先ごろは、親鸞聖人の大遠忌があり、今夜も親鸞聖人についてご関心の深い、またご信仰の深い皆さまのお集まりと思うのでありますが、私はそうした皆さまにお話し申し上げるほどの何も持っていないんです。だのに、かつて小説の上で親鸞を書き、その映画で錦之助君が親鸞をやったりした。あのような小説を物知り顔に書きましたのも、いまにして思えば、若気のあやまちであります……。
 小説親鸞や錦之助君の親鸞を見ると、端麗、いかなる九条兼実とその姫君、玉姫の前でも恋しそうな青年に思われますが、まったくはそうではありません。
 どんな風ぼうの人かというと、本願寺に、そしてめったに公開されないそうですが、田中一松さんからこの前、大きく拡大した画像を一ついただきましたが、これは「鏡の御影」というものだそうです。聖人がまだ在世七十歳のころ藤原信実の子息の、俗称袴殿はかまどのといわれる人が、専阿弥陀仏ともいわれた人ですが、この人が七十歳の聖人の前でおうつししているうちに、何かただならぬ異なるものを感じて、絵筆を持ちながら、涙がこぼれて仕方がなかったといい伝えのある画像があります。
 これを見ますと、決して端麗柔軟なお方じゃなくて、むしろ筋骨荒く、骨ぶとな、背はさまで高くなかったようですが、その専阿弥陀仏が書きました像などを見ますと、この眉毛まゆげの一筋一筋を鮮明に、ピッピッピッとこまやかに書いております。生命力に満ちあふれたというような「お顔」です。

 ところで、その親鸞の生まれた時代、あの九十年の生涯の世相は、どんなだったかをみてみましょう。
 その没年の弘長二年から数えて聖人が呱々ここの声をあげた九十年前は承安の三年。平家の終わりごろですね。さしも栄えていた平家もそろそろ終わりごろ。聖人が九歳でしょうか、太政入道清盛も死んでいます。それから得度剃髪ていはつ九歳までの間に、年号は安元、治承、養和と変わっておりまして、この間に木曾義仲の乱入、やがて平家都落ち、壇の浦、平家一族の没落というような歴史的な事件があります。
 九歳から二十年、叡山におられたことになっておりますが、その二十年間の叡山はどうか。これは今日からは想像も及ばないほどの、いわゆる大なぎなたを持った僧兵という軍事力もあり、それから山門の上ではやはり、いろいろ時勢を反映して、今日のことばでいえば、右だ、左だの争いでした。
 朝廷に何か自分たちの不満があれば、今日のデモ隊のごとく、あの叡山の雲母坂から都へ出てくる。こういう叡山の中で若き親鸞は九歳から二十九歳ごろまで、苦難な勉強をしていたのでしょう。
 おそらくは人間同士どうしてこう殺し合いが好きなものか、たのしめるこの春夏秋冬を、どうしてたのしまずにいがみ合い、刃物ばかりきらめかしているのか、血みどろをずいぶん見ておられたと思うのです。

 フランスのリシェ(注=シャルル・リシェ。生理学者、ノーベル医学賞受賞)という人が、第一次大戦後に出しました「人間愚かなるもの」という本がありますが、この本の中でリシェが、人間はどうして果てしもなく、にくみ合い、殺し合うことをやってきたか。いまや人間は、にくまないものをもにくめないものをも、あえて殺すような戦争をやるまでに堕落してきた。おそらくは、文明は、科学は、もっと進歩するだろうが、人間の堕落は、にくまないものをも大量殺戮さつりくするその残虐さと、おろかしさを、もっとやるのではないか、というふうなことを書いています。
 それを、もっと小さくしたケース、バックをもっと小さくしたようなものが、あの親鸞の若い時代ではなかったでしょうか。親鸞も、同じように、人間どうしてこうおろかなのか。その宿業をなげき、もだえていたに違いないと思います。いってみれば、人間のもつ闘争本能、この闘争本能についても、親鸞はずいぶん考えられ、悩まれたのではないでしょうか。

 その闘争、周囲の闘争を親鸞は、実に自分の内にも強く感じていたろうと思うんです。おのれとおのれとの戦いをです。おのれとおのれとの戦いの焦点は、なにかといえば「性」です。若い親鸞のうちに、いや人一倍たくましい親鸞の肉体の中には、やはり若い血が育っていたに違いありません。
 いかなる山深いところにいても、目をそらし、耳を傾けまいとしても、自分自身の中にわいてくる青春です。そもそも仏陀が、神が、人間の中にも与えていたものですから、これだけはどうしようもなかったと思います。
「性」について悩んだのは、親鸞だけではありません。親鸞とまあ同時代といってもよい皇慶こうけい高山寺の明恵みょうえ、また時の慈円僧正にしましても、同じような嘆きを、なにかのなかにもらしております。親鸞の「夢記」というなかには、自分は若いうちから戒律を守り、罪悪には負けないが、いかにせん、ある夜、怪しい美しい色彩のあった夢を見た、と書いている。
 怪しい美しい色彩のあった夢――親鸞聖人の歎異抄とか教行信証でありますとか、こういうなかから、親鸞の深いほんとうの心の泉をくむことは、なかなかむずかしい。けれども、年若き親鸞が、ある夜、怪しい色彩のある夢を見られたとしたら、その夢はなんであるかは、僕らにはよくわかる。あなた方もチャンと知っている。みんな覚えがあります。
 それなんです。明恵が苦しみ、慈円が苦しみ、親鸞が苦しんでいても、しかし、苦しまぬ人もいましたね。僧団のなかにはですよ。醍醐寺(注=京都市伏見区)の稚児及草子ちごのそうしというのを見ますと、その当時、すでに僧門のなかには、稚児を愛する風習のあったことがよくわかります。また夜陰忍んでですね、東坂本へ出て、翌朝、口をふいていることもできないわけではなかったのです。だから苦しまない人もあった。
 苦しまなかったというのは、しかし表面的です。身を僧門において、清浄のなかに生きている自分をかえりみて、一面で苦しまない人は、内面では非常に罪の意識に責められていたろうと思う。これでは往生おぼつかないですね。俯仰ふぎょう天地に恥じないというわけにはいかないんですね。で、これのできない親鸞ですから、非常に苦しんだのです。そして京都の六角堂へ叡山から百夜通ったというんです。百夜夜ごもりされたんでしょうね。
“どうしたら、いいんです”ということですね問題は。“第一、仏が、神が、矛盾してるじゃありませんか”と食ってかかった気持でしょうな。“生まれ出ないうちにすでに自分にそういうものを、仏さまや神さまが植えこんでおきながら、そしてそれを戒律のナワでしばれというのは、どういうわけです。それでいいんですか”と、苦もんし、自問自答し“いや、そんなはずはない。古い仏典のなかに、そのカギはありはしないか”そうして参籠さんろう百日近いある夜、聖徳太子の夢告の一を見たというのです。そのなかに、サアむずかしいなあ、行者宿報、なに女犯でしたかな、一字忘れちゃった。そうそうありがとうございました。行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅうほうせちにょぼん、これだと感じたんですね。
 これはすでに聖徳太子、仏弟子も妻をもつ、女性を愛することを認めていらっしゃる。しかしその行者には宿報がなければならぬ。それに対する報いを、業を行じなければならぬ。それだになしうれば、因果という。まあ私の解釈は、はなはだわがままですなあ。きっとどなたか本願寺の偉い人が話したら、このところは非常にわかりよく、意義深く、お話しできただろうと思うんですが……。
 まあ、ざっといえばそういうものです。なにか、雲の晴れたような気がしたんですね。そして叡山には帰らず、吉水禅寺の法然上人をたずねて、自分のもだえと、それからあれとを訴えて吉水の禅房にはいった。そういうあれを、契機をつかんだら、僕たちだったらすぐ女房をもらっちゃいますがね。ところが聖人は、そうではなかったらしいです。なお数年は、奥さんを持たれた跡はないんです。これは小説とは、だいぶ違ってしまうんです。行者宿報ということ、妻を持ったからには、ということにおいて、親鸞は、その間になにか非常に考えていたんじゃないでしょうか。性、セックス、実にこれはむずかしい問題ですね。
〔注〕「本願寺聖人絵伝」によると、建仁三年(一二〇三年)四月五日の夜、夢のなかに、六角堂の救世観音があらわれて「行者宿報にて、たとい女犯すとも、われは玉女の身となりて犯せられ、一生のあいだ、よく荘厳して、臨終引導して極楽に生ぜしめん」と親鸞に告げたという。

 親鸞がそれほどに悩んだ性の問題ですが、今日、私たちの身辺、目にふれる活字、耳に流れてくるマスコミ、あらゆる面で、この性の問題は、実にぞんざいに扱われていますね。その結果はどうかというと、毎日、新聞でごらんのとおりいろんなことがでてくる。つい先ほども、こういう事件がありました。
 東京の近くの、どこかの盛り場の女給さんが、愛人と同せいしていたが、男に別に縁談があって身を固めたいといい出した。するとその女給さん、三十万円を新宿の殺し屋にやってですね、それを殺し屋が何万かずつに分け、一番年下の十八歳の殺し屋は、たった二千円しかもらわなかったそうです。二千円でやるつもりだったんです。あれを消してくれと頼んだ。やったんですね。二度ほど、やりかけたんですが失敗したんです。そしてピストルか何かをもっていることがわかって、足がついて事件があかるみに出て新聞に出た。

 それは殺し屋事件としてたいへん大きなトップ記事として、それだけなんですが、私が最も目を見張ったのは、殺し屋にその彼女がやったお金は、彼女が愛していた彼氏が、彼女のために働いてためといた金だということなんです。ピストルを買ったのは、事が露見したら自分が自殺するために買ったのだという。不思議な心理です。こんな事件も、このごろでは珍しくないんですよ。そしてその女の人は、つかまった時『私はこんなに愛してたんだ、こんなに愛してたんだ』と号泣したそうです。それを新聞記事では嘲弄ちょうろうして笑って書いていましたが、私はなんだかかわいそうみたいな、あわれだなあという気がした。男が、自分のためにたくわえておいた金で、ピストルを買い、殺し屋に三十万円やって、男を殺そうとした。この心理、この心理はやっぱり彼女は、彼女の知性の程度で愛していたんだと思います。彼女は、愛してたんだといったそうですが、それは本当なんです。邪恋、ゆがんだセックスの極致といったらよいでしょうか。
 あなた方にも、きっと体験があるでしょう。よそさまの子を、かわいい子供を抱いて『おお、かわいい、かわいい』とほおずりして『おおこのほっぺた、食べてしまいたい』というようなことをいう。また女は男性に対して『もうあんたみたない人は[#「あんたみたない人は」はママ]、食い殺してやりたい』というふうにいう。
 セックスというものの極致は、そうなんです。動物本能なんですね。やはり愛する者を、取って食べてしまいたいというほどなものに変形する。こわいんです。ですから、親鸞さんの時代と時代はずっと違いますけれど、邪教立川流なんていうセックスを怪しく使った宗教がですね、一時、日本全土を東国の立川から、火のごとく焼いた歴史さえあります。こういうこわいもんです。
 おそらく親鸞は、行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅうほうせちにょぼんのその良面をみると同時に、そのこわさをも深く、これが人間の社会にどんな作用をしているものかをも、きっとみられたろうと思います。その吉水へ通う、岡崎から吉水へ通う、毎日毎日、見ておられたろうと思うんです。
 やがて聖人が選ばれた恵信尼は、まさにですね、聖人に夢告を授けた観世音菩薩の化身が、かりに聖人にとついだというようなお人だったようです。それは恵信尼が、娘の覚信尼に書いてやりました手紙においても想像することができるんです。
 セックスというものは、私はやっぱり一度、相めぐりあった、そして火遊びでなく、夫婦というような形において、この人生を歩み出したからには、等しく相手も同じようなですね、楽しみ、一つになり、明るく、法の恵みにあって、終わりを本当に老の後まで全うすることを、行者宿報設女犯というんじゃないかと思うんです。

 人生の終わりを全うするということで、思い出されることがあるんです。終戦後のことですが、戦争中から戦後へ、どうもたいへん苦労をかけた自分の妻をですね、病気しましたんで、その病み上がりになにか慰めてやりたいと思いまして、上方までつれていったんです。まだ戦い終わったばかりで、ちまたはたいへんでした。で、そう丹波市(天理市)の教会で、そこで“もし、あんた少し話をしてくれんだろうか、話をしてくれるんなら、一日車を貸したげる。木炭車の車を貸したげる”といわれましたので、これも女房のためだと思いまして、一時間ほどしゃべりました。それで、木炭車の車を借りまして、ちょうど折りふし、花のころでしたから、吉野山へ行ったんです。
 そのころ、ぼくが作った駄句ですが“戦いやみぬ、やぶうぐいすも、き出でよ”という句、まあそんな景色で、人がみんな吉野山へ花見に行ってました。木炭車でやっと上までのぼりまして、あの如意輪堂のはるかに見える一目千本というあたりですか、あの谷をへだてましたガケぷちへきましたら、運転手さんが、この辺がちょっといいですというんで、車をとめて、ぼくは煙草を一本もってひょいと降りたんです。すると、新聞紙を敷きましてね、ガケのふちに、春の日の下に、ニュームのお弁当箱をといてひざにのせて、黙然とあなたの桜の峰を見ながら、はしを取っている夫婦、さあ七十前後の老夫婦がいます。最初は、私はただ七十前後の老夫婦がいると、こう思っただけでした。
 ところで、こっちの方で煙草を吸って見ていますと、そのおじいさんもおばあさんもですね、あの時分は白いご飯というのをギンメシといって珍重しましたね、一はし、銀メシをこう口へ入れてはですね、黙然と両方ともかしこまって向こうの桜を見てるきりなんです。ニュームのお弁当の中をのぞいてみますと、焼きずるめに、卵やきかなにかはいっています。私が煙草一本吸う間も、二人とも黙っているんですね。
 それを私、後から見ているうちにやがてなんともいえない気持がしてきました。平和な、うれしい、この老夫婦は今日、あの戦禍をどうにかしのいだだけでなくですね、おそらくは一緒になってから四十年間、人生のいろんな苦難や峰や谷をへて、ここへくるまではたいへんだったろうなと思ったんです。
 このじいさんが、若くして浮気したこともあるだろうし、また息子に問題のあったこともあるだろうし、事業に失敗したこともあるだろう。妻の病んだこともあるだろう。あるいはまた、ひょっとしたら、この人も幾人かの息子のうちの一人や二人、戦いのためになくしたのかもしれないと思います。この老夫婦が、この峰にたどりついて、春の日の光に二人、ちょこなんとすわって一目千本の桜を、こうじーっと黙ってながめている間には、声は聞こえませんけれど、もう万感をお互いに話し合ってるんじゃないか。と同時に、結局、人生の長い間にあれだのこれだの名誉だの、金がもうかっただの、なんだのかんだのといっているけれども、人生のほんとうにたどりつく、最も美しい、最も完成されたものは、この老夫婦の姿じゃないか。
『ああよく二人とも、ここへきなすったね』といってやりたくなるほど、私はその二人の敬けんな姿が、なんともいえず、私のひとみの中にしみました。
 私の書きましたつたない「新・平家物語」のなかに、阿部の麻鳥あさどりという人と、妻のよもぎという人を晩年まで書いておりますが、「新・平家物語」の一番のラスト・シーンに、吉野雛として書きました一章は、実はその老夫婦がモデルなんです。モデルにしておきながら、以後はめぐりあえないで、お礼も原稿料のおすそ分けもしないんですが……。
 なんだの、かんだのといってますが、人生それですよ。だのに、このごろは違いますなあ。家庭裁判所へ聞くと、事件のなかで一番多いのが夫妻別れの問題。それから新聞なんかの人事相談といいますか、あれにもよくどうのこうのと訴えていますが、また回答者も回答者でそんなにいやならおよしなさいと書いとるですね。
 きょうこのごろのように「性」を粗末に扱う風潮については、これはわれわれ文壇人も大いに責任があります。自由だといって書きまくっていますが、お恥ずかしい限りです。これはちょうど科学者がですね、原子や電子に向かって核分裂をはかろうと企てるような熱情で、人生を、人間の深いところをほんとうに書き、さぐるには、この性愛から、性愛の姿から書かなければだめだという理屈らしいんですが、なにをプラスしているでしょうか。どうも僕にはまだ疑問なんです。果たして幸福になったかしらん。その面において、自由になった戦後の若い人たちが、とくに男性より女性たちが、果たしてプラスされたか。幸福になったかしら、これは疑問です。
 幸いいま、恋愛は自由になっとります。その点、私たち少年の時代には不自由でした。もうせいぜいが、好きな少女の家の門の前を、こわごわあっちへいったりしてみるくらいです。でも僕はその時分の方が、よりよき恋愛をし、よりよかったと思います。
 端的な話、僕は幸福になっていないと思う。セックスにおいてもそうです。もう処女の価値なんてないなどというんですが、とんでもない話で、性というもの、性愛というものは、私はやっぱり仏が、神が、人間のなかに宿命されたからには“これはお前、人となったらよく生涯、これを楽しめよ、意義あらしめよ”として持たしめられたものだと思います。
 それがいまの若い人はですね。仏か神が与えてくれた性と呼ぶ楽器を、ひくすべも知らないうちに、いかにこの楽器をひくべきや、人生の長い旅路においてかなでるべきや、その知識もなく、たとえば音楽でいえばですね、まだ音符のなんなりやを習わないうちに、いきなりベートーベンかなにかをひくつもりでですね、いきなり大曲をひく気でガチャガチャやって、せっかく与えられた楽器をこわしてしまうようなもんです――と思います。
 とめどのなく危険なものであり、そして持ちようによっては、生涯かけてさまざまない時には憂い曲、喜びの時には喜びの曲をと、長い人生を通してかなでてゆくもの――そしてこそ、ほんとうの性だと思うんです。
 親鸞聖人がこの問題を心におかれた時にはですね、私どものこんなつまらん話どころでなく、あらゆる微細にわたって、ずいぶん深く考えられたに違いありません。ですから聖徳太子の夢告のによって、仏者も妻をもつことは、なんらのハバカリでない、不自然でない、釈尊の意にそむくもんじゃないということを信じられるに至っても、なおその間、数年間、妻をお持ちにならなかったんじゃなかろうかと思います。そしてやっとさきほど申しました恵信尼というような方とご一緒になったんです。
 まもなく、こんどは法然上人、その人の上に、念仏停止というようなあの大弾圧が下りました。法然も流され、親鸞も流されたわけです。この動機も男女の問題であります。以後、ずっと越後から東国、常陸あたりに晩年まで送られまして、なかなか都へは帰ってこられなかったらしいですね。
 これには聖人の心境にも、いろんなことがあったんでしょうけれども、京都の方の事態にも、承久の兵乱というものが起こりまして、北条義時が時の後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇は土佐、順徳天皇を佐渡へ流すというような社会的大事件があったりして、聖人もちょっとはばかっておられたんじゃないかと思います。
 ところで、こういう聖人とそのお子さんやら弟子たちの関係ですが、聖人ははっきりこのお弟子さんを、お弟子さんとされたでしょうか。親鸞は“人を救うてとらすようなものは、なにももっていないんだ”というようなことをいったそうです。聖人のもとへ、いろいろなこの苦もんの相談や、心のもだえの訴えにきている門徒の人たちに、何にも教えるもの、人を救えるほどのものは持っていないんだということは、ずいぶん冷たい残酷なような気もするんでありますが、これはよほど、深く考えなくちゃならないことであります。
 この点、キリストは、きたり信仰せよ、禅宗では声なき声をきけ、というような偈棒かつぼうをくらわす。日蓮は、“われ日本の眼目となる”との自信を示す。
 そういうなかで、親鸞聖人から、自分は人を助けるようなものは、なにももっていないんだといわれたら、人々は非常にガッカリもするでしょうし、冷たくも聞こえるでしょうが、これはそうではないんです。キリストの言葉より、日蓮のその言葉より、私はそういわれた人は、ハッと途方にはくれるでしょうが、つぎの瞬間からは、まったく別な力強さを感じたんじゃないかと思われます。
 親鸞のそういう言葉はですね、それは“いいえ、いいえ、あなたはそういうふうに私は悪人だ、悪いことをした、私はあやまったことをした、私はこんなことをしちまったとおっしゃるけれども、実はこの親鸞も同じなんですよ。あなたと変わるところはないんですよ。なんで私があなたに教えを与えるというなにを、持ちましょうか”――これが、あの親鸞のほんとうの気持です。つまり壇の上からいうんでない。人にそう訴えられると、その人のいうしぐさまで、自分も下りてきて、一緒にいるんです。一緒に苦しんでるんです。
 この愛の深さから考えますと、僕はやはり愛情ということにおいて、この親鸞という人はですね、いろいろ宗教人には歴史上にも偉い人はたくさんでていますが、愛情の点では親鸞はもっとも深かった。もっとも私たちに身近な人だったと思います。ですから、従来、貴族あるいは権力者の上においてのみ栄えてきた仏教で、とりつく島もないような姿だったこの低地の庶民たちが、みんな親鸞のまわりに寄ったんですね。しかしそれにはまた、それのそねみ、うらみなどが、親鸞のお子さんからも、門徒のなかからも、さらには時の鎌倉幕府のなかからも、いろいろな政治的な動きがあったりして、再び念仏停止をうけるような目にまであいました。
 けれども、それに屈しられず、弱いようでいて実に強い。――後鳥羽上皇の流されたことについて、親鸞がふれられていることをみて、私はその忌憚きたんのない言葉の端に、こんなに強い人かとびっくりしたことがあります。
 その親鸞は七百年前なくなられて、七百年たった今日も、いやなくなったとは思えません。私のような、つまらないものが、お名前をかりてですね、話をし、あなた方の胸に親鸞という名前が、イメージが、いろんな形において描かれているということは、正しく親鸞が生きているということでしょう。その意味において、私たち日本人は、心のなかに一つの富をもっていると思うんです。

 親鸞が、いまも私たちの心の中に生きているということは、私たち日本人にとって一つの富と思います。しかし近来はですね、宇宙時代、宇宙をあたかも人間が征服でもしたかのごとく、ソ連でも宇宙船が飛んだ、アメリカでもやった、というたびに、上を向いて宇宙時代をいう。
 さて、その宇宙時代から私たちの生活、心になにがもたらされたでしょうか。といって私は、決して科学を軽視するもんじゃありません。人間の英知、こんなすばらしい、あなた方と、こんなふうに大ぜいとご一緒に話せるのも、これまた文明のおかげ。その文明が、科学が、進展することを本当に双手をあげて喜ぶものであります。
 けれどもですよ。足を動かして、口をあいて、ただ宇宙時代といっているのはどうかと思うのであります。どうもこの日本はですね、いい国なんですが、日本の文化のたどり方をみると、跛行はこう文化になりやすい。このびっこ文化――ひとたび、なにか精神的な文化の時代というと、もう今後は科学なんかは全然、無視する。逆に今後は物質的な文化だ、科学だ、文明だ、マネービルだということになりますと、今後は、精神面の文化をですね、全然おきざりにしてしまう。ちょうど、これはわれわれ日本人の弱点ですね。
 やはり精神文化と科学文化は平行してなくちゃいけないんです。健全なその国の発達とか、文化とかは、いいがたいんです。その点で、私は、細野軍治君という人がこういうことを体験したというのを聞いたんですが、アメリカでのある晩のこと、たいへんよい晩なので、大使館や在留の日本人たち七、八人を誘って“一つ月見に行こうじゃないか”“よかろう”というんで、ビールやサンドイッチなど持って郊外の静かな所へいって、車にのせてきたムシロをのべて、そして夜もすがら飲んだんです。
 そこへポリスがやってきて“何してる?”という。“月を、月見をしている”“月見をして君たちは何をするのだ”という。“月を見て何をする?”“月をみて楽しむんだ!”“月を見て何が楽しいか?”
 この議論でもって、おまわりさんとの話のラチがあかないんだそうです。あげくに“お前たちはギャングか、なにかの相談でもしてたんじゃないのか?”というんで、夜もふけますんで、面倒くさいから警察へ行って、警察の署長さんに話したところ、署長さんにも、その月を見て楽しむということがよくわからないのです。
 そこで、懇切丁寧に“日本では、農家の貧しい人といえ、それから昼間はどんな物質的な商品販売をやっているような人でも、ある時には月を見ればキレイだな! と多感になって、一句をかたむけながら若いころを思うなり、いろいろ情緒をかなでて月を見る月見という風習があるんだ。これはいまだけじゃない、昔の昔からあるんだ”と説明して、やっと納得がいったそうであります。
 この地球からみている、あの一つの月でもですね、われわれからみるのとですね、太平洋をへだててみる人の見方とは違うんです。ですから、そういう根本的に文化の発達の違う人たちが、大いに科学的な先端を誇るのはいいでしょう。しかし、われわれがただ宇宙時代といって口をあいて見物するばかりで、なにになりましょうか。飛行機というものが発明されましてから、私はよく思うんですが、その飛行機に実際に乗ってみた、そして飛行機の恩恵をうけた人が日本人の人口のパーセンテージの中で、どれほどありましょうか。反対にそのために損害をうけた例といったらば、これは広島の原子爆弾をはじめ、数限りがないじゃありませんか。そういう科学に、ただこう拍手かっさいと口をあいていて、なぜ自分の内にもある、もう一つの日本には、豊かな、楽しめば楽しみうるという月もあり、いろんな環境もあり、歴史もあり、生活条件もあり、また親鸞のごとき人もある、この国において、精神文化の上で、楽しもう、豊かになろうとしないのでありましょうか。私は、これは本当に宝の持ちぐされみたいで、もったいないと思うんであります。そして所詮しょせんは、いまの国際情勢といえ、また社会状態といえ、なかなか平等といっても、みんながみんな、すべてが平等に楽しめるなんてようなわけにはいきません。そしてその間にはですね、最初いったロシェ[#「ロシェ」はママ]の人間愚かなるものじゃありませんけれど、にくみもしない者同士が、たがいにかみ合わされている、戦いをもったりするような今日なんであります。
 やっぱり私は、こういう時代において、今日の時において、親鸞さんの七百年の大遠忌に接して、語り合ったり、考え直したり、そして自分を顧みたりすることは、実に大へんな意義があったことだと思います。
 最初に申しましたとおり、私は講演などする柄でないんですが、この真宗青年会連盟からのお話があった時、再三、再四、あやまったんです。ですが、ふと私は、この大阪のごときといっちゃ失礼かもしれませんが、もっとも物質的に商業的にマンモス的な都市、山崎豊子さんのノレンでいわせれば、ド根性ですか、そうした徹底したド根性のすわっている大阪という都市にあってですね、しかも若い人が、ハテナ、仏教に関心をもってるてえのは、これはほんとうかしら、と思ったんです。
 ほんとうに大阪の若い人が、こういう会をつくり、三十回も重ねているんだろうか、そうであったら、あまりご辞退するのも悪いというような気がして出てきたんですが。今日ですね、こんなにお集まりになって、僕のつまらない話を熱心にきいてらっしゃる方の年齢層は、ほんとにお若い人が多いんで、ほんとだなと、そうです、ほんとです……。
 いいすぎになるかもしれませんが、宗教はですね、宗教は、とかく日本の宗教は、人生の終着駅みたいなものになってくるんです。
『信仰にはいりました』というと、ああもう、それじゃ卒業して、ご隠居さんかナ……。違いますね。これは違いますね。
 外国のカトリックなんかじゃ、全部じゃないんでしょうが、ある学校では小学校の授業始めの前に、生徒が毎朝、交代でバイブルの一章を読んでから、アーメンと礼拝して授業をうけ始めるというじゃありませんか。宗教が人生の終着駅であって、どうしましょうか。宗教は人生の発足駅でなければだめです。
 大阪の真宗青年会というのがあると聞いて、僕はその点、愉快なんですよ。ほかになんのことも知りませんが、その点で愉快なんです。僕も初めはですよ、この自分が二十歳くらいでしたか、それまでにいろいろな職業を転々したんですが、ある新聞広告を見まして、ある製薬会社の広告文案係という募集があったので、えー使って下さいっていったわけです。
 と、もう、こう志願の書類がこんなに積んであるんです。だめだなーと思ったんです。僕は小学校しか出ていないから、だめだなあ、と思ってあきらめたんですが。まあとにかく「学歴なし、賞罰なし」とだけ書いて出した。
 すると、そのテストに当たってた三番目の人が、僕がもどろうとすると『君ちょっと待ち給え』『ハッ』『君は宗教をもってるか?』ときくんです。つと、つまったんです。僕のところは真宗なんです、昔から。ところが『君は宗教をもってるか』っていわれたときに、出ないんです。こりゃ家は真宗だというだけじゃ『私の宗教です』というわけにゆかん。ですから『宗教はありません』といったんです。そしたら、その人が『そうか、じゃだめだ』って目をむいて、妙にそっけないんです。
 一度、ドアのところまで出かけたんですが、あんまりあっけなく『そうか、だめだ』といわれたんで、ちょっとムカッとしたんで、もう一ぺん戻った。『思い出しましたが』といったんです。『なにを思い出した』『私は宗教をもっておりません。宗教はありません。けれども、僕の胸にはいつも死んだお母さんが住んでいる。でお母さんさえあれば、僕は決して悪いことはできない。決して怠けられない。決して人をあざむけない。――そんなことじゃいけないでしょうか』『フーン』とこうなんです。
 それからなにか、その人もどこか変わってたんでしょうな。「明日より出社すべし」という速達がきて、僕はそこに一年半いました。山崎帝国堂というんです。あのよく梅毒の薬を売っている。そこに一年半おりました。が、しかし、私はそれもやっぱり若気のいたりだと思うんです。たいへん恥じています。単純にそうはいいました。自分の胸に死んだお母さんさえあれば、と、こういまでも思いたいくらいの時があるんですが、多岐です。さまざまです。いつでも、こんないろんな場合において、それだけでは足りません。ただそれで一人、自分がなにか、しっかとすがっているだけです。小さいんです。それはむしろ、小我な愛に自らおぼれているようなもんです。
 いろんな人生を経てくると、私は自分の胸に持っている母親の姿を、ありし日を思い出してみますと、僕の父はたいへんな大酒飲みでした。ええ、横浜で貿易商をやっておりましたが、たいへんないわゆる暴君でした。ですからいろんなお母さんの苦労はあったんでしょうが、僕の少年時代に、ふとして“おや、お母さんどこへいったかな”と思ってさがすと、一人仏間におりました。そして、こう仏壇に向かって、じっとすわっている母の姿をよく見ました。
 親鸞さんのお言葉に、親鸞はいつも同行と二人だというようにおっしゃったのがありますね。その親鸞はいつも、その同行と二人だという、一人はたれかと思いますと、一人はみ仏ですね。釈尊ですね。
 私はあとになって、母が思いあぐねてですね、それから父のことにも苦しみですね、一人その子供のそばを離れて、仏間にすわっていたときには、ああなるほど、お母さんのそばには、もう一人いつもだれかいたんだなと思うんです。
 そしてあの信仰、あの長い間、七人の子供をかかえての慈愛をもって、私たちがどうやら世の中に出るまで、生きたえて、生き通しておられたんだな、と思いましたら、私が多少、親鸞のことに関心をもち、そしてそのたとえ半行半句でも、なにか親鸞さんのお気持を、そのご恩情からでも説いて、母と合わせて胸にもったら、これはほんとうに母をもったことになり、母の喜ぶことでもあろうと思うようになりました。
 母によって、いささか私は、この宗教にも、また親鸞にも、特別な関心をひそかにもつようになりました。しかし現代人は、とくにこの文壇人は、とかく宗教に対してこの意識に対して、そっぽを向くんです。文芸家は一宗教、あるいは一方的な立場の上に立つと、ほんとの文筆につけないという。本当はそうじゃないんですね。対決できないんですね、と思います。
 人間だれでも、皆と喜び合いたい、だれかを喜ばしたい、という気持はあるんです。ですから文壇人でもゴルフなんかしてくたびれていると『君、この薬はとてもきくんだからね、これ飲んでみたまえ』っていう。『それ、どうしたんですか』『ゆうべテレビでやってたから、きょう買ってみたんだけど、こらあいいよ君、こらあきくらしいよ』と、よくいいます。なにか薬のようなものは、とても吹聴し、それから自分がきけば、人にも飲ましたい、と思う。そんなことができて、どうして本当の心の大きな喜び、宗教というようなことについては、その分け与えができないんでしょうか。
 その点、丹羽文雄君なんかは、まあお寺のご出身ですけれど、とにかく親鸞と対決している。作品のうえで立派、その作品がたとえいかにまずくても、失敗作でも立派と私は思うんです。
 が、自分なんかこんなお話しても、人生のうえにも、親鸞の片リンもまだ知ることは、なかなかたいへんであります。私にこういう話をしろというのは、なにか私が多少人生経験を積んだり、わかった人間みたいに、ここの幹事は間違えたんです。ほんとうにそうです……。
 このなかに、もしか仏門の方がおられたら、その方に聞いていただきたい。それは明治の初年の人でしょうか。三河の人で峨山がざん和尚、この人は禅宗の人です。峨山和尚さんが、もうだめだ、命旦夕たんせきに迫ってだめらしいというときに『みな弟子ども、ここへ集めてくれ』といった。峨山和尚は古木のような身体を起きなおして、さて弟子どもにいったのはですね。『わしも、この年までに難行道禅をやってきた』というんです。『さとったつもりだ。ところがな、さて、そこまでお迎えがきてみるとな、なかなか死ぬっというのはつらいもんじゃぞよ』といったそうです。『なかなか死ぬちゅうんは、つらいもんじゃぞ、たいへんじゃぞよ。お前ら若い者は、勉強せーや』そういって、なくなったというんです。
 禅宗の人といいますと、空間に徹したような見事な死に方をされますが、この和尚の死は変わっているな、と思いました。峨山和尚みたいな人でもそうかなと思いました。いわんや僕たち凡夫はですね、ああこら仕方がないんだと思ったら、たいへん気が楽になりました。そしてその峨山のことばを味わってみますと、結局はですね、峨山和尚は難行道を通ってきたわけでありますけれど、最後に弟子にいったことばは、それ自体意識しなくとも、易行道を、親鸞のいっていることばと一致してますね。――易行道です。
 禅家の峨山和尚が、最後に弟子どもにいったことばは易行道。そう考えると、禅も真宗も、浄土も、なにもほんとうはないんですね。禅、何々とこうわけてますが、ほんとうにできたものは一つですね。そう思います。まして、まあ京都御本山じゃ、そういうことはないでしょうけど、地方なんかいきますと、いまだに西だの、東だのといっとります。西も東もありゃしませんよ。――そんなことをいってると、宗教はついに本願寺をも、終着駅にしてしまいかねないと思うのであります。
 そういうわけですから、大阪にいらっしゃる若い方々の、こうした会をもつすばらしさ。――とはいうものの、決してお年寄りの方を度外視しているんじゃありません。お年寄りの方は、一つ仲よく、そのうちにお弁当もって吉野山へお花見に行ってください。
 そういうと、私の夫はとうになくなっちゃって、だれが吉野山へつれてってくれるのか、とおっしゃるかもしれませんが、そうしたらば、それ親鸞さんがおっしゃってるじゃありませんか、同行はいつも二人です。お二人でいらっしゃいますと。
(昭和三十六年 講演速記)

底本:「吉川英治全集・47 草思堂随筆」講談社
   1970(昭和45)年6月20日第1刷
初出:「毎日新聞」
   1962(昭和37)年10月1日号から9回に分けて連載
※元は昭和36年5月10日に行った大阪真宗青年会連盟での講演です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年5月4日作成
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