あらすじ
世を捨て、祈りに明け暮れる一人の僧。彼は、心を清め、己の欲望を捨て去ろうと懸命に努力しています。彼自身の「我」を消し去ろうとする姿に、語り手は複雑な思いを抱いています。語り手もまた、僧と同じように「我」の束縛から逃れようとしているのです。しかし、語り手の「我」は、僧のそれよりも重く、さらに憎々しく感じられます。僧は、己の「我」を克服する方法を見つけたのでしょうか。語り手もまた、その方法を見出すことができるのか。二人の男の、切ないまでの心の葛藤が、静かに、そして深く描かれた作品です。
 わが知己に一人の僧ありき――世をのがれ、行ひすましぬ。ひたぶるに、祈祷を淨樂として、一念これに醉ひぐれたれば、精舍のつめたき床にたちても、膝より下の、ふくだみて、全身、石柱をあざむくに至るまで、ひるまざりき。すべてのおぼえ、うせぬるまでも、そこに佇みて祈り念じぬ。
 この人の心、われよく識りぬ。こゝろたくさへおもほゆ。彼また吾をしたれば、おのれがよろこびにえとゞかねばとて、卑しみ果つることつゆなかりき。
 この人は、憎むべき『』をほろぼしつ。しかはあれど、吾の祈りえざるは、あながちに、たゞのたかぶりあるのみにあらじよ。
 わがもてる『』は、この人のもてる『我』よりも、更に重くして、更に憎々しかるなり。
 おのれをばうずる術、かれ、既にみいだしぬ。われもまた、いつも/\といふにあらねど、『我』を脱離する法を悟れり。
 彼は、矯飾の徒にあらず、われまたさにあらじかし。

底本:「上田敏全訳詩集」岩波文庫、岩波書店
   1962(昭和37)年12月16日第1刷発行
   2010(平成22)年4月21日第38刷改版発行
初出:「明星 三ノ二」
   1902(明治35)年8月
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2013年1月9日作成
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