あらすじ
戦後間もない大阪を舞台に、天ぷら屋を営む種吉とその妻お辰、そして娘の蝶子の暮らしを描いた作品です。貧乏ながらも家族で支え合いながら生きていく様子は、どこか哀愁漂い、愛おしさを感じさせます。しかし、蝶子は女中奉公に出され、やがて芸者となり、その後、化粧品問屋の息子である柳吉と出会います。二人の関係は周囲を巻き込み、波乱万丈な展開へと進んでいきます。
 年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋しょうゆや、油屋、八百屋やおや鰯屋いわしや乾物屋かんぶつや、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促さいそくだった。路地の入り口で牛蒡ごぼう蓮根れんこんいも、三ツ葉、蒟蒻こんにゃく紅生姜べにしょうがするめ、鰯など一銭天婦羅てんぷらげて商っている種吉たねきちは借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉うどんこをこねる真似まねした。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡ごんぼ揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢すりばちの底をごしごしやるだけで、水洟みずばなの落ちたのも気付かなかった。
 種吉では話にならぬから素通りして路地のおくへ行き種吉の女房にょうぼうけ合うと、女房のおたつは種吉とは大分ちがって、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振みぶりが余ってこし掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
 芝居しばいのつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声になみだがまじる位であるから、相手はおどろいて、「無茶いいなはんナ、何もわてはたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二三度押問答おしもんどうのあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られるおもいでわたさねばならなかった。それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘してきされると、何ともいい訳けのない困り方でいきなり平身低頭してびを入れ、ほうほうのていげ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴ぐちの相手はむすめ蝶子ちょうこであった。
 そんな母親を蝶子はみっともないともあわれとも思った。それで、母親をだまして買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭をぬすんだりして来たことが、ちょっと後悔こうかいされた。種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き合わぬと見えたが、種吉は算盤そろばんおいてみて、「七りんの元を一銭に商って損するわけはない」家に金の残らぬのは前々の借金で毎日の売上げが喰込くいこんで行くためだとの種吉の言い分はもっともだったが、しかし、十二さいの蝶子には、父親の算盤には炭代や醤油代がはいっていないと知れた。
 天婦羅だけでは立ち行かぬから、近所に葬式そうしきがあるたびに、駕籠かごかき人足にやとわれた。氏神の夏祭には、水着を着てお宮の大提燈おおぢょうちんを担いで練ると、日当九十銭になった。よろいを着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約しまつしたから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身かたみせまい想いをし、鎧の下をあせが走った。
 よくよく貧乏びんぼうしたので、蝶子が小学校をえると、あわてて女中奉公じょちゅうぼうこうに出した。俗に、河童がたろ横町の材木屋の主人から随分ずいぶんと良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくはめかけにしろとのはらが読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋ふるてやへばかに悪い条件で女中奉公させた。河童がたろ横町はむかし河童かっぱんでいたといわれ、きらわれて二束三文にそくさんもんだったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口かげぐちきかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼けいがんだった。
 日本橋の古着屋で半年余り辛抱しんぼうが続いた。冬の朝、黒門くろもん市場への買出しにまわり道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除そうじしている蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、もどした。そして所望しょもうされるままに曾根崎そねざき新地しんちのお茶屋へおちょぼ(芸者の下地したじ)にやった。
 種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金ばらいでみるみる消えたが、あとにも先にもまとまって受けとったのはそれきりだった。もとより左団扇ひだりうちわの気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽ろうばいした。お披露目ひろめをするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀しゅうぎ衣裳いしょう、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主かかえぬしが出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子をしば勘定かんじょうになると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境かんきょうに染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々だだをこねられると、負けて、種吉は随分工面した。だから、つらい勤めもみな親のためという俗句は蝶子に当てはまらぬ。不粋ぶすいな客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……とかれると、父親は博奕打ばくちうちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄とちがら、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、わてを芸者にしてくれんようなそんな薄情はくじょうな親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当かんどうさわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のお父つぁんはだんさんみたいにええ男前や」とらしたりして悪趣味あくしゅみ極まったが、それが愛嬌あいきょうになった。――蝶子は声自慢こえじまんで、どんなお座敷ざしきでも思い切り声を張り上げて咽喉のどや額に筋を立て、襖紙ふすまがみがふるえるという浅ましいうたい方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬであったから、はっさい(お転婆てんば)で売っていたのだ。――それでも、たった一人ひとり馴染なじみの安化粧品問屋やすけしょうひんどんや息子むすこには何もかも本当のことを言った。
 維康柳吉これやすりゅうきちといい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、い初めて三月みつきでもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那だんなをしくじった。中風でている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店りはつてん向きの石鹸せっけん、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋おろしどんやであると聞いて、散髪屋へ顔をりに行っても、其店そこで使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある日、梅田新道うめだしんみちにある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子あつしを着た柳吉が丁稚でっち相手に地方送りの荷造りを監督かんとくしていた。耳にはさんだ筆をとると、さらさらと帖面ちょうめんの上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤そろばんはじくその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根つけねまで真赧まっかになったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼よこめを使うだけであった。それが律儀者りちぎものめいた。柳吉はいささかどもりで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好かっこうがかねがね蝶子には思慮しりょあり気に見えていた。
 蝶子は柳吉をしっかりしたたのもしい男だと思い、そのようにらしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰とりざたした。ぐせ浄瑠璃じょうるりのサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(ぶたの皮身を味噌みそつめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名あだながついていたくらいだ。
 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、きたないことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真ほんまにうまいもん食いたかったら、「一ぺんおれの後へいて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津こうづ湯豆腐屋ゆどうふや、下は夜店のドテ焼、粕饅頭かすまんじゅうから、戎橋筋えびすばしすじそごう横「しる市」のどじょうじる皮鯨汁ころじる道頓堀どうとんぼり相合橋東詰あいおいばしひがしづめ出雲屋いずもや」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭しょうべんたんごてい」の関東煮かんとだき、千日前常盤座ときわざ横「寿司すし捨」の鉄火巻とたいの皮の酢味噌すみそ、その向い「だるまや」のかやくめしと粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手げてもの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子もりによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。
 乱暴に白い足袋たびみつけられて、キャッと声を立てる、それもかえって食慾しょくよくが出るほどで、そんな下手もの料理の食べ歩きがちょっとしたたのしみになった。立て込んだ客の隙間すきまへ腰を割り込んで行くのも、北新地の売れっ妓の沽券こけんかかわるほどではなかった。第一、そんな安物ばかり食わせどおしでいるものの、帯、着物、長襦袢ながじゅばんから帯じめ、腰下げ、草履ぞうりまでかなり散財してくれていたから、けちくさいといえた義理ではなかった。クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。それに、父親は今なお一銭天婦羅で苦労しているのだ。殿様とのさまのおしのびめいたり、しんみり父親の油滲あぶらじんだ手を思い出したりして、後に随いて廻っているうちに、だんだんに情緒じょうちょが出た。
 新世界に二けん、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰のやつや、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月かげつ」へ春団治はるだんじの落語をきに行くと、ゲラゲラ笑い合って、にぎり合ってる手が汗をかいたりした。
 深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁ひんぱんになった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。
 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団ふとんの下にかくしたので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮しょせん、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店をけ廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理がかさんで、あおくなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履おとこばきの草履をおくって来た。えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへれてしまって、枕元まくらもとへ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目ききめなしとあきらめていた父親も、今度ばかりは、打つ、なぐるの体の自由が利かぬのが残念だとなみだすらうかべて腹を立てた。わざと五つの女の子をひざの上にき寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかにさけび出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張りと肚の中でつぶやいたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋えびすばし天狗てんぐ」の印がはいっており、鼻緒はなおへびの皮であった。
かまの下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離きゅうり切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固がんこは死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端とたんに、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心のくもりが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落かけおちせえへんか。
 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股おおまたで横切って来た。かみをめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。
 八月の末で馬鹿ばかに蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日があるというのを拝みたおして三百円ほど集ったその足で、熱海あたみへ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人ふたりの行末のことを考えたら、そんな呑気のんきな気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座をさらい、土地の芸者から「大阪おおさかの芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心がなぐさまった。
 二日そうしてち、午頃ひるごろ、ごおッーとみょうな音がして来た途端に、はげしくれ出した。「地震じしんや」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖につかまったことは掴まったが、いきなり腰をかし、キャッと叫んですわり込んでしまった。柳吉は反対側のかべにしがみついたままはなれず、口も利けなかった。おたがいの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったというくい一瞬いっしゅんあった。

 避難ひなん列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、まっすぐ上塩町かみしおまちの種吉の家へ行った。途々みちみち、電信柱に関東大震災の号外が生々しくられていた。
 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚びっくりしてしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんにけば、蝶子の失踪しっそうはすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜もねむれなんだという。悪い男云々うんぬんを聴きとがめて蝶子は、何はともあれ、扇子せんすをパチパチさせてっ立っている柳吉を「この人わての何や」と紹介しょうかいした。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上挨拶あいさつが続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。
 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣ゆかたそでを顔にあてた。泣きんで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一しんいち尋常じんじょう四年で学校へ上っとりますが、今日きょうは、まだ退けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文いいに行った。
 銀蠅ぎんばえの飛びまわる四じょう部屋へやは風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱さげばこに入れて持ち帰り、皆は黙々もくもくとそれをすすった。やがて、東京へ行って来たむね蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚びっくりしてしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮きょうしゅくした。
 母親の浴衣を借りて着替きかえると、蝶子の肚はきまった。いったん逐電ちくでんしたからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子にあまいところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦げっぷで払う肚を決めていた。「わて親爺おやじに無心して払いまっさ」と柳吉もだまっているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手をった。「あんさんのお父つぁんに都合ぐつが悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異をてなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄はしかの他には風邪かぜ一つひかしたことはない、また身体からだのどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。

 二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯しょたいを張った。階下したは弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、くらしに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子がかせぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増としま芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋しゅうせんやみたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会えんかい婚礼こんれいに出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡れんらくをとり、派出させて仲介ちゅうかいの分をはねると相当なもうけになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更よふけまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入みいりではないとおきんから聴いて、早速さっそく仲間にはいった。
 三味線しゃみせんをいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部ぜんぶの運びからかんの世話にかかる。三、四十人の客にヤトナ三人で一通りしゃくをして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほどかされ歌わされ、浪花節なにわぶしの三味から声色こわいろの合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節やすぎぶしおどらされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚びっくりするほどの大年増の朋輩ほうばいが、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬のらいぬや拾い屋(バタ屋)が芥箱ごみばこをあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭なまぐさ臭気しゅうきただようている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良いにおいがした。
 山椒昆布さんしょこんぶを煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒になべにいれ、亀甲万きっこうまん濃口こいくち醤油をふんだんに使って、松炭まつずみのとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋えびすばしの「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈たいくつしのぎに昨日きのうからそれに掛り出していたのだ。火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣こづかいに少しも手をつけていなかった。蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配あんばいに煮えて来よったやろ」長い竹箸たけばしで鍋の中をき廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなきこいしさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物のすそをひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらいひまかかって何してるのや」こんな口を利いた。
 柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。「おばはん小遣い足らんぜ」そして三円ぐらい手ににぎると、昼間は将棋しょうぎなどして時間をつぶし、夜はふた井戸いどの「おにいちゃん」という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「ぼくと共鳴せえへんか」そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想かわいそうやと種吉に言い言いしたが、種吉は「ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のためにうれしく、苦労の仕甲斐しがいあると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。

 その年も暮に近づいた。押しつまって何となくあわただしい気持のするある日、正月の紋附もんつきなどを取りに行くと言って、柳吉は梅田うめだ新道しんみちの家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色はえなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢ひばちの前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子ようすが、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。――父親は柳吉の姿を見るなり、寝床ねどこの中で、何しに来たと呶鳴どなりつけたそうである。妻はせきを抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒めんどうみているが、その子供にも会わせてもらえなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親はおこるというよりも柳吉を嘲笑ちょうしょうし、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「わてのこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜あとがまに坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望ほんもうや」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井てんじょうにらんでいた。
 まえまえから、蝶子はチラシをじて家計簿かけいぼを作り、ほうれん草三銭、風呂銭ふろせん三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用はつつしんで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使いしみ、半襟はんえりあかじみた。正月を当てこんでうんと材料もとを仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「わてには金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言わなかった。
 年が明け、松の内も過ぎた。はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。父性愛ということもあった。蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがにさびしいと、これは人ごとでなかった。ある日、昔の遊び友達に会い、さそわれると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波なんば新地へはまりこんで、二日、使い果してたましいの抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」そう言って蝶子は頸筋くびすじを掴んで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。「おばはん、何すんねん、無茶しな」しかし、抵抗ていこうする元気もないかのようだった。二日酔いで頭があばれとると、蒲団にくるまってうんうんうなっている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。千日前の愛進館で京山小円きょうやまこえんの浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒ここのラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸にいた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々あらあらしく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「阿呆あほんだら」そしてくちびるをとがらして柳吉の顔へもって行った。

 あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。おきんの亭主ていしゅはかつて北浜きたはまで羽振りが良くおきんを落籍ひかして死んだ女房の後釜にえた途端に没落ぼつらくしたが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主ははじをしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」探す肚があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。
 千日前「いろは牛肉店」のとなりにある剃刀屋かみそりやの通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分じゅうぶんさず、昼電を節約しまつした薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りをながめていると、そこの明るさがうそのようだった。ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。その隣りは竹林寺ちくりんじで、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方ではもちを焼いて売っていた。醤油をたっぷりつけて狐色きつねいろにこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水ちょうずを使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。またいわく、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいる恰好が面白いとて飾窓ウインドーに吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。それだけの芸でこと足りた。蝶子は、「そら、よろしおまんな」そうはげました。
 剃刀屋で三月みつきほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩けんかしてしゃくやからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真ほんまだと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。蝶子は一層ヤトナ稼業かぎょうに身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんとたてまつられるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、ことにこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことが憂鬱ゆううつの原因らしく、そのことにひそかに安堵あんどするよりも気持の負担の方が大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。
 実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだといううわさを聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結えんむすび」にまいって蝋燭ろうそくなど思い切った寄進をした。その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名かいみょうを聞いたりしてたなに祭った。先妻の位牌いはいが頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞ふるまった。

 二年経つと、貯金が三百円を少しえた。蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部はろうてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」と証文出して来て見せた。母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、まぶたが熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。そこで貯金はちょうど三百円になった。そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中まんなかにぺたりと坐り込み、うでぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線のばちで撲られたあとおさえようともせず、ごろごろしていた。
 もうこれ以上節約しまつの仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋ごふくやに物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会しおに、いつまでも二階借りしていては人にあなどられる、一軒借りて焼芋屋やきいもやでも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託いたくをしてもらうとまたたく間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃かえば、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切つめきりなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」声の張りも違った。そして「主人うちがこまめにやってくれまっさかいな」と言い、これは柳吉のことをめたつもりだった。たすきがけでこそこそ陳列棚ちんれつだなき掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも慾が出るとなかなかの働き者だと思った。
 開店の朝、向う鉢巻はちまきでもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。午頃ひるごろ、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼をさらのようにして表を通る人を睨んでいた。午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。「まいどおおけに」「どうぞごひいきに」夫婦がかりで薄気味うすきみわるいほどサーヴィスをよくしたが、人気じんきが悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げはめて二円にも足らなかった。
 客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。話の種もきて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古けいこしに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがにはばかって、商売をするようになってから稽古したいという。その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くの下寺町の竹本組昇そしょうに月謝五円で弟子入でしいりし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのをあさって、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客がなければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業しょうばい大事とつとめて、一人で座敷をさらって行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝からすがいの酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。ヤトナの儲けでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
 店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった。
 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋のかつが「うちの二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれさいわいに、飛田とびた大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤暖簾あかのれんの五銭喫茶店きっさてんで何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。もうヤトナ達の中でも古顔になった。組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子ねえさんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。衣裳の裾なども恥かしいほどり切れて、咽喉のどから手の出るほど新しいのが欲しかった。おまけに階下したが呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙めいせんの一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親のかたきをとるような気持で、われながら浅ましかった。
 さん年経つと、やっと二百円たまった。柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。二百円出来たので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」と相談したが、こんどは「そんな端金はしたがねではどないも仕様がない」と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田のくるわで瞬く間に使ってしまった。四五日まえに、妹が近々むこ養子をむかえて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓しょうぎを相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろあきれてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首をめあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分折檻せっかんしなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情ちじょうめいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。毎朝味噌しるをこしらえるとき、柳吉がたすきがけで鰹節かつおぶしをけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、立て込んだ寄席よせの中で、だれかに悪戯いたずらをされたとて、キャッーと大声を出してさわぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。「あれでは今に維康さんにきらわれるやろ」夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日いくにちも帰って来なかった。
 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼んだ。種吉は、娘の頼みをねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手へたに顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見はっけみのところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心があだになる。大体この星の人は……」年を聞いて丙午ひのえうまだと知ると、八卦見はもう立板に水を流すおしゃべりで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北にかたむいている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っているさかを足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。
 十日目、ちょうど地蔵盆じぞうぼんで、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲をりかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈えあんどんの下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行燈の明りに顔が映えて、まぶしそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
 二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡はいちゃくと相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日膝詰の談判をやったところ、一向に効目がない。妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でももらうだけのものは貰わぬと、後へは行けぬおも梃子てこでも動かへんなんだが、親父おやじの言分はどうや。蝶子、お前気にしたあかんぜ。「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金しにがね同然や、結局女に欺されてられてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。別れた、女も別れる言うてますとうまく親父を欺して貰うだけのものはもろたら、あとは廃嫡でも灰神楽はいかぐらでも、その金で気楽な商売でもやって二人末永すえなご共白髪ともしらがまで暮そうやないか。いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。それで蝶子、明日あした家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。本真ほんまの気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいはき帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。
 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒ないしょで梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。とそうまではっきりと悪くとらず、またいくら化粧問屋でもそこは父親がおろしてくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわば二道を掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家におれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」蝶子はおきんの言う通りにした。嘘にしろ別れると言うより、その方が言いやすかった。それに、間もなく顔を見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれきりで縁が切れそうだった。

 三日経つと柳吉は帰って来た。いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌ふきげん極まった。手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
 父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。剃刀屋のにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふと関東煮かんとだき屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田とびた大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人おとなしい女子衆おなごしは続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具一切いっさい附き三百五十円でゆずってくれた。階下は全部漆喰しっくいで商売に使うから、寝泊ねとまりするところは二階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭いんきくさかったが、くるわき帰りで人通りも多く、それに角店かどみせで、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾のれんをくぐって、味加減や銚子ちょうしの中身の工合、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老えびでも烏賊いかでも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意をもうでたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉をあざけった。「わてらに手伝てつどうてもろたら損や思たはるのや。誰がびた一文でも無心するもんか」
 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが去っていなかったこととて思いきって生ビールのたるを仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほどいそがしく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着に高下駄たかげたといういきな恰好で、ときどき銭函ぜにばこのぞいた。売上額がえていると、「いらっしゃァい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。俗に「おかま」という中性の流し芸人が流しに来て、青柳あおやぎにぎやかに弾いて行ったり、景気がよかった。その代り、土地柄が悪く、性質たちの良くない酒呑さけのみ同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄きねづかで、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。廓をひかえて夜更おそくまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色むらさきいろに変っていた。くたくたになって二階の四畳半で一刻いっときうとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物つけもの、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡たかをくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒はだざむくなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒めいしゅ本鋪ほんぽから、看板を寄贈きぞうしてやろうというくらいになり、蝶子の三味線もむなしく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費むだづかいもないままに、勢いまる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉はつかれると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子いすに腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
 案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気をくさらせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日もんびが続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜更おそく、帰って来た。耳をましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛はんべえ様もお通にめんじ、子までなしたる三勝さんかつどのを、くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
 夜中に下手な浄瑠璃を語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻りんねゆえ、そいしはかなわずとも、おそばに居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下したへ降りた。柳吉の足音は家の前で止った。もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。「どなたッ?」わざと言うと、「わいや」「わいでは分りまへんぜ」重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」と外の声はふるえていた。「維康いう人は沢山たんといたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子の折檻を観念しているようだった。「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおもいじめにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生せっしょうやぜ」と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭をっつけた。「痛ア!」もくそもあるもんかと、思う存分折檻した。
 もう二度と浮気うわきはしないと柳吉はちかったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。しばらくすると、また放蕩ほうとうした。そして帰るときは、やはり折檻をおそれて蒼くなった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、さかずきも手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒のかんをするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺どうこの中へけた。明らかに商売にいた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋こうや白袴しろばかまどころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなどもとどこおり勝ちになり、結局、やめるにかずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座そくざに同意した。

「この店譲ります」と貼出はりだししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。たくわえの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにもしかった。向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色がきこぼれていて、活気を見せた。客の出入りも多かった。果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋あかもんやをやれへんか」柳吉は乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
 ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ妹の聟が出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局びた一文も出さなかったとしきりに興奮した。そして「果物屋をやろうやないか」顔はにがりきっていた。
 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。
 その足で上塩町かみしおまちの種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜すいかの切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要にせまられて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」と言い出していた。種吉は若い頃お辰の国元の大和やまとから車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘おやこ三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」と淡海節たんかいぶしの文句を言い出すほどの上機嫌だった。向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった。一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用むなざんようして、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身でって、丸口で儲けるんや。損して得とれや」と言った。そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」と金切り声を出した。それが愛嬌で、客が来た。蝶子は、かばんのような財布を首からるして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。
 朝の間、蝶子は廓の中へはいって行きのきごとに西瓜を売ってまわった。「うまい西瓜だっせ」と言う声が吃驚びっくりするほど綺麗きれいなのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓達がひいきにしてくれた。「明日あしたも持って来とくなはれや」そんな時柳吉が背にのせて行くと、「ねえちゃんは……?」ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉はしぶい顔であった。むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。
 割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会しおに、手を引いた。帰りしな、林檎りんごはよくよくふきんでいてつやを出すこと、水密桃すいみつとうには手を触れぬこと、果物はほこりをきらうゆえ始終掃塵はたきをかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃など瞬く間に腐敗ふはいした。店へかざっておけぬから、辛い気持で捨てた。毎日、捨てる分が多かった。といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧くけないとあせりが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。

 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。がその心配より先に柳吉は病気になった。まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院じっぴへ通い通いしていたが、こんどは尿にょうに血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。前にあやしい病気にかかり、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」とおこりながらも、まじないに、屋根瓦やねがわらにへばりついているねこふん明礬みょうばんせんじてこっそり飲ませたところ効目ききめがあったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌汁の中に入れると、柳吉はすすってみて、変な顔をしたが、それと気付かず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。気が付かねば、まじないは効くのだとひそかにげんのあらわれるのを待っていたところさらに効目はなかった。小便の時、泣き声を立てるようになり、島の内の華陽堂かようどう病院が泌尿科ひにょうか専門なので、そこでてもらうと、尿道に管を入れて覗いたあげく、「膀胱ぼうこうが悪い」十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。みるみるせて行った。診立て違いということもあるからと、天王寺てんのうじの市民病院で診てもらうと、果して違っていた。レントゲンをかけ腎臓結核じんぞうけっかくだときまると、華陽堂病院がうらめしいよりも、むしろなつかしかった。命が惜しければ入院しなさいと言われた。あわてて入院した。
 附添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はやむなく、店を閉めた。果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝付いていた。子宮癌しきゅうがんとのことだった。金光教こんこうきょうって、お水をいただいたりしているうちに、衰弱すいじゃくがはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。金のこともあった。注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持よく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起した。種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」と眼をしばたいた。弟の信一は京都下鴨しもがもの質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
 こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。手術と決ってはいたが、手術するまえに体にりきをつけておかねばならず、舶来はくらいの薬を毎日二本ずつ入れた。一本五円もしたので、こわいほど病院代は嵩んだのだ。蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。が、焼石に水だった。手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影おもかげを失うた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。
 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけがうてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得じごうじとく、そんな言葉も彼はいた。「この家の身代は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」差してもらいたくないのはこっちのことですと、しりを振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。種吉の所へ行き、お辰の病床びょうしょうを見舞うと、お辰は「わてに構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれんいて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りがおそいと散々叱言こごとを言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」とわめき散らした。水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田たんでんに力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。
 あくる日、十二三の女の子を連れて若い女が見舞に来た。顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。はっと緊張きんちょうし、「よう来てくれはりました」初対面の挨拶代りにそう言った。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭をでると、顔をしかめた。
 一時間ほどして帰って行った。夫に内緒で来たと言った。「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。送って廊下ろうかへ出ると、妹は「ねえはんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれとる、こない言うたはります」と言い、そっと金を握らした。蝶子は白粉気おしろいけもなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子は本真ほんまのことと思いたかった。柳吉の父親に分ってもらうまで十年掛ったのだ。姉さんと言われたことも嬉しかった。だから、金はいったん戻す気になった。が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。有難かった。そわそわして落ちつかなかった。
 夕方、電話が掛って来た。弟の声だったから、ぎょっとした。危篤きとくだと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は「水くれ」を叫んでいた。そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。蝶子は椅子に腰掛けて、じっと腕組みした。そこへ泪が落ちるまで、大分時間があった。秋で、病院の庭から虫の声もした。
 どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。急に、「維康さん、お電話でっせ」胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息を引きとらはりましたぜ」とのことだった。そのまま病院を出て駆けつけた。「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」近所の女達の赤い目がこれ見よがしだった。三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今更の死水しにみずを唇につけるなど、蝶子は勢一杯せいいっぱいに振舞った。「わての亭主も病気や」それを自分の肚への言訳にして、お通夜つやも早々に切り上げた。夜更けの街を歩いて病院へ帰る途々みちみち、それでもさすがに泣きに泣けた。病室へはいるなり柳吉は怖い目で「どこイ行って来たんや」蝶子はたった一言、「死んだ」そして二人とも黙り込んで、しばらくは睨み合っていた。柳吉の冷やかな視線は、なぜか蝶子を圧迫あっぱくした。蝶子はそれに負けまいとして、持前の勝気な気性が蛇のように頭をあげて来た。柳吉の妹がくれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。ままよ、せめてもの親孝行だと、それを柳吉に言い出そうとしたが、痩せたその顔を見ては言えなかった。
 が、そんな心配は要らなかった。種吉がかねがね駕籠かき人足に雇われていた葬儀屋そうぎやで、身内のものだとて無料で葬儀万端を引き受けてくれて、かなり盛大せいだいに葬式が出来た。おまけにお辰がいつの間にはいっていたのか、こっそり郵便局の簡易養老保険に一円掛けではいっていたので五百円の保険料が流れ込んだのだ。上塩町に三十年住んで顔が広かったからかなり多かった会葬者に市電のパスを山菓子に出し、香奠返こうでんがえしの義理も済ませて、なお二百円ばかり残った。それで種吉は病院を訪ねて、見舞金だと百円だけ蝶子に渡した。親のありがたさが身にみた。柳吉の父が蝶子の苦労を褒めていると妹に聞いた旨言うと、種吉は「そらええ按配や」と、お辰が死んで以来はじめてのニコニコした顔を見せた。
 柳吉はやがて退院して、湯崎温泉へ出養生でようじょうした。費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。二階借りするのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で寝泊りした。種吉へは飯代を渡すことにしたのだが、種吉は水臭いといって受取らなかった。仕送りに追われていることを知っていたのだ。
 蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持から、妾になれと露骨ろこつに言って来た。例の材木屋の主人は死んでいたが、その息子が柳吉と同じ年の四十一になっていて、そこからも話があった。蝶子は承りおくという顔をした。きっぱり断らなかったのは近所の間柄気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代の駈引きの名残なごりだった。まだまだ若いのだとそんな話のたびに、改めて自分を見直した。が、心はめったに動きはしなかった。湯崎にいる柳吉のゆめを毎晩見た。ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出掛けて行った。「毎日魚釣りをして淋しく暮している」はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。むろん酒も飲んでいた。女中をとらえて、根掘ねほり聴くとここ一週間余り毎日のことだという。そんな金がどこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代たばこだいにも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審ふしんに思った。女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。自分の腕一つで柳吉を出養生させていればこそ、苦労の仕甲斐しがいもあるのだと、柳吉の父親の思惑おもわくをも勘定に入れてかねがね思っていたのだ。妹に無心などしてくれたばっかりに、自分の苦労も水のあわだと泣いた。が、何かにつけて蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫好かなかったのだ。しかし、その甲斐性を散々利用して来た手前、柳吉には面と向っては言いかえす言葉はなかった。興ざめた顔で、蝶子の詰問きつもんを大人しく聴いた。なお女中の話では、柳吉はひそかに娘を湯崎へ呼び寄せて、千畳敷や三段壁など名所を見物したとのことだった。その父性愛も柳吉の年になってみるともっともだったが、裏切られた気がした。かねがね娘を引きとって三人暮しをしようと柳吉に迫ったのだが、柳吉はうんと言わなかったのだ。娘のことなどどうでも良い顔で、だからひそかに自分に己惚うぬぼれていたのだった。何やかやで、蝶子は逆上した。部屋のガラス障子にさかずきを投げた。芸者達はこそこそと逃げ帰った。が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心きょえいしんとも分らぬ心がかろうじて出た。自分への残酷ざんこくめいた快感もあった。

 柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡みくらあと公園裏に二階借りした。相変らずヤトナに出た。こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れての夫婦めおとになれるだろうとはげみを出した。その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ふつうならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、眼の黒いうちにと蝶子は焦った。が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤じようざいを飲んだり、注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纏まった金はたまらなかった。
 ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点こうさてん乗換のりかえの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」と話しかけられた。北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食っていた金八という芸者だった。出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。誘われて、戎橋えびすばしの丸万でスキ焼をした。その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。抱主がけちんぼで、食事にも塩鰯一という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇きょうぐうが恥かしかった。金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍ひかされて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、後釜に据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」これ以上の出世も望まぬほどの暮しをしている。につけても、想い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、是非蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情を訊くなり、早速言ってくれた。地獄で仏とはこのことや、蝶子は泪が出て改めて、金八が身につけるものをかたぱしから褒めた。「何商売がよろしおまっしゃろか」言葉使いも丁寧ていねいだった。「そうやなア」丸万を出ると、歌舞伎かぶきの横で八卦見に見てもらった。水商売がよろしいと言われた。「あんたが水商売でわては鉱山やま商売や、水と山とで、なんぞこんな都々逸どどいつないやろか」それで話はきっぱり決った。
 帰って柳吉に話すと、「お前もええ友達持ってるなア」とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中では万更まんざらでもないらしかった。
 カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋を覗きまわって、カフェの出物でものを探した。なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ているくらいで、これではカフェ商売の内幕もなかなか楽ではなさそうだと二の足を踏んだが、しかし蝶子の自信の方が勝った。マダムの腕一つで女給の顔触れが少々悪くても結構流行はやらして行けると意気込んだ。売りに出ている店を一軒一軒廻ってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味にかなっているとて、それに決めた。造作附八百円で手を打ったが、飛田の関東煮屋のような腐った店と違うから安い方であった。念のため金八に見てもらうと、「ここならわても一ぺん遊んでみたい」と文句はなかった。そして、代替りゆえ、思い切って店の内外を改装かいそうし、ネオンもつけて、派手に開店しなはれ、金はいくらでも出すと、随分乗気になってくれた。
 名前は相変らずの「蝶柳」の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」とし、蓄音器ちくおんきは新内、端唄はうたなど粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラのばかりで、下手へたに洋装した女や髪のちぢれた女などは置かなかった。バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など附出つきだしの小鉢物を作り、蝶子はしきりに茶屋風の愛嬌を振りまいた。すべてこのように日本趣味で、それがかえって面白いと客種も良く、コーヒーだけの客など居辛かった。
 半年経たぬうちに押しも押されぬ店となった。蝶子のマダム振りも板についた。使ってくれと新しい女給が「顔見せ」に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素姓すじょうや腕が見抜けるようになった。ひとり、どうやら臭いと思われる女給が来た。体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきもすわっていて、気が進まなかったが、レッテル(顔)が良いので雇い入れた。べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声の口説くぜつも何となく蝶子には気にくわなかったが、良い客が皆その女についてしまったので、追い出すわけには行かなかった。時々、二、三時間暇をくれといって、客と出て行くのだった。そんなことがしばしば続いて、客の足が遠のいた。てっきりどこかへ客を食わえ込むらしく、客も馴染みになるとわざわざ店へ出向いて来る必要もなかったわけだ。そのための家を借りてあることもあとで分った。いわばカフェを利用して、そんな妙な事をやっていたのだ。追い出したところ、他の女給たちが動揺どうようした。ひとりひとり当ってみると、どの女給もその女を見習って一度ならずそんな道に足を入れているらしかった。そうしなければ、その女に自分らの客をとられてしまってやって行けなかったのかも知れぬが、とにかく、蝶子はぞっと嫌気いやけがさした。その筋に分ったら大変だと、全部の女給に暇を出し、新しく温和おとなしい女ばかりを雇い入れた。それでやっと危機を切り抜けた。店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。
 女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。新聞記者は眼つきが悪いからと思ったほどでなく、陽気に子供じみて、蝶子を呼ぶにもマダムでなくて「おばちゃん」蝶子の機嫌はすこぶる良かった。マスターこと「おっさん」の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家庭的な雰囲気ふんいきの店になった。酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」などと記者の渾名を呼んだりし、そのあげく、二次会だと連中とつるんで今里新地へ車を飛ばした。蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊って来たりすれば、やはり折檻の手はゆるめなかった。近所では蝶子を鬼婆おにばばと蔭口たたいた。女給たちには面白い見もので、マスターが悪いと表面では女同志のひいきもあったが、しかし、肚の中ではどう思っているか分らなかった。

 蝶子は「娘さんを引き取ろうや」とそろそろ柳吉に持ちかけた。柳吉は「もうちょっと待ちイな」と言いのがれめいた。「子供が可愛いことないのんか」ないはずはなかったが、娘の方で来たがらぬのだった。女学生の身でカフェ商売を恥じるのは無理もなかったが、理由はそんな簡単なものだけではなかった。父親を悪い女にられたと、死んだ母親は暇さえあれば、娘に言い聴かせていたのだ。蝶子が無理にとせがむので、一、二度「サロン蝶柳」へセーラー服の姿を現わしたが、にこりともしなかった。蝶子はおかしいほど機嫌とって、「英語たらいうもんむつかしおまっしゃろな」女学生は鼻で笑うのだった。
 ある日、こちらから頼みもしないのにだしぬけに白い顔を見せた。蝶子は顔じゅうしわだらけに笑って「いらっしゃい」駆け寄ったのへつんと頭を下げるなり、女学生は柳吉の所へ近寄って低い声で「お祖父じいさんの病気が悪い、すぐ来て下さい」
 柳吉と一緒に駆けつける事にしていた。が、柳吉は「お前は家にりイな。いま一緒に行ったら都合ぐつが悪い」蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然ぼうぜんとしたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。飛んで行くさかい。
 蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳吉と自分と二人分の紋附を大急ぎでこしらえるように頼んだ。吉報きっぽうを待っていたが、なかなか来なかった。柳吉は顔も見せなかった。二日経ち、紋附も出来上った。四日目の夕方呼出しの電話が掛った。話がついた、すぐ来いの電話だと顔を紅潮させ、「もし、もし、私維康です」と言うと、柳吉の声で「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」「ああ、もし、もし」蝶子の声は癇高かんだかふるえた。「そんなら、私はすぐそっちイ行きまっさ、紋附も二人分出来てまんねん」足元がぐらぐらしながらも、それだけははっきり言った。が、柳吉の声は、「お前は来ん方がええ。来たら都合ぐつ悪い。よ、よ、よ、養子が……」あと聞かなかった。葬式にも出たらいかんて、そんな話があるもんかと頭の中を火が走った。病院の廊下で柳吉の妹が言った言葉は嘘だったのか、それとも柳吉が頑固な養子にまるめ込まれたのか、それを考える余裕もなかった。紋附のことが頭にこびりついた。店へ帰り二階へこもった。やがて、戸を閉め切って、ガスのゴム管を引っぱり上げた。「マダム、今夜はスキ焼でっか」階下から女給が声かけた。せんをひねった。
 夜、柳吉が紋附をとりに帰って来ると、ガスのメーターがチンチンと高い音を立てていた。異様な臭気しゅうきがした。驚いて二階へ上り、戸を開けた。団扇でパタパタそこらをあおった。医者を呼んだ。それで蝶子は助かった。新聞に出た。新聞記者はに居て乱を忘れなかったのだ。日蔭者自殺をはかるなどと同情のある書き方だった。柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。種吉が梅田へたずねに行くと、そこにもいないらしかった。起きられるようになって店へ出ると、客が慰めてくれて、よく流行はやった。妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。
 二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の手紙が来た。自分ももう四十三歳だ、一度大患たいかんかかった身ではそう永くも生きられまい。娘の愛にもかされる。九州の土地でたとえ職工をしてでも自活し、娘を引き取って余生を暮したい。蝶子にも重々気の毒だが、よろしく伝えてくれ。蝶子もまだ若いからこの先……などとあった。見せたらことだと種吉は焼き捨てた。
 十日経ち、柳吉はひょっくり「サロン蝶柳」へ戻って来た。行方をくらましたのは策戦や、養子に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親爺が死ねば当然遺産の分け前にあずからねば損や、そう思て、わざと葬式にも呼ばなかったと言った。蝶子は本当だと思った。柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形おたふくにんぎょうが据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯おおぢょうちんがぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文ちゅうもんすると、女夫めおとの意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤ごばんの目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立ててすすりながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉ぜんざいはなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫だゆうちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛やまもりにするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山ぎょうさんはいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。

 蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃にり出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十たいじゅう」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。
(昭和十五年八月)

底本:「ちくま日本文学全集 織田作之助」筑摩書房
   1993(平成5)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学大系70」筑摩書房
   1970(昭和45)年
初出:「海風」
   1940(昭和15)年4月
※1940(昭和15)年7月、「文芸」改造社に再録。
入力:野口英司
校正:江戸尚美
1998年3月12日公開
2008年10月5日修正
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