料理屋の料理にせよ、あるいは家庭の料理にせよ、それがうまくできるもできないも、要するに料理をする人の舌次第なのである。
 あそこの料理屋の料理よりも、ここのうちの奥さんのお手料理の方がはるかに美味である、と言うようなことも時に聞く話である。この場合、この奥さんの味覚は、他の料理屋の料理人のそれよりも確かに味覚感度が高く、且つ、しっかりしていたということを意味する。
 ところで、味覚器官そのものである舌は、人それぞれ一枚ずつしか持ち合わせていない。それゆえ、感度の高い舌を持ち合わせているということは、天幸であり、天爵であり、天恵である。
 しかし、天分的に味覚のすぐれた人というのは、そうザラにいるというわけにはいかない。天は地上に、この味覚の人を産みつけるべく、常に甚だケチであるとも言えようか。もちろん、私の狭い経験の範囲から言うのであるが、私の知っている数多あまたの料理人のうちに、この天与の特質を備えている人が、果して幾人あるであろうか。曰く新富ずしの主人、曰く丸梅の女将、曰く誰、曰く誰と言ってみたところで、一度に十人とは数えきれないかも知れない。それよりも却って、その道の人でない人で、料理好きの奥さんとか、女中さんだとか、または案外世間に知られていない食道楽家の間に、立派な舌の持ち主を見受けることがある。
 孔子は「人飲食せざるはし、く味を知るものすくなきなり」と言っているが、確かに、その通りだと思うのである。
 よく人の話に、このごろ東京の○○の料理は、さっぱり美味くなくなったとか、京都の○○の料理は、すっかり落ちてしまったとか言うのを聞くのであるが、これは話としては決して行き届いたものではない。否、ずいぶん無理な話である。料理もまた人間に許された一種の個人的な創作である。決してその家だとか、その看板だとか、またはその帳場とかで、勝手にどうともすることの出来る仕事でなければ、また商売でもないのである。いつの間にか、その作者が替ってしまっている以上、その作品の変るのは当然である。
 創作は、その人とともに一代をかぎる。東京の○○、京都の○○を始めた人なぞは、いずれもあれだけの名を残したほどの人であるのだから、必ず稀有の天才家であったにちがいない。その上にも、これらの人は、茶道において、確かにその精神を掴むことができて、それをまた具合よく、その料理道の上に移すことが甚だ可能だったのである。そして、この料理道の第一義――味覚への徹底とその整頓――とは、それが性格的に創作である関係から、これが第二者への伝授を決して完全ならしめないのである。
 そこで、私は重ねがさね、料理も一種の創作であって、その作者が替れば、その作品も変るということを銘記したいのである。
(昭和六年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年4月10日初版発行
   1995(平成7)年6月18日改版発行
   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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