へ行ったところ、そこの吏生がいうには、
(お見えになっていましたが、何か、先例を調べることがあるとかで、大学寮へ行かれたようです。大学寮の書庫へ行ってごらんなさい)
とのことだった。
勧学院も大学寮も、またその穀倉院も、みな壬生の一地域なので、遠くはない。しかし、宛名の人は、そこにもいなかった。
(たぶん、もうお帰りでしょう。このごろは、公務もおひまのようですから)
御自宅は、西七条というのも、書庫の吏生に聞いてきたことなのである。――が、歩いてみると、それらしい屋敷も見えず、ここらあたりの、道のわるさや、戸毎の不潔さといったらない。
唐朝うつしの、官庁楼門や、純大和様式の皇居、離宮、公卿館のある地区などは、ひとまず、幾世紀の風化と、人文の調和のもとに、この国の平安京をつくりあげてはいたが、隈なく歩いてみると、市坊の裏や場末には、今なお、あちこちに、穴居の民からいくらも進んでいない貧しい部落と未開土を、まだらに抱えていることがわかる。
下駄作りの家、鍛冶師の小屋、紙すきの家族、革をなめす人たち。――染屋は、手くびに自分の色を持ったこともなく、かせいでいる。
年ごとの秋の出水に、この界隈は、やたらに池や小川ができ、かせぐ親たちから目のかたきにされている子の餓鬼たちが、鴫にわなをかけたり、釣をしているかと見れば、疫痢の病人を家にもつ女が、病人の汚物を捨てるにかっこうな場所ともして、鮒の稚魚だけは、よく肥えていた。
『……さて。たずねてみるしかあるまいて』
清盛は、立ちどまった所の付近を見まわした。――と、人垣をなして、何か、わいわい騒いでいる群れがある。ケケケケコッ……と軍鶏のするどいなき声もする。
『ア。やってるな。鶏合わせだ』
清盛も、いつか、その人の輪に、一つの顔を加えていた。
そばの家は、鶏師の宿であろう。かみさんや、老婆や子らまで、縁先へ出て、見物しているのだ。そして、往来の者を、立会人として、恐らしい顔つきをした鶏師とその弟子は、秘蔵の鶏かごをうしろにひかえ、挑戦にきたひとりの小冠者と、勝負の賭け物を、公約している様子なのである。
『銭でこい。ささいな賭け物では、鶏を傷つけるだけでも、わりにあわねえ。銭なら、闘ってやるぜ。小冠者、銭をもってきたか』
と、鶏師はいう。
『あい。銭でもいいよ』
小冠者は、十四、五歳でもあろうか。とはいえ、小がらに似げないふてぶてしさを、抱えている一羽の軍鶏の眼ざしとともに示して、すでに、あいての大人を、なめてかかっている笑靨である。
『いくら。……いくら賭ける? おじさん』
『よし。これだけこい』
鶏師は、小笊の中の銭を、何枚もかぞえた。小冠者も出して、一しょにおいた。
闘鶏は、堂上たちの間にもはやっている。陛下もまま御覧になり、院の庭でも、行われる。――が、これは血ぐさい遊戯なので、禁裏の催しには、春ならば、藤花をかざり、牡丹の台をつくったりなどして、陪観の公卿朝臣も、みな衣冠をただして、中門廊のうちにいならぶのである。参入に、儀式があり、笙、ひちりき、和琴の奏楽などのうちに、さて、いよいよ、鶏と鶏との、飛毛絶叫のたたかいが演じられるや、念人、判者などがあって、余りには、殺気のすさまじくならないうちに、羯鼓を打ちならして、引きわける。――こうして、何番勝負かののち、酒餐をたまい、伎女楽人の舞があって、一せいに、唱歌しおうて、秋ならば、菊、桔梗などの一枝一枝を家土産に、終日の歓をつくして終わるのであった。
だが、凡下の興は、実質である。博奕としてしかこれを見ない。闘う鶏のながす血に、自分にとっても血以上の、銭をかけて、かたずをのむのだ。
たたかい合い、さけびあい、双鶏の爪、くちばしに、阿修羅の舞を見るがごときとき――ばくちの魔魅に憑かれた人間たちこそ、鶏以上にも凄愴な殺気を面にみなぎらせてくる。
わが子は二十歳になりぬらん
ばくちしてこそ、ありくなれ
国々の、博徒に。
さすが子なれば憎かなし
守らせたまへ
王子の住吉、西の宮。
ばくちしてこそ、ありくなれ
国々の、博徒に。
さすが子なれば憎かなし
守らせたまへ
王子の住吉、西の宮。
「このごろ都に流行るもの」という俗歌のうちの一節である。ガニ打ち、すご六、鶏合わせなどと、博奕ばやりは、上下を通じての時風であった。――市人の闘鶏に熱するや、かならず戦乱あり、などといって、やかましく凶兆を説く陰陽師もあるが、堂上ですらしていることなので、検非違使の取り締りも、ききめはない。――いや、その検非違使庁のうちでも、おりおり、鶏の蹴合う叫びを聞くといううわさすらあるちまただった。
『……いいかい。おじさん』
小冠者は、気負う鶏を抱えながら、相手の鶏と、距離をとって、しゃがみこんだ。
『まてまて。まだ、周りの人が、賭けていらあ。あせるな、小冠者』
鶏師は、さすがに、構えが良い。
闘うまえに、小冠者の鶏の精気を疲らしてしまおうという戦法だろう。落ちつき払って、
『さあ、お立会、ただ見ていても、つまるまい。賭け召されい。なんぼうでも、賭けてこそじゃぞ』
と、戯れ口半分に、まわりの顔を、見まわしていた。
銭の音がさかんに始まる。たちまち、判者だの、胴元なる者があらわれている。だが、鶏師の鶏にばかり賭けてが多く、小冠者への賭けは、はかばかしくない。
『よしっ、あとは、おれが賭けた』
清盛は、つい、どなってしまった。自分の声にはッとしてから、ふところの金をあらためた。さきごろ、馬を売って酒を買ったときの残余を、父忠盛は、出せとも見せろとも、いっていなかった。それがある。
『できた』
判者が、いう。とたんに、眼ばかりになった大勢の顔が、さあっと、すごみをつつんで、地を掘るように、一点を見つめた。
『小冠者。おぬしの、鶏の名は』
『獅子丸。……鶏師、おまえの鶏は』
『知らないか。黒金剛ッていうんだ。ゆくぞ』
『待った。合図は、判者がするものだ』
『小僧、生意気に、本格をいやがるな』
鶏と鶏は、もう、首をつき出して、人間ならば、逆上っている血相に見える。――判者の合図。――パッと放つ。砂がとぶ。血のついた毛が、羽ばたかれる。生きるか、死ぬか。取るか、取られるか。
――その闘争は見ずに、見ている人間たちの眼ばかり観て楽しそうにしている老人があった。僧衣を着ているが、供の舎人をつれ、草履ばきで、つえのあたまに、顎を乗っけていた。
『……あ。鳥羽絵の僧正だ』
清盛は、あわてた。かれとて、つじばくちは、よいこととは思ってはいない。以前、院の上皇に召されて、鳥羽殿にも伺候したことのある人に見られたのは、なんとしても、ぐあいが悪い。
しかし、より以上、賭けものが心配だし、逃げもならず、そばの男の蔭にかくれかけた。とたんに、わっという声だった。勝負はついたものらしい。――勝った銭と、勝ち鶏の獅子丸とを、胸にかかえこんだ小冠者の影が、まるで翼のはえた小天狗のように、清盛の体をかすめて、一目散に、かなたへ馳け去ってゆくのが見えた。
『伊勢どのの小殿。伊勢どのの小殿。――どこへ行かれる』
『あ。……これは、僧正でしたか』
そらとぼけて、歩きだしたのに、清盛は、呼びとめられて、大いにてれた。
しかし覚猷は、今どきの若い者に、赤い顔をさせるようには、いわなかった。
『おもしろかったのう。わしも、小冠者の鶏の方が勝つと思うとったが……やはり、勝ったナ。若鶏の方が』
清盛は、ほっとした。――そこで、図にのって、いったものである。
『僧正は、お賭けになりませんでしたか』
『あはははは。わしは、下手でな』
『でも、お考えが中たっていたではございませんか』
『いや。何も、鶏目利のように見たわけではない。鶏師の鶏は、わしのような鶏。小冠者の鶏は、和殿のような若鶏。……喧嘩すれば、知れていることであろ。――だが、和殿は、せっかく勝った賭け物を、だいぶ、胴元とやらいう男にゆすられたようだの』
『僧正がわたくしに損をさせました。僧正が見ていらっしゃらなければ、喧嘩してやるところだった』
『いけない、いけない。あとの喧嘩は、和殿の負けじゃろ。あの男たちは、鶏師の同類だよ。わからんかな。……いや、あまり分からぬもよし。ときに、父伊勢どのはまた、院の出仕もひかえ、籠居と聞くが、お元気か』
『はい。元気でおります。ことをこのまぬ父なので』
『お気もちは、わかる。鳥羽の画僧が、お体を大事にせよと申したと、ことづけて給われ』
『ありがとう存じます』――別れかけたが、ふと。
『物をおたずねいたしますが、この辺に、穀倉院の案主時信さまのお住居があるものでしょうか』
『お……。前の兵部権大夫時信どのかな? ……。お汝、知らぬか』と、僧正はまた、供の舎人にきく。
供の男は、知っていた。
この七条畷を行くと、なお西に、延喜年間の社という水薬師がある。藪をへだてた境内の隣りがすぐそれである。平氏の蔓につながるお人の不遇と貧乏はいうまでもないが、兵部仕えには不向きな学者肌で、穀倉院でも変人と評判のあるほどだから、そのおやしきとて、想像のほかであるやも知れない。――などと、舎人の教えかたは、つぶさだった。
『はははは。それでは、和殿の父の伊勢どのと、まず、似た人と申せばよい。長袖のうちにも、忠盛風の者もあるとみゆるよ。……おお、小殿。忠盛どのに、こうもいうておいて欲しいぞ。栂尾の山も、そろそろ寒うなったので、わしも、鳥羽の庵にうつり、冬じゅうは、戯れ絵など描いて、籠り居してあるほどに、まれには、遊びにわたられいとな。……』
いいのこして、覚猷は、道をべつに、別れていった。
それからまもない後。――清盛のすがたは、水薬師の大藪道を通って、一軒――というよりは一郭といったほうが正しいほど長い土塀の前に立っていた。
『なるほど、これはひどい破れ門だ。わが家のほうが、まだ貧乏も小ぢんまりしている。……これでも、中に、人が住んでいるのかしら』
たたけば、こわれそうな門の扉である。いや、たたく必要もなく、二尺ほど、曲がって、すいていた。しかし礼として、清盛は外から訪なうことにした。頼もう、頼もう――を二度ほどくり返す。――と、内に足音がして、ガタ、ガタンと、厄介な門の扉を、持ち上げ気味に開けながら、ひょいと、顔を出した少年がある。
『おや……?』と、小冠者は、眼をまろくした。
『やア、さきほどは』
意外であった。しかし奇遇は、親しみを急速にするはずである。清盛は笑いかけた。ところが、小冠者は、かれをおいたまま、妙にあわてて、どこかへ隠れこんでしまった。
水薬師の池からわく清水は、土塀をくぐって、やしき内を流れていた。布を投げたような曲線が、釣殿の床下をとおり抜け、せんかんたる小川の末は、東の対ノ屋の庭さきから、さらに木立をぬい、竹林の根を洗って、邸外へ落ちてゆく。
むかしは、別荘ででもあったものか。自然の風致に申しぶんない。しかし釣殿といえ、寝殿といえ、こうも朽ち古びている館は、洛外でもめずらしい。ただ、さすがに庭面は、主のゆとりというものか、この自然をよく生かし、掃除もとどいて清洒である。
『……おや。だれかいるな』
ヘイライひとり出て来なかったが、ふと、泉殿のほとりを見ると、姉妹ともみえるふたりの女性が、裳をからげ、そでもむすんで、白い脛もあらわに、流れで何か濯いでいた。
『あ。……ここの姫かしら。そうらしいぞ』
清盛はにわかに、きょうの使が、楽しまれた。
姉妹とすれば、姉なるひとと妹との、間の者が、さっきの小冠者にちがいない。――妹はまだうない髪の童女である。姉のほうは、さて、幾歳かしら。
『ははあ。糸を染めておいでなさるのだ。染桶があるし、勾欄から紅葉の木へ、濯ぎあげた五色の糸を、懸けつらねて、干してもある。……はて、何と訪なおう。おどろかしてもよくないし』
だが、かれが言葉もかけないうちに、幼い姫が、かれを見つけた。姉に何か告げている様子である。と思ううち、急にふたりとも、対ノ屋の方へ、走りこんでしまった。
あとには、水禽だけが、游んでいた。清盛は、腹が立たなかった。むしろ、よいいとまをもったように、流れで、手など洗い、曲がっている烏帽子を、まっ直に、正したりした。
『よう。……平太どのでおわそうが。何しておられる。さ、上がられい、上がられい』
渡殿の廊から、こう聞き覚えのある時信の声である。客として、わが家では、何度も迎えたことのある人。清盛は、いんぎんに、礼をした。
通された室は、調度とて、ろくにないが、清潔ではある。
すすめられた円座にすわって、清盛は、父からの書面をわたした。――が、時信は、
『ア、そう……。ご苦労だったの。……和殿は、初めてだったかな? この家には』
などと対話につとめて、手紙のうちの用向きなどは、さきに分かっているような顔つきだった。
いろんな世間ばなしを向けられる。清盛は勧学院の了試(試験)へ出たときのようにかしこまった。時信が、学者はだなせいかもしれない。いや、もう少しその心理は複雑だった。幼い下の姫は、ともあれ、姉のほうは、かれにとって、問題である。親の時信の、不精ひげだの、いやに高い鼻だのを、あまり好まないものにながめながら、胸のうちでは、もう人知れず、空想の奏楽がしきりだった。
なぜか、単なる文使いにすぎない自分に、やがて酒が出され、膳が出たのを見て、清盛は、いよいよこれは、ただごとならずと、予感をもった。
ずぼらで、粗いくせに、一面には、竪琴の絃が微風に鳴るような神経がかれにはある。いわんや、父忠盛にあるこのごろの気もちや、こうして、面とむかいあっている時信の心ぐらい、読みきれないかれではない。
(ははあ……)と、解けて、解けない容子もしていられるかれだった。ずるさではなく持ちまえの大まかな顔の徳なのだ。そこで、円座いっぱいにすわりなおして、ひけ目は禁物、大いに飲んで、充分、こっちの人間も見せ、かの女の美か否かも、はらをすえて見るべきだと、ひそかに思う。
姉なる姫は、おりおり、席にすがたを見せては、また、気をもたせるように、ひっこんでゆき。また、いつのまにか、父のそばに、侍っていた。美人とはいえないが、一人前ではある。下ぶくれで、肌理白く、有難いことには、おやじほどには、鼻もとがり過ぎていない。
でも、親の時信には、秘蔵のむすめには、ちがいなく。
『さきほど、泉殿で、見かけられたであろうが、これが姉の姫じゃ、時子というてな。……え? 妹かの。滋子の方は、まだ、まことに、幼のうてな。呼ばせても、ここへ来おるまい。まあまあ呼ばいでもよい』
時信は、こう、ひきあわせたが、心なしか、微酔の眼もとに、老の影を、ただよわせた。
姫たちの母は、すでに世に亡い人だともいう。男手に子を育てる苦労は、忠盛どのもお分かりだが――とも、述懐する。
酔うほどに、この男親は、自分が、世と妥協のできない性格のために、むすめたちにも、ほとんど、処女の楽しみらしい思いは何もさせずに来た――ということを、笑い泣きみたいに語るのであった。そして、座に侍る時子のすがたへ、親の眼を、ちらと、無意識に向けては、またいった。
『十九でおざるよ。……もうすぐ二十歳ともなるのに、客人のまえでは、よう、ものも得いわぬ方でなあ』
十九か。と清盛はちょっと、がっかりした。時代の常識では、おそいといえる年だからである。が、こう売れ残っているゆえんは、時信の述懐のとおり、罪、男親にあって、姫の容貌に帰すべきではあるまい。
(いや、わが家の父忠盛にも、多少、責任の一半がないともいえぬぞ)
それについて清盛は、近ごろもまた籠居している父の苦衷を考えた。――禍因は、いつも、きまっている。例の“昇殿問題”が起こりなのだ。
問題は、すでに過去でも、“いつかは除くべき人物”として、忠盛の名が、院の公卿たちの排他主義の底流に監視されていたことは、変りがない。――それがこんどの盛遠追捕の場合にも、新しい火だねを見つけていぶり出したというだけに過ぎないのだ。
が。清盛は痛感する。あらためて、考えてみる必要にも迫られている。
――なぜといえば、昇殿問題の裏側には、ここにいる時信も、裏面に関係があった人だということを、ごく最近、父忠盛から、あらためて、打ち明けられていたからである。
時信も、そうだとすれば、禍は、姫の時子にも滋子にも、かたちをかえて、因果しているものといえよう。――清盛には、自分の生い立ちにかえりみて、充分に、うなずける。
――思えば、ばかなはなしだ。奇怪きわまる曲事だ。ついに、父忠盛の生涯は、そんなものに、葬り去られてしまうのか。一体、昇殿問題とは、どういうことなのか。真の禍因は、何なのか。
かれのつねにもつ懐疑でもある。
以下、余り旧事に属するが、略述しておくのも、むだではあるまい。
三十三間堂の建立は、鳥羽上皇の御願によるもの。一千一体の仏像をすえおかれ、供養をかねた落成式は、天承元年三月十三日の都じゅうをわきたたせた盛事であった。
その功もあって、平ノ忠盛には、給田を増され、特に昇殿の資格もゆるされた。
『あまりなる御偏愛よ。かつは、世に聞いたこともない破格なる地下人の内昇殿のおゆるし。われら雲上の座に、かれら野臭い荒くれ者を、ただの一人とて、同座あること、さきに古例なく、末のみだれもいかが。――来るべき豊明の節会こそ、よい機なれ、忠盛めを、やみ討ちにして、果てこそ見む』
公卿たちの不平は、喧々ごうごうであった。
自分たち族党の地位栄花を守らせるために飼っていた爪牙の武士が、寵をえて、直接、上皇と結ぶようなことになっては、藤原一門の運命を危うするものという猜疑はすぐ起こる。まさに陰険な空気であった。
ところが、十一月二十三日の節会をまえにして、院中の悪謀みを、ひそかに、忠盛のもとへ、投げ文をもって、
(豊明の夜こそ、あやしき瞋恚のやみです。殿上とて、ゆめ、お心をゆるし召さるな)
と、報らせてくれた人がある。
『さこそと思われる。さもあらば、忠盛の進退こそ、弓矢人の証し。ただ、恥あるな』
かれは、期するところがあるらしく、笑っていった。
そして、当日には、束帯の下に、鞘巻の刀を佩き、あえて、見よがしに、参内した。
『……おるわ。来ておるわ』『あの憎げなるふてぶてしさよ』『思い上がりのいやしさを見られい』『見るも、野臭き男よの』『身は、風の前のともし灯とも知らいで』
ささやきあう公卿たちの眸をしり目に、忠盛は、わざと、刀を抜いて、自分の鬢へ当ててみたりしていた。
ほのかな深殿の燭に、それが氷のように見え、諸人は、目をすまして疑った。
おりふしまた、なにがしの大臣は、廊を通りかかって、ふと、小庭の暗がりに、怪しげな二つの人影が、うずくまっているのをみとめた。
『狩衣の下に、物の具を着、太刀をわきばさんで、うつぼ柱の辺りに、かがまり忍ぶ布衣の曲者は誰ぞ』
馳けつけてきた六位の者が、とがめると、庭上の影は、こう答えた。
『これは、平ノ忠盛殿が子飼いの召使い、木工助家貞と、平六家長のふたりです。こよい、相伝の主忠盛どののお身に、不慮あらんやの取りざたをうけたまわり、かくは候うて罷りおりまする。いのちをかけて推参の者。出よとて、めったにここは動く者でございません』
公卿たちは、これを伝え聞いて、愕然と、顔を見あわせた。
宴、たけなわとなり、人びとの舞ったあとで、忠盛も、上皇の御前で、舞った。
公卿たちは、腹癒せに、
『――咲くや木の花、なにわ津の、入江の葦は、伊勢の浜荻、伊勢の瓶子は、素甕にてこそ。――伊勢の平氏はスガ目にてこそあるなれ』
と、乱拍子を打ち囃して、どっと、嘲笑った。作為の見えすくどよめきだった。
こういう、あくどい即興歌は、堂上たちの、お得意だった。貴族たちが、皮肉なる悪洒落に長じていた例は、古くからいくつもある。
村上帝の御宇に、中将兼家という朝臣があった。北の方(妻)を三人もっていたので、三つ女錐の中将と、あだ名されていた。あるおり、この三人妻が、偶然、一つ所で出会い、嫉妬喧嘩が始まった。はては髪をつかみあい、衣を引き裂き、もみあい、打ちあい、人だかりまでしてきたので、中将は「あな、むずかし」と悲鳴をあげて、逃げのびてしまった。――ところが、その後、五節の宴に、なみいる公卿たちが、乱拍子を高めて、歌い囃すのを聞けば――
(取り障ふる人なき宿には、三つ女錐こそ、揉み合ひなれ。あな広びろ、ひろきあなかな)
とあったので、殿上は、鳴もやまず、笑いこけた。陛下のおん前ではあるし、さしもの三つ女錐の中将も、悄げかえったということである。
こんな話は、幾つもあるので、異とするには足りないが、スガ目の忠盛にふくむ宿意は、唱歌の嘲罵ぐらいでは、すまなかった。
あくる日、頭の大臣をはじめ、院中の公卿は、上皇に迫って、劾奏した。
『野人、礼をしらず、剣を帯して、殿に昇り、なお、甲胄の兵を、院庭に忍ばせておくなど、言語道断であります。よろしく、典刑を正し、厳科に処すべきものでしょう』
上皇は、驚かれた。すぐ、忠盛を召して、
『いかなる答えやある』
と、詰問された。
忠盛は、伏答した。そして、先夜の佩刀を取りよせ、抜いて、上皇のお目にかけた。それは、銀泥を塗った竹光であったのである。
郎党たちの心のほどは、武者の家の掟と、武者仕えの者の心底をおくみとりくだされば、これも、おわかり給わる儀かと思います。――と忠盛の答弁は、すずやかだった。
上皇は、公卿たちを、失望させた。かえって、伊勢は心の深い者ぞ――と仰っしゃったりした。
公卿たちは、おさまらない。忠盛へたいする上皇の御信頼は、一歩も二歩も、逆に度を加えてゆく。座視できない危惧である。
なお、かれらは、後に、こうも知った。
『節会の夜の密計を、忠盛へ、前にもらした者は、権大夫時信であったというぞ。まずもって時信を追え』
時信への圧迫も始まった。しかしかれの不遇は、このときからのものではない。世俗の才には先天的に欠けている生まれつきに依るものだった。それにしても、以後はなおさら、この老木は、八方ふさがりの孤立となった。
忠盛は、かれの友誼を、胆にめいじている。ふかく、徳として「忘れてはすまない人……」と、つねに子どもらへも、話していたことだった。
『あぶない。……ほら。また水たまりだよ』
時忠は、松明を、清盛の足もとにさしのべた。のべつ、注意を与えながら、大藪道の夜を歩いてゆく。
清盛は、酔った。ほんとに酔っている。
――大丈夫。お送りなどは御無用と、かたく辞したが、時信もあやぶむし、第一、姉姫の時子がきかなかったのである。
(弟よ。時忠よ。お客人を、西七条の畷のあたりまで、お送りしておあげなさい)
清盛が、そこを辞して帰るころには、この姉姫も、どうしてどうして、そう、露おもたげな深窓の花の風情だけではなかった。笑いもするし、はきはきと答えもする。気のせいか、自分を見る眼も艶にちがう。
――だが十九だ。清盛は、妙に、年にこだわった。何だか、姉みたいな気がするのである。瑠璃子の印象にかさなるせいかもしれないと思う。しかし明朝、父忠盛の前でする答えはちゃんとはらにきめていた。
時子のきりょうや性質は、八点ぐらいとしても、かれが、満点を与えて、愉快におもったのは、姉妹のあいだの――今年十六という弟の時忠――あの小冠者であった。
『おいっ、獅子丸』と、わざと呼んだ。おもしろ半分に、松明を振りうごかしてばかりいた小冠者は、清盛の濁音をはね返して、間髪に、答えた。
『なんだ。ヘイライ』
『おや。おれは、布衣だぞ。ヘイライとはちがう。狩衣をみい』
『ヘイライに、毛のはえたのが、ホイだろ。なんだ、ホイ小父』
『おまえは、すれているな。街で、鶏合わせばかりやっているんだろ』
『小父さんだって、賭けたろ。同罪じゃねえか。うちのおやじ、何か、きいたかい』
『はははは。おれの卵みたいなやつが、ここにも一匹いやがった。おもしろいぞ、なんじは』
『何の卵だって』
『蛙の卵だよ』
『それじゃあ、お玉杓子じゃないか。獅子丸を抱いてきて、突ッつかせるぞ』
『あやまる、あやまる。おい、手を出せ――。ここは西七条の畷、おまえと、手を握っておこう。生涯の交わりのちかいに』
北山あたりから冬をもってくる風が、昼見たあわれな家いえへ、無慈悲な木の葉をぶつけてゆく――。清盛の影もよれよれに吹かれながら遠のいて行った。あとの畷のやみには、いつまでも、小さい焔を振っているのが見える。
たれか思い得たろう。後年、六波羅の平家一門中、権謀むしろ入道清盛をもこえて、世に“縉紳の侠”とおそれられた平大納言時忠こそ、実に、良家の一不良――この日のお玉杓子であろうとは。
朝。――兄弟たちは、こもごもに、父忠盛の居間へ、あいさつに出る。
いちばん下の、幼い家盛へたいしてすら、父の方でも、ていねいに、礼をうけて、何か、朝の一言を、元気にいってやる。武者の家のしつけであり、ことに、母のいない子らにとっては、これが、太陽とともに、かれらの朝を、ほがらかにした。
清盛は、前日の使いのおもむきを、父へ答えていた。
『時信様からは、べつに、御返書はございませんでした。穀倉院には、おいでにならず、丹波口のおやしきまで、伺いました。いや、あの辺は、実に、分かりにくい土地で……やっと尋ねあてたほどです。夜に入るまで、馳走にあずかり、くれぐれ、よろしくとのおことばで』
それから、途中で会った鳥羽の僧正の言づても伝えたりすると、忠盛は、
『僧正には、あいかわらず、お絵を描いて、ひとり楽しんでいらっしゃるとみえるの。……右も左も栄花を競う権門の中にお生まれあって、望めば、得られもするお身でおわしながら』
と、つぶやいた。自分の籠居の心境に、くらべて、ひそかに、恥じるような容子にもみえる。
『天性、よほど、変った生まれつきのお人と見えますな』
清盛は、かんたんに片づけた。――父のそんなつぶやきは、ちと、あてはずれであった。時信の家庭や時子のことなどについて、もっと何か訊くものと予期していた。結婚の下ばなしに触れるものと思っていたのだ。――が、期待に反して、忠盛は、それには触れて来なかった。
『ときに。院におかせられては、近くまた、安楽寿院へ、御幸あるやにうけたまわるが』
『はい。十月十五日朝の御発輦で。……このたびは、金堂の落慶式もおありなので、伏見の離宮に、ふた夜三夜は、お泊りとか、伺うています』
『武者所も、忙しいのう。忠盛が、退いたあと、怠りはあるまいが、そちも一倍、精出して、お仕え申せよ』
『やっております。……が、何せい、北面の者どもは、こころ、平かでありません。父上を、よい例として、日ごろの不平がうずき出しています。先の例では、源ノ義家が、奥羽の反乱にむかい、数年、遠征の苦をなめて、凱旋しても、廟議で、私闘だと決められたため、恩賞も出ず、ぜひなく義家は、自分の領田の物や家産を売って、やっと、大勢の部下をなぐさめたでしょう。――近くは、父上の場合でも、西国の賊徒を討っての御帰洛は、いかにも、晴れがましくはありましたが、恩賞といっては、兵に分けるにも足らないほどでした。――依然たる貧乏だけが、確実な、残り物であったわけです』
『武者の本来。ぜひもあるまい』
『公卿どもの本来でしょう。武者には富をもたせまい、永劫、地下人におくべきもの――という政略が、いまは、北面どもにも、父上の例に見て、余りにも、明白なのです。身の将来にも、おのおの、考えられずにいられなくなって来て』
『まアよい。公卿に仕えるわけではなし』
『が、公卿は、われらの生殺を握っています。仕えるお方の、おん名をもって、うごかします。われらは、仕えるお方とは、口をきくことはできません。どうにも、ならないではございませんか。……だから、このところ、目に立って、武者所も、惰気にみちています。やはり父上が、御出仕なくば、だめでしょう』
『時でない。いや、忠盛がいては、なお、よくない』
『久しく、遠ざけられていた、六条の判官源ノ為義が、ふたたび、院に戻るであろうとか。内大臣頼長から、上皇へ、おとりなしがあったとか。そんなうわさも、一因をなしておるようです』
『平太。出仕がおくれるぞ。朝は、すがすがと出かけるがいい。……ことには、大事な、御幸のまえ』
『お気色を損じたらおゆるしください。――行って参ります』
清盛は、家を出た。父が退いた後も、かれのみは、日々、院へ出仕していた。――父の籠居も、以前の引っこみ思案とは趣きがちがい、こんどは何か、不屈な眉色が見える。朝なあさな、その父を信じて、清盛は足を踏みしめた。
洛南の伏見竹田は、上皇がお好きな離宮の地であった。桂川、加茂川、二水の景を一庭にとり入れて、鳥の音も幽かに、千種の姿もつつましく、あるがままな自然を楽しむのみならば、四季、いつということもない。
が、上皇は、ここになお、一精舎を、建てられた。そして本尊に、御自身の念持仏――胸に卍の彫ってある阿弥陀如来像をおさめて――今生の衆生の結縁と、来世の仏果のために施与せんというのが、安楽寿院創建の御願とされるところらしい。
世に「白河の侫仏政治」といわれたほど、さきの白河天皇は、仏事にふけり、高野への行幸は四回、熊野へ八回、伽藍の建立や、諸寺へ寄せた仏像仏画、七宝塔小塔などのことは、一代、おびただしいものであった。のみならず、殺生を禁断し、漁網を焼かせたりなどの令もあって、庶民のうらみを求められ、一面には、山門の僧団に、今日の暴威をふるわせる大きな素因をも作ってしまわれたので、鳥羽上皇には、その点、ふかく戒心はしていらっしゃる。
それにしてさえ、近年、三十三間堂の建立をはじめ、法金剛院の三層塔とか、北斗堂、そのほかの大造営や修理に加え、鳥羽上皇の諸寺への御幸は、年ごとに多くなっている。また、白河の代に似て、仏教の繁昌は、いやが上に、山門の驕りを助け、五畿は、宛として、仏教国の観があった。
今度の安楽寿院の金堂の落成につづいても、次には、さらに三層の多宝塔を建てられる思し召しがあった。久しく閑役にあった中御門家成は、御幸に召されて、その建造の立案や奉行のことに、参画せよという内命をうけたとも聞こえている。
何しても、伏見御幸は、空前なにぎわいであった。
御式を、見ようとして、集まる男女。また、供養の施物に、蟻のように寄る窮民の群れ。
貴紳の車馬、僧衣の列は、蜿蜒と尽きない。――沿道も、川すじも、特に、竹田の里の付近は、武者所の面々が守りにつき、夜は、大篝りを、諸所に、焚いていた。
駐輦は、二夜にわたった。
二日めは、夕方から小雨となり、さしも人出をみた盛事も、うそのように、ひそまり返り、寒ざむと、しぐれるやみを、ま新しい金堂の荘厳が、遠篝りの光りに、夢かのような明滅を大きく描いているだけとなった。
『やれやれ。ようやく、落着けたか』
武者たちは、仮屋仮屋で、いまが晩い夜食だった。賜酒はあったが、きのうから、飲むひまはなかったのだ。狩衣の者は、狩衣を火に乾かし、具足の者は、具足を解いて、土杯を、飲みまわすもあり、糧を食べはじめているのもある。
『うわさは、ほんとなのかも知れないな。ついに、源ノ渡は、供奉のうちに、見えもしなかった』
『渡? ……。あ、袈裟の良人か。その渡が、どうかしたのか』
『うん。御幸のまえに、花園殿(左大臣源ノ有仁)まで、暇ごいに、まかり出たので、花園殿には、御意見あって、止められたそうだが、やがて、院の別当へも、辞表をとどけ、それきり都に姿を見せぬという、はなしだが』
『ほ。何を、思うて』
『いうまでもない。妻のあだ、遠藤盛遠を討たずにはと、怨念にかられて、旅立ちしたにちがいない。街をあるけば、あれが、妻を殺められた男よと、人に指さされるのも辛い――といっていたそうだ』
『盛遠が捕われるのは、いつの日やらわからぬし、そういう気にもなるかもしれぬな。おもえば、盛遠も、どこまで罪業のふかい男よ。なお、生き心地もあらず、生きつつおろうか』
『高雄の奥にかくれたとか、いや、熊野路で見たとか、うわさはまちまちだが、生きていることは、確からしい』
ここでは、世間雑談。木のまをもるかなたの灯は、上皇をめぐる公卿、僧正、女房たちの歌合わせの集いでもあろうか。離宮の大殿に、管絃の音もなく、墨のような夜を、ただ雨が白い。
『この囲いに、義清は、おるまいか。――たれか、佐藤義清を、見ないだろうか』
その時。平太清盛の顔が、外から、内をのぞいて、こうたずねた。
かれが、飲む口なのは、みな知っている。まあ、はいって、酌み給えと、声ごえに、いったが、清盛は、顔を振って、
『いや、それどころではない。よくは分からぬが、きょうの午ごろ、洛内洛外の境、羅生門の守りについていた検非違使の手の者と、佐藤義清の使いの男とが、喧嘩して、義清の召使は、拉致されて行ったということを――たった今、耳にしたのだ。おそらく、義清は、知らずにおるのではあるまいか。……と思うて、さがしておるが、見あたらぬのだ。だれぞ、心あたりのある者は、はやく知らせてやってくれまいか』
ひとごとならず、心配して、いうのである。
仲間思いというか、かれが、勤務上のずぼらも、院の他部局などの不評判も割り引きされて、同僚たちから、常に平太平太と、支持されているゆえんも、こういうときの、かれの、まるッこい眼が、実に、本気になって、友のために、気をもみぬくようなところにあった。その性情に、人もうごくのだった。
『なに、羅生門で、喧嘩したのか。羅生門からひかれたのでは、ちと、やっかいだぞ。それは、一刻もはやく、義清の耳へ入れてやらねば……』
かれの本気に燃やされて、人びとも立ち騒いだ。雨の中を、手分けして、心当りへ、すぐ、四、五人は馳けわかれた。
義清の姿は、見あたらない。武者部の囲いのどこにも見えない。――そこで、これはかならず、徳大寺卿の供囲いにいると、たれか気づいていった者がある。
なぜならば、義清は、父の左衛門尉康清の代から、徳大寺家とは、主従の関係があって、今でも、内大臣実能からは、家人扶持をうけていた。
大臣家や、顕官の家人でありながら、院の北面にも籍があるのは、二重奉公のようだが、もともと武者所の編制は、個々の、出身別からみると、純一ではなく、混成である。
二院政治の初めにあたって、時局の不安と、山門勢力に備えるため、朝廷の兵部にかわるものとして、新たに組織されたときから、その大部分の員数は、地方武士の――源氏系、平氏系の野性を召集したにはちがいないが、昔からの衛府の武人や、諸家の随身の内からも、あわせて、採用した者が少なくない。
源ノ渡と、花山院の左大臣源ノ有仁との関係が、そうであったし、佐藤義清もやはり、徳大寺内大臣の家人であって、また、鳥羽院北面の士でもあった。
――で、いま、心当りをつけた者が、そこを訊き合わせてみると、果して、義清は、徳大寺実能によばれて、こよいの歌合わせの末席にいることがわかった。
万葉のむかしから、和歌の道には、貴賤のへだてはない。一布衣にすぎない義清だが、文学に心ある者として、かつは、主家すじの徳大寺実能のひきたてもあって、院の歌合わせにも、仁和寺の法親王の御会にも、義清はよく席に連なる栄に浴していた。
おりふし、かれは、家僕の凶変を聞いても、にわかに、立ちかねる用事でもしていたのであろうか。――一方では、清盛たちの同僚が、
『まだ来ぬが。どうしたのだろう?』
『たしかに、義清の耳へ、はいったのだろうか。まさか、臆して、自身の郎党を、見殺しにするつもりでもあるまいに』
『もう一度、知らせてやってはどうか』
などと、酒の味もそぞろに、案じぬいていたのだった。――他人でさえ、こう心配しているのに、当の義清が、何たる遅滞ぞと、少々、怒り気味な者すらあった。
人びとが、こう、躍起に思うのも、決して、いわれのないことではない。
天皇、上皇などの、洛外の行幸にあたって、いつも羅生門を警固するのは、警察、司法の任をもつ、検非違使の役ときまっている。ここにも、庁の長官たる「別当」の下に、次官として「佐」がおかれ、その下に「左衛門」「右衛門」「尉」の三階級がある。
いちばん下の三等官「尉」のことを、べつに「判官」とも、呼ぶのである。
こんどの御幸に、洛内洛外の境界である羅生門をかためていた手勢は、その判官――検非違使尉、源ノ為義だったことは、たれも知っていた。
かれの部下には、奥州歴戦の老兵士だの、坂東そだちの荒武者が多い。子の義朝、頼賢、頼仲などの名も、市人におそれられている。
それに、もっとも、いやなことには、職掌がら、配下に「放免」だの「走り下部」などという、札つきの雑人を、手あしに使っていることだ。
放免という名称は、かつて罪人だった者を、逆に、探索役にとりたてて、人の罪を嗅ぎまわらせたところから起こったもので、街の中では、ヘイライさんは愛称だが、ホウメンというと、だれもが、ふるえあがる。
拷問や、叩きは、かれらの、朝飯まえの仕事で、死にいたらしめた例はめずらしくない。そのため、六条堀川の判官屋敷では、毎年、結縁経供養が、行事となっているほどだった。
『どういう間違いか、わからぬが、あの為義の手にかかっては、生やさしいことでは返すまいぞ。……はて、何をしているのか。佐藤義清は』
ひとごとは、やはりひとごとである。待ちあぐね、いいあぐねて、中にはもう眠たげに、居眠るもあり、酒にも飽いて、みな、気抜けしていたころだった。
佐藤義清は、ようやくここに、姿をみせて、
『や、おのおの。御心配をわずらわしたが、これから行って見てまいる。――夜明けまでには、立ち帰るつもりですが、おそくも、還御のお時刻までには戻って、必ず、供奉には加わりますゆえ、余り、お騒ぎくださらぬように』
と、外からいった。
見れば、馬をひき、狩衣すがたで、供といえば、ただひとりの小童に、松明を持たせているだけだった。
人びとは、義清の悠長さに、あきれた。
武者のくせに、歌の才などある人間は、やはり大事にぶつかると、こんなものかと、蔑みたい顔つきが、総てであった。
『え。朝までに、連れて戻るって。……義清。わぬし、相手を、知っているのか』
口に出して、なお、はらからその無謀をいさめたのは、清盛だけだった。
先は、六条判官為義。決して、われらに好意的な一族ではない。むしろ、何事かあったらと、常に落度をさがしている敵手といってもさしつかえない。
思うてもみ給え。かつては、かれら、坂東生え抜きの源氏武者が、白河の寵の下に、院の北面に、勢威を誇っていたものではないか。
後にまた、白河に忌まれて、院から排され、外官となって、今日に及んでいるが、その地位を今、かれらに取って代っている自分たちへ、為義らが、快く思っていないことは明白だ。公務上にも、個人的にも、事ごとにうまく折り合えていない平常に見ても分かりすぎている。――何しても、相手が相手だ。どんな陥穽が待っていない限りもない。単身、判官屋敷へ掛け合いに乗りこむなどは、危険、この上もない。行くなら、自分たちもともども行ってやろう。こちらも、武者所の名と実力を示して行くべきである。
清盛は、そういって、
『みな、来いっ。義清に加勢して、義清の郎党を、取り返しに行こうっ。六条判官へ掛け合いに』
と、同意を求めた。
『おうっ――』と、応えた幾人かがある。『おもしろい』と、長柄を押っとる喧嘩ずきもいた。わらわらと、外へ出そろった。いうところの、為義方の感情は、実は、こっちにもある感情なのだ。かれらの血を駆りたてる素地は日ごろにもできている。同勢二十人余、義清をかこんで、行こうぞ、行こうぞ、と押し声を作った。
『ま。待ってくれい。待ち給え』
義清は、うごかない。かえって、さえぎるように、両手をひろげ――『よしないことで、騒ぎ立ては大人気ない。わけて、御幸のお道すがら、おそれ多いことでもある。禍を起こしたのは、自分の郎従、主人ひとりで掛け合いはこと足りよう。おのおのには供奉のお役目こそ大事なれ。ただ知らぬ気に装うておわせ』
と、かえって人びとの妄動をたしなめた。
そして、清盛の躍起も、大勢の気負いも、迷惑として振り切るように、かれは、小童ひとりに松明を振らせ、ただ一騎で、雨のやみへ馳せ消えた。
その日。――義清は、無二の郎従、源五兵衛季正という者に、歌の詠草を持たせて、待賢門院の女房たちの局へ、使にやっていたのである。
待賢門院は、天皇崇徳の御母、藤原璋子。つまり鳥羽上皇の皇后である。
が、天皇崇徳とのおん仲も、つねづね冷やかな上皇は、その皇后にも、遠のかれており、べつに中納言長実のむすめ、藤原得子(美福門院)をいれて、かたときも、離し給わぬほどな愛しかたであった。
もちろん、今度の御幸にも、伴われて、離宮のうちに、上皇の寵を、身ひとつにうけておられるのである。
義清は、扈従して、きのうきょう、ここの万華のにぎわいを見るにつけ、待賢門院の、今は訪う人まれな冬庭の――わびしい女房たちを、思い出さずにいられなかった。
そこには、歌の上で、かねがね親しい女房たちも多い。
で、歌に寄せて、ここの便りを、源五兵衛に持たせてやったものである。
その帰りみちか。行きがけの間違いか。
何しても、義清は、矢のように、六条堀川へ心が急いでいた。――清盛たちへは、ああいったものの、かれとて、相手の何者なるかは、わきまえている。
ことには、源五兵衛という郎党は、かれにとって、またなき忠実者であり、身に代えても、助け出さねばと、思っている。――自分が、六条へ馳けつけるまで、どうか、源五兵衛の身に、あやまちのないようにと、祈るような気もちで、馬を早めていた。
堀川者といえば、検非違使尉の手先のこと。坂東者といえば、源氏武者の代名詞のようになっている。
けれど、六条判官為義なる人に会ってみると、こわがられているうわさとは、まるでちがう。
いまでこそ、不遇な武族の家長にすぎないが、八幡太郎義家の孫、人がらはよく、品位もあり、話もわかる。年は、このとき四十一であった。
『……いや、よく分かりました。さっそく、調べさせましょう。さもなくてさえ、院の武者所と、こっちの武者どもとは、つねに、にらみおうているなどと、世評もうるさいおり、もし、仔細なくして、お召使を、投獄したものとあれば、捨ておきがたい曲事です。――おういっ、義朝』
為義は、廊をへだてた内庭の向こうの部屋へ、大声で、そう呼んだ。そこは、長男義朝の部屋とみえる。
時は、深夜にちかく、夜雨はあがって、ここ判官屋敷の屋根と、六条獄門の不気味な建物の上に、ありやなしの冬の月が、薄雲のうちに明滅していた。――おりふし、判官為義は、もう寝室に入りかけていたが、門をたたく音、その客といい争う番士の声などに、みずから起きて来た。――そして佐藤義清と、内庭に面した板じきの室で対面した。火の気もなく、ただ一火の松あかりを灯皿にくべて、客の来意を、聴いたのであった。
やがて、嫡子の義朝は、客と父の影から遠く、板縁に、かしこまって、
『――御用は』と、手をつかえた。
よい息子――と、義清は見ていた。
父為義から、いいつけをうけると、かれはすぐ立ち去った。そして獄舎部の武者や雑色を呼びたてて、きびしい取り調べを行ったらしい。
ほどなく。――義朝は、庭かがりのわきに、ひざまずいた。
『つれまいりました。佐藤殿のお召使と、喧嘩あいての、由井五郎と申す武者を』
ひとりは、義清の郎党、源五兵衛にちがいなかった。
ふくろだたきにでもなったように、源五兵衛の顔は、はれあがっていた。主人義清のすがたを、思いがけなくそこに見て、かれは、ただ泣いてしまった。
『五郎は、たれの手の者か』
と、為義は、訊いていた。
御次男義賢様の手の者――と下で答えた。
『喧嘩の仔細は』
と、また訊くと、義朝が、調べたところを、次のように、話した。
きょうの午ごろ、羅生門を通った源五兵衛が、そこを守っていた義賢の部下にとがめられた。
奉書らしい文包みを、大事そうに持っていたので、見せろといい、見せぬという。――それから感情になって、なぜ見せられぬかというと、これは、さるお方のお歌の返しである。歌など御覧になっても、お分かりはあるまい――と、一方がいったとある。
『で、どうしたのか』
『由井五郎が、やにわに、奪って、足で、踏みつけたものですから、佐藤どののお召使は、怒って、これなん、待賢門院の紀伊ノお局より、主人義清へ、お歌の返しなるに。――泥にされて、主人へ、何の面向けやある。と暴れ狂うのを、羅生門の同勢、みながかかって、足蹴、袋だたきの目にあわせ、獄へ投げ入れたものと分かりました』
『そうか。……義賢を呼べ』
呼ばれて来た次男は、まだ二十歳にみたない小冠者だったが、為義は、部下の乱暴は、なんじの罪であるとしかって、座を立つやいな、縁から内庭へ、蹴落した。
そして、客の義清にむかっては、
『由井五郎も、次男義賢も、そこもとの御成敗におまかせする。紀伊ノお局へは、自分がお詫びに参上して、罪、為義にある由を申しあげておこう。……お召使には、まことに、御災難だった。遺恨にふくまず、どうか忘れてもらいたい』
義清にとっては、むしろ、思いのほかな解決だった。もちろんかれは、義賢とその部下のために、ことばを尽して、詫びをとりなした。
あるいはと、万一な不吉を予期されたそこの門から、佐藤義清は、ともかくも、無事に、危地の郎党を、助け取って帰った。
かれの主人としての愛情を、源五兵衛が、どんなに有難く思ったかは、いうまでもない。夜は寒かったが、主従の心はあたたかだった。
『さすがに、由緒ある者。雑武者の家には見ぬしつけだ』
義清は、心のうちで、為義の人物には、そう感心していた。けれど、半面に、なおおそろしげな予感が、ぬぐい去れなかった。
かれらは、明らかに、臥薪嘗胆している。祖父義家が、かつて、公卿たちから嘗めさせられた生涯の屈辱をわすれていない。要するに、地底の竜だ。つねに風雲をのぞんでいるものであることは、あのきびしさに見るも明瞭である。
洛陽の深夜に、なお悲歌は聞こえず、月は人の眠りとともに、しずかに、雲間に横たわっているが、これが、幾十年もの都の相とは、かれには見えなかった。
平太清盛が、時子と結婚したのは、その年の十二月だった。
『……どうだ。娶うか』
と、父忠盛が、口を切ったとき、清盛は、顔を、まっ赤にして、
『やあ』
と、頭へ手をやった。それだけである。それで、この父子は、充分に、心は語りあっていた。
婿なる男は、未来の妻とちぎる女の家へ、三日のあいだは、夜ごと夜ごと、忍んで通うのが慣わしである。
かれもまた、あのまっ暗な道を、三晩も、水薬師の時信の館まで通った。
寒さ、道のわるさ、丹波おろしに、耳もちぎれるばかりな夜を。
しかし、楽しい。またなくかれは楽しかった。恋とは、いえないかも知れないが――どっちの親たちも、知って、知らない顔しているのが、時代の風習である。――母屋も対ノ屋も、なべて寝沈んでいる厚いやみのなかに、かの女の寝屋のともし灯だけが、天地にただ一つの愛情の示しのように妻戸からもれているのを見るとき、清盛は、恋以上にも、夢の子になった。
後朝のわかれも、なかなか、恋に似て、恋よりふかい。ふたりだけには、鳥の音も、霜のこずえも、この世は、そのまま詩であった。
こうして、三夜通いのあと、男は、文を書きおくる。女性も、文を返してよこす。――が、もしいやだったら、それをしなければいいのである。文をよこしもせず、返しもしないときは、いやだという断りなのである。
もちろん、清盛は、いやとはしない。かの女からも、美しいかな文字の返しがきた。文には、香が焚きこめてあった。
時子は、今出川のやしきの方へ、嫁いでくるべきであったが、水薬師の時信の館の方が、古くても、はるかに大きい。武者やしきとちがい、対ノ屋もある。
で、新夫婦は、七条水薬師の館のうちに、居をもつことになった。
『それは、お似合いな……』と、両家の知人は、同じようにいった。新夫婦を祝福するのか、貧乏武者と貧乏朝臣というのをさすのか、また時信も忠盛も、相似た変り者と見ていうのか、おそらく、人さまざまな意味をもって、この結婚をながめたにはちがいない。
ともあれ、水薬師の館では、一夜、知友を招いて、ささやかながら、祝宴を催した。
ときに、時子の弟の時忠が、
『姉君のお婿さまに、いいお祝を上げようか。きょうのお客人たちへ、馳走してあげるといいからね』
と、日ごろ、父の目をくらまして飼っていたこの小冠者が秘蔵の軍鶏――例の街の鶏合わせでよく勝って来る獅子丸を、なんの惜しみもなく、自分でひねって、清盛のまえに、提げて来た。
『あ。いつぞやの、獅子丸か。……それを、きょうの祝にと、つぶしたのか。……おまえが。おまえが?』
『うん……』時忠は、にっこりした。
清盛は、あきれ顔だった。まだ十六でしかないこの小冠者に、気をのまれたかたちである。世間でこわい者は、父忠盛のほかには知らないかれであるが、よほど驚いたものらしい。なにしろ持ったばかりの新妻の弟である。そのチビにして、これほどでは、やがて北の方たるわが女性にも、自分がまだ知らない本質がどんな風に出てくるやらと、そぞろ末おそろしくなって来たものとみえる。
結婚したすぐ翌年。――保延四年には、時子はもう妊娠っていた。見てもわかる体をしていた。
妻に、異状を訴えられたとき、清盛は、率直によろこべもしない、まごついたような顔色を見せた。なぜか、たった一ぺん六条裏の遊女と寝たことなどが、いやな回顧の陰影になって、突然、二十一歳で父を宣告された男の――自責をひとり脅かされた。
『……おうれしくは、ないんですの?』
『それは、うれしいさ。けれど、わが家は武門だから、男の子ならよいがなあ』
いわなければ、妻へ、悪いような気もちで、清盛は、あわてていった。
――後宮の佳麗、三千人
三千の寵愛、一身にあり
金屋、粧ひ成って、嬌として夜に侍し
玉楼、宴やんで、酔うて春に和す
姉妹弟兄、みな土に列す
憐れむべし光彩、門戸に生ず
つひに天下、父母の心をして
男を生むを重んぜず
女を生むを重んぜしむ
三千の寵愛、一身にあり
金屋、粧ひ成って、嬌として夜に侍し
玉楼、宴やんで、酔うて春に和す
姉妹弟兄、みな土に列す
憐れむべし光彩、門戸に生ず
つひに天下、父母の心をして
男を生むを重んぜず
女を生むを重んぜしむ
白楽天が、玄宗皇帝と楊貴妃との情事を歌った長恨歌の一節は、そのままわが平安朝の貴族心理をいっているような趣きがある。
藤原氏のあいだでは、女子が生まれて、やがてその女子が天質の美玉ならば、天皇上皇の后や女御ともなり、一族、三公の栄位にならび、臣にして皇室の外舅ともあがめられることはままある慣いなので、妊娠った夫人が産屋にはいれば、藤氏の氏神たる春日の社へ使をたてて、楊貴妃にもまさる美人を産ましめたまえと、祈る者が多いとか。――清盛も、話には聞いているが、かれにそんな祈りはないし、もっと一義的な、愛情すらも、持とうとしても、わいて来ない。
やがて、冬になって。
――それは十一月の大雪の降りつもっていたある朝のこと。かの女のふかく垂れこめていた産屋の几帳の陰から呱々の声があがった。
この朝、生まれ出た男の子が、後、平家の世盛りには、灯籠の大臣とも、小松内府ともいわれた平相国の嫡男、平ノ重盛であったが――時にまだ二十一歳の若い父親は、産屋をまもる人びとから、
『お嫡男でいらっしゃいますよ。玉のような和子様でいらっしゃいます』
と、祝がれても、居間と産屋のあいだを、まごまごして、何か、居たたまれなかった。
『じじ。馬を出せ。――馬を』
家付きの郎党のうち、木工助家貞や、幾人かは、清盛に付いて、この水薬師の方へ、移っていた。
家貞はすぐ、駒寄せに、立ちあらわれ――。
『若殿。おうれしゅう御座いましょうず』
『ほっとしたよ。なんだか、ほっとしただけだ』
『早速、産土神へ、お礼詣でに』
『いや。何より先に、今出川へだ。じじ、この大雪だ。おまえは留守しておれ』
清盛は、門の内から、乗って出た。
すると、例の大藪道のあたりで、兄者人兄者人と、うしろから呼ぶ者がある。妻の弟の時忠だった。
『そこまで、送って上げよう。竹がたおれているからね』
時忠は、ひとり合点に、清盛の先を馳けた。雪の重さに、道へたおれている竹が多い。――時忠は、小太刀を抜いて、ぱんッと切った。切っては除け、切っては除け、兎のように、先へ飛んでゆく。そして、得意そうに、清盛をふり向いた。
『ありがとう。もういいぞ』
末おそろしい小冠者の機智と敏捷さを、けさも、清盛は、かれの小さい姿に見、そしてふと、生まれ出たけさのわが子は――と、かすかに、父らしい思いの芽を抱いた。
『そうだ。けさの子は、たしかに、おれが時子に生ませたものだ。たしかに、おれの……』
都の屋根も、都をめぐる北山東山も、眼のかぎり白い雪の道を、かれの一騎は、なんでそんなに心忙しく行くのかと人に怪しまれるほど急いでいた。やがて、今出川の門につき、父忠盛のまえにかしこまって、
『生まれました……男の子が』と、やや息をはずませて、告げていた。
『生まれたか……』と、忠盛はいった。
あきらかに、瞼のうちが、うるんでいた。それを見て、清盛も、じいんと、眼の底を熱くした。――父ならぬ人を父以上にも慕って、何やら不思議な宿縁の――これからもつづいて行くであろう人間の果てなき血の鎖を――過去から未来へかけて、ぼんやりながめ合っているようなふたりの朝であった。
わずか、ここ両三年の間だけでも、何か大きな社会事変というと、そのほとんどが、宮門の火災と、武力をもつ僧団の暴威であった。――重なものだけを、年表から拾ってみても。
二月九日 興福寺ノ僧徒七千余人、春日神木ヲ奉ジテ、強訴ニ入洛。三日ニワタリ洛内、騒動ス。(保延三年)
二月二十三日 加茂社ノ神館、神宮寺ノ西塔ナド、焼失ス。
二月二十四日 二条東ノ洞院ノ内裏、炎上。
四月二十九日 園城寺ノ僧徒、別当禅仁房ヲ焼打シテ、闘争長キニワタル。
十一月二十四日 土御門ノ仮皇居、炎上。(以上、保延四年)
翌年。三月九日 興福寺ノ僧徒、別当隆覚房ヲ焼ク。
十一月九日 興福寺ノ僧徒、フタタビ別当隆覚ト闘フ。
十二月二日 検非違使尉、源ノ為義ヲ奈良ニ派シテ、隆覚ノ党与ヲ、捕ヘシム。(以上、五年)
翌年。正月二十三日 石清水ノ宮ニ大火アリ、宝器悉ク焼亡。
五月五日 大山、香椎、筥崎ノ僧徒神人等、太宰府ノ民家数千ヲ焼ク。
五月二十五日 延暦寺ノ僧徒、園城寺ヲ焼ク。
これに類する小事件や、各地の群盗ざたなどは、およそ想像がつこう。人心の不安は、なお、いうまでもない。僧団は、戦っている。禁門や摂関家の門へ、強訴に押しかけるばかりでなく、僧団同士でも戦っている。惜しみもなく、堂塔や僧房を、焼き打ちしあっている。
けれど、焼けるそばから、鳥羽三層塔の建立も成就し、勝光明院や成勝寺は建てられ、天皇の臨幸、上皇の御幸など、そのつど、宝財は散華とまかれて、今を、末法などと疑う者はいない。――まさに、仏教の繁昌は、南、菩提樹林の熱帯の国から、大唐大陸を経て、いまや四季の国、歌の国のここ日本の地に移り咲いて、らんまんたる浄土天国が顕現されているようにさえ――眼には、見えもするのであった。
かつは、皇室にも、御慶事が多かった。
皇太子重仁が、お生まれになった。
お若い崇徳帝には、はやくも、父となられたのである。
ところが、帝の父、鳥羽上皇もまた、寵姫藤原得子(美福門院)とのあいだに、皇子体仁の誕生をみられた。
上皇の御意志で、皇太子重仁は、親王におかれ、体仁親王をたてて、皇太子とされた。
当然。崇徳のおこころは、安らかでない。
もっと、複雑で、おつらいのは、待賢門院(藤原璋子)の皇太后としての、お立場だった。
こうした宮中のうごきも微妙。社会情勢も多事。総じて、世上はなんとなく、騒がしいものがあったので、鳥羽上皇は一、二度ならず、今出川の忠盛の許へ、ひそかなお使いを立てられて、
『出仕せよ。顔を見せよ』と、促された。
忠盛が、再度、院庭に仕え始めたのは、孫の重盛が生まれたその年であった。翌年には、官位も五位の刑部少輔に挙げられ、子息清盛にも、昇官の内旨があるなど、久しい貧乏平氏にも、このところ、吉事がつづいた。
すべて、上皇の御意志に出ていることは、いうまでもない。
公卿たちも、こんどは、沈黙しているかに見えた。――しかしそれは、陰性な用意の空間であったとみえる。やがてかれらは、忠盛の私行を、裏面からあばきたてて、意外な事実を、表面化し出した。
それは、忠盛の恋であった。忠盛に、かくし妻があったという、耳新しい取りざたである。
と、いっても、公卿たち自身、夜々に通う愛人や、かくし妻は、みな持っている。ひとり忠盛にのみ、恋をとがめる筋あいはない。
だが、問題は、恋にではなく、あいて方の女性にあるというのだ。公卿たちの見るところ、ゆゆしいひが事であり、かならずや上皇の逆鱗にふれ――ひいては忠盛の死命を扼すであろうとして――俄然、院中にうわさを立てた。
『世に、男は無くもあるまいに、スガ目殿を、恋のあいてに、えらぶとは』
『もの好きな女性も、あればあるものかな』
『いや、忠盛とて、歌のまね詠みぐらいはする男。ただ、あの顔して、どんな恋歌など』
『人は、見かけによらぬという、俗言もあれば……。さはいえぬものじゃ』
こういえば、だれしも、これには、興味をもつ。
『ほ。……スガ目殿の相手とは、一体、どこの女性か』
当然、訊きたがらずにいなかった。
たちまち、女性の素姓も、伝わった。
大夫、藤ノ宗兼の女。――名は、有子と。
それなら、たれも知っていた。以前、鳥羽院の局にいた女房のひとりだからである。
――が、今、思い合わせると。遠藤盛遠の追捕騒ぎがあって、忠盛が身を退いたあのころから、有子も、いつのまにか、暇をとって、院の局に、姿は見なくなっていた。
ところが、その有子は、近ごろ、一ノ宮の乳人に召されているという。
一ノ宮とは、崇徳の第一の皇子重仁のことである。本来、皇太子でおわすべきを、上皇と美福門院のおん仲に生まれた体仁が春宮(皇太子)の位に即かれたため、親王にとどめられているお方だった。父、天皇のお気もちとしても、宮廷側のすべての眼からも――生まれながらの不遇に封じこめられた御生命にそれがながめられて、お可憐しいことではある、酷い、なされ方ではあると――院へむかって、口にも出せないだけに、みな春なき氷の谷間にも似て、恨みを閉じている一ノ宮であった。
『何ぞはからん、忠盛が、かくし妻とは、一ノ宮の乳人であろうとは。……院の御内事も、内裏へ、つつ抜けに知れるはずよ』
これが、上皇のお耳に入らぬわけもない。問題は、微妙である。悪く解釈すれば、いくらでも結びつく複雑なものが、平常に、院と内裏の間には伏在している。
ところが、上皇には、ふたりの恋を、もう数年も前に、知っておられたらしく、
『……そのことか』と、いと古めかしい過去を思い出されるように――『お卿らは、忠盛の風流を、今ごろ知って、取りざたするか』
と、かえって、左右の人びとの迂を、笑われた。
人びとは、意外な思いをした。しかし、上皇がそれを御存知なわけは、当然であった。上皇御自身は、女房たちの局へも、自由にお立ち入りされているし――また、かつて、女房たちの間に、次のようなできごともあったからである。
ある朝――。
長局の一つの入口に、男持ちの扇が落ちていた。扇の端から、月が大きく画いてある物だった。それを拾った女房たちは、おもしろがって、ほかの局の女房たちの間を見せまわったあげく、
『これは、いずこよりもれ入った月影やら。……月の行方も、覚つかな?』
と、扇の落ちていた部屋の小女房を、からかった。
ことばを、かえていえば。――さあ仰っしゃい、見つけましたよ。この月の扇の持ち主はだれですか。――と責めたのである。
小女房は、顔あからめたまま、そでの陰に、身を、被き隠してうつぶしたが、女房たちが、責めてきかないので、懐紙に、歌を書いて示した。
雲居よりただもり来たる月なれば
朧げにてはいはじとぞ思ふ
朧げにてはいはじとぞ思ふ
――この小女房が、有子であった。院の局へ、上皇がわたられたとき、ふと、この話を、お耳にされたものだった。
上皇には、そのとき、
『月は何者かなどと、むずかしゅう、とがめだてるものではない。……さは、騒ぐな』
と、女房たちに口どめされて、有子の歌の懐紙も、そのままお持ち帰りになってしまった。
人はすぐ、人の外貌で、人をきめてしまいやすい。忠盛の容貌と、忠盛が地方出の武者だということだけで、院中の公卿たちは、かれの知性を見くびっているが、上皇は、むしろ反対に見ておられた。――内には、文雅をたたえているが、武人の本分を知って、外にその智をひけらかさぬ者だと、ゆかしくさえ、思っておられた。
それには、こんなことも以前あったのである。院のお使で、忠盛が、備後ノ国に下り、やがて帰洛したおり、四方の旅のはなしのあとで、上皇には、
『音に聞く、明石の浦も、船で通ったであろうが、どんな所か』
と、おたずねになった。
ほかの儀なら、お答えもしやすいが、風景をなんと説明しよう。忠盛はぜひなく、一首を詠じて、お目にかけた。
有明の月も明石の浦かぜに
波ばかりこそよると見えしが
波ばかりこそよると見えしが
これは、当時の歌人の俊頼、基俊、顕輔朝臣なども、みな秀歌だと賞めている。そして後には、勅選の金葉集にも載せられたほどであるから――上皇の御感に入ったほども、思いやられる。
上皇には、そんな御記憶もあって、忠盛を、一介の武弁とばかりは、見ておられなかった。――で、一ノ宮の乳人と、かれとの仲をお知りになっても、忠盛への御信頼には、毫も、おゆるぎはなかったのである。
しかし今は――と、御思案のすえか。これが表面化してから、二月ほど後のこと。お座の間の近くへ、忠盛を召された。そして、
『そちも、宿の妻には、不運な男よの。……なお、ひとり暮しでは、やしきに在っても、あじきないことであろ。さいわい、一ノ宮へ上がっている乳人の有子は、そちへ嫁ぎたがっておるという。一ノ宮もやがて乳を離れてもよいころではあろうし……。きめてはどうかの、北の方に』
と、仰っしゃった。御微笑だけで、ほかのことには、何も、お触れにならずに。
忠盛は、お心の深さに打たれ、どうお答えしたかも知らずに、退がってしまった。(仰せに、あまえて……)というような意味をいったとは覚えている。それと、上皇が(――そちも、宿の妻には、不運な男よの)といわれた御一語が、いつまでも、耳の底にあった。(そちも――)といわれた「も」が、忠盛には、上皇の肺腑を破った血の音のように聞こえたのである。「……も」とは、御自身をふくめて使われたお言葉ではあるまいか。
ではその「わが身もだが、そちも」といわれた上皇のお胸は、いったい、何を語っておられたのであろう。
忠盛には、わかっていた。――思いそこにいたると、さんぜんと、涙なきを得ないのであった。
上皇が、鳥羽天皇として、なお御在位のうち。中宮は、いまの待賢門院、藤原璋子であった。
璋子は、人も知る白河法皇の猶子で、祖父法皇のおはからいで、天皇に配された后であることは、さきに誌した通りである。
当時、天皇は、おん年わずか十五。
しかも璋子は、二つ上の、十七であった。
美貌をほこる璋子の背後には、長いあいだの摂関家政治をも一挙に打破して、新しい院政の樹立を断行したほどな、白河法皇の威光もある。お若い天皇の御意は、何ひとつ行われもしなかった。
それは、まだしも。
白河が璋子を愛し給うことは、度にすぎていて、鳥羽の中宮に立たれた後も、璋子は、法皇の宮へ自由に出入りされていた。(古事談ニ拠レバ)――留宿累日、法皇と並び臥し給い、その間、近臣といえども奏するを得ざりし――というような御行跡であったという。
あまつさえ、やがて、皇子が生げらるるや、ただちに冊して皇太子にたて、そのわずかに四歳の幼児をもって、白河は、鳥羽天皇の御意志をまげて、その御位を譲るように強い給うた。その幼帝が、いまの崇徳である。
それでも、鳥羽は、祖父白河の御在世中は、毫も、御無念を色にあらわさなかった。待賢門院とのおん仲も、平凡に過ごされて来た。けれど、大治四年、法皇崩御の後は、一変された。すべての万機を院中に決し、天皇崇徳をさして、お戯れにも――あれは、わが子ではない、祖父児よ――と仰っしゃったり、また待賢門院にたいしても、今は、一顧の御車を回らしたこともない。
それも、むごい。余りに、冷たい。――おりには、上皇御自身も、かえりみて、みずから問うことも、おありには違いない。
けれど、上皇のお胸は、またひとりこうもつぶやく。
(まだ何もしらぬ青春の芽ばえのむかし。白河と璋子とが、われに与えたあの氷刃の思い、夜も日もあらぬ、嫉き劫火の苦しみにくらべれば。……これほどな報いは、なんでもない)
かつて、白河が璋子を愛したごとく、いまは、上皇の寵は、美福門院の上にある。
鳥羽離宮の翠帳ふかき処、春風桃李花ひらく夜か、秋雨梧桐の葉落つるの時か――ただ一個の男性としての上皇が、ほおをぬらして語り給う少年の日の思い出を――美福門院も、おん涙をともにして、聞かれることがあるであろう。
まことに、上皇の半生も、人間的には、御不運なものであった。幼少、万乗の帝位につき、十五、不幸な御結婚を強いられ、二十歳のころには、また他によって、退位せられ、法皇あるうちは、発言も持たない蔭のお人として来られたのである。若き日からの、仏教への御誓願も、うなずかれる。――そして今や、政権威令も、おん手にあつめて、こうあることは、その善悪、凡非凡は、ともかく、上下貴賤、人間自然の情と痴は、変りのないものと観るほかはない。
ひるがえって、忠盛にとれば。
忠盛もまた、白河法皇から、宿の妻にせよと、祇園女御を賜わったことが、いかに、因をなして、青春を無残なものにしてしまったか。以後の長い、暗欝な十数年の家庭の悩みとなったことか。
上皇が「……そちも」といわれた「も」は実に、この同難同禍の臣にたいする、おいたわりであり、また、生涯癒えぬ御欝憤を、ふと、もらされたものに、ちがいなかった。
忠盛は、まもなく、後妻をむかえた。
いうまでもなく、一ノ宮の乳人、有子であり、有子の実家、大夫宗兼の許には、そのときもう、三人の幼な子が、あずけてあった。
清盛にとっては、異母弟になる四男家盛、五男頼盛、六男の忠重である。
七男の忠度が生まれたのは、なお後のことであり、母もちがう。
なお、ついでにいえば、有子は、まえの祇園女御とは、まったく性格のちがった母性型の人であり、忠盛にとって、大きな幸福を加えた良妻であった。――良妻であり、賢母であったがゆえに、後、清盛にとっては、義母ではあっても、父忠盛の亡いのちまで、なかなかこの人には窮屈で、頭のあがらない母堂であった。
晩年、池ノ禅尼といわれ、薄命の一少年源頼朝が六波羅に捕われたとき、そのいじらしさを見、清盛を説いて、少年頼朝のために命ごいをした尼は――若き日、人もあろうにと人のいう、スガ目の忠盛と恋をした、この有子なのであった。
世の有様を、鳥獣の遊戯に擬して、思うままな諷刺画を描き、自分も遊戯三昧に暮していた鳥羽僧正は、保延六年の秋、忽然と、死んだ。――八十余歳であったという。
『わしは僧侶だから、死んでも、僧侶のお経は欲しゅうないなあ。法衣のすそから、尻ッ尾を出している大僧正だの、大法師、小法師どもの化け競べなど、日ごろに描いておるでの。仰山に、葬式などしてくれたら、自分で自分を描いたことになり終わろうで……』
亡くなる数日まえに、そういったとか。こんな奇行もあったとか。数かずな思い出も、今は、主のない鳥羽の一草庵に降る落葉と同じものでしかない。
でも、九条家の施主で、簡素な法要だけは営まれた。勅使もあり、院の代参も見えた。貴賤、雑多な会衆で、鳥羽はずれのいなかびた草庵への道を、織るような人や牛車であった。
『お。六条判官どのの御子息でしたな。……これは、思わぬ所で』
佐藤義清は、連れの男と一しょに振り向いて、そういった。呼びとめたのは、源為義の子、義朝だった。道の木蔭へ寄って、義朝は、あらためて、あいさつした。
『あれきり、お目にもかかっておりませぬゆえ、人違いしてはと、あやぶみましたが』
『まことに。かつてのおりは、郎従源五兵衛のことで、深夜、お騒がせいたしました。以来、お父上にも、ごぶさたのままで』
『いや、あのおりの非は、自分らの落度にあることで、仰せられては、面目もありません。――きょうは、義清殿にも、僧正への、さいごのお別れに』
『されば、浅い御縁でしたが、何か、なお会えるものなら、追って行きたいようなお人でした』――いいかけて、ふと、連れをかえりみ、義朝にひきあわせた。
『――平太清盛どのです。お会いになるのは、初めてでしょうか』
『さあ、あるいは、お目にかかっているかも知れませんな。どこかで』
義朝と、清盛とは、相見て、笑った。
どちらも、若人らしい、健康と健康とが、むかい合ったまでで、笑くぼの蔭に、意味はない。
けれど、院の武者所と、外官の検非違使尉という、相互の立場からも、また、平氏の嫡男と、源氏の嫡子という、相似て、しかも対蹠的な境遇からも、横から見ている義清には、この路傍の偶然が、こうふたりの生涯に、これだけのものではないようにながめられた。
『近いうちに、わたくしは、東国へ下って、鎌倉に住むことになりそうです。相模、武蔵に、いささか受領の地もあり、同族どもも、あの地方に多いので。……もし東国への旅のおついででもあったら、御両所にも、ぜひ鎌倉へおたずねください』
義朝の口から、そんな話も出たりして、やがて、おたがいは道を別れた。
義清は、無口である。日ごろもだが、きょうも至って浮いていない。こういう性格の人間を清盛はあまり好きでないのだ。道は一しょに歩いたが、朱雀の辺まで、何ひとつ、ふたりの間で、話題になったものはなかった。
『では、ここで……』と、清盛は、一つのつじで、たもとを分かとうとした。別れ際になって、義清は、やっと、少し口かずをきいた。
『水薬師のお住居へ、お帰りか』
『うむ。あそこは、夜のさびしい所なので、妻も子どもも、自分の帰りを、待ちぬくのだ。このごろは、子どもの顔を見るのが楽しくてなあ』
『おいくつ? ……。お子は』
『三つになった』
『それは、お可愛いことだろう。子の可愛さは、理窟なしだ。……はやく帰ってやり給え』
灯ともしごろの朱雀の辻で、こういって別れた佐藤義清が、それからちょうど、一月後の十月十五日、突然、出家したといううわさには、清盛も、少なからず、驚かされた。
『どうしてだろう。何か、仔細があったのか』
清盛は、人びとに訊いてみた。義清が出家の動機というのが、かれには、どうにも、のみこめないのだ。
義清の従兄に、すこし年上の、憲康という者がある。
前の日、鳥羽院から一しょに帰り、みちみち、浮世の無常を語りあい、明朝、また憲康を誘い合わせる約束をして別れたとか。
そこで、義清は、約束どおり、翌朝、大宮の従兄の家へ、誘いに寄ったものだという。すると、ゆうべの道づれは、病の発作で、一夜のうちに死んでいた。やしきの奥からは、若い妻や、老母や、子どもらの泣きすする声がもれていた。――茫然と、門辺に立ったままな義清に――そのとき、奥の泣き声は――かれをして、ともに泣き悲しむことをさせなかった。反対に、人間の中では、毎日毎日、必然な約束ごととしてくり返される平凡な一事象にすぎぬものを、自分のすぐそばにも今、当然に起こっているにすぎない。――それをそんなふうに、静かに観る心を、はっと、自覚させられたというのである。
義清は、その日、その足で、まっ直ぐに、鳥羽院へ来て、致仕の旨を奏し、友輩に、別れもいわず、家へ帰ってしまった。
突然なので、院中のだれかれも、何が、不平か、何で辞めたのか、かれの心を、知るに苦しんだ。
(かれは、武者だが、生得の歌人ぞ)
とは、上皇のおことばでもあったほど、お覚えもよかったし、院の障子絵に、経信、基俊、俊頼などの歌人とともに、一日十首を詠んで、かれも、御感にあずかったときなど、院のおん手ずから、朝日丸という太刀をいただいた名誉すらもっている。
なお、最近にも、右兵衛尉に昇官されているし、さらに将来は、かれをして、検非違使にも任じたい上の意向であるともいわれているおりなのに――と、人びとはみな、解けない顔をした。
家に帰った義清は、さすがに少し興奮はしていた。かれの若い妻は、一室のうちで、慟哭した。召使たちも、何事かと、きき耳たてていた。
すると、やがて、しいて平静を努めながら、義清は、その部屋から出て来た。――と、四つになる可愛らしい盛りのかれの女が、走り出して来て、父のたもとにすがった。義清は、こわい顔して、その幼い者の手を、いきなり振り切り、縁から庭先へ、突き落した。わっと、いたいけない叫びは、大地の怒りみたいに、父を恨んで、泣きつづけた。
――これが、平然と、聞かれるのでなければ、道心の門出は、いつわりであると、自己へいい聞かせつつ、かれは、小刀を抜いて、自分のもとどりを切った。それを、持仏堂へ、投げ入れるやいな、家じゅうの悲嘆と、号泣のあらしを後に、どこへともなく、走り去ってしまった――というのが、綜合された、人びとの風聞だった。
それから、十数日は、経った。
すると。佐藤義清は、もう法衣姿となって、名も、西行と称している。そして東山の雙林寺付近にいたり、ときには、奥嵯峨のあたりを、歩いているのを、見た人もあるといううわさも聞こえた。
惜しむとて惜しまれるべきこの身かは
身をすててこそ身をも助けめ
身をすててこそ身をも助けめ
『若いのに、こんな歌すら詠んだことのある義清だ。きのうやきょうの決意ではあるまい。――遁世ではなく、むしろ、一歩高く、強く、生きようとしての、出家であろ』
この説明は、清盛の不審にたいして、舅の時信が、かれに答えたものである。
清盛には、いよいよ分からなかった。いちど、父忠盛にも、質してみよう。――そう思いつつ、かれは、いつのまにか、忘れてしまった。かれの前には、かれの前から消え去ったいくつかの友の顔よりは、もっと、逞しい夢をそそる時代の形相と、大きな現実の足どりとが、やがて、次つぎに、起こっていた。
改元されて、保延七年は、夏の七月十日からさき「永治元年」とよばれた。――辛酉や甲子の歳には、年号をかえる旧例があり、それにならったものである。
ところが「永治」は、わずか半年で、また変えなければならなかった。
同年の十二月。
かねてこのことはあろうと予想されていたが、突として、崇徳天皇の御退位と――同時に、皇太子体仁の受禅が実現され、同月二十七日、即位式も、とり行われた。
新帝の近衛天皇は、まだ、乳の香もうせない、お三つという、いとけなさ。
ために。――“関白ヲ以テ、摂政トナス”と、布告された。
氏ノ長者、太政大臣関白、藤原忠通が、これから、摂政をも兼ねることになる。
退位された崇徳は、なお、二十二歳のお若さである。心にもない御譲位たるは、疑うまでもない。むざと若木を抜き捨てられ、まだ三歳にすぎない幼帝におきかえられた御無念さを、人びとは閉じた心に、推し量り参らすのであった。一系の天子、万乗の君をすら、かくも容易に、他からうごかす力は、何なのか、どこかにあるのか。――ありえないが、しかし事実なのに、おののくのだった。
幼帝近衛は、美福門院の生むところであるから、かの女は、鳥羽の寵幸に加えて、いまはまた、天皇の御母でもある。
女身至上の尊貴、国母の称と、窈窕の美とを、女の生命に、あわせうけたかの女は、まさに、地上の栄花を、身ひとつにあつめた星の君とも見えもしたろう。
人ごころの、自然な考え方は、かの女が、鳥羽のみこころを唆かし奉ったもの――と、当然のように、思いたがった。
鳥羽御自身も、そのへんの機微には、鋭敏になっていらっしゃるに違いない。
知る者は知る、上皇のお胸たるや、明らかである。語をかりて、御胸中のものをいえば、こうもあろうか。
(かつて、わが若年のとき、白河法皇が、われに試み給えるところを、われもまた、今日、崇徳に施したまでのことである)――と。
改元、また改元となって、康治元年。――その正月も、なかばを過ぎたころの、ある夕べ。
夕明りの映す、東山の枯れ木林の中を、かさこそと、ひとりの若い僧が、雪おれ枝を、拾って歩いていた。
さきの右衛門尉佐藤義清。――今は、法衣一つの、西行であった。
いわゆる“祇園精舎の鐘の声”とは、この辺の峰、山ふところなどの、朱門楼閣や堂塔の繁昌を思わせるものだが、若いこの一僧の姿には、みじんの装飾もない、仏臭さもない。
沙羅双樹の花ならぬ、枯れ木を拾っては、手に抱えた。
『……おうっ。ここにおいでなされましたか』
人の声に、西行は、振り向いた。
『や。源五兵衛か』
『草庵の内にもお見え遊ばさず、雙林寺の者も知らぬというし、さては、洛内へ、お出ましか、などと思いながら、あちこち、お探しいたしました。……こんなところで、何をしていられますので』
『いや、薪拾いに出たのだが』と、西行は、明るく笑って――『手に拾う薪よりは、しずかな谷の、気ままと、おもしろさに、うかうか、日が暮れてしもうたのだよ』と、いった。
『薪を? ……。やれ、薪などを』
郎従の源五兵衛には、つい、きのうまでの主人義清が、考え出されてならないのである。走り寄って、それを、すぐ自分の手に、抱え取って、いった。
『もう、お帰りでございましょうが』
『何か、急な用向きでも、できたのか』
『いえいえ。お姫さまにも、お内方も、みな様お変りはございませぬ。そして、あとのお屋敷の始末。下婢たちから、厩の馬まで、それぞれ、よいように、片づけ終わりました。荘園の地券の御返上も、とどこおりなく』
『すまないのう。……ただただ、すまないと、詫びておる』
『御縁者方にも、もう、うごく御決意ではないと分かり、ふっつり、おあきらめに、見うけられまする。……で、近いうちに、奥がた様も、お子を連れて、お里方へ移られましょう』
『そうか。あれ達も、やっと心を、きめてくれたか。やれやれ、うれしいことだ』
西行は、たった一つの気掛りだった妻子のことが、一応は安心されたように、まゆをひらいた。そして、やがて、かれの仮の庵――雙林寺裏のわびたる小屋のうちへ、ふたりして帰った。
小机のまわりの歌書やら、硯などを片づけて、かれは、宵の灯火とすべき、松の木を細かに小刀で割り始めた。また、源五兵衛は、携えて来た食物を、裏の流れで洗ったり、炉へ、粥鍋を掛けたりしている。
(来るな。来てくれるな)と、西行が何度いっても、この郎従は、
(いかに、おしかりをうけても、いのちにかけ、参らでは、おりませぬ――)
と、いう男なのである。
やがて、この元の主従は、今は、道の友のように、炉辺にすわって、粥など食べ始めた。食べ終わっても、話に時を忘れている。
源五兵衛は、主人の出家した日から、自分も、武門に望みを絶ち、まだ髪こそ剃ろさないが、すでに西行が得度した寺に誓いを入れて、西住という法名までこい受けていた。そして一日も早く、西行のそばへ来て、師と呼び、西住とよばれることを、望んでいるが、西行は、
(まず一、二年は、あとに残したわしの妻や幼な子を、見とどけてくれい。そのうえならば――)
と、容易には、許しもしない。――というよりは、源五兵衛の道心を、どの程度か、見ているのかも、しれなかった。
『お。……うかと、忘れておりましたが』と、源五兵衛は、やがて、一通の書面を、西行の前においた。
『待賢門院様の堀川のお局から、ついでのおり、お手渡しして給もれとて、使いの者が、お持ちになったのでございまする』
女の達筆は、読みにくい。
消息やら、歌やらが、こまごま葦手風に、書きちらしてある。西行は、炉の火に、かざしては、読み解くようなまゆをしていた。
――が、読みおわったあとは、なにか、思い入るように、榾の炎を、見つめたまま、いつまでも、源五兵衛と、黙りあっていた。
黙っていることが、労れになったり、空虚になるような、ふたりでもない。
待賢門院の女房のうちには、かれの、歌の友が多い。
堀川ノ局、二位ノ局、帥の局、中納言ノ局、紀伊ノ局――など、幾多の女性が、こんどの西行の発心には、みな、歌を寄せたり、消息をよこしたりしていた。
堀川ノ局の消息も、また、その一つといってよい。
だが、これには、縷々と、べつに――自分たちが仕える待賢門院のわびしい起居のさまや、このごろのお歌などが、しるしてあった。女院には、あなたの御出家のうわさを聞かれて、御自身も、仏門にはいりたいねがいを、しきりに、おもちになった御容子です――などとも、書いてあった。
『さも、おわさめ……』と、西行は、思う。
遠からぬまに、それは、女院が好み給うと否とにかかわらず、起こりうることと、うなずけるのであった。
童女のうちから、白河法皇に寵せられ、後、鳥羽帝の中宮として立ち、生み給うた崇徳は、やがて上皇鳥羽から、わが子に非ず、だれかの子よ、と冷たい仰せをうけるなど――待賢門院のお立場は、たださえ、複雑な、御心と御心との、間にあるうえに、今度の皇位の廃立にあたっては、いよいよ、そのむずかしさを、当然に、加えていよう。
さしも、絶美といわれた一代の容姿も、なんと、短い誇りであろう。――西行の記憶によれば、お年も、四十路をこえておられる。
だが、哀れなのは、その女院の君よりは、女院に侍く数多な局たちにあった。もし、女院御出家のあかつきは、その人びとも、尼になるか、弱い女の運命を、世の流れに、ちりぢりにまかせて、いつかは行方も知れないことになろう。
『盛遠のうわさを、お聞き及びでは、ございませぬか』
源五兵衛は、また、唐突に、こんな話を、もちだした。
西行は、灰の白さと、真っ赤な火の、映じ合う美しさに、うっとりしていたが、面をあげて、
『盛遠とは』――と、遠い過去の人みたいに、問い返した。
『去年の暮、大赦の令に、追捕の罪名からは、解かれましたが、五年前、袈裟を殺して、行方をくらました武者盛遠のことです。――近ごろ、紀州の熊野から来た男に聞いたのですが、かれも、今は仏門に入り、法名を、文覚とかいって、去年の秋、熊野権現に、百日荒行の誓願を立てて、毎日、那智の滝つぼで、滝に打たれていたとか、申すことですが』
『……ああ、あの盛遠か。……なるほど、かれの性根を打ち直すには、滝ならば那智。道ならば、自力難行の門。それしかあるまいな』
『わたくしに話したその男も、文覚とは、どんな、荒法師やらんと、滝つぼの辺へ行ってみたところ――荒繩の腹帯を巻き、鈴を振り鳴らし、しぶきの中に、声も出ぬまで、経文を唱えている姿は、身の毛もよだつばかりであったとか、語っておりました。――聞けば、幾たびか、気を失うて、おぼれ流されるところをば、那智の滝守に、救われたこともあったとやら。――何せい、髪もヒゲも、面を埋むばかり伸び、眼は、くぼみ落ちてしまい、この世の者とも見えず、身を寒うしたということでございます』
『ほ。……そうか』
西行は、燃えさしの榾を持って、炉の灰に、何やら書いているだけだった。
文覚の、それほどな悔悟と、捨て身にたいして、さすがに、かれを武者の面よごしと、ひところは、ののしっていた源五兵衛も、いまでは、同情的な口うらに、変っている。
だが、西行は、そうでない。盛遠のとった道と、その正直さは、理解できるけれど。こうして、春寒の夜を、炉にすわって、ホタホタと燃える静かな火に、あたたかな若い肉体を、おだやかに。つつがなく、生命の自然そのままに持っていようとすることの方が――那智の巌下に千尺の飛瀑をこらえているよりは、どんなに、苦しいか、むずかしいか。――それが、わからない源五兵衛では、自分の道づれとして、生涯をともにするのも、心もとないことではあると、ひそかに、思ってでもいるらしい容子であった。
この、東山の草庵に、起居してからも、夜半、ふと眼がさめる癖がついたのは、家を出る日、取りすがる幼な子を、縁の上から蹴落した――あの一せつなの泣き声に――いつも呼び醒まされるためである。
ひとり水をくみ、薪を割り、ふと、歌の一つも詠み出ようとすれば、谷のこずえも、雙林寺の松も、あとにのこして来た若い妻が、嘆く声にも似ていて、蕭々とふき渡る風が、にわかに耳について寝られなくなるのである。
さらに、縁につながる、幾多の生木を、みずから裂いて来た科として、自分の心も、のべつ、引き裂かれずには措かれない。
この悩みと、この哀れとは、生涯、離れうることはないであろう。だが、哀れをこそ、わが生涯の道づれにと、西行は、じっと、抱きしめている。紛らそうの、忘れようなどとは、していない。
聞説。
武者盛遠の文覚は――人間の子の必然に、与えられた煩悩と苦悩を、那智の滝に、洗い去ろうとするものらしい。そして、まったく、べつな自己を、滝つぼの底から、生み直して出ようとするもののように思われる。
(それは尊い追究だ。かれのえらんだ道も、誤りではない。だが、自分の道とは、まったくちがう。同じ、人間の悩みから、出離をこころざしたものではあるが……やはり盛遠の道は、盛遠の道。自分の道は、自分だけの、ひとりの道……)
西行は、灰の上に、あわれ、あわれ、といくつも書いた。
自分は、人間のままに、人間の旅を。――果てなく、人間のぼろとあわれを引きずって、ただ、生命のみを、愛そうと思う。
生命をよく持たんには、素直な、自然の子となるに如くはない。家は、闘争のちまたにある。妻子の家も捨てなければそれに徹しえない。
といって、自分の出家は、自分のためであって、世のためなどの大願ではない。いわんや、法灯の殿堂にはいって、大釈迦牟尼の寵をとなえ、金襴の僧位を望むのではもとよりない。
ただ、この一命の、いとしさに、人間いかに生くべきやを、自然に習び、自然を友に、天命のまにまに生を楽しもうと思うのみの出家である。
もし、世の理窟ずきな法師どもがあって。――借問す、出家の道は、世を浄め、人を救うにこそ有るなれ、なんじ、ただ一身のための、世過ぎと、わがままをなさんがゆえに、法衣を仮るは、似而非出離ならずや、言語道断の偽せ坊主よ。――と誹る者があれば、西行は、甘んじて、その唾をもうけるであろう。そして、なお責められるなら、ついにこういう一語をもって、それに答えるしかないのである。
(――まことに、仏の教えと、僧侶の道とは、仰っしゃるとおりにちがいありません。……けれど、まず、自分の生命をすら、ほんとに、愛することを知らない者が、どうして、他の衆の生命を、愛することができましょう。――ですから、わたくしはまず、自分の生命を、愛することから、修行してゆこうとする青道心にすぎませぬ。衆生を助けるなどの仏知も、神異の才も、わたくしには、持ち合わしておりません。――ですから、世間のお邪げにはならないように、細ぼそ、生かしていただいて参ります。蝶か、小鳥でも、いるものとして、どうか、眼においかりをふくまないで、お見のがしおきくださいませ――)
その朝、正月十九日。――西行は、東山を出て、四条の河原まで来たが、おりふし、雪が降って来たので、草庵へ戻ろうかなど、思い惑った。けれど先夜、源五兵衛のもたらした消息なども思い出され、
『いやいや、余りに、ごぶさたにすぎてもいるし、世も、いつどう変るやら知れぬとき――』
と、淡雪の降りつむ橋を、ついに、渡って行った。――待賢門院のうちの、局たちを訪おうと、思い立ってである。
そして、洛内の一つのつじまで来ると、
『流人が、送られて行くぞよ。――夫婦の囚人が』
『夫婦しての、流され人とは、どこの、たれか。――何をしての、流罪であろぞ』
雪もいとわない人だかりである。
西行は、べつな方へ、曲がろうとしたが、そこも人や馬で、通れもしない。
検非違使の武者が、つじをかため、万一に備えている様子から見て、罪人は、家人も持っている、しかるべき身分の者と、おもわれた。
『オオ、あの裸馬ぞよ。おいたわしや。……日ごろ、おやさしい、み台所様も、散位様も』
出入りの街の女房たちでもあろうか、おろおろ声で、人びとの間に、背伸びするもあり、面をおおうて、よよと、泣くのもある。
そのうちに、割り竹を持った六条の下司(下役人)や放免たちが、
『退け、退け。道を退きおれ』
『退きおらぬか』
と、路地の口から往来の左右を、いわゆる“恐らしき者”といわれる権柄と叱

狼藉を極めたそこの屋敷門の内から、二頭の裸馬の背にくくし付けられた流人の夫妻がひき出された。前後には、追立ての武士、役人などが、ものものしく、護り固め、――ひとりの下司は、板に書いた罪文を、手に掲げて、先を、歩き出した。
罪文には、こう読まれた。
散位源ノ盛行、并ニ、妻、津守嶋子ヲ、
土佐ノ国ヘ、配流ニ処ス。
待賢門院ノ仰セヲ奉ジ、国母皇后ノ宮
(美福門院)ヲ咒咀シ奉ルノ罪ニ依ルナリ。
土佐ノ国ヘ、配流ニ処ス。
待賢門院ノ仰セヲ奉ジ、国母皇后ノ宮
(美福門院)ヲ咒咀シ奉ルノ罪ニ依ルナリ。
太政官執行
盛行も、妻の嶋子も、もう白髪の多い老人であり、夫婦して、女院の下に、長く仕えていた家職の者であった。西行も、前から、ふたりをよく知っていたので、変りはてた夫妻の姿に、思わず、声を発して、悲しんだ。――とたんに、道の両側からわらわらと、裸馬のそばへと、馳け寄って行く者が見えたので、西行も、われを忘れて、その人びととともに、
『散位どの。……盛行どのっ……。お名残り惜しいことではある。おからだを、大事に召されよ』
と、叫びながら、なにか、歌反古の一つでも、餞別けしたいものと、つい、馬について、数十歩、あるいた。
すると、割り竹を持った“恐らしき人びと”が、たちまち、それを振りかぶって、馳けよりざま、
『この、凡下めら、また寄るか』
と、撲りまわった。
西行は、そんな者の竹に、たやすく打たれるような者ではなかったが、意外なできごとの驚きと、多少、気もちに乱れもあったせいか、雪にすべって、騎馬役人のひづめの先に、あっと、よろめいたまま、後のことを、知らなかった。
……ふと、気がついた時は、身は、路傍の雪泥の中につっぷしており、あたりには、人も馬も見えなかった。ただ、降りつのるぼたん雪が、夜半のように静かに、また、たった今、通り過ぎた総ての象のものを、夢かのように、かき消していた。
その日、西行は、むろん、待賢門院の局を訪わなかった。
咒咀は、うそだといい、いや、ほんとだといい――また、あれはある一派の人びとの策謀にちがいないなどと――それからの、真しやかな流言蜚語は、人の心をくらくするばかりだった。表面は依然たる平安の都だが、底流の不安は、ひと通りではない。
一時は、世上も、どうなるかとさえ思われた。――だが、何事もなく――鳥羽上皇の御落飾の儀がつたえられた。爾今、法皇ということになられたのである。すると、翌月、二月二十六日には、待賢門院の仁和寺入りが、つづいて、さたされた。――仁和寺の法金剛院の奥ふかくこもられて、まもなく、出家されたのである。
まだ、四十二のお髪は、黒く、艶やかであった。得度のおん剃刀に会われるとき、いかに、悲しまれるかと思いのほか、女院は、水のように冷やかに、俗世を終わる式をすまされた。――お胸のうちの炎のほどは……などといっていた人びとも、その日のお姿を見ては、みな恥かしくなったほどである――などと、後に、局たちからの便りに知って、西行は、人の世の春と、自然の春とを、小鳥の音の中で、ひとりながめくらべていた。
五条の大橋は、まだ、新しかった。
数年前から、覚誉という一法師が、よくつじに立っていた。覚誉法師は衆の公共心に訴えて、零細な浄財を乞い、ある日は、自分もともに、石をかつぎ、土を盛り、夜は河原の小屋に寝て、やっと近年、竣工を見たものであるという。
『世には、寺院と寺院で、焼き打ちし合っている山法師もあれば、また、こういう奇特な街の御僧もある――』と、人びとはいった。
五条に橋が架かってから、庶民の生活図が、南へ伸びた。またたくまに、清水寺のふもとや、音羽川、鳥辺野あたりまで、人家が、ながめられて来た。
それまでは、生うるがままな雑草と、雑木の原だった六波羅にも、大きな武者屋敷が、建ちかかっていた。
『どなたの、お住居であろ?』
と、通る人は、よくいったが、だれも、ここに住む者を、まだ知らない。
久安元年の、夏の初め。まだ、壁塗りもよく仕上がらないうちに、大勢の家人、家族をひきつれて、これへ移って来た主人を見ると、それは、近ごろ、中務大輔に昇進した平太清盛と、その妻子であった。
『どうだ。……水薬師の古館とは、くらべものになるまいが』
清盛は、妻へ、誇った。もう三人の母だった時子は、心から、良人と、よろこびをともにして、八つになる重盛と一しょに、新しい木の香の部屋部屋や廊の間を見てまわった。
『おまえの親父は、おれの父以上、変り者だよ。こんな、よい邸宅よりも、水薬師の古家の方がよいといって、どうしても、一しょに移って来ないのだからな。……が、好きなものは、ほっておけだ。おれには、八年間もの辛抱だったが』
清盛は、いったが、しかしかれも時子も、結婚後、わずか八年ぐらいで、こんな新築の邸宅に、住む身になろうとは、ゆめ、思いもしていなかったにちがいない。
かえりみて、以前の貧苦は、うそみたいな気がするのである。家人郎党の頭数も、むかしに十倍しているし、侍女も召し使い、馬も厩に、十数頭をつないでいる。
(――なんの功があって?)
と、かれ自身、ときどき、反問してみるが、なにも、これというほどな、大功もない。
それなのに、父忠盛も、今では、刑部卿に昇っている。但馬、備前、播磨と、所領の地も、三ヵ国に在る。自分だけが、こうなのではなかった。――たとえば、源氏の六条為義なども、同様だった。昨今、洛内には、東国兵の新顔を、おびただしく見かけるが、それはみな六条の配下に増員された坂東者であり、一族それぞれ昇官を見、門戸兵営を大にして、宛として今や“都の豪族”である。
この急激な、地下人の優遇や、武人色の表面化は、決して、公卿殿上の、好む傾向でないにはきまっている。――が、眼をつむって、従来の方針を、こう一変させて来たほど、世はまさに、険悪なのにちがいない。武力なしにはいられない猜疑と不安の結果である。また、保守心理の狼狽でもあった。
一院(鳥羽)と、新院(崇徳)との、御父子の冷やかなおん仲は、せっかく、相互のあいだに、唯一な緩衝地帯となっていた待賢門院の御出家を機として、俄然、真二つの峰と峰とにしてしまった。
群臣は、その谷あいのものである。かれらも、大きな動揺をきたし、いずれの峰へ拠る者も、内心、さまざまな迷路を持った。複雑なうごきや、策謀が行われ出し、あすをも知れない不安に、駆られ出したのはいうまでもない。
これに、拍車をかけて、いよいよ暴威をさかんにしているのが、叡山、三井、奈良などの、武装された僧団の大衆である。
かれらへの朝令は、一として行われたためしがない。なんぞといえば、強訴であり、合戦ざただ。到底、武力なしには、官庁でも、かれらと応待できないという有様である。
ここ数年間に――
忠盛、清盛父子を始め、六条為義の配下などが、功をたてた事件といえば、そのことごとくが、僧団との、対抗であったといえる。
それの守備、鎮圧を勤めて、まず、禁門にことなきを得たという消極的な功労だけが、武者の功といえば、功であった。
いかに、何千という僧兵が、驟雨のごとく、大挙して来ても、それに向かって、武人は戦うことはできない。飽くまで、守備だけが任である。なぜならば、叡山も南都の大衆も、法令以上な法権をもち、朝威以上な、天皇上皇の信仰を、御輿や榊に、象徴させて、常に、無敵を誇りながら、示威の陣頭に、押し掲げて来るからであった。
『ほうき星が、毎晩、見える……』
『乾の空に、あれ、あんな大きな彗星が――』
と、街中の不安そうな顔が、果てなく、空の一方を、仰ぎあった。
旱つづきの、七月の夜毎に――である。
『なにかある。どうせ、吉いことではあるまいぞ』
ちょうど、興福寺の僧徒が、大和の金峰山と、もつれを起こし、一たん敗れた興福寺方が、さらに大兵を起こして、山を焼き打ちしたといううわさのつたわっていたときだった。
奈良から、朝夕に、早馬が入洛したり、六条為義の兵が、万一のため、宇治方面へ出て行くのを見たりしたので、夜々の彗星は、なおさら、妖しい予告に見えた。
街の不安もだが、彗星の変となれば、百官の朝議も、まことに、ゆゆしげである。なんの前兆か、吉か凶かを、暦学、占筮の諸博士から、意見を徴して、例のごとく、加持祈祷に、奔命するのであった。
果して。――と、堂上ではいいあった。
八月二十五日。待賢門院藤原璋子は、仁和寺の内で、四十五歳で、崩御された。
翌年。――こんどは、園城寺の僧徒と、延暦寺の僧徒が、月余にわたって戦った。
清水寺に、原因不明の、怪し火があったりした。
この年、平太清盛は、ふたたび昇って、安芸守に任官した。父忠盛は、前からの播磨守だが、いまは、父子そろっての、守である。
位階は四位、職級は、四等官で、国司の下にはなるが、一国の知事であり、もちろん、任地には赴かず、京にあって、俸禄だけを受けるのである。
こうして、時勢が、かれら武人に媚びて来るのと同時に、かれら地下人も、ようやく、人交わりの中に、本来の性能と欲望を自覚していた。――ひそかに、時こそと、待つものがあった。
清盛にとっても、その試練といえるような大きな機会をもった日が、ついに来た。
久安三年。ちょうど、かれが三十歳の夏である。
朝廷も、藤原氏も、手を焼きぬいたし、かつては、白河法皇にすら、ままならぬものという長嘆をさせた叡山の大衆にむかって、一個の清盛が、それまで、だれもなしえなかった僧団の暴力にたいし、破天荒な一事件を起こしたのであった。
それはまた、当時の、朝廷貴族から、庶民にまで、頑迷に根を張っていた迷信への一矢でもあったため、当時にあっては、
『あわれ、平太清盛は、安芸守に昇進して、思い上がりやしつらん。狂気の業よ、狂人でものうて、なしうることか』
と、疑われたほどであった。
じつは、それが反対に、世人の方の迷妄であったとしても、世人の常識限界から先へ、思いきった歩き方をして行く者は、いつもたいがい清盛と同じような嘲笑をうける。